第四十一話
 
 
 
 
 
 二人が店に入ると、カウンターに座っていた若い女が、ちらりとこっちを見た。
 エプロン姿からして、おそらくここの店主だろう。
「学校はいいのか、マユミ?」
「はい、今日は」
「そうか」
 普段からさぼってるのかな、ふとそんな事を考えたシンジに、
「いつもは来ませんわ−こんな時間には」
 そう言うと、ふふっと笑った。
「顔に書いてあった?」
「書いてありました、ちゃんと」
 それはしまった、と真顔で呟いたシンジ。
 それを見て、もう一度おかしそうに笑ってから、
「奥の部屋、宜しいですか?」
 カウンターの女に声を掛けた。
 空いてるよ、と投げられた鍵を取ると、
「二階です、行きましょう」
 と、先に歩き出す。
 二階に上がった時シンジは、おやと言うように目を見張った。
 そこには、ドアがあるきりだったのだ。
 そして数メートル先には、また鋼鉄のドアが。
 三度繰り返したあと、ようやく二人は部屋のドアとおぼしき所に着いた。
「ここ?」
「和室ですが、宜しいですか?」
「何でもいいです」
 それをどうとったのか、マユミは黙ってドアを開けてシンジを招じ入れた。
 中は八畳ほどの広さで、中央には掘り炬燵がおいてある。
「機械の匂いがする」
 辺りを見回して言ったシンジに、
「ここなら誰にも聞かれませんし、密談には最適です」
 マユミが、これも真顔で言うと炬燵の上のリモコンを取った。
 ほーう、とシンジが漏らしたのは、スイッチが入ると同時に壁からモニターがせり出して来たのだ。
 そしてそこには、廊下のそれぞれの区画が映し出されている。
 更に別のボタンを押すと、室内に一瞬金属的な音が流れた、
「今のは?」
「盗聴装置は仕掛けられていません。自動探知です」
 そんな簡単に?と一瞬首を捻りかけたが、
「座っていいの?」
「あ、失礼しました」
 シンジに座布団を勧めてから、小さな台所へ立っていく。
「今、お茶をいれますから」
 いいです、と言わせぬ動きにシンジは、はあと頷いた。
  
 
 
 
 
「さて…行かなきゃね」
 まだ酒の臭いが残っていると自覚しているが、あまりのんびりもしていられない。
 元から肝臓のどこかが違うのか、臭いがあっても酔っているとの自覚はない。
「にしても」
 とミサトは呟いた。
「綺麗になったわねえ」
 どこか他人事のように聞こえるのは、実感があまり無いせいらしい。
 ふと宙を見上げたミサトの脳裏に、自分の部屋の景色が走馬燈のように蘇る。
 
 
 あの時は…汚かった。
 一人で膝を抱えていた時…論外。
 “あいつ”と貪り合っていた時…だめじゃん。
 こっち入ってから…現状維持。
 
 
 記憶を探ったが、どうやら綺麗だった時が思い浮かばなかったらしい。
「止めた、止めた。考え込んだらはげるわよ」
 さっさと逃避してからドアを閉め掛け−ふとその手が止まる。
 そう、ドアは普通に閉まったのだ。
 今まで脚の一撃をくれないと、要するに力任せじゃないと、開きも閉まりもしなかったのが、スムーズになっているのに気が付いた。
「もしかしてこれも…?」
 うーん、と唸ってから、
「碇シンジ、恐るべしね」
 呟いてから歩き出す。
 が、どうやら真似をしようと言う気にはならないらしい。
 感謝はしてもあくまで、すごいのねと言う範疇で終わっている。この辺も、ミサトらしいと言えば言えるのかもしれない。
 
 
 
 
 
「お口に合うか分かりませんが」
 と、盆に湯飲みを乗せて持ってきた姿は、なかなか板に付いている。
 それを見てシンジは、
「家事はいつも自分で?」
 と訊いた−ただし、既に知りながら。
 それを知ってか知らずか、
「母は今、家にいませんから」
「そうなの?」
「病院です」
 短く言ったマユミだが、その口調からは何の感情も読みとれなかった。
 シンジの前に湯飲みを置いたマユミに、
「で、何で僕を誘ったの?」
「少し、お話してみたくて。あの…ご迷惑でしたか?」
「もう、来ちゃったよ」
「そうですわね」
 くすっと笑ったマユミ、結構いい度胸だ。
 頂きます、と湯飲みを持って軽く回したシンジに、
「お茶を?」
「飲んでます」
「…そうじゃなくて」
「真似事ですが」
「絵になっていますわ」
「あ、それはどうも」
 一気に飲み干してから、
「なかなかですよ」
「あ、はい…」
 どう取ったのか、目元を僅かに染めるマユミ。
 一瞬の沈黙を無粋に破ったのは、無論シンジからである。
「さて、僕に何を訊きたいの?」
「あの」
 刹那、自分に勢いを付けるように唇を噛んでから、
「綾波レイさんのご両親のこと、教えていただけませんか?」
「レイちゃんの?」
「碇さんのご両親とは、どうしても重ならないような気がするのです」
「ちょっと待った」
「はい?」
「役所の戸籍には、僕もレイちゃんも載ってない筈だ。どうやって知った?」
「碇さんは知りません。でも」
「え?」
「綾波さんのは、ネルフのコンピューターにお邪魔しました」
 あっさりと言ったマユミに、シンジの口が小さく開く。
「侵入って、まさかMAGIに?」
「いいえ」
「じゃ、どこ」
「超法規機関ですが、全部を秘密にと言うわけには行きませんわ。だから、職員のデータなどは普通の機密扱いでした」
「そこにレイのが?」
「こう書いてありました−生年月日、その他全データは消去。理由は最高機密に当たるため、だそうです」
「それはまた合理的な」
 そう言えばレイや自分のデータが、どこにあるのかは知らなかったシンジ。
 てっきりMAGIが、がっちり持っていると思ったのだが、まさかそんな所にあろうとは。
「マユミ嬢」
「はい」
「首脳陣のそれも分かったの?」
 ミサトの経歴でも訊いてやろうかと思ったが、
「一般職員だけですわ。後は別の所かと」
 が、それにしたって大した物である。
「でも、一体どこから侵入したの?」
「校長室のメインバンクから」
「なんで?」
「校長室は、ネルフの本部と直通で繋がっているんです。前に校長室を掃除した時、画面が残っていました」
「無責任なおっさんだな」
「私もそう思います」
 肯定したマユミに、
「データが入ってたの?」
「いえ、綾波さんの健康状態がネルフへ送られていました」
 確かに、いつも行っている学校から日に一度送るなら、リアルタイムだと言える。
 でも、とシンジは内心で首を傾げた。
 シンジが来てからこっち、シンジは無論の事レイさえも、健康チェックなど受けている様子はなかった。
(多分、黒服が見た目で判断してたんだな)
 違和感があれば、保険医なり何なりが診断していたのだろうと、シンジは考えた。
「覗きはいけないんだよ」
 とはシンジは言わなかった。
 その代わりに、
「どうして僕にそれを話すの?僕が一言いえば、君は間違いなく数年ぐらいは出てこられないのに」
「前に碇さん、これが伊達眼鏡と言われたでしょう」
「うん」
「その通りですわ、これはあくまで飾りです」
 すっと外した下からマユミの目が現れた−妖艶で、とても危険な光を帯びた双眸が。
「本当は目もいいんです。だから」
「だから?」
「碇さんがどんな反応をされるか、位は分かりますわ」
 まっすぐに見つめてくる目は、明らかに呪縛を含んだ色を伴っていた−本人が、意識しているかは別としても。
 が。
 相手が悪かった。
 シンジの黒瞳が、それを微動だにせず迎え撃ったのだ。
 絡み合った視線の行方はすぐに知れる−マユミの上体が僅かに蹌踉めいたのだ。
 数秒の凝視でその意志さえ奪うシンジの妖光、マユミが太刀打ちするには無理であったろう。
「ところで」
 何事も無かったかのようにシンジが言った。
「レイちゃんの肩書きはどうなっていたの?」
「い、一般職員ですわ」
「一般職員…だから無給にしていたんだな」
 シンジは内心で呟いた。
 ただし、実際は全然関係無いのだが。
「教えてもいいけど、あの子に興味があるの?」
「ま、先ずは馬を射よとその…」
 消え入るような声で言ったマユミに、
「は?」
「いえ、何でもありませんっ」
 慌てて否定すると、何やら呟いている。
 どうやら、この辺の攻略は考えていなかったらしい。
 その数秒後、
「お詫び、と言うことではいけませんか?」
「お詫び…んーと、そうだった」
 思い出したようだ。
「綾波レイと僕の関係を知りたい、それでいいの?」
 こくんと頷いたマユミを、シンジは一瞬だけ見つめた。
 マユミが視線を逸らそうとするそれへ、
「あの子はクローンだよ。クローン元は、僕の母親名義の女だ」
 いきなり機密暴露を始めたシンジ、数秒経ってから、
「驚いていないね」
「驚いて叫ぶ、そう思われましたの?」
 うーん、と唸っている所を見ると、
 『もう少し驚いてほしい所』
 とか思っているらしい。
「クローン技術の、人間への応用が絶対禁止になってから、もう久しくなります。でも当然の事ながら途絶えた訳ではありませんし、何よりも以前から似たような物はありましたわ」
「似たようなもの?」
「呪符と毛髪一本で、当人と同じ姿形の人形を作る術です。私の小さい頃、母に時折怒られるのに使われました」
 マユミの表情に、どこか懐かしげな物が漂った。
「どう使うの?」
「母は、自分と同じ物を数体こしらえるんです。無論、口を利くことも動くこともありませんが、小さかった私をそれで囲ませたのです。とても…とても怖かったですわ」
 今だから笑える、と言う感じでマユミは微笑った。
 小さかった頃は、それはもう怖かったに違いない。
「いけない子だったんだね」
「そ、そんな事はありませんっ」
 ムキになってなって否定すると、
「でも、どうして碇さんの妹にされたのです?」
 真顔になって訊いた。
「クローン元は…」
 言いかけたシンジに、
「あなたに取っては、憎悪の対象でしかないのでしょう」
 マユミが言った時、一瞬だけ空気が冷えた。
「それはつまり」
 とシンジが言った。
「君はお母さんそっくりだ。僕は君の母親が嫌いだから、君とは付き合わない−と、そう言う事?」
 マユミが僅かに息をのんで、
「そうでした、ごめんなさい」
 シンジに頭を下げた。
「でも」
「え?」
「なんでそう思ったの?レイちゃんがクローンだと」
「どこか似ておられます。ただその…」
「その?」
「な、内縁の人のそれには見えなくて…」
「二号さんて事?」
「い、碇そんなストレートに」
 マユミの顔が赤くなる。
 単語によっては結構純情らしい。
「正妻なんて言葉は好きじゃない。どっちかと言えば制裁の方がいい」
 奇妙な事を言うと続けて、
「父親、或いは母親が違うとしてもそれはそれでれっきとした妹。あの子は少し違うけれど、追い出したからね」
「追い出した?」
 こっちの話、とシンジは軽く首を振って、
「さて僕のことは話した。次は君のこと、白状してもらおうか」
「は、白状だなんてそんな」
 そもそも、交換条件ではなかった筈だが。
 一瞬困ったような顔を見せたがそれでも、
「私の姓の山岸は、母方の物です。父の姓は服部でした」
「服部ってあれの?」
「そう、そのあれです。碇さんが言われた通り、小さい頃父には色々と教えられました…色々な事を」
「君のお母さんが敵う相手じゃなかった筈だけど」
 やっぱりそこまで、と小さく呟いてから、
「全部、教えていただけません?」
 少しだけ哀しげな瞳(め)でシンジを見た。
「何を?」
「私のこと…どこまでご存じなのですか?」
「知りたい?」
 訊く方と訊かれる方が逆転した問いだが、マユミは頷いた。
「一つ」
 シンジは一本指を立ててから、
「君の生まれの事は知らないよ」
「あら?」
 一瞬驚いたような顔のマユミに、
「本当だよ」
「はい、分かっております」
 マユミの口許に、うっすらと笑みが浮かぶ。
「二つ目」
 指がもう一本、すっと上がった。
「君のお父さんが、自分の妻に殺されたのは知っているよ。原因は知らないけれど。僕が知っているのはこの位だ、別にストーカーでもないしね」
「そ、そんな事は思っていませんわ」
 勢いよく首を振ってから、
「父と母は恋愛結婚でしたが、母は父が私を鍛える事には反対でした」
「熱々の?」
「そう聞かされました」
 真顔で言ってから、冷やかされたと気が付いたらしい、急にかーっと赤くなった。
「続けて」
 まだ少し赤い顔のまま、
「碇さんもご存じのように、私の生まれた直後はセカンドインパクトの直後で、治安も混乱の最中にありました。暴動も頻繁に起きていましたし、それに女性のレイプなど日常茶飯事でした」
「あのころは、記事にもならなかったんじゃないかな」
「そのとおりです」
 真顔になると、
「父は、自分が忍びの末裔だったのを利用して、私を鍛えようとしました−亜流ですけれど。犯されて泣くならそれを防ぐ力を持て、それが父の口癖でした。非力は悪ではない、でも持てる力を持たないのは悪だと」
「別に問題はないんじゃない?」
 自己防衛を持て、とマユミの父親は言ったという。
 だがその一方、持ち得ぬ者をまた否定もしなかった。
 子供の意志を別にすれば、自己防衛の理想に近い発想の筈だ。
「私は嫌じゃありませんでした」
 とマユミは言った。
「少しずつ自分の能力が伸びていくのを見るのは、子供の私には楽しい事でしたし、私が少しでも上達すると何時も父は誉めてくれました」
「いいお父さんだ」
「ええ、とても」
 マユミは頷いたが、
「ですが」
「ですが?」
「母はそれを嫌がりました。私の記憶に、父から叱られた事は一度もありません。私を叱るのは、いつも母の役目でしたから。またマユミを甘やかして、これが母の口癖でした」
「でも、呪符で人型を作るのはお母さんだとさっき言ったね。すべてを嫌ったわけではなかったの」
「全部ではありませんでした。何よりも父のプロポーズは、一生君を守っていく、だったそうですから」
 一生守る、一生愛する、神父の前で一瞬誓うだけなら誰にでも出来よう。
 直系の血流ではないと言っても、常人以上の力を持ってのそれは、きっとマユミの母に取っても頼もしい物に思えたに違いない。
 ぼんやりと考えたシンジは、ふと訊いてみた。
「女の子は女の子らしく、君のお母さんはそう言う人?」
「ど、どうして分かったのです?」
「だってそれしかないし」
「え?」
「娘を猛獣の中に送らねばならない時、まっとうな親なら完全武装させるさ。それをさせないのは娘を忌んでいるのか、あるいは騎士(ナイト)に守ってもらうと思いこんでいるのかどっちかだね」
「よく言えばお淑やかそのもの、はっきり言えば前時代的…母はそう言う人でした。だから、娘が肉体を鍛えるなど邪魔以外の何物でもないと」
「分からない事はない、三パーセントくらいだけど」
 指を三本立てたシンジに、
「あの…碇さんもそうお考えですか?」
「困るの?」
 少しだけ意地悪く訊いたシンジに、
「じゃ、じゃあ私なんか碇さんには…」
「冗談だよ」
 普通ならぴくりと眉が動く所だが、
「もう、碇さん」
 ほっとしたように、ちらっと上目遣いでシンジを見た。
「安心した?」
「はい…いえっあのっ、そのえーと」
「精神を病んで、幻覚に悩まされた挙げ句夫を殺した。幻覚には何を見たの?」
「私が父にレイプされる、と」
 マユミの口調によどみがないのは、事実無根だからだろう。
 夫にべったりな娘が、もしかしたら男と女の関係にあるのかも知れない−普通なら突拍子もない事だが、冒された精神(こころ)には珍しい事でもない。
 以前シンジは、ユリからそう聞かされた事がある。
「妬心もあったの?」
 切り込まれて一瞬俯いたが、
「そうかも知れません。どうしても父は私を可愛がりましたし、それを好まない母にはあまり…」
「でも、酔っていても素人に殺されるような間抜けじゃない。最後は、自分の身を投げ出して?」
「いいえ、違います」
 マユミははっきりと首を振った。
「母が殺そうとしたのは…私だったんです」
 
 
 
 マユミちゃん、一緒に死んでちょうだい。
 陳腐な言い方だが、愛人を殺して自分も死ぬと叫ぶ夫に浮気された女、どこかそれにも近かったのかも知れない。
 だが、出刃包丁を振りかざした狂心の妻の前に、夫は黙ってその体を投げた。
 
 
 
「オレが死ねば、あいつも目を覚ましてくれるだろうって。馬鹿でした」
 マユミの口調は、どこか冷たい物があった。
「狂っている女が、それも自分の娘を殺すような女が間違って夫を殺したからって、元に戻る訳がないのに」
 
 
 
 
  
 身体はまだ子供の物でも、身に付いた力は同じ年頃の子供を遙かに凌駕していた。
 一瞬我を見失ったマユミの一撃は、母親から二度と歩く力を喪わせるだけの物を持っていたのだ。
「血の付いた包丁を持ったまま、階段から転げ落ちている妻と、全身をめった刺しにされて死んでいる夫を見れば、何があったのか間抜けな警察にもすぐ分かります」
 そう言った時、両者の表情が一瞬動いた。
 (警察が間抜け?ふーん)
 内心で反応しながらも表情には出さぬシンジと、
 (…気づかれたかしら)
 しまったと言う思いが、一瞬だけ顔に出たマユミ。
 秒の間のそれは、結局マユミがシンジの反応に気づく事なく、
「ほ、本来ならば犯罪に寄る死亡は保険金の対象になりません」
 と続けた時、僅かにその語頭が乱れたのみである。
「でも精神を病んでいれば、特例として認められる事がある」
 シンジが続けた。
「碇さんの言われる通りです。本当なら路頭に迷うところを、そのおかげで助かりました」
「だから自分の力を押さえるようになった、そう言う事?」
「はい…でも」
「でも?」
「碇さんが言われる通り、いつも秘したままにするのはもう止めます」
「なんで?」
「そ、それはあの…」
 聞き返されると思っていなかったのか、一瞬マユミが口ごもった。
 が、すぐに気を取り直して、
「その前に一つお聞きしてもよろしいですか」
「なに?」
「あの…綾波さんはその…碇さんの恋人の…その…」
「違う、それに僕は」
 何か言いかけた時、携帯が音を立てた。
「はい僕です」
 奇妙な応対の相手はミサトであった。
「お客さんよ、シンジ君。すぐに来てくれる」
「レイちゃんは?」
「ドクターが、シンジ君一人で十分だと言われたの。すぐ来れる?」
「多分起きられないよ、僕がすぐに行く」
「分かった、待ってるわね」
 切りかけてから、
「あ、あのシンジ君」
 さっきはありがとう、と言いかけた時にはもう電話は切れていた。
 電話を切ったシンジ、
「悪いけど仕事が入った、僕はこれで失礼するから」
「あ、はいお気をつけて」
 出ていきかけてから振り返って、
「本題はもう済んだの?」
「はい、もう十分に」
 にこりと笑ったその顔には、嬉しさが隠し切れていない。
「それは良かった。じゃ、ご馳走様でした」
 奇妙な挨拶に、マユミは頭を下げて応じた。
「私の方こそ、時間を割いて頂いて…あら」
 言い終わらぬ内に、シンジの姿はもう消えている。
 シンジの湯飲みを見つめたマユミが、
「あの子は恋人じゃない。じゃ…」
 両頬に手を当てて、うっすらと赤らんだ顔で何やら考え込んでいる。
 うふふふ、と笑ったのは数十秒後の事であり、
「いいことあったみたいだな」
 鍵を返した時に声を掛けられて、
「はい、とても」
 と女オーナーが初めて見る表情で頷いて、弾むような足取りで出ていったのは五分後の事である。
「あいつ…一体何があったんだ?」
 首を傾げた時、再度サイレンが鳴った。
「そう言えば、避難命令が出ていたんだな。さて行くか」
 抑えが効かないほどに、弾んだ足取りで去っていくマユミを見ながら、シェルターに入り込むべく腰を上げた。
 
 
 
 
 
 店を出たシンジだが、あいにく車には人工知能を積んでおらず、電話で呼んでも来てくれない。
 それに、家まで戻るなら直に行った方が早い。
 幸い通りかかったタクシーを止めて、
「ネルフの正面ゲートまで最速で」
「よしきた、そーゆー客をずっと待ってたんだ」
 軽く踏んでからの、シンジも驚くような滑らかなフルスロットルで、あっという間にネルフに着いた。
 料金メーターを見て、シンジは勝手にドアを開けた。
「お金、ここに置きます」
 さては乗り逃げかと後部座席を見た運転手は、置いてある折り鶴に目を丸くした。
「札で作ってある…何だあの子供は」
 きれいに並んだ十個は、単純計算で一つ数十秒とかからずに作っている筈だ。
 が、
「ま、こっちはもらえばそれでいいんだからな」
 と、奇妙な現象を頭から振り払い、一つ一つ分解始めた。
 
  
 
 
 
「で、使徒は今どこに?」
 珍しくシンジは、プラグスーツに着替えてきた。
 レイがいないと言うのも、或いは影響しているのかも知れない。
「市街地にいきなり現れたのよ。あそこに浮かんでる奴」
「レーダーは一体何してたんだ」
 呟いてから、ふとリツコがいないのに気が付いた。
「あれ?」
 シンジの視線にミサトも、
「出ていったきり戻って来ないのよ。病院に行ってない?」
 もっともな質問だが、あいにくシンジは会ってない。
 まして、にせリツコにさんざん嬲られたなどと、知る由もない。
「いや、僕は知らないけど」
「困ったわね…まあいいわ、着替えてすぐ出撃(で)てくれる」
「分かった」
 浮いている物体に、わずかながら嫌な予感のしたミサトだったが、それを口にする事はなかった。
 指揮官の自分がそんな事を言えない、と言うのもあったが、何よりもそれが漠然としていたからと言うのが大きい。
 だから、
「初号機出撃!」
 命じた数秒後、
「て、敵内部に高エネルギーの反応ですっ」
 日向の声に、
「な、何ですってっ!?」
「急速に収束して行きます、このままでは初号機がっ」
 だが、既に初号機はカタパルトに載っており、現在打ち出され中。
「シンジ君っ、避けてっ!!」
 悲痛な声は無論シンジに届いている。
 が…。
 シンジは神様ではない。
 もう一度言うが、シンジは神様ではない。
 そして、現在シンジからは、外の様子はまったく見えないのだ。
 従って、どっちにどう避ければいいのか、まったく分からない。
「あっちゃー」
 ミサトの能力では叫ぶのが精一杯だろうと、シンジがやれやれと笑った次の瞬間。
「シンジ、右へ!」
 怒鳴ってはいないが、凍てついた冬夜さえも切り裂きそうな声が飛んだ。
 出口からした声に誰も振り向けなかったのは、むしろその声が孕んだ鬼気ゆえであったろう。
 そしてシンジもまた、それを聞いた瞬間表情が変わった。
 その双眸に一瞬光が宿り、レバーに当てた手からすっと力を抜く。
「ち、地上に出ますっ」
 震える声で告げたのと、
「たっ」
 短いが、裂帛の気合いがシンジの口から洩れるのとが同時であった。
 射出された瞬間、シンジは全重心を右肩に向けた。
 カタパルトを僅かに壊しながら、ほぼ右前のめりに倒れ込んだ瞬間、高層ビルが一気に溶ける。
 実に八つのビルを融解させ、更に勢いの止まらぬ黄金の光が初号機を襲う。
 まともに上がっていたら、間違いなく直撃だったろう。光が掠めたのは、ちょうど初号機の脇腹辺りであった。
「あちゃちゃちゃちゃっ」
 脇腹を押さえたが、辛うじて膝をついた姿勢で踏みとどまる。
 ほう、と一同が安堵した直後、本部内を一筋の矢が飛来した…かに見えた。
 それが鳥類であり、しかも猛禽と人々が知るには数秒を要した。
 そう、その鋭い爪にミサトが捕まった時に初めて。
 鋭く鳴いた声に、彼らは本能的に悟った−これは怒りの声だと。
「シンジ、無事?」
 さっきと同じ、だが打って変わった声に人々は愕然と振り向き、そしてそのまま硬直した。
 そこに立っている美女に。
 シンジと変わらぬ黒髪と、そしてその圧巻とも言える肢体に。
 何よりもその全身から吹き上げている、熱湯すら一瞬で氷柱に変えそうな、その鬼気にも似たオーラに。
「ちょっと煮えてたけどね。ありがと、アオイ」
 では彼女があの? 
 シンジの声に、本部内は辛うじて安堵に包まれた。
 だがそれをどう聞いたのか、両翼の全長五メートル近くもありそうな大鷲は、更にその鈎爪をミサトの肩に食い込ませた。
 鮮血が、その肩をみるみる濡らしていき、本部内を一瞬にして死の匂いが支配した。
 
 
 
 
 
(続く)

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