第四十九話
 
 
 
 
 
「いい月ね、お兄ちゃん」
 どこかうっとりした顔でレイが言ったが、シンジと二人きりの状況から来る物、だけではなさそうだ。
 屋上に作ったドーム型の部屋は、上の部分がほぼ円形でガラス張りになっている。
 食事が終わり、学校の宿題も終わったところで、二人はそこから月を見ていた。
 籐製の椅子の上で、二人とも半身は倒している。
 野球場のように開閉も可能だが、今は閉じられており、澄み切った空の月がガラス越しに二人を見下ろしている所だ。
「お兄ちゃん、もう一杯飲んでいい?」
 訊ねたレイだが、既に日本酒を七杯空けている。
 しかも、首筋がほんのりと染まっているのは、やはり酔いのせいだろう。
「いいよ。それにしても、ずいぶんと弱くない?」
 シンジが言った通り、ビールならリッターで空けるようになったレイであり、この年齢にしては−禁酒年齢だというのは除外である−かなり強い方だ。
 もっとも、シンジが愛飲するそれは、体質にも寄るがかなり飲みやすい、と言うのもあるのだが。
 フルーツのほのかな香りを漂わせ、普通よりだいぶ受け付けやすい。
 しかし今のレイは、はっきりと酔いのそれを見せており、ビールのそれとはあまりにも違う。
「だってこれ…おいしいんだもの」
 本人が意識していないであろう顔の赤らみは、色素が足りぬその肌と比例して、ぞくりとするほど艶めいている。
 羞恥やうれしさのそれとは違うこれは、一種独特の色香にも似た物がある。
 シンジの許可に、ふふっと笑ったレイは滑るように椅子から下りると、かさかさとシンジの所へ近づいた。
 やっぱり酔っている。
「お兄ちゃんがちょうだい」
 どんな種類の酒なのか、ひょうたん型のそれを傾けて、レイのコップにシンジが注いでやると、
「いただきます」
 コップを傾けてそのまま…一気に飲み干してしまった。
「いい飲みっぷりだねえ」
 居酒屋に行ったら、間違いなくそう言われたに違いない。
 それを見ていたシンジがふと、
「レイちゃん」
「はい?」
「いや、何でもない」
 また月に視線を戻したシンジが、手元のリモコンのボタンを押した。
 音もなく天井が開き、月光が室内に差し込んで来る。
 
 
 少年はその黒髪に月光の祝福を受け、妖々と銀香を振りまき。
 少女はその過ぎるほど透き通った肌に、まぶすように月光を浴びて、ひときわ白く浮き上がらせ。
 
  
「ん?」
 ふとシンジが膝の上の重みに気づいた。
 頭を乗せ、すやすやと寝息を立てている少女の姿に。
 
「お兄ちゃんと見る月だから…」
 かすかな声が聞こえたような気がして、シンジが軽くレイの髪を手に取った。
 質も輝きも、到底シンジには及ぶべくもないが、さらさらとシンジの指の間からこぼれるにつれて、月光の破片が飛び散ったように見えた。
「こんな物かな」
 少し辛目の批評も、シンジから見ればまだ仕方ないかも知れない。
 やはり、審査がシンジの目とあってはレベルが高すぎるのだ。
 黙って髪を指からこぼすシンジの、どこか幻想的な姿を、ただ月だけはひっそりと見つめていた。
「さて、うたた寝娘を起こすか」
 月を見上げたままシンジが口にしたのは、数十分が経ってからの事であった。
 
 
 
 
 
「あれ?サクラさんなんでここに?」
 マユミを抱いたシンジが病院に来ると、白衣のナースが出迎えた。
 高千穂サクラ、長門病院の総婦長がそこにいたのだ。
「お嬢様に呼ばれたのですよ」
 ユリの三人の上司、すなわち院長・副院長である両親ともう一人、婦長であるこのサクラだ。
 ユリなら婦長は無論、院長になっても良かったし、実際両親もそれを勧めた。
 だが、
「私はこれで合っています」
 と、婦長補佐の地位を選んだユリだが、実はそれが気楽だからだとは、アオイだけが知っている。
 トップクラスともなれば、また余計な絡みも入ってくる。
 ユリにしてみれば、好まぬ所だったのだ。
「ユリがなんて?」
「私をここの院長に、と」
 あっさりと答えたサクラだが、シンジ以外がユリを呼び捨てになどすると、文字通り血の仕置きを受ける事になる。
 まだ三十代の前半だが、三十を越えて見られた事が一度もない。
 本人は未熟だからと悩んでいるが、通常は厚化粧が目立ち実年齢より多く見られたりするのが当然である。
 熟れた肢体とは反対に、少女のそれを残す容姿が見た目を惑わすのかも知れない。
「やっぱり面倒になったかな?」
 マユミを抱いたまま首を傾げたシンジに、
「碇さんの治療に当たる施設が完備する、それで良いのだと言われましたわ」
「ふーん。で、今ユリさんはどこに?」
「ネルフの地下です。アオイお嬢様の触診があるとか」
 それを聞いた途端、シンジの眉がすっと寄って、
「そうだ、あの藪思いだした」
 言いかけるのと、
「お嬢様にそんな事を言ってはいけませんと、常々申し上げているはずです」
 めっと睨まれるのとが同時であった。
 が、童顔(ロリータフェイス)の流し目に近いそれは、見る者にしばしば勘違いさせる原因となる。
 ある代議士が入院した時のこと、外出禁止を破って外に出た。
 その時サクラは、
「だめですよ」
 と、今のような視線を向けたのだが、それをどう取ったのか、もう一度繰り返した。
 だがそれは、余りに大きな代償を払う事になった。
 部屋に帰った途端壁に叩き付けられ、つかみかかろうとしたボディガード四人はほぼ即死、その物好きな代議士も、三ヶ月の延長を余儀なくされたのだ。
 一見愛らしく見えるこの視線が、実は何を生むかシンジは知っている。
「はーい」
 とりあえず頷いておいた。
 ただし、思っているかは全く別なのがこのシンジなのだが。
 ユリに会った途端、
「こら藪医者」
 とでも言いかねない。
 もちろん、サクラとてそれは知っているのだが、だからと言ってそれ以上の事を言う訳にも行かず、
「ところでその娘さんはどなたです?」
 訊きながらその視線は、包帯を巻かれたマユミの太股に向けられている。
 念のためとシンジは、脚の部分を裂いて大腿部を露出させ、少し血を吸って菌がないことを確認してから、シャツの腕の部分を破いて巻き付けたのだ。
 白い太股を見られたとマユミが知ったら、全身真っ赤になるに違いない。
「僕の友人」
 シンジがそう言った時、さくらの表情がかなり動いた。
 別にシンジが朴念仁だとは思っていないが、同い年の娘を友人だなどと、以前のシンジには考えられなかったのだ。
 かと言って恋仲にも見えない。
 だとしたらただ一つ、
「この娘さん、なにかの武術を?」
「忍びの末裔だってさ」
「そうでしたか」
 能力を認めたから、だとすれば納得は行く。
 頷きながら、その手はマユミの脚に巻かれたそれを剥がし、傷口を調べていく。
 ただし、二人の知り合ったきっかけが、レイの暴走にあるなどとは、さすがのサクラも想像していなかった。
「通常弾による擦過傷です。完治まで−まず二日あれば」
 普通なら一週間程度の傷だったが、サクラは二日と言った。
 それも完治までに。
「そんなもん?」
「傷は浅いですから。それと、唾液消毒もしてあるようですし」
 唾液、の部分を強調したサクラに、
「どうしてそこを強調する?」
 シンジは咳払いして訊いた。
「大事な箇所は強調して発音するのが当然です。誤認の原因にもなりますから」
 にこりと笑った顔は、毒気など微塵もないように見えるから始末に困る。
「お嬢様から、中の事は一通りお伺いしました。さ、こちらへ」
 サクラの後に続いて歩きながら、
「で、どうやってここへ?」
「停電終了と同時に、本院からヘリを飛ばさせました」
「750CC(ナナハン)じゃなかったの?」
 この婦長が、交通機動隊顔負けの操作を見せる事をシンジは知っている。
 まるで原付のようにそれを駆る姿は、普段のナースとしてのそれからは、全くと言っていいほど想像が付かない。
「碇さんの機体に踏まれても困りますから」
 にっこり笑ったサクラに、
「今度上から踏んづけてやる」
 マユミを抱いたまま、少し憮然としてシンジが言った。
 地下への階段にさしかかった時、シンジの携帯が鳴った。
「取って」
 胸ポケットに入っているそれを、
「はい」
 ためらいもせずに手を突っ込んで取り出した。
 顔と顔がくっつかんばかりの距離になったが、二人とも表情に変化はなく、渡されたそれを取って、
「はいもしもし」
「私よ。今何をしているの?」
「女の子とデート中」
 ぴくっと空間が止まり、
「もう一度」
「女の子をベッドに連れて行く所だ」
「ご休憩が終わったら、ネルフ地下のプールに来るように。アオイも呼んであるわ」
 名前も言わなかった相手は、最後も一方的に通話を切った。
 電話を切った時、
「碇さん」
「何?」
「そう言うことは言ってはだめです」
「は?」
「情操教育に良くないですわよ」
「誰の?」
 何を言い出すかと思ったら、
「その娘さんの」
「……」 
 シンジの顔がゆっくりと下を向く。
 そこには、まるで茹で蛸のように真っ赤になったマユミがぎゅっと目を閉じており、
「お、下ろして下さい…」
 消え入りそうな声でシンジに頼んだ。
 
 
 
 
 
 ご休憩、と言う単語を聞いて、俯せになっていたアオイが顔を上げた。
「ご休憩がどうしたの?」
「フリータイムだそうよ。起きて」
 アオイは今、下着以外何も身に着けておらず、それもブラジャーはしていない。
 今は、診察の時間なのだ。
「仰向けになっても型くずれはほとんどない。胸筋の発達は十分ね−これさえなければ」
 片手でアオイの乳房を手のひらに載せる−手からだいぶ余った。
 殆ど日本人離れした胸にも関わらず、それ自体の量感に無駄が感じられないのは、それを支える部分が十分に発達しているからだ。
 一般的に、さして大きくもないのに胸が垂れて見えたりするのは、胸筋の発達が不足なせいだ。
 男漁りだけに精を出していては、胸などあっという間に、下へ下へと落ちてくるのである。
 無論、胸だけに限った事ではないが。
 ユリがもう片方の手で肩に触れ、軽く力を入れると、ごきりと音がした。
 そんなに小さなユリの手ではないが、そこに収まりきらぬ乳房を見ながら、
「幾分硬化しているし、このままだと骨盤のずれにもつながりかねない。重症ね」
「困ったわね」
 ユリの手のひらにある自分の胸を見ながら、あまり困った口調でもなくアオイが口にした。
 ちらりと宙を見上げたが、まるでそこには誰かが映っているような視線に見えた。
「まあいいわ」
 すっと立ち上がると、両の胸が重たげに揺れる。
「処方箋に相談して決めるから。少し泳いでくるわ」
 歩き出した友人の背に向かって、
「下回りの部分が肉落ちしているから、サイズがまた増えているわね」
 アオイの足が止まり、
「…またサイズ探しに苦労するの?」
「そうね」
 はあ、とため息をついたように見えたアオイだが、実はまたシンジを付き合わせるのだしと、さほど悩んでもいないのだとユリは知っている。
 と言うより、シンジを付き合わせる理由が出来たと、密かに喜んでいる節すら見受けられる。
 何より、アオイの深刻な肩の病を唯一直せるのは、、今どこかで少女と遊んでいるらしい少年しかいないと、二人とも知っているのだから。
 
 
 
 
 
「二時間したら帰宅して構わないわ」
 手当をした後、サクラはマユミにそう告げた。
「銃弾による傷は、本来なら当局への届け出が必要だけど、運搬人が反対するから止めておきます」
 妙な言葉の裏には、パトカーの群を冥土へ送ったシンジの事があるらしい。
 無論シンジは告げてなどいないが、この美貌の婦長はそれを知ったようだ。
「運搬…人?」
 マユミが横を見て、そこにシンジを認めるとうなじまで赤くなった。
 ちらちらとシンジを見ては視線を逸らす、さっきからこの繰り返しである。
 が、赤くなる原因自体がどこにあるのかは分からない。
 ビルの屋上で足を滑らせたのは覚えているが、その後意識が途絶えている。
 従って、シンジが応急手当したのだとは、当然ながら感じ取ってはいない。
 サクラの話で知っただけである。
 患者があんまり奇妙な反応をするから、
「僕は出ているから」
 部屋を出ようとした途端、
「あ、あのっ、い、いて下さいっ」
 小さいが、はっきりした声で言われてその足が止まった。
 そのシンジに、
「あまり興奮させないで下さいね」
「何が?」
 言いかけた時にはもう、その姿はドアの向こうに消えていた。
「なんか勘違いしてるな、もう」
 ぼやいてから、ふとマユミを見ると視線がぶつかった。
「あ、あの…」
 何か言いかけたマユミに、
「化膿していなかったようだし、あの婦長ならあっさり直してくれるよ」
「あ、ありがとうございます…」
「じゃ、僕はこれで帰るから」
 あまり待たせると、飲み物に変な薬でもいれられかねない。
 歩き出そうとして、その足が止まる。
「?」
 マユミの手が、シンジの服を掴んでいたのだ。
「何?」
「あ、あの…」
「ん?」
「わ、私…」
「聞かないよ」
「はい?」
「なんであんな色っぽい格好していたのか、とか、どうして警察制式の弾で擦過傷が出来たのか、とか、どうして侵入用の道具を持っていたのか、とかはね」
「……」
「そう言えば」
 と、シンジはマユミに服を掴まれたまま続けた。
「最近、富豪の家からお宝が消える事件があるらしいね。それも、全部破壊されて見つかるんだとか。おかしなネズミ小僧でも現代によみがえったかな」
 すう、とマユミの手が力無く離れた。
「軽蔑…されたでしょうね…」
 が、それを聞いてシンジが奇妙な顔になった。
「なんで?」
 真顔で聞いたシンジに、さすがのマユミも絶句した。
「あ、あの…碇さん…?」
「僕は人を軽蔑しているほど暇じゃない。それに、僕が盗難もどきのそれを知ったのは、新聞からじゃなかった。つまり、それは持って行かれても公には出来ない代物って事になる。壊したって別に困らないよ」
「そこまで…ご存じだったんですか?」
「耳年増が知り合いにいるもので」
 聞かれたら、一晩中逆さに吊られるに違いない。
「あのう…」
「何?」
「た、助けていただいて…あ、ありがとうございました」
 いや、とシンジは軽く首を振って、
「痕が残らずに済んで良かった。きれいな太股だったからね」
 今度こそ、音でも立てそうな勢いで、マユミが全身を真っ赤に染める。
「数時間はおとなしく寝ているんだよ」
 マユミは布団から目だけ出して、シンジが消えたドアを見つめた。
「もう…」
 と、今にも消えそうな声で呟きながら。
 
 
 
 
 
 片道五十メートルプールの九割を、潜水だけで進んでいくアオイの姿をユリはじっと眺めていた。
 抜き手を切って戻ってくるその泳法には、全くと言っていいほど無駄がない。
 殆ど精密機械の泳ぎに似たそれを見ながら、
「運動量は落ちていない。にも関わらず直らない−やはり、原因は抱き枕だな」
 ふむ、と頷いた時、アオイが壁を蹴って折り返した所であった。
 百八十センチを少し越えるアオイだが、百メートルのタイムは、実はシンジよりも速いのだ。
 大体シンジが五十八秒前後なのに対し、アオイが調子のいい時なら五十一秒を切るタイムを出す。
 ただし、その事はユリしか知らない。
 アオイもシンジも、普段は殆ど泳ぐことすらしないのだ。
 手を抜く、と言うよりは全力を出して結果を出せば、必然的に注目を浴びる事になるし、それは二人の望む所ではない。
「医の世界以外に興味はない」
 そう言って、一切の雑音を断ってきたユリとは、置かれた境遇が違うのだ。
 富豪中の富豪である信濃家。
 その次期当主であるアオイと、彼女と姉弟同然に育ってきたシンジ。
 それだけでも、本人達の意志に関わらず注目は集まるのだ。
 それでも、その動向が三文週刊誌の餌になるまでに至らなかったのは、ヤマト夫妻の政治力の影響が大だったと言えよう。
 そしてアサシンとしてのそれを、世間にかぎつけられる事がなかったのは、ひとえに彼等の徹底した仕事にあったと言っていいかも知れない。
 ミスを犯さぬ、と言った事よりもむしろ、完全なる箝口令を敷いてきたその徹底ぶりに。
 ユリの実家である長門病院でも、患者のプライバシーは徹底して守られており、それはいかなる患者でも変わる事はない。
 今までに、それを漏洩するような者はいなかったが、そのユリの目から見ても、彼等の守秘ぶりは徹底していたのだ。
 ある意味では、長門病院以上と言えたかも知れない。
 三往復目に入った親友を見ながら、
「今年も又、私が運転か」
 ふと妙な事を呟いた。
 五往復してから、やっとアオイは上がってきた。
 一糸も纏わぬ見事な肢体から、水滴が弾かれるように落ちていく。
 まるで、その裸体に自らは相応しくないと悟ったかのごとく、宝玉のように水を弾きながら歩いてくる友人に、ユリは妖しい視線を向けた。
「タイムはいつも通りね」
 差し出されたガウンを受け取って、アオイは軽く羽織った。
「腕の振りが少し鈍いわ。思ったより重傷かも知れない」
 困ったわ、と溜息をついて見せる。
 それだけで、全財産をなげうっても何とかしたくなる男は、掃いて捨てるほどいるだろう。
「では、今年は止めておく?」
 訊ねたユリに、
「駄目、それはちゃんと行くの」
 駄々っ子みたいな口調で言うと、
「ところで、シンジにおかしな知り合いがいるようね」
 変わらぬ、だがどこか危険な物が混ざった口調を、ユリは知っていた。
「なかなか好奇心旺盛な少年だ。網に引っ掛かったね」
「たとえ廃棄物とは言え、処分はシンジの為でなくてはならない。ユリ、分かっているわね」
 親友が、時として危険な台詞を口にすることをユリは知っている。
 そしてそれが、ある少年が絡んだ時だけである事も。
 衣服を取って歩き出したアオイを、ユリは黙って見送った。
「動く標的、にもならんな。さて、ここはシンジにでも決めてもらうとするか」
 
 
 
 
 
「えーとあの」
 シンジが来たのは、それから二十分ほど経ってからであった。
 遅刻してきた少年を、ユリは不燃ゴミでも見るような視線で見た。
「もうとっくの昔に帰宅した」
 冷たい声に、
「だいぶ待った?」
「アオイから伝言がある」
「伝言?」
「待ちくたびれたので先に帰ります。それとユリ、私の代わりに好きにしていいわ、との事だ」
 言い終わらぬうちに、シンジの身体はユリの手で拘束されていた。
「せっかく許可が下りたのだ。さて、どうしたものか」
「そんな横暴な」
 と言ってみたが、しなやかな腕のどこにそんな力があるのか、座ったままのユリから全く逃れる事が出来ない。
 くいっとシンジの顔を持ち上げると、その美貌を近づけていく。
 音もなく近づいたそれは、まるで最初の女を魅入った蛇を思わせた。
 二つの影が更に近づき、一つになるまで数秒とかからぬように見えた。
 だが。
 艶やかな唇二つが触れ合う寸前、それはぴたりと停止した。
「思い出した」
 教典でも読むような声でユリが言った。
「え?」
 相手の吐息がかかる位の場所で、二人の顔は停止している。
 シンジが動こうとしないのは、顔に触れている指が逃さぬと知っているからだ。
 要するに諦めているのである。
「さっき電話したとき、君は妙な事を言った。女とベッドの中だ、とそう言ったな」
「いやそんな事は」
 そこまで言ってなかったと思ったが、ユリの黒瞳はシンジを離さない。
「誰とお楽しみだったの?」
 ちょっと顔を動かせばすぐに唇は触れただろう。
 そんな距離でシンジは、妖艶な悪魔が微笑んでいるのがはっきりと見えた。
「知り合いが落ちてきたんだよ」
「知り合い?会ってすぐホテルに部屋を取るような?」
「いやその」
 治療だと言えば良かったかと思ったがもう遅い、ユリの指がシンジに服に伸びた瞬間に、ボタンが一つはじけ飛んだ。
「時間はたっぷりある。どうせなら君の身体に聞きたいものね」
 体勢は男を惑わす淫魔、しかし冥土の裁判官のような声でユリが囁いた。
 と、その時。
「あ、あのドクター…」
 来なければ良かった、そう後悔しているとあからさまに分かるような声がした。
 ユリの視線に会い、氷像のように硬直しながらも、
「カ、カルテが上がったので…お、お持ちしました」
 それだけなら、ユリはシンジを解放しなかったかもしれない。
 だが、シンジを認めた瞬間、サツキの肩から大鷲が飛び立ったのだ。
 いつの間にか、サツキの肩に移動していたらしい。
 鷲が飛ぶのと、シンジが離れるのとが同時であった。
 音もなくシンジの肩に降り立ったそれは、何度もシンジの頬に嘴をすり寄せた。
 人間並みの感情と、そしてその表し方も知っているらしい。
「待たせたね」
 よしよしと、軽く鷲の頭を撫でてやる。
「じゃ、僕はこれで帰ります」
「二度と来ないでもらおう」
「そんな薄情な」
「ビルから落ちた娘に、うつつを抜かす少年になど興味はない」
 ユリが冷たく言った所を見ると、マユミの事は知っているらしい。
 もっとも、サクラが無報告なままにするとは思えないのだが。
「大したことない傷だから頼んだよ」
「入院中の患者は私の管轄にある。余計な口出しをしないでもらおう」
 ユリの言葉に、シンジの眉がちょっと寄った。
 自分の主治医の性癖を思い出したのである。
 (可愛い部類だしなあ)
 とは思ったが口にはしなかった。
「頼んだよ」
 それだけ言うと返事を待たずにきびすを返した。
 サツキとすれ違う時に、
「じゃ、無事でね」
 薄情極まる台詞に、
「シンジさんそんな…」
 言いかけたが諦めた。
 今度お礼してもらう事にしたらしい。
 だが、シンジの姿が消えるとすぐ、その表情が一気に引き締まった。
 すぐ横に立ったサツキに、
「それで?」
「アオイ様の所から運んだついでに、中身を調べておきました。やはり、補完計画は強行する気になったようです」
 アオイの所から運んだ、中身を調べた。
 この二点からするとゲンドウの事だろうか?
「やはりそうか」
 と、これも驚いた様子はない。
「では、私も予定通りショーを興すとしよう」
 はい、と頷いたサツキに、
「愚かな父親を見たなら、シンジはどうすると思う?」
「ドクターがお忙しくなります」
「その通りよ」
 二人の思考は一致したらしく、ユリがわずかに笑った−ようにも見えた。
 だがユリが忙しくなるというのは、患者が出ると言うことなのか?
 それとも、別件で?
 いずれにせよ、親友が健康な時でも、美貌の女医に退屈の文字は無縁に見えた。
 
 
 
 
 
(続く)

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