第三十四話
 
 
 
 
              
 暗闇に浮かび上がるモノリス達の群。
 実体を伴わないにも関わらず自らの存在を誇示するように、その不気味な数字だけを仄かに浮かばせる精神(こころ)には、一体何があるのか。
 暗い室内に、円を描くように配置されているその様は普段と同じだが、今日は少し人数が足りない−そう、その数が三つしかないのだ。
 そして、ゲンドウと冬月の姿もここには無かった。
 かすかな音がした後、3番のモノリスが言葉を発した。
「初号機のパイロット碇シンジ、なかなか優秀だな」
 誉め言葉であろう−嘲笑するような口調でなければ。人を誉める時、裏に猛毒を含んだ針を込めるタイプだ。
「左様。だが少し出来すぎだな」
 と、これも同じような口調で応じたのは9番であった。
「それでちょっかいを出した訳か」
「小手先の物に過ぎんよ。その辺のを殺し屋まがいを二人向けただけだ」
「それで結果は?」
「キール議長には見せられん物だ」
 6番の言葉と共に映像が映し出され、そこにはレイが映っていた。
 そう、銃弾を全て手で受け止めた綾波レイが。
「…東洋魔術(オリエンタルマジック)か?」
 ややあってから口を開いた3番も、自らの言葉の虚しさは分かっていた。
 即ち、それが魔術などではない事を。
「碇め、とんでもない切り札を隠していたようだな」
 と、これは9番が。
 しかし、今回だけはゲンドウにとって明らかな濡れ衣であったろう。確かに弾は受け止められたが、それはレイではなかったのだから。
 綾波レイの肢体を持ったレイに非ざるもの−姐姫だったのだから。
 そしてそれは、無論ゲンドウが皆目知らない存在なのだから。
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 許さないとあっさり却下されて、ヒカリとトウジの肩がびくりと震えた。
 かと言って、逆切れするなど生命の危機を意味すると、トウジもヒカリも身をもって知っている。
 硬直している二人を眺めながら、
「どっちが言い出したの?」
 と訊ねた。
「そ、それは私が…」
「で、断られたら次の策は?」
「そ、それは…」
「まあいいや、そんな事よりヒカリ嬢」
「は、はいっ」
「キスはした?」
「『なっ、何を!?』」
「何って口づけ」
 シンジはつまらなそうに言った。
「僕がお膳立てしといたのに、妊娠の報告はおろかキスもなし?つまんない人達だ」
 その内容と口調に二人の顔が、おそるおそる上がる。
 呆然とシンジを見つめる二人に、
「急ぎたければ止めない。だがわざわざ急ぐ事も無いだろう−黄泉の旅路へと」
 シンジの言葉に何かを思い出したのか、二人の顔から急速に血の気が引いた。
 シンジがいい人かもしれないと、勝手に思い込んでいたのを、後悔しているのかも知れない。
「通じてもいない想いの為に、この僕に挑んだヒカリ嬢の度胸に免じてあげよう」
 最高裁の判決文でも読むような口調でシンジは告げた。
 それを聞いて、二人の顔に血の気が戻りかけたが、
「ただし」
 シンジの言葉にぎくりとなった。
「鈴原は下僕一号、ヒカリ嬢は下僕二号となってもらう。ではこれで」
 さっさと歩き出した後ろ姿を、二人は唖然として見送った。
「ね、ねえ鈴原」
 ヒカリがトウジをつついたのは、数十秒も経ってからである。
「な、なんや」
「今のあれ…本気だと思う?」
「本気…やろうな…」
 一方シンジは今の事など、いや屋上へ行った事さえ忘れたような表情で、さっさと階段を下りていく。
 その表情が動いたのは、階段を下りきった時であった。そこにはにせレイがいたのである。
「車の場所分からなかった?」
 訊ねたシンジに首を振ると、
「あなたから離れないように言われているの」
「ユリに?」
 訊かれたレイは再度首を振った。
 そしてうっすらと笑うと、
「誰だと思う?」
 逆に訊ね返したのだ。
「一人しかいないな」
「その通りよ」
 頷くと、
「お兄ちゃんの邪魔にならないように、ですって。随分と慕われているのね」
「…仲間じゃないの?」
「私の方が偉いわ」
 帰ってきた即答に、ふとシンジの表情が動いた。
 だが二人の会話はそこで中断された。シンジの視界にある少女が映ったのである。
「今帰り?」
 頷いたマユミの反応に、シンジは自分が待たれていたのを知った。
「先に帰るわ」
 シンジの反応も見ずに、にせレイはさっさと歩き出した。
「離れていいのかな」
 内心で首を傾げたとき、
「あの…お邪魔でした?」
 遠慮がちにマユミが声をかけた。
「よく分からない」
「え?」
「同じ人がたくさんいるから」
「沢山?」
「何でもない。ところで何?」
「あ、あの…」
「時間なら多少空いてるよ」
 と先に言ったシンジ。マユミの思考は読めていたらしい。
「す、少しお時間頂いてもいいですか?」
「いいです」
 頷いたシンジだが、その目が刹那光を帯びた。
「秘密の話は喫茶店が最適だから」
 そう言うと、マユミの手を取って歩き出した。
 一瞬事態が分からなかったマユミだが、すぐにその頬が赤く染まる。
「い、碇さんあのっ」
 だが、 
「合わせて」
 シンジの言葉に、これも表情がすっと引き締まった。
「はい」
 握り返した手には、ほんの少しだけ力が入っていた。手を繋いだまま二人は、正確にはシンジが引くようにして校舎の裏へと抜ける。
 そして角を曲がりきった所で、すっとシンジは手を離した。
 そして何を思ったか、隠れるように張り付いたのである。
 どやどやと複数の足音が聞こえた瞬間、シンジが身を沈めた。
 にゅうと伸びた足に、三人が引っかかって一斉に転び、そこへ来たもう一人も躓いて転んだ。
 元からスカートが短いせいで、下着まで露わになっている四人組を、シンジは宇宙人でも見るような目で眺めた。
 勢いよく転んだおかげで結構ダメージがあったらしい。腰や背中をさすりながら四人が起きたのは、十秒余りも経ってからであった。
「つけていたのは僕じゃないね。何の用?」
 見るからに柄の悪そうな連中は、日サロでも行ったのか全身をどす黒く焼いており、目元は不気味な青のアイシャドウで塗りたくっている。
 下着の中はもちろん、腹の中までも真っ黒けに違いない。
「あ、あんたに用じゃないよ」
 第三ボタンまで開けた女が、シンジを前に胸を隠すようにして言った。
「そうなんですか?」
 シンジの態度に御し易しと見たのか、一番背の高い女がスカートの後ろをはたきながら、
「優等生の出る幕じゃないんだよ、引っ込んでな」
 と言ったのに続き、今度は一番厚化粧の女が、
「あたしらの用があるのはそっちの女さ。怪我しない内に引っ込んでなよ?ボク」
 嘲るように言ったが、その目にはわずかな嫉妬があるのにマユミは気づいていた−そう、シンジの髪を見た瞬間に浮かんだ嫉妬が。
「じゃ、そうします」
 と一歩下がりかけたシンジに、マユミはちらっと視線を向けたが何も言わない。
 しかし、女達の方はそうは行かなかった。
 ただでさえ妙な妬心をかき立てられていた所へ、シンジの態度を見て嗜虐心を煽られたらしい。
「ちょっと待ちなよあんた。挨拶無しで行こうってのかい」
 ぐいとシンジの袖を掴んだのを見て、マユミの顔がすっと青ざめた。
 袖を掴んだのは一番体格のいい女だったが、シンジに触れた二秒後には熱いキスをしていた−乾ききった地面へと。
「じゃ、ご挨拶」
 変わらぬ口調で言ったシンジに、女達の血相が変わる。どうも不登校のせいか、シンジの噂を何一つ知らないらしい。
 その手に一斉にナイフが握られたのを見て、
「最近の中学生は発育がいいねえ」
 マユミと視線を合わせると、くすりと笑った。
 が、その表情が動く。
「碇さんには関係ないことです。あなた達の用は私でしょう」
 シンジを後ろ手にするように、すっとマユミが前に出たのである。
「ありゃ」
 女騎士に守られるのは恥、と思ったかどうかは不明だが、
「黒ヒゲ危機一髪って知ってる?」
「はい?」
「体にざくざくナイフを刺して、何本まで死なないか試すやつ」
「おもちゃ屋さんで、見たことはありますわ」
「それを僕で試したいらしい。刃を向けられたのは僕だよ、マユミ嬢」
 ですが、と言いかけて止めたマユミだが、奇妙な事にそこには刃物への恐怖など、微塵も感じられなかった。
「じゃ、決まりだ」
 す、とマユミを下がらせると位置を入れ替える。
「いい度胸だよきれいな兄ちゃん」
 刃物に絶対有利を見ているのか、失神している仲間を見ても引く様子はない。
 或いは、単に寝たふりだと思っているのか。
「ちょいまち」
 手を挙げたシンジに、
「なんだ?ここへ来て命乞いかあ?」
 笑いかけた女達を余所に、シンジはベストを脱ぐとマユミに渡した。
「防弾じゃ卑怯だし、悪いけど持っててくれる」
 ワルサーは車内で留守番しているから、見た目は丸腰である。無論両足首には物騒な物が出番を待っているが、長めの裾からはそれは見えない。
 だが、ベストを受け取ったマユミの顔色ははっきりと変わっていた。
 渡されたそれは、マユミの手を下がらせる程の重量を伴っていたのだ。 
 マユミの表情に気づく事もなく、
「へんっ、高い服は切られるともったいないってかい」
「安心しな、そのきれいな髪だけ切ってやるからよ」
 扇形に分かれ、すっと散開した女達の両手をナイフが行き来する。どうやら扱いには多少は慣れているらしい。
 ただし。
 手品のように振り回せるのと、殺傷能力を引き出せる事とは別である。足首の住人がぶつぶつ言うのを聞きながら、シンジは構えようともせずに立っている。
「はやくしてね?」
 毒を含んだ甘い囁きに、むしろ恐怖に似たものを喚起されて一人が突っかけた。構えも何もない、数打ち鉄砲みたいな突きを軽くかわすと手首に手刀を打ち込む。手首を捻ることも、いや打ち込んだそれにさえ殆ど力は入っていない。
 とは言え、勢いの乗ったそこへ打撃が加われば、それなりのダメージは与えられる。
 手首を押さえて蹲る仲間に、引くよりも突撃を選んだのか、左右から同時に突っ込んできた。
「やれやれ」
 と呟くと、一歩引いて同時に手首を掴んだ。
 軽く握ったようにしか見えなかったが、びくりとも動かない手に離せよお、と口々に喚くのを無視して、
「これ君の取り巻き?」
 振り返ってマユミに訊いた。
「やんちゃな上級生です。私の眼鏡が気に入らないのだとか」
 見るからにいじめっ子の類に見えたが、マユミの表情は至って平素であった。
「ふうん」
 と首を傾げてマユミの顔を眺めたシンジ。その手は刃物を持った手首を押さえたままである。
「な、何か…」
 横を向こうとしたマユミに、
「伊達眼鏡じゃあね」
「どっ、どうしてそれをっ」
「図星だったの?」
「…え?」
 マユミが一瞬呆気に取られた時。
「いてーなこら、離しやがれ」
 置いて行かれた一人が、思い切り手を振り払った。
「碇さんっ」
 マユミが小さく叫んだのは、シンジの手の甲に出来た赤い筋を見たから。振り払った時勢いよく振ったせいで、シンジの手に傷を付けていたのだ。
「傷のお返し、と言う大義名分は出来た」
 つう、と血の流れ出した手を見ながらシンジが言った−レントゲン写真を吟味する医者のように。
 動こうとしたマユミを止めたのは、シンジの全身から漂うおっとりした気であった。
 自分の傷を見ながら、その口調には何の変哲もない。
「いけない子だね」
 軸足を一歩踏み込んで右手を繰り出した、とまではマユミにも見えたが、それ以上の動きはその視界にも捉え切れなかった。
 倒れ込んできた体を片手で支え、
「君も?」
 笑みを浮かべた表情に、逃走を選択しなかったのは痛恨のミスと言えよう。クロスカウンターのように脇腹に入った掌は、これも一撃で小娘を失神させていたのだ。
 そこへ手首を押さえて起き上がった娘が、無言でナイフを繰り出してきた。
「しょうがないなもう」
 さも困った風にぼやくと、すっと半身だけ下がった。かなり無理な姿勢に見えたが、それでもそこからの踵落としはきれいに首筋に決まり、これもがくりとつんのめる。
 落ちたナイフがシンジの足のすぐそばに突き刺さるのを見て、マユミが再度顔色を変えたがシンジは気にもせず、
「なんで放って置いたの?」
 とマユミに訊いた。
「え?」
「こんなの畳むくらい、君なら簡単でしょう?」
「そ、そんな事は…」
 首を振りかけたがすぐに諦めたように、
「目立つのはあまり…好きではありませんから」
「じゃこれは失敗だね」
「はい?」
「これの事」
 と手に持った二人をどさっと放り出した。
「余計な事を知られてしまったね、彼らには」
 その言葉にマユミがシンジを見た。その言葉に何かを感じ取ったらしい。
「この都市(まち)は、どんな生き方でも許される」
 奇妙な事を言いだしたシンジに、
「例えば?」
「他人の生をもてあそぶのも良し、エヴァに乗って見るも良し。或いは普通に生きるもいいし」
「…ええ」
「それと例えば、こんな物を振り回していきがってみるのも面白い」
「……」
「でもその反対もある」
「反対、ですか?」
「セカンドインパクト後、殆どのモラルも道徳規準も砂上の楼閣並に壊れた。だから面白いのかもしれない−生と死が等価値になったから」
 マユミの目に?マークが浮かぶのを見て、シンジは更に続けた。
「どんな死もありうるが、どんな生き方でも許される訳ではない。これでは人は自分の生より他者の生を操る事を望む。そっちの方が面白いからね」
「報いに合わないという事ですの?」
「そう言うこと。例えばこの子達、刃物で誰かに傷付けたとしても、自分が同じ報いを受ける訳じゃない−もっとも君には通じないけれど」
 目を覗き込んできたシンジから、マユミはすっと視線を逸らした。
 横を向いたまま、
「その人達を、どうするんですか?」
「僕の手に傷が付いたことを知れば、一センチ刻みのミンチだね。こういうのを斬りたくてうずうずしているのがいる。性格は問題あるが、切ったり縫ったりは上手い医者だし」
 あっさりと言ったシンジにマユミは、
「あら、お医者さんが?」
 とこれも驚いた気配はさしてない。
「だからもっと有効に使う」
「有効に?」
「この世に人ある限り病人は絶えない−そして移植を待つ人たちも」
「碇さん」
 シンジを呼んだマユミが、すっと眼鏡を外した。
「何をされるおつもり?」
 眼鏡は妖しさの覆いだったのか−今マユミの双眸は危険な妖香を放ち、シンジの目を正面から捉えていた。
「いい目をしているね、マユミ嬢」
 シンジの目が、これは静かにマユミの視線を受け止めた。
 二対の黒瞳が互いの瞳に吸い込まれ、たっぷりと色香を含んだ視線が空中で危険に絡み合った。
 
 
 
 
 
 シンジが刃物女達を前にしている頃、レイの病室では異変が起きていた。シンジが去って少し後、レイがゆっくりと半身を起こしたのだ。
 ぼんやりとした風情のまま部屋の四方に視線を走らせる様は、どう見てもレイの物ではないし姐姫の物でもない。
 レイならむくりと起き上がって目をぱちくりさせるし、姐姫なら何が部屋にあろうと気にはすまい。
 では答えは一つ、ユイだ。
 しかし何故、監視カメラを気にするような素振りを見せる?
 理由はすぐ明らかになった。レイが着ていたのは、黒白の水玉模様が入ったパジャマだったのだが、その胸元がみるみる紅く染まっていったのだ。
 無論ユイが自らを傷つけた訳ではなく、あの時シンジの残したそれが、未だ癒えていないのだ。やはり個々の肉体は一個として、独立している証なのか。
「…疼くのよ…ここが…今でもまだ…」
 ぎりりと噛み締めた歯の間から、亡者の呪詛を吐き出すように言葉を紡ぐユイ。日は既に西へ移動しているも、いまだその場所は高い。
 鬼女の呪詛は深夜と相場が決まっているが、この場合には通じないらしい。胸を押さえた手の間から鮮血を滴らせ、ユイは足を引きずるように出て行った。
 だがユイは知らない。
 院長室にいたユリが空中に出現した映像で、廊下の様子を映し出していたことを。
 患者のプライバシーを考え、現時点では室内まで映していないものの、一歩廊下に出れば一挙一動たりとも監視から逃れることは無い。
「院内ならどこへ行かれるも自由だ。とは言えまだ患者の搬送は全て済んでおらぬ」
 言いかけて受話器に伸びた手が止まった。
 空中の三次元スクリーンは、蹌踉と歩いていくユイを捉えていたのだ。
「野猿なら湯治だが、クローンなら創られし所で傷を癒すのが道理だ。さて」
 もう一度手を伸ばしかけた時、その胸元で携帯が小さく鳴る。
 数人しか知る者のない番号、しかもこの時間に掛けてくるのは一人しかいない。
「悪戯電話など迷惑の極みだが」
 そう言いながら取った表情は、何時ものとおり冷ややかな美を放っている。
 その表情がわずかに変化したのは、相手の声を聞いた時であった。
「これはいい時に」
 そう言った表情には、わずかながら微笑みが浮かんでいたのである。
 
 
 
 
 
「ドナー登録には反対かい?」
 妖しく迫るマユミの視線を、平然と受け止めながらシンジが聞いた。
「いいえ」
「ふうん?」
「臓器も血も、そして健康な肉組織も」
 とマユミは言った。
「ここで移植を待つ方は多いでしょう。肉体のどの部分も、余ると言うことは決してありません−健康な人のそれであれば」
「その通り。で、何が気にいらないの?」
「ここに転がっている人たち、彼らにもご両親はおられますわ」
「悲しむと思うよ−数日はね。家出率も失踪率も、未だ少しも下がってはいない。取りあえず悲しんで、それで終わりだよ」
 それを聞いたマユミが、すっと一歩シンジに近づいた。
「そうかも知れませんわね。でも」
 二人の距離は、吐息を感じられるほどに近い。
「でも?」
「一つお訊ねしても宜しいですか?」
「僕で分かる範囲なら」
 それを訊くと、マユミの口許の笑みが深くなった。
「簡単な事ですわ−碇さん、あなたはどなたなのです?」
「僕?」
「随分とベストは重量がありました−とても、普通の中学生のそれとは思えないほどに。それに私を容易く見抜き、自らに害する者を、躊躇い無く移植用に供すと言われました。貴方は一体何者なの?」
「僕が誰か知りたい?」
「ええ、とても」
 自らの姿を容易く見抜かれたせいか、その視線はどこか危険に熱い。
 すっとのぞきこむように寄せた顔からは、普段からは想像も出来ないほどの色香が漂っている。
 だが。
 その表情が硬直したのは、次の瞬間であった。
 マユミは見たのだ−目の前の少年が、明らかな別の人間に変わるのを。
 多重人格などではなくこれは別人だと、マユミの本能が告げていた。
 だが危険を告げる本能とは裏腹に、その足は微動だにしなかった。肢体は、いとも簡単に持ち主を裏切ったのである。
「飛翔力は常人を上回るようだな、娘よ」
 シンジはマユミにそう言った。
 顔も身体も同じ、だが完全に別人の声で。
「あ、あなたは…」
 魂まで消し飛びそうな恐怖に襲われながらも、マユミは我を取り戻した。意識を放り出して足だけに集中し、気を一気に丹田まで集めたのである。
「瞬時に自らを御したか、なかなか面白い芸をする。忍びの末裔か?」
 頷いたのは、けっして自らの意志ではなかったろう。
「俺を知りたい、そう言ったか?」
 弱々しく首を振ったのも、また自らの意志ではなかったろう。心臓の鼓動は不思議なほどに落ち着いていたが、もはや意識は自らの御しうる範囲には無かった。
「では、何の用だ」
 シンジの目が冷たくマユミを捉えた。そこには妖しさなど微塵もなく、悽愴な程の気を放ってマユミを射抜いている。
「なん…でも…」
 途切れ途切れにそれだけ言うのがやっと−数秒も持たずに、マユミはその場に崩れ落ちた。
「俺が誰か、と言ったな。ドクターにでも訊いてみるか」
 マユミから興味を失ったように視線を逸らすと、シンジは携帯を手に取った。
「俺だ」
 相手が出るのと同時の、第一声がこれであった。
 その声で認識した時、電話の向こうで僅かに表情を変えたに違いない−喜色へと。
「これはいいときに」
 ユリは確かにそう言ったのだ。
「陽光でも不足してるのか」
「いえ、足りないのは人手」
「オペ、ではないな。人捜しか?」
「碇ユイが脱走を。胸元の傷はシンジが負わせた物、まだ癒えてはいないわ」
「ほう」
 数秒宙に視線を向けた後、
「行き先はセントラルドグマだな」
「おそらく」
「赤木リツコに連絡を?」
「主(ぬし)が見つかるとも思えない、無駄よ」
「主か、主ならそうするかも知れんな、確かに。ところでドクター」
「何でしょう」
「人手不足の折りに悪いが」
「これはつれない事を。何なりと」
「ここに生きのいい生け贄が四匹いる、持っていくか?」
「赤木リツコのダミーはもう手当が済んでいる筈。すぐにサツキを回すわ」
 分かった、と切ろうとしたシンジの指が止まった。
「手配の為にわざわざシンジが?」
 先に訊かれた辺り、ユリには気づかれていたらしい。
「…一つ訊くが、俺は誰だ」
「私の想い人、では不足?」
「今ひとつ不足だ」
 電話を切ったシンジは、倒れているマユミに再度視線を向けた。
「なかなか面白い事を訊く娘だ。僕にしてみるのも面白いがさて」
 一瞬双眸に危険な光が浮かんだが、すぐにそれをうち消して微かに口許を緩めた。
 サツキは十分もしない内に到着し、鮮度を保って手際よく運び出して行ったが、その時にはもう、シンジは普段のそれに戻っていた。
「じゃ、頼むね」
「お任せ下さい」
 最敬礼したサツキがふと、
「何故頬に?」
 と訊いた。無論リツコのダミーに付けた傷の事を指している。
「宇宙海賊の女船長って知ってる?」
 それを訊くとサツキは僅かに笑って、
「あの赤木リツコという女、そんな柄ではありません−容姿も精神(こころ)も」
「何かあったの?」
「アオイ様がおられたら、今頃は三途の川でおぼれている頃です」
 ふうん、と納得しかけたが、
「こらまて」
「はい?」
「将来は僕の義母だぞ」
「…何時までです?」
「内緒」
 期間限定かと訊いたサツキに、シンジはにっと笑った。
「それがよろしいでしょう。小指を落とさなかったのは、一つ貸しにしておきます」
 ではこれで、と去っていく後ろ姿を見ながら、
「リツコさん、一体何を口走ったんだ?」
 はてと考え込んだシンジだが、その時になってからようやく、気づいたようにマユミを見た。
 倒れた時に躓いたのか、白い脚と一緒に下着も見えている。
「水玉のストライプだ、まったくサツキも起こせばいいのに」
 くてっと倒れているマユミを、サツキも隊員達も起こそうとはしなかったらしい。
 呟いてから、未だ気を失っているマユミをシンジは軽々と担ぎ上げた。
 肩にひょいと担ぐ様は、町娘を拐かす山賊に見えない事もない。誰かに見られたらかなり危険な光景だが、気にする様子もなく鞄を二つ提げて歩いていった。
 
 
 
 
 
「滅ぼしてはいない−やはりまだ使うつもりのようね」
 勝手知ったるセントラルドグマ、ユリとシンジが読んだ通りユイはここへ来ていた。
 オレンジ色の液体が視界を遮る水槽を見ながら、ユイははらりと服を脱ぎ落とした。
 指の間から滴る鮮血は、抑えきれなかったものかパジャマの上衣を赤く染めている。
 純白の裸身が紅に染まっている様は、見る者にどこか痛々しさを通り越して、妖艶な感じを印象付けるに違いない。
 壁に歩み寄ったユイは、ある場所を軽く指で叩いた。
 だが何も起こらない。
「おばかさん達が塗り固めたのね」
 と言うことは、ここはユイしか知らないのだろうか。
 応えぬ壁をユイはじっと見ていた。
 まるでその視線が、あり得ぬ何かを起こすように。
 それが通じたわけでもあるまいが、その数秒後壁の一部分がゆっくりと動き出し、やがて二つに割れた。驚くべき事に、その中から出てきたのはコントロールパネルであった。
 しかしながら、レイのクローンが造られたのはユイが溶け込んだ後の筈であり、これがそのコントロールパネルだとしたら、ユイが知っているのは奇妙な話である。
 なぜユイがそれを知っている?
「綾波レイの身体なら、長門ユリがどんな重傷でも治してのける筈。ではなぜこれが残してあるの」
 パネルのボタンを押すと、ゆっくりと水槽の蓋が左右に分かれた。
 せり上がって来た梯子を上ったユイは、水槽の縁に腰掛けると中のクローン達を眺めた。胸元を押さえながら中を見ていたユイだが、ふと何かに気が付いたようにその表情が動いた。
「全てを滅ぼさぬのは補完計画の為−このレイを失敗と判断したのね。いい判断よ、二人とも」
 二人、の言葉が誰を指すのか不明だが、ユイは口許を危険に歪めると、水槽の中へと身を沈めていった。
 元よりやや赤みを帯びた中の水に、紛れもない鮮血のそれが混ざりだしたのは、数秒も経たないうちであった。
 
 
 
 
 
 身体より先に意識が違和感を察知し、目覚めたマユミは目だけ動かして周囲を見た。
「殺気はないでしょ?ここには」
 シンジの声に、ゆっくりとマユミは起き上がった。
「…碇…さん?」
 どこか調子は硬いが、それでもシンジが戻った事を直感的に悟っていた。
「なに?」
「あ、あの…」
 言いかけたマユミが、胸元の緩みに気付きちらりと服を見る。
 第一ボタンが外されているのを知り、
「あの私…気を失って?」
「苦しそうだったから。余計だった?」
「いいえ」
 と首を振り、
「少し…夢を見ましたから」
 暑くないにも関わらず、じっとりと汗ばんでいたマユミ。原因は不明だが、夢に魘されているのをシンジは見たのだ。
 そしてそれが、シンジを直接夢に見たのではないだろうという事も。
「昔の夢を?」
 シンジの言葉に、はっとしたようにマユミが顔を上げた。
「ど、どうしてそれを」
「深層意識に封じていた物が出ると云々って、知り合いの医者が言ってました」
「え?」
「額にしわが浮かぶんだそうです」
「あ、やだ」
 額にしわが、と言われて恥ずかしそうに顔を押さえたマユミだが、
「お、お父さん…」
 と、うなされるように呟いていた事など無論憶えていない。
 ましてシンジが、マユミにはすでに父親がいないことを、しかも母親が殺したことを知っている等とは、無論夢にも思っていない。
「寝顔は綺麗でしたよ」
 誉める、と言うより診察結果を告げる精神科医のようだが、それが却って効果を上げたものかマユミは瞬時に真っ赤になった。
(さっきと違うぞ)
 シンジが内心で呟いた通り、さっき顔を覆った時は顔色は変わっていなかったのだ。
 それが今は、首筋まで真っ赤に染めている。
 寝顔と言うのは、自分では確認しようがない。それを形容されて、羞恥も一緒にこみ上げたせいもあったのか。
「ほ、本当ですか…」
 蚊の鳴くような声で訊ねたマユミに、シンジはうんと頷いた。
 うなじまで紅潮させて、完全に石化しているマユミに、
「僕はこれで帰ります。今日は用が入ってますので」
 その声で我に返ったのか、
「い、碇さんあのっ」
「え?」
「い、いえなんでも…」
 言い澱んだマユミを見て踵を返しかけたシンジだったが、ドアの前でふと立ち止まった。
「能ある鷹は爪を隠すと言います」
「えっ?」
「あなたの爪は一級の物ですが、そのままでは誰も気付かないでしょう。どうしてそんなに隠したがるの?」
 訊ねられたマユミの顔から、紅潮の色がすっと消えていった。
「そ、それは…」
「あの時だって、レイなんかに吊るし上げられる事もなかったし、おかしな連中に絡まれる事もなかったでしょう。普通、いや普通以上に隠してませんか?」
「私はただ…」
「それも一つです」
 俯いたマユミへの声は、限りなく穏やかに近かった。
「得た技量を忌みながら生きるも一つ。この都市(まち)では、どんな生き方も許されます」
 それを聞いたマユミの顔がすっと上がった。
「私は、あなたが思っているような人ではないかもしれません。私の全てを知ってそう言われますか?」
「どんなものも、と言った筈です。どんな死も許されるから、どんな生き方もまた綺麗なんです」
 すっとドアを開けて出て行った後ろ姿へ、マユミは小さな声で呟いた。
「碇さん、私本当に何も?」
 レイなんか、と言ったのはシンジのミスだったかもしれない。
 マユミは直感で感じていたのだ−そう、既にシンジが自分の事を知り尽くしているのではないかと。
 
 
 
 
 
「お帰りなさい」
 シンジが病室に訪れた時、レイは起き上がって出迎えた。
 レイは、パジャマではなく真っ白な貫頭衣を身に着けていたが、シンジはちらりと見ただけで何も聞こうとはしなかった。
 何も訊かず、
「具合はどう?」
 などと言うものだから却ってレイの方が、
「こ、これ変じゃない?」
「いや、大丈夫」
 と首を振ったものの、術式の時は全裸だと知っているのかどうか。
 シンジに肯定されたものの、何となく気にいらないのか、自分の服を眺め回しているレイ。
 その顔がふと思い出したように上がった。
「あの、お兄ちゃん」
「え?」
「私…迷惑掛けなかった?」
「私?」
 クローンの事だと知ったシンジは、
「そんな事無いよ、どうして?」
「だ、だって…」
「だって?」
「わ、私より、その…」
「その?」
「き、綺麗だったもの」
(嫉妬と言う感情?)
 聞いてみたくなったが止めた。
 見た目にはさして変わらないのだが、ユリが自我を植え付けたせいで、その放つ雰囲気は少し妖しい。
 シンジは気にもしなかったが、レイはどうも気になるらしい。
「気になるの?」
 シンジの問いに、レイはうんと頷いた。
「可愛い子だったよ」
 真面目な顔で言うシンジに、その表情がすっと変わる。
「う、嘘…」
 表情の強張りを隠そうともしないレイに、
「冗談だよ」
 にっと笑ったシンジを見てもまだ安心できないのか、
「ほ、本当に?…」
 訊ねた声はまだ硬い。
「自信ないの?」
 ろくでもない事を言い出したシンジに、レイは勢い良く首を振った。
「そ、そんな事ないものっ」
「そう?」
「わ、私の方が可愛いんだからっ…あ」
 言ってから気が付いたのか赤くなった。
 自分と同じ存在が相手だけに、微妙な感情が強く働いたらしい。
「細かい事は気にしない」
 こくんと頷いたレイに、
「僕の妹は、このレイなんだから」
「私…だものね」
 その言葉には、どこか自分に言い聞かせるような響き。
「そうなるね。ところでそっちのレイは帰ってるの?」
「え?」
「僕の方はさっきまで水浴びしてたから。それに先に帰ったから会ってない」
「…離れるなって言ったのに」
 怒気を含んだレイに、
「こっちじゃないからくっつかれても困る」
 シンジの言葉をどう取ったのか、
「うん」
 と一転して嬉しそうな顔になる。
(余計だと言ったんだけど)
 内心で思ったことは、無論口には出さない。
 理由はどうあれ喜べるのはいい事だ、と思ったかどうかは不明だが、
「今日は長い夜になる。疲れは取れてる?」
 真顔になったレイが頷いた所へ、
「シンジさん、用意が出来ました」
 ドアが開いてサツキが顔を出した。
「ユリは?」
「ドクターは既にお待ちです、それと」
「え?」
「着替えるので邪魔です」
 邪険に追っ払われたシンジだが、レイは何も言わない。
 ただし。
 言いたくないのではなく、単に言えないのだ。
 レイにこの貫頭衣を着せたのはサツキだったが、
「いや、みっともないもの」
 と駄々をこねるレイに、
「いいから着ときな」
 じろりと向けた視線の一瞥で、あっさりと翻意させたのだ。
 はーい、と出て行きかけたシンジが、ドアの前で振り返る。
「ところでサツキ」
「はい」
「この間の獲物はどうした?」
「あれでしたら既に」
 既に、の後を続けないのはレイがいるからだ。さすがにレイの前で、神経組織までばらしてありますとは言わなかった。
 とは言え、これもサツキにしては珍しい。
「気に入ったの?」
 唐突な言葉で訊いたシンジに、サツキはレイの頭を軽く撫でた。
「なかなかいい娘(こ)ですし」
 シンジは頷くと、
「その通り。じゃレイ、僕は向こうで待ってるから」
 まるで待ち合わせのような口調だが、そんな簡単ではないことは、シンジが一番よく分かっている。
 シンジの出て行ったドアを見ながら、
「いい人に会えたわね」
「はい」
「じゃ、もういいかしら?」
 頷いたレイの腕に針が差し込まれた数秒後、その身体がぐったりと弛緩する。
 その顔を見ながら、
「ミスがあればこの娘は死ぬ。だが、シンジさんのお姿は見られるな−間違いなく」
 どことなく不気味な台詞は、誰の耳にも届く事は無かった。
 レイがキャリーに乗せられて、部屋を出たのは数分後のことであった。
 
 
 
 
 
(続く)

[TOP][BACK][NEXT]