第三十一話
飼い犬が散歩の途中で離れた時、飼い主はどうすればいいだろう?
捕まえて繋げばいい。周りに害を及ぼさなければ上々と言うものだ。
デパートに行った時、子供が迷子になったら親はどうする?
館内放送で呼んでもらうだろう。そして自らも探しに行くはずだ。これも元気に見つかれば、それに勝る物はあるまい。
貴重品が自分の手を離れて脱走したら?
まずは遺失物の届出を。ついで心当たりを片っ端から探す事だ−物騒な御仁に拾われる前に。
では。
想いが迷走した時、人はどうすればいい?
誰もいない駐車場で、二人の美少女は正面から睨み合った−同じ顔で。
「土御門カエデ。あなたは私が必ず殺す」
殺す、ともう一度レイは宣言した。本来なら普通の少女であるはずだが、その種の兄を持つとやはり影響を受けると見えて、今のレイは人を殺める事などなんとも思っていない節がある。
もっともシンジの敵に限るし、物騒な妖姫の影響も高いようだが。
一方それを受けたダミーカエデ−ただしレイと姿は同じ−は、無論動じもしない。
「どうやって殺すの」
冷たく、そして嘲笑を交えた声は普段のレイと瓜二つであった。
カエデの言う通り、レイに勝ち目があるとは思えない。現にATフィールドは、弾き返されたではないか…それも同じ物で。
レイは嗤った−無表情なまま、口許だけ歪めて。
「さて」
と言ったのは、シンジの影響なのかそれとも。
レイの唯一にして最大の武器はATフィールド。レイの手がそれを帯びた途端、それはレイの手を離れ一直線にカエデに向かった。
レイの目が見開かれたのは、次の瞬間である。カエデが、ATフィールドをまともに受けたのだ。ぐらりとよろめくそれを見て、一瞬怪訝な顔になったがすぐに止めを刺すべく、第二波を手に帯びる。
だがレイは知らない。
カエデがよろめいた時、ふっと笑ったことを。
そしてそれがレイの物とは違い、勝利の笑みであったことを。
カエデの唇が動き、そしてこう言ったのだ。
「お前のATフィールド、私が貰った」
と。
だがお前の、とはどういう意味か?
「マイシスターは何をしている?」
シンジはみやげ物を眺めながら呟いた。
とは言え顔を洗うならともかく、それ以外に用でも出来たのだろうと、シンジは海苔の佃煮に目を転じた。
だがすぐに飽きたらしく、胸のポケットから電話を取り出した。
「ミルクティーでも飲んでる頃だな」
呟くと、直通の番号を押す。
今度はコレクトは使わない。直通なら守秘回線にそのまま切り替わるからだ。しかし前回の会話内容を見る限りでは、シンジに取ってエヴァなど機密事項には入らないらしい。
二回鳴って出た。
「はい、アオイです」
「僕だ。食後の紅茶時だったかい?」
「アイスの時間よ。シンジはどうしたの?」
「モミジはそこにいる?」
「いえ、今は入浴中よ」
「ふうん」
「何かあった?」
想像してるの、などとは言わない。アオイはミサトとは違うのだ。
「懐かしい娘(こ)に遭ったよ」
一瞬沈黙が訪れた後、アオイが僅かに息を呑んだのを感じた。
「まさかシンジ」
「土御門の後継試験、東京タワーで受けてきた」
あっさりと告げたシンジに、電話の向こうから鬼気が伝わってきた。
「それで?あなたは無事なの?」
「僕を殺すんだって。下僕にするのは止めたらしいよ」
「やっぱり私が…」
押し殺すような声で言ったアオイに、
「残るように言ったのはじい様でしょ?肉親の言う事は聞かなきゃだよ」
「ロダ島で見かけたと、カイロの日本大使館から連絡があったのよ。私は真っ直ぐに第三新東京へ向かうと思ったけど、お爺様はウェールズでモミジを護るようにって」
「来なくても良かったさ」
「え?」
「久しぶりにベリアルに会ったからね。大層ご機嫌だった」
「宿刀を使ったの?あそこで?」
「魔気の流れが乱れているから、僕も上辺だけ吸われなくて済んだ。それにアオイちゃんが来ていても、脱走には同行して貰わなかったからね」
「レイちゃんは無事なの?」
シンジのそばにいる女と知ったら、カエデがどういう反応をするかは読んでいたようだ。
「なんか血を抜かれてダミーを創られた」
「それだけ?」
どこか拍子抜けしたらしい。
レイに別段の思いは無いが、カエデが掛かった時の激烈さは、十分に知っているアオイだからだ。
「契約を知らなかったからね」
「…そうでしょうね」
「単独で襲うかどこかの組織を使ってくるか、どの道楽しみが一つ増えただけだよ」
どうもシンジの言葉には危機感が足りない。あくまでもゲームを楽しむような感じなのだ。
「そうねえ」
とアオイが言った。
「でもゲームには指揮官が必要よ。二時間以内に発つわ、明日の晩にはそちらに着くから待っていて」
「来ないでいい」
あっさりとシンジは否定した。
「シンジ?」
「しばらくは襲ってこないし、モミジにも知らせることはないよ。何も知らないんだから」
「でもシンジ、それではあなたが」
「僕なら大丈夫。殆どベリアルにやってもらったから、疲労度は少ないのさ。それよりモミジを絶対こっちへ来させないで、今のモミジではカエデには勝てない」
言い切ったシンジに何かを感じたのか、アオイは電話の向こうで頷いた。
「いいわ、シンジの言う通りにしておく。ただしくれぐれも気を付けるように」
こんな時のアオイは命令調に変わる。
分かった、と言い掛けてシンジは止めた。
「こらまて」
「何かしら?」
「思い出した、何で僕に黙っていた?」
「シンジに守秘義務は無理だもの」
「それは女の子の特権だ」
一旦受話器を口から離すと、
「お前なんか嫌いだ」
さっさと電話を切った。電話の向こうでアオイが嘆息しているに違いない、と思ったらすぐに携帯が音を立てる。
「なに?」
「私が着いたらおぼえていなさい」
やだ、と言う前に電話は切れた。
「脅迫だ、アオイのやつ」
どこか楽しそうに言ったシンジ。どうやら彼らの間ではこれが普通らしい。
「それにしても」
とシンジは首を傾げた。
「遅くないかな?」
「くはあっ」
止めを繰り出した瞬間、レイは壁に叩きつけられていた。一瞬早くカエデのATフィールドがレイを襲ったのだ−全く同じ物が。
「貰ったと言わなかったか?」
立ち上がったカエデに、傷の気配は微塵も無い。
「ダミーならばよく勝ち得まい。だが私はダミーではない、お前だ」
姿形も瓜二つ、そしてその声までも同じ。いやむしろカエデの方が、普段の無機質なレイのそれに近い感じがあり、ミサト辺りなら間違えるかもしれない。
脇腹を抑えて立ち上がるレイの脚を、再度ATフィールドが襲う。
「あうあっ」
踝に激痛を感じ、再度レイは蹲った。
「使い方を知らないとこうなる」
カエデは吟味するように言った。
足と脇腹、両方に走る激痛がレイの全身を襲う。だが、レイはゆっくりと立ち上がった。
「…るさない…あなただけは…絶対に…」
「ではどうするの」
訊ねた声はレイのそれと同じ。
次の瞬間レイの目がかっと見開かれ、不安定な姿勢からレイは地を蹴った。
「無駄なことを」
嘲笑したカエデだが、実は気づいていない。
レイの手にあるATフィールド、これがかなり薄い事に。しかも明らかに玉砕に見えることにも。
無傷な左足を軸に、三メートル近い距離を飛んだレイが左手を繰り出す。カエデは避けようともせずに左手で受け止めた。
レイのそれ以上に薄いにも関わらず、それはあっさりとレイを弾いた。レイがよろめくそれへ、カエデの左足が動いた刹那その表情が動いた。レイは−確かに笑ったのである。
「何?」
自爆などあり得ない、何を企んだのかとその眉が寄った時、レイはがくんと崩れ落ちた。
だがそれがわざとだと知ったのは次の瞬間の事、左足を支柱にしてレイは右足を回転させたのだ。痛みも構わず繰り出せたのは、その出自故でもあったろうか。
今度はカエデの右足をレイの足が襲い、鈍い音を立てた。それだけならただのダメージだったが、既にカエデの左足は攻撃態勢に入り、不安定な位置にある。体勢を崩したそれを見逃さず、レイはわずかに上体を起こすと飛びかかった。
不安定な体勢で引き倒され、ついバランスを崩したカエデと、レイは上下になってそのまま回転した。
コンクリートの上を少女達が、自分が上になろうとして取っ組み合う。
ATフィールドを使っては、自分に勝ち目はない。
それと知ったレイは勝ち得る機会を、肉弾戦を選んだのだ。
力が均衡していようといまいと、ATフィールドはあくまである程度の距離をおいた闘いでの話になる。
いや正確には関係ないのだが、今の彼等に取ってはボクシングのように使える物ではない。ダメージはそれぞれ右足にあるが、脇腹の分余計にダメージがあるレイと、少し分は勝るが、ダミーの分だけ感情的な力は少し劣るカエデ。
互角に取っ組み合う二人は、互いに髪と服を掴み合い、コンクリートの床の上をごろごろと転がった。
駐車場内に荒い息づかいが二つ響き、破れた服から少女達の白い肌がのぞく。
シンジの敵だと憎悪するレイと、シンジが妹にした女だと敵意を隠さないカエデと、お互いに敵意をむき出しにして、睨み合ったまま互いを掴み合う。
しかし、脇腹の分だけレイの方が旗色は悪くなる筈だ。それなのになぜ?
その理由は間もなく知れた。カエデの手がレイのブラウスの襟元を破いた時、レイはぐいと身体を引いた。一瞬上体が泳いだカエデの襟を、今度はレイが強く引く。力任せのように見えたが、カエデのそれは破れることなくレイが体勢をひっくり返した。カエデが跳ね返そうとする刹那、レイの右手が挙がる。平手打ちかと見えたそれが、オレンジ色の光を帯びるのには秒と要さなかった。
レイは賭けたのだ−まともにやり合えぬなら強きを避けて疵を突くべし。カエデの喉元を目掛け、一直線に突き出されたその手のATフィールドは、レイがすべての余力を賭けた物の筈であった。
しかし逆に笑ったのはカエデの方である。
「綾波レイの写しはATフィールドのみ、本体はマスターよ」
言うが早いか、下から伸びた手がレイの手首を掴む。勢いを利用してそのまま叩き付けられた時、レイは万策尽きたのを知った。
「なかなか面白い真似をする」
妖々と立ち上がったカエデは、レイを見下ろしながら言った。
掴み合い、転がり回ったせいで二人とも服はあちこちが破れている。
服の損傷なら互角だろうが、勝敗の方は決まった感がある。
渾身の一撃に賭け、しかもそれを破られたレイは、もはや立ち上がるのもようやくに見えたが、それでも気力だけで辛うじて立ち上がる。
「ほう、まだ立てるか」
わずかに驚きを見せたカエデに、
「姫様…に…め、迷惑はかけ…られない…」
「姫?あの女のことか、面白い」
だがその口調を聞くと、妲姫の事を知っているとは思えない。やはりさっき言った通り、レイのATフィールドだけを模したダミーなのだろうか。
左足を軸にして、何とか立っているように見えるレイに、
「ではそれに敬意を表して送ってあげるわ−碇ユイで」
それを聞いた時。レイの表情から血の気が消えた。その名前がレイの心に何をもたらすのか、蒼白となったレイの前でカエデは服に手を掛けた。
指一本で裂かれた服から現れたのは、レイと同じ色素の抜けた肌。
自分とまったく同じ肢体が全裸で立っているのを、そしてその乳房がずるりと盛り上がるのを、何よりも秘所が急速に黒色に覆われ、茂みと化していくのを、レイは半ば呆然と見ていた。
「ダミーならば、本体が滅ぼしてやるのが筋ね」
カエデは冷たく微笑んで告げた−レイの声に似た、だがそれとは違う声で。
数秒と経たず、成熟した女の肢体に変わった生き物が、ゆっくりとレイに近づいた−死の足音を伴って。
リツコがゆっくりと目を開けたのは、その身体が一瞬震えてから、数十秒後の事である。
かすかに身動ぎしたリツコは、自分の下着が違う物に変わっているのを知った。
「お目覚めかしら」
若い女の声に、リツコの顔が動く。
美貌の、だがどこか冷たい眼光にリツコは視線を逸らした。
「ここはどこなの」
「第三新東京中央病院、地下にある特別個室よ」
「あなたは?」
「陸奥サツキ。ドクターユリの直属行動隊の一人」
「あなたが私をここに?」
「ドクターの前に、無様な肢体を寝かせて置くなど許されないわ。当然の処置よ」
無様な肢体と切り捨てられて、一瞬リツコの眉がぴくりと動いたが、何とか意志の力で抑えると、
「下着が替わっているようだけど、私のはどこへ」
「年に似合わずグロテスクな代物、ドクターにも私にもおぞましいだけの代物よ。あれは今頃もう一人が穿いているわ」
「もう一人?」
サツキは肩をすくめると、
「どうしてシンジさんが、こんなのを放置されるのかしら」
「…どういう事かしら」
「私は一度も、無機物な人形とされたダミーを見たことは無いわ−ドクターのもシンジさんのも」
それを聞いたリツコの表情が変わる。サツキの指している物を知ったのだ−すなわち綾波レイである、と。
「ど、どうしてそれを…」
うろたえたリツコを見て、何故かサツキはうすく笑った。
「シンジさんの考える事は、私にはよく分からないわ。でも、あまり真実を突いてご機嫌を損ねても困るわね」
急に少女のような笑みを見せたサツキに、リツコの脳は解析不能を弾き出していた。
「私を閉じこめて置くつもりなの」
辛うじて切り返したリツコに、
「されたい意志がないならお止めなさい。余計な結果を生むことになるわ」
それも穏やかな口調で告げると、
「少し取らせてもらったから、身体が幾分ふらつくかも知れないわ。しばらく休んでからお帰りになった方がいいでしょう、それと服はロッカーに入っています」
(取られた!?何を!?)
聞きたい自分と、結果を怖れる自分が内部で喧嘩を始め、あっさりと後者が勝ってリツコは口を抑えた。
「あなた、シンジ君の知り合いなの?」
「さあ、どうかしら」
くすっと笑った笑みに、リツコはシンジへの好意を読みとっていた。
だが実際の所、リツコはシンジの事など何も知らない。ましてサツキが彼らに救い出された物であるなどとは。
だからうっかり、
「シンジ君も、ずいぶんと受ける想いが多いのね」
冷やかし半分と実感半分で呟いたのだが、次の瞬間サツキが動いていた。
空間転移でもしたのかと思わせるような足捌きで間合いを詰め、ベッドの横に移動するや否やリツコの喉元に、その白い人差し指を突きつけたのである。
「木偶人形が想いなどと口にするな。次は許さぬ」
一気にドスの利いた口調になったが、リツコがサツキの事を少しだけ…元は有名なその筋の娘だと聞くのは、だいぶ後の事になる。
誰が木偶人形だと言い返すような事をしなかったのは、その本能が強烈に危険信号を発していたせいである。リツコは目の前を飛び回る死神を見ていたのだ。
「ごめ…んなさい」
本能的に謝ったリツコにサツキは答えず、人差し指でそのまま喉に軽く触れた。
一瞬身を固くしたリツコだが、それがすぐに離れたのを知って内心で大きく息を吐き出した。
「Bee Beesなどもったいない代物ね」
冷たく言ってサツキは出ていったが、リツコにはそれがとある有名なランジェリーメーカーの名前だとは、知る由も無かった。
斬新なデザインと素材を使う老舗のそれは、下着にこだわる女性達の間ではかなり有名である。
ふう、と息を吐き出そうとしたリツコが、激しく咳き込んだのは次の瞬間である。柔らかい指の一押しが何を生んだのか、リツコは気道に形状しがたい激痛を感じたのだ。
気道その物を指で掻き出したい程の痛みに襲われ、リツコの指は自らの喉をぎりぎりと締め付けた。狭いベッドの上でのたうち回るリツコは、あっさりとベッドから転落し床の上を転がる。
筆舌しがたい激痛は二分あまりも続いただろうか、ようやくそれは治まったものの、リツコの目からは大粒の涙がこぼれ落ち、力任せにかきむしった喉からは、幾筋もの鮮血が流れ出している。
「シンジ君の知り合いって…な、何なのよ…」
途切れ途切れに呟いた声には、明らかに恐怖にも似た物が混ざっていた。
何とか立ち上がろうとしたが、ぐらりと体がよろめく。仕方無しに横になったリツコだが、結局起きたのは四時間あまり経ってからであった。
「放っておいても記憶が戻るのは必至。そうなれば私がせずとも殺してくれる」
その言葉を聞いたレイの脳裏に、シンジの言葉が甦った。
「碇ユイの記憶を取り戻したなら、自分が殺す」
シンジはそう告げたのだ。どこかはっきりしない意識の中だったが、その言葉だけはレイの脳裏に、電流のような衝撃となって襲っていた。
(いや…いや…思い出させないで…)
その言葉を、必死になって封じようとしていたレイに、カエデの言葉は容赦なく襲い掛かる。死への恐怖ではなく哀しみに、レイの瞳から涙が湧きあがった。
「ほう、お兄ちゃんの手に掛かるのが怖いと見える」
冷たく嘲笑ったカエデは、レイの前に立つとその髪をぐいと掴んだ。左手でレイを軽々と持ち上げ、右手を手刀の形にすると一際強い光を帯びさせる。
「嬲るのも面倒だ、すぐに楽に…」
だが、その言葉が最後まで続く事は無かった。
鳴り響いた二発の銃声が、その右肩に穴を開けたのだ。
「いやあっ」
妙な事に思わず叫んだのはレイであったが、その理由はすぐに知れた。
その後に続いた銃声が、今度はその頭を吹き飛ばしたのである。まるで水風船でもはじけるように、その頭部が四散していく。
にもかかわらずどんな撃ち方をしたものか、中に詰まっていた物体は全て後ろに吹っ飛んで行き、レイにおぞましい液体が降りかかる事は無かった。
頭部に向けられた弾は総勢十三発。その全部を撃ち尽くして降りてきたのは、無論シンジである。だがシンジが気付いたのは、戻らぬレイを気遣ってではなく、碇ユイの気配でそれを察したからだと知れば、レイは驚くだろうか。
ユイの気配と知った時、シンジは一気に地を蹴っていた。
当たるべからざる鬼気がその全身から噴き上げ、夜叉のような形相のままエスカレーターを駆け降りる。追い詰められているレイを見るよりも、ユイの姿形をした物体を認めた瞬間に、シンジはワルサーを引き抜いていた。
ぐったりと崩れ落ちたレイに、拳銃をしまったシンジが歩み寄る。
大丈夫、とは言わず
「お疲れ」
とだけ言ってレイに手を差し出す。
「お…兄ちゃん…」
辛うじてレイは手に掴まると、立ち上がろうとしたがすぐによろめいた。
「どこを?」
一瞬意味が分からず、
「え?」
「どこを痛めた?」
「お、おなかと脚を…」
レイが言い終わらぬ内に、シンジの手が制服に掛かる。
「あっ」
レイが抑える暇も無く、シンジの手は服をめくり上げていた。
「お、おにい…」
言い掛けて止めたのは、鬱血しているそこへ当てたシンジの手から、ひんやりと冷気が伝わってきたからだ。別段シンジが冷血でもない筈なのだが、何故かみるみる痛みは和らいだ。
「この傷はどうしたの?」
「わ、私と同じATフィールドで…」
「気だな」
「え?」
「いくらあいつがダミーを使えると言っても、ATフィールドをそのまま使わせるのは難しい。目眩ましを掛けた気功の一種だよ。どう?」
シンジの問いが、触れている手への物だと知りレイはふっと紅くなった。
「き、気持ちいい」
「ほら」
「え、え?」
「ATフィールドなら、僕じゃどうしようもない。これが気だから、僕でも多少はどうこうできるのさ」
見慣れているから、とはシンジは口にしなかった。
色が変わっていたのは右肋骨の下辺りだったが、シンジはそこをやんわりと軽く揉んだ。
「んっ」
かすかな声に気付いたかどうか、
「あと二十分もすれば楽になるよ」
「あ…」
シンジの手が離れた時、レイが小さく洩らした声にはどことなく、残念そうな響きがあったように聞こえたのは気のせいだったろうか。
「脚も?」
「脚はぶつけたから…」
「じゃいいね」
「えっ」
しまったと悔やんだが、シンジはもう残骸に近寄っていた。
頭部に詰まっていたのは血ではなく、緑色の液体がほとんどを占めていた。どうやら火星人でも模したらしい。
だがシンジはそれを見て首を捻った。倒れているのは、明らかにレイと瓜二つの身体を持った女である。とは言え本体はここにはいない筈だ。
「レイ」
「はい?」
残念そうに服を直していたレイが顔を上げた。
「これ、どっから来た?」
「え?」
「あいつの格好ならともかく、レイと瓜二つの代物なんか本人がいなきゃ出来るもんじゃない。それとも服に埋め込んでおいたかだが…それはありえない」
首を捻ったシンジに、
「どうして?」
「さっきレイの服は下着まで全部調べてある。どこにも無かったぞ」
「ぜ、全部?」
「そう、全部」
ご丁寧に頷いて見せたシンジ。
いつの間に調べられたのかと紅くなったが、口に出す事はしなかった。なにせ、碇シンジなのだから。
「そ、それで無かったの?」
「ない」
はてと考え込んだシンジ、レイの全身を上から下まで見た。
シンジの視線で全身を眺められて、
「な、なに?」
「服を脱がせる。後は上か下か…」
シンジの呟きを聞いて、レイの視線が自分の胸に行く。が、何故か更に紅くなっている所を見ると、脱がせるの単語だけが強調されたらしい。
一瞬シンジの視線が鋭くなると、
「こっちだな」
すっとレイの肩を引き寄せると、頭を調べ始めた。どうやら仕込まれたのが、気に食わないらしい。
そして頭を漁った後、
「やっぱりそうだ」
頷いたが、やはり見抜けなかったのが気に入らなかったか、口調は僅かに硬い。
「どうなったの?」
「後頭部にくっつけられた痕がある。頭に痛みは無かった?」
「ご、ごめんなさい…分からなかったの」
俯いたレイの頭を、シンジは軽く撫でた。
「そこまでは僕も見なかったからね。カエデを甘く見たかな」
「さっきのは何なの?」
「君だ」
「わ、私!?」
自分そっくりだったとは言え、シンジから直に言われるとショックらしく、レイの目が大きく見開かれた。
「自分の性格と、模倣の能力を持たせて何かに封じ込める。ある程度までなら気を代用する事でカバーが可能だ。いきなり自分の能力を真似されたと思えば、大抵は混乱するしね。後は好きなように料理出来るよ。所詮は身代わりの応用の範疇を出ていないけど。それにしても」
「え?」
「これがここでまだ良かったかもしれない」
「どういう事?」
「体温の維持を起爆剤にしたんだろうが、これが風呂場かなんかだったら」
その後をシンジは言わず、レイの顔をちらりと見た。
「ちょっとむこう向いてて」
レイが素直に従うと、シンジは取り出した呪符を残骸の上に置く。シンジがなにやら呟いた後、小さな音と共に閃光が上がり残骸が消えた。
「もういいよ」
振り返ったレイに、シンジは終わったよとだけ告げた。
レイが後ろを向いた時、ぐいと涙を拭ったのを知っていたから。
別に秘す必要も無いのにレイに指示したのは、レイの目元にある物を見たから。
「一応サイレンサーは着けてあるし、風もうるさいから大丈夫…とは思うけどもう出た方がいいかな」
頷いたレイに、
「あ、そうだ」
とポケットからがさがさ袋を取り出した。
「はいこれ」
「はい?」
シンジが取り出したのは、どこか鯛焼きにも似たお菓子。
「展望台で下でも眺めようと思ったんだけど。で、とりあえずクリームを」
渡されたそれをレイは眺めていたが、何を思ったか半分に割った。
「はい」
「ん?」
「お兄ちゃんもその…」
半分になったそれを見て、シンジはうっすらと笑って口に入れた。
そのシンジに、ようやくレイの口許に笑みが浮かんだ。断られたらどうしようと、不安げだったのが一転して嬉しそうな顔になると、手にした菓子を口に入れた。
「おいしい」
にこり笑ったレイを見てシンジは頷くと、
「じゃ行くよ」
レイと一緒に歩き出したシンジだが、内心はレイの服をどうすると思案中であった。
シンジは原因、つまり二人が肉弾戦を展開した事は知らないが、レイの服があちこち破れている結果だけは知っている。しかも、シンジと違って遠慮なく破れているのだ。
「ドレスでもいい?」
ひょいと振り返って冗談交じりに訊ねたが、丁度レイは生き物の形をしたそれを、頭からかじったところであった。
「えっ、あっ…むぎゅっ」
気管に詰まったものか、激しくむせ込んだレイを見て一瞬驚いたシンジだが、すぐにやれやれと背中に手を伸ばした。
「治まった?」
「は、はい」
紅くなったレイに、
「服は何でもいいかい?」
「服?」
「その格好じゃ目立つでしょ。制服のままなのも変だし、僕のと一緒に変える」
私は構わないわ、と言いかけて、
「あ、待って」
「何?」
「か、可愛いのがいい」
「何それ?」
「だって、せ、制服じゃお兄ちゃんに合わないもの」
「じゃドレスだ−ひらひらのやつにしよう」
「ひらひらのドレス?」
「なんでもない」
レイにはまだ分からなかったらしい。
外したか、と内心でぼやいたが無論口には出さず、
「分かった。じゃ、適当に」
東京湾を横断する道路、アクアラインは再建後も中継地点にSAが設けられている。
名称も変わらぬそれは、破壊前と役割も変わっていない。すなわち中途でUターンも可能なのだ。そこを出たシンジは、一路車を房州路へと向けた。
だが房総半島をほぼ一周する京葉道へ入った時、シンジは助手席の佳人が眠っているのに気が付いた。カエデに攫われてから後、血を取られたり自分と同じ姿形の妖人と闘ったりで、おそらくは疲れ切っていたのだろう。
すやすや眠っているレイの顔を眺めながら、
「あっち、こっち…こっちだ」
房総半島の南端は、経度的には伊豆半島の上辺りとさして変わらないのだが、年中かなり暖かい。
いまだに、日本の顔としての役割を果たす国際空港のある成田とは、年間を通じて数度も気温が違うのだ。
シンジが選んだのはその南房だったのだが、シンジはハンドルを左に切った。
それにしても、ダミーとは言え土御門の当主であったカエデである。そのカエデが、肉弾戦に持ち込まれるなどどう考えても異様だが、レイのダミーなら納得は行く。
だがしかし。
「レイを落とした時、お前は僕の契約を知らなかった」
シンジが低い声で呟いた通り、その時点ではカエデはシンジを敵視してはいなかったはずだ。そしてシンジは、放り出されたレイをすぐに抱いて避難している。
だとすれば。
「僕と関係なく仕掛けたな、カエデ」
自分を殺すと言われても反応しなかったシンジ。その目にようやく憤怒に似た物が湧きあがったのは、更に数十秒後の事であった。
ジーンズショップに入ったシンジは、とりあえず自分の服を買った。
白のストレートジーンズに同色のサマーセーター。周囲に半袖が目立つ中、長袖とジーンズを選んだシンジは、とりあえずホルスターの位置を合わせる。
その上からジーンズの上着を羽織ると…隠れない。
普通の上着は短めなせいで、お尻は丸見えになるからだ。仕方なく店員を呼んで倉庫の中を探させると、二十分ほどで探してきた。
「あ、どうも」
礼を言ったシンジだが、店員の目が自分の髪に注がれているのに気が付いていた−羨望とかすかな嫉妬を込めて。
おかげで、手から小銭が落ちても気が付かない。
「あの?」
シンジに言われて我に返ったらしい、慌てて拾う姿をシンジはぼんやり眺めていた。
で、シンジがレイに選んだのは、ブルーのノースリーブに黒のストレートジーンズ。
レイを起こせばいいのだが、大胆に破れている制服の娘と店に入ると、あらぬ誤解を招きかねないからだ。
ただしシンジへのそれを考えたのか、レイへのそれかはいまいち分からない。
レイの足の長さなら大抵分かると、シンジは無造作に裾を折った。それで裾上げを頼んだのだが、レジにいたのは幸か不幸かさっきの女店員であり、さっきよりも一層強い視線を感じた−すなわち、シンジが着るに違いないと勝手に妄想している視線を。
「僕のじゃありませんよ」
時々、そうアオイの服など買うとこんな視線を受けるシンジは、この手の種族には慣れている。お似合いでしょうね、などと言い出される前に釘を刺すと、やや童顔の女店員は明らかに落胆した表情を見せた。
別にシンジ自身が、中性的若しくは女顔に近いと言う訳ではない。
雰囲気はおっとりとして柔らかいが、ごく普通の少年だし、身体も丸みを帯びてはいない。やはり一緒にいた相手と、端麗にすぎる程の黒髪が、妄想に走らせる原因となるのだろうか。
シンジが出ていった後、彼女が胸を押さえて残念そうにため息をついた事を、シンジは背中で感じ取っていた。
「まったくもう」
空を見上げて呟いたが、その顔にはユイの気を感じた時のような、あの目を背けたくなる程の鬼気は無くなっていた。
車に帰ると、レイはまだすやすや眠っている。幸い車はフルスモークになっているから、レイの妖しい姿が外から見られる事はない。高速が自動料金所になって、シンジが便利だと感じるのはこんな時である。
レイを放っといて車を出したシンジは、結局レイを着くまで起こさなかった。シンジがレイを起こしたのは、とある城跡の公園に着いた時であった。
公園の駐車場に入るまで、シンジのバックミラーに怪しい車が写る事は無かった。
だが車から降りる時、シンジの目はすっと四方に流れ、怪しい物が無いと見てから降りる。
助手席のドアを開けると、軽くレイを揺すった。
「着いたよ」
「…んん…」
身体がぐらりと揺れたにも関わらず、レイは起きようとしない。さっきと同じ事はしてやらない、と思ったかどうかは不明だが、
「…置いてくよ」
「ん…もにゃ…やだっ!!」
目をこすりながら、それでもがばと跳ね起きたレイに、
「これ着て」
「…これはドレスなの?」
首をちょこんと傾げて訊いたところを見ると、まだレイは夢の世界にいるらしい。
「舞踏会は夜の時間。今はまだ昼だよ」
「そうなの?」
やっと、意識がこっちの世界に戻って来たらしいレイに、
「安価で悪いが着替えてくれる」
「はい」
ブラウスに手を掛けたレイから視線を外し、シンジは後ろ手にドアを閉めた…車内で起こさずに正解だと、晴れた空を見上げてぼんやり考えながら。
数分で出てきたレイは、付け根までむきだしの腕が気になるのか少し恥ずかしげに、
「おかしくない?」
「選んだのは僕だよ」
「あ、あの…そうなの、良く似合っているのっ」
「本当に?」
「うんっ」
これでは、どっちが訊いているのか分からない。
「あ…」
漸く気付いたらしいレイに、
「腕には傷が無いからおかしくは無い。それでいいよ」
シンジに言われて安心したのか、レイはにこりと笑った。白い腕は艶かしく、だが見せる微笑は無邪気な天使。
問題は−共にいるのが碇シンジだ、と言う事であろうか。
シンジが歩き出すとレイはその横に並んだが、今度は腕を絡めようとはしなかった。さっきとは違い、シンジが断るとおぼろげに感じていたらしい。
しばらく二人は無言で歩いたが、数百メートル行った時、
「ここはどこなの?」
「佐倉城跡」
「佐倉…あっ」
レイが小さな声を上げたのも当然で、二人の前には桜が絢爛と咲き誇っていたのだ。しかもそこにあるのは染井吉野、本来ならもっとも寿命が短いとされる種類である。
いや何よりも、今は既に冬目前ではないか。レイとて季節を知らぬ訳ではない、その顔に僅かに驚愕を見せて、
「こ、これは本物?」
「そうだよ」
当然のように言ったシンジだが、その顔に僅かな懐旧のようなものが見えたのは、気のせいだったろうか。
「でも今は桜なんて…」
「レイちゃん、僕が言った事憶えてる?」
「はい?」
「桜はどうして赤いと言った?」
「色…じゃなくて血が、でしょう?」
「正解」
「で、でもどうしてここに?」
「城だから」
「え?」
「戦場となるだけじゃない、城の基礎に人を…人柱を使うのは昔は普通だったからね。でも日本中でも数える程しかない常春桜(とこはるざくら)は、ここを入れて四箇所だけ」
「人の屍を使う」
ぽつりと呟いてから、
「でもどうして少ないの?」
「言われ無き横死は怨念の温床だから。そして怨念はそのまま訪れる者を冥府へ呼びこむ。それを封じてきたのが土御門一族を始めとする、陰陽道を司ってきた連中さ」
土御門、と聞いてレイの眉がぴくりと動いた。
「お兄ちゃん」
控えめだが、どこか硬い口調でレイが呼んだ。
「何?」
「一つ…訊いてもいい?」
「多分」
「さっきの人は…何なの」
レイが指しているのは無論カエデ。
「僕を狙いにしたと思ったんだけど」
言葉を切ったシンジに、
「だけど?」
「君にあれを仕掛けたのはその前だった−僕の妹に手を出すべきではなかったな」
口調は穏やかだったが、何かを感じたのかレイは少し俯いて、はいと言った。
「ここも滅多に人は来ない、危ないからね」
少し変わった口調に、レイの顔が上がる。
「私たちはだいじょ…そうね」
途中で言葉を切るとシンジを見る。目にはシンジへの信頼感が浮かんでいた。
「その通り」
シンジは頷いて、
「折角来たんだし、昼寝でもして行かない?」
「昼寝?」
「そう、昼寝」
そして十分後。
木の根元に腰を下ろし、弾倉に弾を補充しているシンジと、それに寄りかかって眠っているレイの姿があった。
膝の方が無論眠れるのだが、安心出来る訳ではない。肩の方を指示したのはシンジであった。
静かな寝息を立てるレイの寝顔は、とても穏やかに見える。
一方シンジの方は大型拳銃を手入れ中で、安眠中のレイとはかなり違和感がある。
しかし、季節外れに咲き誇る桜の木々とは妙に絵になっている。一見奇妙な、しかしさしてずれてもいないこの二人。
ただこの時点で、二人とも知らない事があった。
すなわちシンジは−穏やかに眠っている筈のレイが、何を夢に思っているのかを。
そしてレイは、常春桜の咲く場所をシンジが訪れたのは、初めてではないと言うことを。
加えて、その時はいつも連れがいたのだと言う事などは。
ワルサーをばらして再度組み立てる。機関室に一発を送り込んだシンジは、安全装置を掛けてそっと横に置いた。
そしてちらりと肩のレイを見ると、ほんの少しだけ力を抜いて木に寄りかかり、軽く目を閉じた。
日は既に西の空、ただその苛烈さを遮るように雲が流れ、その隙間からしか地上を照らす事を許されぬ日光が、そっと二人に差し込んでいた。
「味はどう?」
レイが山菜の天麩羅を口に入れた時、シンジが訊いた。
ただシンジに取って失敗だったのは、シンジの料理が上の部類に入る事とそれにレイが慣れている事、何よりも仲居がそこにいた事であったろう。
「ん…」
咀嚼してから、
「お兄ちゃんの方が美味しい」
げ、と洩らした時には仲居の表情は微妙に変わっていた。しかも明らかにストレートな本心だけに、どう聞いてもあてつけを引き出したように聞こえる。
「精の付く物をたっぷりと用意してあります。ごゆっくりどうぞ」
見た目は少年少女だが、どこか妖しいカップルにも見える二人を一瞥すると、少しだけ高い音を立てて下がって行った。
「食事は抜いたんだけどなあ」
小さく呟いた通り、レイは朝から軽い物しか口にしていない。それに加えて、結局レイが夕方まで起きなかったため、シンジは昼も抜いたのだ。もっともシンジ自身は、東京タワーでの塔制覇で殆ど空腹にはなっていなかったのだが。
シンジは車を南下させたが、高速を通る事はせず海岸通りを抜けた。九十九里浜を横にして走ったシンジは、勝浦に宿を取ったのだ。
このホテル『半月』は、この辺では有名な老舗であり、結構有名人達も利用する。
無論、その中には色々と訳ありなカップルもいたりして、個人のプライバシーはかなり守られていると言っていい−だからこそシンジもここを選んだのだ。
「これまずいの?」
「ううん。ただ、少し固いの…味が」
舌触りならともかく、味が固いとは面白い事を言うと妙に感心したシンジ。
ふと立ち上がって隣の部屋の障子を開けた。
「…繋がってる」
シンジの眼前には、ぴったりと寄せられた布団が二組並んでいる。奇妙な目で何やら考えていたシンジだが、その口許がにっと笑った。
後ろを向くと、レイが吸い物に手をつけ掛けて箸を置いたところであった。どうも口には合わなかったらしい。
「もういいの?」
「う、うん。駄目?」
注文した物は残さない、シンジのそれを知っているだけに、やや遠慮気味のレイだったが、別に注文した訳ではない。
「別にいいよ。頼んでないし」
それを聞いて安堵の表情を見せたが、やはりどこか後ろめたいのか、
「お、お風呂に入ってくるから」
と立ち上がったレイをシンジが呼びとめた。
「なに?」
横に来たレイに、シンジは並んでいる布団を見せた。
「布団…床なの?」
予想通りの答えに、
「じゃなくて僕と一緒の部屋」
「え…あ!」
僅かに顔を紅くしたレイに、
「で、ついでに」
「ついで?」
「一緒の布団で寝る?」
「い、一緒…」
呟くのと、その顔が火を吹いたように深紅に染まるのが、ほぼ同時であった。
「ほ、ほ、本当にっ?」
「気晴らしにと思ってこっち来たけど、カエデのせいでろくな目に遭わなかったし」
「う、うんっ」
勢い良く頷いたレイに、
「じゃ、お風呂入っておいで」
早足で、だがどこかぎこちなくドアに向かったレイ。しかもご丁寧に、左足と左手が同時に出ている。
案の定、
「あ、転んだ」
入り口で派手な音がした。どうやら羞恥と焦りが抗争を始め、主人の身体を転倒させたらしい。
ぱたぱた足音が遠ざかって行くのを聞きながら、シンジは食卓に目を向けた。
「残しちゃまずいよね、やっぱり」
レイにはいいと言ったが、やはりシンジは残す気は無いらしい。
最初にレイが手を着けなかった吸い物に手を伸ばす。
「美味しいぞ」
呟くと首を傾げた。
「熱っ」
転んだ時に膝をぶつけて、足を引きずりながら浴場に来たレイ。温度設定を見ないでコックを回したものだから、熱湯が勢い良く襲い掛かった。
慌てて温度を下げ、体温並になった湯を全身に浴びる。その頬が紅いのは、無論シンジの爆弾発言の影響だろう。
「お兄ちゃんと寝られる…お兄ちゃんと…」
陶然と天井を見上げたレイの表情がふと動いた。
(お兄ちゃん…でも私は…)
レイの視線が自分の身体に移った。カエデの奇妙な物を食らった所は、シンジのおかげか殆ど痕は残っていない。
レイの手がそこへ伸びると、シンジがしたように数回軽く揉んだ。
「もう大丈夫ね、ここだけは…」
だけは、と呟いた時レイの手が、温度の設定パネルに当たった。
『水』と書かれたボタンを押したせいで一気に温度は冷水に変わる。
だがレイは避けようともせずに、真水を頭からかぶっていた−まるでそれが、適温の湯でもあるかのように。
アルコールを一滴も口にしなかったシンジは、食膳が下げられると布団に入り、横になった。
「少し疲れた」
布団の中で伸びをした後、枕もとの携帯電話を取る。その手が止まったのは、近づいてくる足音を耳にしたからだ。瞬時に枕の下に手を入れ、レイの足音と知ってその手が引き抜かれた。
パネルに指紋を押し当てるようになっているから、鍵が無くても構わない。
レイが入って来た気配に、シンジは一瞬だけ首をそっちへ向けた。
すっと襖が開けられ、
「お、お邪魔します」
小さな、少し緊張したような声と共にレイが入ってきた。
レイが枕元に立つ気配がした時、シンジの顔は反対側に向けられている。
だが何故かレイはなかなか動こうとしない。彫像のように固まったまま、立ち尽くしているようにすら感じられる。しかしシンジもまた、レイに顔を向けて促そうとはしなかった。
そのシンジは、自分に向けられるレイの視線を感じていなかったのだ。
レイが見ていたのは虚空である。
空中をじっと見ていたレイは、まるでそこに何かがあるかのように、宙の一点を凝視していた。
そして数分が経ったのだろうか、漸くレイが動いた−衣擦れの音と共に。
シンジはもしかしたらそれさえも、予想していたのかも知れない。レイの浴衣が床に落ちる音がした時、シンジがレイが全裸だと見抜いていた。それでもシンジは反応しない。いや、それどころかその気配は鋭さを増している節さえある。
シンジの手が取られたのは、レイが枕元にぺたりと座ってから数秒後の事である。
ゆっくりと持ち上げられた、その手の行きついた先はレイの胸。
柔らかな谷間に押し付けられた手を、熱い液体が滴り落ちた。
シンジの手を自分の乳房に押し付けたまま、レイは囁いた。
「……私を、殺して……」
その時になって、漸くシンジが身じろぎした。その口許に危険な笑みが浮かび、ゆっくりとレイの方に顔を向けた。
「面白い案だね」
どこか抑揚の無い声でシンジが呟くように言った時、レイの身体がびくりと動いた。