第二十八話
 
 
 
 
 
 使徒達を前にして、キリストはこう告げた。
「今夜、あなた方のうち一人が私を裏切るでしょう」
 と。
 無論使徒達は皆、自分だけは絶対に違うと声高に否定した。そしてその中に、加わらなかった者は一人もいなかった。
 ただ、史実だけを述べるならば−
 裏切りの代名詞ともなっている『ユダ・イスカリオテ』、彼は自分の主を硬貨と引き換えに売り渡し、そして最初に自らの飽くなき忠誠を宣言した使徒は、世が明けるまでに、自分の主を三度否定した。
 すなわち
「私は彼を知らない」
 と。
 シンジが訪れている東京タワー。
 そこの蝋人形館にある作品の一つ、最後の晩餐は無論彼等を題材にしたものだ。
 だが今彼等は傀儡と化して、シンジの前に立ちふさがっている。
 シンジとその仲魔は、これをどう料理しうるか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「マスター」
 ベリアルがシンジを呼んだ。無論そこには緊張など欠片も無い。
「なに?」
 こちらも危機感ゼロの声で返事する。
「名前は全部知っているか?」
「そこのおっさん達の?」
「そうだ」
「僕は仏教徒だからな。ブッダが入滅した街の名前位しか知らないぞ」
 それを聞いたベリアル、何故かにっと笑った。紋章の口が横に裂けるのを見て、シンジは首を傾げた。
「僕の顔に何か付いてるか?」
「聞いてみるがいい、マスター」
「自己紹介でもしてもらうのかい」
「その通りだ」
 ふざけてなどはいるまい。
 だがさすがのシンジも、咄嗟には判断が付きかねた。
 とは言え、無意味な事をさせもするまいと、
「お名前は?」
 と聞いたシンジ。
 その顔に?マークがついたのは、次の瞬間であった。
 使徒達の口が、一斉に動いたのである。
 そしてそれが横に裂けたと思った次の瞬間。
「我輩は使徒である。名前はまだ無い」
 流暢な日本語で喋ったのだ。
「おい」
 さすがのシンジも一瞬度肝を抜かれ、唖然として男たちを見た。
「職業は、と訊いて見ろ」
 ベリアルの声につい頷いたシンジが、
「あのー、ご職業は?」
 訊ねると、今度は使徒達が揃って笑った。
なかなか感情の起伏を植え付けられているらしい。
「は?」
 首を傾げた途端、
「対碇シンジ用闘技者(グラジエーター)」
 声と同時に二人が地を蹴った。豊かな顎鬚を蓄えたのが、中東地方特有の民族衣装を閃かせてシンジに迫る−その手は素手。
 素手でシンジと、しかも妖刀を手にしたシンジとやり合うつもりではあるまい。
 だが。
 使徒と言うのはどいつもこいつも、常識を疑うべき存在に出来ているらしく、シンジの前に片足付いた瞬間、パンチが唸りを立ててシンジを襲った−しかも単なるストレートで。
 次の瞬間に起きた事を、単純に描くとこうなる。
 伸びてきた拳をやり過ごすのと、シンジの手から妖刀が離れるのとがほぼ同時。
 そして手首を掴もうとした途端シンジの身体は宙を泳ぎ、その横腹に膝がまともに入った。
 唸りを上げて襲ってきた拳はそこにある。にも関わらずそれを掴もうとした手は、宙を掴んでいたのだ。
「いてっ」
 鈍い音がしたにも関わらず、シンジはどこか間の抜けたとさえ言える声を洩らして、そのまま後ろに吹き飛んだ。
 壁に背中から激突する寸前、右腕の肘が壁にのめり込む。そのまま真っ直ぐに伸びた裏拳で勢いを殺し、猫のように背を丸めて衝撃を抑えた。
 腹筋を使って跳ね起きた途端、もう一人が迫る。
 これも唸りを上げて襲い掛かったのは、ねじ込むようなボディーへのブロー。避ける間の無いそれを、シンジは両腕をクロスさせてガードした。
 三撃、四撃、と凄まじいパワーの猛攻にシンジはたちまち壁に押し付けられる。
 だが、シンジの視線は一瞬横を向いた。
 空いた横顔へ、一際高い唸りが襲った瞬間、シンジはひょいと顔を下げたのである。
 肘をクッション代わりにして、壁にのめりこませた時その感触を読んでいたのか、空を切った拳はそのまま、壁に深々と埋まった。
 使徒がミスを知って引き抜こうとした刹那、その喉元を強烈な上段蹴りが襲う。
 と、次の瞬間。
 何故か倒れる音は二つした。
 髯を蓄えた顎を、ぐしゃりと蹴り潰された男が倒れる上から、足を置かずの踵落としが後頭部に直撃、顔面をひしゃげさせて床と熱いキスを交わした男を、シンジは見ようともしなかった。
 そしてシンジが、何故かひょいと避けた所へふらふらと倒れこんだのは、最初にシンジを襲った使徒でありその胴体が地に付いた直度、それは左右にぱくりと開いた。
 無論本人の手による物ではなく、シンジを挟撃しようとしたところを背部から襲った何かが、一刀両断にしたのである。
「おい」
 とシンジが呼んだ。
「余計だったか?マスター」
「さっき僕の手が空を切ったぞ」
「霊体(エクトプラズム)だ」
「納得」
 頷いた手には、妖刀が握られている。操られずとも自らが動き、斬られたと感じさせぬ速度で断ち切ったのは、言うまでもなくベリアルであった。
「そうか、霊体持ちか」
 ちらりと自らの腕を見たシンジは、にっと笑った。シャツの袖が打撃で所々破れ、皮膚が赤くなっている。
「行けるか?マスターよ」
「多分ねえ」
 何とも言えないやり取りだが、言葉にはどこか余裕があるのは二人とも、まだ遊んでいるからだ。
 ベリアルがこんな事を言うのは、シンジに余裕がある時と相場は決まっている。
 そうでなかったら?
 妖刀はマスターの手に戻りはせず、勝手に敵を斬りに行くだろう。
 第一級の悪魔はプライドもまた一級であり、人の手に操られたまま敗れる事など、決して許さないのだ。
「次は?」
 とシンジが言った時、すっと三人が前に出た。
「三人らしいな」
「お前、置いてくか?」
「いや」
 それは加われぬ事への拒否ではないと、シンジが知ったのは次の瞬間であった。
 摺り足で迫った使徒の袖が、硬質と化して襲った瞬間に、シンジは妖刀を縦に持ち替えていた。
「うむ」
 金属の打ち合う音がした時、何故かベリアルが満足げに言ったのをシンジは聞いた。
 袖に何かが仕込んである、訳ではあるまい。袖は切れなかったのだ。
「ほほう」
 呟いた途端、シンジは後ろに飛びのいていた。もう一人が襲った瞬間、その袖は一本の刀と化していたのだ。
 細身で先が長く、刀身は広くない。片腕が剣と化している姿は、どこかの物語に出てくる海賊船の船長を思わせる。
 もっとも、その船長の場合には片腕がフックと化していたようだったが。
 がしかし。
 シンジを観察していた者がいたら、恐らくはこう言ったであろう。
「彼らは揃って笑った」
 と。
 何を思ったのか、シンジの唇はふっと緩んだのだ−そしてベリアルもまた。
 ゆっくりとシンジが、妖刀を片手に下げた。そしてそのまま、足だけは八双の構えにして、全身から力を抜いたのだ。
 ノーガード戦法どころか、隙が溢れて400%にも達していそうだ。妖刀と地面との距離は数センチも無い。
 見方によっては、杖代わりにしているように見えなくも無いのだ。
 それなのに。
 人数は三対一と明らかに優勢ながら、しかも創られた人造兵器であるにも関わらず。
 明らかに優勢な状況ながら、劣勢の相手を前にして一歩も動けぬ状況が、以前に無かっただろうか。
 そう、第三新東京市に碇シンジが訪れた直度−エヴァ初号機が、回復不能なダメージを受けた時。
「さて、行くか」
 満身創痍の筈の初号機.そのパイロットは、確かにそう言ったのだ。
 だが今のシンジは、自分を僕と呼ぶだろう。
 のんびりと、いや漫然とすら立っている少年に、創られし者達は何を見た?
 
 
 
 
 
「ん…」
 かすかに身じろぎした数秒後。
 僅かに口が動いたかと思うと、レイはうっすらと瞳を開けた。
「ここ…は…」
 首筋に鈍い痛みを感じて、レイはゆっくり起き上がった。
 暗い室内。
 辺りに何があるのかさえも、分かりはしない。
 だが漸く慣れて来たレイの視界が、差し込む光を捉えた。
 白い光−それは月光。
 部屋のベッドから幾度も見上げ、そして慣れ親しんできたともいえる月の光。
 それが月光だと認識するのと、身体にうっすらと寒さを感じたのとがほぼ同時。
 高さの知れぬ天窓から差し込む月光の、行き着く先は自分の肢体。
 そして。
「私の…服は?…お兄…ちゃん」
 一糸纏わぬ姿にされている中、何を思ったのかその頬がうっすらと染まった。
 くくく、という低い声に気が付いたのは、数秒後の事である。
 ゆっくりとレイの顔が横を向いた。
 その視界が黒い影を捉えた途端、その赤瞳は赤光を放っていた。
「誰」
 呟いていた時とは別人の、だが今までとはどこか異なる声でレイが言った。
 そう、幾多の王朝を存分に蹂躙してきた、とある妖姫を思わせるような声で。
 だがその直後、レイの表情は凍りついた。いや、正確には無表情な物がそのまま硬直した、と言うべきか。
 影はこう言ったのだ。
「なるほど、妄想癖は碇ユイの物か」
 と。
 白い顔が白蝋のようになり、文字通り血の気を喪ったレイの顔が見えるのか、影は再度低い声で嗤った。
 
 
 
 
 
「どうした、ANGEL」
 シンジはもう一度笑った−以前殺気など感じられぬ風情で。
 だが依然として三人の使徒達は、誰も動けなかった。
 史実通りに再現するならば、今シンジの前に対峙しているのは十二使徒達の中でも、もっとも血の気が多いとされた漁師上がりの者達であった。
 無論、彼等を仕上げた者が性格まで投入したとは思われない。だがその分を省いたとしても、彼等は単純な兵器の筈であり、恐怖などとは無縁の存在の筈である。
 その者達を持ってしても、少年一人を前に動く事も出来ないのだ。
 一人はサーベルを持ち、そしてもう一人が持っているのは半月刀。刃の部分が大きく湾曲しているそれは、首を当てればばっさり行きそうだ。そして、残る一人が手にしているのはどうやら日本刀らしかった。
 大東亜戦争の頃の物でもなく、江戸時代の芸術に走った頃の物でもなく、戦国の真っ只中いかにして刃を保たせて敵を討つか、と言う純粋な目的の為に作られた物である。
 出身も用途も違う刀。
 ただそれらの全てに共通しているのは−何れも手にしている者の腕と、完全に一体化しているという点であった。
「天使の名は伊達か?来い」
 嘲笑ったシンジに、使徒達から殺気が立ち上る。みるみる双方の間を鋭利な殺意が繋ぎ、三人はじりっと間合いを詰めた。
 依然シンジは動かない。
 その表情が僅かに動いたのは、一番左のサーベルが一歩横にずれた時であった。他の二人はそれに呼応するように、扇形に展開したのだ。
 三人がかりでの牽制、実際には両側の二人が剣先をシンジに向けてじりじりと迫りつつある。真中の一人はバックアップの役目でもあろうか。
 本来ならば三人に気圧され、嬲り殺しの命運を待つ少年の身の筈である。
 それなのに、今の状況は明らかに奇異であった。まるで、風を愉しむかのように立っている少年と、それを威圧しようとしながらも逆に圧されているかに見える男たち。
 と、その均衡が終に破れたのは数秒後の事であった。無機の者達に如何なる感情が、いや恐怖が植え付けられていたものか、日本刀を手にした使徒が奇声と共に切りかかったのである。
 服装は古の中近東の物、だが声は明らかに日本のものであった。
「たーッ」
 触れれば人体など、即座に断ち切りそうな勢いで大上段から、男は日本刀を振り下ろした。
 だがシンジは受けようとはしなかった。死の刃が頭頂部に迫る寸前、すっと身を引いたのだ。
 あっさりとかわされた一撃に男は宙を−泳がなかった。
 烈風のような勢いであったにも関わらず、それはフェイントだったらしい。シンジはそれを読み切っていたのか、僅かに手首が動いた。
 わざわざ泳がせたように見えるシンジの上体へ、鋭い音と共にサーベルが突き出される。こちらは完全に本命の一撃。
 が、これもシンジは読んでいた。凄まじい殺意と共に突き出されたサーベルに、妖刀の柄尻の部分を当てたのだ。
 当然、速度が乗っているほど衝撃も大きい。僅かにぶれたその手首を、くるりと回転した刀身が瞬時に両断していた。
 そのまま、やや不安定な持ち方でシンジが刀を横に薙ぐ。時代劇に出てくる忍者のような持ち方であったが、刀身はそのまま日本刀男の胴体を貫いていた。
 だが、それが一瞬の反応の遅れを生んだ。妖刀を抜き出そうとする刹那、シンジの胴体目掛けて半月刀が襲ったのだ。空いているのは左手だけ、しかもバランスは幾分不安定と来ている。
 シンジが選んだのは生贄であった。
 手首から上を断たれ、右手を抑えてよろめいているサーベル男の襟を掴み、手前にぐいと引き寄せたのだ。
 いや、差し出したと言った方が正解だろうか。
 無論、仲間を犠牲にする事など厭う者達ではなかったが、それでも大の大人を一人斬れば勢いは大きく殺がれる。
 事実仲間を斬らねばならぬと知り、その手は刹那躊躇いを見せたのだ。情から来る物ではなく、単に邪魔になるからと、与えられた頭脳が弾き出した答えであった。
 だが男は止める事はしなかった。仲間ごと斬り捨てると決めたのか、渾身の力を加えて薙ぎ払って来た。刃の部分が厚い半月刀は、勢い良く切り下ろしてもいいが、一方で横に薙いでもかなりの威力を持つ。
 実際その刃は、仲間の身体をやすやすと切り裂き掛けたのだ。
 しかし渾身の一撃もそれ迄であった。
「こうも使えるぞ、マスター」
 引き抜かれる途中の、妖刀の紋章が口を利いたかと思うと刀は動きを止めた。正確には勝手に止まったのだ。
 シンジの手を引きずるようにして、胃の辺りに差し込まれていたそれは、強引に上へと上がった。つまり−人形と戻ったそれの胴体を裂いたのである。
 如何なる怪力でも、到底及ばぬような勢いで胴体を切り裂いて脱出すると、そのままのスピードで半月刀ごと下から薙ぎ上げた。
 次の瞬間半月刀の分厚い刃は分断され、シンジの手首がくるりと回転するのとほぼ同時に、男の生首が宙に舞い上がった。
 恐らくは偽りの血であろうが、赤い液体を撒き散らして落ちるそれを見ながら、
「ひゅう」
 洩らしたシンジに、
「私を信用してないな、許せぬ主だ」
「いえそんな事は」
「本当だな」
「はい」
 何が面白いのか、シンジはふっと笑った。と、同時にその脚は軽く地を蹴っていた。
 仲魔が倒されたと知り、使徒達の表情から余裕が消える。
 皆が凶相に変わると、袖をぶんと振った。その途端、民族衣装の袖は一斉に刀へと姿を変えたのである。
 どこかで見たような物から、シンジの知らない物に至るまで、さながら刀の展覧会の用にも見える。
 多人数を相手にする時、決して時間を掛けてはならない。
 最小の攻撃数で最大の戦果を−1対1でも問われる事が、なお一層強く求められるのだ。シンジが選んだのは、ドスのような物を持った男。他のメンバーに較べて、何故かひときわ髪の長い男である。
 何れもさまざまな持ち方で、得物を構える中自分が選ばれたと知り、その使徒はにっと笑った。
 刀を両断できるとは、シンジはあまり思っていない。
「ばっさり」
 と呟いた所へ、腰だめにして突っかけてきた。
 フェイントと知りつつ、避けないわけには行かない。ただの木偶の坊ではないと、シンジにも分かっているからだ。
 案の定、ひょいと避けた所へ下から薙ぎ上げてくる。
 刃先が手元に近い分、力任せならそっちの方に幾分は分があるのだ。
 ぐいと手元に妖刀を引き上げ、塚の部分で打ち落とす。
 と、シンジが顔をしかめたのは次の瞬間であった。
「機械人形なの忘れてた」
 どうやら硬い感触が、思い切り手首を直撃したらしい。
 ついよろめいた所をうしろから、ダンビラが唸りを上げて振ってきた。
 殺気だけで刃の存在を感知し、右足に重心を乗せて倒れこみざま振り向きもせずに、叩きつけるように薙ぎ払う。
 見もしない照準は、妖刀の方が勝手に合わせてくれる物なのか、
「ゴアア」
 と奇怪な声を上げて倒れこむそれを、シンジは見ようともしなかった。
 正確には見れなかったのだ。
 シンジに刀を引き寄せる暇も与えず、胸元に突き出されたのはサーベル。
 避ける間もあればこそ、シンジは仰向けに倒れこんでいた。
 バランスを崩したと知り、男がにっと嗤う。
 だがその表情が固まったのは、鋭い切っ先を突き出した次の一瞬のこと。それはシンジを貫かず、その体の上を流れるように通り過ぎたのだ。
 サーベルゆえの欠点、即ち刀身の細さをシンジは瞬時に読み、自分から転がったのである。
 思わずのめったその首を、下から伸びた妖刀が貫いたのは次の瞬間であり、そして引き抜きざま倒れこんでくるその顔を、綺麗に伸びた靴先が捕らえていた。
 青い液体を流しながら、無機物へ還元した物体が吹き飛ぶのを視界の隅に捕らえながら、シンジは腹筋で跳ね起きていた。
 シンジに手首を弾かれたドス男が右から、そして日本刀を持った男が左から切りつけてきた。無論一斉にではなく、無言の内にタイミングを合わせられるようになっているのだろう。
 最初に切りかかったのは日本刀の方であった。やや胴が空きぎみながら、力任せに振り下ろしてくる。シンジは避けずにそのまま受けた。
 甲高い音がして、まるで線香花火のように火花が散る。が−欠けたのは太刀の方であった。いかなる細工をすれば、ただの木切れの木刀が日本刀を上回るのかは不明だが、とまれ鍔迫り合いの時、既に刀身は刃こぼれを起こしていた。
 だが男の身長は百八十センチ近くあり、いかにシンジといえども、あっさり上から押し込まれる格好になった。
 競り合う時、決して自分から外してはならない筈だが、シンジは押し切られる寸前、構えを解いて自ら横に流れたのだ。
 思わず気の抜けた刀がシンジを襲うと同時に、僅かに身を前に倒したシンジの妖刀が痛烈に胴に入った。
 長ドスの男が、突っ込んでくる間もない程瞬時の攻防であり、胴を二つにされた男がゆっくり倒れこむのと、シンジのシャツの脇腹がひらりと裂けるのとが同時であった。
「あー、僕の一張羅が!」
 さっきの猛打賞並みの打撃で、既に袖は幾分破れている。
 シンジの眉がぴっと釣り上がった。
 珍しく怒っているのか、突き出されたドスへ自分の身体をぶつけていく。無謀と見えた刹那、にゅうと伸びた足がドスを持つ手首を思い切り蹴飛ばしていた。
 弾き落とされて思わずひるんだ所へ、十分勢いを乗せた一太刀が肩から切り下げる。
 肩から斜めにばっさり斬られ、男の胴は数秒後にずるりとずれた。今までは殆ど片手だったのだが、何時の間にか両手持ちになっている。どうやら、服が傷んだのが気に食わないらしい。
 残るは後三人−。
 
 
 
 
 
 ゆっくりとレイの手が、オレンジ色の光を帯びだすのを、黒ずくめの人物はじっと見ていた。
「あなた誰」
 低い声で訊ねた姿勢は、無論瞬時に攻撃の意志を見せている。
 影は答えずに薄く笑った。
「なにがおかしいの」
「知らぬ…いや、覚えておらぬ所を見ると、記憶はまだ戻っていないようね」
 女と知ったレイは立ち上がろうとして−ぐらりとよろめいた。
「少し献血してもらった。数時間は体がふらつく筈だ、横になっているがいい」
「…お兄ちゃんをどこへやったの」
 足から崩れるように座ったレイを見て、
「全裸でいるよりもそっちが気になるか。だがお兄ちゃんとはな、下らぬ事を」
 次の瞬間、レイの手から飛んだATフィールドが女を直撃−しなかった。それは命中する寸前で弾き返されたのだ。
 砕けて落ちたそれを見て、呆然とした表情のレイに、
「血と一緒に少し記憶も見せてもらった」
 と女は言った。
「ATフィールドと言ったな。私でもよく防ぎ得まい−ただしもう一人のお前ならばの話だ」
 姐姫の事を指していると知るのに、数秒とは要さなかった。
「…私でも…できるわ」
 シンジはこの女に捕まっている、そう思い込んだレイの思考は一つ。すなわちシンジを、お兄ちゃんを取り返す事のみ。
 執念が生んだ離れ業か、レイの手の光は二層になったのである。
 だが二重になったそれを飛ばす寸前、レイは手首を抑えて呻いた。手首に何かが飛来し、ぎりぎりと締め付けたのだ。
 シンジならば間違えようの無い物、それは土御門の呪符であった。
「どんな名銃も、弾が出なければ無用の長物」
 女は吟味するように告げた。
 外そうともがくレイの裸の胸に、もう一枚の呪符が張り付いた途端、レイは後ろに吹っ飛んでいた。
 壁に激突し、声も無く崩れ落ちるそれへ、
「焦らずとも来るわ…私に殺されにね。絶対に許さないんだから」
 憎悪と、そして何かの入り混じった口調で言うと右手を閃かせた。
 投射機でも仕込んであるのか、壁に映し出されたのはシンジ達である。
 使徒達が、死屍累々となっているのを見ながら、
「ふうん…この分だとベリアルかしら。生意気ね」
 どことなく愉しそうに呟いた。
 
 
 
 
 
 
 
 仲間を討たれた焦りからか、男たちは一斉に飛び掛った。
 技術ではシンジの方が上だが、単なる力押しなら使徒達の方が圧倒的である。
 相手が力押しに出てきたことを、シンジは気配で察していた。
 残る三人は、いずれも軍刀のような物を手にしており、二人が同時に切りかかってきた。コンマ数秒の差だが、左側が遅いと読んだシンジはそっちを先に選んだ。
 真正面へ突き出された一の太刀を、左へ身を振ってかわすと手首の返しだけで後ろから首を切り落とす。
 刀を操る上で、もっとも難しいのは突くことではなく斬る事だとされる。熟練した死刑執行人でないと、しばしば死刑囚が断末魔の苦しみに苛まれるのはその為だ。
 だがシンジはやすやすと−まるで野菜を切るかのようにその首を打ち落とした。ベリアルが吸い込んだ物と引き替えに、みるみるその妖力を増したのに加えて、操縦性も向上するらしい。
 わずかに胴が開いた所へ、叩きつけられたそれをシンジは自分から跳んで避けた。
「あ」
 と洩らしたのは、青い奇怪な液体に足を取られた物か。
 だが大上段から迫るそれの空いた胴へ、起き上がると同時に強烈な一刀を叩きつけ、どっと崩れるそれを見ながらふうと息を吐いた。
「何匹?」
「十二匹だ、マスター」
「後一匹は?」
「一匹増えたぞ」
 ひゅんひゅん、と何かが飛来し妖刀が勝手に動いて打ち落とす。反射的にシンジは横へ転がっていた。
 その後を追うように、床に突き刺さったのは大型の矢である。
「シャーウッドの悪人だな」
「これは失礼なことを」
 ぬっと現れたのは、弓矢を手にした中世の貴族服を纏った男。
 シャーウッドの義賊、と言えばロビン=フッドの筈だが、
「その頭の林檎は何だ?」
 シンジが首を傾げた通り、頭に林檎と言えばウィリアム・テルではないか。もっともそっちの方も子供の頭に林檎であったが。
「あの方のご趣味ですよ、碇シンジ君」
 言い終わると同時に、ゆっくりとフッドは頭に手を当てた−射抜かれた林檎に。
 ワルサーを留守番に回したシンジは、代わりにナイフを腰へ移動させており、その一本を抜く手も見せずに投げたのだ。
「矢をつがえる前に体の真中を射抜いてくれる。次は無いぞ」
「それはどうでしょう」
 少し甲高い声に、僅かにシンジの眉が上がる。
 だが、それを止めたのはベリアルであった。
「待てマスター」
 寝返ったか?とは言わないのが彼らの間柄である。
 シンジはその代わりに、
「刃こぼれしたの?」
 と訊ねたのだ。
 ベリアルはにっと笑った−再度。
「主のお出ましだ」
 大悪魔はそう言ったのだ。
 ゆっくりとシンジの顔が動いた。
「弟子が世話になった」
 長髪の人物は言った−宋代の中国語と知るには、数秒の時間を要した。
「あっちの人じゃなかったっけ」
「エルサレムは実は北京だったのだろう−来るぞ」
 ベリアルが言い終わらぬ内に、白衣の男は間を詰めていた。
 今までとは格段の差がある初太刀、だがそれでもシンジはかわして、
「一応訊いておく、名前は?」
「御子」
 シンジは僅かに首を傾げたあたり、まだ余裕を残しているらしい。
「メリーなんとかのあれだよな」
「ダミーかも知れんぞ」
 次の瞬間、妖刀は地を突いてシンジを後ろに跳ばせていた。最初の太刀が地を切った所から、そこへ向けて一直線に床が割れたのは、一瞬の後である。
「やるね」
 シンジの表情は変わらない。
 だが身長の差を利点と読んだのか、あるいは別の観点で優位を悟ったのか、白衣の裾を閃かせて一気に飛び込んできた。
 白刃が、まるで虹を描くかのようにして落ちてくるのを、シンジはまともに受けたりはしなかった。
 いかな太刀とは言え、柄の辺りと刃先では勢いが異なる。シンジは一歩下がると、刃先の部分を柄で強烈に跳ね返したのだ。部位が同じならシンジが不利になる。しかし相手が刃先でこちらが根元部分なら。
 事実、痛烈に弾き返された時、男はその身体を一瞬よろめかせたのだ。
「さっきのあれ何?」
 シンジは踏み込もうとはせずに、小声で訊ねた。
「衝撃波の一種か?恐らくだが」
 ほんの一瞬シンジが表情を止めた。
 表情が止まる時、シンジの思考能力は常人の数十倍に達する−尤も、しばしば奇想が生まれるのが難点だったりするのだが。
「行けるね?」
 少しだけ優しげな声は、何を慮ったのだろうか。
「マスターが頼りないからな、止むを得まい」
 やんちゃな弟分に言うような口調の大悪魔。だがシンジは、その口調に何かを感じ取っていたのか。
 シンジの刀に重さが加わった。正確には、シンジが重心を乗せ始めたのである。
 シンジの武芸は軽快を旨とする。それが明らかに体重を乗せた一撃へと、変わりだしたのだ。
 これまでの使徒退治は、全てが受身に近かっただけに、何ほどの事があろうと軽くいなすつもりだったが、シンジの一太刀は強烈な衝撃と共に、その身を数歩下がらせた。
「はっ」
 低い、だが裂帛の気合と共に、シンジは猛然と攻め立てていく。
 シンジを侮って受けた最初の太刀で、男に出来た隙。シンジはそれを見逃さず、右へ左へと踏み込んでいき、反発する隙すら与えない。
 と、不意に男の体がぐらりと傾いた。下がる時に足元に不覚があったのか、シンジは大きく振りかぶる。
 そして必殺の一撃を振り下ろし−かわされた。
 咄嗟の判断かそれとも手の内か、振り下ろされる太刀を目の前にして、殆ど夢想剣に近いような一撃が、シンジの胴を襲ったのである。
 がら空きの胴に決まる、と思われた瞬間、シンジはがくんと膝を付いていた。間に合わぬと見たベリアルが、柄でシンジの胸を突いたのだ。衝撃で膝を折った所へ飛び込んできた太刀を、妖刀は自ら受けた。
「ちっ」
 だが舌打ちは、何故かシンジの口から洩れた物であった。
 すぐに跳ね起きると、誘い込んでの一撃が失敗したと知って振り向くそこへ、その隙を与えず下から綺麗な半円を描いて薙ぎ上げる。
 左腕が切り落とされて、床で鈍い音を立てた次の瞬間には、そのまま力任せで引き戻した太刀がその首を刎ねていた。
 最初に首が落ち、ついで数秒後に物の倒れる音が−二つした。
 無論一つは男の者だが、もう一つはロビンフッドの物であった。首を落とした刹那、弓に矢をつがえるその姿へ、シンジのナイフが二本飛んでいたのだ。
 片方は首を失って倒れこむ胴、そしてもう片方は、胸に二本のナイフを受けて倒れこむ体。
 倒れこんだそれを見ながら、
「これでラストだったか」
 呟いたシンジの息は僅かに荒い。
 その視線がゆっくりと妖刀に向いたのは、数秒経ってからである。そのシンジの視線は、妖刀に出来た皹に向けられていた。
 子分の使徒達の攻撃は、いとも容易くかわし得たが、その主の物はそれをさせえなかったのだ。
 亀裂から救った時、既にその妖力をベリアルは受けていた。シンジが気にしたのは、妖刀の具合だったのだ。
 具合、と言うのはやや妙だが、どんな物を刀に宿らせたにしても刀という寄代の中では、その本来の力とは程遠い物しか出ない。それに加えて、ラインを超えたダメージを受ければもはや、自己修復は不可能なのだ。
「ごめん」
 シンジがぽつりと呟いた。
 辺りに静寂が漂う中、乾いた声でベリアルが笑ったのは、数秒後の事である。
「気にするな、マスター」
 ベリアルは低い声で言った。
「それより、私の方が判断を誤ったぞ」
「え?」
「最後の一撃は、私が手を出さずとも避ける体勢にいたな。随分と、進歩したようだなマスターよ」
「少しだけね」
「なに、いずれまた呼ぶがいい。それに−あのような木偶人形にダメージを受けるなど、魔の風上にも置けぬ恥。いずれ借りは返してくれる」
「分かった」
 シンジが頷いた直後、手にあった妖刀はみるみる溶けていった。
 数秒と経たずして灰になったそれを、シンジはじっと見ていた。
「面白い真似をする」
 とシンジは言った−闇の声で。
 凄愴な気を吹き上げながら、ゆっくりと歩き出したシンジは、今の自分をなんと呼称するだろうか。
 
 
 
 
 
 数十分後、シンジは特別展望台にいた。
 今シンジの視界に遠く映るのは富士山、駐車場の奇怪な霧もここまでは及ばないのらしく、シンジは快晴に恵まれた綺麗な富士を見つめていた。
 既に頂上付近は雪に覆われ、二色のコントラストを描き出している。
 そこに何を見ているのか、シンジは身じろぎもしない。
 と、後ろで音がした。
 どさ。
 シンジは振り返らなかった−恐らくはレイの肢体であろうと悟っても。
 かつん、と別の足音が冷たく響いてもなお、シンジは振り返らなかった。
「お久しぶりですわね、シンジ様」
 台詞だけは懐かしげな、だが含まれているのは程遠い声が読んだ時、初めてシンジは身体を動かした。
 だが。
 ゆっくりと振り返ったその両肩に、二本のナイフが突き立ったのはその直後である。
 血の滲み出るそれを抑えて、ゆっくりとシンジは膝をついた。
 広いホール内に、シンジの洩らす苦痛の声が乾いた音を立てる。
「無様ね」
 女の嘲笑する声が、それを覆ったのは次の瞬間であった。
 
 
 
 
 
(続く)

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