第二十四話
 
 
 
 
 
 少年が腕をねじ上げられて、地面に押さえつけられている。
 顔は既に腫れ上がり、暴行の痕が一目瞭然である。
 囲んでいる六人の男達はいずれも黒服で、どこかのボディガードを思わせる。
 押さえつけられたままの少年の顔を、別の一人が革靴で踏みつけた。
「もう一度だけ言う、お嬢様に二度と近づくな。分かったな」
 あっさり殺せば良さそうな物だが、そうも行かない事情でもあるらしい。
 唇を強く噛んだものか、少年の唇から鮮血が一筋流れ落ちた。
 だがそれだけではなかった。
 少年の双眸がゆっくりと閉じられ、そこから流れ落ちたのは紛れもなく、人間の血であった。
 少年は血の涙を流していたのである。
「分かった…」
 限りない呪詛を込めた返答に、男達は顔を見合わせてにやりと嗤い合った。
「最初から素直に言えばいいものを」
「全くだ、世話を焼かせやがって」
 思ったより手間取った為か、鬱憤晴らしのようにもう一つ蹴飛ばした。
「ほれ、これが金だ。これをもってさっさと失せろ」
 アタッシュケースを放り出すと、男達は立ち去った。
 ケースの中など開けずとも判っている−手の切れるような新札だ。
 
 
 
 お家の体面に傷が付くから殺しはしない、か。
 その代わり、金を握らせて何処へでも行っちまえって事だな。
 あいつも…そんなに俺が嫌なら一言嫌いと言えばいいものを…
 俺も嫌われた物だな。
 
 
 
 
 毎日連絡があったのが急に途絶えて一週間近く経ち、少女の心は不安で張り裂けんばかりであった。
 手元の携帯が鳴り、それが待ちこがれていた想い人からと知った時、彼女は矢も盾もたまらず飛び出した。
 だが護衛の目を眩ませて、懸命に走って指定の場所に着いた時彼女が見た物は−
 アタッシュケースからは新札があふれ出しており、そしてその傍らにうつぶせに倒れている少年の姿であった。
 少女は事態が把握でき得なかった−少年を抱き起こすまでは。
「ねえ、冗談でしょう?ほら…早く起きなさいよ…早く!」
 無論返答のあろう筈もなく、少年の首は彼女の腕の中でがくんと折れた。
 ふと彼女が違和感を感じて腕を見ると、そこは鮮血に染まっていた。
 そして彼女の視線が捉えたのは血文字。
 『なぜ言わなか』
 普段なら悟らぬ彼女ではない。一目見て全てを察したはずだ。
 だが冥府へ発っていったのが彼女の想い人であった事が、彼女の思考力を幾分ダウンさせていたのだ。
 そして漸く−彼女は事態を理解した。
 いや、頭脳は既に理解していたのかもしれない。ただ本能がそれを拒否していただけかもしれない。
 こんな筈はない、ここで倒れているのは偽物に違いないと。
 もしそうだとしたら私をからかっているに違いない、と。
 彼女は知り、そして理解してしまった。 
 暴行の痕は金目当ての狼藉者による物ではなく、彼がインクがわりに使ったのはナイフを突き立てた太股から溢れる鮮血なのだ、と。
 少女は叫ばなかった。
 いやそれどころか泣くことさえもしなかった。
 少女が瞑目し数秒後に目を開けた時、その顔から一切の表情は失われていた。
 文字通りの、仮面の表情。
 嬉しさも悲しみも怒りも、まさしく何の感情も浮かんでいなかったのだ。
 彼女は知った。
 もはや自分の言葉は想い人には届かぬことを。そして自分がなすべきことも。
 のろのろと少女が動いた。
 ゆっくりとしゃがみ込むと、アタッシュケースのふたを開けた。
 中から、集められた落ち葉が散るように札が散らばった。
 立ち上がって靴で札を踏みつぶした−限りない憎悪と、限りない怨詛を込めて。
 一度、二度、三度。
 四度目に彼女の足が上がった時、ボディガード達が駆けつけてきた。
 彼らが見たのは、主家の令嬢が札の山を踏みつぶしている光景であった。
 そしてその前には、数時間目に半殺しの目に遭わせた挙げ句、手切れ金を押しつけて放逐した筈の少年が横たわっている。
 彼らが駆け寄った事それ自体が大きな誤りであったが、それに加えて彼らは致命的なミスを犯した。
 少年が少女に捨てないでくれと、迫ったと思ったのである。
 そして気性の激しい彼女に、再度痛めつけられたに違いないと。
 だが彼らは知らなかった。
 少女の顔から、一切の感情が消えていたことに。
 そして少女の心が千々に引き裂かれていたことに。
 何よりも…彼女が殺戮の化身となっていることに。
「お嬢様、ご無事でしたか!」
「この野郎、性懲りもなく…」
 少年をうつぶせにしていなかったら、あるいは事態に気が付いたかも知れない。
 だがうつぶせになった少年は失神しているようにしか見えず、血文字も大腿部の深手も彼らからは見えなかったのである。
 男の一人が引き抜いた銃を少年に向けた瞬間。
「ぎゃああっ」
 絶叫が迸った直後に、その両腕は地に落ちたのである。
 一瞬何事か判らなかった男達も、地に落ちる鈍い音で事態を察した。
「お、お嬢様っ、何をされ…ぐああっ」
 少女は微動だにしていないにもかかわらず、男の両手の指は揃って地に落ちたのだ。
「私の得意とする事が他人の術の会得とは、お前達は知らなかったか」
 まるで機械のように抑揚のない、そして乾ききった声で少女は告げた。
 男達の脳裏に、とある名前が浮かぶ時間は無かった。
 彼らが首筋に僅かな痛みを感じた次の瞬間、少女は足をとん、と踏みならした。
 と、その途端に彼らの首は揃って地に落ちていたのである。
 誰かがその切断面を見たならば、その有様に息を呑んだはずだ。
 そこには鋭利と言うにはほど遠い物があったのである。
 切れ味のすっかり落ちた包丁で無理に厚い肉を切った、と言うような表現がふさわしいかも知れない。
 いや、それよりも−
 
 
 軽い気持ちでデートコースに山を選び、軽装でいつしか羆のなわばりに迷い込んでしまい、気がついた時には真後ろから生臭い息が。
 そして哀れな生け贄の頭部からゆっくりと引きちぎり−
 
 
 何事が起きたのかも体は判っていまい。
 地に落ちて驚愕の目を見開いている顔さえもおそらくは。
 それ程までに瞬時の出来事だったのである。
 何もなかったかのように一歩を歩き出すかと見えた次の瞬間、男達の胴体はゆっくりと前のめりに倒れ込んだ。
 そしてその時になって漸く、切断面からは血潮が溢れだしたのである。
 散乱した新札が深紅に染まり、落ちた首が一瞬だけ口を動かしても、少女はそれに目もくれずに歩き出した−何の感慨も見せずに。
 感情が豊かで、しばしば名門の当主らしくないとたしなめられたりもした彼女。
 その片鱗は何処にもない。
 やや大きめの、良く動く瞳は何の感情も湛えてはいない。
 だが、冷たい屍と化したかつての想い人に一瞬だけ目を向けた時、僅かにその瞳に感情が揺れたように見えたのは−気のせいだったろうか。
 彼女の胸中に何があったのか、知る者は誰もいない。
 ただ事実だけを言えば−
 当代であった土御門クララが、全身を紫色に腫れ上がらせて死亡しているのが見つかった時、屋敷を固めるボディガード達は一人としてこの世の者では無かった。
 刑事や検死官さえも顔を背けるようなその死に様は、憎悪を叩きつけられたとあからさまに知れる物であった。
 ある者は頭部を吹き飛ばされ、ある者は胸部が大きく空洞となっていた。
 そしてクララは、一体何を使って殴打すればこうなるのかと言うほどに腫れ上がっており、その顔は原形を留めていなかった。
 何よりも、五つに分けられた肢体は壁に五寸釘で打ち付けられていたのだ。
 証拠を隠そうともせず、屋敷に火を放つ事もないまま犯人は屋敷を後にした。
 クララの血が異様に少ない事に気が付いた彼らは、壁にその答えを見いだした。
 多量の血を使ったと一目で判るそれは、血痕も鮮やかに大きく『天誅』と書かれていたのである。
 当主が惨殺された上に犯人は次期当主となる孫娘、しかも行方をくらましたとあっては一大事である。
 殆ど養子同然になっていたモミジが急遽呼び戻される事になったが、彼女は捜査の手をうち切らせた。
 ある少年の囁きによる物とも言われているが、真相は分からない。
 だが消えた娘の行方は誰も掴んでいない、訳ではなかったのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 アオイが出ていった後ベッドの上で、モミジはレイの写真を見ながら軽くため息をついた。
 シンジの術であられもない肢体で転がっていた事を、アオイは咎めはしなかった。
 元より、シンジとの契約も反対はしなかったアオイである。
「感じすぎは体に毒よ」
 と、妖しく笑って囁いただけである。
 しかしながら、モミジにはどうしても判らなかった。
 すなわち、何故シンジが綾波レイを妹になどしたのか。
 いずれ殺す気でいるなら分かる。シンジのユイに対する感情は分かりきっているモミジだし、シンジの性格なら当然出てくる答えの範疇なのだ。
 それにアオイから聞いた範囲では、仲も良さそうだし可愛がっていると言う。
 モミジが何を考えているのかはその顔を見れば分かる。
 そう、疑問だ。
 シンジの考えが分からないと言うのは、彼女に取って大問題なのである。
 コードレスの電話機のボタンを、さっきから幾度か押しながら途中でやめているのはそのせいだ。
 八つまでボタンを押しながら、それ以上はどうしても指が止まってしまう。
 モミジ自身、シンジの発想が皆目知れないなど初めてであり、彼女のプライドは痛く傷ついているのだ。
 と、その手が写真をぽいと放り出した。
「シンジ様のお考えが読めないとは…私も堕ちたものね」
 少しだけ自嘲気味に呟くと、ベッドの上に横になって天井を見上げた。
 目を閉じればシンジの顔は勿論、仕草や口調までは明白に浮かんでくる。
 にもかかわらずその思考が判らないとは。
 ギリ、と僅かに歯が鳴ったのは数分後の事であった。
 
 
 
 
  
 高速クルージングは順調であった。
 エンジンも気持ちよさそうに歌っていたし、空も快晴で申し分ない。
 都内に入るまでは二時間もかからない。
 レイが起きれば何処かで休憩も、と考えていたシンジだが結局レイは起きなかった。
 ゆったりとしたクラシックが流れる中、シンジの目が僅かに細くなった。
 眠くなったのか小さく欠伸をしたものの、それも一瞬でまた目は見開かれた。
 だがもしここにアオイがいたら、その表情の変化に気が付いたはずだ。
 睡魔に襲われている風情ではない、何か思案している表情だ。
 ほんの少しだけ眉が寄った所をみると、何やら決めかねているのだろうか。
 シンジにしては珍しい事だが、数分あまりも眉を寄せたままでいる。
 やがてその表情のまま、シンジは一瞬瞑目した。
 自動操縦(オートドライブ)機構も備えていないのに、危険きわまりないがハンドルの乱れはない。
 それに、三車線あるハイウェイを他に誰も走っていない事もあるのだろう。
 数秒後に目が開いた。
「行くか」
  
 
 
 
 
 レイがシンジの隣で眠っている頃、ミサトは眠れないまま朝を迎えていた。
 原因は無論シンジとレイの、脱走犯二人にある。
 しかも行方は杳として知れないのだ。
 空のシガレットケースは既に五箱、ビールの空き缶はダースを越える。
 だが、ミサトの表情に酔いはない。
 幾ら呑めども全く酔わないのだ。いや、酔えないと言うべきか。
 いつもは心地よく食道を滑り落ちる相棒も、今日に限っては苦すぎる液体と化している。
「一体何処に行ったのよあの子達…」
 ミサトの苛立ちは、単に二人だけにあるのではない。
 むしろ疎外感もかなりの部分を占めている。
 今考えれば、追跡に出した黒服達もユリに乗せられたような気がするし、リツコからして隠し事をしている可能性がある。
 だいたい、この時間まで連絡一つないなど到底あり得ないのだ。
 勿論ミサトはこの時点で、黒服達が既に移植材料と化している事など知る由もない。
 そしてその内の幾人かはレイが片づけたことも。
 なによりも、最後の一人はユイが殺したことなどは。
 ぬるくなったビールを無理に流し込むと、叩きつけるようにテーブルに置いた。
 ペンギンも主の虫の居所を察したか、昨夜から一歩も出てこようとはしない。
 苛立たしげに次の缶に手を伸ばして…止めた。
 代わりにシガレットケースを引き寄せた。
 だがさっきのが最後の一本だったと見えて、箱の中は空であった。
「ちっ、どいつもこいつも!」
 舌打ちして空箱を放り投げようとした時、電話が鳴った。
 じろりと電話機を睨んだミサト。まるでお前に全ての原因があると言わんばかりに。
 三回目で漸く受話器を取ると、
「はい葛城」
 と言った。
 不機嫌さを隠そうともしない。
「随分とご機嫌斜めね。夜の街で男を捕まえ損ねたかしら?」
「リツコ、悪いけど付き合ってる暇無いのよ。もう切るからね」
 素っ気なく言って切ろうとした時、
「仕方ないわね。あの子達の情報なんだけど」
「リツコっ!!」
 思わず大声を出したミサトに、
「私の聴覚は鈍ってないわよ、葛城一尉。聴覚テストはしないでちょうだい」
「ご、ごめん。それでっ?」
「第三新東京市から脱走したそうよ」
「諜報の連中は何してたのよ?」
「これはドクターに言われたのだけど」
 それを聞いた瞬間、ミサトの背が凍った。ユリの名前が出てくることが何を意味しているのか、本能が危険を告げたのである。
「ド、ドクターが…?な、何て言われたの?」
「その前に。シンジ君に脱走を勧めたのはドクターよ、ほぼ間違いなくね」
「そ、そんな。使徒が来たときの重要性ぐらい判って…」
 これが他の者なら、
「一体何考えてるのよっ」
 位は言った筈だ。
 だが言わなかった。と言うよりも言えなかったのだ。
 ユリの名は既に、ミサトにそうさせぬだけの物となっていたのである。     
「息抜き、じゃないかしらね」
 淡々と告げたリツコに、ミサトは言葉を喪った。
 リツコが皮肉も無しに事実だけを告げた事、それだけで意味は分かったのである。
「それなら脱走は容易ね。諜報も息が掛かってたんでしょうしね」
「違うわ」
 予想外の答えが返って来た。
「ち、違う?」
「ええ、全然違うわ。ミサト、あなた前に諜報の人間使って、シンジ君とレイを付けさせた事があったでしょう」
「私が?…あ、あの時」
「それをシンジ君には気づかれていたのよ。シンジ君の事は全くデータが無いの?」
「そ、そう言う訳じゃないけど…ま、まさかっ」
「そのまさかよ。ドクターはあの二人の居場所を教えて送り出したわ。それもあの時の連中を選んでね」
「そんな…」
「多分今頃は全員屍になっているはずよ。ただその後は私にも不明なのよ」
「その後って?」
 リツコは軽くため息を吐くと、
「死体の後始末に決まっているでしょう。放置しておくと思ったの?」
「ああ、それもそうね…」
 だがミサトの声には力がない。
 ショックがミサトの全身を支配していたのだ。
 ミサトはリツコと違いエヴァの暗部も知らないし、実際に他人を消した事もない。
 ある意味では純粋であるが、それが逆に仇となった。 
「…リツコ」
「何かしら?」
「…んでよ…」
「え?」
「なんでなの?どうしてなのよっ!」
 リツコにはミサトの動揺の原因が分かったらしい。
 それでも全く動じることなく、
「何を知りたいの?」
 と、どこか冷徹にも聞こえる声で訊ねた。
「な!?」
「シンジ君が諜報部員を始末したこと?それともドクターが脱走させたこと?それとも…」
「な、何よ」
「私が動じていないことかしら?」
「……」
 ミサトは絶句したまま動けなかった。
「加持君がいればね」
 それを聞いた瞬間、ミサトは我に返った。
「へ、変なこと言わないでよっ!何で加持がっ」
「関係ないわ」
「へ?」
 思わず間抜けな声を出したミサトに、
「加持君の名前は、未だにミサトには特効薬のようね。色々と」
「よ、余計なお世話よ。だいたいリツコには関係無いでしょ」
「その通りよ、ミサト。もう一度訊くわ、私に何を聞きたいのかしら」
 それを聞いた時、ふっとミサトの脳裏に何かがよぎった。
「あっ」
 思わず声に出たが、リツコは追求しようとはしなかった。
 電話の向こうでキーボードの音が聞こえる所を見ると、携帯を耳に当てたまま機械に向き合っているらしい。
 人と付き合うよりも機械と付き合う方が、リツコに取っては楽だという。
 ミサトの脳裏に浮かんだのはシンジの事であった。
 外見は全く変わらない。
 綺麗な黒髪も筆で描いたような眉もすっと伸びた鼻梁も、そして思わず触れたくなるような朱唇も。
 そして、どこか底なしに見える事さえあるその黒瞳もまた。
 だが、ミサトが遭ったシンジは別人であった。
 あのおっとりしたような雰囲気は微塵もなく、銃を持った時のあの鋭利な雰囲気すらも及ばぬほどの凄絶な気。
 近づく物を全て拒絶するような雰囲気は、極地の冬夜さえも及ぶまい。
 両肩の傷はユリの治療により数日で癒えたが、並の医師ならば一ヶ月はかかる事、しかも数ヶ月の間鈍痛に悩まされたことを、ミサトは無論知らない。
(彼なら…或いは)
 ミサトの頭脳が出した答えはそれであった。
 シンジに加えて、レイの事さえ何も知らないミサトに取っては当然の答えなのかも知れない。
 ある意味それがミサトの限界とも言える。
 ミサトはリツコほどではないが、レイとの付き合いは無論シンジよりも長い。
 だがそのミサトより、そして母ナオコと初めてレイに会った時からずっとレイを知っているリツコよりもなお、シンジの方がレイを知っているというのは、ある意味皮肉な事かも知れない。
 常に綺麗な京人形であったレイが、心から笑った相手はシンジであり、他と自己の間に強烈な境界線を置いていたレイが初めて寄りかかった相手も、またシンジであった。
 妲姫と言う名前など小説の中ですら知らないミサトが、一度だけ遭ったシンジの事しか浮かばなかったとしても無理はないだろう。
 そんなミサトの思考を断ち切るかのように、
「考えはまとまったかしら?」
 どこか抑揚のない声でリツコが訊ねた。
「リツコ、一つだけ聞くわ。ドクターが脱走させたってさっき言ったわね」
「それがどうかしたの」
「それ、ドクターに聞いたの?」
 一瞬リツコが動揺したのが感じ取れた。リツコが動揺するなど滅多にお目にかかれないのだが、それだけでミサトは答えを知った。
 取りあえず一矢報いたが、ヒットアンドアウェイがセオリーである。特にリツコが相手では、体勢を立て直されて手痛い反撃を食らう可能性がある。
 取りあえずの戦果に満足する事にして、
「パイロットが全員行方不明。どうするの、赤木博士?」
「どうもしないわ。ネルフで出来る事は何もないのよ。ドクターが行方も知らずに送り出したとも思えないしね」
「じゃあドクターは…」
 言いかけてから気づいた。使徒の来襲の可能性を十分知りながら、ユリがチルドレン二人を放置して置くはずがないのだと。
「でも居場所位は…」
 突き止めろと言いかけて止めた。理由はどうあれシンジとレイに付けた部員が始末されたのなら、これ以上犠牲を増やす事もあるまい。
「使徒の分析結果も聞きたいしね、もうじきそっちに行くわ。じゃあね」
 返事も聞かずに電話を切った数秒後、ミサトは唇を強く噛んだ。
(私の知らないところで何かが動いている。シンジ君は何を…)
「碇シンジ、あなたは一体何者?」
 口に出して呟いてから、
「知らないわよ、そんなの」
 自嘲するように吐き捨てた。
 
 
 
 
  
 シンジが都心環状線を降りたのは三周した後であった。
 川崎から首都高へ入ったシンジはそのまま環状線に乗り入れたが、何故か直ぐに出ようとはしなかった。
 本来なら一号線へ抜けてアクアラインへ行くはずなのだが、シンジが下りたのは芝公園であった。
 その視界に映っているのは東京タワー。
 無論言わずと知れた東京の名所であり、全長三百三十三メートルの建物は建設後六十年経ってもなお健在であった。
 幾度かの猛火に遭っても、そしてセカンドインパクトすらも乗り越えてきたこの建物は、単なる電波塔ではない。
 かつて霊都であった江戸の街がその機能を喪って後、東京の全ての霊力を司る一大拠点であった−土御門のお家騒動が起きるまでは。
 当代の土御門クララが無惨な姿で発見された時、その全精力で施していた結界はもろくも壊れた。
 東京からの遷都が決まった時、それは形式的な物であった。
 政治・経済、いずれも中心は依然として東京に置かれていた理由、それはひとえに霊的結界の為である。
 土御門一族の当主と、その家族しか入れぬと言われた都庁の地下。
 一説には地下七百七十七階まであると言われ、一説では七百七十七メートルの深さに作られているとも言われた。
 そこに描かれた巨大な方陣は、クララの横死後モミジの手により復される事は無かった。
 東京が首都でなくなった日が訪れたのは、そのせいだと言うことを知っている者は殆どいない。
 霊的な加護を喪った土地はもはや、首都としての機能は持たないのである。
 東京はその機能を喪失した、では東京タワーはどうなったか。
 答えは別称が示していた。
 すなわち、
 『第一級危険地帯(First Dangerous Zone)』
 見た目は何ら変わりはない。ごく普通の観光名所であり、夜ともなればイルミネーションが華麗絢爛に辺りを彩る。
 内部にも何ら変哲は見られないし、機械も正常に作動している。
 では何故第一級の危険地帯に指定され、立ち入る者もいないのか?
 なぜ訪れた観光客達が、だれ一人として帰らぬ人となったのか?
 夜の東京タワーから、悲鳴だけが聞こえてくるようになったのはどうしてか?
 住人達である。
 霊的拠点の要であったそこは、邪霊達を引きつける強力な磁石となり得たのだ。
 ポルターガイスト(騒がしい霊)などという者ではない。
 怪談に、あるいは神話に出てくるような妖物達がそのまま住み着いたのだ。
 例えば−
 入り口の券売機では釣り銭を取ろうと手を入れた瞬間、手首から上を食いちぎられた者が続出したし、数字が奇数のエレベーターでは何処のボタンを押しても必ず下に降りて行き、戻ってきた時には誰も乗っていないと言う。無論途中で下りた者はいない。
 そして蝋人形館には時の有名人達が飾られているが、彼らは皆全裸で観光客を出迎えた。
 ある者はたわわな乳房に吸い寄せられ、またある者は天を仰ぐ男根に顔を真っ赤に紅潮させて近づいた。
 色ボケになったわけではない。置かれている像と目が合った瞬間、訪れた者達から羞恥心という文字は消える。
 妻の目も夫の目も忘れ、子供達の前だという事も記憶の彼方に忘却して、彼らは裸像に歩み寄るのだ。
 だがその代償は決して安価な物ではない。乳房を鷲掴みにした瞬間、男根を両手で包み込んだ瞬間、彼らは文字通り一つになるのだ。
 指は男根にとけ込み、手は乳房の中に姿を消す。
 にも関わらず、彼らの目が恐怖に見開かれる事はなく、その口から絶叫が迸る事すらない。
 その目は恍惚の色を漂わせ、口元はだらしなく緩んだままだ。
 やがて全身が蝋人形と解け合った時、全ては終わる。
 そう、そして誰もいなくなったのだ。
 この事実を知る者は五人しかいない。
 命を賭してタワーに入り込み、監視カメラを仕掛けたのはクララの夫であり当代でもあった、土御門ヤシマであった。
 塔内に百余のカメラを仕掛けた後、出口に辿り着いたヤシマは満身創痍であったと思われる。
 曖昧なのは、何が起きたのかを物語る者は何もないからだ。
 そして誰も。
 身を案じたクララが見つけたのは、かっと目を向きだした夫の生首であった。
 明らかにその首は、切断ではなく引きちぎられた痕を示していた。
 相当の深手を負った故の不覚であった、そう信じたクララの心を嗤う者は誰一人としていなかった。
 おしどり夫婦で知られていたヤシマとクララ。
 残された者達が一番苦慮したのは、塔内を掃討するかではなくクララを思いとどまらせる事であった。
 黒瞳から血涙を流して単身向かおうとする彼女を止めようとして、手練れの者十人以上が瀕死の重傷を負う羽目になった。
 大の男達を次々と倒しながら、その身にはかすり傷一つない彼女を止めたのは、とある妖艶な美女の、不可視の糸であったとも言われている。
 そして彼女を動かしたのは、一人の少年であったとも。
 全身を見えない糸に絡め取られたまま、クララは数時間放置された。
 症状が安定するまで様子を見る、という処置による物であったが、その数時間に彼女は何を思ったのか。
 優しい祖母であったクララが、冷徹な妖婆へと変貌を遂げたのは次の日からのことであった。
 もともと朝廷と深いつながりがあり、厳しい統制で知られる土御門家である。引き締めの名の下、数多の粛正者が出るまでにさして時間は掛からなかった。
 処刑されていく者達を見ながら、クララの脳裏に何が去来していたのか。
 近づく事を決して許されなくなった彼女の居室では、毎晩のように低い声が洩れたと言われる。
 だが証言はまちまちであった。
 ある者は嗤っていたと言い、ある者は泣いていたと証言した。
 そのクララもすでに亡く、今東京タワーは昼間から深閑として、シンジの前にその全容を見せている。
 駐車場はぐるりとフェンスで覆われており、立入禁止の札があちらこちらに貼られている。
 シンジはちらりとレイの顔を見た。まだすやすやと寝息を立てており、起き出す気配はない。
 後部座席に手を伸ばすと、バッグから手榴弾を取り出した。
 無論これを投げても意味がないのは分かっている。呪符を三枚取り出して張り付けてから、おもむろに放り投げる。
 ズン、と僅かな地響きがした、それだけである。
 炎も上がらず何処かが破壊された様子もない。
 それなのに、シンジは何かを確認したかのように車を発車させた。もしもレイが起きていたなら止めたかも知れない。
 お兄ちゃんぶつかるわ、と。
 傍目には、フェンスのど真ん中に突っ込んでいくようにしか見えないのだ。
 だがシンジは機銃を出そうとも、速度を上げようともしなかった。
 車がフェンスに触れ嫌な音がするかと思われた次の瞬間、車はすっと中に入って行った。ぶつけるどころか、こすった様子すらもない。
 だが霊力の強い者がいれば、ぽっかりと大穴が開いているのに気づいた筈だ。
 命知らずの物好きが続出したせいで、もはや物理的な柵は取り払われており、今は結界だけが張られている。
 とはいえ見た目にはあくまで頑丈なフェンスであり、事実物理的な力は殆ど通用しない。ある意味では使徒に近いかもしれない。
 車を止めて降りたシンジの嗅覚が、強烈な臭いを捉えた。
 すなわち妖気
「相変わらず元気そうだね」
 ぽつりと呟くと何を思ったのか、ワルサーを外すとレイの手の上に、ホルダーごと乗せた。
 後ろに回ったシンジがトランクから取り出しのは−木刀。
 果たし合いにでも行くような感じだが、シンジが取ったのは奇妙な行動であった。
 呪符を取り出すと、指の先を歯に当てたのである。
 シンジの歯は別段尖ってはいないが、それでもうっすらと血の玉が浮く。
 真っ白な呪符に、自らの血で何やら書き始めたシンジ。
 案外深かったようで、途中で絶える事もなく五芒星を書き上げた。
 描き終わってから、血の止まらぬ指を横に向けて、
「アオイ…あ」
 言いかけてから今はいない事を思い出したらしく、僅かに苦笑した。
 普段ならアオイが口に含むだけであっさり止まるのだが、いない以上は仕方がない。
 別の呪符を出して傷口を包むと、上から軽く握った。
 そして何を思ったのか、五芒星を書いた呪符を地面に置くとその上に木刀の先を置いた。
 その中心点に置かれた瞬間、木刀はその中にゆっくりと姿を没し始めたのである。
 それは明らかに異様な光景であった。
 何の変哲もない紙切れに、木刀がずぶずぶと沈んでいく様はどこか手品にも見える。
 だが、呪符から微かに立ち上る血臭がそれを否定する。
 シンジはさして力を加えているようには見えない。
 にも関わらず、木刀は一定の速度で徐々に沈んでいく。そしてついにその全てが地上から姿を消した。
 完全に姿を消したのを確認してから、傷口に当てた札をはがすと傷は完全にふさがっており、どこにも痕跡も見られない。
 待つこと三十秒、
「出来たかな」
 呟くと同時に、シンジは指を小さく鳴らした。
 その音に反応するかのように、描かれた紋様の表面がざわざわと動き始めた。
 少し耳を澄ませば聞こえてきたはずだ−寄せては返す波のような音が−
 材料に使われた鮮血がいかなる効果をもたらすのか、やがてその表面は、はっきりと波立ちだした。
 とは言えあくまで呪符の上の事であり、紙の外に広がる動きではない。
 血のうねりは数分あまりも続いただろうか。
 やがて頂点を迎えた物か、収まり始めたそれを見てシンジは、にっと笑った。
 その笑みが意味する物は直ぐに知れた。
 中心点から何かが浮上し始めたのである。
 深紅に染まった木刀をシンジは満足げに引き上げた。
 一見すると色を塗っただけのようにしか見えない。
 だがそこから放たれる妖気が、そしていつの間にか浮かび上がった紋章が、生まれ変わったことを強烈に主張する。
 その証拠に見よ、それを手にしたシンジの目が赤光を放っているではないか。
 刀身の根本部分に掘られているのは−黒山羊。
 黒魔術の象徴として使われる事の多いこれが、ただの木刀であった代物をどう変えるというのか。
 そしてその紋章が人の精神(こころ)に、どう影響を及ぼし得るのか。
 シンジが軽く振ると、辺りにさっと妖気の欠片が飛び散った。
 それを見たシンジの口元に、満足そうな笑みが浮かぶ。
「これで無敵」
 奇妙な事を呟くと手にした木刀をひょいと肩に乗せ、ゆっくりと歩き出した。
 
 
 
 
 
(続く)

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