第三十話
 
                     
 
 
 
「桜の花がどうして赤いか、ご存知?」
 秋だと言うのに、不気味とも言えるほど満開に咲いている桜。それを見上げているシンジの背に、不意に女の声が掛かった。
「きれいだけど、少し季節外れじゃない?」
「それでよろしいのですわ」
「どうして?」
「桜の華が紅いのは、その樹液に血を使っているから−そしてここがいつも深紅に咲いているのは」
 言葉を切ったのは、シンジが振り向いたからだ。
 シンジの目に映った少女は、軽くスカートの端を持ち上げると一礼した。
「土御門カエデと申します。碇シンジ様、初めまして」
「ここが紅いのは何だって?」
 シンジは直接答えず、違う事を訊いた。
 返礼が無い事に別段怒った様子もなく、
「放り込む死体が有り余っているからですわ−いつでも」
 一瞬シンジは考えてから頷いた。
「そうだろうね」
「はい」
「で、僕に?」
「この日本を古から操ってきたのは呪術です。シンジ様に、それをお教えするようにと」
「誰が?」
「信濃家のご当主夫妻から」
「じいさまが?まったくもう…あ」
 洩らしたのは、数メートルを音も無く詰めたカエデが、シンジの手を取ってきゅっと握ったから。
「わたくしでは役不足でしょうか」
 二人の視線が絡み合い、
「じゃ、よろしく」
 手が軽く握り返されたのは、数秒後の事であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「レイちゃん」
「はい?」
「桜の花が赤いのはどうしてか知ってる?」
「え…それは…色素が…」
 至極当然の答えであり、学校では普通そのように教えるだろう。
 が、
「不正解」
「え?」
「根元に死体が埋まっているからだ…うじゃうじゃと」
「し、死体?」
「ってカエデが言ってた」
 その名を聞いて、一瞬レイの眉が動いた。僅かに膨らむレイの口許を見ながら、シンジは先に立って歩き出した。
 数歩進んだところで、
「何を怒っている?」
 ちらりと振り返って訊いた。
「あの人誰なの?」
「カエデ?」
 頷いたレイに、
「僕に呪術を教えたもう一人の方。ただし、今はぐれてるけど」
「でも…さっきお兄ちゃんを殺すって」
「ん?」
「え?」
「気絶していたんじゃなかったの?」
 言われてレイは、明らかにうろたえた。
「そっ、それはその…」
「その?」
「と、途中で起きちゃったの」
「いつ」
 シンジは知りながら容赦が無い。
「す、少し訊いただけ…あ、後はずっと…」
「本当に?」
「は、はい」
 レイが、最初から起きていた事を知っているシンジ。一方シンジに知られているなどとは、夢にも思わないレイ。
「怖いよね」
 緊張感など欠片も無い声が、カエデを指していると知り、レイの顔色が変わった。
「お、お兄ちゃんっ」
「なに?」
「なにって…」
「一つだけ」
「はい?」
「レイじゃ、足元にも及ばないよ」
「そ、それは…」
「狙いは僕とモミジみたいだし。あまり気にしないようにね」
 言われたレイの表情が動いた。カエデと言いアオイと言い、そしてモミジまで。
 いずれも全部女だと、レイには分かっていた。
 モミジも女だと思ったのは、レイの直感である。
 シンジの事を、レイは殆ど知らない。
 だが彼等はシンジの事を知っている。
(私の知らないお兄ちゃんを知っている人)
 レイの胸はずきりと疼いたが、レイ自身あまり気が付いていなかった。
 すなわち、嫉妬とはさして関係ない所から来ていることに。
 本当の原因は、レイの心が出すまいとしているシンジの言葉にあったことに。
「おにいちゃ…」
 言いかけたレイに、
 行くよ、と声を掛けてシンジは歩き出した。
 慌てて横に並んだレイだが、見れば見るほど凄まじい光景が拡がっている。
「さすがはカエデだな」
 ぽつりと言ったシンジに、
「これ全部…?」
「うん全部」
 頷くと、足元に落ちていた欠片を拾ってレイに見せた。
「これは?」
「電柱の欠片」
「これが電柱の…」
 欠片を手に取ったレイは、それと上とを交互に見た。
 まるで針金を巻き付けて切断したような切断面に、レイが首を傾げる。
「これは…ユリさんの?」
「少し違う」
「違うの?」
「カエデのは針金がベースだ。それに魔力で操ってるから、補給源が無ければそんなには怖くない」
 それをどう聞いたのか、
「そう、怖くないのね」
「こら」
「あん」
 シンジが横にいたレイの顔を、指で弾いたのだ。
「レイちゃんが敵う相手じゃないぞ」
「大丈夫」
「何が?」
「見て」
 言うなり、レイの手からオレンジの光が飛んだ。根元近くで残っていた電柱に命中し、
「す、少し失敗なの」
 俯いたレイの言う通り、表面を僅かに抉ったに過ぎなかった。
「多分そうだと思った」
「え?」
「ATフィールドは攻撃用じゃない」
「どういう事なの?」
「守備用って事。そのうち使えるようになるよ」
「はい」
 慰められて安心したか、レイはシンジにぴたりとくっついた。
 一方シンジの方は、レイほど呑気ではなかった。他の誰よりも、カエデの実力を知っているシンジだからだ。ましてその視界には、点々と落ちている血痕も見ている。一体何を仕掛けて行ったのかと、その目に油断は全く無かった。
 右手をばらりと開いたまま、その左手に握られているのは呪符。微塵も隙のない姿だが、シンジの危惧したような陥穽もなく、二人は坂の途中まで差しかかっていた。
(それにしても)
 とシンジは内心で呟いた。
 辺りは文字通りの地獄と化している。
 魔気が渦巻いていても、辺りの景色はそのままであり外見に異常は無かったのだ。
 だが今は−
 呪詛が生んだ物か八つ当たりの成果なのか、到底人が行き来できるような場所ではなくなっていた。
 裂け目こそ出来ていないものの、アスファルト工事の第一段階である、掘り起こしが至る所にされており、局地的な地震でもあったかのような感じさえ受ける。
 カエデの死針はきれいに断てぬ代わり、力任せにも似たそれには長けており、鶴嘴を突っ込んで掘り起こしたようなその断面は、手で引き千切ったようにも見えた。
 そして、電力の代わりに魔力を送っていた送電線もまた、それ自体が微量とはいえ保護されていた筈である。
 もはや統制が及ばなくなったとは言え、設計時からのそれは変わる物ではない。つまり、霊塔として設計された時点から、既にここは電気で動いてはいなかったのだ。
 無論電力を必要としなくなったのではなく、単に魔力を電力代わりにして変換していたに過ぎない。
 しかしながら、代替エネルギーの必要性が叫ばれる中、魔力をそれに使いそして成功したのは、現時点で世界中に二箇所しかない。
 すなわち、長門病院と信濃邸のみ。
 モミジの力なら、ウェールズの屋敷も可能なのだが、使用人達が嫌がるのでしていないらしい。東洋魔術(オリエンタル・マジック)は、シンジのダミーを含めて、彼等にとっては不気味らしいのだが。
 とまれ、その辺の通常弾ならダース単位で食らっても平気な電線が、見るも無残に引き千切られ、地上に落下して地を抉る一端を担っている。魔力のシールドはそれだけ、通常よりも太さを増やす事を可能にしているのだ。通常の二倍はあるそれは、地に落ちれば人間などミンチにしてしまうだろう。
 生きる物など元よりいないが、完全に死の匂いの漂うその中を、シンジは黙然と歩いた。
「お兄ちゃん」
 シンジの雰囲気を察したか、これも無言で歩いていたレイが躊躇いがちに呼んだ。
「何?」
「これを…全部?」
「さっきは霧が立ち込めていたはずだ」
「ええ」
「クフ王のピラミッドは知っているかい?」
「エジプトの?いいえ」
 レイは首を振った。
「もともとあっちの系列は、バチアタリで有名なんだけどね」
 そう言ったシンジは、何故か薄く笑った。
「どうしたの?」
「ピラミッド内に立ち込める妖霧、あいつがエジプト帰りだって事忘れていたよ」
「エジプト?」
「ピラミッドに囲まれて、孤独を癒したかったんだろうね…多分」
「多分?」
「想い人を殺されたのさ−自分の祖母に」
「…だけど…」
「君にあれ以上の事をすれば僕を怒らせる、そう思ったからレイのダミーを作っただけで済ませた。気まぐれかも知れないけど」
「シンジ様って言ってた…」
「呼称の一つだよ」
 だが、その口調に僅かな乱れを感じ取り、レイの眉が一瞬寄った途端。
「あいつ」
 シンジの足が止まり、その視線の先をレイも見た。
 そこに止まっているのはシンジのベンツ。
 手入れのお陰で綺麗な光沢を放っているボディ…ではなかった。そのボンネットには大きな傷が付いていたのである−しかも文字。
「シンジの馬鹿」
 点々と続く血痕を見たシンジは、カエデが魔力を使いきったと分かっている。そして、この傷も無論。
 カエデが最後の力でしてのけたのが、子供みたいな嫌がらせと知ったシンジ。
 その顔が緩むには数十秒の時を要した。
 タイヤはパンクさせられておらず、それ以外には傷も見当たらない。
 シンジは、ふうとため息をつくとレイに乗るよう促した。
 だがシンジは知らない。
 傷を見たレイの表情が、はっきりと変わったことを。
 そして、
「必ず殺す」
 シンジにも聞こえぬような、かすかな声で呟いたことを。
 しかし、今のレイでは敵わぬとはっきりシンジは告げた。
 その相手をレイよ、どう片付ける?
 
 
 
 
 
「やはり、向こうへ向かっておったか」
 信濃邸の応接室で、ちょうど信濃ヤマトが受話器を置いた所であった。
 数日前に、これもウェールズから帰宅していたヤマトは、既にカエデがカイロから姿を消していた事を知っていた。
 シンジがモミジと契約している事を知らないカエデは、おそらくはシンジを一直線に求めるだろう。
 だが、アオイが戻らなかったのはヤマトが命じたからだ。確かに現時点では、モミジを始末しに行く理由は無い。とは言え、カエデが失踪した後モミジが急遽呼び戻され、次期当主とされている。
 扱い的にはかなりひどいのだが、
「いいじゃない、やっとけば」
 というある少年の、のんびりした台詞に頷いたとされているのは、殆ど知られていない。
 更に、モミジ自体幼少の頃から別の場所で育てられ、何不自由なく育ったカエデとは大分違う。
 が、素材が良かったか育て人が良かったか、向こう正面で掛かる気質でもなく、かなり素直な方に育っている。
 そのおかげもあってか、カエデとは大分気性が違う。
 カエデがモミジに殺意を持っても、モミジはカエデに殺意など持っていないのだ。
 アオイがウェールズに居残った理由もそこにある。殆ど生まれてすぐ離された二人は、相手の顔も知らない。いや、正確にはカエデだけは知っている。モミジがもう一人の当主候補と聞かされて、こっそり見に行ったのである。
 一応二人とも土御門の血を引いてはいるのだが、自分が正統だと思っているカエデと、土御門など名前だけだと思っているモミジ。
 シンジは二人一緒に会ってはいない。ただ、シンジは結局カエデと契約する事は無く、カエデが姿を消した後に会ったモミジと契約している。その辺がシンジの趣味、と言えば言えるのかも知れない。
 とまれ、いきなり現れて当主になったと知れば、カエデがモミジを狙う事は十分考えられ、アオイはそのためにウェールズにまだ残った。
 そしてヤマトの方は、電話一本ろくにしてこない不肖の孫が、第三新東京を脱走したとメールで聞いた時、ある程度予測はついていた。
 ヤマトが、むしろアオイよりも孫だと可愛がっているのはシンジ。内心では、エヴァに乗せるなど穏やかでは無かったのだ。
 ただ、元よりそのために育て上げた部分が大きいシンジであり、やむなく行かせた部分が強いらしい。
 らしい、という曖昧な伝聞形なのには訳がある。ヤマトの背を押したのは、その妻であるヒナギクだったのだが、シンジが出る前にヤマトは既に旅行に出た。その日程中、ずっとヤマトは機嫌が悪く、それがヒナギクに直撃したらしいのだ。
 ヤマトがアオイをウェールズに残したのは、シンジと一緒にユリが行っているからだ。もしそうでなければ、自分が一緒に行っているだろう。
「だが、逃がしておろうな」
 ヤマトは低い声で呟いた時、部屋のドアがノックされた。
「御前様、お茶をお持ちしました」
 うむ、と返した声にゆっくりとドアが開いた。
 が、入って来たのは使用人ではなく妻のヒナギクである。どうやら御前様などという封建的な呼称が、ここでは今だに通っているらしい。
 しかしこの二人既に七十代か、或いはそれ以上になっているはずだが、一向にそんな年齢には見えない。それどころか五十代あたりにすら見えるのだ。
 無論、入って来た時のヒナギクの仕種一つ取っても、油断は微塵も見られず周囲への視線は、シンジのそれと変わらない。
 二人とも現役に近い物があるとはいえ、一体齢(よわい)幾つを数えているのだろうか。
 どうぞ、と差し出された湯飲みを取ると一気にヤマトは飲み干した。
 「シンジの身に何か?」
 ヤマトが湯飲みを置くのを待ってからヒナギクは訊ねた。決して自分から先んじようとはしない。ヤマトが、思考を止めているのは既に分かっているのだ。
  「カエデはやはり、シンジの元へ向かったようだ」
「では、ネルフの方へ?」
「そうではあるまい」
 ヤマトは軽く首を振った。
「シンジはあの娘を連れて遊びに行っておる。おそらくは遭ったろう−東京での」
「御前、シンジはどうするとお考えですか」
「わしは一人でよい」
「はい」
 頷いたが、分かっているのかどうかは幾分不明だ。
  「女の想いなど、まして片手に余る程などはわしにはいらぬ。わしには、一つで十分じゃ」
 そう言ったヤマトは、今だ張りのある妻の顔を片手で持ち上げた。
「まあ」
 二人の視線が絡み合い、揃って笑ったのは数秒後の事であった。
 
 
 
 
 
 
「とりあえず服買わないとね。君は?」
 自分のあちこち破れた服を見ながらシンジが言った。既に車は高速の上にある。
  「私は…大丈夫」
 服を剥ぎ取られたのか脱がされたのか、いまいち記憶が曖昧だが、着た感じも見た目も損傷は無い。おそらく死針で脱がされたのだろう。
「分かった。じゃ僕だけ…あ」
 シンジの声に、レイが横を向いた。
 「どうしたの?」
「お金がない」
「え?」
「さっき鑑賞料に払ったから。しかもだだ洩れで」
「水漏れ?」
「似たようなもんだけどね」
 曖昧に返してから、どうしようと考え込んだシンジを見て、何故かレイが笑った。
 ピンチを横でうふふと笑う娘に、シンジの表情が動いた。
「おもしろい?」
「そ、そうじゃなくてあのっ」
「ん?」
「これ…」
 レイがポケットから取り出したのは、黒革の財布であった。しかもかなり厚い。
「財布?」
「うんっ」
 レイが得意げに見せたのは、ぎっしり詰まった中身。
 はあ、と言ったシンジに、
「ユ、ユリさんがね、これを持っていくようにって言われたの」
「いつ」
  「着替えを取りに行った時」
 と言うことは、タオルやら歯ブラシやら持たせた時に、これも持たせたのだろうか。
「ん?」
 ステアリングを握ったまま、シンジが一瞬考え込んだ。
「ど、どうしたの?」
「それ貸して」
 シンジに言われるまま、レイは財布を渡した。
 中にはカードの類はなく、手の切れるような新札がびっしりと収まっている。
 何故かそれをじっと見ていたシンジの視線が、一番端で止まった。
 財布を足の間に挟み、1枚の紙をひょいを取り出した。
「やっぱりな、あの藪医者」
 シンジの声に、何か失態をやらかしたかと不安そうな顔になったレイが、
「だ、駄目なの?…」
「そうじゃないけどね」
 シンジはレイにその紙を見せなかったがそこには、
  『財産管理も出来ない兄を助けるように』
 と書いてあったのだ。
 どうやらユリはシンジを読んでいたらしい。
 ただし、奇怪な老人に払ってばらまかれるとまで、想像したかどうか。
「『ほたる』に寄っていくから、これは持ってて」
 と、シンジは財布をレイに返した。
「で、でも」
「いいから。それよりレイちゃんの財布見せて」
「あ、はい」
 ごそごそと取り出したのは、少し大人向けなデザインの紅い財布。
「これは?」
「大分前に赤木博士が一応持って置くようにって」
「一応、ね」
 小さく呟いた声は、エキゾーストのせいかレイには聞こえなかったらしい。片手で中を器用に開けると十万円しか入っていない。
「一応訊くけど」
「はい?」
「このお金どうしたの」
「これはユリさんが」
「じゃあその前は?」
「テレホンカードと身分証明書を…あ、そ、その…」
 レイは気付いたのだ。シンジが引き出そうとしたのは、生活費を与えられていなかったと言う答えだと言う事に。
「で、でもっ」
 ゲンドウをかばったかそれともリツコか、何か言おうとしたレイをシンジは制した。
「黒いのから紙幣全部出して」
 言われてレイは素直に従った。取り出したのは百枚だろう、シンジはそれをレイの財布に入れるよう命じた。
「で、でもこれは」
「いいね」
 穏やかだが、シンジの声は異論を許さなかった。
「お兄ちゃんはどうするの?」
「ほたるにあるからいいよ」
「ほたる?」
 今車が走っているのは海底トンネル。トンネル内のライトが、シンジの髪を煌かせているのに気付き、レイがうっとりとそれを眺めた。
(ん?)
 自分の顔を見たはずのレイが、何故か自分の髪を眺めているのに気付いたが、シンジは何も言わなかった。
 ぼうっと眺めていたレイが我に返ったのは、トンネルを出た直後の事である。
「もう着くよ」
 言われて漸く、シンジの視線に気が付いて顔を赤らめた。
「髪に何か付いてた?」
「ち、違うの。ただ…き、綺麗だったからその…」
 ごにょごにょと呟いているレイを残して、シンジは先に車を降りた。さりげないが、微塵も隙の無い視線で、辺りを一瞥してから降りる。
「さて降り…あれ?」
 降りてこないレイを見ると、助手席で指を絡ませながら俯いて何やら呟いている。
 まったく、と言い掛けたシンジ、何故かにやっと笑った。足音を殺して近づくと、これまた殆ど無音でドアを開ける。気配に気づいたレイが振り向く刹那、にゅうと怪しげに伸びたシンジの手が、レイの脇腹を捕まえたのだ。
「なっ、はっ、ちょ、ちょっとおにいちゃ…はうっ」
 咄嗟に身をよじって逃げようとしたが、もともとクーペ改の設計だけにそんなに広くはない。
 しかもシンジががっしりと捕まえている物だから、あっさりとレイはシンジの餌食になった。
「あっ、やっ…あひゃっ…や、やだっ…あんんっ」
 ひとしきりくすぐられた後、やっと解放されたレイは外に出ると大きく息をついた。
「お、お兄ちゃん何を…」
「五回呼んだよ」
 と、こっちは少しも意識などしていないらしい。
 暴れすぎて、涙の浮かんだ目でちろっとシンジを見たが、
「さっさと行くよ」
 差し出された手を嬉しそうに取りかけ、一瞬宙でその手が止まった。
「なに?」
 だがそれも刹那の事で、すぐにその手をきゅっと取った。
「はい」
 一瞬過ぎった影を押さえ込み、シンジの横に立った時にはもう、喜色だけがその美貌を彩っていた。
 シンジと遭ってからもう二ヶ月近く立つが、シンジが手を差し伸べたなど初めての事である。
 レイがそれに気づいたかどうか。
 が。
 長いエスカレーターにさしかかった時、レイの手に力が加わった。
「ん?」
「あの…」
「何事?」
「初めて、ね?」
「こっち来るの?」
「そうじゃなくてその…お、お兄ちゃんから手を出してくれたの」
 そう言ってうっすらと赤くなった辺り、気づいたらしい。
 シンジの方は、
「そうだね」
 と、つれないのにも程がありそうな返事だったが、レイはそれでも嬉しそうに、シンジの腕にきゅっとしがみついた。
 ただレイは気づいていなかった。
 シンジが左腕とは言え取らせたのは、周囲に殆ど人影が無いのを確認した上であり、任せた訳ではないと言うことを。
 それに加えて、シンジの右腕は力を抜いて下がっており、いつでもヒップホルスターに伸びる体勢を取っていることにも。
「お手洗いはあっち」
「え?」
 シンジの腕の感触を楽しんでいたレイは、シンジの声で我に返った。
 次の瞬間わずかなショックが足に伝わる、三階に着いたのだ。
「わ、私はいいから」
 とレイが言ったのは、恥ずかしいからではなく、単にシンジとくっついていたいからだ。
 シンジが腕を許すなど、珍事に近いとレイも知っていたのである。
「顔はとりあえず洗っておいで、はいこれ」
 シンジがポケットから出したのはコンパクト。そのミラーを見たレイは慌てて洗面所に入っていく。特別展望台でシンジのダミーが自爆した時、その爆風でレイの眉の上が 『羽子板の罰ゲーム状態』になっていたのだ。
 真っ黒けになったそこを押さえて、トイレに走っていくレイを見ながらシンジはATMに近づいた。暗証番号を入れ、指先を画面に押しつける。
 既に一千万円まで引き出せるようになった機械は、暗証番号だけでなく指紋の照合も、セキュリティの一つとして組み込まれるようになったからだ。金額的には便利になった反面、暗証番号を教えて使いに出す、と言う事は出来なくなったのである。
 空になった財布を補充したシンジが、財布をポケットに入れた時携帯が鳴った。
「はい…あれ?おばあ様?何で」
「何で?とはどういう意味じゃ、シンジ」
 ヤマトに向けるのとはえらく違う、どこぞの教祖のような声が返ってきた。
「ずっと電話無かったじゃない」
「御前がするなと言われたのよ−冷たい孫だと嘆いておられたぞ」
「機械仕掛けのお手紙は送っていたんだからいいじゃないの。で?」
「カエデには何処で遭ったな?」
 既に知っているらしい口調で、ヒナギクがシンジに訊いた。
「そっちはいつ知った?」
「関空の方が甘いからの。無事に入れるならあっちだけじゃ」
「意地悪なばあさんだ」
  「なんですって」
 ヒナギクの声が1オクターブ低くなった。ヤマトがあくびをすれば日本経済が吸い込まれる、とまで言われるヤマトだが、その妻ヒナギクもまたヤマトの手足となり動いてきただけに、少しでも政財界に足をつっこんでいる者で、彼らの名前を知らない者はいない。
 だが、何事にも例外は存在する物で、その数少ない例外がここにいる。
「何で教えなかった?こら」
 えらそうにすごんで見せた。
「職員が間抜けだったのじゃよ」
 ふっとヒナギクの声が緩んだ。
「間抜け?ばあ様が?」
「……職員がよ、シンジ殿」
 こうなるとかなり危険な兆候を帯びてくる。
 だが、
「何人?」
 と訊いた辺り、シンジにはヒナギクの言うことが読めていたのか。
「八人、それと身代わりが一人」
「身代わり?」
  「老頭組の組長の娘よ。そっちに観光に行っていたとか」
 老頭組とは、四国一円に名の知れた広域指定暴力団であり、そこの若頭以下幹部連中が十人ほど、シンジに片づけられた経緯がある。
 つまり呪符で身代わりをこしらえ、証拠物件を片づけたと言うことだ。
 無論本人は死んでいるのだが。
「安心した」
 ぽつりと言ったシンジの口調に何を感じたのか、
「カエデに遭ったね」
 ヒナギクが言ったのは十秒ほど経ってからであった。
「僕を殺すんだって」
 あっさりと言った声は、どこかからりとしていた。
「で、逃がしたのかえ?」
「うん」
「御前様もそう言われていた。シンジならば逃がすだろうと、の」
「ふうん。で、こっちには来るのかい?」
「お呼びかい」
  「お呼びでない」
「孫の育て方を間違ったね、私は。御前様に申し訳がないよ」
「二人揃って間違えたくせに」
「なんと?」
 妙に口調が甘くなった。
「教育論はまた今度。それよりも」
「ほ?」
「アオイには僕から電話するから、ばあ様はほっといて」
 どう聞いても命令形の口調だったが、
「シンジの好きにするがよいわ」
 と、あっさり許可した。直系ではないにも関わらず、アオイを直に教えたのはヒナギクその人である。無論ヤマトがノータッチではないが、基礎を叩き込んだのはヒナギクなのだ。
 しかしそのヒナギクも、シンジは可愛くて仕方がないらしい。
 何のかんの言っても、シンジがヒナギクに叱られた事など殆ど記憶にないのだ。
 いや、もしかした一度も無いかも知れない。
「ところで」
「ん?」
「アオイがこっち戻ったら、一回そっち寄るでしょ。僕が迎えに行こうか?」
「アオイは喜ぶな。だが…良い」
 ヤマトとはまた違うが、ずしりと重い声で否定した。
「何でまた」
「適格者が離れてはならぬ。気晴らしの後は留まりなさい、いいね」
「気乗りしてなかったのに?」
 それを聞いたヒナギクは、電話の向こうで薄く笑った。
「戦士不在で、大事な孫を失うわけには行かないのですよ」
 ん、とシンジは一瞬考えてから頷いた。
「ごもっとも」
「また…今度はシンジからしておくれ」
「またね」
 うんとは言わず、シンジは通話を切った。電話の向こうで、ヒナギクが嘆息している事だろう。
 無論悪い老人ではないが、シンジを可愛がり過ぎるのが時として重くなったりもするのだ。
 『弧』が身に付いた少年の、闇の部分が生み出した代償かもしれない。
 電話を切ったシンジは、レイが来る前にアオイに連絡しようかとも思ったが、長引きそうなので止めて、近くの売店へと入って行った。
 
 
 
 
 
「こんな感じ…かしら」
 ごしごし洗ったおかげで、レイの顔は完全に元の白さを取り戻していた。
 だが鏡を覗きこんでみると、何となくまだ汚れが残っているような気もする。結局更に数度洗った後、漸くレイは水を止めた。
 ポケットからハンドタオルを出そうとして、
「あ」
 と洩らした。
「ちっちゃいのはこれに入れるといい」
 そう言ってシンジに小さなポーチを貰ったのだ。ハンカチやら何やら、全部それに入れておいたのだが、それを車に置いてきたのを思い出した。
「何をしているの…私は」
 シンジに貰った物を忘れるとは、と髪をこすったレイ。
 しかし、これが厄を呼ぶ起爆剤になるなどとはレイは夢にも思わない。つかつかと洗面所から歩いて、レイは車へと向かった。
 なお、顔と手は濡れたままである。
 だがレイは知らなかった。レイが頭を掴んだ折、そこから何から落ちたことを。
 そしてレイが歩き出した時、転がった球体がその後を追うように、ころころと転がって行ったことを。
 一見すればゴミにしか見えないだろう。
 事実それは銀色をした、一センチも無い程度の大きさの物体だったのだ。
 だが見るがいい、球体のようなそれからゆっくりと…そうゆっくりとだが、液体が流れ出したではないか。しかもその大きさのどこにそんな量が、と思われるほどその量は多かった。早足で車へ急ぐレイの後をゆっくりと、だが一定のスピードで付いていくその物体。今や、完全な球体と化したそれが、自分の後を付けている事などレイは無論知らない。家と車兼用のカードキーで鍵を開けて、ダッシュボードからポーチを取り出した。
 蒼髪に良く似合うそれは純白。手にしたポーチを大切そうに握り締め、ドアを閉めるとオートロックで鍵が掛かる。
 歩き出したレイの背に、声が掛かったのは次の瞬間であった。
「ねえあなた」
 自分と思わずに歩きかけ、それが自分の声だと知って足が愕然と止まる。
 その刹那背中を襲った何かを、レイは右へ倒れこんでかわした。
 無論普段のレイの成し得る事ではない。姐姫がシンジに言った通り、その能力をも溶け込ませつつあるレイなればこその動きであった。
 ポーチを手にしたまま横へ、二度三度と転がったレイは、自分の身よりもシンジに貰ったポーチをぎゅっと抱き込んでいる。
 アスファルトの上を転がったせいで、瞬時に幾つもの擦り傷が出来たが、それでもポーチが汚れていない事にレイは安堵の色を見せた。
 だがその目が、冬の原野の光を宿して後方を見…そしてそのまま固まった。
 その視界に立っているのは、まさしく綾波レイだったのだ。明らかに自分と瓜二つ、しかしそれが水槽から担いできた物でないのは明らかである。
 嘲笑の色を目に浮かべながら、凝固しているレイを見下ろしているもう一人のレイが言った。
「私を殺す、そう言ったか?」
 その声がさっき聞いた物と知った時、レイは跳ね起きていた。
「…土御門カエデ」
 凄絶な殺気と−いやそれだけではなく、どこか妬心にも似た物がレイの周りを渦巻いた。
 そっとポーチを置いた途端、その左手が閃いた。槍状と化したATフィールドが、一直線にもう1人のレイを襲う。
 だがそいつは避けなかった。さっきカエデは、レイのそれを呪符で弾いた筈−それなのに何故なのか。
 答えはすぐに出た。甲高い金属の打ち合う音がした時、レイは相手の武器を知った。
「ATフィールド…」
 愕然と呟いたレイに、そいつは嘲笑と共に告げた。
「私はカエデではない、私はお前だ」
 と。
 静まり返った場内に、どこか凄惨な殺気が満ち始めようとしていた。
 
 
 
 
 
(続く)

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