第三十六話
 
 
 
 
 
 ダミーとクローン。
 本体の写しでありながら、そのつくりは根本的に異なっている。
 すなわち、細胞レベルから移植してきたクローンは、あくまでも写しであって本体にはなりきれない。
 無論、これが羊や牛になれば話はまた変わってくる。
 既に牛や羊のクローンはあるが、ジンギスカン用に作った羊のクローンが、生まれてみればバッファローに変わっていた、と言うことは未だないからだ。
 細胞配列に違う物を組み合わせれば、パターンの一つとしてはあり得るが現時点では行われていない、とされている。
 が。
 碇ユイを引っ張ってきて、レイと並んで立たせた場合、二人は非常によく似てはいるが、明らかに別人である。
 少なくとも、双子になど間違える者はいるまい。
 では、シンジが呪符一枚と頭髪一本で創るダミーはどうか。その言葉の通り、誰が見ても本人と同じ姿形である。
 しかも呪符を使用した場合、その能力までも瓜二つとなる。
 従って、現在ウェールズでモミジの抱き枕となっているシンジは、肉体のみを与えられた、やや特殊なケースと言える。
 さらに大きな差は、その思考能力の差にある。
 既にユリは、移植用にクローンを一体地下からさらってきたが、その思考は言うまでもなく二人目のレイとは異なる。
 何よりも、既に地に出たクローンの記憶など持ってはいないのだから。
 その点ダミーの方は、シンジと記憶の共有は勿論、その能力までもほぼ同じである。
 ただ、全体的な物ではどうしてもマスターには劣るのだが。
 ゲンドウへの服従を植え付けられたクローン。
 レイがそれを断ち切ったのはキスであった−そう、魔女医ユリの催眠キス。
 もっともそのせいで、色々とおまけがつく事にはなったのだが。
 その一つがかすかに眠っていたユイの目覚めであり、そしてもう一つが、希代の妖女姐姫の目覚めであった。
 妖姫が、レイを忌むべき物としなかったのは幸いであったろう。数百の眠りを経て、数多の王朝を滅ぼした妖女も、この娘は気に入ったのかも知れない。
 だがその勘気はクローン元へと向けられた−すなわち、碇ユイへと。
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
「ご用意、出来ております」
 部屋の入り口で、サツキは入ろうとはせずに深々と一礼した。
「意識は?」
「既に昏睡状態に入っております。術後までは、まず目覚めないかと」
「分かった」
 軽く頷いたシンジが、ドアを開けて中に入っていく。その姿は全身純白だが、いつもの格好とは違う。
 烏帽子こそ身に着けてはいないが、完全に神主並の服装であり、全身を道服で包んでいる。
 室内は至って簡素な、と言うよりは殺風景であった。簡易ベッドが二つ置かれているだけで、結界すら描かれていない。
 だが、既に消された電気の光と代替品の蝋燭とが、どこか不気味な雰囲気を醸し出しており、入るなり常人にも分かりそうな妖気がシンジを迎えた。
 二つのベッドには、いずれも半裸のレイが横たわっている。無論片方は、ユリが地下の生簀から持ってきた物だが、厳密にはクローン一号と二号、そう称した方が正しいのかもしれない。
 ただし二人の格好は少々異なる。
 にせレイの方はブラとショーツを身につけているが、レイの方はなぜか、ショーツだけ身につけて横たわっている。 
 そして、二人の手首は絹糸で軽く繋がれており、その中心点には呪符を練り合わせて作ったと思われる、これは奇妙なテルテル坊主がぶら下っていた。
 どこか遊んでいる風情もあるが、それでも室内には凄まじいまでの妖気が既に漂い出している。
 しかもその発信源はレイの身体ではなく、テルテル坊主からであった。
 人格の移植には中継が要る。
 初めてのそれは同一のクローン間と言う、シンジに取っても初体験だが、既に必要な妖気は充ちている。
 すなわち−並みの者では室内にすら入りえないほどの妖気が。
 軽く九字を宙に描くと、シンジは横たわっているレイの顔をちらりと見た。
「楽にしてあげるね」
 奇怪なことを呟いたシンジの表情が、わずかに動いたのは次の瞬間であった。
 室内の妖気はシンジの熾した物、だがそれとは異なり、そして更に強烈な妖気がレイから漂い出したのである。
 レイの眼が開き、ゆっくりと身を起こす。
「シンジよ」
 やや低めの声で呼んだのは、無論姐姫である。
 普段は妖気溢れるとは言え、その声は幾分レイのそれに近く、悠久の時を思わせるそれにはやや遠い。
 まして、もう一人のシンジへ向ける声ともなれば、その辺の小娘に似た物すらある。
 しかし今シンジを呼んだのは、幾千の星霜を生きてきた、まさに貴人のそれを兼ね備えた声であり、
「何」
 答えたシンジの声も、これまた妖々と危険な気が満ちている。
「失敗(しくじり)は許さぬぞ」
 恫喝ではない。強制でもない。
 しかし一切の異論を許さぬ、悠久の凝縮とも言うべき命令であった。
 シンジがこの声を聞いたのは初めてであった。
 そして、
「分かっている−姫」
 こう返したのもまた。
 妖姫がレイの中に目覚めた後、その肢体に触れたのはシンジしかいない。
 例えそれが、綾波レイの時刻(とき)であったとしても。
 全裸の肢体を気にする素振りすら見せず、
「お前、初めてか?」
 姐姫が訊ねたが、サツキがレイの腕に射ち込んだのは、動物用の強力な麻酔だったとシンジが知ったら、驚くだろうか。
「人格−ペルソナの移動なら一度だけ見た」
「頼りにならぬやつじゃが、おらぬよりはましじゃな」
 随分な言われようだが、姐姫がすうっと目を閉じかけたところへ、
「おい」
 今度はシンジが呼んだ。
「なんじゃ」
 姐姫は目も開けない。
「口づけを」
 奇妙な宣告だが、シンジの口調に変化はない。
「好きにせよ」
 姐姫の声にもまた。
「では」
 シンジのやや赤い唇が、すっと姐姫の顔へと近づく。
 重なった唇の間で、どっちの舌が相手の口腔へと入り込んだのか。舌が絡み合ったにも関わらず、音は全くと言ってもいいほどにしなかった。
 二人の顔が離れた時、その間を透明な糸が一瞬繋いだのが、わずかな証となったのみである。
 そして。
 シンジは二歩後退った。いや、それは正確な表現ではあるまい−シンジはよろめいたのだ。
「術の程度しか残していない」
 シンジの声は僅かにかすれている。
 それをどう聞いたのか、
「礼を言う」
 だが、自分たちの王朝を滅ぼしてきた妖女が、こんな所で少年の口づけを受けているなどと古の王達が知ったら、間違いなく驚愕するに違いない。
 姐姫の手は腹部の上で、軽く組み合わされている。
 しばらく前、レイはシンジと混浴したにも関わらず、その裸身を見てはいない。その身にただ一箇所の痕を残すシンジは、それをレイには見せなかったのだ。
 一方シンジはと言うと、既にレイの肢体は見慣れている。何よりも、地下の水槽では全裸のレイの大群と対面しているのだ。
 それだけに、レイの肢体はほぼ知っているシンジだったが、既にレイの肢体には異変が起き始めていた。
 正確には、姐姫へと変わって戻りかけたと言った方が正解だろう。
 胸の隆起も、そして腰のくびれも。
 ほぼ無尽蔵に近いとは言え、急激に吸い尽くされれば一度は空に近くなる。
 シンジが自らの魔力を、殆ど全て姐姫に与えた結果であった。
「始める」
 一言シンジが告げた時、ドアが開いてユリが入ってきた。
「あっちのリツコはどうした?」
 訊きながらもシンジは、にせリツコが室内の妖気に中毒ったことを、ほぼ看破していた。思考にユリが手を入れたとは言え、ほぼオリジナルのリツコに近い存在であり、この妖気にはおそらく耐えられまい。
 そして、シンジが読んだ通りとなっていた。部屋の外に置かれた長いすに、にせリツコは横たえられていたのである。
「所詮は生身、役立たずだ」
 冷たく言った後、ふと気が付いたようにシンジを見た。
「随分とやつれたね」
「血を抜いておいた」
 その言葉に、ユリの視線がレイの肢体に向いた。
「なるほど」
 一目で、その肢体の変化を見抜いたらしい。
 そのユリへ、
「多分部屋が保たない。窓にこれ貼って」
 渡された呪符を、ユリが次々と窓に貼り付けていく。
 九枚全部を貼り終えた時、室内の妖気が一瞬だけ緩んだ。呪符が室内の妖気を、僅かに抑えたのである。
「そこで見物していて」
 ユリに告げると、ポケットに手を入れてなにやら取りだした。
 中から取り出したのは、一握りの米粒。
 姐姫の枕元に、それをさらさらと蒔いていく。
 丁度頭の周りを一周するように散らすと、今度は人型に切った呪符を取り出した。
 シンジがしようとしているのは、撫で物の応用である。
 撫で物とは、簡単に言えば呪符に病や災厄を移して、自分の身代わりにしようと言うものだ。
 一般的には患部に当てたりする事が多いが、なる前から厄除けにする事もある。
 すなわち、呪符に移すのを厄災ではなく生命体にしようと言うのだ。
 シンジは、ユイがセントラルドグマの水槽へ行ったことは知らない。従って、シンジから受けた傷が完全に癒えた事は知らないが、移植の妨げにはならないと踏んでいる。
 すなわち、今のレイの身体にいては具合が悪いのだ。シンジといる間はレイの意志が強く、滅多なことでは出てこられない。
 しかももう一人、希代の妖女までもがその出現を阻んでいるのだ。
 強引に引き出すまでもなく、あっさりとクローンの予備体に移る、そう読んだからこそシンジも施術に踏み切ったのだ。
 そうでなければ、幾らシンジと言えども躊躇っただろう。最悪の場合、レイの人格だけ消滅しかねないからだ。
 だが今、少なくともユイは確実に引っ張り出せる。ただ自分の手で討てないのは、かなり悔しがっている風情があるが。
 とは言え、それも黄昏の街で幾分は薄れた。後は施術のみである。
 二人のレイを繋ぐ糸の間から、シンジはテルテル坊主を取りだした。その代わりに人型に切った呪符をぶら下げる。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・前・行…」
 印字とともに、ゆっくりと九字の呪を唱えていくシンジ。
 ところで、室内に入ったシンジはベッドに歩み寄る時、やや奇妙な歩き方を見せていた。奇妙な、どこか引きずるような歩みに近いのだが、別に痛めた訳ではない。
 中国は夏王朝、その始祖であり夏伯とも呼ばれた禹の伝えた歩法、すなわち禹歩の法と呼ばれるものである。
 元より魔よけと清めにその根を見出せるが、日本に伝わったそれは反閇(へんばい)と呼称されているのは、つとに知られる所である。
 『荀子』に言うところの「歩相過ぎず」であり、後ろの足は前足のそれを追い抜かないとされている。
 従って当然のように、引きずっているように見える歩法になるのだ。
 元よりモミジを招聘せず、自らのみで行うと決めたシンジ。室内には結界すら、敢えて張り巡らされてはいない。
 窓の結界は、部屋を保たせる為であり、術を助けるそれとは違う。
 実際の医術とは違うが、最小の物で最大の効果を得る為には、その歩行一つ取っても基本に則ったものでなければならないのだ。
 二つのベッドの間、二人のレイを分断するように立ったシンジの口から、更に低く呪がこぼれていく。
 一度唱えるのにおよそ三十秒。
 一分間でほぼ二回の計算だが、三分も経たぬ内に、早くもシンジの額には汗の珠が浮かんでいた。
 五分、六分と唱言は続くが、何も変わらない。
 室内の妖気は、依然として所々に蟠りながら渦巻いており、黒衣のケープに身を包んでいるユリも微動だにしない。
 だが七分が経った時、僅かに室内の気が乱れた。二人のレイを繋いでいた糸が、わずかに光り始めたのである。
 真っ白な絹糸が段々と光を帯び始め、そしてそれはどこか血の色に似ていた。
 そしてそれと同時に、レイの肢体にも変化が現れだしたのだ。腹部、ちょうど臍の上辺りだろうか、ゆっくりと気が渦巻き出した。
 透明な、しかし肌に感じられるほど充満していた妖気が、はっきりと目に見える形を取りだしたのである。
 少し濁ったような、と言うよりどこか竜巻の渦にも似たそれが、文字通りの渦となってレイの身体の上をぐるぐると回っている。
 それを察知した時僅かにシンジの眼が細まった。
 その視線は、まるで射抜くようにレイの肢体へと向けられている。
 レイの乳房の上、ちょうど乳首を取り囲むような感じで、これも小さな玉の汗が浮かび出し、それに伴ってその吐息がかすかに荒くなる。
 組まれていた手が解けたのは、その直後の事であった。
 そして微妙な震えを見せながらその手は胸へ−
 その表情は、既にオリジナルのレイの物へと戻っている事を示しており、妙なことにその眉には僅かに愉悦の表情すら見える。
 手がゆっくりとたどり着いた先は自分の乳房であり、自慰と言うには余りにもたどたどしい動きで胸に触れた。
「はう…んん…」
 喘ぎ声がその唇を割ったが、盛りの男女であればそれだけで達しそうな声であった。
 しかも、レイが声を洩らしたのは自分の肢体に触れる前だったのだ。
 もどかしげに胸を掴んだ手が止まったのは、次の瞬間であった。
 ちょうど−使い方の分からぬ武器を与えられた兵士のように。
 微妙に動く指を見て、
「一度も経験は無いと見える。淫乱な姫とは大違いだ」
 分析するような言葉にも、どこか針のような棘がある。
 やがて桜色の乳首に指が触れたとき、軽く電流でも流れたかのように、その体が一瞬びくりと揺れた。
 あたかも身悶えするような動きは、見入る者達から容易く理性を奪うに違いない。
 ただし、ここにいる者達以外ならば。
 全身を妖しく揺らした刹那、レイの唇が小さく呟いた声に、シンジは素知らぬ振りを決め込んだ。
 だが、
「唇が動いた−誰かの名前を呼んでいたようだったが」
 事実の指摘に、シンジは顔を向けぬままうるさい、と言った。
 ただし、迫力は殆ど無い。
 自らの果実に触れたレイだが、その指は動きを止めていた。そう、何か異物を感じ取ったかのように。
 そしてその異物の正体は、すぐに明らかになった。
 レイの指が、ゆっくりとではあるが自分の胸にのめりこんでいく。既にユリは、レイの震えが異なり出していることに気がついていた。
 どこか快感に震えている節があったのに、それが何かを、まるで痛みか苦しみをこらえるかのように、ぶるぶると震え始めていたのだ。
 そしてユリはもう一つの事にも気付いていた−すなわち、レイの身体が微かにかすみ出していることに。
 今、自分の胸に食い込んでいる筈の指は、ぼうっと霞んで見えているのだ。
 胸にたどり着くまでは、ごく普通の少女の自慰に見えたが、レイの指は未だ未体験を示していた。
 にも関わらず胸に伸びたのは、姐姫やユイの影響ではなく、呪の与えた快感が大きかったせいだ。
 そして。
 今レイの指が、自らをかきむしるような動きを見せているのもまた。
 多重人格者から、人格の一つを出す施術にユリは付き合った事がある。
 その時に、患者はこう言ったのだ。
「まるで、三つ子を産み落としたようでした」
 と。
 レイは多重人格者ではない、それは明らかに別人である。
 稀代の妖女妲姫も、そしてクローンの破片とは言え碇ユイも。
 そして何よりも、シンジの妹である綾波レイも全て。
 快楽の次は苦痛に見舞われているレイ。それを見たせいか、シンジの口から再度、低い声で呪が唱えられ始めた。
「臨・兵・闘・者・皆・陳・列・前・行」
 既に額には大粒の汗が浮かぶシンジだが、その唇が九字の呪を数度呟いた時、こんどは苦痛に身をよじっていたレイの動きが、わずかながら緩んだ。
 それを見て、小さく息を吐き出したシンジだが、詠唱はまだ止めない。
「は…ううっ」
 シンジとユリ、二対の視線が追った−レイの手がショーツにかかるのを。
 だが、レイの手がその中に差し入れられる事はなかった。その手は、下着の上からぐっと掴んだのである−まるで、出てくる何かを拒むかのように。
「オン」
 シンジが短く呟いた。
 それと同時にその手が印を解き、手から人型の呪符が飛んだ。
 空を切って飛んだそれは、まだ発光を続けている糸にぴたりと貼り付いた。レイの手が止まったのは、その二秒後の事である。
「肉体が分かれたか」
 ユリの声には珍しく、かすかな驚きが混じっていた。
「生ゴミだからな」
 シンジの声が重いのは、疲労のせいだけではあるまい。
「魂の剥離が肉体のそれすら生んだか。だがなぜ?」
「さてね」
 レイに近づいたシンジが、何を思ったかそのショーツの上から軽く触れた。
 秘所へ軽く置かれた手は、彼女が起きていればどんな反応をしたものか。
「行くがいい−汚れた霊の終着点へ。その宿る場所を求めて出るがいい」
 冷たい、と言うよりどこか嫌悪すら感じられる声で、シンジは誰かに語るように呟いた。
 レイの肢体から目を離し、シンジは後ろを向いた−何かを確認するかのように。
 そしてそれを待っていたかのように、空中には異変が生じていた。すなわち鬼火が。
 やや天井より、ちょうどユリの顔の辺りの高さだろうか、室内には突如として青白い炎が出現したのである。
「まずはお疲れ」
 それを見たユリが、奇妙な事を言いだした。
 その紅い唇がわずかにすぼむと、鬼火に向かってふっと息を吹きかけた。その息がかかった瞬間、見つめられるのを羞じらうかのように妖火が揺れる。
 それには目もくれず、シンジの視線はただ一点二人を繋ぐ糸に向けられていた。
 所々千切れかかったような糸は、既にその光を喪いかけている。
 その代わりでもあろうか、人の形をした呪符が糸の光を吸い込むように光っており、なぜか重量すら増したかのように揺れている。
 それはかなり異様な光景であった。
 室内の光は蝋燭のみだったのが、鬼火の出現で一気にその明るさを増したのだ。その火に見守られるかのように、呪符が奇妙な動きを見せた。
 一体どんな力が働いたものか、それは勝手に動き出したのである。
 無論シンジは動かしていないし、不可視の糸が動きを与えた訳でもない。
 なのにそれは更に動き続け、さっきから身動ぎしないにせレイの胸の上に、ひょいひょいと乗り移ったのである。
 シンジは見ていた。
 その呪符が、にせレイの胸にぴたりと貼り付くのを。
 そして、わずかに赤い光を帯びると同時に、にせレイの胸が上下し始めるのを。
 少しの間、胸は波打って鼓動を示していたが、数十秒もしないうちにまたさっきと同じ状態に戻った。
 殆ど吐息も立てぬ状態で、再度昏睡状態に入ったかに見えるにせレイ。
「以上」
 ぽつりと洩らした声には、疲労よりも安堵の響きが強かった。
 ちら、と後ろを眺めたシンジに、
「これを」
「ん?」
 差し出された呪符をシンジは手に取った。
「これは…食用だな」
「ウェールズから特航便で届いた」
 なお特航便とは、料金が通常の十五倍取られる代わり、早さも五分の一と言われる制度である。
 鳩の形を取ったそれを見て、シンジの口許がほんの少し緩んだ。
 鳩にしては少し変わった形のそれに、
「レース用の伝書鳩かな?サブレで良かったのに」
 小さく呟いたシンジに、
「なにか?」
 ユリがじっと視線を向けた。白衣のユリにこの視線で見つめられたら、どんな者でも一週間は寝込むと言われている。
 しかも今は漆黒のケープに身を包んでおり、そこから伝わる気は尋常ではない。
 シンジは僅かに顔を背けると、その視線をやり過ごした。
「ありがとう」
 短い言葉は、遠い地の少女へ向けられたものであった。
 全精力を移したその術は、単身で施術に臨むシンジを案じて、モミジが自らを顧みずに用意したものだ。
 呪符を丸めて口に入れると、わずかに甘い香りがした。
 シンジの脳裏に、とある少女の姿が浮かぶ。
「お見事」
 その言葉通り、咀嚼して飲み込んだ瞬間、みるみるシンジの魔力は戻ってきたのだ。
 これが式神ならば話は違う。それに自分の魔力を封じ、つまり分身と為して呪いに生かせると言うのはごく初歩だからだ。
 だが誰か移すためのもの、となるとこれは難しい。
 撫で物にもどこか通じるが、契約した者同士でなければまず行われない。魔力の波長は各人で異なるのが普通であり、それは指紋同様重なる事は絶対にない。
 それを同化させるのが契約なのだが、土御門ではここ十代あまりの当主は一度も行っておらず、土御門以外にそんな儀式を出来る所はない。
 従って、見本がいないのはおろか、僅かでも気が緩めばたちまち毒符と化してしまうのである。
 遠い異境の地へ、主の言葉が届いたかは不明だが、不死身とは言え全精力を使い果たしモミジに取っては、最大のご褒美となり得た事は想像に難くない。
 シンジが腕を回しながら、 
「戻った」
 と言ったが、その顔に驚きが走ったのは次の瞬間である。
 そう、声はもう一つ上がったのだ。
 
 
 
 
 
「シンジ様…」
 昏睡状態のモミジが呟いた時、それは殆ど聞き取れぬような声であったが、枕元で書類を読んでいたアオイが顔を上げた。
 モミジの腕は、隣にいるダミーシンジにしっかりと抱き付いている。
 シンジがモミジの来日を止めたため、シンジの施術の手伝いは出来なくなった。
 その代わりに、とモミジが言い出したのが移霊であった。シンジが一旦魔力を移す事を、遠いブリテン島にいながらモミジは感じ取っていたらしい。
 文字通り、自らの力全てを賭した術であり、最低二週間は動けまい。
 無論モミジもそれは知っている。知った上で言い出したのだ。
 モミジが呟いたのは、シンジが呪符を見ながら薄く笑った時だったが、モミジの呟きはアオイの耳にちゃんと届いている。
「シンジは褒めてくれたのね」
 布団をかけ直してやると、ある少年のいる島国の方へと、その視線を向けた。
「まずは一人ね…シンジ」
 低い声には一転して妖気のような物が漂っていた。
  
 
 
 
 
「わらわと会うのは初めてじゃの」
 ころころと、鈴を鳴らすように笑ったのは妲姫である。
 だが、そこには綾波レイの面影は微塵もなかった。
 墨を塗りこんだような黒髪は、長さではユリには及ばないものの、緩やかな線を描いて腰へと流れており、その背丈もシンジより僅かだがい。
 そしてその肢体も、その容貌も。
 美、と言う観点ではユリは人の慮外にある。ユリが見つめずとも、初対面の者がしばしば陶然と、ある場合は失神したりするのもその例と言える。
 そして肢体で言うならば、今モミジを見ているアオイも、異の唱えようがない圧巻の肢体を持ち合わせている。
 にも関わらず。
 二人を見てきた筈のシンジの目には、僅かながら感嘆にも似た色があり、その視線は妲姫の美貌へと注がれている。
 その美貌、戻りし今となっては、アオイやユリとて及ぶまい。
 シンジはふと、室内の光が色あせたような感覚に囚われた。
 言うまでもなく姐姫の、造形の神がなさしめる以上の美貌に気圧されて。
 丘陵を描く肩のラインは五指に入る絶景を思わせ、天匠が削りだしたような乳房は、レイの幼さを完全に消し去り、見た者に欲情よりも畏怖を抱かせる艶を持っている。
 そして腰へと続く曲線は、触れるよりも手を伸ばすよりもむしろ、何時までも魅入られてしまうに違いない。
 ちょうど、地に下りた天使に会ってしまった者のように。
 秘所を覆う淫毛にも、無論レイの髪の色素はなく、黒々と下腹部を覆うそれは一本一本が見る者を淫蕩に誘い込んでいる。
 たっぷりと脂の乗ったと言うより、王位継承者に注がれた香油を丹念に塗り込んだような感じを受ける太股には、男を−いや女さえも迷わせ、そして狂わせる物を先天的に備えている。
 傾国の美女、とはその素質を生まれ持った者の事でもあったろうか。
「ほほ、気が変わったか?」
 秘所も胸も隠そうとせぬまま、妲姫は口許に手を当てて笑った。
 それだけで空気が傾いた。
 まるでその口腔に入る酸素になろうと殺到するかのように。
 大抵の者なら、それだけでも視線は会わせ得まい。
 その艶やかさに。
 そしてその淫らさに。
「ううん、まだ」
 台詞だけはのんびりと、だが口調は僅かに硬くシンジが返すには、三十秒あまりを要していた。
 それも、シンジは妲姫の肢体に見とれてはいなかった。そして妲姫は邪眼ですら、使ってはいなかったのだ。
 それなのに、その魔笑を向けられただけで、はね除けるには数十秒を要した。
 シンジの言葉を聞いても、妲姫は別段怒りもしなかった。
「ほう、そうか」
 と言っただけである。
「もっとも、わらわと目があっただけで跪いては、男の風上にもおけぬからの。ではシンジよ、触れてみるか?」
 妲姫の手が胸に伸び、くいと持ち上げた。
 白い乳房が、まるで吸い付くように妲姫の手から溢れてこぼれる。自らの手で掴むように持ったその指の間からは、餅のそれにも似た乳房が、かすかな揺れを見せながら誘っている。
 吸い付くような餅肌、と言う言葉があるがそれをそのまま地で行く妲姫の肌であり、乳房であった。
 数多の王朝を、その肢体一つで滅ぼしてきた稀代の妖女−妲姫。
 その類い希なる美貌と才は、幾千幾万もの魂すら思うままに操ってきた。
 その誘いが今、一人の少年に向けられていると誰が想像し得よう。
 つ、と妲姫が一歩下がった。
 すい、とシンジが一歩前に出る。
 シンジは迫っているのではなく、引き寄せられているのであった。
 禁断の果実へ手を伸ばした最初の女は、ちょうど今のシンジと同じような心境であったろうか。
 だが。
 伸びかけている手が、僅かに震動し始めたのを妲姫は知った。
 その時になって、初めてその顔に表情が浮かんだ。
 ぽたり、と何かが地に落ちた。
 それが鮮血だとは、壁にもたれて眺めていたユリが先に気づいた。
「いい色だ、熱血漢の色をしている」
 ユリの言葉に、妲姫の視線がユリを捉えた。
「余計なことを。ユリよ、想い人を賭けてこのわらわに挑んでみるか?」
 嘲笑するような響きに、ユリは鉄の仮面をもって応じた。
「喜んで」
 ユリの言葉に、
「ちょっと待った」
 シンジが意義を唱えた。
「なにか?」
「僕も当事者だぞ。僕の人権は何処行った」
 これ以上おかしな関係に巻き込まれてはたまらない、と異議を唱えようとしたシンジだが、
「吸血鬼に想い人を奪(と)られるようでは、私も人間などとは自称できない。霊長類は即座に廃業だ」
 その言葉に再度シンジが、今度は愕然と妲姫の方を向いた。
 そしてシンジが目にしたのは、血の色をした唇から突き出した長い犬歯であり、そして紅玉を埋め込んだようなその双眸であった。
「…誰」
 訊いた言葉は、幾分間延びしていたかも知れない。
「お前、いい色の血を持っておるの」
 舌なめずりしたその視線は、シンジが唇を噛み切った時、床に流れ落ちた血へと向けられている。
「どういうこと?」
「見てのとおり吸血鬼だ」
 ユリの声はいつもと変わらない。
「レイ嬢の中にいたせいで、その魔性の血淫が封じられていたのだ。だが魔力を完全に戻した今、本来の姿に戻ったのだろう」
 冷静に分析するユリを、シンジは半ば呆れて眺めていた。
「日中も十字架も平気だったよな」
「無論じゃ」
 妲姫は、にやあと笑った。
「あの、説明を」
「ユリが申したであろうが」
「じゃ、レイのおかげ?」
「分かりきったことを申すな」
「えーと」
 妖姫の肢体も忘れ、むうと考え込んだシンジに、いたくプライドが傷つけられたらしい。つかつかと近寄ると、その柔らかな髪をさっと撥ね上げた。
「何をする?」
「決まっておる、食事じゃ」
「待った」
 だが止めたのは姐姫ではないと、当事者だけが知っている。死の糸を送り出そうとした友人を、シンジは視線で止めた。
「僕を下僕に?」
 吸血鬼に吸われた者の運命は一つであることを考えれば、かなりとんでもない問いである。
 だがシンジには、ふざけている節は見られない。
 一瞬奇妙な顔でシンジを見たが、
「最初で最後じゃ」
 避けようと思えば避けられたろう。
 普通に聞けば、下僕にして遣わすと取れる台詞なのだから。
 だがシンジは避けなかった。
 虜囚になったそれへ、類まれなる美貌が迫って来たのは次の瞬間である。
 唇が合わさったと思った途端、口内に鉄の味が広がった。
 “飲むがよい”
 唇は重なったままである。
 “レイのじゃないだろうな”
 “愚か者”
 快感と痛みが同時に来る、とはこの事であったろう。妖女の血を嚥下した途端、首筋に鈍い痛みを感じたのだ。
 ただ、吸血鬼に成り下がると言う危機感は、この時点でシンジにはない。やや安直な部分はあるが、逆に初体験を分析する余裕は残されていた。
 が。
「痛かったぞ」
 吸血鬼のそれは、吸われる者に快楽をも与えると本で読んだことがあったのだ。
「愚か者、それとも下僕を選んでみるか」
 じろりと向けた視線には、レイなど到底及ばぬ威圧感が含まれていた。
「それは困る」
 呑気なことを言った後、
「鏡持ってる?」
 ケープの下から取りだしたコンパクトを、ひょいと投げてよこした。
 ミラーを覗きこむと、
「痕がないな」
 首を傾げたシンジへ、
「碇シンジよ」
 低くないにも関わらず重厚その物であり、
「はい?」
 思わずシンジがそう言ってしまうだけの声であった。
「わらわが血を与えるのはこれで最初−そして最後じゃ」
 有無を言わさぬ声で宣言した。
 全裸の肢体からは、色香どころか全身が総毛立つ程の凄まじい妖気が漂っている。
 血を吸われる、と言うのは献血するようなものであり多少身体がふらつくが、鏡には傷跡一つ残っていない。
 了解、と頷きかけたが、
「姫…待て」
 ほう、と洩らしたのはユリである。吸血姫に血を吸わせた呑気な少年から、ふっと危険な気が立ち昇ったのを認めたのだ。
「なんじゃ」
「今まで吸ったのは僕の気だったが、それでも完全には戻らなかった。どうして今になって戻った?」
「お前が知っておろう」
 そっけない姐姫の声にもまた。
「その通りだ」
 次の瞬間、室内の空気が動いた。
 ざわ。
 姐姫とユリ、二対の視線が白衣の少年に集まる。
 いや、そこにもう一対が加わった。
「久しぶりねえ、シンジ」
 ゆっくりと、ゆっくりとシンジの髪の毛が逆立っていく。
「碇…ユイ…」
 地獄の番犬ケルベロスでさえも、尻尾を巻いて後退りしそうな声が、髪を逆立てたシンジの口から洩れる。
 室内に、急速に殺気が高まっていった。
 
 
 
 
 
(続く) 

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