第三十二話
 
 
 
 
 
 レイはシンジをこう評した−大切なお兄ちゃんだと。
 何故かと聞かれた時、優しいからだと言った。
 自分を人外と知りつつ、優しくしてくれたからだと。
 ただ−
 違和感、或いは異種と認定する基準は人によって異なる。夭糸に加え、どこか凄絶な程の美貌を持つユリや、持てる雰囲気は異なれど、これも美貌に加え圧倒的な戦闘力を誇るアオイ。そして実質シンジの保護者であった信濃夫妻もまた、常人から見れば異常な存在であったかも知れない。
 殺人を適用する場合、未だに呪殺の類は不可能犯とされている。それをたやすくしてのける土御門家の者達とて、例外ではあるまい。
 その中で成長し、また自らも彼らの能力を少なからず会得しているシンジにとって、ATフィールドなど心霊兵器くらいにしか思っていない。
 だとすれば、少年が少女を人外とは見なくとも、さして不思議はない。
 だが、今シンジは気づいていた。
 自分がレイの写真を見た時、感じた物はある種の感情のざわめきだと言うことに。
 そしてそれは思慕では無かったということに。
 そう、碇シンジが魂までも賭けて憎悪する女−碇ユイ。レイから顔を出した彼女を見た時に、感じたのと同じ物だったのだ。
 
 
 
 
 
 レイの方に顔を向けたシンジだが、触れている胸から手を離そうとはしなかった。
 押している、というより単に当てている感じだが、
「何を考えている?」
 シンジは穏やかに訊いた。
「私ね…う、嬉しかったの」
 囁くように言ったレイ。その双眸からは以前として涙が落ちているが、声は異様なほど乾いていた。
「私がクローンだと知っても…私が使徒と変わらないと知っても…お兄ちゃんは優しくしてくれた。だから…お兄ちゃんに会えて良かったって」
 胸に当たっている手を見ながら、更にレイは続けた。
「でも、それは違うって分かった−どこか違うって」
「いつ」
 何が違う、と聞かなかったシンジ。レイの言葉の意味が分かっているのだろうか。
「土御門カエデと闘った時。紙に字を書いて力を与える、これだって普通に見ればおかしな感じはするもの。だから私は思ったの…お兄ちゃんに取っては何でもない事なんだなって」
「それで」
「お兄ちゃんは私に言ったでしょう−代わりがいるからとは言っちゃ駄目って」
「で」
「だから私は余り無理をしないの…私は一人だけだから」
 妙な言葉にはどこか哀しげな響き。
「でも死ぬのならお兄ちゃんの…貴方の手に掛かりたいの…私の中にある人格の…碇ユイが完全に戻る前にっ」
 シンジを兄と呼ぶようになってから、初めてレイは貴方と言った。
 胸の手を更に強く押しつけると、
「碇ユイのクローンだからシンジの妹−ユリさんはそう言われた。私は自分の元を少しだけ嬉しく思った。でも今は違う…こんな事なら私は…私は!」
「生まれて来なければ良かったと?」
 すっとレイから手を離し、シンジは冷然と起き上がった。
「生を選ぶも良し、死を選ぶも良し。だが勝手に絶望した娘の手伝いなど、まっぴらごめんだね」
 シンジの言葉に、レイはすうと俯いた。
「ひ、ひどい…あう」
 単に置かれていたシンジの手が動いたのだ。手そのものは動いていないが、ちょうど谷間の位置にあった中指がすっと押しつけられ、わずかに胸が強調される格好になる。
「ここが嘘を言ってなければそうしてあげる」
 奇妙に優しい声で囁いたシンジ。
 だが、そうしてあげるとは?
「う、嘘?」
「本当に僕に殺して欲しいの?」
 シンジの片手が動いてレイの顔を持ち上げる。黒瞳に捕らえられたレイは、その赤い瞳を逸らそうとしたが…逸らす事は出来なかった。
 静まり返った室内を静寂が支配し…それが破られたのは数十秒後の事であった。
 低い嗚咽と共に、ぎゅっと握られたシンジの手を再度熱い涙が伝う。
「わ、私だって本当は…本当はずっと…」
「ずっと?」
 知りつつあえてシンジは冷たく促した。
「ずっと…ずっとお兄ちゃんの妹で…ずっと一緒にいたいっ、だけどっ」
 叫ぶように言ったレイが更に言いかけ−その表情が硬直したのは、シンジの視線に遭ったからだ。
「うそつき」
 人間という種族は、万物の霊長と言われるだけあって、なかなか高尚な生き物と言える。だから本能を持ちつつも、理性でそれを抑える術を知っている。
 もっとも、時には本能で大暴れする事もあったりするのだが。
 そしてそれ以外に、つまり本能の暴走以外にも、自分が抑えられなくなる事はある。
 たとえば…自分を見失った時とか。
 シンジの目に拒絶が無かったせいか、或いはその口調に何かを感じたせいか、レイは全裸のままシンジの胸に飛び込んでいた。
 ユリを見た時から、薄々は感じていたことだった。シンジが自分を普通に扱ってくれるのは、シンジに取って尋常でない能力など驚く事ではないのだ、と。
 だがそれでも心のどこかで、シンジは自分を特別に扱ってくれているのだと−普通に見てくれるのは特別視の証なのだと、やや相反する感情のまま来ていたレイ。
 それがカエデの力を目の当たりにしたことで、いやカエデとシンジが知り合いだった事も、どこか影を落としていたのかも知れない。自分でもよく分からない感情に戸惑うまま、間違いなく負の感情ではあるのだが、口にしろと言われれば無理であったろう。
 溢れる何かを押し流すように、どこかレイの涙はそんな感じに見えた。
 Tシャツにジーンズ姿のシンジは、自分の胸元を見た。
 みるみる染みが広がって行くのを眺めたが、少ししてからレイの顔をくいと離した。
「ではなぜ僕に頼んだ?僕の手で送って、と」
「…私には…何も出来ないもの」
「何も出来ない?」
「ATフィールドも、私が使えるようにした訳じゃない。私には術なんか、何一つ使えないの…どんなに自分の人格が嫌でも…何も出来ないわ」
「それで」
「ご、ごめんなさい…」
 シンジはそれには頷かず、
「もう一つ訊く事がある」
「え…?」
「手術は僕がすると、レイには言って置いたはずだ。僕への信用はその程度なの?」
「なっ、あ…あの、その」
「妹に信用されてないとはね」
 やれやれと、大仰に天を仰いだシンジが倒れたのは次の瞬間である。
 無論レイがしがみついたのだ。もっともいくら不安定な姿勢とは言え、シンジを押し倒すなど容易ではない。シンジがかなり力を抜いていた部分も大きいのだが。
「何?」
 自分の身体の上に、四つん這いになっているような格好のレイを見上げてシンジが訊いた。その視線はレイを通り過ぎて天井を向いている。
 全裸の死体から視線を逸らしている、と言うより風景と化している辺りは、シンジらしいと言えるかも知れない。
「…ずっといてもらうの…お兄ちゃんには…」
 殺せと言った事など、既に忘却したらしい口調でレイは言った。或いは、シンジがオペを言い出した事で気が変わったのか。
 洞木ヒカリと言いレイと言い、この年頃は結構現金な物なのかも知れない。
「僕にずっと?」
「ずっと…私のお兄ちゃんでいてもらうんだから…」
 甘えが半分、だがどこか危険な香りも含んだ声で言った途端、シンジの目に凄絶な光が一瞬過ぎった。
 息子への妄執を見せた、ある女を思いだしたのかも知れない。
 しかしそれも一瞬の事で、すぐに元に戻すと、
「嫌だと言ったら?」
「離してあげない」
 レイはためらい無く答えると、ずいと顔を近づけてきた。
(情操教育間違ったかな)
 内心で首を捻ったシンジはついと指を伸ばし、レイの顔を止めた。
「どうするの?」
 言われてレイは体勢に気が付いたらしく、その顔が紅くなった。
「あ、その…」
「別に押し倒されてもいいけど、その前に下着くらい穿いてくれる?」
 レイの視線が一瞬自分の身体に戻り慌てて退こうとした。
 だが、動けない。背中に回ったシンジの手がレイを固定したのだ。
「お、お兄ちゃん?」
「わざわざ服を脱いだのは、そして僕の手を胸に当てたのは何のため?」
 レイが言いかける前に、
「その格好なら外さない、そう思ったから?」
 歌うように言ったシンジに、レイは小さく頷く。
「それは正解だった−半分だけ」
「は、半分?」
「そう、半分」
 肯定した次の瞬間、シンジの右手が動いていた。
 綾波レイは、その時の事を一生忘れる事はないに違いない。
 シンジの右手は、その手首までをレイの胸にのめり込ませていたのだ。
「なっ…あ…あ…」
 呆然と声だけ洩らしたレイに、シンジは冷たく笑った。
「服を着ていても決して外さない−僕の名に賭けても」
 呆然、と言うより事態がよく分かっていないレイ。一つ言えるのは、シンジの手が自分の胸の中に押し込まれているという事と、何故か全く痛みを感じていないという事だけ。シンジが何をしたのかも、どうしてそんな事が起きたのかすら分かっていない。
 辛うじて自我を保ちながら、機械人形のようにレイの首が動いて胸元を見た。
 レイの目が信じられない物を見るような視線で見つめる中、何の気配もさせずシンジの手首が引き出される。
 有り体に言えば身体を貫かれた、という事になろう。しかしレイの知る限りでは、身体を貫かれて無出血はまだしも、全く無痛で済む話など訊いた事がない−ましてそれが素手とあっては。
 幻術、あるいは夢かとの思いがレイの脳裏をかすめる。
 だからレイは強く手を握って見た。
 ちゃんと爪が手のひらに食い込み鈍痛を伝えてくる。
 やはり夢でも幻でもないのだ。
  茫然自失の態となったレイの視界に、胸から引き戻されたシンジの手が映る。
 一滴の血も付いていないそれが。
「アオイなら身体ごと貫ける。でも僕ならこれが限度だな−殺さないでするのには」
「こ…これはなに…」
 震える声で訊ねたレイだが、
「アオイに教わった手品」
 つれない答えがとどめになった物か、シンジの手が自分の胸に差し込まれ、それが乾いたまま抜き出されたのを見た時、レイの自我は限界を超えたらしい。ぐったりとその肢体が倒れ込み、胸に重量感が伝わって来るのをシンジは黙って受け止めた。
 身体が触れ合う寸前に、その身体を指一本で止めたシンジは、ひょいとその肢体を仰向けにして寝かせた。上を向いた乳房の真ん中を見ながら、
「上手くいった」
 頷いているところを見ると、あまり成功した試しは無かったらしい。
 がしかし。
 それが人体から無傷で抜け出せなかった、と言うことを意味しているのなら他に犠牲者がいる事を意味してはいないか?
 いやそれよりも、レイに対しても失敗したのなら?
 
 
 数秒の間自分の手首を眺めていたシンジだが、ふと気づいたようにレイを見て、服着てなかったぞと呟いた。
 だが奇妙な事に、レイの肢体を冷ややかに近い視線で見ているシンジには、何ら反応している様子は感じられない。
 それどころか、物体を眺めている節さえある。
 以前レイのパジャマを見た時、そこから覗く谷間に視線を逸らした時の物は微塵も無い。
 今のシンジは、レイに何を見ているのだろうか。
 無表情にレイの首に手を掛けて起こす。
 だが重い、と呟くとすぐにまた下ろした。とす、とかすかな音を立ててレイの頭が枕に乗る。
 今のレイは完全に失神中だが、熟睡している人間は途方もなく重いのだ。まして全裸の人間を着替えさせるなどかなり面倒である。すっとシンジが触れたのは自分の髪、しかし気が変わったのかダミーを喚ぶ事はせず、浴衣をレイの上からそっと掛ける。
 立ち上がったシンジはベランダへと出たが、その寸前ちらりとレイを振り返った。
「望まぬなら口にしない方がいい。僕に送られる事など、本当は望んではいないでしょうに」
 まるでレイが起きているかのような口調で言うと、かすかな音を立ててバルコニーへと出ていった。
 同じ房総半島の外側のラインながら、九十九里浜とはかなり違う穏やかな海岸が、シンジの眼下には広がっている。静かに寄せては返す波を眺めるシンジの髪を、月は黙って見つめていた−少しだけ羨んでいるかのように。
 しかしここは素直に祝す事にしたらしく、雲の切れ間に隠れる事もなく白い月光をその髪へと贈った。
 視線は茫洋と、だが黒瞳の奥には確実に何かを秘めて、シンジは眼下の海岸を眺めている。
 時間にしては数分が経った頃だろうか、シンジの表情がわずかに動いた。
 ゆっくりと振り向いたシンジの目に、素肌に浴衣をまとったレイが映る。
「起きたかい?」
「お兄ちゃん」
 ほんの少し頬を染めたレイが、小さな声でシンジの名前を呼んだ。
 からからと窓が開き、レイがこれも足音だけは殆ど立てず、滑るようにベランダへ出てきた。すっとシンジに近づくと、こつんとその肩に頭をぶつける。
「もう、世迷い言は言わないから…ごめんなさい」
(世迷い言?)
「レイがいなくなればあの猫と遊ぶだけだし、別に構わないよ」
 素知らぬ顔で告げたシンジに、
「もう、意地悪…」
 ちらっとシンジを見上げるようにして睨んだ、そのなんと妖艶なことか。出自も既に不相応ながら、その表情は到底十四歳の娘がして見せる物では無かった。
 ただ惜しむらくは相手がシンジだった事−シンジはもうレイから視線を戻し、下界を茫洋と眺める事で、悠久を過ごす天使のように景色を見ていたのだ。
 少し、そうほんの少しだけレイの頬が膨らんだあたり、どうやらこれも意図的な表情だったのか。
 だがすぐにあきらめたように小さく息を吐くと、シンジの横にすいと立った。それも仕方あるまい−相手は碇シンジなのだから。
「月が微笑ってる」
 シンジの言葉に、レイの顔が上を向く。天空から見下ろす月と、レイの視線が絡まった。
「本当に…笑っているわ」
 レイが、こちらは月光のような声で囁くと−ゆっくりと微笑んだ。
 いい夜ね、とシンジに軽く身を寄せたその顔は、誰もが魅入られるような輝きを持っていた−何度でも見たいと、心の底から願ってやまぬであろう輝きを。
 
 
 
 
 
「こ、これは!?」
 愕然としたようなモミジの声も、無理はあるまい。アオイはモミジを呼ぶと、カエデの写真を見せたのだ。
 カエデ、と言う存在は知っていてもその姿形は知らない。
 既にユリからミサトの能力を聞いているアオイは、もはや任せてはおけぬと判断していた。だがそれを止めたのがヤマトだったのだ。
「確かにカエデにモミジは殺せぬ。だが、屋敷の者達を巻き込む事はあるまい。アオイよ、ネルフへ向かうのはカエデの動向を知ってからにするがよい」
 シンジならこう言ったであろう−いやだね、と。
 ただこれはアオイであり、シンジほど機動力は高くない。素直に祖父の言うとおりに従ったのだ。
 しかしながら、既にカエデが第三新東京へ向かったとなれば話は変わる。ましてシンジは東京タワーでカエデに遭ったと言うのだ。アオイの表情が、いやその全身が鬼気に近い物を帯びだしているのも無理はあるまい。
 決断したアオイは早かった。すぐに、しかしシンジの意には違わずここを経つ事にしたのだ。
 三日後にここを経つ、アオイにそう聞かされたモミジは、一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにはいと頷いた。そしてその顔が再度驚愕に彩られたのは、実姉であるカエデの写真を見せられた時であった。
 自分とうり二つの娘、しかもその容姿を知らなければ普通は自分だと思うだろう。
 だがモミジは数秒それを眺めた後、
「私に姉妹(きょうだい)が?」
 と訊ねたのだ。
「あなたの姉よ、モミジ」
「これが…私の」
「あなたのお祖母様に想い人を死に追いやられ、一族を殆ど皆殺しにした娘。一族が殆ど急死したことは、モミジも知っているわね」
 はい、とさして顔色を変えなかったモミジだが、話がシンジの事に及ぶにつれて、その顔色は変わっていった。そしてシンジが東京タワーで襲われたと訊いた時には、その顔は完全に無表情になっていた−怒りのあまりに。
「私も…お供しますわ」
 無表情のまま言ったモミジに、あっさりとアオイは首を振った。
「シンジはモミジを巻き込みたくない、そう言ったのよ。勝手に想ったのはカエデの方だけど、シンジの意志は絶対よ」
 俯いたモミジに、
「いくら貴方が死なない身体だからと言って、第三新東京へ行けばシンジの周辺も巻き込む事になる、シンジにとっては厄よ?」
「はい…あ、あの」
「何?」
「シンジ様の事、御願いします…その…気になるから」
 モミジの言葉が何を指しているのか、アオイはすぐに察した。
 軽く首を振ると、
「そうでもないわ…多分」
「はい?」
「ユリも言ったし、妹にはしたけれどモミジとは全く別。シンジが腕を任せるのは、同年代ではモミジだけよ」
 分かり切っている事ながら、他人に言われると実感する事がある。モミジの顔がほんの少しだけ綻んだ。
「それに」
 アオイは更に続けた。
「シンジは何も言わないけれど、元の力が妙にあるクローンのようね」
「元?」
「そう、元よ。あの子が元の、つまりユイ叔母様の記憶を持ったならば、間違いなく殺すわ」
 淡々とアオイは言った。
 無論アオイはシンジの言葉など知りはしないが、さすがに付き合いが深いだけにシンジを見抜く力も半端ではないらしい。
 シンジが言った事を、ほぼその通りに読んでいたのだ。
「でもそれでは」
「そう、だから移植する気なのよ。地下の水槽には、まるで生け簀並に飼われていたとユリから聞いているわ」
「造られたダミー、ではありませんのね」
「完全に別物よ。移植できる魂を造るなど、ましてそれをシンジに知られるべきではなかったわね」
「シンジ様は何と?」
「何も。あの子の思考は私には到底分からないわ」
 宙を仰いで少しだけわざとらしく、ぶっきらぼうに言ったアオイを見て、モミジが微かに笑った。
「何かあったの?」
「アオイ様、そんな事思っておられ…あっ」
 アオイがひょいとモミジを引き寄せると、軽々と膝の上に乗せたのだ。
「私を疑うのはこの口かしら?」
「あっ、あんっ、アオイ様っ…ああああっ」
 アオイの指がにゅうと動き、衣服の間から侵入したらしい。
 たしかシンジもレイに、こんな事はしていたはずだ。どうやらアオイとシンジ、似ているのは思考だけではないらしい。
 がっしりと捕まったモミジの、身をよじっての悲鳴が完全防音の室内に、しばらくの間響いていた。
 
 
 
 
 
「絶対冷やかすぞ、あいつ」
 シンジが小さく呟いたのは布団の中であった。なお隣では、シンジにぎゅっとしがみ付くようにして、レイが寝息を立てている。どうしても一緒に寝たいのだと、目を潤ませるレイをシンジは拒まなかった。
 ただし、その心には僅かに揺れがある。
 レイがどうしてもと頼んだ時、シンジはレイに訊ねた。
「どうしても僕と一緒に」
「お願い…どうしても」
 確かに言い出したのはシンジだが、経緯上断ってもさしておかしくは無い。
 だが別に寝ればシンジがどこかへ行ってしまうかのように、レイは必死の面持ちで頼み込んだ。
 刹那考えてから、シンジはゆっくりと頷いた。その瞬間レイはぱっと笑顔を見せ、本当に嬉しそうな表情になった。それを見て、シンジの表情が僅かに動いたのだが、アオイならその胸中を読んだろう。
 そしてこう言ったはずだ−自分の姿を見たのね、と。
 無論シンジがアオイに縋った事は無い。どうしようもなく寄りかかった事も無い−アオイがそれを望んでいても。
 しかしながら、ここにアオイとユリの決定的な差があった。すなわちユリは知っていたのだ−何故シンジがここまでユイを、実母のユイを憎悪するのかを。そして、アオイは知らなかったのだ、実の息子が実母を憎悪して止まぬ理由を。
 憎悪の闇に囚われた時、シンジもまた一時は迷走を見せた。確かにその時少年を支えたのは、アオイであり信濃家の当主夫妻であった。だがシンジが戻ったのは、自らの心故だったのだ。どこかで人を拒絶する凍て付いた心、それが急激に生まれた訳ではない事を、長門ユリだけは知っていた。
 だからこう言うのだ−黒衣の死天使こそ私の想い人に相応しい、と。
 とまれ、心に闇を秘めた少年は、少女を突き放す事を選択しなかった。未だ無表情ではあったが、身体を横に向けると腕(かいな)に少女を軽く抱きこむ。その瞬間レイの腕にこもっていた力がすっと緩んだのは、決して気のせいではなかったろう。
 恋人を抱きしめる、と言うよりはどこか雛鳥をその翼の下に抱く母鳥、と言った方が良く言い表していただろうか。
 腕枕はしないものの、上から覆うように頭に手を置かれて、段々とレイの身体が弛緩していく。
 母から引き離された頑是無い子供が、やっと会えた母から離れまいとしがみ付く、そんな様子にも見えたレイだったが、シンジの腕があると夢の世界で知った物か、数分後にはぴたりとくっついながらも、その腕から力は完全に抜け切っていた。
 だがこの時、レイの脚がシンジの脚にくっついていた事を、シンジは知っていた。
 いや、くっついたと言うのはやや不正解かも知れない。なぜなら、レイの脚は丸まっていたからだ−そう、胎児のように丸まって。そして腕だけはシンジの身体の下に差し込まれたままになっていたが。
 身体の下に腕を差し込まれると、大抵は難儀することになる。普通に寝るとぐにゃりと体重が掛かるからだ。かといって抜き出そうとすると、無意識のくせに嫌だと抵抗する。どううやら、今宵のレイ嬢は相当抱き枕の需要が大きいらしい。
 不眠など、シンジに取ってはさしたる事ではないが、身体をどける作業はかなりの精神集中を要求された。少しでもはっきり動くと、すぐにレイの手に力が加わる。
 起こしてどけた方が早そうだと思いながらも、シンジは数ミリずつ身体を動かしていった。
 結局、作業が終了したのは三十分余り後のことであり、いつの間にかレイの手はシンジの腰辺りに巻き付けられていた。
 むにゃむにゃと動いた手が、妖しく伸びて絡みついて来るのを見て、シンジの脳裏にはイカの捕食の様子が浮かんだというのだがさて。
 
 
 
 
 
 以前レイがシンジを連れて行ったセントラルドグマ。その水槽の前にユリはいた。
 静寂が支配する中で、ケープに身を包んだユリの周辺だけは、妖しく輝いている。
 今、ユリの視界を埋めているのは大量のレイ達である。いずれも、闖入者に好奇の目を向けて寄って来たがすぐに視線を逸らした−その妖美を怖れるかのように。ちらっと見てからさっと顔を逸らす。いずれも数秒と見ている者はいなかった。
 或いは、ユリの気に呑まれたせいもあるかもしれない。魂を与えられず、ただの物体としてそこにいる彼らに、美貌の女医は冷厳とも言える視線を向けていた。
「バックアップは良かろう、それならよく使う手だ−私もシンジも。だが何故感情の破片を植え付けた?」
 ユリが呟いた通り、明らかにそこにいるレイ達には感情は見えた−羞恥と戸惑いの色が。
 そう、彼らは恥じているのかも知れない、凄絶な美貌の持ち主の前に自らの裸身を晒していることを。
 LCLの液体の中で目許を染め、どこか危険な視線を向けてくるレイ達を見ながら、
「私の親友は協調性が足りん」
 精神科の医師が診察するような口調で言った。
「母親は我が儘と古から決まっている。所詮は女などその程度の代物だ」
 分析するような口調で言ったユリだが、或いは自らの性にもそれは向けられているのかも知れない。
 しかし、母親が我が儘でシンジに協調性がないとはどういう事だ?
 奇妙な事を口にしたユリは、
「ここへ」
 と短く告げた。
 と、次の瞬間一斉にレイ達が動いた。数十近くいたレイ達がうぞうぞとユリの前に、泳ぎ寄って来たのである。
「移植用に肉体が一ついる。執刀医が戻る前に、移植用の肉体は用意しておいても良かろう。さてどれが来る?」
 一語一語を区切るように、ゆっくりと言ったせいでもないだろうが、彼らはユリの言葉を理解したかのように先を争って水槽の中で手を伸ばした。餌を奪い合うピラニアよろしく、中でひしめき合っている少女達を、ユリは品定めするように見ていたが、
「お前にしよう。上がってくるがいい」
 少し上の方にいたレイを、リングの彩る指がすっと指した。その刹那指名されたレイの顔に、喜色にも似た色が過ぎったように見えたのは、気のせいだったのか。
 ゆっくりと上がろうとして、その動きが止まった−彼らは知っていたのだ、水槽の上が完全に近いほど密閉されている事を。
 その表情の意味を読んだのか、
「分かっている、既に開いた」
 その言葉に、漂っているレイ達が一斉に上を向き−その顔が驚愕に彩られたのは次の瞬間であった。レイ達の目は、大きく見開かれたのである。
 しかし自我無き心が影響した物か、彼らの表情は今シンジと共にいるレイとは、明らかに異なっていた。
 ぎょろりという表現が相応しいそれは、見る者に異様な感じを与え、人の表情とはほど遠い物であった。
 彼らの見る中で、ゆっくりと蓋が動いた。いや、円形に切り取られた物がすっと上がったのである。
 無論ユリの仕業だが、銃弾の直撃さえ簡単には貫通しないようになっているそれが、いともたやすく切り裂かれた事を、意志無き物体と変わらぬ彼らにも理解出来たのだろうか。
 すう、と水面まで顔を出したその身体が、次の瞬間宙に浮いた。上がって来るには梯子がいるのだが、操作パネルのパスワードを解読するより、ユリは力業を選んだのだ。
 水槽の蓋が密閉に近い状態にされているのは、クローン達の脱走防止に加えて、いかなる異物の侵入も阻む為だ。それを見て取ったユリの指が、不可視に近いほどの動きを見せるとすぐに、切り取られた部分は元に戻された。ミリ単位の隙間には糸が埋め込まれ、完全な隠蔽工作が行われる。
 作業終了後、ユリはレイに視線を向けた。
「お前の役目は死にある」
 ユリは温度の感じられない口調で言ったが、レイは意味が分からないかのようにきょとんとしている。
 全身からLCLを滴らせているレイに、
「シンジの意志は碇ユイの抹殺にある。まずはレイ嬢の中にいる者から−とは言え、今のお前では分からぬか」
 くい、とレイの顔を持ち上げるとユリは上体を曲げた。す、と二つの影が一つになりすぐに離れる。全身を紅に染めたレイに、
「私の名は?」
 とユリが訊いた。
「ユリ…ドクターユリ…」
「その通りだ。では行こう」
 無論レイの自我を起こした訳ではなく、一時的に意志を植え込んだにすぎない。早い話が操り人形にしたという事だ。
 どこにしまってあったものか、ケープの下から取り出したのは白衣。白衣を羽織らせたレイを従えて出ていく姿は、どこか地獄の魔王が手下を連れて悠然と歩く姿を思わせる。
 なお、ユリがセントラルドグマに侵入後、生け簀から掬って出ていくまでに一時間近くあったのだが、警備の者は誰一人来ようとはしなかった。
 妖艶な女医を怖れた訳ではなく、監視カメラにはいずれも普段と変わらぬ景色が映っていたからだ。
 そう、普段と何一つ変わらない風景が。
 辺りが静謐と化した後、残されたのは一人足りなくなった水槽のみ。ただし、数など興味の無い管理人達が、それに気づくことは無かった。
 
 
 
 
 
 
 シンジは結局、レイに捕食されたような格好で一晩眠らずに過ごした。天井に走り回る兎の群を投影していたシンジが、抱き付き元の目覚めを感知したのは朝の七時頃であった。
 普段ならとっくに走りから戻って、湯船に沈んでいる頃なのだが、レイが無意識にシンジを抱き枕としている物だから動けなかったのだ。いや、動かなかったと言った方が正解だろう−レイの目尻を伝う涙痕を見たシンジが。
「ん…」
 わずかに身動ぎしたレイが、うっすらと目を開ける。ぼんやりとした顔のレイとシンジの視線が合った。
「起きた?」
「はい」
 むにゃと起き上がったレイだが、何を思ったか枕元にちょこんと座る。
「ん?」
 見つめるレイに何事かとシンジが身を起こした。その上体へいきなり抱き付かれたのは次の瞬間であった。
「嘘はいけないものね」
 首にしがみつくと、肩に顔を埋めて囁くように言った。
「嘘がどうしたって?」
「本当はずっとお兄ちゃんと一緒にいたい。だから…もう送ってなんて言わないの。私は…私は綾波レイだから…」
「だから?」
「私は必ず抑えてみせる…私のこころは好きにさせないわ−碇ユイには」
 かなり強気な事を一気に言うと、シンジの胸に顔を押し付けた−シンジの反応を怖れるかのように。
「よく言った」
 シンジの手が伸びて、レイの頭に軽く触れた。
「座して死を待つなら出でて活路を…って、古代の誰かも言ってたからね。さっさと冥府に逃げるよりはいいさ」
 それを聞いたレイが、ゆっくりと顔を上げた。
 本当に?と視線で訊いた妹に、シンジは軽く頷いた。その反応に、ほんの少し潤みかけた目をぐいとこすり、安堵したようにほっと息を吐き出した。
「頭も鳥の巣だし、お風呂入ってきたら?」
 言われて自分の頭に手をやると、殆ど爆発状態になっている。あわてて立ち上がり、ばたばたと出て行った後ろ姿を見送ってから、シンジは立ち上がって上半身を軽く回した。
「お前ならどうする?」
 ぽつりと呟いた言葉は、誰に向けて言ったものか。
 鏡の前に立ったシンジは、これも自分の髪に軽く手を当てる。少しだけ艶の落ちた髪を緩く手に取ると、ゆっくりとブラシを当て始めた。
 シンジがブラシを置いたのは二十分後のことであり、レイが頭を抑えながら帰ってきたのは三十分後の事であった。
 どうしたの、と訊いたシンジに、
「頭が跳ねて上手くないの」
 奇怪な日本語になっているのを見ると、どうやら大分風呂場で苦労したらしい。シンジの髪を意識してか、このところレイは髪に手を入れていない。無論長さの話であり、手入れにはかなりはまるようになっている。
「そこ座る」
 見るとシャギーの端が跳ねている。単にギザギザを入れるだけなら簡単だが、それをきれいに保つのはかなり難しい。今までは殆ど触っていなかったと言うから、シンジもそこは首を捻っていたのだ。
 シンジに髪を直してもらい、レイがご機嫌になった所へ内線が入った。受話器を取ると朝食が出来たと言う。食堂へ来るか持っていくかと訊かれたレイは、ちらりとシンジを見た。
 荷物をまとめているシンジには訊ねず、持ってくるよう告げたレイ。
「どこから?」
「ご飯出来たから持っていくって」
「朝食?分かった」
 頷いたシンジだが、一瞬首を捻った。既に時間は八時を回っている、こんな時間に持ってくるなど記憶に無かったのだ。
「レイちゃん、それ男?女?」
「多分昨日の人だと思うわ」
「分かったの?」
「何となくそんな感じがしたから」
 よく分かったなと思ったが、昨日の口調を憶えていたのかも知れないと、それ以上は訊かなかった。
 そして五分後ドアがノックされた時、電流のようにシンジの背に走ったのは、一種の予感だったのかもしれない。
 ただし−相手が悪かった。
 待ってと制止した時には、既にレイはドアを開けていたのだ。
 レイの目に映ったのは、朝食のトレイではなく拳銃を持った一組の男女であった。
「伏せてっ」
 だがシンジの声が飛んだ時には、既に銃声が鳴り響いていた。彼等が持っていたのは大型の自動拳銃ではなく、護身用クラスの小型拳銃であった。とは言え、ブローニングの小口径であっても、この至近距離なら十分に殺傷能力がある。ATフィールドを咄嗟に展開したものの、完全に油断していたレイの腕を一発がかすめ、そのショックで後ろに吹っ飛ぶ。
 ただそれが逆にレイにとっては幸いする結果となった。男の方が、倒れこんだ標的に銃口を向け直した時には、既にシンジはワルサーを引き抜いていた。だがまるで塞ぐようにレイが立っていては、シンジも銃撃はしづらい。
 一種の障害となっていたレイが、仰向けに倒れこんだ刹那、ワルサーが猛然と反撃した。重低音の二つ目で男の手首が吹き飛び、次の二発が両胸を穴を開ける。胸から鮮血を吹き出した男から、女へと銃口が移るまでに秒と掛からなかったが、シンジが引き金を引く事は無かった。
 レイが反射的に起き上がっていたからだ−いや、凄まじい鬼気を漂わせた姐姫が。
 腹筋で跳ね起きたように見えたが、実際はそうではない事をシンジは見抜いていた。
 殺意ではなく、恐怖から引き金を引いた女の顔が凍りつく。
 五発の銃弾を手の平に受けた女が、にいっと嗤ったのだ。
「何じゃ、これは」
 一歩引きかけた女の手首をぐいと掴んだまま、姐姫が振り返った。
「喉の所に何か付いてないか」
「喉じゃと?どれ」
 次の瞬間女が悲鳴を上げた。姐姫はその手首を無造作にねじ切ったのだ。まるでパンでも千切るかのように、簡単に手首の先を分断するとまた無造作にそれを放り出す。朱に染まった手で女の顔を持ちあげたが、その時ごきりと音がした。どうやら顎を持った時に、外したか折ったかしたらしい。綾波レイと変わらぬ肢体でありながら、あまりにも圧倒的、そして人外の膂力を持つ妖姫であった。
「何やらついておる。これは、盗聴器とやらの類か」
 剥がした時、ついでに皮膚もはがれたものか、女の肌から鮮血が流れ落ちる。
「違う、変声機だ」
「変声機とはなんじゃ?」
「さっきレイが、昨日の仲居と同じ声だと言っていた。それを使って声を模写したのさ。多分今ごろホテルの裏手かなんかに、死体が一つ転がっているはずだ。で、大丈夫か?」
「ほう、わらわが気になるか」
 弄うように姐姫は笑った。
「僕の妹の方だ。首切られても死なない人には興味ないぞ」
「なかなか面白いことを申す」
 姐姫はころころと笑った。誰もが聞いて見たいと願うような声であり、顔であった。
 そしてその笑顔のまま、今度は女の首をくるりと一回転させたのだ。よく、虫も殺さぬ顔でと言うが、この場合には何と形容すればいいのだろうか。
「軽くかすめただけじゃ。すぐに治るわ」
「唾付けときゃ直るかな?」
「兄の涎なら直るかもしれぬ。やってみるか、シンジよ」
「僕は遠慮する。悪いけどやっといてくれる?」
 レイを傷つけても姐姫には影響が無く、おそらくはその逆も然りであろう。
 とは言え、姐姫なら多少はレイの身体に影響を及ぼせると、シンジは見ていたのだ。
「わらわに医術の真似ごとをせよと申すか?高く付くぞ」
「はいはい」
 次の瞬間シンジは、初体験をする事になった。姐姫が自らの傷一つ無い腕を、軽くつまんだのだ。驚くべき事に、秒と経たない内にそこには傷が出来上がった−レイの腕にあったのと同じそれが。
「シンジよ」
 自分の腕を見ながら姐姫が呼んだ。
「ん?」
「油断しておったのか?」
「一緒にいるのを間違えたのさ」
「難儀な奴じゃな」
 と言ったきり、姐姫は何も言わなかった。
 ただし、誰が難儀な奴なのかは分からない。
 腕に出来た擦過傷に息を吹きかけると、それだけで傷は消滅した。みるみる綺麗になったそこには、痕などまったく感じられない。
「これで良かろう。痕は残りもせぬ」
 大したもんだと、感嘆の面持ちで見ていたシンジだが、ふと気付いたように呼んだ。
「あ、ちょっと」
 だがそれには応えず、姐姫はソファに腰を下ろすと軽く俯いた。
「あいつ、尋問してやろうと思ったのに」
 何を考えたかは不明だが、一分もしないうちに室内から妖気は消え、ほぼ二分経った時レイが顔を上げた。
「無事?」
 少しだけ冷たい口調には、素人のレイを信用しきった、自分への感情があったのかも知れない。アオイなら決してすぐに開けたりなどしないし、シンジの頭にもそれが根本的に存在してしまっていたのだ。
「うん、大丈夫…」
 シンジのそれが伝わったのか、レイの口調は心なしか重い。
 長門病院の息が掛かった、言わば分院にも似たところはこっちにもある。取り合えず収集の手配を済ませ、シンジとレイが一時間あまり後のことであった。
 帰途の車内で、シンジはほとんど口を開かなかった。レイもまた視線を逸らすようにして、表を見ていたのだが、二人の胸中はやや異なっていた。
 レイは、はっきりと自分が足手まといになった事を感じて沈んでおり、シンジの顔もろくに見れない状態だったのだが、シンジの方は別の事を考えていた。
 流れからすれば、カエデがちょっかいを出したと見るべきだが、ホテル側の対応が妙だったのだ。シンジが何も言わない内から、支配人自ら飛んできて平謝りに謝ったのである。
 確かに襲われたのはシンジだが、罪も無い仲居が一人殺されたのもまた事実なのだ。
 にも関わらず、支配人は一言もそれを口にはせず、ただひたすら頭を下げた。
 元より、シンジにはそれを咎める気など無かったのだが、相手の対応にどこか違和感を感じていた。それが明らかに、何らかの強制力が働いているそれだったからだ。
 居場所は知らせていないし、いたとしてもこんな手の回し方をする信濃家ではない。
 それにカエデにそんな力があるとは思えない。完全に土御門宗家とは縁を切っている状態のカエデなのだ。
「誰だ一体」
 シンジが呟いたのはレインボーブリッジを通過中の時だったが、その声にレイがちらっとシンジを見た。
 どこか避けるような、と言うより怖れているような視線に、
「ATフィールドを使いこなせれば、とりあえず無様を晒す事は無い。単なる素人さんよりは、よほど役に立つよ」
 幾分緩んだ口調で言われて、漸くレイは安堵したらしい。ほっと表情が緩むと、僅かに口許が緩んだ。
「安心した?」
 わざわざ訊くと、うんっと頷いた。車中の空気はやや緩んだものの、依然としてシンジの内心は思考に全力を注いでいる。
(どうも違和感があるな…)
 内心で呟いたシンジは、その時点で考えるのを止めた。現時点ではあまりにも考察材料が少なすぎるのだ。取り合えず帰ってからユリにでも押し付けようと、邪悪な判断をしたシンジは横のレイを見た。
「朝を食べてない」
「え?」
「どこかで食べていく?」
「いらない」
 レイはあっさりと首を振った。
「いいの?」
「帰ってから…お兄ちゃんが作って?」
「僕?」
「お兄ちゃんのに慣れたから…それに美味しいもの」
「いいよ」
 あっさり頷いたが、微妙に眉が上がったところを見ると、カップヌードルにでもしてやろうと企んでいるのかも知れない。
 第三新東京までは、そこからおよそ一時間強の行程となった。だが市内に入る直前、シンジの携帯が鳴った。
「はい僕」
「今どこに?」
「もう家に着く。邪魔するなよ」
「それは出来ない」
「あ?」
「中央病院の地下に来るように。遭わせたい者がいる」
「僕に?」
「愚問だ」
 一方的に切られた電話を見ながら、あいつ調薬でも失敗したか?と首を傾げたシンジに、
「何かあったの?」
「帰る前に病院に寄れってさ。あいつ怪我でもしたかな」
 だが言われた通り、シンジは病院に車を乗り入れた。院長室の前へ着いた時、ドアがすっと開く。
「もう占拠済みかい?」
 シンジの第一声がこれであった。
「他言できない事を口走るのは止してもらおう。二人ともご無事かな」
「一応無傷だ」
「身体の方は問題ありません、ユリさん」
「それは良かった。ここへ」
 ユリが後ろを向くと、人影がすっと歩み出た。
 次の瞬間レイの表情が硬直した。
「わ、私…」
 レイの言葉の通り、前に出てきたのはレイそのものであった。
「お帰り、私」
 口調も同じそれを聞いて、シンジの眉が少しだけ上がった。
「操り人形にしたな」
「移植用の肉体だ。下準備だけしておいた」
「その通りよ」
 後ろから聞こえた声に、レイだけが振り向いた。シンジが動かなかったのは、近づいて来る気配を察していたせいかもしれない。
「お帰りなさい、シンジさん」
 リツコが深々と頭を下げ、それを見たレイが愕然とした表情になった。
「う、嘘…」
 思わず洩らした声が、白い壁に吸い込まれていく。
 シンジが笑ったのは数秒後のことであった。
「いい身体してそうだ」
 シンジは確かにそう言ったのだった。
 
 
 
 
 
(続く)

[TOP][BACK][NEXT]