第二十三話
 
 
 
 
 
「何も知らぬ娘にしてはそれなりじゃな。ほめて遣わす」
「はい」
「ほほ、わらわの言では足りぬか、綾波レイよ」
「いえそれは…」
「まあよいわ。それならば、あやつから褒美でもせしめるが良かろう」
「あやつって?…」
「決まっておる、碇シンジじゃ」
「お兄ちゃん?」
「そうじゃ。口づけの一つもさせてみるが良い」
「く、くっ、口づけ!?」
「何を焦っておる、愚か者。それ以上の事も十分可能なのじゃ。よいか、このようにして…」
 身体を同一にする二人の間で、何やら怪しげな密談が行われた結果、戦果はレイが頬にキスを貰った事であった。
 妲姫は呆れかえっていたが、レイの方も物足りなさを見せた辺り、少しずつ妲姫の影響が出始めているのかも知れない。
 そう、本人も気づかぬ内に。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 濃いガラス越しに、朝日が目覚めを促している。
 ゆっくりと眼を開けたシンジの顔は、どこか機嫌良く見える。
 寝足りた、という風情ではない。
 だがよほど機嫌がいいとみえて、自分の足を枕にしているレイの寝顔を見ると、指で軽くつついたのだ。
 柔らかい頬が、指に押されて僅かにへこむ。
 二、三度押した後、その顔を数秒眺めていたがふと外に視線を向けた。
 爆発物など仕掛けられていないのは分かっているし、来たばかりのここで襲撃される可能性もかなり低い。
 それでも周囲に走らせる視線に、微塵も油断は見られない。
 周囲を確認すると、ゆっくりと起きあがった。
 とは言え、レイの頭が乗っているから除去作業が伴う。
 蒼い髪にそっと手を当てると、徐々にずらしていった。
 レイの寝顔は、どこか幸せそうにも見える。
 おそらくシンジとの夢でも見ているのであろう。
 レイの夢世界で、シンジはどんな役割を果たしているのか。
 とその時、レイがうっすらと笑ったのだ。間違いなく眠ってはいるから、おそらくは夢の中の出来事だ。
 だが、ほんの少しだけ口元を緩めたひっそりとした柔らかい笑みを見た時、シンジは一瞬だけ微笑した。
 ついこの間までは、笑うという動作などとは無縁の境遇にあったレイである。
 そのレイも、シンジと一緒にいるようになってから性格は大分変わってきた。
 とは言えシンジとユリ以外には基本的に興味は示さないし、何よりも物騒な妖女が目覚めたというおまけ付きではあったが。
 シンジがレイの寝顔を眺めていると、その口がわずかに動いた。
 笑みからくる物ではない、言葉を紡ぐ動作だ。
「おにい…ちゃん…」
 自分が夢に登場している、しかも微笑んでいるとくれば、気になるのは当然かもしれない。 
 人の夢を覗いてみたい、という欲求に駆られたシンジだが、人の夢を実体化して引き出せるのは長門病院の婦長補佐だけである、
 あくまで起こさぬように、そっとレイの頭を座席に移動させると、ドアを開けて外に出た。
 秋とはいえ、朝方の日差しはまだ強い。
 セカンドインパクト前から既に暖冬の気配はあったが、大災害後はいっそうの温暖化が進んでいるため、以前の初夏とさして変わらぬ気温である。
 町中で、半袖が大半を占めているのはそのせいだ。
 ふわ、と小さくあくびをしながら伸びをした。
 だがシンジの頭の中は、表情とは裏腹にあまり呑気な物ではない。
 碇ユイ・綾波レイ・そして妲姫。
 現在レイの体には三人がいるのだが、これをいかにして分離するか。
 いや分離自体は簡単なのだが、拒絶している場合にはやや事情が異なってくる。
 ユイがどうなろうと知ったことではない。
 いやむしろ、自分の手で始末出来ないのが残念なだけで、その安否には微塵も興味はない。
 それに妲姫の方は、殺しても死なないような女だ。三途の川に沈めても帰ってくるのは間違いない。
 シンジが気になっているのは、レイの事である。
 一人の人間にもう一つの人格、いわゆる二重人格と呼ばれる場合は、元は同じだから分離させても問題はない。
 ただし、ダミーを造れなければ移植先がないので、霊体(エクトプラズム)になる。
 そうなった場合、帰る場所を失った幽体離脱と同様になり、数十分で死亡、つまり消滅する。
 そのため、術の施行は他人格が元に深刻な影響を及ぼす場合のみとされている。
 なのにシンジがあっさりと分離を口にしたのは、ひとえにドグマで水槽を見た所為である。
 体の作りはレイと全く同じ、しかも魂は入っていないとくればこれ以上の移植体は無い、と言っても過言ではない。
 シンジは当初、妲姫とユイは一緒の体に入れておくつもりでいたのだ。
 であれば、文字通りレイは一人になるし、ユイも自らが始末できるからだ。
 だが…
 
 
 
 
「ダミーの始末を妲姫に?」
「プライドが許せんらしい。数千年で初めての不覚だと、随分と激怒していたのは知っているか?」
「少しだけ驚いた」
「その通りだ。だが、実の所は違う」
「違う?本音と建て前?」
 それを聞いた時武人はふっと笑った、ような気がシンジにはした。
「かもしれんな。いや、実際には俺が見たいのだ。あの女が碇ユイをどう滅ぼすのかを、な」
「本体への介入は無用だよ」
「分かっている、シンジよ。魂までも賭けて憎悪する相手だ、それを妨げるような真似はせぬ。俺の名において」
 
 
 
 
 
「妙に妲姫に肩入れしてる気がするけど…」
 ぶつぶつ言ってはみたものの、シンジ一人ではやや手に余るのは事実だ。
 それに加えて妲姫が、あれ程自分の激情をあらわにさせたユイをどう料理するかという、多少怪しい感情が働いたのも事実である。
 だから承知した。
 しかしそれはそれで新たに問題が出てくるのだ。
 妲姫とユイを分離しなければならないが、ユイが拒絶した場合どうなるか。
 いやそれ以前に、シンジにはユイとコンタクトを取る気などない。
 従って強制剥離という事になる。
 とは言えそこにレイが巻き込まれた場合、彼女の人格にどう影響が出るのかは、シンジにも想像は付かなかった。
 客観的に見て耐性が一番弱い者、しかもそれが本体であった場合、最悪の場合には廃人化もありえるのだ。
 多重人格の域を出ない物であれば、長門病院の神経内科へ連れて行けば事は足りる。
 本体には殆ど影響なく、余計な物は削除してくれるはずだ。
 ただし、現時点で妲姫がユリと敵対している以上、連れて行くわけには行かない。
 何よりもレイも妲姫も完全に別人なのだ。
 とは言え、ユイの自我がはっきりしており、しかもシンジに妖しげな野望を抱いている以上、迂闊に剥離は出来ないのだ。
 いずれにせよ、まずは妲姫とレイを別体に移植するのが先決になる。
 ついでレイとユイ、という順になるのだが果たしてそう行くかどうか。
 考え込んだまま、車に戻ったシンジ。ふと腕を見たが、そこに時計はない。
 レイに譲ったのを忘れていたのだ。後部座席を見るとまだレイは眠っている。
 だがその腕には、時計はない。もっともロレックスの紳士物だから、あまり腕にする物ではないのだが。
 69179Gはどこに行ったかと、ふと胸を見るとわずかに膨らんでいる。
 何の躊躇いもなく手を伸ばしたのはいいが、車の時計を見なかったのは何故か。
 ブラウスのポケットに細い指が伸びて、時計を探り当てる。
 ところが引き出そうとした時、その指が止まった。
 シンジの指は、わずかな突起を感じ取ったのだ。つまり、ブラジャーは着けていないという事になる。
(そう言えばノーブラだった)
 シンジが指を引き出そうとした次の瞬間、レイの目がぱちりと開いた。
「あ…」
 言いかけた時、レイの視界にシンジの手が映った。しかも自分の胸元に差し込まれている手が。
 レイは何も言わなかった。黙ってその手を、両手で包んだのである。
「時計、見せてくれる?」
 レイはすぐには答えず、数秒考え込んだ。とりあえず怒っている様子はない。
 そして、
「私の胸、じゃないのね」
 と言った。
 美少女にこう言われて、どう反応するのが健全な青少年の物なのか。
 シンジはあっさりと、
「時計に会いたいんだ」
 無粋きわまる台詞と共に、ポケットから時計を取り出した。
 見ると六時少し前を指していた。出るにはいい時間だ。
「レイちゃん、よく眠れた?」
 時計を渡しながら訊ねる。
 レイの方はゆっくりと起きあがったが、まだどこか夢の世界にあるのか、両手で目をこすっている。
 約十秒ほどしてから、
「はい…」
 と返事があった。
 それを見て思い出したのか、
「ところで、何の夢を見ていたの?」
 覚えてはいないか、と思ったが一応は訊いてみた。
 ところがほぼ完璧に覚えていたらしく、一瞬で顔が紅潮したのである。
 わずかに宙を仰いだシンジ。妖しいという事だけは明確に分かったのだ。
 触れない方が賢明だと判断して車のエンジンをかけると、ツインターボの奏でる重低音が、早朝の静寂を破った。
「あ、待って」
「え?」
 起きあがったレイが、助手席に移ってきた。
「酔うの?」
 黙って首が振られ、車内に沈黙が漂った。
 車が走り出してしばらくは、二人とも無言であった。
 シンジは術をどうしたものかと思案中だったし、レイもどこかぼんやりと外を眺めていたのだ。
 レイが動いたのは、車が高速に入る直前であった。
 袋からパンを取り出すと、コーヒーも開ける。
 通行券を受け取ったシンジは末尾の数字を確認した。高速道路での速度監視カメラがほぼ廃されたのは、対赤外線用のナンバープレートの功績が大である。
 明らかにスピードを超えていても、割り出しが出来なければ検挙は出来ない。
 無論当局も対策に躍起にはなったが、法の目を潜る物が高い需要を得るのは常識であり、圧倒的な売れ行きに後押しされ、ついには企業の前に警察が屈したという経緯がある。
 その代わり、当局が力を入れたのが覆面であった。
 アルピナやらAMGやらの配備に加え、フェラーリやポルシェまでも配備した県警すらある。
 そのため、カメラは減少したが検挙率は大幅に上がり、国家予算に組まれていると噂される反則金を増収させるという奇妙な結果になった。
 ただし、それもセカンドインパクトまでの事であった。
 災害に因る人員の減少に加え、維持に回る予算そのものも大きく削除された。
 何よりも、違反者自体が否応なしに減っている以上、取り締まりの予算も削減されてしかるべきだ、と言う理由が元で減少の一途を辿った覆面は、現在ではほぼ絶滅している。
 ユリのGT−Rが好きなように走って帰れたのは、そのおかげである。
 もっとも並の覆面では、到底追いつける相手でもないのだが。
 ナンバーが印刷されていない事を確認してから、アームボックスに入れようと横を向いた瞬間、
「はい」
「え?…む…」
 この時を待っていたものか、レイが手にしたパンを口に入れたのである。
 さすがに吐き出す事はせずに、取りあえず飲み込んだ。
「なにこれ」
「お兄ちゃんのご飯」
「いや、そうじゃなくて」
「手を離したら危ないでしょう。だから私が食べさせてあげる」
 だがシンジは、  
「片手運転は慣れてるよ」
 と言うと、レイの手からパンをひょいと取った。
 一口だけかじると、またレイに渡した。
「え?」
「あまり空腹じゃないしね。それにレイちゃんに買った物だから、君が全部食べるといい。お腹空いたでしょ」
「うん」
 とは言ったものの、食欲よりは睡眠が不足している筈だ。体力を使った割には、睡眠時間はさして無かったのだ。
 それでも、シンジにあっさり断られたのが少しショックだったのか、シンジが口を付けた部分をしばし見ていたが、その部分をゆっくりと口に入れた。
「おいしい」
 呟くように言った声に、わずかに余韻が感じられたのは気のせいか。
 食べ終えて、レイは少し座席を倒した。そのまま背もたれに合わせて身体を傾ける。
 身体を傾けたまま、外に眼を向けると流れていく景色を眺めている。
 数分してシンジの手がコーヒーに伸びた時、不意にレイが振り返った。
 
 
 
 
 
「これがシンジ様の妹」
「気になるかしら、モミジ?」
 土御門邸のモミジの主寝室。
 シンジに同い年の妹が出来たと聞いても、顔色一つ変えなかったモミジだ。
 だが、写真を見せられた瞬間顔色が変わった。
「アオイ様、この娘…」
「見覚えがあるの?」
 うっすらと微笑しながら言ったアオイに、
「どうしてこの娘をシンジ様がお側に…」
「そっくりではないけれど、面影があるでしょう?」
「はい」
「その子はクローンよ。そしてクローン元はユイ叔母様」
 それを訊いても、モミジは数秒考え込んだ。
 そして、
「いつ始末なさいますの?」
 と訊ねただけだ。
 無論シンジのユイに対する感情は承知しているのだが、この場合の問いはレイごと一緒に、という意味だ。
 モミジの感情が多少表れているのかも知れない。
 アオイは軽く首を振った。
「彼女とは別人、しかも他にもいるとシンジから聞いているわ」
「他にも?」
「そう、他にも。モミジ、この名前を聞いた事は無いかしら。妲姫という名前をね」
 妲姫…とモミジが呟いた時、部屋の空気がひんやりと冷えた。
 
 
 
 
 
 何となく振り向いた、というよりは切り出す機会を待っていたように見えるレイ。
「お兄ちゃん、夢は…よく見るの?」
「夢?」
 唐突な質問に、缶を持ったまま聞き返したシンジ。
「そう、夢」
「見ることはあるよ。いつもじゃないけど」
「私は見た事が無かったって言ったでしょう。お兄ちゃん、憶えてる?」
「憶えてるよ。でもって初めて見たのが、僕が何処かに行きかけた夢だった、そう言ったね」
「前は全然見なかったのに、最近はよく見るようになったの。なぜかしら」
「見たくないの?」
「違うの、ただ…」
 言いかけて躊躇っているレイ。言い淀んでいる間に、再度缶を取り上げるとぐいと傾けた。
 適度な熱さの液体が、食道を滑り落ちていく。
 250ml入りの缶を一気に開けると、ちらりとレイを見た。
 確信があったわけではない。いやむしろ、自分でもよく分からない咄嗟の言葉であったに違いない。
 シンジは、
「怖い夢を見るの?」
 と、訊ねたのだ。
 一瞬変わった表情を見て、シンジは図星だったのを知った。
「夢、じゃないかも知れない。でも夢かも知れない…」
「良い夢はどんな夢?」
 答えを半ば想像しながら訊ねたシンジ。
「お兄ちゃんといる夢」
 単純明快な答えが返ってきた。
「例えば?」
「お兄ちゃんはいつも私に優しくしてくれるの。そして…」
 何やら紅くなったレイを見て、中和はもう良しと、
「良い夢は僕の夢、それは分かった。で、そうじゃない方は?」
 その瞬間、レイの身体がびくりと震えた。
「わ、笑わないで聞いてくれる?」
「勿論」
 短いが、柔らかい口調で言われて安心したのかゆっくりと話し出した。
「見たこともない場所に私がいるの。周りの人も景色も、私が一度も見た事が無い場所に。私の横に誰かがいて、私は台の上から下を見下ろしていて…そこにはエヴァと同じような大きさの鉄の柱が…」
「続けて」
「その柱が、真っ赤になっているの。まるで、火の中に鉄の棒を入れて熱したような感じ。でもそれだけじゃないの」
 レイの言葉が止まった。言う事はあるが言葉がうまく見つからない、そんな感じにも見える。
「わ、私がその巨大な柱を見ているの…そ、そして…その柱の上に人がいるの…」
 そこまで聞いた時、シンジの眼に一瞬凄絶な光が満ちた。
 レイの夢が解けたのだ。
「紂王」
 呟くように言ったシンジにレイは、え?と言うように顔を向けた。
「真っ赤に熱された鉄柱の根本には猛獣が放たれている。どれも血の味を覚えた獣ばかりだ」
 歌うように言ったシンジに、レイは驚愕の表情を隠さなかった。
「ど、どうしてそれをっ」
 シンジは更に続けた。
「最初は罪人達だった。いくらなんでも、いきなり無辜の民を愚戯の生け贄には出来ないからね。だが罪人と言っても限りがある。少し経てば在庫は底を付くさ。そこで目を付けたのが農民達。とは言え強引に罪を着せた者達だ。凶作でやむなく上納が出来なかった農民達を、怠慢だと決めつけて罪人としてしょっ引いてくる。レイちゃん、すり切れた着物を着ている人々を見なかった?」
「ええ…」
「ある者は柱の上で、全身を焼け爛れさせて死んでいったし、ある者は足を踏み外して落ちていき、猛獣たちの餌になっていった。これを妲姫の発明した炮烙(ほうらく)の刑と言う」
 講義でもするような口調で言った後。
 不意にシンジが横を向いた。そしてレイの眼をじっと見つめた。
 危険行為だが、ハンドルに乱れがないのは大した物である。
「な、なあに」
 レイの表情に、僅かな動揺が浮かんだ。
 どこか、シンジに見透かされたのを恐れるような節がある。
「君は何をした」
 とシンジは言った。
「わ、私?」
「そう、綾波レイだ。君はその光景を見ながらどうした?怯えた?それとも?」
 人肉の焼け爛れる匂いに凄まじい快感を見いだして、ある時は公衆の面前で自慰に耽り、ある時は王に後ろから貫かせたと言う。
 はたしてレイはそこまで知っているかどうか。
 ややあってから、レイの首がゆっくりと振られた。
「わからないの」
「とは?」
「いつもそこで目が覚めて…いつも同じ部分を夢に見るの。でもそれは私じゃない。私はそんな事は知らないし、エヴァより大きな熱した柱なんて見た事もないもの」
「だから夢ではないかも知れない、と?」
 そう聞いた時、既に視線は前に戻っている。
「分からない」
 レイはもう一度繰り返した。
「全く知らない事を夢に見るなんて…どうしてなの?私には、分からない」
 取りあえず、最悪の結果までは至っていないようだ。
 しかしながら。
 レイの夢がそこまで及んでいたとしたら。
 何故そこまで訊ねたのか、シンジよ。確かにレイが、夢の影響を受けている兆候は見られない。
 だからと言って、同い年の少女の口から引き出す内容でもあるまい。
「それは君じゃないよ」
 視線は前に向けたまま、シンジは短く言った。 
「私じゃないの?」
「その通り。でも少し違う」
「え?」
「君にして君にあらざる者−妲姫だ。かつて数多の王朝を、その妖しい魔力で滅ぼしてきた妖女。そしてこの日の本をも滅ぼすべく謀ったけど、八百万の神國はそんなに甘くない。時の陰陽師に討たれる事になったあげく、とある荒野で殺生石と化し荒れ狂ったと言われている−もっとも」
「も、もっとも?」
 訊ねた時、既にレイは上半身を乗り出している。
「どの辺までが本当なのかは分からない。封印の中で暫く大人しくしていたのは事実らしいけれどね。けどそれはレイちゃんには関係ないよ。手術が済めば、そんなのは見なくなるさ、多分ね」
「……」
「君は今まで、ATフィールドを実体化させる力を持ちながら、その使い方は知らなかった」
 小さく頷いたレイ。
 それを視界に入れながら、
「でも妲姫が目覚めた事でそれを知った、つまり普通を越えた力を身につけた事になる。何かを得ると何かを失うってのはよくあるけど、君の場合は余計な物も得た事になる」
「余計な、物?」
「そう、妲姫の記憶だ。多分あいつが見せている訳じゃない。意識が流れ込んだ時に一緒に受け取ったんだと思う。でも、無論それはレイの記憶じゃないし、レイの所行でもない。ホラー映画が夢に出てくるような物だね」
 レイがホラー映画など知るはずも無いのだが、それを聞いたレイは暫く考え込んでいた。
「姫様の記憶なのね…」
 そうなる、と言いかけてふとシンジは訊ねてみた。
「レイちゃん、それ以外の事を夢に見る?」
「それ以外って?」
「自分は見た事もした事も無いのに、何故か夢に出てくるような事を」
 シンジの頭にあるのはユイの事であった。
 妲姫の記憶がレイに影響を与えているなら、ユイもまた影響を及ぼしている可能性がある。
 綾波レイが碇ユイの記憶を持ったとしたら。
 その時にシンジの取る行動は一つしかない。
 レイが僅かに首を傾げた時、前を向いたままのシンジの表情が鬼気にも似た物を帯びていた事を、レイは無論知らない。
 少しの間考えていたレイがゆっくりと首を振った時、シンジから漂っていた危険な気はふっと消えた。
「それはよかった」
 とシンジが言った時、それは単にレイの身を案じてでは−なかったのである。
「夢は現実の続き…」
 ぽつりとレイが呟いた。
 見た夢に怯えている、といった感じではなかった。
 かといって、無論喜んでいる様子にも見えない。
 ただ、どちらがより大きくレイの感情を占めているのかは、その表情からは伺う事はできなかった。
 シンジと同居以来伸ばしているレイの髪は、半顔を覆うには十分な長さになっていたのである。
「でもその現実が自分の物ではない時もあるね」
 シンジがそう言ったとき、レイは頷いた。
「近いうちに手術(オペ)はする。それまでだからもう少し待って」
 だがその言葉を聞いてシンジに向けた視線には、怪訝な物が感じられた。
「お兄ちゃん手術って、なに?」
「人格剥離」
 一言だが、レイには明らかに難解である。?マークを顔に付けたレイに、
「本来は二重人格の患者に施す物だ。もっとも、人格と共に体も変貌するほどの重度でないとやらない。ただしユリさんとこの精神科で治せるのは、あくまでも人格の除去作業だから、レイちゃんのように元が違う場合には、土御門系の術−要するに僕が執刀医になる」
 この説明で理解する方が無理である。
 よく分からない、と呟いたレイに、
「僕に言えない、でも僕にして欲しい事はある?」
 いきなり訊いた。
 直球の質問だがレイはあっさりと頷いた。
 頷いてからしまったという表情になると、
「な、何もないわ。ほ、本当なのっ」
 感情を見せるようになってから、隠すことはやや忘れ気味の傾向にあるらしい。
 それを聞いたシンジは、
「怒らないから白状してもらおう。さ、きりきり吐いて」
「な、何でもないわ。そうなんでもないの…」
「事と次第によっては、叶えてあげてもいいんだけど」
 そう言ってにこりと微笑(わら)ったシンジ。
 アオイとユリなら、その邪悪を含んだ笑みを看破したはずだ。
 だが生憎ここにいるのは、シンジとの付き合いがさして長くない綾波レイである。
「ほ、ほんとに?」
 聞いた瞬間レイの顔がぱっと輝いた。
 にやあ、と笑って頷いたシンジに、
「前に…一晩中私の手を握っていてくれた事があったでしょう?」
「それをもう一度、と?」
「ううん、違うの」
 レイは軽く首を振って否定した。
 
 
 
 
 
「クローンなら、オリジナルの記憶が目覚める事はあっても人格が別個になる事はない、確かそう記憶しております」
「その通りよ。人格分裂症でもないし多重人格でもないわ。この子の中には、人間が三人いるのよ」
 それを聞いて、
「肢体の変化は?」
 と訊ねたのは、さすがに土御門の当主代理といえよう。
 アオイは軽く頷いた。
「でもどうして妲姫が」
「元はユイ叔母様の中にあったそうよ。それがシンジの治療ミスで目覚めたと言っていたわ」
 その瞬間、僅かにモミジの口元がひき攣った。
「治療ミス…」
 呟いた声はどこか強ばっていた。
「大丈夫よ、ユリがかけたのを解いただけだから」
「でっ、でもっ」
 言いかけてから気づいた−目の前にいるのがアオイだと言うことに。
 そしてその美貌が、限りなく深い微笑を浮かべていることに。
「綾波レイ嬢に、叔母様の記憶は全くないわ。もっともその方が彼女には幸せね」
「え…」
「綾波レイが碇ユイの記憶を持った時」
 とアオイは言った。
 そして、
「シンジが彼女をどうするかは考えなくても判るでしょう」
 歌うように、だが冷え冷えとした口調で言った。
「はい。でもどうして妹などに?」
「別人だからでしょうね。もっともただの気まぐれかも知れないわ」
「シンジ様らしいですわ」
 モミジがくすっと笑った。
「そうね。でも安心なさい、モミジ」
「な、なにをでしょう?」
 言葉とは裏腹にうっすらと紅くなった表情が、答えを既に知っている事を物語っている。
 アオイの手がすっと伸び、モミジの顔に掛かった。
「ア、アオイ様…」
「あの子を可愛がったりはしないから。そう、あなたを可愛がるようにはね」
 アオイの口元に妖しい笑みが浮かんだ。
 
 
 
 
 
 シンジが僅かに首を傾げた。
 顔の動きに伴って、綺麗な髪がふわりと揺れた。
 少年の、と言うより男の物とは到底思えぬような、どこか色香さえ漂うような髪にレイはしばし見とれていたが、
「で、何を願っている?」
 前を見たままのシンジに訊ねられて、我に返ったらしい。
「あ、あのね…だ、抱き枕なの」
「は?」
「だ、だからその…よ、横にいてくれたらもっと良い夢見られるかなって…お、思ったの」
 レイの変貌ぶりは既に知り尽くしている。動じる事もなく、 
「横にいて手を握っている、じゃ駄目なの?」
 と訊ねた。
 するとレイが手を伸ばして、シフトノブに置かれているシンジの手に触れた。
「なに?」
「お兄ちゃんの手、暖かい」
「平熱は少し高いけどね。それで?」
「私の体温低いの。だからお兄ちゃんに横にいてもらうときっと暖かいの」
「ああ、体温調節ね。でもそれなら布団で十分調節」
「それは駄目」
 あっさり否定された。
「物足りないの?」
 シンジが何でもないことのように訊ねたせいで、レイも思わず釣られたらしい。
「私と一緒に寝る事。それはとてもとても気持ちのいい事なの。だから…」
 そこまで言った時、不意にレイは気づいた−自分に向けられている視線に。
 冷やかしでも嘲笑でもない。まして怒りなどではなく、単に眺めていると言った方が近いようなシンジの視線であった。
 だがそれが急に羞恥を喚起したらしい。
 俯いて、自分の両手の指を絡み合わせて何やらもじもじしている。
 ちらちらとシンジの方を見ているのだが、
「ふうん。でもそれは駄目」
 と、にべの欠片も無いシンジ。
「もう…お兄ちゃんのうそつき…」
 と、少し拗ねて見せたが怒っている様子はない。
 しかしながらこんな表情を、一体誰に教わったものか。
「妖しいお願いはまた別の話として。レイちゃんのは一応可愛い部類の欲求だけど、他人を殺したいという物もある」
 それを聞いた時、レイの表情が一瞬強ばった。
「こ、殺す?…」
「そう。例えばレイが僕を…」
「違うっ!」
 言い終わらぬ内に、叫ぶようにしてレイが遮った。
「私は絶対にそんなことはしないもの。お兄ちゃんを殺すなら私を…」
 その唇に、すっとシンジの指が伸びた。
「それは分かってるよ。でもその先は言っちゃ駄目、いいね」
 こくん、と頷いたレイに続けて、
「人は誰しも、内心ではああしたいとかこうしたいとか思ってる事はある。でもそれが叶わない場合も結構多い。普通はそれを抑えて人は生きているんだけど、例外もあったりする。要するに、欲求が理性で抑制出来る範囲を超えた場合の事。それが他人格になったり、或いは」
「あ、或いは?」
「幽体その物が離脱して、暴れ回る事すらある。初期の段階でなら精神科医で直せる場合もあるけど、ある程度進むと医学の範疇からは逸脱するのが事実だね」
 しかしながら実際の所、同一人物にもう一つの人格が現れる症状−いわゆる二重人格に付いては、不明な点も多い。
 酒を飲むと人が変わる、これも狭義で言うならば二重の人格かもしれない。
 だがそれ以外に明確な、すなわち明らかに別個の人格と言える症例も多々発見されてはいる。
 酒を飲んで暴れる物と、体躯すら変化する物を同一視はできまい。 
 そして二重存在(ドッペルゲンガー)。
 似たものが世の中には五人はいる、の類ではない。
 明らかに同一人物が、つまり自分がもう一人いるのだ。
 ただ、これに関しては自分を見た場合、数分或いは数時間以内に死亡するとされる事もあっていささか物騒だ。
「直らなかったら…どうなるの?」
「強制排除になる。つまり人格が入れ替わった時を見計らって」
 そう言うと、左手で首を薙ぐ仕草をして見せた。
「それ、なあに?」
 答える代わりにシンジは、ふっと笑った。
 実のところ、シンジがしたのはこれである。
 すなわち、肢体の変貌を確認した上で入れ替わった段階で始末する。
 だが。
 患者、あるいは赤の他人ならいざ知らず、妹と認めた少女に死の刃を向けるとは。
 綾波レイがそれを知らないのは、ひとえに妲姫が封じていたからに過ぎない。
 もしもレイがそれを知ったら…いや、それさえもシンジにはさしたる事では無いのかも知れない。
 とは言え、人格を分離する時にはレイを気にしながらその一方では、レイの肢体を持ったユイを殺さんと謀る。
 やはり通常では、その精神は到底計り知れない物と言える。
 ふと会話が途絶え、車内に静寂が漂った。
 シンジの手が二本目の缶に伸びた時。
 すっと伸びたレイの手が、シンジの手をおさえた。
「ん?」
「私が取るから、ちょっと待っていて」
 白い手が缶に伸び、たおやかな指がプルタブを開けた。
「はい」
「ありがと…え?」
 レイは直ぐには渡さなかったのである。一瞬シンジの手が空を泳いだ。
 シンジの手を、レイの右手がそっと捉えた。
 左手の缶をゆっくりと動かして手に持たせる。
 そして、
「お兄ちゃん」
 どこか甘い声で呼んだ。
 レイの手から逃れて半分ばかり一気に空けてから、
「何?」
 と訊いた。
 缶を置いて空いたシンジの手を取ると、そっと頬に押し当てた。
「手形?」
 身も蓋もない言葉だが、レイは気にする事もなく、
「お兄ちゃんと会うまで、私は夢を知らなかった。単語として知っていただけ。それがお兄ちゃんに会ってから色々な事が変わった。楽しい事も笑う事も私は知ったの。だから…私はいいの」
「いい?」
 聞き返したシンジだが、片手を奪われたままの姿勢はどこか奇妙にも見える。
 既に車は四速で速度を二百キロにまで上げている。
 その速度でありながら、運転手のやや不安定な姿勢にもブレを見せないのは、強化された足回りとボディ剛性のおかげである。
「言ったでしょう。側にいるだけじゃ嫌だって」
「そう言えば」
「今の私はATフィールドを使う事は出来るわ。でもそれは私が憶えた事じゃない。姫様に教えられた事。だから私は感謝しているの、姫様に」
 感謝ねえ、とはシンジは口にしなかった。
 だが確かにレイにしてみれば、能力を開花させてくれた人と思っているのかも知れない。 
「だから前の事を夢に見ても私は構わない。それに」
 手を握る力が強まった。
「お兄ちゃんの夢を見たときは、いつも起きた時に気分がいいもの。いつも…その…優しくしてくれるから」
 いったんは気にしない事にしたのだが、いったい何の役目を自分は果たしているのかと、さすがに気になったシンジ。
 手を預けたまま、
「僕に添い寝させたいとか思っているのは分かった。で、夢の中では?僕は君に何をしているの?」
 と再度訊ねた。
「…言わない…」
 小さな声で呟くようにレイが言った。
「ふうん、言わない?」
 シンジの声に邪悪な物が混ざりかけたのを、敏感に感じ取って慌てて、
「だ、だって…お兄ちゃん、お、怒るかもしれないもの」
「怒らない、と約束しよう」
 どこか反古にするぞ、とでもいう響きが感じられるのだが、それがレイにも通じたものか、
「本当に?」
 と訊ねた。
「うん」
「怒ったりも、その…お仕置きもしない?」
「と言うと?して欲しいの?」
 すっと手を引き離して聞き返した。
「ま、また今度…ち、違うのっ、も、もういいの」
 逃がさない、とでも言うように再度手が捉えられた。
 添えられた手には強い力が込められている。離す気はないらしい。
「そう。じゃしない。で、何?」
「あ、あのね…」
 耳どころかうなじまで真っ赤に紅潮させて、レイはシンジの耳に口を寄せた。
 いかなる楽しい夢について語られた物か、車内にどこか妖しい空気が漂った。
「良い夢だね」
 その言葉に何を感じ取ったのか、レイの顔から紅潮が消えた。
「お、怒ったの?」
「いや、違う」
 良かった、と安堵の表情を見せたレイに、
「怒らないと言ったら怒らないよ。それよりもどこへ行くか訊かないの?」
「うちへ帰る、のではないの?」
「違う、脱走だ」
「脱走?」
「独房入りになったの忘れた?レイちゃん」
「あ…」
 表情からして、完全に忘れていたらしい。
「追ってきたのを片づけたでしょ」
「お兄ちゃんの敵は許さない。いえ、この地上に生きている事は絶対に許さない」
 そう言った時、一瞬に綾波レイの紅い瞳に凄絶な光が宿った。
 すっとシンジの右手が引き離されて、レイの頭にそっと置かれた。
「レイが手を染める事は無いよ。僕とは違うんだから」
 言った瞬間、ミスを悟ったシンジ。
 レイの雰囲気がすうと変わったのだ。
 どこか甘えるような雰囲気だったのが、顔から血の気が引いていき文字通り白蝋のような顔色になった。
「わ、私は…お兄ちゃんには邪魔なの?私は、私は…いらない子なの?」
 存在価値を否定されたと思いこんだのか、瞳にはみるみる涙があふれてきた。
 さすがにこれはまずいと、目尻に指をあててそっと拭ってから、ゆっくりと首を左右に振った。
「そんな事はないよ」
 かのドン・ファンも真っ青になりそうな、甘い声で囁いた。
 高速クルージング中で静寂度は低い。
 だがそれでもレイにははっきりと聞こえたらしい−潤んだ瞳のまま、
「私…邪魔じゃ…ないの?…」
 と訊ねた。
「邪魔ならわざわざ一緒に行かないよ」
「どこへ?」
「本当は僕が片づける気だったが、やむなく猫に譲った。初めてなのに見事に片づけたからね。僕と何処かに行きたいってこの間言ってたでしょ」
「これから何処かに行くの?」
 安堵から喜色に変わったのを見て内心でふう、と息をついたシンジ。
 妹を持つのは、車のコンディションを保つよりよほど大変かも知れない。
 何となくそんな気がしたが、無論口には出さない。
「房総に紅葉を見に行く。多分きれいだと思うよ」
「あの…ネルフの方はいいの?」
「ユリさんに連絡はしてあるよ。使徒が遊びに来たら、松戸基地から迎えを出して空輸してもらう。一時間くらいの足止めなら出来るだろうしね。それよりレイ」
「え?」
「着いたら起こすから、それまで寝ておいで。睡眠は足りてないでしょ?」
「ええ、そうするわ」
 とは言ったものの、何故かシンジから視線を外さないレイ。
 横顔に奇妙な視線を感じて、
「僕の顔に何か付いてる?」
 と訊いた。
 ふるふると首を振ると、
「ううん、違うの。ただその…お兄ちゃんの夢見られるようにと思って…」
「そういうのは見なく…」
 見るなと言いかけて、炮烙の夢よりはましだと思い直した。
「僕で良ければ良い夢に出演させてもらうとするね。じゃお休み」
 寝息を立て始めたレイを見て、シンジはふっと笑った。
「レイの夢、一つだけ叶えてあげる…初めてで、しかも大の男をあっさりと始末してみせたご褒美に、ね」
 そう言った時、シンジの目にはどこか危険な光が宿っていた。
 アクセルにひときわ力が加わり、車は狂ったように加速し始めた。 
 
 
 
 
 
(続く)

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