第三十七話
 
 
                     
 
 
「失敗なのはわかっている…わかっているぞ」
 自分のダミーで軍隊を作り、その閲兵式でもするのかと思われるほど、司令室は無闇に広い。
 今、その室内が完全な闇に閉ざされているのは、無論停電のせいではない。
 木製のデスクに手を乗せ、虚空をじっと見つめている部屋の主が選択した事だ。
 そう、碇ゲンドウが。
 分かっている、と思っていた−自分の息子のことを。
 原因は不明だが、想ってやまぬ亡き妻への感情のことも。
 取り上げれば反応するが、与えれば逆に見向きもしない性格のことも。
 だが。
 確かにシンジは、未だ補完計画にまで興味を持ってはいないし、最初の邂逅でレイはシンジに敵意を見せていた。
 それなのに。
「ドクターユリ…いらぬ治療を…」
 低くもらしたように、あっさりとレイを翻意させたのはユリである。
 しかも兄として妙に慕うようになった、というおまけ付きで。
 問題はユリが藪医者ではなかった事であり、そしてシンジがあっさりとレイを虜にした事であったろう。
 無論、ゲンドウはシンジより人生経験は長いが、口づけ一つで精神(こころ)ごと変えるなどと、聞いた例(ためし)はなかった。
 自由に出入りする権限を与えた結果、シンジはあっさりとレイの秘密を知った。
 だが、その後シンジは何も言ってこない。
 仕事だからと納得したか或いは−
 権限を与えていなかったらどうか?
 すぐにゲンドウは首を振った。
 ブロックされていないレイの思考など、ユリに掛かれば容易く読まれた筈だ。ユリの夭糸に、セントラルドグマまで切って回られたら、たまったものではない。
 しかも不可視の物だけに、証拠すら残らないのだ。
 俺は間違っていなかった、とゲンドウは呟いた。自分に言い聞かせるように。
 真っ黒い彫像のように、しばらくゲンドウは身じろぎしなかった。
 それが解けたのは、数分が経ってからである。
「ユイを喪った時から俺の心は決まっている…そしてその行く道も」
 サングラスを掛けた顔がすっと上がった。
「シンジ、お前は補完計画に妨げとなる。そしてレイ、お前もだ」
 闇に向かってゲンドウは、低い声で宣言した。
 データは既に、レイの精神状態が明らかに変化している事を告げている。
 だが。
 シンジを敵とする事−その意味を知らぬゲンドウでもあるまい。
 そして何よりも、魔女医ユリを敵とする事のその意味を。
 それを知りつつ冥府への道を選ぶか、碇ゲンドウ−
 
 
 
 
 
「お前も怒りを持っておったか」
 妲姫の口調にはどこか笑みがある。
 確かに妲姫の言うとおり、理不尽な怒りで襲ってきたトウジとヒカリも、あっさり許したシンジである。
 無論妲姫はそれを知らないが、短期間とは言え、その呑気とも言える性格は知っている。
 危機に際してもどこか緩んだそのシンジが見せた激情は、妲姫にしても珍しい物だったのだろう。
 そのシンジは、射抜くような視線をユイに向けている。
 そのユイだが、これも肢体は完全に変化しており、ゲンドウがいれば滂沱と落涙したにちがいない。
 その妖艶さも成熟も、妲姫のそれには遠く及ばないものの、小娘の領域は完全に脱しており、これもまた違った色香を肢体から醸し出している。
 だが。
「初めまして」
 静寂(しじま)を破ったのは、ユリの声であった。
 その声に妲姫だけが振り向いた。
「何じゃと」
「彼女とは初めてお会いした−私の知る、そして私の知らぬ碇ユイさんには」
 確信を含んだ声で、ユリはさらに続けた。
「女としての魅力、それだけで言うならば問題は無かったと言える」
 掛け値なしの賞賛に聞こえるが、ユリの口から出ると萎縮の対象にしかならないのが欠点である。
「だが母親としては唾棄すべき存在だった。少なくとも−その能力しか見ない女とあっては。とは言え、今のあなたはそれを知らない筈だ。そう、シンジが碇ユイと名の付く物を、未来永劫抹殺せんとするその理由を」
「なぜ、そう思うの?」
 あえぎにも似たような声でユイが訊いた。
 ユリの凍夜のような視線も、そしてシンジの灼熱を帯びた殺気すら、平然と受け止めながら。
「貴女は知らないからだ−私の想い人を」
 それを聞いてもユイの表情は変わらない。
 ただ艶っぽい声で、そうかしらね、と言っただけである。
 と、次の瞬間。
 急速に室内が冷えていった。
 ユリの気ではなく、妲姫の気でも無く。
 そしてユイのそれでも無かった。
「所詮はクローン、創り出されたそれに全ての記憶は残っていまい」
 三対の視線がゆっくりと動いた−髪が元に戻ったシンジへと。
 彼らの目は見ていた。
 灼熱のような殺気は消え、その代わりに凄絶な気を漂わせたシンジの姿を。
「ドクターの言うとおりなら」
 シンジは続けた。
「シンジがお前を討つ事はない、と言うことになる。碇ユイの名を冠しているとは言え、ただのまがい物だからな」
「どういう事じゃ?」
 妲姫がシンジに顔を向けて訊いた。
「ダミーはオリジナルに成りきれるが、クローンは所詮クローンと言うことだ」
 シンジは冷ややかに告げた。
「お前は俺を見た時、驚愕の表情を見せた。お前が本物と同じなら、決してしない反応だった」
 では、初号機の中にいるユイは、妲姫が想うシンジをも知っていると言うのか?
「別に構わないわ」
 ユイの声に、危険な物が混ざった。
「ほう、ではどうする?」
 冷たく嗤ったのはシンジだが、これも珍しい。
「お前を殺すわ」
 言うなり、下着姿のまま地を蹴った。
 確かに事実を知るシンジを消すのが、短絡ではあるが手っ取り早いと言える。
 だが、手をかぎ爪のように曲げたユイが、シンジに一撃を加えようとした寸前、その体は派手な音を立てて地に落ちていた。
「お前の相手はわらわであろうが。大将軍に触れる事は許さぬ」
 無論肢体に傷を残したユイを、滅せんと決めていた妲姫はシンジにも及ぶ所がある。
 とは言え、二本の指だけでその足首を掴み、宙を飛翔する肉体を地に叩き付けた、とはユリだけが見抜いた。
 シンジの方はと言うと、まったく興味がないかのように見ようともしなかったのだ。
「俺が討っては筋が立つまい」
 その言葉は、借りを作ってまで自分が討つと宣言した、妲姫への物だったのか。
 叩き付けられた瞬間、ユイはきれいに肩から落ちていた。
 受け身のような体勢で落ちると、左足を掴んでいる手を右足で蹴り飛ばした。
 妲姫が手を離すのと、猫のようにしなやかに立ち上がるのとがほぼ同時であった。
「わらわを傷つけるならいざ知らず、わが肉体に傷跡を残して消えたのはお前が初めてじゃ、誉めて遣わす。わらわに傷を残したと触れ回るがよい−あの世で!」
 次の瞬間、睨み合う二人の間を赤光が繋いだ。
 妲姫とユイ、二人の赤瞳が互いを射抜く。
 ユイは吸血鬼では無いはずだが、レイの肢体の名残なのか赤瞳は黒へと変わってはいない。
「婆さんに誉められても嬉しくないわよ」
 嘲笑ったユイだったが、同じ赤瞳とは言え吸血鬼の呪縛には及ばないと知り、一瞬だけ目を閉じた。
 おそらくは本能的な行動であったろう。
 だがそれは、妲姫の敏捷さを考慮に入れればあまりにも軽率であった。
 まして−シンジの魔力を得て、完全に本来の能力(ちから)を取り戻した事を考慮に入れれば。
 つ、と妲姫が間合いを詰めた。
 その滑るような動きに、シンジがほう、と洩らした。
 感心したらしい。
 一瞬でユイの前に迫ると、そのたおやかな手がユイの首を掴んでいた。
 ぐい、と空中に持ち上げると、
「老婆、と申したか」
 血も凍りそうな声で言った。
 幾多の王朝を滅ぼした妖女だけに、ありとあらゆる感情や言葉を受けてきたはずだ。
 だがこれはなかった。
 すなわち婆さん、などとは。
 至極単純な台詞だが、こんな事を言うものはいなかったろう。
 その素性を知る者など、今までにはいなかった筈なのだから。
 それを投げつけられて、その表情はどう変化するのか。
 いや、動かなかった。
 むしろその顔は能面のそれに近く、一切の感情が消えたようにすら見える。
「楽には逝かせぬ」
 妲姫は妖々と宣告した。
「まずは−こうじゃ」
 言いざまに、壁に向かってユイを投げつけた。文字通りに投げつけたのである。
 ベッドを巻き込みながら、まるで鞠か何かのように壁に激突した時、鈍い音がした。
 圧倒的な差であったが、シンジだけはこの瞬間に、妲姫のミスに気が付いていた。
 だが何も言わず眺めている。
「ぐううっ」
 低い苦痛の声が洩れた−妲姫の口から。
 ユイをが壁に突っ込んだ瞬間、次の一撃を加えるべく後を追った妲姫だったが、ユイの手が一本の鉄を掴んでいたのだ。そう、キャスターの間を繋ぐ鉄パイプを。
 ただこれもベッドが破壊された、とは言え簡単に取れる物ではない。シンジの施術に当たり、やわな代物をユリが用意する筈はあり得ないのだから。
 その部品を容易く破壊するところは、ユイもこれまた尋常な膂力では無かった。
 反撃の体勢を取っていたなら、おそらく妲姫とてそのままつっこみはしなかっただろう。
 いや、妲姫と呼ばれる女が、ただの女一人に退くかどうか。
 とまれ、ユイは手をだらりと伸ばしており、パイプへはわずかに手が触れているのみであり、到底痛打を浴びせる企みがあるようには見えなかったのだ。
 シンジとユリの目は見ていた−ユイの手にあるそれが妲姫を貫くのを。
 殴打、では無かった。
 突く事、でも無かった。
 一直線にその胸元へ突き刺したのである。
 豊かな谷間へ無機物が吸い込まれた、と見えた瞬間鮮血が吹き出した。
 妲姫がわずかに姿勢を崩すのを、パイプの先を掴んでぐっと押す。
 たまらず後ろへのけぞると、今度は肩を掴んで一気に押し倒した。
「なかなか利口だ」
 ユリが冷静に分析した通り、ユイはその髪を利用して妲姫の邪眼を封じていたのだ。
 妲姫の黒髪を鷲掴みにすると、そのままその顔に押しつけた。
 妲姫の上に馬乗りになって右手を足で踏みつけると、片手はその髪で顔を覆った。
 そして残る片方の手は。
「私を殺す?それは私の台詞だわ」
 ユイは血の色をした声で言った。
「お前の存在など最初から邪魔だったのよ。綾波レイを操り切れなかったのはお前のせい、シンジを物に出来なかったのも全部お前のせいよ!」
 叫んだ声は金切り声に近く、手に渾身の力を入れ更に妲姫の体を抉っていく。
「これではシンジが殺したがるのも当然だな」
 今度はシンジが冷ややかに言った。
 しかしその双眸には、目前の光景への感慨はなんら見られず、それはユリも同様であった。妲姫が討たれない、と思っているのかあるいはその行方に興味など無いのか。
 既に妲姫の胸元は朱に染まっており、その口からは一瞬悲鳴にも似た声が上がった。
 だが。
 ふとユリがシンジを見た。
「シンジ、賭をしない?」
「何を賭けろと?」
「私が勝ったら、私と一晩過ごしてもらうわ」
 ユリはためらい無く言った。
「では俺が勝ったら?」
「何でも好きにするがいいわ」
「あまり面白味は無いな」
 シンジのつれない言葉に、
「これだから私の胸がいつまでも安らがないのね」
 女でさえ惑わしそうな声で言うと、危険な色のため息をついた。
 それには答えず、
「あの女が回復するまで、俺は五秒と読んだ」
 それを耳にした時、一瞬ユイの意識がこっちに逸れた。
 あの女?回復?…違う、私ではない!
 だがそれはそのまま時間の空白を生む事となった。
「では私は」
 ユリが言いかけた時。
 妲姫の動きがぴたりと止まった。
 足掻きにも似ていたそれが完全に。
 そしてそれはまさに、ユイが妲姫の朱に染まった肢体に視線を戻し、勝ち誇った表情になった瞬間であった。
「うるさい奴らじゃな」
 妲姫は言ったのだ−完全に平素の声で。
 次の瞬間、妲姫の脚がきれいに弧を描いた。
 四十五度脚が上がり、ユイの後頭部を直撃する。
 一瞬、と呼ぶには長すぎる程の短い時間であり、一秒よりも遙かに短い間であった。
 しかしそれは、妲姫の腕が動くには十分な時間であり、その手はユイの裸体へしっかりと巻き付いていた。
 ユイの胴に妲姫の腕が絡みつく。
 その意味を知るのには秒と要さなかった−すなわち、妲姫の胸から突きだした鉄パイプが。そしてそれは、両方とも尖っていた。
 回避しようとした時には既に、その体は妲姫の上に抱き寄せられていた。
 鉄片が二人の肢体を繋ぐと同時に、この世の物とは思えぬ程の絶叫がほとばしった−ユイの口から。
 どっと血を吐き出しながら、ユイの体は更に深く貫かれていく。
 だが妲姫もまた両胸から大量に流血しており、血にまみれた二つの女体が絡み合っている様は、どこか淫靡な匂いを見る者に与える。
 ユイが逃れようと身もだえする度に、二人の乳房がこすれ合って妖しく潰し合う。
 重なった体の間から乳房がこぼれ、部屋中に凄まじい淫臭をまき散らした−いずれも朱に染まった乳房が。
 つぶし合う乳房をつなぐのは、両端を鋭利に切断された鉄パイプ。
 だが、この二人の事を考えれば一番ふさわしいかも知れない。
「一瞬油断したが、さすがはシンジの魔力じゃな」
 全身を紅に染めながら、妲姫の口調にはどこか余裕さえある。
「レイのこの体、碇シンジとは相性がいいと見える。どうした?もう終わりか?」
 傍目には相打ちに見える筈だ。
 絡まった全裸の肢体は、それぞれの胸を貫く鉄パイプで繋がれているのだから。
「意外とあっけな…」
 言いかけたシンジの言葉が止まる。
 その表情が動いたのは次の瞬間であった。そしてユリも。
 二人はユイの手が動くのを認めた。
 明らかな意志を持って。
 そしてはっきりとした力を込めて動くのを。
 床を押そうとしていた手が、妲姫の肢体へと回ったのだ。
 逆に貫き返すかのように、両手でその体を全身の力で引き寄せた。
 今度こそ、二つの女体が完全に絡み合う。
 或いは、姐姫の肉体がまだ完全ではないと読んで、どちらが先に果てるかと、賭けに出たのか。
 その間を繋ぐはずの鉄器は、いずれの体に深く食い込んでいる?
「面白い真似をするの」
 室内に妲姫の哄笑が響き渡る。
 しかしそれを聞いた時、二人の反応は異なっていた。
 シンジは黙然とそれを聞き、そしてユリは。
「妨げとなるか」
 その言葉に、シンジがちらりとユリに視線を向けかけた瞬間。
 信じがたい事だが、絶叫は二つ上がった。
 すなわち、妲姫とユイ、その双方の口から。
 その魂のみを移植された筈ながら、生命力は妲姫に匹敵する物となりうるのか、ユイは妲姫の肩を掴むと体勢を入れ替えた。
 互いを貫き合う肉弾戦なら、下が有利とユイは踏んだのか。
 だがそれは、妲姫の前には抵抗になどなりえない筈であり、あっさりとその繊手がユイの首をねじ切る筈であった。
 それなのに、それなのに妲姫の口からは確かに苦痛の叫びが上がったのである。
「寝床には毒でも仕込んであったのか?」
 振り向いたシンジに、ユリは軽く首を振って否定した。
「碇ユイの妄執が、綾波レイのそれを上回っただけの事よ」
 その言葉に、シンジの視線がユイに向いた。
 苦痛に顔を歪めているもう一人の女へ。
「そうか、そう言うことか」
 二秒後、シンジは納得したように言った。
 ユイの魂を移植したそれは−まがい物ではあるが−これもレイの肢体である。
 水槽から掬って来たそれには、ユリの手によって仮の人格が植え付けられている。
 とは言えそれは文字通り仮の物であり、妲姫が眠っていた綾波レイのそれとは比較にならない。
 シンジに対して抱くその妄執が、にせレイの中にあった仮人格をあっさりと破壊し去ったのは当然の結果と言えよう。
 だが妲姫の方は。
 確かにシンジの莫大な魔力は、妲姫にその本性を顕現させる程の力を与えた。
 そしてレイとシンジの相性も幸いし、拒絶反応が出ることは無かった−即座には。
「拒絶反応、か」
「少し違うわ」
 否定したユリの声は、既に医師の物へと戻っている。
「確かにシンジから吸い取った魔力は、常人のそれとは比較にならない。ただし、完全では無かったのよ」
「底知れぬ物も、いったんは枯れると言うことだな」
「ええ」
 シンジが分析した通り、確かにシンジの魔力はほとんど底なしである。
 その代わり、常に無尽蔵の物を蓄えている訳ではないのだ。
 最初に妲姫に吸われた時、血でもないのによろめいたのがその証と言える。
 普段体に帯びている魔力、それ自体も常人とは桁違いであり、回復もまた異様な程の速さを誇る。
 と言っても、帯びる量自体には限度があると言うことだ。
 そしてそれは−
「綾波レイの意識を完全には押さえきれなかったか」
 無論、レイの意識が戻っている訳でも、別人格として稀代の妖女を押さえ込んでいる訳でもない。
 第一、レイにそんな力などはないのだ。
 単に…そう、単に妲姫が本来の姿である吸血鬼で在る為には、そしてその圧倒的な力を存分に振るうには、ほんの少し妨げとなっただけである。
 ただしその代償は、幾千の星霜を思うがままに生き、意の赴くままに王朝さえも滅ぼしてきた妖女に、力で逆転を許すという屈辱の結果となった。
「お、おのれ、おのれっ」
 妖女の咆哮が室内の窓を震わせる。
 室内は結界が無い代わりに、窓に貼られた呪符が防御壁の役目を果たしており、室内で機関銃を乱射してもまず破れない。
 と言うよりも、物理的な攻撃はほとんど利かないのだ。
 その窓がびりびりと震えている−妖女の悲鳴で。ただその声だけで。
「陽光を恐れぬ吸血鬼など、この世に出してはならん。とは言え、このまま事態が推移すれば、綾波レイもまた命運を共にする事になる」
 ユリの手が、ミリの動きを見せようとしたその刹那。
 妲姫とユイ、いずれの顔も既に紅に彩られているが、自分の血なのか返り血なのか、それすら分からぬ程、両者は大量に出血していた。
 一対一の死闘、に見えたそれが突如変化した。
 妲姫の唇が動いたのだ。
「あなたのせいで、もう少しでお兄ちゃんに討たれる所だった」
 確かにそう言ったのだ…綾波レイの声で。
 幾千の歳月を生きた妖女のそれではなく、シンジの妹の名を冠された少女の声で。
 妲姫の完成された肢体が、急速に戻りつつあるとは先にシンジが気づいた。
 そしてそれは、理由は不明だが既に妲姫の刻(とき)ではなくなっている事の、証でもある。
 だがその胸には、未だ折れた鉄器が刺さったままである。
 ユリの表情に驚きにも似た何かが走り、その指先から死を奏でる糸を送ろうと、動きを見せた。
「大丈夫です」
 その言葉を聞いた瞬間、ユリの手がすんでの所で止まった。
 その胸の傷は互角の物とはいえ、到底軽傷ではない。
 にもかかわらず、レイの声にそれを感じさせる物は全くなかったのだ。
「大好きな兄に討たれるなら本望。でも私の願いはずっと妹でいること。それが破談になりかかったお礼はするわ」
 変貌に、何よりもそのダメージが感じられないことに驚きを感じていたのは、シンジとユリだけではなかった。
 その身に鉄器を差し込んでいるユイもまた、突如の変化に一瞬驚きに囚われていた。
 しかしそれも束の間、今度はユイが哄笑した。
「小娘が、シンジごときに魂の随まで魅入られた愚か者が、この私を殺す?戯言はあの世で−」
「いいえ、この世でよ」
 かは、とユイが口から鮮血を吐き出した。
 何が起きたのか、見ている本人すら分かっていなかったに違いない。
 今レイは、ユイの上になっている状態である。
 そのレイがすっと起きあがったのだ−胸の谷間から生えている鉄器を、両手を当てて引き抜いて。
「ぐ…ううっ」
 わずかに苦痛の声が洩れたが、それでもその手は止まる事無く体から引き抜いた。
 仁王立ちの姿勢になると、胸の傷を右手で庇うように抑える。
 鉄器が刺さった時は妲姫だったとは言え、今はレイの刻であり、しかもその肢体すら元に戻っている。
 辛うじて立っているものの、急速にダメージがわき上がったのか、ふらりとよろめいた。それを見て、ユイもまた体に鉄を残したまま妖然と立ち上がる。
 だが。
「これは…読めんな」
 シンジの言葉は真実であったろう。
 形勢逆転と、ユイがその手をレイに伸ばしたその刹那。
「束の間とは言え、このわらわを押し込めるとは。やるのう、綾波レイよ」
 妲姫がにたりと笑う。
 しかしその口元には、さっきとは違って乱杭歯が無い事に他の者達は気づいていた。
「完全ではないな」
 シンジのそれを聞いて妲姫が振り向いたが、この展開はユリをもってしても、そしてシンジをもってしても読めなかったであろう。
 妲姫の本性、完全に戻ったそれが吸血鬼であったこと、しかもその妲姫がユイと互角の血闘を演じる事になる、などとは。
 おまけに、その最中に綾波レイに戻る、などという事は。
 そして今は、また妲姫のそれに戻っているのだ−その肢体ごと。
「小娘に精を無断で使われるとは、わらわも落ちたものよ。そうは思わぬか?将軍」
 シンジの返答より先にその手が動いた。
 にゅっと伸びた手が、ユイの首を掴んで軽々と宙に持ち上げた。
「わらわにこれほどの傷を負わせたのは、田村麻呂以来であったかの。誇りに思うがよいぞ。そして触れ広めるがいい、あの世でな」
 その肢体は、未だ紅にまみれてはいるが、さっきのような隙は微塵もなく、まるで別人のようにすら見える。
 それどころか、圧巻な迄の格の違いを見せつけて、一気にその手に力を加えた。
 気道ごと握り潰すかと思われた直後、その手の力がすっと緩む。
 もはや身動きすら出来ぬユイを引き寄せると、その首筋に牙を突き立てた。
「ほう」
 と呟いた声は、或いは二人同時だったかもしれない。
 血潮が迸るかに見えた刹那、ユイの体から灰色の煙が立ち上ったのである。
「『灰か』」
 今度は、明らかに同時に声がした。
 そしてその言葉通り、ユイのその肢体はつま先から急速に煙と化していったのだ。
 からん、と乾いた音がした。
 妲姫に噛まれたそれが何をもたらしたのか、ユイは完全な灰と化した。
 無論その体には折れた鉄器が残ったままであり、どこか哀しげな音を響かせたのはそれであった。
 灰色に似たような色の塵が、妲姫の足下で小さく渦を巻いた。
 女同士の死闘の終焉には、相応しい情景かも知れない。
「武人の頃を思い出さぬか?」
「かも知れんな」
 シンジは軽く頷いた。
 足に絡みつくように渦巻くそれを、妲姫はぐにゃりと踏みつけた。
 まるで固形物の反応のようにそれが崩れ、四散するのを冷たく見下ろして、
「さて、残るは一人じゃの」
 す、とユリが一歩前に出た。
 ゆっくりと倒れかかる肢体を支えた時には、無論戻っていることは見抜いている。
「お見事」
 妖しい色で囁くと、うっすらとレイが目を開けた。
「ユリ…さん…」
「娘の執念が、数千年の星霜すらなお抜いたか」
 シンジの声に、レイの目がそっちを向く。
 自らの体から鉄が生えても変わらなかった表情が、シンジを認めた途端すうっと青ざめていく。
 どうやら、以前の事を思い出したらしい。
「何を思い出したのやら」
 興味の無さそうな口調で言ったのはユリであった。
 かくん、と首を垂れたレイを抱き上げながら、
「古の地で何の砂塵を見たのか、私と一晩」
 言いかけた言葉が止まった。
「一晩がどうかした?」
 訊ねた声はこれも戻っている−レイのお兄ちゃんに。
「僕などに用は無い」
 冷たい口調だが、普段よりも幾分尖って聞こえるのは気のせいではあるまい。
 抱き上げたレイの胸元を見ながら、
「重傷ではないが、一日くらいは完全安静が必要だ。使徒の訪問は、君が応対する事になる」
「ここでもかい?」
 奇妙な質問に、ユリの表情がちょっと動いた。
「診療記録が残っているが、見てみる?」
「いらない」
 シンジはあっさりと首を振った。
「どうせミスと隠匿の繰り返しだろ。藪ばっかりだ」
「私の両親なら、とっくに医師免状を没収して永久追放の所よ」
「そんなにひどいの?」
「シンジが病院勤務するのと変わらない」
「じゃ入れ替えに時間が掛かるね、どのくらい?」
「患者の搬送手続きは全て済んでいる。殆ど総入れ替えになるから」
 レイを抱えたままちらっと宙を見上げ、
「まず四日」
 事も無げに言ったが、勤務体制のシフト変更から役職の割り振りから、普通ならば到底出来ぬ日数である。
「誰が面倒見るの?」
「私だ。何か問題でも?」
「けが人を襲うなよ」
「弱ってる方が扱いやすいのだが」
「どこで扱いやすいんだ、この」
 何やら言いかけたが途中で止めた。
「モミジのおかげで楽にはなったけど、少し疲れた。後はよろしく」
 歩き出しかけてから、ふと足を止めてレイを見た。
「すやすや眠ってるね」
「怪我は無いはずよ−ほとんど」
 奇妙な事を言ったユリに、
「あれは、変わったんじゃなくて代わらされたんだ。この子の故意かな」
「単に力の計算なら、到底その答えは出てこない。おそらくは偶然の産物」
 言葉を切るとシンジの顔を見た。
「果報かね」
「さあね」
 取り出した布は濡れており、あちこちに血が残っているレイの顔を、丹念に拭っていった。
「普通は血の色で妖しく見えるんだけど、レイには血が似合わない」
「何なら似合うと?」
「水」
 一言返すと、そのまま部屋を出ていく。
 窓に貼ってあった呪符が、細かい紙片となって床に落ちたのは、シンジが部屋を出てから三十秒あまり経ってからであった。
 黙って眺めていたユリだが、
「まずはお疲れ。ゆっくり休むといいわ」
 二つの影が一瞬重なった時、レイの肢体がぴくりと震えた。
 
  
 
 
 
(続く)

[TOP][BACK][NEXT]