第四十七話
 
 
 
 
 
「雲霞、と言うにふさわしいな。あれだけ、よく揃えたものだ」
 足に刺さった矢を引き抜きながら、武人の目は前方に据えられている。
 そこには、文字通り雲のような騎馬隊の群が、地を覆い尽くしていた。
 既に、従う部下は一人もいない、
 討ち死にしたのではなく、死出の供をと願う部下達を、強引に落としたのだ。
「お前達がいては気が散る」
 満身創痍になりながらも、大将軍の言葉は有無を言わせなかった。
「一人なら切り抜けられても、部下がいては余計な気を遣う事になろう」
 援軍などなく、事態は絶望的。
 佞臣の讒言で引き起こされた皇帝の不興は、もはや武人に散る以外の道を残してはいなかった。
 それでも。
 自ら刀を取り、数十倍の敵を撃退した後、最後まで部下達には命運を共にさせなかったのだ。
「俺は今、逃げる算段をしている。俺の思考を妨げるな」
 それが、誇り高き武人の最後の言葉となった。
 血涙を流しながら、その場を後にした部下達の気配を知り、大将軍は軽く頷いた。
 馬蹄の響きは、まるで踏み荒らされた大地の悲鳴にも聞こえた。
「辺境蕭条の地も、俺の終の棲家には相応しかろう」
 まだ、その身には数本の矢が突き立ったまま、大将軍はゆっくりと立ち上がった。
 数十度の撃退に、怖れを人数で覆い隠した匈奴の大群を見据えながら。
 軽く血刀を振ったその双眸に、死の雰囲気は微塵も感じられなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 マヤが見間違える筈はあるまい。
 だとしたら、間違いなく使徒に感づかれたのだ。
 初号機が戦意を見抜かれた、とは思えないから、あるとしたら零号機の方だ。
 こうなったら、予定を変更して初号機を囮にする必要も出てくる。
 いくら何でも、日本中を停電にしておいて、
「使徒にばれて壊されました」
 では済まないのだ。
 だが。
 アオイは表情を変える事もなく、
「総電力はライフルへ向かっているの?」
 青葉に視線を向けた。
 アオイの冷静な声に我を取り戻した青葉が、
「げ、撃鉄まで起きています」
「なら大丈夫ね」
「『え?』」
 思わずアオイの顔を彼らが見た瞬間、すさまじいエネルギーが使徒から迸った。
「下衆が」
 叫ぶでもない、かと言って罵倒する口調でもない。
 ただ口にした、それだけの感じなのに、それを耳にした者全てが背中を凍りつかせるような声が響く。
 既に零号機は狙撃体制に入っており、間に合わぬか或いは同時かと思われた途端、零号機は伏せた体勢のままひょいと手を前に突き出した。
「え、ATフィールド…」
 呆然と呟いたのは誰だったのか。
 その視界の先には、オレンジ色のこれはもう、はっきりと分かる八角形の盾が零号機の手に形成されていたのだ。
 一枚…貫通。
 だが。
「ふ、複数を同時になんて…」
 にせリツコが呟いた通り、まるでバリケードのように次々と、その手にはフィールドが作られて行く。
 そして三枚目。
 とうとう、四枚目にして高エネルギーはその行く手を阻まれたのだ。
 第二波が来なかったのは、その結果が使徒の慮外だったせいだろうか?
 肢体は同じながら、別の者へと操縦者を変えた零号機は、想像外の能力を発揮してみせたのだ。
 ATフィールドの複数重ねという、先の使徒さえもなし得なかった事を。 
 零号機に、まるで捕まえるかのように食い止められた荷粒子だが、
「わだかまってる…」
 日向が呟いた通り、誰が見ても行き場を探してさまよっているように見える。
 つまり、完全に封じた訳ではないのだ。
「弾き返すはシンジの役であったろうが。将軍、見ておくがいい」
 妖々とした声は、前々回の使徒戦の折、初号機から響いた声にも劣らなかったろう。
 次の瞬間に起きた事を、おそらくは誰も信じなかったに違いない。
 本部に詰めている者達も、そしてエヴァを見に、ちょろちょろしているコマネズミたちもまた。
 受け止めて、そのまま跳ね返したのだと知った瞬間、本部内には死のような静寂が漂った。
「……」
 誰もが絶句する中、アオイに言ってのけた通り、跳ね返したそれは正確にドリルの付け根をうち砕いていたのだ。
 ぐらり、と使徒が空中でバランスを崩す直前、初号機が気配もなくその背後に忍び寄っていた。
「貫いたか」
 静かな声がするのと、使徒がその体を深々と貫かれるのとが同時であった。
 その足下、殆どつま先立ちに近い状態から、肘まで使徒を貫く初号機。
「パ、パターン青消滅…さ、作戦終了です…」
 マヤの震える声が聞こえたのかどうか、初号機がその手を下ろした。
 初号機は湖畔に待機していたのだが、初号機が移動していたのには、誰も気付いていなかったのだ。
 エヴァの戦闘能力は、そのままパイロットの能力が現れる。
 ある程度の跳躍は必要になるのを初号機は、いやシンジは音もなくしてのけたのだ。
 武人としての名を、欲しいままにしてきた経歴に恥じない物と言えよう。
 ゆっくりと初号機が零号機に近づいていき、反対の手で使徒の骸を抜き取った。
「ドクター」
 本部内に、妖々とした声が響く。
「何か?」
「撃って溶けるより、この方がいいだろう。解析には使えそうか?」
「おそらく。まずはお疲れ」
「俺を狙ってくると思ったが、物騒な方を知っていると見える。万里の長城を避け、西夏の地を狙った蒼き狼によく似ているな」
 かつて蒙古の地に、金国の政策の元、数多の諸部族が争っていた。
 その中で、血統書付きながら父を毒殺され、殆ど絶望的な位置になったにもかかわらず、頭角を現してついには部族を統一した、それがテムジン−後のチンギス=ハーンである。
 草原を統一した後、外の世界に目を向けたのは、血の塊を持って生まれたと言う伝説がその通りになったものか。
 策略に踊らされ、まんまとはまってきた歴代の恨みを晴らすべく、砂漠を越えて金国に目を向けた。
 だが、そこには万里の長城が延々と広がっており、一切の侵入を阻んでいたのだ。
 そこで、それが途切れた所にある西夏国に目を付け、そこから侵略の足がかりとしたとされている。
 今シンジが口にしたのは、その事でもあったろうか。
 そう、自分達を蒼き狼の子孫と称した彼らに。
 無線は切れたが、
「物騒か、なるほど」
 ユリの声にマヤが、え?と言うようにユリを見たが、その美貌には何の変化も見られなかった。
 
 
 
  
 
「こ、これは…抜け出した甲斐があったってもんだ…」
 興奮冷めやらぬ様子で、慌ただしくフィルムを入れ替えている少年があった。
 ライフルの出現に、これで銃撃だと思ったのが見事に外れたのだ。
 使徒が先制した時、確かに零号機は射撃体勢に入っていた。
 文字通り、矢が弦を離れる直前だったのだ。
 そして、その読みは間違っていなかった。
 だが、その後の反応は大きく思考を裏切っていた。
 無論。
 零号機のパイロットが変わっていた事を、彼は知る由もない。
 本当なら、馬鹿コンビの相方と来ようと思っていたが、何時の間にやら彼女をこしらえていた。
 しかも、べたべたである。
 内心で呪詛を吐きながらも、
「大事にしろよ」
 と声を掛け、照れている間にさっさと脱走してきたのだ。
「よし、撤収だ」
 初号機が使徒の骸を腕から抜くのを見届け、長居は無用と退散しようとした瞬間、
「まさか、本当にいるとはな」
「ねずみ取りの要請が図に当たったか」
「し、しまったっ」
 慌てて駆け出そうとしたが、音もなく忍び寄る相手からどうして逃げられよう、
 二歩も行かぬうちに、伸びてきた足に見事すっ転んでいた。
「おいおい、逃げられると思ったのか?」
 ネルフの黒服、腹部への激痛の中でそう知った時、
「ところでおい」
「何だ?」
「要請は確か信濃大佐って言ったな。あれ、誰だ?」
 作戦部長の、葛城一尉しか知らぬ彼らに取っては、いきなりの大佐の称号は初耳だったのだ。
 覗きに来ていた一般人の少年を、これ以上ない位に縛り上げた彼らだったが、まさか信濃アオイがそのまま碇シンジ、すなわち初号機パイロットに繋がるとは、思っていなかった。
 まして、それが自分達の仲間をごっそり片づけた少年だ、などとは。
「自衛隊か何かから、視察にでも来たんじゃないのか」
「ああ、そうかも知れないな」
 来るわけが無く、まして勝手に保安部など使う訳はないのに、男達は納得していた。
 だがそれが、本能が囁いていたのだとは、当人達も気付いていなかった。
 本来なら妙だと、秒と経たずに疑問を持っていたに違いない。
 にもかかわらず、まるでそれが−本能が思考することを拒否するかのように−奇怪な答えを出した事に、男達は全く気がつかなかった。
 そしてそのまま、
「持っていくか」
 と、縛り上げた少年を担いで歩き出したのは、数分後の事であった。
 
 
 
 
 
「それで、どう?」
 不意にアオイがにせリツコに訊ねたが、
「何がどうなのです?」
 と聞き返さないのは、リツコのダミーにして能力はそれ以上だからだ。
 それも分からずして、ドクターユリの手になる者を称せまい。
 ただし、この場合の単語は微妙だから、シンジでないと即断は難しい。
 ちょっと考えてから、
「動力機関は、ある程度わかると思います」
 と言ったが自信はなかった。
「この間の使徒は、解析はどうだったの?」
「波長パターン、その他がかなり人間に酷似しています。その数字が」
 言いかけた所へ、
「ユリは何と?」
「人間そのものだと」
「君は?」
 不意にアオイが振り返った。
「私は…でももしそうだとしたら…」
「形態の違いが気になるかしら」
 訊ねた所を見ると、にせリツコの回答を読んでいたらしい。
「人間でも紛争は絶えませんし、染めただけで変わる色の違いでよく紛争は起きております」
「あなたの髪みたいに?」
 うっすらと笑ったアオイに、その顔が下を向いた。
 色はともかく、その質において到底アオイには及ばない。素質以前に、染めた時点で天然の質は喪われているのだ。
 ええ、と小さな声で言ってから、
「でも、攻め込んでくるなら撃退しないとなりませんから」
「巨人族、確かあれも数メートルだったかしら。ただ、それにしては差がありすぎるわ。私たちと違って、飛行能力まで備えているし。ところで」
「はい?」
「レイちゃんが使徒もどき、これはいいとしても外見はふつうと変わらないわ。あの子のデータを見たけれど、一見して変わった所はない。あの子の正体がばれたら、それも答えの一つにされかねないわね」
 使徒と人との類似は知らずとも、ATフィールドを使える存在のレイ、そこからもある種の推測は可能だとアオイは言っているのだ。
「結局は人種間の紛争、これとさして変わらないかも知れませんね」
 だが、アオイは軽く首を振って、
「ガリバーの話は知っている?」
「小人の島とか巨人の島へ行ったとか、あの話ですか?」
「そう、その話よ。結局、大も小も適応はできなかったわ。使徒の能力はあまりにも高すぎるのよ−例え、人間の同族であったとしても」
 一般人が聞いたら、目を剥きそうな事をさらりとアオイは口にした。
「あの、一つおたずねしてもよろしいですか?」
「何?」
「レイのことは、どう見ておられます?」
「能力のこと?存在のこと?」
「補完計画用に造られたことです」
 アオイが、いやユリがすでに知っていると見た上での質問だったが、
「あの子は大丈夫よ。もっとも限定だけれど」
 予期せぬ答に、
「え?」
「シンジと会わなかったら、いえユリが手を付けなかったら、人形のままだったでしょうね」
 妖しいことを言ってから、
「でも、今のあの子は道具にはならないわ。何よりも、姫がいるなら」
 姐姫に対する見方が、自分の造物主とあまりに違うので、内心で首を傾げたにせリツコだったが、それは言わず、
「よろしいのですか?」
 とだけ訊いた。
 無論、にせリツコとて姐姫の名を冠する女が、どんな道を築いて来たのかくらいは知っている。
 それだけに、エヴァに搭乗させ、あまつには使徒殲滅を任せたアオイに首を傾げる箇所もあったが、
「あの女邪魔、シンジはそう言わなかった。あの子が言わないなら、人類の命運を任せても大丈夫よ。それにあの方でなくとも、綾波レイの実体が発覚したら、ネルフと言えども覆いきれないわ。今は、そんなに危険でもないのよ−ただ、私をシンジの愛人と呼ばなければ、ね」
 アオイの口調に、一瞬だけ妖しい物が混ざったような気がしたが、それも刹那のことで、すぐにまた元に戻ると、
「何はともあれ、五番目の使徒は片づいたわ。それでいいのよ」
 くすっと笑うと、そのまま戻っていった。
 ただ、にせリツコにはオリジナルの、科学者としての部分が残っており、危険性の高い選択だったと言う事は否定できていない。
 もう一人のシンジとの約定で、姐姫が危険な動きをすることはないと読み切っていたアオイとは、根本的に異なるのはその部分である。
 が、彼女は知らない。
 そう、もし姐姫が人類殲滅に回った場合、
「シンジのせいだからね」
 と、アオイが口にする事を。
 更に言われた方の少年が、
「過ちは二度しなければいいのさ」
 こんな事を言い出すに違いないことも。
 この時、アオイが口にした五番目と言う単語に、にせリツコは気付く事はなかった。
 
 
 
 
 
「さて、なかなかの物だな」
 プラグから降りたシンジは、零号機へと足を向けた。
 二人して機体を戻したのだが、零号機からはパイロットが降りてこない。
 別に中で異常が起きている訳ではない。
 ただ、待っているのだ。
 そう、迎えに来るのを。
 既に排出されたエントリープラグだが、その扉は閉まっている。
 一見すると無人を思わせるそれだが、周囲に漂う強烈な妖気がそれを否定する。
「眠り姫を覚ますは王子の口づけ。だが」
 ハンドルに手をかけると、指一本で開けた。
 シートに横たわっている様は、眠り姫に見えぬ事もないが、見る者を虜にしそうな毒にも似た気が、童話のそれとは遠い事を証している。
 一歩足を入れ、顔に手を掛けた瞬間、首に腕が巻き付いた。
 朱唇が迫ってくるのを、僅かな差で避ける。
「わらわを避けたか」
 さて、と手をほどいてから、
「この匂いは好きになれないな」
 と言った。
 LCLの事であろう。
 姐姫の手を取ると、軽く引いて起こした。
「ATフィールドを重ねるとは、俺でも出来るかどうか。面白い芸をするな」
 出来るか、と言えば出来るだろう。
 ただし、いきなりやってのけるかは別の話だ。
「弓の重ね撃ちはしなか…」
 なにやら言いかけたのが途中で止まる。
 その顔には、すっと寄せたシンジの顔があった。
 重なった顔はすぐに離れ、
「俺からの礼だ」
 妖女が額に触れながら、
「今宵のわらわには不足じゃ、将軍」
 再度シンジを捉えた手は、今度は万力のように圧倒的な力を備えていた。
 施設内も電力を抑えたため、煌々と照らしてはいない。
 薄明かりが照らす中、頬にわずかな朱を見せた姐姫から、シンジはなぜか逃れようとしなかった。
 一度僅かに触れたのは、乙女の外見のそれにふさわしいもの。
 だが、すぐに引き寄せて今度は、思うままに舌を差し入れた。
 好きなだけ楽しんでから、ようやく唇を離す。
 自らの姿を取り戻す為の吸精とは違い、ひたすら貪るような口づけであった。
 ようやく離れた時、艶やかに光る糸が二人を繋いだ。
 目を閉じたのは妖女のみ。
 受ける武人は、どこか冷たくそれを見ていた。
 王達を惑わしたそれも、戻らぬ部分もあるとは言え、悽愴な武人には通じなかったものか。
 だが、
「気が済んだか」
 とは言わなかった。
 ゆっくりと顔を離してから、
「では行くか」
 先にプラグの外に出る。
 すぐに姐姫が続き、腕を絡めた姿はどこか恋人達のそれにも見えたが、姐姫の顔に上気の色は微塵も見えなかった。
 
 
 
 
 
「エヴァ両機の撤収と同時に、避難命令も解除されました」
「それで?」
「避難所の第二区画で、体調不良を訴えた者が二人おります。なお、大佐の言われた通り保安部に警戒させましたが、子供を一人捕獲したと報告がありました」
 保護、とも補導とも言わず捕獲と言った。
「ご両親を呼んで叱ってもらわないとね」
「それが…」
「どうしたの?」
 にせリツコには、勿論リツコの知識はある。
 そして、捕まった少年のデータも。
「相田ケンスケ、シンジさんのクラスメートです」
 次々と送られてくる報告書を見ながら、今室内には二人しかいない。
 呼称が違うのはそのせいだ。
「シンジが知っているのね」
「友人が、妹の怪我を理由にシンジさんを呼び出した事が」
 だから言いたくなかったのよ、とにせリツコは内心でもらしていた。
「そう、シンジを」
 抑揚のない口調で言ったアオイから、異様な程の気が立ち上りだしたのだ。
「聞いていたけれど、シンジがとっくに始末したと思っていたのに」
 美貌に凄絶な殺気が描かれ、どこか冬夜の彫刻を思わせる妖美を漂わせながら、
「釈放しなさい」
 と命じた。
 さては殺しに行くのかと思ったら、
「精神面のケアが必要ね」
「ま、まさか…」
「ドクターユリに、治療をお願いしなさい。こう伝えるのよ−大幅な精神改善が必要と、この私の意見書があるのだと」
「は、はいっ」
 アオイの鬼気に耐えかねたかのように、すっ飛んでいくにせリツコを見ながら、
「堕落した子にはお仕置きしな」
 言いかけた時、ドアがノックされた。
「どうぞ…小父様」
「ご苦労だったなアオイ、いや信濃大佐」
 机の上に積まれた書類を見ながら、
「街もほぼ無傷で済んだ。後は、神経部だけ撃っていれば上出来だが、それは望み過ぎかも知れないな」
「能力が劣っているからでしょう」
 アオイの言葉を聞いて、一瞬ゲンドウの表情が激しく揺れた。
 まさか、まさかアオイがシンジの事をこう言うとは思わなかったのだ。
 無論、そこにはゲンドウの知らぬ内情があり、アオイもあれは違うのだと言ったりはしない。
 絶句したゲンドウに、
「どうかされましたか?」
 涼しげに、だがどこか冷ややかにアオイが訊ねた。
「い、いや何でもない…と、ところで」
「何か?」
「私がいない時には、色々とやってもらう事がある。あれも、信濃のご老公には到底敵わなかった引け目があってな」
 それだけで、アオイには何のことかはすぐに知れた。
「小父様」
「な、何だ」
「ここでの地位や名誉など、私の好みではありません。明日にでも、シンジを浚って帰ってもよろしいですが」
「それは待て」
「私はここに来たのを後悔しています」
 アオイの妙な台詞に、
「な、何?」
「もっと早く、最初からシンジに付いているべきでした」
 確かにその通りだが、ミサトがここに指揮官としていたから、と言うよりそれを任じたのはゲンドウその人なのだ。
 つまり、使えない者を配したと言うことは、そのまま使ってる方が無能だと言う事になる。
 アオイもそこまでは言ってないが、
「ア、アオイ…それは私への皮肉か?」
「いえ、苦情ですわ」
「……」
 委員会に出ていたゲンドウだが、今回の使徒撃退の経緯は知っている。
 ゲンドウがいないとなると、指揮権はそのまま副司令に、すなわち冬月に移行するのだが、現在かなりの重傷で床に就いている。
 血の気を喪った顔で、昏睡状態なのだ。
 そうなった経緯は聞いたし、そして作戦もモニター越しに眺めていた。
 確かに戦法と戦力が噛み合い、圧倒的な勝利を納めはした。
 ただ、ゲンドウにはいくつか解し得ない事もあり、だからここへ来たのだ。
「総司令の不明は部下に補ってもらうとして」
 言いかけたら、
「仕方のない総司令です」
 出鼻を挫かれたが、辛うじて取り直し、
「零号機は、いやレイはATフィールドは使えないはずだ。それをどうし…」
「使えますわ」
「何!?」
 この時ゲンドウが見せた顔は、おそらく生涯でも一度か二度だったろう。
 文字通り愕然としたような総司令に向かって、
「水槽の中に飼っていたのはよろしいでしょう。そう、生きた人形として眺めるならば。でも、魂を与えるべきではありませんでしたわね、小父様」
 何の変哲もない口調、それなのにゲンドウの顔から血の気が引いた。
「ま、まさか…」
「別に」
 とアオイは言った。
 その目はもう、書類を次々と読んでいる。
 そこから視線を外さず、
「あの子を道具にしておけば、貴方もそれなりの父親でいられたかもしれないのに」
「そ、それはどういう…」
 言いかけてその体が硬直し、ゆっくりと倒れ込んだのは三秒後の事である。
 書類から顔を上げぬアオイが、すっと伸ばした指を横に動かしたのだ。
「便利な操り人形にしてもいい」
 床に伸びた髭面の総司令を見ながら、
「でも、それは私の一存では決められないわ。貴方をどうするかは、シンジの決める事です」
 変わらぬ口調で言うと、机の上のベルを押した。
 数十秒もしないうちにサツキが入ってきた。
「お呼びでしょうか、アオイ様」
 伸びた総司令を見ても、その顔色は変わらない。
「寝かせて置いたから、運んでいってくれる」
 はい、と一礼すると、170センチを優に越える体格のゲンドウを、片手で肩に担ぎ上げた。
「寝かせて参ります」
 出ていこうとしたが、
「待って、サツキちゃん」
「はい」
「悪の副支配人は?」
 ぼったくりホテルの総支配人碇ゲンドウ、及び副支配人の冬月コウゾウ…合っているかもしれない。
「全治二週間だそうです。正確でしょうか?」
 奇妙な事を訊いたサツキに、
「後一日延ばしても良かったわ」
 だとすると、冬月のそれは狙い通りだったと言うのか?
「お見事です。それとドクターからご伝言が」
「トップ二人のダミーでしょう」
 聞く前にアオイは言った。
「は、はい」
「シンジの意志が最優先される、そう伝えて」
「かしこまりました」
 深々と一礼してから、
「あ、それともう一つ」
「なに?」
「地下にプールを見つけた。診察もするから、処理が終わり次第来られるようにと」
「プール?温水ね」
「はい。なかなか快適だそうです」
「そうね、終わったら行くわ」
 アオイの言葉に、役を果たしたナースが荷物を担いで出ていった。
 サツキが出ていった後、
「綾波レイの能力を気にするのは、道具として使えるか確認する為ね。だとしたら、もう次のクローンを」
 刹那目を閉じてから、
「情人は冥府への道を選んだ。では、あなたはどうする」
 冷ややかな囁きにも似た声は、誰に向けられたものだったのか。
 そして、その双眸に浮かんだのは、決別の色だったのか。
 
 
 
 
 
(続く)

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