第二十九話
 
 
 
 
 
 両手を紅に染めた少女が、待ち合わせの場所へやってきたのは、既に夕方も終わりかけた頃であった。
 折から降り始めた雨が、哀しみと疲労でぼろぼろになっている少女の身体を、容赦なく濡らしていく。
 待ち合わせにでも使われそうな大きな樫の木。そこに誰を見つけたのか、少女は棒と化した脚を引きずるようにして、近づいて行った。
「遅いよ」
 少女の手と言わず顔と言わず、紅に染まっているのを見ても少年は驚かなかった。
 いや、それについて聞こうともしない。
「お待ちに…なられました?」
 会えて気が緩んだか、僅かに倒れかかった身体を少年は支えた。
「ご飯中だったけど」
「それは…失礼を致しました」
 少年の声に毒気が抜けたか、全身から立ちのぼっていた殺気のような物がふっと消える。
「ユリさんが喜んでいたぞ。移植用のいい部品が大量に入ったと。よろしく言っておくように頼まれた」
「…それはそれは」
 二人の脳裏にある妖艶な美女が浮かび、殺されたと知りつつ、嬉々としてその生体部品の分解に掛かる様が浮かんだのである。
「それで、何?」
 自分の肩にもたれかかった少女に、少年は訪ねた。純白のベストに血が移ったのを見て、僅かに眉をしかめたけれど。
「わたくしと…わたくしと一緒に行って下さいませんか…シンジ様」
 ただ、そう言った時既に少女は答えを知っていたのかもしれない。
「僕は代用品じゃない」
 想い人を死に追いやった祖母と、そして邸の者達を惨殺したとシンジは知っていた。
 だがシンジの表情にあるのは−
 嫌悪でも怯えでもなく。
 同情でも哀しみでもなく。
 ただ、澄んだ黒瞳に少女の姿を映して。
「…分かっておりましたわ」
 ほんの少し、そうほんの少しだけ涙を含んだ声で少女は言った。
「でも、必ず契約は私として頂きますわ」
「そう?」
 最後に少女から頼られたのは自分、そう知りながらもシンジの声は変わらない。
「だから、これは印です」
「印?」
「シンジ様が、わたくしの物だと言う印」
 言うが早いか、頭を持たせかけた姿勢のまま、少女は歯を立てていた。
 思い切り歯を立てたと見えて、シンジの眉が苦痛からかきゅっと寄った。
 ゆっくりと顔を上げたその口は、シンジの血で赤く染まっている。
「美味しいのか?」
 何故か怪訝な顔で訊ねたシンジに、少女はにっと笑って見せた。
「シンジ様の物なら何でも」
「もう行った方がいい」
 少女の感慨など、知らぬげにシンジが言った。言われずとも、少女の耳はサイレンの音を捉えていた。
「…これは?」
「僕が呼んだ」
「やはり」
 少女はさして驚きもせずに言った。
「となれば、一つ貸しが出来た。絶対に…許してあげま…」
 許しませんわ、と言いかけたその顔が凍りついたのは、次の瞬間であった。
「血を吸われる謂れは無いが」
 目の前の少年から、ゆっくりと鬼気が噴き上げ出したのだ。
「あ…あ…」
「俺に送られるか、それとも自ら去るか。好きな方を選ぶがいい」
 ぎりり、と音がしたのは、少女が歯を噛み鳴らしたのである。
「絶対に…絶対に許さないっ。この私の…土御門カエデの名に賭けてっ」
 走り去る後姿を、シンジは追おうとはしなかった。
「ドクターに治させるが…あいつ、部品の分解中だろうな。真面目にやるか?」
 数分後、数十台のパトカーがその場に到着した時、僅かな血痕を残してそこには誰もいなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ナイフまで…憶えたか」
 やや苦しげに言ったシンジの肩が、いきなり蹴飛ばされたのは次の瞬間である。
「だまれ」
 呻いて吹き飛んだシンジを、地を蹴って追うと落下寸前の頭を掴む。髪を引っ張って立たせると、ボディーに目の覚めるようなブローを打ち込んだ。
「かはっ」
 身体を前に折り掛けるのも許さず、首筋に手刀を叩きこんだのだ。
 床に伸びたシンジを見ながら、
「本物はどこにいる」
 肩を踏みつけながら訊ねた。
「本物は…僕だ…ぐうっ」
 強打した肩を、更に強く踏みつけたのだ。
 だが、数秒経っても呪符に戻らぬそれを見て、
「まさか…」
 ぽつりと呟いたが、すぐに首を振った。
「良かろう、ならばこの娘を…ん?」
 全裸で放り出した筈の綾波レイ。その肢体がそこに無いのを知り、はてと首を傾げた途端足首を捕まれたのを知り、その身体が一瞬びくりと動いた。
「何の真似だ−ダミー」
「最後の奉公だ」
 言うなり爆発したそれに、周囲はあっという間に黒煙に包まれた。
 
 
 
「相変わらずやんちゃね、シンジ様」
 天井から聞こえた声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。
  「そっちは相変わらず凶暴で何よりだよ」
 全裸のレイを腕の中にに抱いたシンジは、傷一つ負っていない。
 爆発の瞬間、絡みついた手首ごと蹴り飛ばし、しなやかに地を蹴ったカエデはこれも天井にくっついたものの、爆発の余波でほんの少し頬が黒い。
  「同い年の妹がいるなんて初耳ね」
「親類縁者に回覧板は出してないからな」
「それで、私にも内緒でしたのね」
「いや」
「あら」
「お前には最初から教える気はなかった」
「ずいぶんと冷たい言われようですわね、シンジ様」
 冷ややかに言ったカエデの目は、一直線にシンジの腕の中のレイを射抜いている。その視線だけで、たいていの娘なら凍り付くかもしれない。
  「で、何しに来た?カエデ」
  「それは私の台詞です。何故ここへ来られましたの?わざわざ」
  「その前に」
「何でしょう」
  「レイちゃんの服はどうした?」
  「レイちゃん?アサシンの名が泣きますわよ」
  「服はどうした?」
 変わらぬ口調のままもう一度訊ねたシンジに、カエデは何かを感じたのか、懐中から札を取り出した。
  「圧縮してあるわ、自分でお取りなさい」
「そうする」
 と言った後、シンジはちらりとレイの肢体に目を向けた。全裸のまま、心なしか青白くなっているようなレイを見て、
  「カエデ」
 と呼んだ。
「何かしら」
「お前、レイちゃんにしか会わなかったか?」
 ふっとカエデが笑った。
 「会いたくなかったので−あとの二人には」
 微妙に変化したシンジの表情を見て、カエデの笑みが一層深くなった。
「私が気づかなかったとお思い?」
「ちょっとだけ」
 シンジがそう言った瞬間初めて、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
「それで?」
 訊ねたのはシンジであった。
 カエデはそれには反応せず、すっとシンジに近づいた。
 シンジはレイを抱いたまま、避けようともしない。
「その前に私から」
 ほとんど肩が触れ合いそうな位置に立つと、更に顔を近づけた。
「何でしょう」
「よく似た妹を持ったのはご趣味?」
「うん」
 あっさりと肯定したシンジに、
「でも…この娘がもし持ったら?…もう一人のそれを」
 「殺す。僕がこの手で」
 さっきと同様躊躇わずに言ったシンジだが、一瞬だけその表情が動いたのを、カエデは見逃さなかった。
 そして、失神させておいた筈のレイの眉が、ほんの少しだけ動いたのも。
 数瞬沈黙が流れた後、先に口を開いたのはシンジであった。
「それでお前、何もしなかったの?」
  「勿論ですわ」
 これもあっさりと言い切るカエデに、シンジは一瞬宙を仰いだ。
 ダミーがカエデの注意を引いている間に、シンジはさっさとレイを取り返していた。
 全裸で転がされていたレイを、脱がす手間が省けたと全身を調べたシンジは、二の腕に血を抜かれた痕跡しか見つけなかったのである。
「一目見てダミーかクローンと知りましたから、記憶を持ったならシンジ様が始末される筈だと…」
「一目で?」
「私の名字をお忘れですか?」
「僕は分からなかったけど」
 カエデはそれを聞いた時、うふふと笑った−初めて屈託無く。
「私が一から教え直してあげますわ…あの時のように」
 近づいてくるカエデの唇を、シンジは避けようとはしなかった。
 どこか毒々しく色づいたカエデの朱唇。しかしその容貌といいスタイルと言い、今ウェールズでアオイと共にあるモミジと、ほとんど見分けが付かない。数年会っていない者が、二人を並べて見たら、その八割方は間違えるかも知れない。
 ただモミジとの一番の違いは、その全身から発している危険な気。
 妖しい毒にも似たそれを振りまきながら、カエデはシンジに口づけした。
  「ん…なっ!?」
 一瞬の後、愕然と飛び退いたのはカエデであった。彼女はその唇に違和感を−決定的な否定を受け取ったのだ。
 唇を合わせただけなのに、カエデの唇の端からは一条の鮮血が流れ落ちている。
 そしてその表情が変わったのは次の瞬間の事−すなわち、驚愕から憎悪へと。
  「ま、まさか…まさか…」
 呻くような声は、たちまちの内に地獄の呪詛へと化していた。
「まさかっ、まさかモミジと…」
「既に契約した」
 シンジが短く告げた時、カエデの顔は悪鬼へと変貌していった。眉はぎりりと吊りあがり、目には夜叉とも見まごう光が漂っている。そしてその口元は裂けたかのように拡がり、噛み鳴らされている歯のそれは、かの餓鬼にも近い。
 かつて、想い人を自殺に追い込まれた時でさえ、これほどの感情の吐露は見せなかったカエデである。だが、今のカエデは溢れ出す憎悪と激情を隠そうともしない。
 いや、隠そうとしても隠しきれないのだ。
 シンジが言った、
「契約した」
 その言葉の意味を知る彼女にとって、それは到底許し得ない物だったからだ。
「い、いつ…」
 呻くように言ったカエデに、
「一年位前かな」
 わなわなと震えだしたカエデ。
 そしてその双眸から涙が落ちたのは、数秒後のことである。
「ど…どうして…どうして…」
 激情は、怒りから悲嘆へと姿を変え、そこに立っているのは一人の少女に過ぎなかった。
「僕なら、容易くここに来れると試したか?」
 違う事を訊ねたシンジに、
「あ、あなたなら…シンジ様なら必ず来る、いえ来て下さると…」
「僕はプライドなど要らない。それに家柄も」
 シンジが告げた時、カエデの肩がびくりと波打った。
「私は…私は…」
 驚愕から憎悪へ、そして悲嘆へとその心を変化(へんげ)させたカエデ。
 だがその激情は急激に鎮まって行った。
「あなたは、私ではなくあの小娘を選んだのね…」
 呟いた声には抑揚が無かった。
「予想していなかった」
「違うっ!!」
 予想していたのではないかと、言い掛けたシンジの声を、叫ぶようなカエデの声が遮った。
「私以外と、この私以外と契約なんかするはずがないっ」
「思い込みは病の一つ、ユリにそう教わらなかったか?」
「うるさいっ」
 半ば半狂乱になったカエデの手が閃いた次の瞬間、カエデは呆然とシンジを眺めた。
「う、嘘…」
 カエデの術はその会得にある。ユリの夭糸さえも物にしていたカエデは、指先から死の糸をシンジに向けた筈であった。
 だが。
「カエデの死針−硬い物なら何でも切れる。でも滑る物なら無理だな」
 ユリの糸と同じだけの細さに加工された物、だが一番の違いはその素材にある。
 綿糸を素材とする夭糸に対し、カエデのそれは針金を元としている。そして薬草から取った毒液を加工材料にする糸のそれに対し、カエデのは純粋な術−鬼呪と言っても良かろう。
 ただいずれにせよ、世界に糸を操るのは彼等二人だけであり、ATフィールド以外には、破られた事など無いそれであった。
 それを跳ね返した、いや正確には滑らせたシンジを見て、さすがのカエデも一瞬激情を忘れたのだ。
「それは…」
 唖然として訊ねたカエデに、
「知らない」
「は?」
「ベリアルにこないだ貰った。マスターは最強でいなくてはならないんだとさ」
「そうか、悪魔の仕業か」
 一時怯んだカエデの顔に、ゆっくりと表情が戻っていく。
「シンジ様」
 カエデが、妙に優しい声で呼んだ−明らかに毒を含んだと知れる声で。
「何?」
「あなたは私が殺してあげる…絶対に」
「気が変わった?」
「何ですって」
「僕を愛人にするんじゃなかったの?」
 一瞬カエデの顔に激情が過ぎり、理性でそれを抑えこんだらしい。
「契約して下僕(げぼく)にしてあげるつもりだったわ−さっきまでは。でももういいの、私を振った事…いえ私を侮った事、永劫に後悔させてあげる」
 憎々しげに言った後、ぐいと拭ったその目に、涙があったように見えたのは気のせいだったろうか。
「狙いは僕一人?」
「……愚か者のモミジからよ、シンジ様。あなたは一番後に回してあげる。美味しい物は最後に回す私の性格、お忘れ?」
 冷ややかに言ったカエデには、シンジの反撃を恐れる様子など微塵もない。
「なるほど、アオイがウェールズから戻って来ない訳だ。お前がカイロから脱走したのを知っていたな」
 一人ごちたシンジ。するとアオイはモミジに張り付いていたのだろうか。
「本当は生かしておいても良かった…あなたさえ手に入れば。だから、ウェールズではなくここへ来たのよ」
「直行だな」
「そうよ。空港であなたがその娘と脱走したのを聞いた。多分、ここへ寄ると思ったのよ」
「相変わらず勘のいい奴だ」
「……獲物にはね、第七感が働くのよ」
 ここで討つ事は諦めたか、既にカエデには殺気は無い。
「一つ多い奴だ…第三新東京におびき寄せれば良かったかな」
 洩らしたシンジに、
「家は既に要塞化してあるって訳?随分と用心がいいのね」
「いや、エヴァで踏んでみようかと」
 真顔で言ったシンジの顔を、カエデは奇妙な表情で眺めた。
 だがその眉は上がる事も無く、カエデはすっとシンジに近づいた。
 前からはレイが邪魔になるのか、後ろから顔を寄せた少女を少年は黙って見ていた。
「さよなら…」
 消えそうな語尾は、ただシンジだけが聞いた。囁いたのと、首筋にかすかな痛みを感じたのと、どちらが先立ったのか。
 そしてシンジが感じた液体は…シンジの血ではなかった。
 シンジに背を向けて去っていく姿に、感傷はなんら感じる事は出来ず、そしてシンジも黙然とそれを見送った。
 だが二人とも知っていた。
 去る者は−もはや自分の想いは死をもってしか叶わぬことを。
 見送る者は−次に会う時は、冥府へ見送る時であることを。
「なぜここへ来た?」
 呟いたシンジの口調には、ほんの少し哀しみの色が煌いていた。
「カイロで、ピラミッドと共にいれば良かったものを−」
 その心には何があるのか、僅かにその瞳が揺れた時。
「お兄…ちゃん…」
 抱きかかえられたレイが身動きした時、初めてシンジは、気が付いたようにレイを見た。
「起きた?」
 一糸纏わぬ全裸にも関わらず、そして柔らかなお尻が、手に当たっているにもかかわらず、シンジは少しも感情を見せなかった。
 服、と言い掛けたレイが、カエデの消えた先を視線で追ったのはそのせいである。
「お、お兄ちゃん…ふ、服を…」
 レイが呼んだのは、数十秒が経ってからであった。
「あ、そうだ」
 シンジがカエデに渡された呪符を取り出し、床に叩きつけるように置くと、それは瞬時に衣類の山と変わった。
「着替えて」
「は、はい…」
 シンジが視線を外に向けたのを知り、レイは悲しげに頷いた。
 レイは知ったのだ−シンジが外を見たのは、自分への配慮からではない、と。
 シンジのその視界の先には、自分を拉致したあの娘が映っているのだ、と。
 窓ガラスにレイは映っていなかった筈だが、レイが着替え終わるのと同時に、シンジはくるりと振り向いた。
「終わった?」
「は、はい…」
 シンジは数秒の間、レイを見つめていた。
 シンジが見ている、普段ならそれだけで紅くなるレイだが、今の彼女にはシンジの視線はただ、心の痛みを強める物でしかなかった。
 シンジの視線がどこか空洞だったから。
 そしてその視線が、自分を見ながら自分で無い物を見ていたから。
 だが、レイがその想いを口に出す事はついになかった。レイが思わず視線を逸らした時、シンジはレイの手にそっと触れたのだ。
「無事だった?」
 それを聞いた時、なぜだか急にレイは泣きたくなって俯いた。
「お兄ちゃんが…何処かに行ったかと思って…でも私のATフィールドも通じなくて…すごく…こ、怖かったの…怖かったんだから…」
 ぽろぽろと涙を落とすレイを見たシンジは、声を掛ける代わりにその頭を自分の肩に押し付けた。
「泣いて良し」
 慰めには遠い言葉だが、そこに含まれた口調で緊張が切れたのか、レイはシンジに抱き付くと、声をあげて泣き出した。
 静まり返った特別展望室に、レイの泣きじゃくる声だけが哀しげに響く。シンジはレイの頭に軽く手を当てたまま、黙ってそのなすがままにさせていた。
 レイのそれがしゃくりあげるような声になるまで、数分は掛かっただろうか。やがてレイはシンジから離れると、
「ご、ごめんなさい…」
 少し恥ずかしそうに言うと、ごしごしと目を拭った。
 と、その顔色が変わった。レイはシンジの服の破れに気が付いたのだ。それと赤くなった肌の色にも。
「お兄ちゃんそれっ」
「カエデにやられた訳じゃない」
 すうと、表情の変わりかけたレイをシンジは抑えた。このままでは、カエデを追って走りだしかねないと踏んだのだ。
 別にそれは構わないが、レイでは返り討ちに遭うだけである−そう、姐姫でなければカエデは討ちえまい。それを知らぬシンジではないし、それを知りつつレイを行かせるシンジでもなかったのだ。
「だい…じょうぶ?」
 自分の涙がそこに流れたと知り、慌てて拭こうとするレイをシンジは抑えた。
「昔から健康優良児だったからね」
 うっすらと笑って見せると、レイはほっと安堵したようにため息を吐いた。
「良かった…え?」
 シンジはレイの前にひょいと屈んだのだ。
「はい乗って」
「で、でも…」
「いいから乗る。それとも一人きりで降りるかい?」
「一人きり?…や、やだやだ」
 これ以上あんな思いはしたくない−例えカエデがいないと分かっていても。それに、何よりもシンジと離れたくないレイは、シンジの背に乗るときゅっとしがみ付いた。
「あ、あの…お兄ちゃん…」
「ん?」
「も、もう…置いて行かないでね」
「来ないと思っていたんだが…もっともドアの結界は簡単に壊せるようにして置いたから、僕も少し油断したかな」
「じ、邪魔だったの?」
「能力(ちから)があると言う事と、それを使いこなすと言うのは別なのさ。君はまだ、無理に使う事はないよ」
「じゃ、じゃあっ」
 シンジの言葉で何かが浮かんだらしく、どこか弾んだ声で言ったレイに、
「何?」
「…その…お、お…」
「王?」
「ち、違うの」
「なんでしょう」
「あ、あのね」
 言い掛けた時、一階までの直行エレベーターが到着し、シンジはレイを背にしたまま乗り込んだ。
 内乱前よりも更に過激さを増したGが、二人の身体を押し包む。その勢いに紛れるかのように、レイは強く腕を巻き付けた。
 シンジは無反応であったが、半分辺りまで来た時不意に訊ねた。
「で、何?」
「えっ?あ。あのね…」
「お、お兄ちゃんが守ってくれる?」
 一応変わらぬ年齢の、レイの言葉を何と聞いたのか、シンジの指がすっと伸びて停止ボタンを押した。強い衝撃が伝わる寸前、シンジはひょいと跳ねた。着いた瞬間の衝撃を避けて着地すると、シンジは外に出た。
「お兄ちゃん?」
 レイを背にしたまま、シンジは表に出る。4階から1階までは数百段の階段となっており、シンジはその一番上に立った。
 下を見下ろしたまま、
「自分では守れないかい?」
 と、逆にレイに訊き返した。
 一瞬経ってから、レイは慌てて首を振った。
「だっ、大丈夫っ」
「それは良かった」
「だ、だけどね…」
「だけど?」
「ちょ、ちょっとだけ…た、助けてくれる?」
 甘えるような口調とは裏腹に、首に回されている手が硬直しているのに、シンジは気付いていた。
「それなら喜んで」
「良かった…」
 レイの口から安堵の息が洩れ、ふっと全身から力が抜けて、シンジにもたれかかって来た。
 だが、レイ自身気付いてはいない。
 一見甘えに見えるその心に、さっきのシンジの言葉が、金剛石のように刻まれていることに。
 そして、レイ自身の意識が知らぬ内に、必死になってそれを封じようとしている事も
また。
「降りるか?それとも乗っていくかい?」
 シンジの言葉に、レイは気が付いたように下を見た。
 いかにも目に悪そうな、濃いオレンジ色で視界は埋まっている。
「の、乗ってていい?」
「分かった」
 シンジは頷くと歩き出し、金属の階段が乾いた音を立てた。
 
 
 
  
 
 その頃、既にカエデは外にいた。
 靄の消し飛んだ坂をゆっくりと歩く足取りは、心に澱んだ物のせいか、どこか引きずるようにも見える。
 身を包んでいる、深紅のチャイナドレスはノースリーブ。
 むきだしの白い腕からも、そして深いスリットから覗く脚からも、測り知れぬ程の妖気が漂っている。
「馬鹿…大馬鹿…碇シンジのばか…」
 声に涙は無いとは言え、呟きながら歩く姿は年相応の少女のそれである。
 ただ、少し違うのは−
 その指が、動いていると分からぬほど微妙な振動を見せる度に、次々と地面に十字型の亀裂が走っては捲くれ上がる事、そして等間隔で立てられた電信柱が、次々と寸断されている事であった。
 単に二つになったのではない。ユリのような滑らかな切り口ではなく、むしろ面の粗い力技ではあるが、二十メートル近くある電信柱が、数センチ角に刻まれて降って来る様は、どこかこの世の終わりさえも感じさせる。
 早い話が八つ当たりである。
 ただし、かなり桁外れの。
 針金に手を加え、不可視の細さに変えたカエデのそれは、華麗なそれではユリに遠く及ばないが、断って破壊すると言う意味では決して劣る物ではない。
 ただし、ユリと違って簡単には使えない代物であり、それはその製法の差にある。すなわちカエデのそれは、シンジの妖刀と同じなのだ。使うたびに魔力を要求されるそれは、魔力の桁がシンジとは違うカエデでは、どうしても使うのが制限される。
 使える術には通じる土御門の者達と、術には通じないが魔力は桁外れのシンジ。カエデもモミジも契約を望んだのはそこであり、そしてシンジが選択したのはモミジであった。
 いかな東京タワーであっても、既に流れが狂っているここでは、カエデも魔力の供給は容易くない筈であり、事実カエデの両手から血が滴っているのは、体内の流れが狂っているからである。
 第一、カエデは両手を握り締めてもいないのだ。
 カエデの歩く後、次々とアスファルトが切り裂かれて舞い上がり、そして空からは面の粗いサイコロと化した電柱の欠片が降って来る。
 魔力の代替は自らの体力−息は荒く足取りも蹌踉となりながらも、カエデは針金を振るうのを止めようとはしない。
 手の平どころか、腕の付け根さえも既に毛細血管が切れたのか、細い鮮血の筋が流れ出している。
 長い坂を、文字通り自らの血と引き換えに、破壊工作を繰り返して進んだカエデの足がふと止まった。その視界に映るのはシンジの車。死針を振るうのを止め、ゆっくりとシンジの車に歩み寄る。
 黒塗りのベンツを見ながら、
「相変わらず大事にしてるのね…」
 ぽつりと呟く。
 右腕がすっと上がったが、付け根から滴る鮮血に僅かにその眉が寄る。
 だが歯を噛み締めて痛みを堪えると、死針を繰り出す。
 結界に大穴を開けて、土御門カエデが姿を消したのは、数分後の事であった。
 
 
 
 
 
 レイが寝入った事をシンジが知ったのは、数十段を歩いた頃である。
 妙に重さが増したのと、聞こえてくる寝息に気付くのとが、ほぼ同時であった。
「寝ちゃったか…げ!」
 妖気が噴き上がり、にゅうと伸びた腕がシンジの首をきゅっと絞めたのだ。
「始皇帝並じゃな、シンジよ」
 姐姫は、奇妙に優しい声で囁いた。
「なんの事やら」
 とぼけたシンジの背中に当たる感触が、一際重量感を増したが姐姫は降りようとはしない。
「阿房宮に、宝石のごとく女共を集めたあやつの事を、知らぬわけではあるまい」
「一応は。ところで降りないの」
「わらわを背負えるなど、最高の栄誉であろうが。感謝するがいい」
 だが、普段ならシンジの背になど乗る妖姫ではあるまい。やはり、肉体(からだ)にはダメージが残っているのだろうか。
「あのさ」
「何じゃ」
「なんで助けなかったの?」
「約定じゃ」
 姐姫は短く言った。
 約定ね、と内心で呟いたシンジは、聞き返そうとはしなかった。言わずとも、その意味は知れたのである。
(でもさっき…)
 だが、シンジはそれも結局口にする事はしなかった。
 まあいいや、と一人で納得したのだ。
「それだけ?」
 シンジが代わりに、奇妙な事を聞いた。
 ふふふ、と姐姫は笑った−奇怪な、そして妖艶な声で。
「おぬしの趣味を見て見たかったのじゃ−女のな」
「こら」
「なんじゃ?」
「なんじゃ?って…あ」
 とシンジが洩らしたのは、姐姫が背からひょいと降りたから。横に並んだその姿を見て、シンジの表情が動いた。
「どうした、シンジよ」
 どこか楽しげに聞いた姐姫は、その体躯を僅かに変えていたのだ。
 レイはシンジよりも背は低いのだが、今の姐姫はシンジよりも身長が高い。しかも、その蒼髪は漆黒と化して肩よりも長いではないか。
「そうか、ここ魔力が溢れてたな」
 気が付いたように言ったシンジに、姐姫はにんまりと笑った。
「その通りじゃ。これだけ荒れた流れなら、わらわなら簡単に物に出来るわ。あの娘とは違ってな」
「カエデか?」
「所詮は箱の小娘、この程度で手こずるようではさしたる事はないわ」
「ん?」
「中の木偶人形どもは札を使って傀儡にしたようじゃが、ユリと似たようなあれは、殆ど使えておらなんだ」
 そこまで言った後、姐姫は横のシンジをひょいと覗きこんだ。一瞬内心を読まれたような気がして、シンジが横を向く。
「術は使えるが魔力は足りぬ者と、術は知らぬが魔力は有り余る者。その不完全な者同士の融合が、さっき言っておった契約じゃな」
「一応」
 シンジは横を向いたままだ。
「土御門モミジと申したな、あの娘」
 ちらっとシンジに視線を向けると、
「契約とはいかなる物じゃ?」
 語尾の上がった、だがどこか答えを知ったような口調で訊ねた。
「企業秘密」
「ほう」
 気にした様子もなく、
「レイには聞かせられぬ物か?」
 今度は弄うように聞いた。
「……情操教育の観点上」
 奇妙な事を口走ったシンジに、これも姐姫は咎めようとはしなかった。
「そうか、まあよい」
 と、その腕が伸びたのは次の瞬間であった。すっと伸びた指から、迸ったのはATフィールドであり、それが直撃したのは一羽の大鴉であった。
 手すりの上に止まり、降りてくる二人を見上げていたそれは、避ける暇もなく撃墜され、こんがりと黒くなって落ちた。
「わらわを睨むとは許せぬ奴じゃな」
 何も焼かないでもいいだろ、と言い掛けたシンジの表情がすっと締まった。手すりにずらりと並ぶ鴉の群れを確認したのである。
「こんなのいたかな」
 首を傾げたシンジに、姐姫はにっと笑った。
「シンジよ、良く見て置くがいい。これがATフィールドの使い方、そしてこれがわらわの力じゃ」
 言い終わるのと、黒い群れが二人に向かって一斉に羽ばたくのとが同時であった。シンジの手が一瞬腰のナイフに伸び−固まった。姐姫は右手で拳を作ると、そこに八角系の盾を作り出したのだ。
 これで防御かと思われた刹那、姐姫は左手でそれを弾いた。形は崩れぬままそれが宙に浮かび、そしてシンジの顔に僅かだが驚愕が浮かんだ。
 盾が鴉の群れに突っ込んだ瞬間、それは空中で爆発したのだ。
 いや、実際には破裂したと言った方が正解だろう。ただいずれにせよ、細かい破片となったそれがいかなる武器と化したものか、その身体を紅に染めた鴉達が一斉に落ちて来たのだ。
 本来ATフィールドは心霊兵器の筈。それがどうしたら有形化できるのか、シンジにも分からなかったが、オレンジの破片はATフィールドの欠片であったろう。
 燦然と煌きながら落ちてくるそれは、大鴉達の断末魔を別にすれば、夢世界のそれにも見えた。
「綺麗」
 呑気に呟いたのは、姐姫のそれが一羽も逃していないと知ったからだ。二人の足元にばらばらと落ちてきた数は、数十を超えていただろうか。
 東京タワーのそこは、階段下にすべてフェンスがあるため、一羽も下の階に落ちる事無く彼らの前にその骸を晒していた。
「これ、踏んで通るのか?」
 冷厳と鳥達を眺めていた姐姫にシンジが訊くと、
「お前の背を貸せ」
 短く命じた姐姫に、シンジは逆らいはしなかった。はいはい、と屈みこむとゆっくりと姐姫が背に乗る。
「跳ぶぞ」
 断ると同時に地を蹴り、一気に踊り場まで飛び降りる。そこで片足だけ付くと、それをばねにして再度飛んだ。二十段以上を跳んだのは、別に遊んでいた訳ではない。それだけ姐姫の撃墜した屍が周囲を埋め尽くしていたからだ。
「下りる?」
「良い」
 ん?と内心で一瞬首を傾げたか、このままで良いのだろうと、希代の妖女を背にしたままシンジは階段をまた降り始めた。
 しばらく二人は無言であったが二階に着いた時、
「シンジよ」
 姐姫が不意に呼んだ。
「何か?」
「おぬしさっき、レイがあやつの記憶を持ったなら我が手で処分すると、そう申していたの」
 僅かにシンジの表情が動いたが、足取りに乱れは無く歩き続け、
「無論」
 一言返したのは、数段降りてからであった。
「それは真か?」
「二度言わせる気か?お前は」
 無論、背中の妖女の素性を知らぬシンジではない。
 にも関わらず姐姫とはまた異種の、危険な気がシンジの全身から立ちのぼり始め、二様の気が周囲に渦巻いた。
「ならば良い」
 シンジが一瞬度肝を抜かれ、
「いいのか、それで?」
 訊ね返したのは数秒経ってからである。
「ほほ、良いに決まっているであろうが。仮にもわらわの想い人の荷物たるお前が、僕が記憶を消す、などとほざいてみよ、わらわが即刻お前を始末してくれるわ」
「荷物…納得」
 ふんふん、と頷いたシンジ。
 だがシンジは知らない。
 真か、と姐姫が訊ねた時、その手にはオレンジの光が−すなわちATフィールドが帯びられていたことを。
 そして、もしシンジが否定していたら、ためらう事無くその手を、シンジの首に打ち込んでいたであろうことも。
「少年」
 勝手に納得しているシンジを姐姫が呼んだ。
「なんだ、年増」
「年増とはなんじゃ?」
「ばーさんの事…うぐ」
「命を捨ててみるか?愚か者」
 姐姫の繊手が、今度はさっきよりも強めにシンジの気道を締め付けた。
「背中から絞めるのは止めない?」
「不意を打たれた人間どもの方が面白いからじゃ。無論お前とて例外では無いぞ」
 面白そうに笑った姐姫に、やれやれと肩を竦めると、
「で、何の用?」
「お前達が帰るまで、わらわは眠っておる」
「は?」
「レイと二人、好きに遊んでくるが良い。なんなら子を産ませても良いぞ、わらわのおもちゃにしてくれる」
 珍しく饒舌なのは、久しぶりにみる魔気のせいであろうとシンジは読んだ。
 だから逆らう事はせず、
「じゃ、よろしく」
 背中の体型がすっと縮み、それに伴い胸の感触も減ったのを感知したのは、二人が一階に着いてからである。
「起きた?」
「ん…はい…」
 どうやら姐姫が意識を封じてあったものか、もにゃもにゃと呟いているレイを、シンジはそっと下ろした。
「やっと着い…ありゃ」
 坂の惨状にまずシンジが気付き、一瞬唖然と眺めたのに続き今度はレイが、
「…サード…インパクト?」
 寝ぼけた声で訊いたレイに、
「局地的な…ね」
 とシンジが返し、
「じゃ行くよ」
 声を掛けると、レイはシンジの左側にぴたりと寄り添った。
 一階のホール内から、既に表の惨状は見えていたのだが、表に出ると改めてその凄絶な様が二人の視界を占める。
 やれやれ、と呟いたあとシンジが歩き出し、
「お兄ちゃん、これ何?」
 レイが何も知らぬげに訊ねたのは、数メートル歩いてからであった。
 
 
 
 
 
(続く)

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