第二十二話
 
 
 
 
  
 
 最初は敵だと思っていた。自分に唯一向けられる思いを奪っていく敵だと。
 何時からだったのか。
 一言褒められるだけで心から嬉しくなれたり、側にいるだけで心が安らぐようになったのは。
 何時からだったのか。
 着替えた時に、自分の評価よりも更に優先して、気になる評価があるようになったのは。
 自分が選んだ下着でもないのに、いいと言ってくれないと、何かが欠けているような気になる事がしばしばある。
 完全に寄りかかって、何よりも大切に思う存在。
 だが、少女は気づいていない。
 自らの手を紅に染める事も厭わぬ程の想い−実はそれが、双方の想いの上に成り立ってはいないことを。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 レイを車に残して、シンジは店に入った。
 パンを幾つか籠に放り込み、ついでにコーヒーも入れる。
 一見、予め決めてから選んでいるように見えるが、実際は違う。
 無論パンの種類に迷っている訳ではない。
 ユイが見せた、ATフィールドの使い方が気になっていたのだ。
 地中に札を埋め込み、時間差で作動させるのはシンジもよく使う手だし、ユリの糸も珍しいことではない。
 何よりも、アオイの術は幾度も見てきたシンジなのだ。
 だが、ATフィールドは違う。
 本来は使える物ではない。人の心の心象風景を、そのまま武器にするようなものだ。
 多角形の壁だけならば分からない事もない。二重存在(ドッペルゲンガー)の症例の中には、自らの霊体を目に見える形で出せる者もいるのだ。
 しかし、妲姫はそれを手から飛ばしてリツコにぶつけた。
 その妲姫でさえも、地中から時間差で発動させるのは無理だと聞いた。
(別人、じゃないのか?あれは…)
 勝てない相手、とは微塵も思わない。
 一人では難易度が高いにせよ、相棒を造ってあれば確実に始末できる相手だと踏んでいる。
 何よりも、人格が入れ替われば肢体もまた変化(へんげ)する事は分かった。
 つまり、後腐れは完全にないのである。 
 始末の不可は既に意識にない。
 ただ、妖術に近い術を見てきたシンジでさえ知らぬとあって、好奇心が湧いたのだ。
「時間差、か…」
「はい?」
「え?…あ」
 かごをレジに持っていった事に、気がついていなかったらしい。
 レジの娘が、怪訝な顔でシンジを見ていた。
「な、何でもないです」
 慌てて誤魔化したが、
「彼女の事でも、考えていたのかしら?」
「は?」
「想い人、いるんでしょう?」
 ふっと、シンジが真顔になった。
「どうしてそんな事を」
「あなたから女の子の匂いがするから、と言ったら納得する?」
「…最近はそういう香水もあるんですよ」
 娘はそれ以上何も言わず、袋に品物を入れて差し出した。
(女の子の匂い?僕から?…)
 一瞬考え込んだシンジだが、実は匂いなどではない事は知らなかった。
 何のことはない、店の前に止めてある車の中からレイが窓を開けて、シンジの方をじっと見ていたのである。
 その視線に、ある種の物を感じ取ってカマを掛けたに過ぎないのだ。
 まんまと当たって、その娘がくすくす笑った事にシンジは気づかなかった。
 シンジが車に戻ると、レイは後部座席で窓に身を持たせ掛けていた。
「適当に買ったけどいい?」
 こくんと頷いたレイ。
 だが、どこかおかしい。どうも落ち着きがないのだ。心が上の空のようにも見える。
 いつもなら、すぐにシンジは気づいた筈だ。
 だがシンジの方も、ユイが見せたATフィールドの使い方に思考が移ったままで、気づく事は無かった。
 数秒考えてから、
「走りながら食べても良いけど、先に此処で食べる?」
「うん」
 運転席に座り掛けたが、後ろのドアを開けて乗り込んだ。
 袋からパンを出してレイに渡したが、何故かレイは受け取らなかった。
「どうしたの?」
「…あのね、お兄ちゃん…」
「ん?」
「私、その、あの…」
「ん?」
 シンジは急かさなかった。
 無論強引に引き出すのは可能だが、まれに影響が残るので頻度は上げない主義だ。
 もっとも、言いよどんでいるのを引き出すのは面倒くさいと考えているのか、レイの事を考えてなのかは分からない。
 レイは俯いたままだ。そしてその手は何故か、ぎゅっと握りしめられている。
 横顔を眺めていたシンジ、ふとレイの顔が染まりだしているのに気づいた。
(照れてる?それとも何か飲んだかな?)
 だが、確実にレイの頬は赤く染まっている。
 そしてちょうど三分後。
「どうしたの、レイちゃん?」
 その声に、弾かれたようにレイの顔が上がった。
「わ、私、邪魔じゃなかった?」
「邪魔?」
 さすがのシンジも、レイの言葉が図りかねて訊ね返した。
「お兄ちゃんの側にいるだけじゃ嫌。だから、その…」
「ああ、あれね」
 意図は読みとったらしい。
「そんな事はないよ。お見事だった」
 普通に考えれば、誉める場面では到底無いのだが、
「本当に?」
「うん」
 レイの紅潮が度合いを増している所を見ると、効果的な答えだったらしい。
 が、いまいち自信を持てなかったのか、
「本当の本当に?」
 と聞き返した。 
「うん」
「本当の本当の本当に?」
 どことなく鬱陶しい問いだが、シンジは飽きもせず、
「本当の本当の本当に」
 ご丁寧に繰り返して答えた。
「そう、良かった」
(は?) 
 内心で首を傾げたのもむべなるかな、レイの口元にかすかな、そうシンジでなければ気付かぬような笑みが浮かんでいたのである。
 一体何を企んでいるのか。
「じ、じゃ…」
「ん?」
 どうやら現時点でのレイの思考は、シンジのそれを越えていたようだ。
 この時点で、シンジにはレイの発想が分からなかったのである。
 陶器とも見まごうほどの、白い顔を最高まで紅潮させて、それでもレイは何やら言いだしかねている。
 膝の上に置かれていた右手が、ゆっくりと動き出した。
 その行き先は自らの右胸。
 胸にほんの少し、指の先が触れた瞬間、
「あ…んっ」
 棗のような唇から、かすかに喘ぎが洩れた。
 ゆっくりと手が動いて胸を目指した時も、シンジは何ら反応を示さなかった。
 だが、レイの口から喘ぎが洩れた瞬間、一瞬だが表情が動いた。
 レイの意志には非ず−シンジにはどう映ったのか。
 しかしレイの手は、そのまま胸に触れて停滞したままだ。
 もみしだく訳でも、撫で回す訳でもない。
 とは言えその手が下りずに止まっている所を見ると、全面解放された訳でもなさそうだ。
 口元を半開きにしたままの、レイの眉が僅かに寄ったのはどうしてだったのか。
 シンジは声を掛けるでもなく、見物に身をやつしている、
 揉むような仕草で自らの胸に手を当てたまま、うっすらと口を開けて、わずかに眉を寄せている少女。
 どこか官能の香り漂う妖しい姿なのだが、一分も経たずに表情が戻ったのは、どうやら結論が出たらしい。
 ゆっくりと手が下りていって、膝の上でぎゅっと握りしめられた。
 ついでレイの瞳が徐々に閉じていき、そして完全に閉じられた。 
 小さく開けられた口はそのままだが、それが僅かに突き出される。
 そして第四段階。
 少しだけ睫毛を震わせながら、
「…お兄ちゃん、ご褒美…」
「はあ?」
 
 
 
 
 
 レイがシンジに、ご褒美を要求したのに遡る事数時間前。
 第三新東京市郊外にある市営団地の一室から、月を見上げる少女がいた。
 普段の三つ編みにされた髪は解かれ、黒髪が座った少女の腰近くまで垂れている。
 編み込むとどうしても幾分曲がるため、ほどけばその分長くなるのだ。
 その横には、S字ブラシが置かれている。
 どうやら、髪の手入れが終わったばかりのようだ。
 月夜を見上げる少女には憂い顔が似合うと、中世の戯曲より定められているのだが、目下彼女の顔には、引き裂かれた恋人を思う節は見えない。
 いや、それどころか全体的に緩んでいるようにも見える。
 好きだと、はっきりとは言われなかった。
 それでも、名字で呼ぶことは約してくれた。
 固まってた腕がゆっくりと伸びて、自分の肩を抱き寄せてくれた事を、絶対に忘れる事は無いだろう。
 月面への第一歩は踏み出した、次の一歩は名前で呼ばせる事だ。
 思わず、ふにゃりとした顔になったがふと思い出した。
(どうして私、あんな大胆な事を堂々と?…)
 行く前には、言う事すら考えていなかったのだ。
「碇シンジ…どういう人なのかしら?」
 呟いてはみたが、答えは出てきそうにもなかった。
 渡されたハンカチは、既に洗ってアイロンも掛けてある。
 今は机の上に置かれているそれに視線を向けると、小さな声で何か言った。
 どうやら、もう少しで腕を折られる所だったのは、記憶の彼方に忘却したようだ。
 結構現金な部分もあるのかもしれない。
 どこか緩んだ顔のまま、少女が再度月を見上げた時。
「え!鈴原!?」
 恋する乙女の眼は、時として幻影を映し出す事もあるらしい。
 自分の想い人の幻影が、一瞬空中に現れたような気がしたのだ。
「気のせいよね…」
 少し照れたような笑みを浮かべて呟くと、少女は布団に潜り込んだ。
 無遅刻・無欠席を常とする洞木ヒカリが、生まれて初めて遅刻したのは翌朝の事であった。
 
 
 
 
 
 自分の前で目を閉じて頬を染め、唇を小さく開いているレイを見ても、シンジはさほど動揺もしなかった。
 妲姫の事を考えれば、出てこない答えではないからだ。
 とは言え服を見ると、余分にボタンが外されている訳でもない。色仕掛けが企まれているのではなさそうだ。
(猫の吹き込みにしてはおとなしげだな。さて…)
「レイちゃん、一つ聞きたいんだけど」
「え?」
 レイの瞳は閉じたままだ。
「猫にそうしろって言われたの?」
「ねこ?」
「姫の事さ」
 それを聞いた次の瞬間。
「ち、違うのっ、わ、私がそ…そう思ったのっ」
 明らかにと言うよりも、動揺が全く隠し切れていないレイ。
 どうやら、一応の箝口令は敷かれていたのかも知れない。
 シンジが薄く笑った。
「本当に?」
「ほ、ほんと…あ…」
 月光も、そして街灯さえも車の中には届かない。シンジ達が乗っている車のスモークは、それ程に濃いのだ。
 誰一人見る者もない車内で、シンジの人差し指が、レイの顔をくいと持ち上げた。
 ゆっくりと、レイが目を閉じる。
 シンジの顔が近づいていき、二人の顔が触れ合うかと思われた次の瞬間、シンジの顔は停止した。
 数秒経ってもシンジが動かない気配に、レイの目がうっすらと開いた。
「お、お兄ちゃん?…」
「何?」
「あ、あの…し、してくれないの?」
 瞳に戸惑いと−わずかな困惑を込めて訊ねたレイ。
「レイちゃんの答え、訊いていないよ」
「私の…答え?」
「そう、ご褒美はどこで知ったの?」
「そ、それは…その…」 
「僕には言えない?」
 そう言うと、すっと顔を離しかけたシンジ。
 それを知ったレイの表情が変わった。顔がすっと青白くなり、目が潤みだした。
 どこか泣き出しそうにも見えるが、どうやらシンジと妲姫の間で揺れているらしい。
 目を潤ませて、何やら無言で訴えかけてくるレイ。
 ふっとシンジが笑った。別にレイを追い込む事もあるまいと、気が変わったのか。
 レイの顔を指で持ち上げたまま、
「もう一度訊く、レイだけの考えなの?」
 ふるふると、顔が横に振られたのは数秒後の事であった。
 情報の入手経路を、明らかにしてはいない。
 それでも、 
「いい子だ」
 その言葉が終わらない内に二人の距離がゼロになり、そして直ぐに離れた。
 膝の上で握りしめられていたレイの手が、そっと触れた先は自分の頬であった。
「お兄ちゃん…」
 呟いた声は、どこか物足りなげにも聞こえる。
「どうしたの」
「この前みたいには…してくれないの?」
「この前って?」
 知っていながら訊ねるシンジもシンジ。
 聞き返されて、急に恥ずかしくなったのか、
「あ、あの…」
 何やら口ごもっている。
 そのレイに、
「あれは治療だと言った筈だよ。憶えていない?」
「…はい…で、でも…」
 項垂れたレイを見ていたシンジ、何やら考えついたらしい。
「本当の理由、知りたい?」
「本当の理由?」
 僅かに首を傾げたレイ。
「そう、どうして僕がしないのか。教えてあげるから耳を貸して」
 言われるまま、シンジに耳を寄せたレイ。
 だが、次の瞬間シンジは手を伸ばして、レイを抱きすくめた。
 いや抱いたと言えば聞こえは良いが、単に身動きを封じたに過ぎない。
 驚いたレイが、
「な、何?」
「お仕置き」
 そう囁くと、耳にふっと息を吹きかけたのだ。
「あっ、やっ、あんっ!」
 ビクンとレイの躯が震えて、逃れようと身を捩る。
「逃がしてあげない」
 更に指を伸ばして、耳たぶをつまむと爪ですっとなぞったのだ。
「あっ、あんっ、くす…くすぐった…お兄ちゃっ…ふあっ」
「此処が弱いのは、ダウジングで知った」
 奇怪な事を言いながら、指の動きは止まらない。
 口を付ける事はしないが、耳たぶをこすり裏側をなぞり、あまつさえ耳の中に指さえ入れている。
「んっ…くぅっ、ふっ、ああんっ!」
 何とか逃れようとするのだが、既に力が抜けかかっている上に、シンジの腕が縄のように絡み付いて離れない。
 一分経ち、二分経ち、数分経った頃。
 段々とレイの顔が上気してきた。額や首の辺りにうっすらと、汗が滲み始めてきたりもしている。
「あ…んんぅ…や、やだぁ…」
 明らかに声の質が変化し始めている。
 一方シンジの表情に変化はない。
 奇怪な人体実験にいそしむ、悪徳科学者のごとき面もちのまま、その指だけを怪しく蠢かせており、リズムを変えたり新しい動きをしてみたりと、乙女の耳の周辺で大忙しである。
「も…もう…わ、悪い事…言わな…か…」
 それを聞いた次の瞬間。
 ぴたりとシンジの指が止まった。
 左手だけはまだレイを拘束しているが、右手は完全に離れており、もはや用は無しと言った風情である。
 一方レイは急に刺激が止んでしまい、どこかきょとんとしている。
「お、お兄ちゃん?…あの…」
「なんでしょう」
「ど、どうして…その、や、止めちゃ…」
「どうして?レイちゃんが嫌だって言ったから。もう悪いこと言わないから止めてって、今言ったでしょ」
「ち、違うの。あの、それは…」
「なにが違うの?」
 殊更ゆっくりと訊ね返すシンジ。無論、さも訳が分からないと言う表情をするのは忘れない。
 さあ顔を赤らめるか俯くか、と思ったら、
「い、いやだけどいやじゃないの。お兄ちゃん、続き…」
 ときた。
 一瞬、シンジの口が半開きになった。
 さすがのシンジも予想外だったのである。
「さては脱皮したか」
 奇怪な科白を口走ったりしているのは、動揺の成果かもしれない。
「あーその…」
「なあに?」
 期待深々の瞳で、レイはじっと見つめてくる。
 明らかにシンジは追いつめられつつある。
 僅かに眉を寄せていたシンジだが、ふっとそれが元に戻った。
 何やら回生の策でも考えついたかと思ったら、
「もう悪いこと言わない、って言ったから止めたんだけど」
 これである。
 大した発想は浮かんでこなかったらしい。
 だが本人はお気に召したのか、
「それとも?」
 と加えて聞き返した時、シンジの口元には邪悪な笑みが浮かんでいた。
 それを聞いて、今度はレイが一瞬硬直した。
「……」
「……」
 二人の視線が、光の入らぬ車内で絡み合った。
 どれだけ時間が経ったのか。
 数秒とも数分とも知れぬ空白。
 ゆっくりとレイが視線を逸らしながら、
「もう…」
 と言った。
 だが、明らかに恨みと言うより甘えに近い響きがある。
 シンジにもそれは伝わってきた。
 今度は何を言い出すかとレイの様子を見ていると、何やら考え込んでいるように見える。
 顔はまだシンジの胸元にあり、少し傾けられて預ける形になっている。
 やがてその顔が上がった時、口元には何故か嬉しそうな笑みが僅かに浮かんでいた。
 何が嬉しいのかと思ったら、
「お兄ちゃんの意地悪…」
 と来た。
 だが言葉とは裏腹に、どこか甘えに近い物が感じられる。
 何か企んでいるのは明白だが、取りあえず、
「僕が?」
 訊ねると
「そう、お兄ちゃんが意地悪なの」
 直球と共に、頭を外すとシンジの足にそっと乗せた。
「何?」
「もう一回」
「分かった」
 と、躊躇いもなくシンジの指が、耳に伸びたのを見て慌てて、
「ち、違うの」
「違う?」
「あ、あの、さっきの…」
(さっき?大分前から起きていたのかな)
 思ったが口にはしなかった。
「いいよ」
 承諾すると、レイの髪に手を伸ばした。
 シンジの手が髪に触れると、レイはうっとりと目を閉じた。
 車内に静寂が流れてから数分後。
 レイの髪に手を触れたまま、シンジが口を開いた。
「レイちゃん、一つ言って置くけど」
「なあに?」
 レイの口調はとろんとしたままだ。
 耳への刺激の余韻がまだ残っているのか、あるいはシンジの膝枕で半分夢の世界の住人になっているのか。
「二度と猫の入れ知恵で動くな。いいね」
 少しも怒気は含まれていない。
 だが、それを聞いた瞬間レイの身体が硬直した。
 静かな車内で、レイが息をのんだ音が僅かに響く。
「あ、あの…ごめんなさい…」
 詫びた声は、明らかに震えていた。
「レイはレイのままで」
「…はい…」
 全身から落胆を漂わせて、起きあがろうとするレイをシンジは手で押さえた。
「怒ってるわけじゃないよ。咎めてるだけ」
 そう言って、くすっと笑ったシンジ。
 無論同じような物だが、レイは怒っていないよの部分しか聞いておらず、シンジが笑った事で安心したらしい。
 聴覚、と言うのはなかなか便利である。
 再度全身から力を抜くと、甘えるように頭を押しつけた。
「ところで」
「なに」
「そろそろ起きない?」
 多分嫌だと言うだろうな、と思ったが一応言ってみると案の定、
「もう少しだけ…ね?いいでしょう?」
 ときた。
 月の時間が終わるまで、後一時間余りある。
「そうだね、お寝み」
 そう言うとレイの瞼の上で指をすっと動かしかけて…止めた。
 無論眠らせるのは簡単だが、シンジのそれは失神に近い。
 今回はレイが眠りにつくまで、つき合うと決めた。
 シンジは、レイの喉を軽く上げると指で喉に触れて、ゆっくりと動かしていった。
 愛撫にはやや遠い動き−どこかさすっているような指使いである。
 とは言え、触れるか触れないかのほんの僅かな動きであり、まるで羽毛で軽く撫でているような感じだが、数十秒もしない内に、レイの目がふにゃ、と溶けた。
「…ねえ…お兄ちゃ…ん…」
 よく、猫は眠い時になるとごろごろ甘えてくると言うが、今のレイはまさにそれと言えるかも知れない。
 耳をすませば、喉を鳴らしているのさえ聞こえる可能性がある。
 いや、シンジの方も猫をあやしているような感じなのかもしれない。
「ん?」
「あのねえ…気持ち…いい…」
 聞きようによっては、何処か妖しくも聞こえる科白を言い出したレイに、
「それは良かった。じゃ、もう寝る時間だよ」
 返答の代わりに、わずかに頷いて見せた十秒後、レイはシンジの膝枕ですやすやと寝息を立て始めた。
 膝上から聞こえる規則正しい寝息を確認すると、シンジは髪から手を離して表に視線を向けた。
 シンジの目の前を、消防車が走り去っていった。どうやら『作業』は済んだらしい。
 消防車の紅い車体を見た時、なぜかシンジの脳裏にアスカの事が浮かんだ。
「セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーか…」
 何とはなしに呟いてから、おや?と言うように首を傾げた。
 消防車とアスカの関係が、自分でも分からなかったらしい。
「なんで赤であの子の事が?いや、気のせいか」
 迷宮の疑問にはまるのは止めたらしい。
 ふと助手席を見ると、買ってきた袋が置きっぱなしになっている。
 食べる物を買ってきた事を、すっかり忘れていたのに気付いた。
 とは言え、さすがに起こすことはあるまいと、レイが起きるまで手は付けない事にした。別に数食抜いても、シンジ自身には影響はないのだ。
 食事を延ばすと決めたシンジ、レイの顔を見ると頬に指で触れた。
「ご褒美ねえ」
 そして何思ったか、にいっと笑ったのだ。
「全く年を食うとろくな事を考えないんだから」
 一見ぼやいたように見えるが、表情と台詞が一致してない。
 どうやら違う意図だったようだ。
 その意図と合致したのかどうか、車内に凄まじい妖気が漂いだしたのは、数秒後の事である。
「わらわが何じゃと」
 頭はシンジの腿の上ながら、レイとはあまりに違う声が上がった。
「何かな」
 妖々と起きあがった妲姫、じろりとシンジを見た。
「わらわが告げたと知っていて拒んだな、お前は」
 どうやら、これが目当てだったらしい。
「当たり前だ。僕の妹は色魔じゃない」
「ふん、小娘一人あしらえぬのか、未熟者が。それにお前も嬉々としていたであろうが、シンジよ」
「気のせいだね」
 一言で否定したシンジ。
 ただし、全面信用できるかは幾分怪しいのだが。
「ほう。それにしては随分と念の入った手付きであったぞ」
「細かい事は気にしない。ところで」
「なんじゃ」
「あれが入れ知恵なのは判った。でも、数千年を経た色魔の差し金にしては少しおとなしくなかったか?」
「碇シンジの一匹ごとき、たやすく虜にする術を教えてやったと言うに、何を考えたか躊躇っておったわ。所詮あんなものじゃな」
「ふうん。で、躊躇ったから催促した訳か。ろくでもない教師だな、全く」
 それを聞いた妲姫、にやあと笑った。
 やはり、レイの手が胸に伸びたのは妲姫の操縦だったらしい。
「わらわのする事に異を唱えると申すか?シンジよ」
「うん、と言っていいのかい?」
「死を賭しての戯言じゃな。別に構わぬぞ」
「触らぬ何とかには祟りなし、と教えられた記憶がある。止めとくわ」 
「つまらぬ事を知っておるな。ところでシンジよ」
「何か」
「しきまとは何じゃ?式神の類か?」
「はん?」
 現代用語の基礎知識に関してはやや、抜けている部分があるらしい。
 だがシンジも止せばいいのに、
「色情狂、要するに誰かさんの事」
 と、ぼそりと言ったシンジ。
 だが車内は物音一つせず、はっきりと響く。
「今、何と申した」
「忌憚のない答えを」
 その言葉が終わらぬ内に、妲姫の手が伸びた。
 その掌は、シンジの胸にぴたりと押し当てられている。
「古の都で、忠義面をした比干の臓腑をえぐり取ったのはわらわじゃ。同じ命運を辿ってみるか、シンジよ」
 だがどうもおかしい。無礼な言葉への報いとすれば当然なのだが、冷めた感じがどうも足りないのだ。
 何となく、怒っている節さえあるようだ。 
「…八つ当たりは困るな、姫」
 妲姫の手がぴくりと動いた。
「八つ当たりじゃと?」
 嘲笑うように言ったが、
「適当じゃないさ。僕も似たような物だ」
 シンジの言葉に、真顔になった。
「面白い。わらわがお前と同じじゃと」
「僕は逃がして機嫌が悪い。そっちは力が戻らずご機嫌斜め。迫力が足りないよ、姫様」
「分かり切った事をくどくど申すな、しつこい男じゃ」
 やはり、少しきているらしい。 
 だが、言えと言ったくせに、とはシンジも口にはしなかった。
 女性のヒステリーなど、古今東西放って置くに限ると相場は決まっている。
 はいはい、と受け流して、
「さっき結構吸われたんだが、どの位戻ったの?」
 と訊いた。
「半分も戻っておらぬ」
 素っ気なく言うと、ぷいっと横を向いた。
 レイの性格が移った訳でもあるまいが、数千年を経た妖女に何となく少女のような物を感じて、ふっとシンジが微笑した。
 しかし車内はさして広くない。しかも二人の距離はほとんどないとあって、妲姫にはその気配がばれたらしい。
 横を向いたまま、
「何を笑っておるのじゃ愚か者」
「女性という性別の存在意義について」
「何」
「いや、何でもない。それよりも、片割れの分際ながら、数千年の姫を怒らせるとは大したものだ。僕が滅ぼす甲斐が…」
 シンジの言葉が途中で止まった。
 全身の毛穴から、一気に汗が噴き出したのである。
 原因を知ったのは、服が濡れたと感じてから更に数秒後であった。
 少し俯き気味になった妲姫から、何かが押し寄せてきているのだ。
「お前が滅ぼす、と申したか」
 妲姫は、蘇った死者のような声で言った。
 蘇った死者、とは言っても本当に蘇る訳ではない。
 死者の世界は、今なお人にとって未知の領域であり、反魂の法は完成の域とは程遠い位置にある。
 だが偽りの生を与える事が、出来ない訳ではない。
 たとえ骨だけになっていようとも、元の姿を取らせる事は可能だ。
 しかしその場合にも骨が完全体でなければ、元通りにはならない。
 足りない場所、例えば肋骨がないとしたら脇腹に大きな穴を開けたまま、立ち上がる事になるのだ。
 シンジの知る限り不完全とは言え反魂の法を、それも骨になろうとも出来るのは、土御門家の者しかいない。
 土御門家は、その特殊な家柄もあって常に魔力の高い者が次期当主に選ばれる。
 だが歴代の当主全てが、術を会得した訳ではない。
 中には反魂の法は修得しながらも、何らかの理由で当主にはならなかった者もいる。
 ちょんまげと刀が幅を利かせていた頃、その秘法が世に漏れ出たのは、ひとえに彼らの所為である。
 当主となって一門や配下を束ねるよりも、一人気ままに術を極める事を選んだ者達。
 その変わり者達がいなかったなら、反魂の法などこの世にその片鱗すら、知られる事はなかった筈だ。
 人魚伝説もまた然り、である。
 人魚の肉を食した者は不老不死を得ると言われ、かつて蓬莱山に不老不死の実を求めた古の中国王朝の皇帝と同じく、数多の者がそれを得ようとした。
 だが実際には−
 始皇帝は不老不死を得ることは遂に叶わず、人魚の肉をそれこそ命と引き替えにして得た者達は、全身を焼け爛れさせて死んでいく猛毒を、強欲な仲間達に供したにすぎなかったのである。
 それは何故か。
 不老不死が存在しないからである。
 最初の人間夫婦は完全にして、永久(とわ)の命を得ていたと言われる。
 だが、その二人が死を子孫にもたらして以来、不老不死を享受し得た者はおらず、またそれを与える実などもなかったのだ。
 人魚の肉も同様である。
 しばしばジュゴンと間違われ、想像の産物と一笑に付される事の多い人魚は、数はきわめて少ないが、確実に存在する。
 そのルーツは魔術を究めんと欲した人間のなれの果てとも、命を長らえる事と引き替えに、人間たる姿を失った遭難者の姿とも言われる。
 だがしばしば海上に姿を現し、その妖艶な姿と美声で船乗り達を数多く冥府に引きずり込んできた、かの有名なセイレーンとは一線を画しているらしい。
 むしろ人間と恋に落ち、人の姿と引き替えにその声を失ったとされる、かの海底族に近いかもしれない。
 万が一遭遇した時、それは飢えた猛獣との出会いに等しい、とまで言われる。
 姿を存分に生かした水中での速度と、顔からは想像も出来ぬ鋭い牙、人魚の肉を得る事自体が、既に命との引き替えとされるのはそのせいである。
 その人魚の肉が何故不老不死などと、誤りも甚だしい伝説になったのか。
 死人(しびと)を蘇らせた場合、その二度目の生は長くて十数分である。
 それを過ぎた途端、その者は元の世界に還る事になる。
 いや、単にそれだけにはとどまらず、骨も原型を留めないのだ。
 集めた時には原形を保っていた骨がまるで、砂浜の砂のように微塵になる。
 人が砂に変わるまで、約数分間。
 後に残るのは、砂の小さな山だけだ。
 だが。
 その前に屍肉を口にする事が出来れば。
 ごく稀にだが、回復力が強くなる者がいると言う。
 無論不老不死とはほど遠い物であり、多少頑丈な体になるといった程度だ。
 誰が言い出したのか、いや事実なのかさえ判らない。
 にも関わらずそれは、何時しか人魚の肉と置き換えられて広まる事になり、猛毒にしかならぬ人魚の肉を口にせんと、命すら引き替えにする者達を生み出す結果になったのだ。
 以前シンジは、モミジとその話をした事がある。
 その時彼女はこう言った。
「シンジ様。たとえそれが他人の薬になりうるとしても、大切な身内の方の肉体を他人の食に供するなど、家族には耐えられなかったのだと思いますわ」
 それを聞いたシンジは訊ねてみた。
「要するに、嘘?」
「そう言われては身も蓋もありませんわ。でも」
 いったん言葉を切ると、
「その通りですわね」
 うふふ、と笑ってみせた。
 喫茶店での事が蘇ってきたが、今はそれどころではない。
 まるで何かを払いのけようとするかのように、シンジが手を払った。
 妲姫の顔は、未だ上がってはいない。
 だがその全身から押し寄せてくる感情は、シンジを押し潰そうとすらしている。
「お前が、お前如きが、わらわに代わってあの女を滅ぼすと申すか」
 一語一語が、シンジの全身から冷たい汗を噴き出させる。
 憎悪が、それも押さえきれない程の感情を、妲姫は隠そうともしていない。
 すうと妲姫の顔が上がった時、さすがのシンジも一瞬息をのんだ。
 眦は裂けんばかりにつり上がり、しかもその瞳に紅の色は…無かった。
「わらわは何もできずにおった」
 妲姫の声は、黄泉津醜女もかくやと思わせる物であった。
「数千を経て、これほどの不覚は初めてであったぞ、少年」
 ふと言葉を切った妲姫。短い思考は何を生み出すのか。
「…知るのは、お前だけであったな」
 シンジがその意味を解するのに、数秒を要した。
「あってはならぬ、わらわの不覚。なれど、今ならば取り消せようぞ」
「生き証人は消すに限る、か」
 人ごとのような科白だが、その声は幾分かすれ気味に聞こえる。
 妲姫の意図よりも、その全身から発する露わな憎悪が、既にシンジに襲いかかっているのだ。
 その証拠に、既にシンジの髪は逆立ちかけているではないか。
「その通りじゃ」
 全身の気だけは変えず、妲姫は妖艶に笑った。
 だがその目は笑っておらず、凄まじい妖気は少しも衰えてはいない。
「お前はわらわの不覚を知った。幾千年もの間、一度たりとも無様な醜態を晒した事のないわらわのそれをじゃ。余人が知るなど以ての外、いやお前であっても知っていてはならぬのじゃ」
 ゆっくりと、シンジが首を振った。
「…自分のプライド維持かい?」
 直ぐに答えはあった。
「その通りじゃ。わらわの気に遭うても、失神すらせぬとはいずれ邪魔になるやも知れぬ。やはり、この場で始末してくれる」
 妲姫の物騒な宣言を聞いた時。
 ふ、とシンジは笑った。
 いや、冷笑したと言うべきか。
「怯えで気が触れたか。所詮その程度の」 
 車内に立ちこめていた気が、一つではなくなった事に妲姫が気づいたのは、数秒後の事であった。
「俺にはそうは告げなかったな、女。おかしな言いがかりを」
 僅かに妲姫の目が見開かれたが、瞳は漆黒のままでありレイの特徴とも言える、赤い光は全く見られない。
 完全に妲姫の物と化している、と言うことか。
 だがその肢体に変化は無い。胸さえもレイの時のままではないか。
 さして広くない車内に、二つの気が立ちこめた。
 身体は少年少女の物ながら、そこから発する気は常人なら秒と持たずに、失神しかねぬ程の異様な物であった。
 異なる二様の気が車内に満ちていく。 
 シンジの顔は妲姫に向けられておらず、わずかに逸らされている。
 大将軍の口が何を紡ぎ出すのか。
「醜態を覆い隠すには見た者を始末するのが最良とは、古の時代より不文律として決まっている。だが」
 なんの抑揚もない声で告げたシンジ。そこには妲姫の気などまったくかけぬ様がはっきりと見て取れた。
 この男は自分を微塵も恐れていない−あり得ぬ、いやあってはならぬ事実に否応なく気づいた時、妲姫の口は少し歪んだかに見えた。
「だが?何と言われる?」
 問いへの答えは無く、代わりに腕がすっと伸びた。
 手の行き着いた先とその行動を見ても、妲姫は顔色一つ変えない。
 その手は、妲姫の胸を軽く掴んでいたのである。 
「シンジの魔力が無くとも、肢体は幾分なら元に戻った筈だ。にも関わらず、何故戻りきっていない?貧弱なままでいるのはどういう気まぐれだ?」
 そこに含まれているのは、僅かな嘲笑。
「さて」
 と妲姫が言った。
「この娘の意志がお前を阻んでいる。そしてお前に俺を切り離す術が無い以上」
 そう言ってゆっくりと胸から手を離したシンジ。
「及ばずながら俺も相手をせねばなるまいな。大将軍と呼ばれた時も、総統と呼ばれた時も、そして」
 シンジが言葉を切った時、その脳裏に何が去来したものか口元に僅かな、そう、妲姫も気づかぬ程の笑みが浮かんだ。
「織田の上総と呼ばれた時も。後ろを見せるなどという言葉が、俺の脳裏に去来した事はなかったぞ」
 想いを宣言した相手のそれを見て、妖女は何を思ったのか。
 妲姫の顔が、徐々に和らいで行くまでには数十秒の時が必要であった。
 妲姫は少し顔を背けた。まるで、見られたくないかのように。
「よかろう、第六天魔王よ」
 顔は背けたまま妲姫が言った時、シンジの顔に僅かながら驚きが浮かんだ。
「ほう」
 と、シンジは言った。
「それをお前が知っていたか」
 短く、どこか呟くように言った時、珍しい事にその言葉には、懐旧のような物が含まれていた。
 総統と呼ばれたときより、大将軍と呼ばれたときより、第六天魔王と呼ばれたときが一番、残る思いは強いのかも知れない。
「想い人を、逐一知らぬわらわではないぞ。古刹の紅蓮に消えた時も、単身匈奴の前に立ちふさがり、百に達する矢を全身に受けてもなお、誰一人近寄らせなかった時も」
 ゆっくりと妲姫がその顔を向けた時、既に黒瞳はなく普段の紅い瞳へと戻っていた。
「奇妙な女だ」
 普通の女性なら顔を紅潮させて赫怒する科白だが、妲姫には意味が伝わったのか、
「だから、わらわを想い人にせよと申した」
 そう言うと、ついさっきレイがしたように、シンジに寄りかかるとその胸に頭を持たせ掛けたのだ。
 そして更に下の方へとずらしていった。
 少年の足に頭を乗せ、下から見上げる少女。
 つい最前と同じ状況ながら、そこに漂う物はまったく異なる物であった。
 全身から、凄絶なまでの気を漂わせる武人がそこにはいる。
 演出などではない、それが本来の姿なのだ。
 妲姫の場合とは異なり、その身体に変化はない。顔さえもそのままだ。
 だが、穏やかなというよりどこか間延びさえしていた雰囲気はそこには微塵もなく、見る者を凍り付かせるような気が、その全身からは発している。
 人類の持つ通常兵器など歯牙にも掛けぬ使徒までも、一瞬とは言え硬直させたのが、それをよく表していると言えよう。
 そして少女は−
 碇シンジをお兄ちゃんと呼び、何かと甘えたがる綾波レイ。
 その思いはシンジの敵を殺める事すらも、何ら躊躇わせる物ではなかった。
 どこか危うさも含んだ一途さ。
 しかしながら、少女が妖女へ化す時、それは天地ほどの差を見せる。紅の瞳はさらに深紅と化していき、赤光さえも放ち始める。
 そしてその視野に他人は映ってはいない−ただ一人を除いては。
 魔力に頼る部分があるとは言え、その肢体はシンジとは異なり、本来の姿を垣間見せており、レイの原型を残した胸と言えども妖香を漂わせるには十分すぎる。
 シンジがよく抗し得たのはひとえに慣れである。
 そして、妲姫が未だ戻りきっていないからだ。
 魔の微笑一つで数多の王朝をその手中にしてきた妖女、妲姫。
 その姿が戻りし時、果たしてシンジは抗いうるか。
 ともあれ、外見とはあまりにもかけ離れた男女(ふたり)は、一時の甘い時を過ごしているように見える。
 だがその心は。
「俺の生が続かぬなら」
 とシンジは低い声で言った。
 何処か錆を含んだような、重く低い声で。
「そのときはまた一考しよう。前代の生を思い出すなど、さして嬉しくもない。お前はどうか知らぬがな」
 その胸中にあるのは、散っていった部下達の事か或いは敵の事か。それとも?
「では、わらわが付き合うてくれる。七度死んで七度生き返ればわらわもまた、常に傍らにいてくれようぞ、大将軍」
 そう言った時、妲姫は紅い瞳のままシンジの眼をじっと見上げている。
 だが、どこかそれは素通りしているように見える。
 無論焦点は定まっている。
 とは言え、熱い視線が受け止められるとは、決まっていないのも古来からの事実である。
 ふっと、シンジの視線が妲姫を捕らえた。初めて両者の視線が絡み合ったかに見えた次の瞬間、
「随分と付き合いの良い事だ。だが、今はそれを論じる時でもなかろう。オリジナルの始末以外なら、さしてシンジも執着はするまい。それよりも」
 ほんの少し口元に笑みが浮かんだかに見えた。
「大家に返してやるとしよう、俺もお前もな。眠りにつくがいい」
 それを聞いた時、妲姫の口元にもまた、微かな微笑が浮かんだように見えた。
 だが、それが妖女の物でありながらあまりにも似つかわしくない、綾波レイの微笑のように見えるのは何故か。
「いいわ。でも…いや」
 変わらぬ響きからは、隠された意図は読めない。
 シンジは何も言わない。ただその視線を妲姫に向けているだけである。
 既にその先は妲姫の顔の上にあって、視線をまともに合わせてはいない。
 車内に静寂の時が流れた。
 数秒…数秒…あるいは数分か。
 しびれを切らしたのは妲姫であった。あるいはその微妙な体勢も影響していたのかもしれない。
「何故だ、と聞くのが礼儀よ、大将軍」
「訊ねて欲しいのか?」
 こういう場合、普通の女性なら何と言うだろうか。
 涙目で訴えてみせるか、あるいは無言で見つめるか。それとも?
「当然よ」
 開き直ってみせるか。
「では訊こう、何をさせたいのだ、この俺に?」
 知っていて訊いたのか、それとも知らずの問いなのかシンジよ。
 妲姫にはどちらに取れたのか、即答は直ぐにあった。
「就寝前の甘い口づけを」
「やはり、な」
 この答えからすると、ほぼ予測どおりだったと見える。
 だが、知っていて訊ねる男と、赤面物の事を堂々と要求する女。こんな二人を何と呼ぶべきか。
 数秒間考えるそぶりを見せたが、結論は既に出ていたものか、
「良かろう」
 と短く言った。その顔色に変化は無い。
 妲姫の顔を両手で挟むと、そっと顔を近づけていく。
 その様子に、通常の恋人達と何ら変わるところは無い。
 だがその行き着く先は。
 眼を開けた妲姫が触れたのは、自分の首筋であった。
「唇以外なら痕は付いていような、大将軍」
 少しだけトーンダウンした声で言った妲姫。
 だが声とは裏腹に、その顔には僅かに苦笑に近い物が浮かんでいる。
 ふ、と僅かに笑うと再度眼を閉じた。足を枕にしている妖女が、戻ったと知るまでに十秒も掛からなかった。
 それを確認してから、
「安心するがいい、痕など付けはせぬ」
 そう言ってこちらも笑ったが、どこかそれは冷たい微笑にも見えた。
「妹と楽しんでくるが良かろう、パイロットよ」
 軽く腕を組むと、こちらもまた眠りに就いた。
 ふわあ、と欠伸をしながらシンジが起きたのは一時間ほど後の、僅かに朝日が顔を出しかけた頃の事であった。
 
 
 
 
                
(続く)

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