第二十五話
 
 
 
 
 
 人の思いは時として、常識を凌駕する事がある。
 それは通常ならば、到底出し得ぬ筈の速度であったり、或いは腕力であったりする。
 燃えさかる炎の中に飛び込み、赤子を抱いて見事助け出したり、カナヅチである筈の者が溺れている子供を助け出したり。
 そう言った場合を人は奇跡と呼んだりする。
 そしてそれに奇異の目を向ける者は殆どいまい。
 だが、信じられないような事態を引き起こす別の物もある。
 例えばそう…女の妄執とか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 駐車場からタワーの入り口までは、少し急な坂になっている。
 以前から二十メートルほどの坂にはなっていたのだが、クララがより長く、より急な道へと変えたのだ。
 ゴキブリホイホイ、という物がある。
 一般的には家型の箱の中に虫を引きつける物が置かれており、いかにも心地よい雰囲気を作り出している。だが一歩足を踏み入れた瞬間、二度と戻れぬ事を知るのだ。
 三百メートル程に延長されたこの坂は、通称「不帰坂(かえらずのさか)」と呼ばれている。
「黄泉津比良坂」と呼ばれないのは、戻れないからだ。
 妻への思いを断ち切れぬ余り、冥土まで出かけていった伊弉(イザナギ)は、そこで腐り果てた肢体と化した妻、伊邪那美(イザナミ)の腐敗した肢体を目にした。
 無論伊邪那美は良いと言うまで入るな、と厳命してあった。
 女にとって、自分の醜い姿を見られるなどと言うのは、もっともプライドの傷つけられる事である。
 そしてイザナミもまた、例外ではなかった。
 早速黄泉醜女を大量に派遣して、醜聞の隠匿を謀ったのである。
 イザナギはとある果実を投擲して、鬼と化したかつての愛妻から逃れたと言う。
 かつて互いを、我が身よりも愛した二人は坂の上と下で、互いに辛辣な決別の言葉を投げ合った。
 だが、何にせよイザナギは戻ってきた。
 そして今シンジがいる、長さ数百メートルのこの坂は未だ戻り得た者がない。
 そう、三人を除いては。
 駐車場から坂に一歩入ると、そこからは急激に空気が変わった。
 からりと晴れ渡っている筈なのに、急速に視界が悪くなる。
 霧だ。
 即座に濃霧注意報が発令されそうな、いやそれよりも更に濃く、そして粘っこい代物である。
 身体にまとわり付くだけではなく、服の隙間から中へ入り込もうとさえしてくる。
 シンジは避けなかった。
 身体に呪符を貼れば、結界を作るなど造作もないはずだがそれをしようともせず、奇怪な霧達のなすがままに任せたのである。
 数秒経った時、シンジはうしろをちらりと見た。
 そこが完全に霧の中になっているのを見た時、何故かシンジは頷いた。
 予め予期していたかのように。
 そして残してきた車の事など、頭から消えたかのように。
 黙然と歩き始めたシンジの耳が、微かな音を捉えた。
 
 ざざざ ざざざ ざざざ
 
 普通に表現するとこうなる。
 そして普通に言えば−波の音だ。
 ただし、耳を澄ませたくなるようなきれいな音ではなく、少しでも早くそこから逃れたくなるような音だ。
 例えば大雨で堤防が決壊し、孤立した家で、ひたひたと押し寄せてくる死の水の音。
 それに近いかも知れない。
 それがはっきりとした音に変わった時、シンジは自分の足首が水の中にあるのを知った。
 どんなに目を凝らしても、シンジの一メートル四方以上は見えない。
 じりじりと上がってくる水を感じながら、
「このまま行くと溺れる」
 危機感の無い声で呟いた。
「困っているの?」
 少女の物と知れる声に、シンジの足が止まった。
「いや、これから困ると思う」
 シンジは後方にいる声の主に、顔も向けずに言った。
「助けてあげようか?シンジお兄ちゃん」
 自分の名前が呼ばれた時、やっとシンジは振り向いた。
 振り返ると、そこには少女が立っていた。
 年齢は十歳前後だろうか、顔と身体は普通の少女に見える。
 だがそれを見たシンジの眉が少し寄った。嫌悪感の類ではなく、何かを思い出そうとするように。
「君の名前は?」
「葛城ミサト」
 少女は躊躇うことなく答えた。
 
 
 シンジは自ら葛城ミサトと名乗った少女と、向き合ったまま少しの間動かなかった。
 ミサトの目に、邪気も妖気も全く感じられないのを知って、シンジは僅かに首を傾げた。
「僕は君を知らなかったのに」
 言い終わらぬうちに、
「でもね、あたしはお兄ちゃんの事はちゃあんと知っているの」
 えへんと胸を張る姿は、親に褒めてもらいたい小学生そのものだ。
 シンジは微笑して、 
「誰に聞いたの?」
 上がってくる水を感じながら、それをおくびにも出さず聞いた。
 ミサトがにたっと笑って、
「内緒」
 と言ったその顔は、今の物と対して変わらない。
 ミサトは前からこうだったのかと、内心で僅かに苦笑いしながら、
「じゃ、この水を何とかする方法を教えてくれる?」
 話題を変えてみた。
 だが、教えてと頼まれなかったのが癪に障ったのか、ぷいっと横を向いてしまった。
「いやよ」
「あれ?」
「レディーに物を訊く時は、お願いしますっていうのが礼儀よ」
 腕組みして怒ったしまったミサトに、
「それは知らなかった、ごめんね」
 取りあえず下手に出てみると、
「反省している?」
「うん」
「本当に?」
「反省してます」
「じゃあ教えてあげるね、お兄ちゃん」
 ころりと表情が変わり愛くるしい笑みを見せると、両手をシンジの首に伸ばした。
 傍目には幼児虐待に見えたはずだ。
 シンジの右手が一閃するのと、ミサトの腕が切り落とされるのがほぼ同時であった。
「色仕掛けには早い年だよ」
 シンジの囁きに、みるみるミサトの顔が凶相と化した。
 残った右腕の先に、水掻きのような物が出来たかと思うと、その先端から鋭い爪が伸び、断たれた付け根の傷口からは緑色の蔓が生える。
 蔓が生える直前、右腕がシンジを襲った。
 叩きつけるような一撃は、シンジにかわされて地面を直撃し、アスファルトをぐいと抉った。
「やるねえ」
 感心したように言った時、薙いだ刀は蔓を断ち切っている。
 殆ど秒と置かぬ間の攻防であった。
「この顔を使ったのは失敗だったわ」
 言い終わらぬうちにその顔が溶けた。
 ミサトの顔をしていた少女が泥人形と化した時、シンジは足下の水が消えているのに気が付いていた。
 おそらくは水妖の力を持たせていたのであろう。そしてミサトの顔と。
 泥人形に掛けられていた術は、人語を語る事と幻覚を見せる事。
 腕を巻き付けられていれば、そのままシンジは溺死していたはずだ。
 だが何故ミサトを使ったのか。
 第一ミサトの幼少時など、シンジが知っている筈もないのだ。
「ふむ、人選を過ったか。では次と行こう」
 どこかで上がった低い声は、無論シンジには届かなかった。
 見た目は単なる泥人形であても、強度はゴーレムにも匹敵するとシンジは見抜いた。
 さして大きくはないが、それでもアスファルトを抉るだけの力は備えており、しかもその一撃は純粋に力業だったのだ。
 人形の口が開いた。
 かっと開いたそこから、紫色の蔓が飛んできたと知っても、シンジは何故か避けようとはしなかった。
 そしてそれはシンジに死の一撃を加える直前、急降下して地中に潜り込んだのだ。
 シンジの左手が動いた。
 低く腰を落とし、妖刀を僅かに抜き出した姿勢は抜刀術か。
 型は一応出来ているが、あまり様にはなっていない。
 何よりも、全身から烈々たる気が吹き上げてはいない−今は普段のシンジのままだ。
 シンジが瞑目した。 
 数秒、そして数十秒。
 地中に潜り込んだ蔓は動く気配を見せず、そしてシンジもまた。
 そのまま彫像と化すかと思われた時、遠くで鳥が鳴いた。
 不吉として扱われる事の多いそれは…カラス。
 と次の瞬間、地中で四方に分散していた蔓が、一斉にシンジに襲いかかった。
 シンジの手が刀を引き抜き、一の太刀で正面を断ち切り、僅かに身体を引いて真横の蔓を両断した。
 だが残る蔓は二本ある。
 シンジは、ナイフ使いであっても武士ではない。
 武芸百般に通じている訳ではないのだ。
 居合いもどきで何とかしようとしても。明らかに無理がある。
 後方から伸びた蔓が、シンジの足首に触れた瞬間勝手に刀は動いた。
 ぶん、と勢いよく腕ごと引き戻し、蔓を上から貫くと今度は、そのままシンジを跳躍させた。
 腰に巻き付こうとしていた蔓が空を切った途端、着地ざまにシンジが身体を半回転させる。きれいな回し蹴りが炸裂した瞬間、蔓の先端は吹っ飛んだが刃物のようには行かなかった。
 鋭利な面を見せて断たれた蔓とは違い、千切られたようなそこからは紫の汁が飛んだのである。
 そしてそれは地面に落ちると白煙を吹き上げた。
「溶解液かな?それにしても」
 奇怪な液など忘れたようにぐるぐると腕を回した。
 シンジの作り出した妖刀は、魔力によって持ち主をも越える戦闘力を得るが、持ち主の運動能力を無視する所に難がある。
 まして黒山羊の紋章とあっては。
 普段シンジがこれを使わないのは、ひとえにその魔性による。
 無尽蔵とまで言われる魔力の持ち主でなければ、到底使いこなせる物ではないのだ。
 魔呪を再度解くまで、使い手は魔力を吸われ続ける事になる。
 できなかったら?
 生命力だ。
 魔力の足りぬ者であれば、文字通り命と引き替えになる。
 しかも魔力が足りても、移らせる者のランク次第では身体がバラバラになる事もあるのだ。
 白い呪符と自分の血、それに召還結界の描き方を知っていれば誰でも作れる。
 しかしながらその代償故に、禁忌(タブー)視されてきた代物なのだ。
 剣道の試合に臨んだ場合、誰でも勝ちたいとは思うだろう。
 だが、剣が勝手に動いたら?
 到底出来ぬ、いや人の限界を超えるような速度で間合いを詰め、受けた竹刀をへし折っても一本取るとしたら?
 そして…相手が殆ど例外なく、再起不能になるとしたら?
 そんな物騒な代物を、何故シンジは選んだのか。
 
 
 
 
 
 シンジは際限ないように思える坂を、また歩き出していた。
 体内の感覚では既に二十分近く歩いている筈だが、一向に終わる気配を見せない。
 それどころか、足下が上り下りを繰り返しているのを、シンジは感じ取っていた。
 本来なら、駐車場から入り口までは完全な下りであり、上るような箇所など何処にもない筈だ。
 しかし間違いなくシンジの足は、時折上に向いている。
「三半規管が謀反起こした」
 シンジはぽつりと呟いた。
 自らの血で拵えた魔刀は、持ち主の霊力に応じてその護衛力をもまた上げる。
 既に受ける感覚自体が、ずらされているのをシンジは知った。
 ない物がある以上、それは間違いなく幻影かあるいは催眠術だ。
 だが、そのいずれもシンジは掛けられた記憶がない。
 だとすれば。
「にぶちんになったかな?」
 モミジが知ったら、
「鍛錬を怠られましたわね、シンジ様。私が一から教えて差し上げます」
 と、缶詰にされるに違いないと、シンジは薄く笑った。
 一瞬シンジが立ち止まった。
 その耳は、小さな音を聞き取ったのである。
 きいきい きいきい
 急ブレーキの音ではない。
 学校へ行った事のある者なら、大抵一度は耳にしたであろう音。
 すなわちあれだ。
 『学校の黒板を、爪を立てて引っ掻く音』
 学校なら、耳を塞げばいい。あるいは音源を絶てば済む話だ。
 だが今のシンジにその術はない。
 段々と音は大きくなってくる。常人なら耳を押さえて叫びだしている頃だ。 
 それも外部から聞こえると言うより、まるで頭の中から湧きだしてくるように感じられる。
 そして今シンジは、音に加えて声も感じ取っていた。 
 シンジは立ち止まったまま、目を閉じている。 
 すすり泣くような声は、快感の声ではない。
 そして笑う声は、輝く笑顔のつむぎ出す物ではない。
 囁く声も、恋人達の甘い語らいではない。
 すすり泣く声は、我が子を奪われた母の物であり、笑う声は絶望に気が触れた女の哄笑であり、そして、呟く声は。
「ねえ、一緒に死んでちょうだい。ねえ一緒に…くすくすくす…」
 その主は身も心も鬼と化した女に違いないと、思わせるような声でありながら、なぜか甘美な響きを伴っていた。
「ねえ、お兄ちゃん」
 レイの物ではない声が、シンジを呼んだ。
 幻覚ではない実際の声に、シンジの目がゆっくりと開いた。
 シンジの前に、一人の女の子が立っている。
 年の頃は五歳前後だろうか、容姿は生粋の日本人に見えるが、薄紫のドレスに身を包んでおり、どこかの国の姫君にも見える。
「僕はロリコンじゃないぞ」
 少し憮然として呟いたが、今度も取りあえずは相手をする気になったらしい。 
「何?」
「あのね、お願いがあるの」
 少女は愛くるしい笑顔を浮かべると、澄んだ黒瞳でシンジを見上げた。
「いいよ」
 シンジは頷いたが、どこか変だ。
 少女の姿は迷い子にも見えないし、第一こんな場所に子供が一人でいるとは。
「あの、ね…」
 俯いてドレスの裾を掴みながら、もじもじしている様子はある趣味の者達には、滂沱と涙を流して喜ぶ…光景かも知れない。
 少女がドレスの裾をふっと動かしたとき、その全身からうっすらと芳香が漂った。
 それがバラの香りだと気づくには、数秒と掛からなかった。
「いい匂いでしょう?お兄ちゃん」
 俯いたまま少女は訊ねた。
 誉められるのを期待する、いたいけな少女のような問い。
 だがその口調は微妙に変わっていた。
「これは君の体臭なの?」
 とんでもない事を言いだしたシンジだが、その口調に冗談めかしたものはない。
「体臭…ひどい事を言うのね、あなたは」
 笑みを含んだ声と共に、少女の顔が妖々と上がる。
 シンジは動かなかった−少女の口に乱杭歯があるのを見ても。
「お願いをまだ聞いていなかったね」
 赤光を放つ少女の目を見ながら、シンジは促した。
「薔薇は貴方の想い人の香り」
 少女は謳うように言った。
 依然として瞳は赤光を放ったままだ。
「私のお願いはただ一つ。私と一緒に死んで」
 殺気も、そして妖気も全く感じられない声で少女は言った。 
 そして言いざまに少女の腕が、ぬっと伸びた。
 避ける暇もなくシンジの首に絡みつく。
 渾身の力でしがみつかれた次の瞬間、少女の身体は爆発したのである。
 大音響が辺りに響き、凄まじい炎が上がった。
 
 
 
 
 
「お兄…ちゃん…?」
 ゆっくりとレイが目を開けたのは、シンジが木刀を担いで去ってから暫く後の事であった。
 数回目をこすってから、膝の上の重量感に気が付いた。
「これは…お兄ちゃんの…!?」
 呟いた瞬間、レイはがばと跳ね起きた。
 シンジの身に何か起きたと思ったのだ。
 開錠するのももどかしく、蹴破らんばかりの勢いで開けようとして−開かなかった。
「え?」
 首を捻ってから再度ノブに手を掛ける。
 やはり開かない。
 力一杯押してみても、渾身の力で引いてみてもドアは一向に開く気配を見せない。
 と、レイがドアから手を離した。
 普段からどこか無表情なのだが、その顔が徐々に朱に染まってきた。
 シンジといる時はいつも羞恥や嬉しさから来るのだが、今のレイは違っていた。
 滅多に見せない感情−すなわり怒り。
「私の邪魔をするのね、そう」
 握りしめた拳が、オレンジ色の光を発光し出すのに数秒と要さなかった。
 拳を叩きつけようとして…その身体が宙を泳いだ。
 車のドアは勝手に開いたのである。
 さすがのレイも、訳が分からないという顔をしていたが、それどころではないと外に出た。
 だがレイは知らなかった。
 シンジがドアに札を貼り付けていったことを。
 そしてそれが簡易結界の役目を果たしていたことを。
 だがレイのATフィールドを感知次第、解けるようにしていたことを。
 レイは一度も来たことはない筈だが、何の躊躇いもなくタワーの表口に向けて歩き出した。
 そしてシンジと同様坂に差し掛かる。
 このまま霧に包まれるか、と思われた瞬間レイは崩れ落ちた。
 後ろから近づいた何者かが、その首を手刀で衝いたのである。
「そう焦らずとも、じきに連れて行ってくれる」
 およそ人間の感情が感じられないような声が、失神しているレイに向かって告げた。
 
 
 
 
 
 爆風が収まった時、そこにはシンジの生首が転がっていた。
 かっと目を見開いており、口からは幾筋もの鮮血が流れ出している。
 文字通りの断末魔の形相で、無念を隠さないその首を伸びた手が、ひょいとつまみ上げた。
「いい顔だね…我ながら」
 少しも嬉しくなさそうに言ったのは、無論シンジ本人である。
 手にした自分の首と見つめ合ったまま、
「どうして吹っ飛ばさなかったの?」
 と、シンジは訊ねた−自分の生首に。
「好きなおかずは最後に回す」
 手の上にあるシンジの顔が言った−女の声で。
 なるほど、と納得するとシンジは自分の顔を放り出した。
 それは地に落ちた瞬間、ぽんと弾け飛んだ。
 原形を留めぬように爆発し、脳髄やら血漿やらが吹き飛ぶ。
 そしてシンジの服には、一点の染みも付かなかった。ただそれだけである。
 幻覚なのは分かっていた。
 だがそれと気づかなければ、実際に身体は爆発して微塵も残るまい。
 そして気づいたとしても。
 幻術の妙、というか恐ろしい点はそこにある。
 普通の催眠術なら解けた瞬間に、すなわち術と見抜いたときに効果は失せる。だから術師はいかにして気づかせないか、という所に一番苦心する。
 その辺は呪術の逆凪にも似ているかも知れない。
 だが幻術は違う。身体に幻を見せるのだ。
 数十センチ程度の高さの台に乗った人間が、数百メートルの滝の上にいる幻を見せられたとする。
 そして術者はこう言う。
「私が手を叩いたら、あなたはそこから真っ逆様に転落します」
 観客はこれを聞けば笑うだろう。
 だが実際には数十センチもない台の上にいても、そこから突き落とされれば人間は死ねる。
 無論、この結末は殺人ではない。
 落下の瞬間に術者が術を解いて、被験者だった者は顔から落ちて終わりだ。
 台の下にはマットが引いてあるから、顔を打ったとしても殆ど影響はない。
 ところで、もし術が何らかの原因で勝手に解けたらどうなるか。
 被験者であった者が、自分を取り戻せるのが催眠術であり、取り戻せないのが幻術である。
 後者の場合、それが夢だと気づいてもやはり人は死亡する。
 つまり意識は戻っても、身体は幻に捉えられたままなのだ。
 だから身体が反応してしまう。
 人が自分の身体すら制御できていない、いい証拠と言えるかもしれない。
 幻術から完全に逃れる術は二つ。
 一つは術者、すなわち掛けた者が術を解くこと。
 ただしこれには鍵、すなわちキーワードが必要となり、それは常に術者本人しか知らないようになっている。Aのキーワードが、そのままBに使える訳ではないのだ。
 もし第三者が強引に外した場合、その術はミクロン単位ではあるが被験者から永久に消える事はなく、万が一合図と同じ音が発生した場合、例えば拍手の音などがすれば、何の変哲もない高さから倒れ込む事がある。
 しかも絶叫を上げて倒れ込むものだから、周囲は何事かと色めき立つ。
 だがその高さを見て、人騒がせなと笑い合って終わりだ。
 その顔が強ばり、悲鳴が上がるのは数秒後の事になる。
 数センチ、あるいは数十センチの高さから落ちたはずなのに、その全身は原形を留めぬ程にまで、無惨に崩れているのだ。
 二つ目は、第三者が術を解くこと。
 とは言えその辺の者では話にならない。霊力にも、そして術の技能そのものにもかなりの差がある事が条件となる。
 例えば、ミサトが一夜漬けで憶えて掛けた術を、シンジが解く位には。
 と言うことは、今回の術はシンジが解いた物なのだろうか。
 答えは否、である。
 シンジは幼女に抱き付かれたとき、振り払うことはおろか呪符さえも使おうとはしなかったのだ。
 だが何故か?
 爆薬を仕込んでいるかはともかく、夜の生き物の象徴とも言える乱杭歯を見ながら、手をこまねいているシンジではないはずなのに。
 歩き出したシンジの足下に、妖霧が再度まとわり付き出した。
 坂の初めから霧は消えようとはしない−あたかもシンジを監視するかのように。
 神経を逆撫で、とまではしないものの、じっとりした不快感は消えない。
 しかしシンジは気にした様子もなく歩いていく。
「探りはロリか。しかしあの子、誰かに似ていたような…」
 シンジが呟いた時、どこかで声がした。
「碇ゲンドウの愛人を使ってみた。とは言え幼少時では分からぬか。道はまだ始まったばかり、ゆっくりとお楽しみを」
 無論シンジには届いていない。
 赤木リツコに葛城ミサト。
 いずれもシンジの身近にいる者ながら、彼らの幼少時代をシンジは知らない。
 ましてやその時の容姿など。
 ではそれを投影して見せたのは誰か。
 どうしてシンジが坂に入った途端、急激に景色が変化したのか。
 快晴の中で、シンジの周囲だけが妖霧に覆われているのは何故か。
 幾つも奇妙な点はあるのだが、シンジは気にする様子もなく歩いていく。
 あるいは、シンジにとってはどうでもいいのかも知れない。
 ふと、シンジが足を止めた。
「いぶし出すのも面倒だし、いやそれより火は持ってないし」
 奇妙な事を呟くと、ちらりと後方に目を向けた。
「とにかく出てきたら?ばれたら尾行にならないよ」
 その声に応じるかのように現れたのは、白い上下に身を包んだ美女であった。
 ブロンドに碧眼は欧米産の証。
 肉感的な肢体は、胸元を大きくはだけたブラウスでさえも、持て余しているかのように見える。
 谷間から覗く乳房は、ほとんど乳輪ぎりぎりまで溢れており、犯罪ぎりぎりのラインだ。
 彼女はS・S、かつて「氷柱の魔笑」を始め、幾つもの映画で魅惑の肢体を惜しげもなく披露してきた女優である。
 そして今、シンジの前に立っているのは、デビュー当時の彼女だ。
「ハロー」
 往年の女優は、奇妙な形に口をひん曲げて挨拶した。
 本物ならば既に中年の域に入っているはずだ。それがなぜこんな若い肢体のままここにいる?
 とは言えどう見ても本物であり、肢体には若さと美しさが溢れている。
「格段に進歩しているね」
 シンジは呟いた。
「お会いするのは初めての筈。さて何をしてくれるの?」
 シンジは大きく開いた谷間に、ちらりと視線を向けた。
「あなたを殺す」
 女優は機械のように、だが淫靡な雰囲気を漂わせた声で告げた。
「どうやって?」
 その問いには答えず、女はゆっくりと前に踏み出した。
 人差し指が衣服に掛かった時、それはあっさりと裂けた。
 胸の谷間をなぞるように動かすと、その部分だけが左右にばらりと開く。
「弾力はなさそうだけど」
 奇妙なシンジの言葉通り、下着を付けていない乳房は飛び出しても揺れなかった。
 巨大なマシュマロの上に、鴇色に塗った米粒を載せた−そんな表現が似合うかも知れない。
 巨乳かと聞けば、十人中十人が肯定するだろう。
 だがそれだけでは男を惑わすには足りない。
 それだけでいいと言う者も、中にはいるかも知れないが。
 両手でゆっくりと乳房を持ち上げると、辺りに危険な香りが漂った。
 シンジの表情が僅かに動く。
 その目は女の指を追っていた。
 手の平もまた大きいのか、女は自分の乳房を持ち上げたまま、人差し指を伸ばして乳首をくいとひっかいたのだ。
 小さく縮こまっていたような乳首が、自らの指に触れられた瞬間勢いよく隆起した。
 そして、それはシンジの未だ見ぬ光景であったろう。
 その先からは、乳白色の液体が流れ出したのである。
 色を認識した瞬間、後ろに跳躍したのはひとえに勘であった。
 だが、実際には飛んでいなかったのだ。脳は飛ぶことを命じたが、身体は数歩下がったのみである。
 とはいえ、その数メートルにも満たない距離がシンジを救った。
 そこから飛んだ妖しい飛沫は、たった今シンジのいた所を襲ったのだ。
 さすがに溶解液のように、地に落ちて白煙を吹き上げはしなかったものの、脳髄まで貫くような凄まじい艶香を漂わせた。
 流れる乳汁を、すくい取って身体になすり付けていく。
 そしてその指をぺろりと舐めた時、その表情が一気に変わった。
 能面のようだった表情から、淫蕩そのものへと変わったのだ。
 濡れている、というよりも魔性を湛えた瞳。欲情を滾らせた頬、そしてOの字に開いた唇。
 男を惑わす為に生まれ、男を堕とす為だけに備わったような部品(パーツ)が、その機能を最大限に発揮しようとしていた。
 しかも奇妙なことに、鉄の塊のようにすら見えた乳房まで、その姿を変えようとしているのだ。
 巨大なメロンのようだったそれは、ずしりと重量感を兼ね備えているたわわな乳房と化し、米粒を塗っただけのように見えた乳首は、弾力を兼ね備えた紅い蕾へと姿を変えた。
「おいで、少年」
 抑えられない程に躯を疼かせている、淫蕩な人妻を思わせるその声は、先程までの無機質な物とは百八十度異なっている。
 口元を妖しく開けたままで、服の上から自らの躯にねっとりと、乳汁をなすり付けていく妖艶な美女。
 服の上から手がなぞる度に、触れられた箇所は官能の炎を吹き上げた。
 妖しく動く指使いは、それを見ただけでも男女問わず達しそうだ。
 蠱惑の瞳がシンジを捕らえた。
「さあ、おいで…私の胸の中へ」
 今度は前よりも小さな、囁くような声で告げた。
 聞く者全てを惑わすような魔性の囁きであり、微笑みであった。
 だが。
 シンジは動かなかった。
 その視線は自らの足下に落ちている。
 眼を逸らしたのではない、シンジはそこを凝視していたのだ−瞳にある種の感情を込めて。
「僕は跳ばなかった」
 シンジが呟いた時、女の顔色が僅かに変わった。
 賢い女ほど自分の負けた瞬間には聡いという。そして、女はその部類に属していたらしい。
 だが何故しくじったのか。
 表情も声も、そしてそれ自体が意志を持つ生き物のように動く肢体も、皆完全だったはずだ。
 強烈な淫香を漂わせる乳汁も、その役目を存分に果たしたはずだ。
 ではなぜ?
「いや、跳べなかったんだ」
 俯いていたシンジの顔が上がる。
 漂う雰囲気は僕のまま、だが俺とはまた別の烈々たる気がその全身から吹き上げていた。
 滅多に見られないことだが、その眼には明らかにある感情が浮かんでいた。
 すなわち−激怒。
 女の誘いで前に出なかったのは当然だが、それ以上に許せなかったのだ。
「青臭い汁の数滴で、僕は足止めされた」
 ゆっくりと魔刀が右手に移る。
「しかも」
 刀が一閃した瞬間、女の右腕は地に落ちた。その切断面が、人外である事を物語っている。
「蝋人形に少年と呼ばれた」
 口元に悽愴な笑みが浮かんだ瞬間、女の目にはっきりと恐怖の色が浮かんだ。
 シンジの笑みは、木偶人形にさえ感情を浮かばせたのだ。
 だが地に落ちた腕を見ても、シンジは顔色を変える事はなかった。
 では最初から知っていたのか?
 蝋人形と知りながらその胸から眼は離せず、そして無機物の塊と知りながらも、躯は欲情する。
 そうさせるだけの女の肢体であり、表情であり、指使いであった。
 だが女はこう言った−少年、と。
 シンジに対して口走るべきではなかったろう。
 手招きだけなら、あるいは妖艶な流し目だけであったなら。
 危険な芳香と共に、その目的は達成されていたかもしれないのだ。
 ともあれ、シンジはその誘惑を退けた。
 恐怖の相を浮かべている女に向かって、
「選ばせてあげる」
 変わらぬ表情でシンジは告げた。
「入魂の術、使えるのはそう多くはない。まして感情まで持たせられると来れば尚更だ。肢体をばらして放置されるか、自分の液でよがり狂うか。さ、どっち?」
 シンジは見ていた。女の舌が突き出されるのを。
 シンジは見ていた。女の口が勢いよく閉じられようとするのを。
 恐怖に駆られた女の選ぶ行動を、シンジは予期していたのかも知れない。
 その顔が凍り付いたのは、次の瞬間であった。
「舌なら噛めないよ」
 シンジはひっそりと笑った。あたかもわき上がる嬉しさを、そっと抑えている少女のように。
 絶望をあらわにした女の顔に、疑問が貼りついたのを見たシンジは、くっくっと乾いた声で笑った。
「どうして僕がお前を操れるのかって顔に見える。斬られた自分の腕のことを、忘れたか?」
 ぎこちなく、女の眼が肩口に向けられた。どうやら、本当に失念していたらしい。
「この降魔刀は、斬った箇所から精神波を体内に侵入させて、相手を操る芸当も出来る。君の造り主が、君に自決を植え付けない訳はないからね」
 解説したあと、シンジは僅かに首を傾げた。
 数秒で思案が浮かんだらしい。
 あるいは最初から決まっていたものか、
「やはりここは、よがり狂って貰うことにしよう」
 あっさりとシンジは告げた。
 それを聞いた女の目から涙が落ちた。
「お、お願い…」
「いやだね」
 甘く、そして残酷にシンジは拒絶した。
「さ、始めよう…やれ」
 シンジの言葉と共に、残った女の腕が動いた。
 ゆっくりと動いた手の向かった先は、もう片方の腕の切断面であった。
 内部までもが巧妙に造られているのか、そこからは紅い液体が止まることなく流れていく。
 そしてそれを手にすくい取ると、全身に塗り始めたのである。
 既にブラウスの前は大きく裂けているが、下半身の着衣はそのままである。
 白い衣服が、そして赤みを帯びた肌が朱に彩られて行く様は、一種異様な光景であった。
「では」
 上半身がほぼ朱に染まった時、シンジは言った。
 のろのろと手が動き、豊かな乳房へと伸びた。
 荒々しく指が食い込んだ時、女の口からは熱い吐息が洩れた。
「なんだ、残念」
 さも残念そうな声に、女がシンジを見た。
「血液代わりに使ったそれには、強力な酸でも入っているかと思ったのに。そうしたら君の人造皮膚など簡単に溶けるのにね」
「あ、悪魔…」
 絞り出すような声に、シンジは極上の微笑で答えた。
「光栄だね。君が何度いってから死んだか、数えていてあげる」
 そう言うとくるりと身を翻した。もはや木偶人形の事など忘れたかのように。
 そしてシンジが数メートル歩いた時、さっと霧が晴れた。
 シンジは自分の足元を見て、最初の位置から百メートルと進んでいないのを知って、ため息をついた。
「数キロは歩いたのに…全く」
 ぶつぶつ言ってから、
「蝋人形館、あれ人員整理だな。代わりには誰が入った?」
「ご自分の目でお確かめ下さい」
 その声が空中からしたと知った時、シンジはくるりと振り向いた。
 空中にあったのは、切り落とされた筈の女の腕であった。
 しかも付け根からは紅い液が滴っており、手の平の真ん中にはご丁寧にも、横に裂けた口が出来ている。
 さらに言葉を紡ごうとした瞬間、木刀が一閃して腕は、ぼとりと下に落ちた。
「入場の資格は出来たみたいだ。じゃ行こう」
 シンジが自動ドアの前で言った時、遠くで烏が鳴いた。
 やや甲高い声で、一度、二度。
 三度目に啼いた時ドアが開き、断末魔のような女のよがる声を背に、シンジは中へと入っていった。
 
 
 
 
 
(続く)

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