第四十三話
 
 
 
 
 
「もう、大丈夫だから」
「そうか、保たなかったか」
 呟いた声は、レイの耳には届かなかったらしい。
 シンジから、ゆっくりとアオイへ視線を移した。
「あ、あなたが…」
「信濃アオイよ。綾波レイちゃんね」
「は、はい」
「シンジがお世話になったわね」
 少し奇妙な事を言ったアオイに、
「私は…別に」
「お世話したのは僕だぞ」
「そうだったわね。レイちゃん、よろしく」
「はい…」
 頭を下げたものの、その視線はアオイには向いていなかった。
「凶暴な鳥なのね」
 その先は、アオイの方の大鳥に向けられている。
「この子?シンジが絶対だからね、あれでも大人しい方よ」
「でも、葛城一尉に手を出しました」
「不満かい」
 ひょいと訊いたのはシンジである。
「そ、そうじゃないけれど」
「生命線では僕のペットだからね。もっとも」
 次の瞬間、人々は目を剥いた。
 シンジがいきなり、アオイの胸元に手を差し入れたのだ。
 真っ昼間からの痴情かと思われた刹那、抜き出した手は自動拳銃を握っていた。
 S&W社のそれは、既に弾頭に邪悪な細工を加えてある。
 が、そんな事よりも、いきなりそれを大鷲に向けて撃った方が、人々は仰天した。
 重低音が重く響き、たちまち身体が四散して血漿が飛び散り…はしなかった。
 それは奇怪な事に、天井まで届いてのめり込んだのだ。
「と、言う訳さ」
「…これは?」
「幽体(エクトプラズム)よ」
 口を挟んだユリに、
「エクト…プラズムって何ですか?」
「人間が持っているエネルギーのような物よ。これを討つには、シンジのシルバーナイフでないと無理ね」
「これを信濃大佐が」
 ぽつりと口にしたレイだが、何故こんな物を作ったのかと言う響きが、その言外には感じられた。
「アオイには作れないよ」
「え?」
「ウェールズの知り合いがお土産にくれたのさ」
「多分二週間は寝たきりよ。不死人なのに困ったものね」
 アオイがくすっと笑った。
「それよりシンジ」
「え?」
「零号機の起動実験は終わっているの?」
「まだ」
「まだ?」
「家出してたもんで」
「あ、あのっ」
 レイが慌てたように口を挟んだ。
「なあに?」
「お、お兄ちゃんは悪くありません」
「僕が悪い、なんて言ってないぞ」
「…え?」
「別にシンジが悪い、などと私は言っていないわ」
 二人の言葉に、
「あ、あの…」
 レイは俯いてしまった。
「いいのよ、やっていなければ別に」
 アオイが穏やかに言ったのは、レイの言葉に焦りを見抜いたからだ。
 ちらっとシンジと見交わした視線で、その意図を読んだシンジが、
「実験準備、すぐにできるかい?」
 にせリツコに訊いた。
「ちょっと待って」
 五秒考えてから、
「三十分あればできるわ」
 可能です、と言わなかったのは赤木リツコとしてここにいるからだ。
 相手がユリならともかく、シンジにいきなり敬語では周囲から怪しまれる。
 ただし。
 造物主からは、お叱りを覚悟しなければならなかったが。
「今回の使徒退治には、レイちゃんにも零号機で参戦してもらう事になるから、先に起動実験はしておかないと。レイちゃん、いいかしら?」
「はい」
 まだ回復していないレイを見て、
「シンジが少しダメージあるから、付いていてあげてくれる?」
「え…あ、はいっ」
 レイの顔がぱっと輝いたが、ウェールズのモミジが訊いたら噴飯物の台詞である。
「アオイ様、お戯れを」
 位は言うに違いない。
 大体、シンジが信濃邸で飼っていた大鷲をベースにしたこの巨鳥は、治りきっていないモミジが、それをまた無理して作った物であり、ミサトの醜態に危険な殺意を抱いたのも多分にそのせいである。
 アオイの言葉に、シンジが一瞬その顔を見たが、すぐに視線を逸らした。
「分かった。じゃ、休んでくる」
 行くよ、とレイを見たが、見た目よりダメージが大きいのに、アオイもユリも気が付いていた。
 歩き出した時一瞬、そう一瞬だけよろめいたのを二人は見抜いていたのだ。
 シンジの横にレイがぴたりとくっついた時、
「待って」
 にせリツコが呼び止めた。
「はい?」
「レイ、実験するのはあなたなのよ。調整対象がいなくてどうするの」
「あ…」
「信濃大佐」
「何?」
「シンジ君を見張っていて下さい」
「見張る?」
「放っておくと、ダメージを無視して歩き回りそうですから」
 要するに、アオイに付いていろと言っているのだ。
「でも起動の方を」
「起動実験程度なら、私が眺めていれば十分、それで構わないかね?」
 ユリの言葉に、
「え、あ、あのっ、そのっ、えーと…だ、大丈夫ですっ」
 がたっと立ち上がったのはマヤ。
 ユリに向けられた視線に中毒ったらしい。
「結構だ」
 頷いてから、
「アオイ、くれぐれも逃がさないように」
 厳かな声で命じた。
「分かったわ」
 すっとシンジの後ろに立ったのは、知っていたからだ。
 そう、シンジがよろめくに違いないと。
 そして、案の定ぐらりとシンジはよろめいて、アオイにもたれかかったが、長身のアオイのおかげで、その様は他からは見えていない。
 時間にしては三秒もなかったろう、すぐに元に戻ると、
「実験は見ていてあげるから」
 シンジが行っちゃって少し気落ちしていたが、シンジが見に来ると聞いて俄然やる気になったらしい、
「はいっ」
 元気良く頷いた。
 
 
 
 
 
 電気も点けぬ暗い室内に、モニターがぽつんと置かれており、それを凄惨な視線で見つめる女がいた。
 赤木リツコその人である。
 立ち上がろうとしても、気怠さに全身が包まれており、ぐらりとよろめいた。
 そこへ入ってきたナースが、彼女の前にこれを置いたのだ。
「これは何?」
 訊ねたリツコに、
「見ていれば分かります」
 それだけ言うと、さっさと出ていってしまった。
 何て柄の悪い、そう思ったものの、怒る気力もなくぼんやりと画面を見つめていた。
 待つこと数分、現在画面に映し出されているのはネルフ本部の状況である。
 そう、彼女のダミーが暗躍しているその状況を。
 ほとんど悪鬼のような形相のリツコだが、アオイとシンジが出ていった所でスイッチを切った。
「あれが信濃大佐ね…なるほど、あれなら」
 呟いたリツコだが、本部でその直前に妲姫が同じ事を口にしたなど、勿論知らない。
 それに今の関心事は、アオイにはなかったのだ。
「あの女…必ずお礼はするわ」
 ぎり、と歯を軋ませて呪詛の台詞を吐いたリツコ。
 だがさっき、本体以上に能力アップしていると告げられた事は、その脳裏から消え去っていた。
  
 
 
 
 
 言葉を交わす事もなく歩いていた二人だが、休憩室に入るなりアオイが動いた。
 いきなりシンジを抱え上げて、ベッドの上に乗せたのだ。
 シンジの方も、奇妙な事に抗うでもなくされるがままになっている。
 アオイの行動の意味はすぐに知れた。
 いきなりプラグスーツの腹部に手を当てて、横に動かしたのである。
 何をしたものか、それはあっさりと横に裂けた。
「ちょっと待った」
 シンジが言ったのは、アオイの全身から危険な物が立ち上り始めた時であった。
 危険、と言えば欲情の方がまだ良かったかも知れない。
 だが、今そこにあるのは間違いなく鬼気に等しい物であった。
 そう、真っ赤になったシンジの腹部を見た瞬間、アオイから吹き上がった気は。
 アオイの表情からすっと血の気か引き、血の出るほどに唇を、いや実際に唇の端から一条の鮮血が滴ったのだ。
「シンジ…ごめんね」
 アオイが上京しなかったのは、既に指揮官として用意されたミサトがいたからだ。
 例えそれが実戦の経験もなく、ましてシンジが認める可能性など、ほとんどないような女であったとしても。
 確かにアオイなら、こんな不用意にシンジを送り出しはしない。
 いやそれ以前に、最初の戦闘時からして、万全にして送っている筈だ。
 ただ、それでもシンジには、ミサトを責める気はなかった。
 どうして、と聞かれたらシンジはこう言ったろう。
「面倒くさいから」
 と。
 チルドレンなど、道具程度にしか見ていないのは、レイを見ればすぐ分かる。
 自分がここへ来て、レイと同じような待遇を受けなかったのは、ひとえにゲンドウの息子だからだ。
 しかもそれは、ゲンドウがシンジにかなりの自由をさせたに過ぎず、実際にはかなり束縛があっただろう。
 もっとも、シンジがそれに縛されるほど単純かは、また別の問題だが。
 とまれ、女の子に任せて置いて地球が滅びるよりは、の発想でエヴァに乗っているシンジに取って、ネルフでの待遇など気になる物ではない。
 正確には−最初から期待していない−と言った方が合っているかも知れない。
 またシンジは、その中で状況を打破できるだけの物は持ち合わせていた。
 そう、武器も持たずに送られても、シンジの能力を把握せずに命令を下されても。
 それに何よりも。
「折角来たんだから、そんな顔しないで」
 アオイをすっと引き寄せると、口元から流れた鮮血に唇を付けた。
 ちいさな音がして、シンジの咥内に鉄の味が流れ込んでくる。
 んん、とわずかに喘いだアオイから唇を離して、シンジはにこりと笑った。
 しかしその顔には、それでもどこか痛みを堪えている物があり、それに気づかぬアオイでもない。
「シンジの言う通りね」
 こっちはどこか、自責を抑え切れぬ表情ながら、これもすぐにシンジの腹部にすっと手を伸ばした。
「三十分あれば何とか治るわ。プラグスーツで、今回は幸いだったわね」
 アオイの言葉は無論、シンジがスーツを好まないと知っての物だ。
 人も滅ぼし得る物ながら、逆の使い方も出来るアオイの気功。
 患部に当てた掌から微量に流れるそれは、急速にシンジの全身を覆っていき、徐々に痛みを和らげていった。
 室内に静寂が流れた時、ふとアオイが呼んだ。
「ねえシンジ」
「ん?」
 シンジの声はどこか溶けている。
 そう、シンジの膝にいるレイの声にどこか似ている。
 別にアオイが膝枕している訳ではなく、気がシンジの全身を覆っているからだ。
 抱き枕が手元に戻ってきた事に加え、やや深手にも近かったダメージが、急速に癒えだしているとあっては、いかなシンジと言えども当然かも知れない。
「寝ちゃ駄目よ」
「代わりにアオイが行って来て」
「いや」
 にべもないアオイに、
「もう少し僕に優しく…んむっ」
 ちっとも思ってない口調で言った時、いきなり唇がふさがれた。
 だが。
 唇が合った途端柔らかな舌が侵入して…は来なかった。
 カチ、と音がして歯に何かが当たった。
 唇が離れてから、口の中に指を突っ込んでみる。
 指に引っかかったそれを抜き出して、
「何これ?」
 銀光を放つ指輪を見ながら訊いた。
 軽く指を入れてみたが、サイズはぴったりである。
「鍵よ」
「鍵?」
「シンジの家の全機能を埋め込んであるわ」
「何でアオイが?」
「ユリから没収して来たの。スペアキーをダース単位で作ってダミーに持たせようとしていたから」
「あの藪医者が」
 ちょっと眉が寄ったが、
「ま、いいか」
 指輪で機嫌が良くなったのか、それ以上は言わなかった。
 もっとも、その気になれば対戦車砲さえ弾く強化ガラスでも、平然と切り裂いて入ってくる危ない女医だと、シンジは今までの付き合いから十分知っている。
「サイズ合ってるかしら?」
「さてはお前、適当に造ったな」
「ご名と…あ」
 言いかけた途中で、今度はシンジがアオイの腰に手を回して、すっと抱き寄せた。
「あいにくぴったりだ。外れたら仕置きと思ったのに」
 無論シンジも、アオイがサイズを知っているのは分かっているし、アオイとて本人が居ずともサイズを間違えるような無様はしない。
「してもらおうと思ったのにざんね…ふ、んっ…」
 今度は時間をたっぷりと掛けた濃厚なキス。
 離れた後、アオイの黒瞳が妖しく溶けていた。
 シンジの唾液を嚥下してから、
「少し…甘いわね」
 少しばかり陶然とした表情で呟いた。
「あの、ちょっと」
「え?」
「僕の治療は?」
 ぽやーっとなっているアオイに促すと、アオイはくすっと笑って、
「忘れていないから大丈夫よ」
 腰を下ろして再度手を当てたが、こんな時は大抵抜けている事をちゃんとシンジは知っている。
 口づけで、シンジの患部はどこかに行ってしまったらしい。
 深紅に身をまとった時、シンジのバックアップともなれば、それこそ完璧に近い能力を発揮するアオイだが、こんな時はちょっとぼんやりしたりもする。
 だからこそ、シンジとは一心同体のように上手く行っているのかも知れない。
 もっとも、傀儡(くぐつ)化させる為以外のキスなど、シンジはまずしない。
 あるとしたら、せいぜい精移し位のものだ。
 あやつりを目的としたそれでも、レイは簡単に溶けたのに、実際の口づけともなればどんな副作用があるか分かったものではない。
 その意味では、アオイの反応もあながち無理もないかも知れない。
 とまれ、アオイは再度治療を開始し、室内には静寂が訪れた。
 
 
 
 
 
「信濃大佐、よろしいですか?」
 三十分後、ドアをノックしたのはにせリツコである。
「どうぞ」
 そっとドアを開けた途端、その足はぴたっと止まった。
(膝枕…)
 内心で洩らした通り、いつの間にかシンジの頭はアオイの膝に乗っており、すうすうと眠っている。
 いつの間にか私服に着替えているが、プラグスーツはアオイが裂いたからだなどと、無論彼女は知らない。
「お、お邪魔でしたね」
 すっと引こうとした所へ、
「ユリには、そう造られたの?」
 ぎくりとその足が硬直した。
「いつお分かりでした?」
 ユリに訊いたのか、と言わなかったのは、ユリが言ったのではないと直感で知っていたからだ。
「一目見れば分かるわ」
「え?」
「話し方もオリジナルとは違っている、ユリの作った物の特徴が出ているわね」
「は、はあ」
 ここに来る前、シンジとは違い関係職員はすべてデータを見ているアオイだが、さすがのにせリツコもそこまでは分からなかった。
「それで、彼女は今どこにいるの?」
「そ、それはその…あう」
 にせリツコは、無論リツコ本人よりメンタル面はかなり強化されている。
 それが柄にもなくうろたえているのは、シンジの妖瞳に勝るとも劣らぬアオイの黒瞳が、にせリツコをじっと見ていたからだ。
 ふむ、と僅かにアオイが笑うと、
「さてはなぶってみたかしら?」
「ど…どうしてそれをっ」
「私はシンジとは違うわ」
「え?」
「私のダミー、私は絶対に存在させないもの」
「信濃大佐…」
 何となく自分に思考が似ている様な気がして、ふっと妙な親近感が湧いた時、
「覗きに来たの?」
 冷ややかな声で言われて、一瞬で我に返った。
「い、いえっ、あのこれを」
 差し出した紙に、
「私の辞令なら小父様にもらってあるわ」
「いえ、そうではなくて、レイに持たせる陽電子砲の徴発先の地図です」
「ユリが私を引っ張り出せと言ったのね」
 
 
 
「別に強制徴発しても構わん」
 着々と進む再起動実験の準備を見ながらユリが言った。
「だが」
「はい?」
「ネルフなど、元々図に乗っているだけの組織だ。これ以上敵を作成する事もあるまい。最近は、頓に碇司令の私物化が進んでいるとの噂もある」
 にせリツコの表情が動いたのは、リツコならではの事を彼女も知っていたからだ。
「で、ですがどうして信濃大佐を?」
 この辺が分からないのは、やっぱりリツコの域を出ていないと言える。
「分からないか?」
 塵芥でも見るような視線に、にせリツコはさっさと首を吊りたくなったが、どうせならユリの糸で刻まれた方がましである。
 辛うじて抑えて、
「も、申し訳ありません」
「金髪の奇怪な女が行くより、美貌の姫が同行した方が良かろう」
 そのままずばりと言われて、にせリツコはオリジナルへの更なる復讐を決定した。
 
 
 
「お手数ですが…」
「別に構わないわ」
「えっ?」
 拍子抜けしたようなにせリツコに、
「シンジには、あの子の再起動実験を見物に行ってもらうし、いつまでもここで寝ていると、あの子に影響が出るでしょう」
 アオイが言っているのは、無論レイと零号機のシンクロ率の事である。
 レイが既に、感情を持ち合わせてきた事をアオイは知っているし、余計な負荷は今のレイには抑え得る術は無い。
 それどころか、シンジの姿が見えないだけで失敗する可能性もあるのだから。
「では、よろしいですか」
「いいわ」
 軽く頷くと、
「シンジ、起きて」
 軽くシンジの頬をつついたが、これをシンジがさせるのはアオイ一人だ。
 他の者なら、文字通りの命がけになる。
「折角寝ていたのに」
 やや危険な目でにせリツコを見たが、声は完全に平素の物である。
 だが、別に寝ていなかった訳ではない。
 ぐっすりと眠っていたのだ−そう、にせリツコが部屋の外に立つまでは。
 立った途端、瞬時に覚醒しただけだ。
「も、申し訳ありません」
「まったく」
 とは言いながらも、
「僕はレイちゃんの方の見物に行って来る」
 すっくと起きあがった。
 シンジを膝から下ろしたアオイが、
「行きましょうか」
「お手数おかけします」
 にせリツコが深々と頭を下げた時、
「じゃ、また後で」
 シンジが軽く手を挙げると、そのまま振り返らずに出ていった。
「あ、シンジ…」
 何か言いかけたが、すぐ諦めたように、
「もう、つれないんだから」
 ちらっと送った流し目は、にせリツコでさえ背筋が一瞬ぞくりとしたほど、妖しい物であった。
 
 
 
  
 
(零号機のプラグ、久しぶりね。でもそんな事より…)
 シンジが来京時、レイは初号機で出撃して大敗している。
 無論、零号機で機動実験に失敗した為であり、今急遽その実験となっているのだが、レイの脳裏にはそんな事は浮かんでいなかった。
 『お兄ちゃん遅い』
 これだけである。
 アオイを見た時、嫌な感じはしていたのだ。
 妙にシンジと仲がいいし、本来なら射殺物の大鷲にしたって、ちゃっかりとまだユリの肩に止まっている。
 並んで出ていった姿に、自分にはさせぬ事−右手を繋いでいるような気がして、レイがぶるぶると首を振った時。
「用意できた?」
 その顔がぱっと輝いたのは、無論声の主を認識したからだ。
「お兄ちゃんっ」
 弾むような声が降ってきた時、ユリの目が計器に向けられ、
「ほう、現金な物だ」
 よく分からない口調で言った。
「本当だ」
 と、これもシンジ。
 二人の視線の先には、シンジの声を聞いた途端、ぴょんと針が上がった計器がある。
「随分と慕われているようね」
「うるさい」
 ぷい、とそっぽを向いたシンジには、照れが感じられないのは気のせいだろうか。
「マヤさん、始めて」
 勝手に指示を出したシンジだが、おそらく自分が来るまでは、起動の試みなど出来ぬ数値だったろうと感じ取っていたのだ。
 そして案の定、
「シンジ君、ありがとう」
 マヤの視線はそう告げており、
「レイちゃん、いいかしら」
「はい、大丈夫です」
 随分と頼もしげな返答が返ってきたが、無論その視線はシンジに向けられている。
 リツコが起動実験をすると言った時、
「実験が成功したら、して欲しい事はある?」
 とシンジは訊ねた。
 その時レイは、
「お兄ちゃんと一緒に出かけたいの」
 と言ったのだが、それをレイはちゃんと覚えていたのだ。
 シンジと一つ屋根の下で、食事もいつも一緒だが、一緒に出かけるのは学校くらいの物である。
 とは言え、四六時中ぴたっとくっついていても、レイには余りはしなかったろう−シンジに許されるならば、
 そして、シンジが鬱陶しがらなければ、の話だが。
 何にせよ以前のレイからは考えられぬ事であり、大きな進歩といえる。
 ただし。
 それが恋人の甘やかなそれとは、やや違う事を本人は気が付いている。
 そう、むしろ人混みの中で母の手を握って離さない、子供のそれに近いことを。
 そして、大切なとは思っているが、その裏には不安がつきまとっていることも。
「あの、お兄ちゃん」
「ん?」
「私、その…がんばるから」
 シンジが軽く頷くのを見たユリが、
「起動実験スタート」
 静かな声で告げ、一斉に機械が低く唸りを上げ始めた。
 
 
 
 
 
(続く)

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