第三十三話
ドッペルゲンガー、と言う単語がある。
二重存在を意味する言葉であり、一般的には自分と同じ者がもう一人いるのだ。
そしてもう一人の自分に遭うと、死んでしまうと言うのもまた一般的である。
ただし出自が既に異なる者の場合には、ごく普通にもう一人の自分に遭う事となる。
例えば碇シンジであり、或いは綾波レイである。
ところで、シンジの場合にはレイのそれとは違いダミーである。
レイのように、水槽から掬ってくる訳ではない。材料が自分の身体の一部だけに、思考も能力も殆ど変わらない。
一方レイの方はダミーではなく、完全にクローンである。従って、シンジのように便利な存在ではなく、その度に地下の生け簀から持ってこなくてはならない。
そして。
掬ってくる係の者によっては、少し微妙な感情を持つ事もある。
例えばそう、自分より可愛いと感じた場合とか。
「本体はどうした?」
にせリツコが運んできたトレーから、カップを取ったシンジが訊いた。
「既に自宅に帰ったと聞いております。なかなか回復が早いとドクターが」
ふうん、とカップを傾けたシンジだが、
「これあいつの好みだな」
とすぐにカップを置いた。
「申し訳ありません。データが不足な物で」
頭を下げたにせリツコに、
「白衣の中見せて」
「はい」
頷いたにせリツコだが、上半身が露わになった所でシンジが止めた。
「それオリジナルの?」
その視線は、レースの入った紫のブラジャーに向けられている。
「ご存じでしたか?」
「どうせ、下着が変わってるのに驚かせようとかそんなもんだろ。ユリさんの考えそうな事だ」
「女性の身体を見たがる少年に言われたくはないが」
ドアが開いてユリが入ってきた。
その横にはレイを伴っている−ただし、クローンの方だとシンジは見抜いた。
「ATフィールド、カエデの真似事とは言え直撃すれば応急にしかならん。一体何をしていた?」
「どのくらいかかる?」
「一日の安静が必要だ」
大したことはない、と言った感じだがユリがこう言う時、普通の病院なら一週間は最低かかる事をシンジは知っている。
「それより、腕に傷は無かった?」
「腕の方は完治している−中から治したね?」
妲姫がなにやらしたそこは、見た目には何ら痕は残っていなかった。
にもかかわらず、ユリの目は傷痕を見抜いていたらしい。やはり魔女医とも言われる腕は健在であった。
「同居生活は楽だよ、色々とね」
妙な事を言った後、上半身だけ露わなまま立っているにせリツコに、初めて気が付いたように視線を向ける。
「服着て」
と興味を失ったように告げたが、ユリが取り替えたと半ば知りながら確認しただけだとは、言われた方は知らない。
オリジナルの着ていた下着の確認、と言われたらどんな反応を示しただろうか。
ユリの横に立っているレイに目を向けると、こっちおいで、と呼んだ。
シンジの前に立ったレイを見ると、顔に手をかけてその目を覗き込んだ。黒い瞳が赤瞳に吸い込まれ−先に逸らしたのはレイの方であった。
その目に感情が揺れているのを見ながら、
「余計な物入れ過ぎじゃない?」
「余計なお世話?」
「…下準備?余計だよ」
珍しくやや尖った口調で言い切ったシンジ。ユリの言った下準備の意味を知っているらしい。
「それはそれは。ではもう一度取り替えて来るとしよう。それでよろしい?」
「やなやつ」
「友人の意志を尊重したのに、これでは報われないわ」
大仰に天を仰いだユリ。とは言え、シンジがそうしろと言えば躊躇いもなく、地下へ行って別のクローンと取り替えて来るだろう。
「いいよ別に。それでどうしろってのさ」
「学生は学生らしく」
「…これと?」
「私は…これ扱いなの?」
内容は哀しげだが、口調はやや色っぽい。
どうやらシンジの妹よりは、幾分艶っぽく出来ているらしい。
「普通のはどうなってる?」
「兄君の邪魔をしない程度には」
ふーん、となにやら考え込んだが首を振った。
「いいや、今日は僕が一人で行ってくる。それより、部屋の掃除させといて」
これ鍵、と渡そうとしたところへ、
「既に済んでいる」
「…もう一度」
「既に終わっている、と言った。なお家政婦を勤めたのは彼女だ」
ユリの視線がにせリツコに向く。
「メイドの役目くらいはして見せろと」
「頼んでないはずだけど?」
シンジの穏やかな声だが、そこに含まれている物をユリは知っている。
「頼まれてするのでは芸がない。それに二役程度はこなせなければ困る」
「二役ねえ」
どうだか、と言う感じで呟いたシンジは、にせリツコの白衣の中に手を差し込んだ。鎖骨の内側に指をぐりっと押し込んだが、その表情は動かない。
普通なら痛みに身をよじるか、或いは顔をしかめる筈だ。
シンジは更に下へと指を動かしていく。胸を通り越して脇腹の辺りまで行ってから、シンジはすっと指を抜いた。
「鎖骨と左肋骨が別人だね。この感じは…年代も違うかい?」
「お見事」
とユリは頷いた−少し嬉しそうに。
「何人分使ったの?」
「四人よ」
それを聞いたシンジは、上から下までにせリツコを見た。
しかし。
鎖骨と肋骨は別人だ、シンジはそう言った。
そしてユリは四人分を使ったと告げた−何を意味している?
「西太后?それとも西施?」
「試してみる?」
妖艶な目を向けたのはにせリツコである。目許の黒子さえも妖花となり、強烈な色香を伴ってシンジを捉えた。
「ユリがそれを教えたか?」
伸びた手を、一瞬早くユリが押さえた。
「邪魔するか?」
「既に使途は決まっている。滅ぼすのはその後に」
「いやだね」
ユリが抑えたのはシンジの左腕。右手が閃くのを、何故かユリは止めなかった。抜く手も見せずに引き抜いたナイフが、唸りを上げてにせリツコを襲う。
のろのろと動いたにせリツコの手が、自らの頬に触れた。
べったりと血に濡れたそれを見ながら、
「昼からだがとりあえず行って来る。そこのレイもどき、行くよ」
さっさと告げて出ていった後を、慌ててクローンが追う。
刃の部分が深く頬を裂き、抑えているにせリツコの手は手首まで紅くなってきた。
出ていったシンジを見送りながら、
「貧血の設定にすべきだったか」
困った、どころか笑みを含んだ口調で言うと、にせリツコの頬にすっと触れる。
軽く撫でただけで出血の止まった傷口を見ながら、
「頬に傷があっては無粋だ。サツキの所で治療してくるように」
と命じた。
にせリツコは一礼して出ていったが、
「淫の要素が強すぎた。とは言え、私の想い人でなかったのは幸いだったか」
呟いた声は無論、誰にも聞かれる事はなかった。
部屋を出たシンジはちらりと後ろを振り返った。
扉に貼られている院長室のプレートは、元々ここにあった物だ。
「通すのも最後だな」
ここは地下二階にあった筈だが、まもなくここが通常にはこれなくなる事を、シンジは知っていた−そう、長門病院にあるユリの部屋と同じように。
クローンレイが追いついて、シンジの横に並ぶ。
「妹の具合見てくるから、先行ってて。車は地下の駐車場に入れてあるから」
はい、と頷いて去っていく。
地下の駐車場は妙に広かったが、おそらくは迷うこともあるまい。迷ったらユリに探させれば済むことだ。
クローンレイが去っていくのを見送ってから、シンジは反対の方向に歩き出した。
レイがいる部屋はユリから訊いている。数分歩いてから、シンジはある部屋の前で立ち止まった。
「入るよ」
起きているかは知らないが、とりあえずノックしようとした手が止まった。シンジの嗅覚が強烈な妖気を感知したのである−間違えようも無いほどの強力なそれを。
はて?とシンジが首を傾げる。
ユリの前でわざわざ出て来るとも思えない。
起きたかな、とドアを開けると、妖艶な顔が出迎えた。
レイと同じ顔ながら、雰囲気も発する気も全く違う。パジャマ姿は、レイなら可愛いの部類に入るかも知れないが、妲姫となるとそれさえも妖しさの一つへと姿を変える。
「レイはどうした?」
「寝入っておる。いや、逃げたと言った方が正しいやも知れぬな」
「…逃げた?」
「お前の女遍歴に、衝撃を受けたようじゃぞ」
からからと姐姫は笑った。
「その言い方は語弊があるぞ」
クレームを付けたシンジに、
「ではなんだと申すのじゃ?」
「あれは僕の女じゃない。第一僕は何もしていないぞ」
「何もせずに魂を賭けて忌まれるか?面白いやつよ」
お前な、と言いかけてシンジは止めた。
幾星霜を経た妖女と、言い合っても勝てないと知ったのだ。
「具合は問題ないの?」
それを聞いた姐姫、なぜかにいっと笑った。
「は?」
「シンジよ、ユリはお前の主治医か?」
「一応」
「即刻解任せよ」
「なんでまた」
冷たい、と言うより命じるような口調で告げた姐姫にシンジの眉が動く。
「投薬でも間違えたの?」
「これじゃ」
姐姫が握っていた手を開いてシンジに見せた。その中にあったのは、くしゃくしゃに丸められた呪符。
「これは?」
「あやつが目を醒ましおったわ」
「……レイはそれで?」
訊ねたシンジの全身から、急速に鬼気が立ち昇っていく−姐姫のそれにも劣らぬような、凄絶な鬼気が。
「レイの精神力では太刀打ち出来ぬわ。ろくなことをせぬ小娘じゃ」
それを聞いたシンジの気が、緩むまでには数十秒を要したろうか。漸く気の緩んだシンジを姐姫は手招きした。
「ん?…あ、こら」
つ、と歩み寄ったシンジの手首を姐姫はぐいと掴んだ。
「断るか?シンジよ」
一瞬、姐姫の手の力が緩んだが、シンジは抜け出そうとはしなかった−姐姫がユイを押さえ込んだことを知っていたから。
姐姫は半身を起こしていたが、挙動に僅かな乱れがあったのを、シンジは見て取ったのだ。
シンジを手元まで引き寄せると、艶のある髪をかき上げて白い首筋を露出させる。
ただし姐姫の顔に、普段のような危険な色香が無いのは、かなり精神力を使ったせいだったのか。
少しだけ飢えた風情を見せて、シンジの首筋に唇を付けた姐姫。紅い唇が白い首筋を這う姿は、かなり吸血鬼のそれに近い。
が、その痕に残るのは赤い鬱血の跡のみ。
「今度から呪符に埋め込んどくか」
首筋を抑えたシンジに、
「無駄じゃ」
「ん?」
「今のお前では、まだ移し身のそれは出来ぬ。それに」
「それに?」
「わらわが楽しめぬであろうが」
妖しく笑った姐姫を見て、シンジはやれやれとため息を吐いた。
「ところで猫」
「なんじゃ?」
「この貸しは高くつくぞ−とてつもなく」
「屑とは言え、弑逆に執念を燃やすとは変わったやつじゃな」
ではシンジの言った貸しとは、吸精を許した事ではなかったのか。
それにしても、自らも数え上げられぬ程の時を生き、数多の王朝を思うがままにしてきた妖女に変わったと言われるのは。誉かそれとも恥か。
シンジはそれには答えず、姐姫の顔を黙って眺めた。ただし、その視線は姐姫の目を見てはいない。
数秒眺めた後、シンジは自ら視線を逸らした。
「そのうち滅ぼしてやる」
威嚇するように言ったが、どうも迫力が足りない。やはり殺気がないと、シンジの場合は今ひとつのんびりして見えるのだ。
無論姐姫がそれでこたえる筈もなく、
「楽しみにしておるぞ」
からかうように言ったのへ、
「オペは明日だ。後半日大人しくしてろ」
ぷいっと出て行った後ろ姿を眺めて、
「頼りにならぬ執刀医じゃが、長門ユリよりはましじゃな」
床に落ちた呪符にちらりと目を向けると、姐姫は横になった。
だがその刹那、しなやかな眉が僅かに寄る。
「シンジから吸い取っても完全には消えぬ−わらわが、このわらわが手ずから八つ裂きにしてくれるわ」
一語一語が、火を噴きそうな言葉であった。
凄まじいまでの妖気のせいか、病室のドアが一瞬きしんだ事を、無論シンジは知らない。
「もうこれで三日目ね」
三国志演義から目を上げた少女が呟いた。いつものように、図書室へ来ていた山岸マユミである。
三日目、と言うのは体調の事ではない、シンジの事だ。
昼休みになるとシンジは殆どここへ来る。
よほど本が好きなのだろう、とマユミは見ていたが、実際には校内の喧噪を避けたに過ぎない。
そのシンジがここへ来なくなって、もう三日目になる。
気でも変わったかと思っていたのだが、学校へも来ていないと知り気になっていた所である。
ただし。
教室へ行って見たのではなく、生活課の端末へ侵入して調べた辺り、マユミらしいと言えるかも知れない。
わざわざシンジの所在を他人に訊くより、ハッキングの方を選んだのだ。
「…妹の訓練でもしているのかしら」
シンジとレイの、傍目には幾分奇妙な関係は分かっている。そしてレイのやや変わった性格も。それを知るからこそ、以前締め上げられた時にも抵抗はしなかったのだが。
首を傾げたマユミの口調は、ほんの少し冷ややかに聞こえた。
だが、またすぐに元に戻ると本に視線を戻す。その表情がぴくりと動いたのは、数秒後の事であった。
「あら?」
呟いた後、一瞬その表情に喜色にも似た色が浮かぶ。マユミの嗅覚は、聞き慣れた足音を聞きつけたのだ。
ドアが開けられた時、素知らぬ振りをするのに、ほんの少しだけ苦労したかどうか。
入った来たシンジと目が合い、マユミは小さく頭を下げた。いつもの読書少女の顔がそこにはあったが、彼女の母親がそれを見ればその黒瞳に、わずかな感情の揺れを読みとったかも知れない。
「久しぶりかな?」
「三日ぶりです。碇さん、身体がどこかお悪いのですか?」
「ううん」
シンジは首を振ると、
「単なる登校拒否」
「…妹さんが?」
そう訊いた時、マユミは自分の口調がわずかに下がるのを感じていた。
「いや、兄妹揃って脱走を」
くすっと笑ったシンジに、マユミの表情もつられて緩む。
「ところで、今日は何を?」
「三国志演義です。正史とはやや異なる部分も多いですけれど」
言いかけてマユミは止めた。シンジがこれも、歴史には通じている事を思い出したのである。
それに気づいたかどうかは不明だが、
「三国志には何人か姫が出てくる」
「はい?」
「マユミ嬢は誰が好き?」
「私ですか?私は…」
ほんの少し首を傾げてみせると、清楚な雰囲気に似合わぬ妖しさがすうとこぼれる。
「祝融とか?」
「祝融?」
オウム返しに繰り返した後、該当人物に思い当たったらしい。
「碇さんひどいですわ」
と、柔らかくだがシンジを睨んだ。
なお祝融というのは南蛮王の妻であり、殆ど全裸に近い格好で戦場を駆け回り、諸葛亮配下の武将を二人ばかり捕らえた男勝りである。ただし、罵声に引っかかってあっさりと趙子龍に捕らえられているのだが。
マユミの視線は睨む、と言うよりどこか甘かったが、それを見たシンジの表情が一瞬だけ変化した。
シンジはその中に、自分に似た物を読みとっていたのだ−すなわち鋭利な殺気にも似た何かを。
怒ったから表れた、訳ではあるまい。元より備わった物が、一瞬だけ顔を出してしまったのだ。
(今のは職業的な物だな)
そう見抜きながらも、シンジは口にすることは無論せず、
「じゃ貂蝉とか」
離間の計に自らの肢体を賭け、事の成った後は命もまた散らした美女である。
「い、碇さん」
「美女だよ」
あ、と言った後、
「で、でも私はあまり好きでは」
と言ったものの、美女の単語に反応したのか、その頬はわずかに赤い。
「じゃ大喬か小喬?」
呉の孫策・周瑜にそれぞれ嫁した絶世の美女姉妹である。
「あ、それでしたら…あ、そ、そのっ」
うろたえているのは、シンジの視線に遭ったからだ。
シンジは、うっすらと微笑っていたのである。
「あの二人、確か特Aクラスの美人だったね」
「そ、そんな意味ではなくてその…え、えっと」
マユミの顔を楽しむように眺めていたが、ふと真顔になると、
「あの、一つ聞いていい?」
「はい?」
その次の瞬間。
ポケットから何かを抜き出したシンジが、マユミの胸元に手を伸ばす。そしてマユミがそれを掴んで、内側に捻るのとがほぼ同時であった。
とは言え、シンジの腕を押さえ込むのはまず至難であり、シンジはマユミの手首に触れると、難なく手を抜きだしていた。
「あ…」
洩らしたマユミの顔が、見る見る蒼白になっていく。昼過ぎの図書室、その一角にそこだけ危険な気が立ちこめた。
「お見事」
と囁いたシンジの顔は、普段通り何の変化も見せてはいない。
「ど、どうして…」
愕然と呟いたマユミに、
「動きに隙が無かったし、何となく思ったんだけど」
武器はこれね、と見せた手にはガムが乗っている。
謀られたと知ったがもう遅い、手を震わせているマユミに、
「良かったらどうぞ」
と促した。
「はい…」
とは言ったものの、すぐには手を出そうとはしない。マユミがゆっくりとそれに手を伸ばすには、数十秒を要しただろうか。
「勢いをそのまま受け流す、どこかの柔術?」
「胸を触りたがるような人には、お仕置きしないといけませんから」
そう言ってシンジに向けた視線は、さっきより幾分硬い。
「触れば良かったかな」
真顔で訊いたシンジに、
「こんな胸で良ければ」
「ご機嫌損ねた?」
「…私にですわ」
「自分に?」
「碇さんの殺気は虚の物でした。見抜けないのは未熟な証です」
「そうでもないよ」
「…はい?」
「ポケットから手を出した時だけ、少し気を乗せて見た」
「まあ」
やっと表情の緩んだマユミが笑みを見せる。と、その時五分前を告げるチャイムが鳴った。
ん、と時計を見たシンジが、
「帰りが遅いせいで来るのが遅くなった。じゃまたね」
「あ、はい」
踵を返して出ていきかけたが、出口の前でひょいと振り返った。
「もしかしたら」
「え?」
「孫夫人だったかな」
それを聞いたマユミの口が小さく、だがぷーっとふくらんだ。
「私、そんな乱暴じゃありませんっ」
と言った声は、無論遠ざかっていくシンジには届かない。しばらくシンジの出ていったドアを眺めていたが、やがてうっすらと笑った。
「ばれてしまったのね…困ったわ」
内容とは裏腹に、少しばかり嬉しそうに。
なお孫夫人とは、呉王孫権の実妹であり劉備に政略で嫁した公主である。閨の周りに百人からなる薙刀を持った侍女を配し、自らも腰に弓を下げる程の武芸達者だったという。
もっとも、初夜の寝床に武装兵がいたらどうなるか−と夫を驚かせようと思ったのかも知れない。
そう、もしかしたらの話だが。
真面目に受けている、と言う事と面白い事とは別問題である−まして、とっくに理解終了している箇所であれば。
とは言え、シンジは発言することはしないし、全部をノートに取る事もしない。あくまで、真面目に聞いているの範疇にいる、というだけである。
しかし、聞いている姿勢と満点に近い点数とがあれば、依然旧体質の教育側から見れば問題はない。
今もシンジは、澄んだ黒瞳を黒板の方に向けている。
ただし、その心中はここにはない。
シンジの思考は、妲姫とレイ、そしてユイの分離にあった。
呪符はあるし、魔力も問題あるまい。術式がいまいち不明な所もあるが、おそらくは退魔の物がそのまま使えるはずだ。今シンジの端末の画面には、訳の分からない式がずらりと並んでいる。
勿論授業の物ではなく、式をシュミレートしたものだ。そうは言っても、陰陽道の中には表示できぬ字も大量にあり、現に何カ所は文字化けを起こしている。
病院を出る時ユリから渡されたのが、ウェールズからの航空便だったのだ。特別航空便で送られたそれは、モミジが式をディスクに収めた物であった。シンジの家にある機械なら当然表示できる範囲内だが、勉強程度しか目的にされてない端末では、バグを起こすのは当然かも知れない。
モミジが送ってきたのは全部で四タイプ。
いずれも退魔の、それも憑かれた者から追い出す場合の代物だが、基本的には大差はない。
ただし、単語が幾つか違うだけで効果はかなり違う。
と言うより失敗する事もあると、シンジは実体験で知っていた。
低級妖魔に取り憑かれた女の体内から追い出そうとして、逆に上級悪魔を喚んでしまったケース。この時には三流の腕前のせいだったのだが、結局家もろとも焼き払う羽目になった。
或いは、追い出しと憑魔を誤ったケースや、患者ごと退治してしまったケースなど、数え上げれば枚挙にきりがない。
「ミスったらミスったで…」
ちらりとシンジは前の席を見た。代理レイはこれも端末と黒板を、交互に見ている。
おそらくユリのことだ、死のために連れてきた位は告げている筈である。水槽の中に浮かんでいたレイの仲間が、どの程度まで自我や想いを持っているのかは分からない。
ただ、一応クローンでも人は人である、本来ならば使う所ではない。これが他のケースであれば、シンジはダミーを使っていただろう。
だが、今回は場合が違う。同一の肢体、にもかかわらず明らかに別個の生命体を分離しなければならないのだ−シンジがレイごと始末しない為にも。
妹にしたと言う事と、記憶を持ったならば殺すと告げた事とは相反する二点ではあるが、シンジに取っては碇ユイの抹殺が最優先であり、妹にするも側に置くも総てはその二の次なのだ。
シンジがクローンを使う−それも滅ぼす為に−のはその為であり、ダミーを使わなかった理由はそこにある。ダミーを使った場合、クローンのそれとはどうしても波長が異なる。ダミーとは、身体的パターンも若干ながら異なるのだ。
これが牛とか羊ならいい。
食用にするのに、多少大きさが違っても問題は無いからだ。
しかしこれが異人格の移植に使う、となれば話は全く異なってくる。
簡単に言うならば、抜き出したそれを一旦呪符に押し込み、そこからスペアの方に異動させるのだ。従って当然ながら、移動元と異動先とは全く同じで無ければならない。
つまりわずかでもずれがあれば、即致命的なミスに繋がるのだ。
なお素体間にずれがあったらどうなるか。
呪符に移した時点で行き場を失う事になる−すなわち物理的な死を。
それがユイならば、シンジは歓んでそうしただろう。いや、狂喜したかもしれない。
だがそれがレイであった場合、彼女は二度と兄には会えぬ事となる。確かに何が起きてもおかしくはないのが手術であり、ましてそれが霊的な物となればその度合いは一般の比ではない。そうは言いながらも、今のレイはシンジに取って妹である。無論実際の血のつながりとは異なるし、むしろユイの絡みで言う点では忌むべき方が強いかもしれない。
ただし、シンジは現時点で別物と見ているし、それは間違いではない。
書類など無くとも診療契約に違いはない。シンジは最善を尽くすつもりでいた−たとえそれが自らを抑える結果となろうとも。
(今回はあいつに譲ってやるか…やれやれ)
無論ユイを始末する事だが、ぼんやりと考えたシンジはふと気づいた。
すなわちレイの体からユイが消えれば、妲姫の本当の姿が見られるのではないかと。
長身に長髪はある程度分かる。既に妲姫が、魔気を自分の回復に当てている姿を見ているからだ。
そして重量感のある胸も。
レイの肢体でもってさえ、ぐっと重量感は増える。
あれで元に戻ったら一体どうなるのかと、シンジがなにやら宙を見上げた時、端末がメールの着信を告げた。
(ん?)
「放課後、屋上で待っています」
なにやら妖しい文面だが、見ると差出人がない。無いのではなく消してあるのだが、シンジには通じない。数秒考えた後、取り出したディスクを入れてキーを叩く。
洞木ヒカリ、と言う名前を読み出すまでに十秒とかからなかった。
何の為に消したのかと、首を捻りたくなったシンジは、ちらりと横を見た。シンジの方を窺っていたヒカリが、すっと視線を逸らしたのに気が付いた。
(今度は決闘?花嫁でも賭けるのかな)
今までに、手紙の類がうぞうぞと来た事はあるが、呼び出された事はない。ここへ来てトウジの一回目と、ヒカリのこれで二回目である。
「ここ、呼び出しが流行ってるのかな」
微かに首を傾げて窓の外を見る。一点の雲もない青空を見ながら、また使徒は来るのかと別の事を考えた時、シンジの意識はしばし成層圏辺りまで吸い込まれていた。
「先に車で待っていて」
結局付き合う事にしたシンジは、にせレイにそう告げた。レイと同じ容姿ながら、完全な別物と分かっているだけに少し勝手が違う。
とは言えユリの植える思考に、シンジへの抗が無いのは分かっている。
はい、と頷いたレイは素直に従った。
「操り人形じゃないが、かといって木偶人形でもない。本当は−水槽で泳いでいられたものを」
ぽつりと呟いた声は、無論クローンレイには届かず、放課後の喧噪に紛れて消えた。
思考内容がよく分からない、幾分無表情なままシンジは屋上に出た。
その視界に二人の男女が映る。
(袋叩き?)
到底そうは見えなかったが、シンジは内心で呟いた。
「洞木ヒカリに鈴原トウジ、何の用?」
「『ごめんなさい』」
二人揃って頭を下げた姿を、シンジはぼんやりと眺めた。
太陽はまだその勢力を保っており、見上げた空に翳りはない。今屋上にいるのは三人だけだが、彼らの間を沈黙が漂う。
ヒカリとトウジにして見れば、かなり長い時間に感じたろう。とは言え、時間にして十秒も経ってはいなかったはずだ。
「許してやんない」
感情の読めない声でシンジが言った時、二人の肩がびくりと震えた。