陽光がその勢力を喪い、月の女神が微笑み出す頃− 
 繁華街を歩く黒ずくめの姿があった。 
 こんな時間に真っ黒け、と言うのもかなり違和感があるが、何よりもそれが少年である方が違和感を起こしたろう。 
 シンジがこんな場所を、しかもこんな時間に歩くのは珍しい。と言うよりも、既にレイの手術が控えているはずではなかったか。 
 だが今、ゆっくりと歩みを進めていくシンジには、その事など念頭にないように見える。  
 それに加えて、その全身からはなぜか凄まじい程の妖気が漂っているのだ。 
 今のシンジは、自分を僕と呼ぶにも関わらず。 
 黒衣の死天使、と呼ばれうるに相応しいだけの物が、今のシンジからは漂っていた。 
 妖気と言うより殺気に近い物を漲らせ、歩みだけはゆっくりと。しかもその姿には、冥府に送る獲物を探している風情がある。依頼などはなかった筈だが、一体何を探しているというのか。 
 ふとシンジの足が止まる。ポケットに片手を入れたまま立ち止まったシンジは、視線の先に若い女を捉えていた。 
 彼女の前にあるのはディスコだ。入ろうかどうしようかと、迷っているらしい。 
 それ自体はさしておかしな光景ではない。ただ一点、彼女の服がスーツである事を別にすれば。 
 若者達が、耳をつんざくような音楽に合わせて踊り狂う所ではあっても、落ち着いて飲むような場所ではない。少なくとも、スーツ姿で入店を迷うような所ではあるまい。 
 ゆっくりとシンジが歩き出した。 
 女の後ろに立つと、 
「こら」 
 と囁いた。 
 きゃっ、と叫んだのは次の瞬間である。しかもご丁寧に足下を滑らせて尻餅まで付いている。シンジが受け止めれば良かったのだが、何を思ったかこの少年はすっと横に避けたのだ。 
 補導員に見つけられた不良生徒のような反応に、初めてシンジの口許が緩む。 
「何してるの?伊吹さん」 
「え?」 
 普段白がベースなせいで、すぐにはシンジと分からなかったらしい。 
(こ、これがシンジ君) 
 咄嗟に本能が反応した通り、マヤはシンジの鬼気にも似た雰囲気を感じ取っていた。 
「はい立って」 
 と手を出されても、すぐには応じられなかったのはそのせいもある。 
 やっと立ち上がったマヤに、 
「なんでこんな所へ?」 
「シ、シンジ君こそ…」 
「僕はストレス解消に」 
「え?」 
「少し溜まってる物で」 
 曖昧に笑った時、目に一瞬危険な物が過ぎったが、マヤは気が付かない。 
(ストレス?じゃあやっぱり…パイロットの) 
 明後日の方を向いた思考を弾き出すと、少しでも何とかしなきゃと思ったのかは不明だが、 
「私ね、ここのお店に来たんだけどシンジ君も行かない?」 
「どうしようかな」 
 大人の世界に興味を持った少年、の風情で言ってのけたシンジは、店の看板に視線を向けた。 
 ブルーダイヤ、と書かれた看板が下がっており、店の外装も一見平凡に見える。 
 だがこの店が覚醒剤を始めとして、混合麻薬やら強力な催淫財やらの密売人達のアジトになっている事は、既にシンジは知っている。アジト、と言うより店内で堂々と販売している事も。DJがディスクを回す店など最近では珍しく、近隣ではこの店一軒だけだ。 
 ターゲットの情報を得る時、基本的にはコンピューターだけで事足りる。 
 ユリの私室にあるMCでも事はほぼ足りるし、足りなければどこぞにそっとお邪魔して、情報を頂くという手もあるからだ。 
 従って、一般の情報屋を使う事はほぼないのだが、街の裏情報だけは通じている。さもないと足下を掬われる事が、まれにとは言え起こりうるのだから。 
 情報欄に一通り目を通しただけのシンジだが、この通りは殆どの店が警察のマーク対象になっている位は知っている。少なくともマヤがこんな格好で入り込む所ではない。 
 下手したらおかしな物を射たれて、意識不明のまま運び出されて行きかねまい。 
「伊吹さんはここ初めて?」 
 どう見てもお上りさん、と言う感じだったがシンジがわざわざ訊いた。 
「私?私はもう何度も来ているから慣れてるわ」 
 マヤの答えに、シンジの視線がその全身をちらっと見た。 
 どこからどう見てもただのOLである。しかも武器など何も持ち合わせてはいない。 
(店の中に放り出してみるか) 
 一瞬邪悪な事を考えたシンジだが、違うことを思いついたらしい。 
「ちょっと待っていてもらえますか」 
「え?」 
「少し下見して来ますので」 
 マヤの返事も待たず、シンジはドアを開けた。 
 思った通りドアは二重構造になっている。警察が来たらここでくい止め、その間に客達を逃がす寸法だろう。 
 無論くい止めるには人が要る。そしてそれは− 
「何の用だい?僕」 
 降ってきた声に、シンジが上を見上げる。次のドアが見えなかったのは、こいつのせいだったらしい。 
 二メートル以上ある黒人が、胸元に趣味の悪いネックレスを大量にぶら下げて、ぢゃらぢゃら鳴らしながら見下ろしていた。 
「警察だ、ドアを開けろ」 
 棒読み台詞への返答は−勢いのいいローキックであった。狙いはシンジの太股からふくらはぎの辺り。急所とは違うが、まともに決まれば数日は動けない。 
 ガツン、と言う音がした。 
 男の眼球がゆっくりと動き、自分のつま先を眺める。前触れ無しのそれは、きざな格好の少年に一撃を与える筈であった。 
 手加減はしてある。骨が折れるかひびが入る位はあるかもしれないが、砕けるまでは行かないだろう。 
 かわされたそれが壁にのめり込んだのは、蹴りのスピードだけではなかった。すっと下がったシンジが、自分の前を通過した足の踵をひょいと蹴ったのだ。鉛を伸ばして埋め込んだそれは、工事用の物ほど一点防御は強くない代わり、全体的には攻撃力を大きく上げる。 
 ましてその体躯から繰り出すそれは、シンジごときひとたまりもないだろう−もし当たったならば。 
 壁から引き出すのを見ながら、 
「大根足だね」 
 シンジはくすっと笑う。 
 引き抜かれた足が、妙な方向に曲がったのは次の瞬間であった。強引に足を引き戻して軸足にすると、無言の裏拳がシンジのいた場所を襲ったのだ。 
 熊の手のようなそれを見た時、シンジの目が一瞬だけ細くなる。その口から小さな気合いが上がった刹那、シンジは地を蹴っていた。 
「何だ…お前は…」 
 さっきの侮蔑を含んだ調子は、そこには微塵もない。男の視線は自分の腕に向けられていた−すなわち、自分の腕の上に立っているシンジに。 
 劇画のような話だが、男は黙って乗せていた訳ではない。 
 瞬間的に引き抜こうとして、その腕が微動だにしないのを知ったのだ。 
「それだけ太ければ痛みはないね」 
 シンジの手にはナイフが握られている。腕の付け根の一点を刺し、その動きを完全に封じてからシンジはその上に乗ったのだ。 
 男の目に光が戻った瞬間、シンジはひょいと降りた。こんな所で待っているほど、シンジは物好きではない。 
 喉をナイフで撫でられた、と男が感じたのはその直後であり、そこがぱっくりと口を開いたのは数秒後、すなわちシンジが床に降り立った時であった。 
 吹き上げる鮮血を見ながら、 
「この色は、カルシウムが足りない色だな。なんか真っ黒いぞ」 
 肌の色に合わせたのか、黒い開襟シャツを鮮血が濡らしていく。 
 黙って眺めていたシンジだが、倒れた男をえいと踏んづけてから次のドアを開けた。 
「やっぱり」 
 妖艶な美女がシンジを出迎えた。 
 こちらは白人だが、かなり背は高い。 
 背の高さならアオイとさして変わらない−そして、そのほぼ仕上がった肢体も。 
 大きく空いた胸元からは、乳房が殆ど露出していたが、その谷間に挟まれているクロスは、黒人の下げていたのと同じものであった。 
 たわわな乳房に挟まれているそれが、どことなく苦しそうに見えたのは、シンジの気のせいだったろうか。 
「あの、一つ聞きますけど」 
 先に口を開いたのはシンジである。 
「あの大きな人、あれあなたの恋人?」 
「勿論よ、可愛い子」 
 この姿で可愛い、と言われたのは初めてだ。それを聞いたシンジの眉が僅かに寄る。 
「愛したいほど殺していたもの」 
「は?」 
 それは逆なんじゃ、と突っ込みたくなったところへ、艶めかしい腕が伸びてきた−注射針の痕を残した腕が。 
 平然とそれを出しているのは、さっきの大男のデフェンス能力に、よほどの自信があるのだろう。そうでなければ、わざわざカモネギになってみせたりはするまい。 
 女の腕をかわしながら、 
「その胸ちょっと切ってみたいけど、誉めてくれたお礼に見逃して上げます」 
 すると、可愛いと言われたのはまんざらでもなかったのか。 
「じゃあ、お礼してみない?」 
「お礼?」 
「私に食べられてくれればいいわ」 
 胸が迫ってくるように見えたとき、マヤの姿が一瞬脳裏に浮かんだのは、いかなる理由だったのか。 
「胸オバケ」 
 訳の分からない事を呟くと、女の額に何かを貼り付けた。 
 立ったまま、両腕を前に突き出して硬直している女へ、 
「死人を操るのはモミジの特許。だから僕は生かしたままで。さ、きりきり動いて」 
 偉そうに命じた。 
 元から半分死んだような眼球ではあったが、完全に腐敗のそれを見せて女がびくりと動くには、数十秒と要さなかった。 
「はい…マスター…」 
 できの悪いからくり人形のような声で言うと、深々と頭を下げた。 
「隣の部屋に物体が転がっている。隠せる場所はある?」 
「…掃除用具入れに…可能…」 
「じゃ持っていって」 
「…はい…」 
 その手がのろのろとドアを開け、男の死体の側に屈み込んだ。 
 背が高い、と言っても所詮女のそれであり腕はさして太くない。到底持ち得ないかに見えたが、数秒後にその身体は白人女の肩に担ぎ上げられていた。 
「運んだら戻ってこい」 
 担いでいる者が重いせいか、女は足を踏みしめるようにして歩き出す。このまま行けばフロアに入る事になるが、シンジの表情は変わらない。さっき番をしていた部屋に女は入ったが、そこで立ち止まった。そして空いている片手で胸の谷間から十字架(クロス)を取り出すと、変哲もない壁に押し当てたのだ。 
 まるで紅海を割った、かの予言者の偉業のごとく、その壁が左右に割れていく。割れた壁の向こうは地下に続く階段があり、女はそこをゆっくりと降りていった。 
 まるで分かっていたかのように、それを眺めていたシンジだったが、 
「お上りさんの事忘れてた」 
 戻ってドアを開けると、マヤが所在なさげに周囲を見回している。 
 シンジの姿に気づくと、まるで親を見つけた迷子のようにぱっと表情が変わる。 
「シンジ君、心配したのよもう」 
 マヤの方がよほど心配だ、と言うことは口にはしない。ここはお姉さんの顔を立てる所なのだ。 
「もう少しで入れますから、ちょっと待ってて」 
 覗き込むような視線にぽうっと頬を赤らめたマヤは、こくこくと頷いた。 
 ドアを閉めると、シンジは中を見回した。 
 薬物の匂いが僅かに漂っているが、幸い血臭はない。さくっと切ってはみたものの、吹き出した血が壁に飛ぶ事までは考えていなかったらしい。 
 鮮血が全て、服を染めてくれたのはシンジに取っては幸いだったろう。 
 結果オーライ、と呟いた所へ女が戻ってきた。 
「…終わり…ました…」 
「客が来るから出迎えるように」 
「…仰せの通り…」 
 最敬礼するたびに胸が妖しく揺れる。と言うより、半分以上は露出しているだけに全部がぽろりとこぼれてきそうだ。 
 マヤを呼びに行きかけたシンジが、ふと足を止めた。 
「ちょっと待て」 
「…はい…」 
「名前は?」 
「…イシュタル、と…」 
「イシュタル?豊饒?」 
 何考えたのか、女の胸に目を向けたシンジは、 
「じゃイシュタル」 
「はい…」 
「その胸しまっといて。多分コンプレックスになるから」 
「…しまえ…と?」 
 意味が分からなかったのか首を傾げたイシュタルに、 
「ドレスの中に全部隠して置いて。大きいのは分かったから」 
 気品などかけらもない胸だったが、それでもマスターに誉められたのが分かったか、その顔に僅かな朱色がのぼった。 
 ごそごそと押し込むのを見てから、シンジは踵を返した。 
「もういいそうです」 
「そう、遅かったのね」 
 さも来慣れた風に聞こえるが、入った途端その足は止まっていた。 
「こ、これはなに?」 
 第二のドアは、一応普通の観音開きである。ただ、ちょうど扉の真ん中に変な物が付いているのを別にすれば。 
 黒ヤギの生首が、こっちを睨んでいるのを見てマヤの足はすくんでいる。シンジに取ってはどうという事もないが、マヤにとってはそうも行かないらしい。 
 ましてそれが、本物を乾燥させた物だと一目で分かるなら。 
「黒ヤギの紋章−普通は魔王の象徴に使ったりします。前に来た時にはなかったんですか?」 
「シ、シンジ君…」 
「はい?」 
「ほ、本当は私がこんな所初めてなの…し、知ってるんでしょ…あんまり…いじめないで」 
 目が潤んでいる所を見ると、本当に怖くなったらしい。 
 あっさりと正体を暴露したマヤを、シンジはそれ以上からかうのは止めた。空気中に僅かに漂うのは催淫剤であり、それは常人には分からない程だったが、シンジははっきりと感知していた。 
 中はどうせまともではない、そんな中に怯えるマヤを連れて行くと、どうなるか分からないと読んだのだ。 
「じゃ一つだけ」 
「え?」 
「ここは、繁華街の中でもかなり危険な所です。あなたのような人が来るところじゃありません。しかも無理してまでどうして来たの?」 
 顔を逸らそうとしたが、シンジの視線はそれを許さなかった。 
「せ、先輩が…よ、よく来ているって聞いたから…」 
「先輩って」 
 一瞬考えてから、 
「リツコさんが?」 
 と訊いた。 
 こくんと頷いたマヤを見て、やれやれとため息をついたシンジだが、 
「いい趣味の先輩だ」 
 黒山羊の頭を押して自ら中に入っていく。慌てて後に続いたマヤは、自分でも知らぬ内にシンジの上着を掴んでいた。 
 その足が再度止まったのは、片膝付いてうやうやしく頭を下げている、並はずれたグラマーを、すなわちイシュタルを見た時だ。 
「こ、この人なんなの…」 
 呟いたマヤだが、その視線は額ではなく胸に向けられている。額に呪符を貼り付けられて下僕と化しているのだが、そんな事をマヤが知る由もない。 
「どうしたの?」 
「あ、あの胸が…」 
 マヤの視線が、自分の胸と女の胸を行き来しているのを見て、やっぱりと呟いたシンジ。女同士の場合、最初の関心事はそこに向くらしい。 
「え?」 
 シンジの声が聞こえたらしいマヤに、シンジは軽く首を振った。 
「欧米では普通ですよ」 
「う、嘘…」 
 唖然としているマヤに、 
「ハンバーガーとコーラでこうなるそうです」 
「え…シ、シンジ君っ」 
 ようやくからかわれたと気が付いたマヤが、小さく口をふくらませかけるのへ、 
「それだけ元気なら大丈夫です」 
「え?」 
「さっさと行くよ」 
 中に入った二人を、凄まじいまでの熱気が押し包んだ。さすがに乱交状態とまでは行かなかったが、シンジの嗅覚は数種類の薬物の匂いを捉えていた。 
 喧騒の中、音楽に負けないような大声で叫び合う男女。 
 DJの回すレコードに合わせ、狂ったように踊り狂う者達。店内のあちこちで、平然と何かを腕に射っている者もいる。 
(本当にここへリツコさんが?) 
 首を傾げたシンジだが、マヤがそう言う以上、そして何よりもリツコの性格ならあり得ると勝手に納得していた。 
 ふと服の重みを感じて後ろを見ると、マヤがしっかりと服を掴んでいる。今の勢いはどこへやら蒼白に近いその顔を見て、ふとわいた邪悪な企みを却下し、 
「何か飲みます?」 
 ごく普通の声量で訊いたシンジ。 
 凄まじい音響の中、それは何故かはっきりと聞こえたのだが、マヤはそれがシンジの指のおかげだとは知らない。シンジの指は、マヤの手に軽く触れていたのだ。 
「わ、私はブラックを」 
「コーヒー?」 
「え、ええ」 
「オーガズムにしときましょう」 
 それを訊いた途端、マヤの顔がかーっと赤くなる。 
「こ、こんな所でそんなっ」 
 いやいやと首を振るマヤを見ながら、シンジは突っ込みたくなるのを我慢していた。 
「コーヒーベースのカクテルの名前ですが。何を考えたの?」 
「え?カ…カクテル?」 
「それ以外に何か?」 
 シンジの黒瞳に射抜かれて、マヤは首まで真っ赤に染めた。 
 赤いままのマヤを、カウンターまで引っ張っていき、オーダーするとすぐにカクテルが出てくる。 
「これがオ…オーガ…」 
 どうしても単語が全部言えないらしい。 
 よくここに来た物だと、シンジは半ば度肝を抜かれていた。 
「味は?…あれ?」 
 シンジはマヤの顔が、違う色の赤に染まっていくのを唖然として眺めた。 
 モカンボを使ってあったにしても、幾らなんでも早すぎる。 
「もしかして、お酒は駄目でした?」 
「あーに言ってんのよお〜」 
 げ?、と洩らした時曲のテンポがひたすら速くなり、周囲の淫気にも近い雰囲気がひときわ強くなった。 
 
 
 
「シンジ君…妙に仲良いわよねえ」 
「誰と?」 
「先輩よ!わ、私の先輩なのにい」 
 シンジの制止も聞かず、次々グラスを空けていったマヤは、完全に絡みモードへ移行していた。 
「伊吹さんの先輩?」 
「とーうぜんよお」 
 完全に呂律がおかしくなっているマヤに、シンジは宙を仰いだ。 
(置いて帰ろうかな…) 
 そんな考えが浮かんだが、マヤを見てふと気が付いた。マヤが酔っているのは、酒だけだったのだ。 
 昂揚した空気にも関わらず、マヤの顔にはアルコールの酔いしか感じられない。大した物だと、妙な事に関心しているシンジ。 
 だが次の瞬間、その目がすっと細くなった。 
 自分たちに向けられている危険な視線を察したのである−正確には、マヤに向けられた欲情の視線を。 
 発信源はどこだと見ると、左前方にやくざの塊を見つけた。 
 その数、五人。 
 マヤのおかげで疲労気味だったシンジの顔に、ふっと危険な色が浮かんだ−妖しく、そして危険な色が。 
 素知らぬ素振りを見せ、 
「伊吹さん、もっと飲みます?」 
 訊ねた途端、その腕がぐいと掴まれた。 
「え?」 
「こらシンジ君」 
 腕を掴んだのはマヤだが、その目には明らかに危険な光が浮かび出している。 
「何?」 
「伊吹さんじゃないでしょ」 
「名前違うんですか?」 
「マヤって呼びなさい」 
「は?」 
「うーん、それともお姉さんでもいいわねえ」 
 それを聞いたシンジ、何故かにっと笑うと、 
「お姉さま、と言うのは?」 
「駄目よ!」 
 あっさりと却下された。 
「どうして?」 
「お姉さまはあ…先輩だけなのよう」 
「リツコさんはあなたの想い知ってるの?」 
 訊いた瞬間にシンジは質問を後悔した−マヤがしくしく泣き出したのだ。 
「私が…私がこんなに思ってるのにい…先輩は、先輩は…」 
 まさかマヤがこんなに悪酔いするとは、想像もしていなかったシンジ。 
 しかしその表情はどこか嬉しそうにさえ見える−ただ、マヤが原因ではなかったが。 
「見ねえ顔だな、おい」 
 薬の入った声で声を掛けて来たのはリーゼント。シンジの服装で判断したのか、声には僅かに警戒があったものの、シンジの顔を見た途端急に居丈高になる。 
「ここは子供の来る所じゃねえな、さっさと帰れ。おっと、そっちの姉ちゃんはいてもいいぜ。俺達が面倒見てやるよ」 
 シンジとマヤを取り囲むように男達が立った。 
 運良く店の中の喧噪は絶頂に近いほど高まっており、やくざの四、五人が倒れた所で誰も気づきもするまい 
 と、思った次の瞬間。 
「あなた達誰」 
 むくっとマヤが起き上がったのだ。 
 どこかあどけなさの残した顔と、同じく発展の余地を残したスタイル。そっちの趣味があるのか、男達が唇を野卑に歪めた。 
「こんな子供と遊んでないで俺達と…いてっ」 
 肩に触れようとした手を、マヤが強烈にひっぱたいたのだ。 
「不潔です。触らないで下さいっ」 
 相変わらず呂律は怪しいが、それでも意志だけははっきりと伝わる。 
 男達の顔がみるみる凶相に変わると、 
「この女、おとなしくしてりゃつけ上がりやがって…あ?」 
 男達が一瞬唖然としたのはマヤの表情を見たからだ−マヤは笑っていたのである。 
「あなた達、彼を誰だと思ってるのよ」 
「あ?彼だ?」 
 と辺りを見回しても該当者がいない。何よりも、マヤの熱い視線はシンジに注がれているではないか。 
「ひょっとしてこいつか?」 
 度肝を抜かれたせいか、声からは幾分険しさが消えている。 
「そうよお、碇シンジ君よ」 
 舌足らずな声で言うと、マヤはシンジの手をきゅっと掴んだ。 
「鉄砲だって、ばんばん撃っちゃう騎士(ナイト)様なんだから。ね、シンジ君」 
 ね、と言われても困る。 
 第一心当たりがない。 
 はてと首を傾げた後、ああと思いだしたようにぽんと手を打った。 
「機関銃乱射の一件?」 
「そうそう、それよそれ。お父さんをガンガン撃っちゃったんだから」 
「…なんだと」 
 二人の会話を聞いて、一瞬男達が固まった。目の前の若い女が殆ど泥酔状態なのは分かる−そして、もう一人の若造が完全にしらふなのも。 
 だが、酔って発言内容が大きくなったとは思えないのだ。事実をそのまま思い出したかに見えるだけに、黒ずくめと相まって、シンジに何やら薄気味悪い物を感じていた。 
 とはいえ、普段から善良な市民を苦しめることを常としている連中である。こんな少年ごときに怯えてはいられないと、 
「頭、よござんすか?」 
 シンジとさして身長の変わらない禿頭が、一番背の高い男を振り返る。 
 ダークグレーのスーツを着こなしたその男が、 
「声は消せるな?」 
 低い声に禿頭が頷く。 
「よし、教えてやれ」 
 言った途端大型の自動拳銃を抜き出した。 
 ただし−抜いただけ。 
 無論脅しなどではないのだと、解除されている安全装置が声高に告げている。大口径の拳銃を殆ど反動無しで打てるよう、既に手の筋肉強化は処置済だ。 
 にも関わらず、男は引き金を引くことは出来なかったのだ。 
 別に気取ったわけではなく− 
「さすが銀はよく斬れる」 
 さっき黒人の男に突き立てたのは、足首から引き抜いたナイフであった。だが今シンジが持っているのは、普段使っているシルバーナイフである。 
 付け根から指を落とす寸前、シンジの左手はマヤの顔にすっと触れていた。酔いから醒めれば記憶は残っていまい、そう読んだものの念のために寝かせたのだ。 
「こっ、このや…あへう」 
 憤怒の形相になったその胸元へナイフを差し込むと、身体を押さえて刃を捻る。 
 短い呻きを洩らして倒れ込むのを、別の男が支えた。拳銃の床に落ちた音など、この中では草のざわめきほどにもなっていない。あっと言う間の出来事に、誰一人気づく者はいなかった。 
 床に落ちた仲間の拳銃を拾おうとするのへ、 
「よさねえか」 
 低い声で一喝されびくりと固まったのへ、 
「この坊やを甘く見過ぎたな、運んでいけ」 
「寝かして参ります」 
 担いで出ていくのを見送った、頭と呼ばれた男がシンジを見た。 
「面白い真似をするガキだな、度胸だけは誉めてやる」 
「嬉しくない」 
「んだと」 
「やくざごときに誉められても、ちっとも嬉しくないよ。ケルベロスに誉められた方がまだましだ」 
 冥府の門を護る双頭の番犬、と男が知っていたかどうか。 
「安心しろ、すぐに会わせてやる−閻魔にな」 
 なかなか含蓄のある台詞に、シンジがくすっと笑う。 
「それはそれは」 
 笑顔を崩さぬまま、胸元へ一直線に突き出されたナイフをかわした。どこかの陸軍部隊が持っていそうなサバイバルナイフは、シンジなら背中まで貫くかもしれない。 
 ただ配下を一人やられた焦りか、あまりにもスピードが乗りすぎた。良すぎる勢いは即、自分へと跳ね返ってくる。そしてそれは、この男の場合にも例外ではなかった。 
 シンジは腕を避けると、自らの腕でそれを押さえつけたのだ。勢いを止める間もあればこそ、ご丁寧に体重の半ばを掛けた重みで、男の腕は容易くへし折られていた。 
「骨に鉄でも使っとけばいいのに」 
 次の瞬間、凄まじい打撃音が響いた。親分の垂れ下がった腕を見た子分が突っかけ、その顔に裏拳がのめり込んだのだ−ただし、親分のそれが。 
「手を出すんじゃねえ」 
 男は数メートルを吹っ飛んでカウンターに激突し、さすがに他のラリっている者達も気が付いたのか、店内が一瞬にして静まり返る。 
 もう一人の子分が、慌てて介抱しに走るのには目もくれず、 
「折るんじゃなく斬っとくべきだったな−真っ黒な坊や」 
 シンジの眉が寄った途端、その身体は後ろへ跳んでいた。 
 第六感の命じる物だったが、その直後に男の腕がシンジのいた場所を襲ったのだ−肘の上で折られた筈の腕が。 
「鉄じゃなくて人工樹脂−たしか秋風とか言ったな」 
 それを聞いた時、男の表情が僅かに動いた。 
「お前、俺を知ってるのか」 
「さあ」 
 冷たく答えたシンジだが、周りの者達は完全に凍り付いていた。ぼきり、と折られた腕が何事もなかったかのように動いたのである。 
 折れた腕を瞬時に復元できるなど、エヴァ初号機か妲姫くらいの物だろう。無論ここにいる者達は、そのいずれをも知る立場にはいない。 
 男の腕を眺めていたシンジだが、何思ったかふとナイフを腰に戻した。 
「虚勢は止めておけ。何を使っても構わないぞ」 
「効果が切れない内に早くおいで」 
 シンジの笑みが男に喚起したのは、むしろ怒りではなかった。サバイバルナイフが唸りを立てた時、シンジの美髪に見とれていた女達が思わず口を抑える。紙一重でかわすと、テーブルから逆の方へ、後ろ向きに後退していくシンジ。 
 無論マヤから離れる為だが、避けるのが精一杯に見えない事もない。軽く飛ぶたびに髪が揺れ、艶やかな黒髪が宝玉の輝きを見せる。 
 足に殆ど重心をおかず、まるで飛び回るように下がっていくシンジに対し、男はブルドーザーのそれを選んだ。遮る物を蹴り飛ばして進んだのである。 
 男が邪魔だと蹴り上げた足で、テーブルが一つ木っ端微塵になって吹っ飛んだ。 
「器物破損そのいち」 
 と呟いたシンジの視線は、折れた筈の箇所に注がれている。 
 次々と店内を破壊しつつ、とうとうシンジは壁際に追いつめられた。 
「どうした?もう後がないぞ」 
 明らかにシンジの劣勢に見えるが、一つ奇妙な事があった。すなわち−男の息は完全に上がっているが、シンジの方は息を少しも乱していないのだ。 
 確かに、そこら中を蹴って回ったのはやくざ者の方だったが、それにしても息の上がり具合があまりにも違い過ぎる。 
 
 まさかこの少年が全部見切って? 
 
 そんな途方もない疑問が人々の脳裏に浮かんだ時。 
「やっぱりそうだ」 
 何かを確信したようにシンジが言った。 
 何だ?この少年が何を発見した? 
 人々の目に?マークと、何かを期待するかのような光が浮かんだ。彼らの濁った思考は楽しんでいたのかもしれない−この殺人ゲームの行く末を。 
 そして黒衣の少年を応援したい一方、彼の肉体が四散する様を見たいと言う歪んだ欲望も働いていたのだ。 
 美しい髪の少年が血に染まって倒れる姿を見たいという、どこか古代ローマの人々にも似た欲望が。 
 衣食住に飽きた彼らは、奴隷同士を闘わせてその肉体が朱に染まる姿を見て、更に盃を進めたと言われている。 
「実験がないと学説は証明できない−来い」 
 既に店内の喧騒はなりをひそめ、つんざくような曲すらも何時しか止まっていた。誰もが見つめる中で、シンジの黒衣だけは退廃した光を吸い込み妖しく輝いている。 
 黒衣の呪縛に耐え切れなくなったかのように、男が大きくナイフを振りかぶる。 
「いやあああああっ」 
 声帯が損傷したかのような声で叫ぶと同時に、大上段から勢い良く斬りつけてきた。 
 技量、では無かったろう。 
「まとめた方が良かったのに」 
 むしろ哀れむような声のした時、男の肘にはナイフが突き立っていた。その瞬間何が起きたのかを、正確に表現しえる者は誰もいなかったろう。 
 力など殆ど、いや全く入っていなかった。 
 先端が−文字通りちょこんと刺さった瞬間、男の腕は硬直したのである。 
 床にぶっ倒れてのた打ち回る男の顔が、みるみる紫色になっていくのを、周囲は呆然と見つめていた。 
 ナイフに猛毒が塗ってあったに違いない、誰もがそう思った。 
 だが。 
「回収代は高いよ、ユリさん」 
 既に断末魔に近い痙攣を見せている男の腕を、シンジはぐいと持ち上げた。 
 そして肩を足で抑えて逆方向に捻り上げたのだ。 
 骨の折れる音も、間接の外れる音もしなかった。なのにやくざの腕は−根元からあっさりと外れていたのだ。 
 奇妙な事に腕の付け根は、鋭利な刃物で断ったかのような、見事な切断面を見せており、それを見たある者は口を抑えたし、ある者は呆然と見入った。 
 辺りを見回すと、どれもこれも悪夢の中にいるような顔をしているが、死体に一番近いのはディスクを回していたDJである。 
 一番近くにいた、と言うだけだったが、 
「腕の切除は終わったから、店の裏手へ捨ててきてくれる?」 
 言葉は穏やかだが、偉そうな口調で命じた。 
 この頽廃した魔気漂う店でDJをしていたとは言え、この年齢でいきなり死体運搬員になるとは思わなかったろう。しかも、その死体からは綺麗に腕がもぎ取られているのだ。 
 だが、黒衣の少年の雰囲気は、穏やかながら彼の本能に冷たい闇を見せている。従った、と言うよりは本能が即座に服従を命じ、蒼白な顔のまま頷いた。 
 がっしりした体格の親分だったが、何とか肩に担ぐとよろめきながら出て行った。 
 ただし。 
 担がれた体が、幾分しぼんでいる事に気付いているのは誰もいない。 
 男の腕は無論、初号機と同じ物ではない。 
 数年前に、ユリが骨粗鬆症患者用に作り出した代物で、骨の中に埋め込むかあるいは骨の一部と入れ替えれば、健常な人間のそれと全く変わらなくなる。 
 ただ問題はそれに呪力が必要な事であり、それを持たぬ人間に装着させた場合、その腕だけが異常な程の回復力を持ってしまう事が判明した。 
 根元から断たれぬ限り、どんな重傷でも数分以内に治る事が判明し、ユリは直ちに回収に乗り出した。 
 幸い臨床例は五人しかなかったが、最後の一人がどうしても見つからなかったのだ。 
 正確には、五人目の女性はそれを奪われていたのである。 
 奪ったものの逃げ切るのにどんなに苦労したか−シンジは、男の顔に微妙ながら整形の痕が残っているのに気がついていた。 
 腕を奪われた直後、急速に身体が萎縮したと言う事は、身体の負担も既に限界に達していた筈だ。自己修復、とも言える機能を使う度に身体に莫大な負担が掛かる。ユリがそのままにしておいたのもそのせいだ。 
 すなわち、持ち主が死んでしまえば痕は残らないから。 
 それ以外に腕の能力を殺すのは、一つの方法しかない。 
 肘のすぐ横の部分、一センチ四方もないそこを突く事だけが、腕の機能を止めるのに有効なのだ。 
 丁度リセットボタンみたいな物である。 
 まるでエヴァ並の修復力を見て正体を見破ったシンジは、その一点を突く機会を待っていたのだ。 
 本人が死ねば、もはや単なる肉体と化す。とすれば単に殺しても良さそうな物だが、今のシンジは黒衣である、そんなに優しくは無いのだ。 
 それに加えて実験段階の時ではあったが、腕が意志を持った事がある。 
 被験体が死亡しているにも関わらず、腕だけはまるで意志を持ったかのように、攻撃の意志を見せた。 
 無論ユリの糸で数ミリ角に刻まれたのだが、あるいはそれもシンジの脳裏にはあったのかも知れない。 
「親分はやられた。残るはあと一人」 
 シンジの視線は、壁にへばり付いている子分に向いている。 
「親分をやられたままじゃ、子分として忠誠心が足りないよ」 
 わあああ、と絶叫しながら拳銃を引き抜いた所へ、風を切って襲ったナイフは二本。いずれも喉元に過たずに突き立ち、血飛沫を撒き散らしながら倒れる。 
「眠り姫の貞操は護らなくちゃ」 
 男の死骸を見下ろしてシンジが言ったが、周囲は誰も動こうとする者はいない。薬物の影響が残っているのと、シンジの気が彼らを呪縛しているせいだ。 
「口封じ、行っとく?」 
 散歩に行くかと訊くような口調で言うと、シンジは周りを見回した。 
 一斉に首を振るのを見て、 
「じゃ、内緒ですよ」 
 ぶんぶんと、今度は一斉に頷いた。 
 元より健常な店ではない、警察への通報などありえない事は判っている。 
 そうでなければ、いくら憂さ晴らしを望んでいても、そして相手がやくざ者であっても容易く殺し得なかったろう。 
 シンジが一歩踏み出すと、波が引くように皆道を空ける。 
 さっきのテーブルに戻ると、マヤはまだぐっすりと眠っている。 
 無論シンジもその気で眠らせており、あと数時間はまず起きまい。 
 眠っているマヤを軽々と抱き上げ、シンジは出口に向かった。 
 半ば呆然と見つめている観衆へ、 
「悪いけど掃除、お願いしますね」 
 かすかに見せた微笑へ、初めて少年らしい物を感じて心底安堵し、同時にもう一度見たいと願っている自分たちに気付くのは、シンジが出て行ってからしばらく後の事だった。 
 
 
 最初のドアを開けたシンジは、直立不動で立っている白人の娘を見つけた。 
「忘れてた」 
 シンジの手が伸びて、その額から呪符をはがす。 
 女の双眸に意志が宿るには十秒近くを要した−殺意と言う名の意志が。 
「覚悟は出来てるわね、坊や」 
 紅い舌で唇をぺろりと舐める。シンジはマヤを抱きかかえており、どう見ても分が悪い。 
 だがシンジは、 
「知り合いに似てると、何となく片付けにくくない?」 
 奇妙なことを訊いた。 
 シンジの言葉に、一瞬女の殺気が揺れた。 
「何ですって」 
「葛城科のホルスタインなら始末していたんだけど、背も少し近かった」 
「あんたの想い人かい」 
 ちょっと考えてから、 
「似たようなものです」 
 と言った時、なぜかシンジはうっすらと笑った。 
 アオイが聞いたら何と言うだろうか。 
「で、その娘は何だい?そっちは愛人?」 
「いえ、これは職場の…上司かな?」 
 上司ではないし、同僚とも少し違う。 
 言ってから首を捻った黒衣の少年に、女はふっと笑った。 
「今回は見逃してやるよ、行きな」 
 すっと道を開けたのへ、どうもと歩き出す。 
 ドアのノブに手を掛けたシンジの背に、 
「そのは、美人なのかい?」 
 シンジの顔がゆっくりと振り向く。 
「とても」 
 今度は断言したのを知り、女の笑みがすっと深くなる。美人に似てると言われて、悪い気はしなかったらしい。 
「今度会ったら八つ裂きにしてやるからね、憶えておいで」 
 とは言ったものの、その口調にはあまり殺気は感じられなかった。 
 
 
 さて店の外に出たシンジだが、マヤの住所を知らないのに気が付いた。このまま担いで歩く訳にも行かないと、ハンドバッグの中を拝見することにした。 
 定期入れが一番上にあり、そこに免許証が入っていてすぐに分かったが、何故かシンジは顔をしかめた。 
 その理由はすぐに知れた−その中には、赤木リツコの胸から上を引き伸ばした写真が入っていたのである。 
 やな感じ、と呟いたシンジだが誰に向けた物だったのか。 
 タクシーに押し込み、紙幣を渡して住所を教えた。 
 酒気帯び運転には見えなかったが、何故か車はふらふらと蛇行している。 
 理由は簡単で、運転手がルームミラーとバックミラーを、交互に見ているからだ。 
「同じ人間が二人いる…ふ、双子じゃないぞ…」 
 業を煮やした車内のシンジが、 
「あっちはマスター、俺はダミーだ。前見ろ、前」 
 と言ったおかげでやっと前に集中したが、二人が降りてから言葉の奇妙さに気付き、首を捻りながら運転した結果、二十分後に前の車に追突した。 
   
 
 
 
   
「そんな世話焼きにも見えなかったが」 
 シンジが持ってきた腕を分解しながらユリが言った。 
「レズっ気がある方が驚きだよ、僕には」 
 シンジの視線はリツコの方を向いている。 
「あんな店よく行くの?」 
 二人の視線を受けて、にせリツコの顔が赤く染まる。 
「わ、私じゃないわよ」 
「じゃ誰」 
「店の種類が違うわ」 
「あん?」 
「確かに店名は合ってるけど、赤木リツコが行くのは、四軒先のジュエリーショップよ。それと私、女に興味は無いわ」 
「オリジナルの記憶はどの位持ってるの?」 
 記憶を辿る風情を見せたリツコにシンジが訊いた。 
「基本的な事は大抵。でも行動の記憶は薄いの」 
「でこれ、何に使うの?」 
 今度はユリに訊いた。 
 それを聞いたユリが、僅かに口許へ微笑を乗せた。それだけ、ただそれだけなのに、室内にどこか淫靡にも似た空気が広がっていく。 
「知りたい?」 
「お前のダミーに聞くからいい。僕のハーレム作ってやる」 
 それを聞いても表情を変えるどころか、その笑みは更に深くなった。 
「随分と機嫌がいいようね、シンジ」 
 シンジの表情が、ちょっとだけ動いた。 
「分かる?」 
「これならば何とか持ちそうだ−碇ユイを前にしても」 
 それを聞いた時、シンジは一瞬目を閉じた。刹那鬼気にも似た物が、周囲の空気にさっと散る。 
「何とかね」 
 ゆっくりと目を開けた時はもう、普段のそれに戻っていた。 
「本体の方は、僕がこの手で殲滅してくれる」 
 妙に気合の入った声で言うと、ちらりと時計を見た。 
「サツキ遅いな、まだ着替えてるのかな」 
 言い終わらぬ内にドアがノックされて、サツキが顔を出した。 
「シンジさん、用意の方出来ました」 
「分かった、今行く」 
 すっと立ち上がったシンジが、ちらりとユリを見た。 
「来る?」 
「何か不都合でも」 
「猫と喧嘩されても困る。今は僕の患者だからな」 
 それを聞いた途端、にせリツコがびくりと肩を震わせる。 
「猫?何時の間に親友におなり?」 
 責めるでも咎めるでもなく、かと言って無論喜ぶ口調ではない。 
 ただ訊ねただけなのに、室内温度はみるみる下がって行ったのだ。 
「それ、嫉妬と言う感情?」 
 こんなことをユリに言えるのは、世界中漁ってもひとりしかいない。ユリがちらっとシンジを眺め、リツコの顔から血の気が引いていく。 
「自分を僕、などと呼称する少年に私が想いを?」 
「僕の自惚れ?」 
「無論」 
「それは残念」 
 残念の欠片もない口調で言うと、 
「服は着てないね」 
 確認するようにサツキに訊いた。 
「ご指示どおりに」 
 一礼したサツキに頷き返し、 
「邪魔はしないでね」 
 サツキを従えて出て行く後ろ姿を見ながら、 
「さて、何をすれば一番妨げられる?」 
 とリツコに訊いた。 
「私なら…そのまま見学を」 
「優しくするだけが愛情ではない。初歩の原理すら知らぬから、実母との二股などと言う不名誉を喫する事になる」 
 オリジナルの記憶はダミーの記憶…にせリツコはすっと俯いた。 
「手術とは言え、本来監察はモミジの役目だ。私では傍観者が関の山だが、とりあえず見物人に身をやつすとしよう」 
 ダミーとは言え、所詮その思考や知識は赤木リツコのコピーであり、シンジ達の関係など知る由も無い。ユリが一体何をする気かと、やや青ざめた顔でその後を追った。 
 
 
 
 
 
 マユミと別れた後、シンジが街に出たのは自らを抑えるため−すなわち、碇ユイを見逃す事を知っている自分を。 
 少しは治まったものの、どこか暴走の危険をはらんでいる事は否めない。 
 姐姫は既に、碇ユイを自らが滅ぼすと明言している。 
 紅の夜が始まろうとしていた。