第二十六話
 
 
 
 
   
 控えめな音と共に、医務室のドアがノックされた。
「来訪は自由だ、お入りを」
 奇妙な返答を受けて、そっとノブが回される。
 昨日までは全自動だったはずだと思いながら、赤木リツコは重い樫のドアを開いた。
「おはようございます、ドクター」
「何か?」
 回転椅子は向こうを向いたままだが、普段と変わらない声が返ってきた。
「あ、あの…シンジ君達の事で」
「遺書でも見つかったかな、手際のいいことだ」
 もしこれをミサトが言っていれば、リツコは強烈な皮肉で返していたであろう。
 だが相手はユリである、冗談もどこか本気に聞こえるから怖い。
 触れない方が安全だと判断して、
「行き先はご存じでしょうか?」
 ふと、ユリの手が止まった。
 ゆっくりと椅子が回転しこっちを向くのを見て何故か、リツコの胸中に薄く後悔の念が湧き上がった。
「この部屋は監視されている」
 人ごとのようにユリが言った。
「は?」
「監視されている、と言った。従って大声で内密の事を叫ぶ訳には行かない。こちらへどうぞ」
 膝の上で軽く組まれていた腕がすっと上がり、置かれた応接セットを指さす。
 その時になって初めてリツコは、ユリが全身を黒いケープに包んでいるのを知った。
「ドクター、お似合いです」
 無意識に口にした、と気が付いたのは数秒後の事であった。
「ありがとう」
 ユリがひっそりと、そして妖しく微笑った時、リツコの手は反射的に胸元に伸びていた。
 一気に加速した鼓動を、脳が押さえようとしたのである。
 それを気にも留めず、
「こちらへ」
 再度ユリが促した。
「は、はい」                       
 ゲンドウが知れば驚愕するかもしれない−抱かれる時さえも顔色は殆ど変えないリツコが、頬をうっすらと染めているのを知れば。
 ミサトは冷やかすかもしれない−常に冷静を宗とする親友が、視線をどこかうつろに彷徨わせているのを見れば。
 ゆっくりとユリの手が動いた。
 両腕を軽くアームに乗せ、片方の手は軽く組んだ足の上に置かれている。
 だがもう片方は。
 その指がアームに沿って動き、少し長い爪が僅かに折れ曲がってアームをなぞる。
 それだけである。
 他に何の動きも見せてはいない。
 にもかかわらず、それを見た瞬間リツコは視線を離せなくなった。
 白く、しなやかな指が動くにつれてリツコの瞳も動く。
 そしてそれが、振り子のような動きを見せ始めたことに、リツコは気が付いていなかった。
 一度、二度、三度。
 ぱさ。
 三度目往復した時、リツコの身体から白衣が落ちた。
 そして五度目。
 黒いタイトなミニスカートが、持ち主を身体を覆うのを中止した。
 そして六度目。
 濃紺のキャミソールもまた、スカートと同様の行動を選択した。
 ユリの表情は変わらない。全ての時が止まったかのような部屋の中で、ユリの指だけが動いていく。
 そして数十秒後、その唇が動いた。    
「おいで」
 言葉とは裏腹に欲情などは微塵もない、それどころか氷のような口調でユリが告げた時、リツコは我に返った。
 そして知った。
 自分が一つの物以外、何も身につけていないのを。
 すなわち黒のストッキングだけを。
 何故かリツコの口から悲鳴は上がらなかった。
 何故かその目は驚愕に見開かれる事もなかった。 
 どこか無表情のまま、愕然としているリツコにユリが告げた。
「そのスタイルが一番濃厚な時を過ごせそうだ」
「い、いやっ!」
 それを聞いた途端、リツコはまるで小娘のような声を上げて、乳房を両手で覆ってしゃがみ込んだ。
(し、知られている!?)
 リツコの驚愕は、ユリの言葉が指す物を知った故である。
 
 
 
 
 
 
「いつもの格好(スタイル)だ。よし、それでいい」
 司令室に入る時、靴は脱いで入っている−但しリツコのみの場合だけだが。
 ゲンドウに顎をしゃくられて、リツコの肩から白衣が落ちた。
 妖しく揺れる乳房も、既にしとどに濡れてぴたりと貼りついている淫毛にも、彼女の愛人は目をくれなかった。
 その脂ぎった視線は、彼女のストッキングに注がれている。
「乗れ」
 短く告げた言葉の通り、ゆっくりと机に歩み寄る。無論秘所を両手で隠すのは忘れない。
 机の上に乗り、M字型に脚を開いた愛人を、ゲンドウは獣でも見るような目つきで眺めた。
 欲情と軽蔑の入り混じった視線。
 それを感じるだけでリツコのそこは、後から後から溢れてくる。
「もっと開け」
 いつもと変わらない科白だが、どうしてもその時だけは羞恥に襲われる−本心から。
 おずおずと開いていく脚を、ゲンドウの平手が襲った。
「早くしろ、でなければ帰れ」
 奇怪な科白ながら、リツコが逆らえる筈もなく、その脚は最大限まで開かれた。
 パン、と音がするのと、
「痛っ」
 小さな声が上がったがほぼ同時であった。
 ゲンドウがストッキングの端を持ってぐいと引っ張り、ぱっと離したのだ。
 跳ね返った部分が熱く火照った肌に当たり、リツコは小さな悲鳴を上げた。
 リツコの顔が僅かに歪むのを確認すると、ゲンドウはおもむろに脚の間に顔を押し込んだ。
「ふっ…くうっ」
「もう洪水か?親子揃って淫乱だな」
 それを聞いた瞬間、リツコの眉がぴくりと動いた。
 双眸にある種の感情が浮かび、男の頭をぐいと性器に押しつける。その反応に、ゲンドウの口元がいつものように歪んだのかどうか。
 少し濁った液を湧きださせているそこへ、太く長い舌を入れていく。
 かつてユイが慕い、赤木ナオコが溺れた代物を、リツコのそこはすんなりと受け入れた。一気に奥まで入れてから、先を丸めて溢れる液を掬い取るやり方は、三人の女達がいずれも燃えた物でもあった。
 むやみに広い室内に、何かを啜り上げる淫猥な音と、サングラスをしたままの顔が上下する度に上がる、悲鳴ともつかない嬌声が協奏し始めるまでに、さほど時間はかからなかった。
 
 
 
 
 
「ど、どうして…」
「風に訊いた」
 とユリは妖しく笑った。リツコの肢体には視線を向けようともしない。
「それとも秘された場所の情事ならば、天にも地にも知る者などないとお思いかな」
 ユリの指が僅かに動いた瞬間、リツコの服は宙に浮かびそのままユリの元へと飛翔した。
「渡しに行くのも面倒だ、取りに来られるといい。それとちょうどいい機会だ、私手ずから健康診断をして差し上げる。見たところ、あまり健全な日常生活とは言い難いようだ」
 それを聞いた時、初めてリツコの顔に羞恥が浮かんだ。
 全裸に黒のストッキングという、やや淫蕩な格好のままゆっくりと歩き出した。
 ユリの指す椅子までは数メートル、十歩もかからずに着くはずだ。
 そして−
(1・2・3・4・5・6)
 と来て、十歩まで数えた時リツコは歩くのを止めた。このままでは到底着かないと悟ったのである。
「お待ちしているが」
 ユリが変わらぬ表情のまま告げた。
(超常現象?いえそんな訳はないわ。だとしたら空間歪曲?)
 乳房も性器もむき出しのまま、リツコは脳をフル回転させた。
 そして数秒後、ユリの顔は見ないようにしながら、
「ドクター、式をお教えいただけますか」
 と訊ねたのはさすがリツコであったろう。
 だがいかにリツコと言え、この返答は予想していなかったであろう。
 ユリは姿勢を微動だに崩さずこう言ったのだ。
「杜門だ」
 と。
 アオイならくすっと笑ってこう言ったであろう。
「ユリにも困ったものね」
 と。そしてゆっくりと右手を振り上げた筈だ。
 シンジならこう言ったであろう。
「じゃ開門はどこだ」
 と。
 だがこれはリツコである、生憎八門遁甲の図など知る位置にはいない。
 まして、モミジが手を加えて破り得ぬ物に仕上げたとあっては。
「土左衛門…でしょうか?」
 思わず間抜けな事を訊ねたリツコにも、ユリは笑いもせずに、
「脚を一歩引くように」
 と告げ、リツコがそれに従うと今度は、
「左足を前へ」
 と指示した。
 そしてリツコがそれに従った瞬間、室内に絶叫が響き渡った。
  
 
 
 
 
「ガイドが増えてるな」
 中に一歩入ったシンジは、ふんふんと頷いた。
 制服姿に身を包んだ美女が、まるで旅館の女将以下の出迎えのように、ずらりと並んで奇妙な訪問者を出迎えたのである。
 自然と身につけたと思われる笑顔の列を見て、シンジはしばし立ち止まった。
「あいつは蝋人形館を手入れしたと言っていたけど…これもかな」
 躊躇いもせずに、美女が両側の壁となっている中を歩き出した。
 そしてその足が止まったのは、数歩も行かぬ内である。
 後ろから伸びた手が、シンジの腕をそっと捉えたのだ。
「ここはもてなし通りでございます」
 と若いガイドが告げた。
 見た目の年齢はまだ、二十歳にもなってはいまい。
 だがシンジを捉えた左腕に右腕が触れた瞬間、その制服はばらりと裂けて落ちた。
 その白く、そして艶めかしいこと。
 明らかに、加えられた色香であるのは間違いなかった。
「虫も殺さないような顔」
 と一人の女が高い声で言った。
「でもその素顔は」
 別の女が続ける。
「女心を踏みつぶして歩く地獄の鬼畜」
 いかにも楽しそうなその声を聞いて、
「余計なお世話だよ」
 少し憮然とした顔で、シンジはぼやいた。
 だがその顔に、塔に入る前の長い坂道で、奇怪な幼女を相手にした時のような物はない。
 操り主を知っているのだろうか。
 むき出しの腕で、自分を捉えている女をふとシンジが見た。
「離せ」
 すごみなど、微塵も感じられない口調でシンジが言った。
 今日はいい天気だ、そんな感じの口調なのにすっと女は手を離した。
「素直ないい娘だ」
 シンジの口元に、ある種の笑みが浮かんで娘を見た瞬間、その頬は僅かに染まった。
 だがそれを見た時、他の女達の顔色が変わった。
 その浮かんだ色は、すなわち嫉妬。
 しかしその場にいた残りの十一人の顔に、一様に同じ色が浮かんだのは少し奇妙な情景である。
 シンジはそれに気が付いたのかどうか、
「もてなしって、何?」
 シンジとユリ以外に、レイが向けるような口調で訊ねた。
 がらんとしたホールに乾いた音がした。
 指を鳴らす音だとシンジが気付いた次の瞬間、紺を基調にしたガイド達の制服は一斉に地に落ちていた。
 白い素肌に形のいい乳房、引き締まった腰にすらりと伸びた足。
 ガイドだけではなく、モデルとしても十分通用するような肢体である。
 だがその顔は−
 黒い瞳は底知れぬ闇を映し出し、中が異様に紅い口は横に大きく裂けた。
 しかもそれは変貌してもなお、醜悪さにまみれはしなかったのだ。
「少し硬いぞ」
 とシンジが言った時、女達の顔が哀しげに歪んだ。
「まだ及ばない」
 女達の口が一斉に動いた。
「じゃどうする?」
 まるで友人に対するように話しかけるシンジ。
 そして答えはすぐにあった。
「こうするわ」
 その声が終わらぬ内に、ぽん、という音がして居並ぶ女達の首は、一斉に地に落ちたのである。
「あ、勿体ない」
 奇妙なことを呟いたシンジの目に、中から生えてくる首が映った。
 数秒後、ちょこんと乗ったそれは…紛れもなく綾波レイの顔であった。
 
 
 
 
 
 
 
 リツコが左足を踏み出した瞬間、つま先を凄まじい激痛が襲った。
 しかもそれはあっという間に、全身を駆けめぐったのである。
「こ、これは…」
 激痛を必死に抑えるリツコに、
「空間転移には造詣はおありのようだが、諸葛亮には縁がなさそうだ」
 ユリは少し冷たく告げた。
「しょ、蜀の大宰相?…」
「それで?」
「死せる諸葛、生ける仲達を走らす、それ位なら…私も…」
「三歳児でも知っている諺だな。それよりも、もう少し八門は知って置かれた方が良かろう。下がるがいい」
 言われるまま一歩足を引いても、まだ全身を襲う痛みは引かない。
「左手を前に出す。次いで右手を腰に付けるように」
「は、はい…」
 全裸の美女が、特撮ヒロインの変身もどきの姿勢をとっているのは、どう見ても奇妙な光景であった。
 ところが、
「そのまま再度入るように」
 ユリの言うとおりにした途端、ぴたりと痛みは消えたのである。
「なっ!?」
 驚愕の表情を隠せないリツコに、
「休門に入っていただいた」
 と言われてもさっぱり分からない。
 はあ、とやや間抜けな表情で返したリツコに、
「では改めてこちらへ」
 促されて再度歩き出したが、やはり一向に前には進まない。
 ユリの口元に、うっすらと微笑が浮かび、
「走るのはお得意?」
 訊ねられてリツコは覚悟を決めた。
 痛みの吹き飛んだ足に力を入れると、一気に走り出す。
 ほんの十メートルもない距離を、あられもない姿で疾走している自分の姿は、この際考えない事にした。
 そしておよそ三分後。
 大きく肩と胸を上下させているリツコを、ユリは妖しい微笑で出迎えた。
「6メートルを4分25秒。俊足をお持ちだ」
 露骨な皮肉に聞こえるが、実は以前シンジが運び込んだとある患者を狙った者が、これとさほど変わらない距離を行くのに丸々半日を要し、しかも見つかった時には餓死寸前であった事を無論リツコは知らない。
「先に服を着られるといい」
 そう言った時、服はソファーの上に置かれている。
 笑っている膝を叱りつけ、一歩踏み出した次の瞬間。
「ぐ…ふっ」
 何かがリツコの鳩尾を直撃し、リツコが身体を二つに折って吹き飛んだ。
 失神したリツコに冷たい視線を向けると、
「驚門を配していたのを忘れていた。ネルフは激務、しばしの休息を」
 どこか楽しそうに言うと、卓上の受話器を取り上げた。
 そして数十分経った時。
 部屋の入り口で陸奥サツキが深々と一礼した。
 苦もなくユリの机の所まで歩いていき、何事かを耳打ちされた後、リツコを軽々と肩に担いでサツキは姿を消した。
  
 
 
 
 
 レイの顔を見た時、シンジの表情は少しだけ動いた。
「僕の結界を破ったか?」
「いいえ」
 十一人のレイは、そろって首を振った。
「それを聞いて安心したよ。簡単に破られてはモミジに怒られるからね」
 その途端、レイ達の表情が変わった。
 能面に怒りが植え付けられたのだ。そして−憎悪と。
 綾波レイの顔はこんなにまで歪むのかと、感心したくなるほどに醜く憎悪を貼り付けると、女たちは揃って告げた。 
「この娘には用はない。だから返してやっても良かった−つい、今までは」
「気が変わった?」
 シンジの茶々には反応せず、
「吸血精を注入してやるわ。さっさとあがってこないと日干しよ」
「タイムリミットは?」
「自分で考えなさいな。碇ユイの呪縛から未だに−」
 声は途中で途切れた。シンジが腰から引き抜いたナイフを、空中のとある一点に向かって投げたのだ。
「あーら、残念ね」
 声は違うところから聞こえた。
「覚えてろ、この性悪娘」
 それを聞いた時、声は一瞬だけ止まった。何かを思い出したかのように。
「…懐かしい響きね」
 だがまたすぐ元に戻って、
「生意気な事を言う前に、十一人の使徒たちをまずは。それに…私は忘れていないわよ」
「何かしたかな?」
 と首を捻った瞬間、女達の顔が一斉に崩れた。
 レイの裸体を知るシンジにとって、顔はレイでも躯は別物である。
 だがレイでなくて良かった、と思ったかどうか。
 囲まれる、と感じた刹那シンジは後ろへ跳躍していた。
 そしてもう一度。
 最初に足が地に着いた時、その部分は腐葉土のような感触を伝えてきたのである。
 さっき歩いたときには紛れもなく、硬いしっかりとした足場であったが。
 足場がもろいと知り、先に手が動いた。
 妖刀の先をぐいと突き立て、それを足がかりにして跳んだのだ。
 無論、放って置いても付いてくるとは知っての所行だ。今度は足場を確保して着地したシンジが、ふと右腕を見た。
 さっきの女がまだしがみついている。
「敵?」
「ユダ」
 奇怪な応答であったが、シンジはその意味を知った。
 片側に六人ずつ、計十二人いたはずだ。
 だが声は十一使徒の洗礼を、と言った。シンジにくっついているのは史実で主を裏切ったとされる、ユダ・イスカリオテの再現でもあったろうか。
 しかしシンジには、雄大なる古の歴史に思いを馳せる暇はなかった。
 十分な殺気を含んだ刃が、素晴らしい勢いで突き出されたのだ。
 右腕を振りほどく暇はない。シンジは左手で妖刀を抜き出すと、その真ん中の部分で刃を受けた。
 木刀と金属の筈だが、鳴り響いたのは甲高い金属音であった。そして折れたのは斬りかかった方であり、女の腕であった。機械人間のように、片腕が刃と化していたのである。
「脆いな」
 ふん、と言った瞬間腕がぐいと掴まれた。
 一歩下がらされたのと、足元で何かが音を立てたのとがほぼ同時。
 濁った排水口から排出されるかのような、異様な色の液体と横の女の顔をシンジの視線が行き来した。
 助けられたのは明らかである。シンジはレイの顔をした女を見て、薄く笑った。
「ありがとう」
 短く言った言葉に、女の頬が染まる。
 だがそれがレイそのままと知った時、シンジの胸中にはなぜか憎悪に似た感情が沸いた。
(あいつ…)
 とはいえ和んでいる時間は与えられなかった。
 一人目がしくじったと見て取るや、二人が同時に襲いかかって来たのである。
 今度は秒の差だが時間はあった。右腕を振り払い、しがみついている女の肩をとん、と押して横へ突き飛ばす。
 触れた肩の感触が、レイのものと変わらぬことを知り、シンジの眉が一瞬寄った。
「悪趣味」
 少し不機嫌な口調で言うと、胸元に伸びてきた水掻きもどきをやり過ごし、手首であったらしき部分目掛けて、力任せに振り下ろす。
 ところが次の瞬間、苦痛の声は二つ上がった−断たれた女とシンジの口から。
 確かにシンジの妖刀は、綺麗な切断面を女の腕にこしらえた。しかしそこから飛んだ黄緑色の飛沫はがシンジの頬にあたった瞬間、酸でも浴びたような痛みを感じたのだ。
 シンジが左手で頬に触れると、ぬるりとした感触を伝えてきた。
「接近戦は駄目、エヴァとは反対だな」
 うなずいた途端、金太郎が持っていそうな鉞が振り下ろされた。
 ひょいと避けると床を直撃し、火花が飛び散った。
 ただこうなると、少しシンジには分が悪い。
 斬っても裂いても駄目なのだ。
 従って残りは手段は−刺すしかない。
(それにしても)
 シンジは内心で首を傾げていた。
 単なるグール(屍肉鬼)なら分かる。であれば血液もどきに、酸のような物が流れていたとしても不思議ではない。レイを攫ったのは、操妖を得意とする者だからだ。
 しかしグールならば、金属の説明が付かない。どうしてグールの腕から金属が生えてくる?
「うーん」
 首をひねった途端、左右から同時に襲ってきた。首を薙いで来た青龍刀を身をかがめて避けたところへ、緑色の触手が巻き付いてくる。
 と、何を思ったかシンジは手首に触手を巻きつかせた。そしてそのままぐいと引っ張ったのである。裸体はあっけないほど簡単に引き寄せられ、シンジはその下腹部に綺麗な回し蹴りを叩きこんだ。
 とっさの賭けであったがシンジの読みはあたった。子を産んだ後の女の腹のような、奇妙な感触が伝わった次の瞬間、その体は吹っ飛んでいた。
 柱に後頭部から派手に突っ込み、女はがくりと首を折る。それを見た時、シンジの表情に満足げなものが浮かんだ−謎がやっと解けた探偵のような。
「納得」
 シンジは折れ曲がった首を見ながら呟いた。その視線の先には、何種類ものコードの束がある。どうやら観光案内の人形に、幽体を憑依させていたらしい。
「進歩したね」
 場違いな口調で言うと、背後から振り下ろされた鉄パイプをひょいと避けた。
 勢い余ってつんのめる背中に、綺麗な踵落としが決まる。皮膚が裂けて、中からおぞましい下地が覗くのを見て、
「やだやだ」
 と、中年主婦のような口調でぼやいた。
 この塔の最盛期、ここはほとんど無人であった。
 客がこない、という意味ではない。人間の係員がいない、と言う事だ。
 一般係員の愛想の無さに加えて、売店の売り子もまた機械的な応対しか出来ないとあって、不評は頂点を極めた。
 そこで登場したのが機械仕掛けの係員であり、売店の令嬢だったのだ。
 既に動くペットは登場し、家庭で好評を博している。機械人間がエレベーターガールをしたとて何の不思議があろう。
 誰もが見惚れるような美男美女の顔を作り上げ、極地とも言えるようなボディを持たせる。そして完全に制御下に置いて作動させれば、人間よりもよほど評判が上がる。
 もとより霊地の中心でもあったこの場所は、莫大な費用をつぎ込まれていた関係もあって、費用面でも人材面でも集めるのに苦労はほとんど無かった。
 その結果世界で唯一、人目に触れる従業員がすべて精密な機械人間という娯楽地が出来あがったのである。
 しかしここが第一級危険地域となってからは、危険極まる物体と化すのは明白だったため、地下室に全部の機体が保存されていたはずだ。
 機械が人を襲うことが無かったのは、そのためだ。
 低級妖魔達では、思考回路までも組み込まれていると噂された、ロボット達に取り付くまでは出来たとしても、実際に動かすまでは不可能だったのだろう。
 だが今シンジの脳裏にある娘なら。
 この程度の事は簡単にしてのける筈だ。妖魔達を集めて一つと為し、機械の体に憑依させて自らと同じ感情を持たせる−すなわち自分の分身を作る程度のことは。
 機械の体に屍肉鬼の敏捷性、いや獲物を襲うための戦闘能力を備えさせれば、対シンジ用の立派な兵器が出来あがるのだ。
「て、事は?」
 一瞬シンジの眉が寄った次の瞬間、背中の皮膚が裂けたもと女だったものが、ゆっくりと立ち上がった。
「やっぱり」
 言い終わらぬうちに、後ろ向きのまま妖魔が飛んだ。
 数メートルを一気に跳躍すると、振り向きざまにバックフィストを繰り出してくる。
 ステップバックしてシンジが避けるのと、別の妖魔が触手を槍のように伸ばしてくるのとがほぼ同時。木刀で蔓を両断するとそのまま姿勢を崩して、仰向けに倒れこんだ。
 崩れた顔で女がにやっと笑い、全裸のまま馬乗りになろうとするのへ、たわわな胸に引き上げた膝を叩きこむ。奇怪な声をあげて転がり落ちる瞬間、口から吐き出した醜悪な液を、横に転がってシンジは避けた。
 腹筋を使って跳ね起きざま手にした妖刀で、胸を押さえて奇怪に呻いている、妖魔の首を深々と刺し貫く。
 落ちていた仲魔の腕を拾い上げ、刃と化したそれで一体の妖魔が大上段から振り下ろしたのは、次の瞬間であった。シンジはまだ妖刀を引き抜いてはいない。
 咄嗟に蹴り飛ばそうとした刹那、
「く、うぐう…」
 苦しげな声が上がった。一瞬目を見開いたシンジの前で、足から崩れ落ちたのはついさっき、シンジを助けた女であった。
 ほかの者たちが次々と、その本性を現していく中、その者だけはいかなる仕掛けによる物か、レイの肢体と顔を保っていたのである。シンジを庇って仲魔の妖刃に身を挺した心はどこにあるものか。
「余計なことを」
 思わず洩らしたシンジを振り返り、
「私は…こう造られ…たの…」
 その言葉を聞いた時、シンジは彼女がレイを模して造られた事を知った。
 シンジが黙然と見つめる中、ゆっくりとその顔から生気が消えていった。
 そして最期にその口が動く。それを見つめたシンジはわずかに頷き、彼女は満足そうに笑った。
 首ががくりと折れたと思うと、見る見るその体は解け崩れていった。
 喉も胸も腹も、そして妖しく光る太股も無残に崩れていき、後には生々しい機械の塊だけが残った。
「お休み」
 シンジの口から出た言葉に、抑揚は無かった。
 元は無機な機械と低級妖魔とは言え、与えられた生は紛れも無く人のものであった。
 その無残な残滓を見た時、シンジは何を思ったのか。
 シンジが手を伸ばすと、刺さっていた妖魔の残骸から妖刀は勝手に抜けてその手元に戻った。
「任されたぞ」
 シンジの口から出た奇妙な言葉は、明らかにシンジのものではなかった。
 その証拠にシンジの目は、レイよりもなお紅い光を帯びている。
 しかもその色は妖刀のそれと同じ、いやそれ以上である。
 シンジが刀と共鳴しているのは明らかであった。
 第一シンジはこんな声で、言葉を発したりはしない−こんな地獄の羅刹のような声では。その表情に何を見たのか、亡者たちが凍りついた。一斉に飛びかかろうとした姿勢のまま、まるで塩の柱にでもなったかのように硬直している。
 そいつらをシンジが見た−赤光を放つ眼で。
「さして愉しめんが」
 シンジが言った−人に非ざる者の声で。
 だがそれは呪縛を解くカギとなったのか、女の肢体を持つ妖魔達は一斉に飛びかかったのである。
 シンジは避けなかった。
 到底人の力を超えた速度で妖刀が一閃し、鈍い落下音がした。床に落ちた腕はいずれも先が半分蔓状と化しかかっている。
 腕を落とされてなお向かってくるその顔を、下から薙ぎあげた妖刀が真っ二つに断ち斬った。
 だが断った速度が理をも超えるのか、顔が二つになったのは体が倒れてからであり、そこから不気味な液体が吹き上げたのは、更に二秒余り経ってからであった。
「一」
 とシンジが言った。
 感情のまったくない声は、どこか機械にも近い。
 今のシンジは普段のシンジのまま、だがそれでいてどこか違う。
 あえて形容するなら−腹話術が近いかもしれない。ただし、悪魔の。
 シンジが、というよりも刀が斬ることを愉しんでいる。第三者がその情景を見ていれば、十人中十人が口を揃えてそう言ったであろう。
 刀に今のシンジは引っ張られている、傍目にはそう見える。
 だがアオイがいれば、シンジの腕の動きも足の捌きも付いて行っている事を見抜いた事だろう。だからこそシンジは、奇怪な液体の洗礼を身に受けることも無く、済んでいるのだ。
 実に楽しそうに妖刀は舞っている。斬る、突く、刺す、と刀の基本動作を繰り返しているだけだが、その度に女たちの体の破片が舞いあがる。
 しかも、断たれてしまえば元の物に戻るのか、床に叩き付けられて痙攣しているそれは、明らかに女体の物であった。
 表面は艶のある人体の破片、だがその切断面からはコードが顔を見せている様は、どこか異様である。
 とは言え人数が限られている以上、いずれ終結を迎える。
 そして数分後、シンジ以外の生ける生命はすべて姿を消した。
「もういい」
 シンジが普段の口調で言った時、ふっとその瞳から赤い光は消えた。
 次の瞬間、異様な現象が起きた。
 妖刀が膨れ上がったのである。まるで蛇が大きな獲物を飲み込んだかのように、先端から根元に向けて、何かを消化するかのようにうねっていく。
 そしてそれがシンジの持っている部分を通過した時、シンジの手には微量な電流でも流れたような感じが走った。シンジが眺める中、一番下まで行くとそれはふっと消え、全体がひときわ紅くなった−鮮血をたっぷりと塗りこんだかのように。
「エレベーターで行く、ではつまらないだろうな」
 独り言、というよりは深紅の木刀に語りかけるようにシンジが言った。
「通しはすまい、マイマスター」
 ついに無機物の木刀が口を利いた−命など宿らぬものであるはずのそれが。
 だがそれが生まれたのは、店先の棚からではない。見た目は変哲もない代物ながら、シンジが自らの血で描いた妖陣に突き入れ、そこから再度引き上げたものだ。口を聞いたとてさして不思議はないのかもしれない。
「あっち?」
 シンジがさも嫌そうに言った時、妖刀は笑った-ように見えた。
 無論刀が笑うわけではない、根元部分に刻まれている黒山羊の紋章が笑ったのだ。
 もっともそれはそれで十分不気味なのだが。
「本音をいえ、マスター」
 妖しげな刀と会話している自体、十分奇妙ではあるのだが、シンジになるとさしてそうとも見えなくなる。
 有機物を始め、無機物と会話していても、さして妙ではないように見えてくる。
「土御門の当主コース」
 よく分からない口調で言ったシンジに、
「その通りだ、行くぞ」
 木刀に促されて決断したかは不明だが、とにかくシンジは歩き出した。
 だが次の瞬間、木刀をばねにしてシンジは後方へ飛んでいた。それと秒をおかずに何かが飛来し、シンジのいた所へ突き刺さる。
「シャーウッドの森か…乗った」
 シンジの脳裏に何が浮かんだかは不明だが、今シンジの視界にあるのは鏃が赤く塗られている数本の矢であった。
 科学万能といわれるこの時代に、いささか時代遅れにも見えるが、一概にそうでもないらしい。
 というのはそれが刺さった個所が、見る見る変色していったからだ。大理石を混ぜて造ってある床を変色させる辺り、かなり強烈な何かが塗られていたのかもしれない。
 だがシンジの目に、怯えは微塵も感じられない。むしろ愉しそうな表情で、ゆっくりと歩き出した。
 階段を上る間際、
「行くよ、ベリアル」
 と妖刀に向かって囁きかけ、黒山羊の紋章の口元がにっと嗤ったのを、聞いたものは勿論、見た者もいなかった。
 
 
 
 
 
(続く)

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