第二十一話
理性では判りきっている。
この男は私を愛してなどいない、と。
だが感情は納得してはいなかった。
命令に従う度に、どこかで褒められるのを期待している自分がいる。
「良くやってくれた」、
「君には感謝している」、
そんなねぎらいの言葉など、唯の一度もないから期待する。
役に立ちたい、いや立っていると言われたい、と。
だから全身全霊を傾けるのだ。報われぬ事を知りつつ。
そして、躯もまた。
腕時計を見ると、午前二時を回っていた。
「今日は野宿だな、こりゃ」
呟くと、レイの胸元に視線を向ける。
別に異常は無い。
ただ一点。ボタンが弾け飛んでいる以外は。
別に千切れた訳ではない。
姐姫の時に、胸が元に戻ったせいで、ボタンが内圧に耐えられなかったのだ。
シンジも、実際に見るのは初めてではない。
アオイに服を貸した時に、経験済みだからだ。
アオイの胸は、実はアンダーの方はシンジとさして変わらない。
トップとの差が、余りにも大きいのだ。
シンジに取って裁縫は、得意の部類に入るがこれには原因がある。
直接の要因は、身長・胸囲共にサイズが全く異なるシンジのシャツを、アオイが時折借りたがった事にある。
もっともこれは数人にしか知られておらず、一般的には裁縫までこなす妙に器用な少年との評価を、シンジに付加しているのみである。
シンジがふっと笑ったのは、何かを思いだしたらしい。
「レイちゃんは、プチ胸なのに」
万人から撲殺の刑に処されそうな、ろくでもない事を言いだした。
現在開いているのは二番目だけで、後はきちんと閉じられている。
何を思ったか、その下のボタンに指を伸ばしたシンジ。
秒と掛からず器用にボタンを外した。
指を二本差し込んで、そっとかき分ける。
実験で理論を証明した科学者のように、ふんふんと頷いた。
何やら満足げに見えるが、一体何を見たのか。
取りあえず起こそうと、肩に手を伸ばした瞬間その手が止まった。
レイの口許が、僅かに動いたのだ。
「お兄ちゃ…ずっと…傍に…」
意識的かと思ったが、間違いなく眠っており、他の人格の仕業でも無さそうだ。
(寝言?)
伸ばした手を引っ込めると、ボタンを掛け直した。
起こさぬように抱き上げると、足で器用にリクライニングを直す。
後ろのドアを開けると、レイを横向きに寝かせてから、自分は反対のドアを開けて乗り込んだ。
少々狭いが、レイの身長ならつかえる程でもない。
レイの頭をそっと持ち上げると、自分の大腿部に乗せる。
「ずっと傍に、か」
髪の手入れはシンジに教わった通りにしているのだが、やはりシンジとは違う。
それに加えて激しく動いた後という事もあり、やや乱れている上に艶の方も幾分落ちかけている。
シンジの手がゆっくりと、そして丹念に髪を撫でていった。
「妹が出来て、こうまでなつかれるとはねえ」
ふと、シンジの耳が車のエンジン音を捉えた。
どうやらその筋の者達が来たらしい。音も立てずに散開し、手際よく死体を回収していく。十三からあった死体も、五分足らずで袋に詰められて、運び出されていった。
来たとき同様、やはり無音無言で出ていく者達。
だが、最後の一人の足が止まった。シンジの車を見ながら、直立の姿勢を取って敬礼する。
(あれ?男じゃない)
アオイやユリをずっと見てきたシンジは、僅かな丸みを見抜いたのである。
ネルフにここまで訓練された精鋭が、しかも女性部隊などがいるとは聞いていないし、あり得ない。
だとすれば、答えは一つ。
(病院から呼び寄せたか)
やがて、車の音が遠ざかっていった。
「あの姿…ああ、そうだ」
と呟いた言ったのは、今の人物に心当たりがあったようだ。
その弾みで髪に触れていた指が、ふと耳に触れた瞬間、ぴくりとレイの躯が震えた。
(ん?)
気のせいかと思い、再度触れてみる。
又しても、反応があった。
シンジがくすくすと笑った。
何やら、お気に入りのおもちゃを見つけた子供のようにも見える。
シンジは爪にマニキュアなど塗ってはいないが、ヤスリで磨いてある上に甘皮も丁寧に整えてある。
少し長めに伸ばした爪を、耳殻に沿ってゆっくりと動かし出した。
触れるか触れないかの程度に、緩急を付けて動かすとレイの躯が細かく動く。
かなり感じやすい部位のようだ。
シンジが怪しく笑った。
今度は、レイの耳に口を近づけると、ふっと息を吐き掛けたのだ。
「……はう…ん…」
喘ぐような声が、桜草のような色をした唇から小さく洩れた。
「起きてないか?」
疑ってはみたが、明らかに眠っている。
どうやら無意識下での反応らしい。
改めて見るまでもなく、レイは唇までも白い。
いや陶器のような肌よりはずっと紅いのだが、それでも普通よりは白い。
色素の抜けた桜草、とでもいった所か。
「確かルージュが…」
言いかけて、
「車が違う」
一人で自己完結したシンジ。
信濃邸に置いてきた車のダッシュボードには、化粧品が一通り入ったハンドバッグが入っている。
香水はシャネル、ルージュはディオール。
アオイのベースだが、ただしシンジと二人で出かける時は、香水は違う物に変えるのが常である。
しかし、この車にはそれはない。
どうやら、レイに色塗りでもするつもりだったようだ。
今シンジとレイを唇だけで見たならば、シンジを女性だと判断する方が大勢を占めるかも知れない。
シンジの唇はかなり紅い。
以前アオイがそれを評して、猪苗代苺のようだと言った事がある。
しかも薄い上に柔らかいと来ている。
それも特定の趣味の女性方に、多大な人気を誇る原因でもあるのだが、実際に触れて許されるのはアオイしかいない。
その唇から溜め息を吐き出して、
「塗り絵はまた今度」
と言ったがかなり残念そうだ。
それならば、起きている時にすれば良さそうな物だが、それには興味が無いようだ。
普通に女性をメイクアップするなど、シンジの趣味ではない。
あくまでも、寝ている時にこっそり塗るのが、お気に入りなのだ。
ただし、対象は常に一人のみだったが。
さて、愉快な趣味を発揮し損ねたシンジだが、ふとその眼が細くなると、窓の外を見据えた。
何かを感じ取ったらしく、静かにドアを開けるとレイの頭をそっと下ろした。
殆ど音を立てずにドアを閉めると、身を低くして歩き出した。
アオイとの話を終えたユリが、受話器を置いた次の瞬間再度電話が鳴った。
夜更けの電話に掛けてきた人間が、いや電話の音その物がどこか躊躇いがちに聞こえる。
電話自体が、恐れているのかも知れない。
美しい部屋の主の、夜の時間に無粋な音を鳴らす事を。
だが静まりかえった夜更の部屋に、一輪の美を咲かせる妖艶な女医には、眠気の文字など微塵も感じられない。眠りや夢とは、無縁の存在なのだろうか。
繊手がすっと伸びると受話器を取った。
受話器を取って耳に当てる、ただそれだけの仕草なのに、常に美しさが途絶える事はない。
すらりと伸びた足を、ゆったりと組んだままの姿勢に微塵も崩れはない。
先ほどと同様、口を近づけられた受話器は羞恥に染まったようにすら見える。
これで甘い声でも出れば、受話器が卒倒するかも知れない。
だが、
「終わったか」
第一声がこれで、アオイやシンジとの時とは、がらりと変わっている。
不機嫌な声ではない。
いや、それがいかなる声であっても美が損なわれることはないのだ。
とはいえ、美しさの中にも異なる部分はある。
そう、それはあくまでも限りない冷たさを伴っているのだ。
「全て、終了いたしました」
答えた声は女性の物だが、電話の向こうで敬礼したのが見えるような声だ。
「それで、遺体の状況は?」
「頸椎をねじ切られた物や、臓腑をえぐりだされた物、頭頂部から裂かれた物、と種類に富んでおります」
「種類、か」
ユリの短い言葉が、時としてとんでもない奇想に結びつく事を、長門病院のスタッフで知らない者はいない。
無論彼女もそれはよく知っているだけに、その言葉に一瞬凍り付いたが、
「シンジだけでは無いと見える」
との言葉に、危険な物がさして感じられなかったのを感じて、心底ほっとした。
「このまま運んで宜しいでしょうか」
おそるおそる訊ねると、
「構わない。写真だけ私の手元に送るように。それと一つ」
「はっ?」
「こちらの中央病院に根回しをしておく。二週間もあれば長門の系列に組み込める筈だ。二十人ほど寄越して貰いたい。できるかしら?」
出来るか、と言われて考えたのは秒の間の事で直ぐに、
「必ずや仰せの通りに」
と答えたのは、ユリの直属ならではだ。
「では、任せた」
一方的に電話は切られたが、暫くその隊員は電話機を耳に押し当てていた。
死体の始末に当たったのは、ユリが長門病院から至急で呼び寄せた者達であった。
各人は外科や内科、あるいは神経内科など一つの分野に精通しているが、全員を合わせれば洩れはない。
加えて、ユリ自身が各分野のエキスパートでもあるのだ。
また構成しているのは全て女性だが、学問だけではなく実戦に於いても、生半可な男などでは足下にも及ばない。
無論妖糸を使える者などいないが、それでも格闘術には通じているし、ベレッタの一つも持たせれば、三ダースは片づけられる腕前の才媛ばかりだ。
その彼女達は、ユリが手ずから選び抜いた精鋭で、普通の搬送員とは違う。
「死体は患者の移植に供する物」
という信念を持っているのが長門病院の看護婦、いや全てのスタッフに共通する事である。
ただそれが「異常死体」であり、A・B・Cの三段階に分けられたユリの基準で、Bランク以上に当たると判断した場合は、直属である彼らが当たる。
今回呼ばれたのはユリの直属の者達だったが、白い女医には死体がBランク以上になるとの予感が、あったのだろうか。
シンジ相手にして出来た死体に対し、ユリがBランクを指定した事はなかったのだ。
電話を切ったユリは、暫く電話を凝視していた。
まるで、異形の物でも見つめるかのように。
「やはり出たか」
その口から、低い声が洩れたのは数分後の事であった。
野原を迷彩服を着た少年が歩いていた。
大きなリュックを背負い、腰にぶら下げているのは手榴弾。
腰に差してあるのは、ベレッタM84あたりだろうか。
しかし行軍演習でもしているにしては、随分と不用心だ。と言うよりは、隙だらけと言った方が正解だろう。
何よりも、物騒な物を平然と見せすぎる。
その足がふっと止まった。
「何だ、この臭い…?」
風は殆ど無いが、草の匂いに混ざってふと感じた臭い、それは月経のある女性なら直ぐにそれと知れる血臭。
だが、少年にはそこまでは判らなかった。
僅かに吐瀉性の物を感じて、足を止めただけである。
その次の瞬間。
「な、何だ、これっ!!」
何かが足を捕らえたのである。
物体ではなく、思念体…いや、それも違う。
幽霊とかそういった類ではないのだ。そんな物よりももっと強く、より一層の明確な意志を伝える何かが。
何とも言えない心が、少年の足下から伝わってきた。
悲しみ、絶望、死への純粋な恐怖、それらの一つ一つの判別などは、無論出来ない。
それを足した物、一言で言えどす黒い感情とでも、言うのだろうか。
数十分前に妖姫を、レイを、そしてユイを敵にして、なす術なく冥府へ発っていった男たちの物とは、彼には知る由もない。
人相手ならば、そう簡単にひけは取らなかったであろう。
だが、彼らが相手にしたのは人外の者であった。
唯一普通に見えたレイさえも、兄の敵を決して許さぬ殺戮の天使と化して、屈強な男たちを次々に血祭りに上げていった。
呪詛、いや純粋な恐怖なのかもしれない。
自分たちを差し向けた者への怒りではなく、そして死への恐怖でもなく、それは敵わぬ強大な相手への畏怖、やはり彼らも一応は戦士だったのだ。
ともあれ、大地に残った思念は波となって押し寄せ、少年を呪縛しているのだ。
何かに捕まり全身を覆われた、とそんな気がした。
背中に汗が噴き出し、地面が揺れているような感覚に襲われる。
実際には、自分の足が震えているのだがそこまでは気が付かなかった。
引き返そうとして、僅かに足が動き…止まった。
今すぐ走って逃げ去りたいという、その純粋な防衛心。
だがもう一つの、原因を確かめたいという好奇心。
その双方が少年の中でぶつかっているのだ。
既に右足は半分横を向いている。
考える事数十秒。やがて答えは出たらしい。
「これは…血の臭いか。どうする?逃げるか?」
すうと息を吸い込んだ。
「お供します!小隊長」
「…いや、駄目だ。お前は皆の所に知らせに戻るんだ。そして応援を連れて戻ってこい」
「で、出来ませんっ!そんな、小隊長を置いて逃げるなんてっ」
「馬鹿モン!行けっ、行くんだ!」
何やら、一人ドラマに集中しているように見える。
傍で見ていても馬鹿らしいのだが、どうやらこれで恐怖心を少しでも、紛らわそうとしているらしい。
どうやら調子が出てらしく、
「相田上等兵、行きまーす!」
呟いて、ゆっくりと振り向こうとした瞬間。
「動くな」
低い声と共に、背中に何かが押しつけられた。
瞬間的に、少年の体は硬直した。
「だ、誰…」
「君をミンチにし損ねて、後悔してる者です」
「い、碇君…」
「ご名答。さて、まずいところに来てくれたね。見られては困る物が、世の中には多いんだけど」
「こ、これは…まさか碇君が…」
「そうだと言ったらどうする?」
シンジの答えは単純であった。
「お、俺を…こ…殺すのか?…」
「殺されたい?相田ケンスケ」
逆に聞き返された時、ケンスケの全身に恐怖心が再度わき上がった。
だが、それは今ここで伝わってきた物とは、明らかに異なっていた。
ケンスケは察したのだ、これは冗談ではないと。
人を手に掛けた物の持つ雰囲気、無論ケンスケがそれを直に知っている訳ではない。 にもかかわらず、今ケンスケはそれを全身で感じていた。
トウジを半殺しに近い目に遭わせながら、微笑を絶やさなかった時の事が、鮮明に甦ってきた。
身を震わせたまま声も出ないケンスケを見て、シンジは薄く笑った。
「身の安全は保証出来ないが。とりあえずこれでは殺せないよ」
そう言って、押しつけていた物を更に押しつけた時、ケンスケはその正体を知った。
(ゆ、指…)
へにゃへにゃと、足から崩れ落ちたケンスケ。どうやら神経が持たなかったらしい。
「パイナップルにベレッタ、重装備にしては神経が細いようだけど」
からかうように言ったシンジ。むろん、モデルガンなのは判り切っている。
「こ、これは…」
「是非一度、ベレッタ使いの相手をして見たかった。今、その願いが叶いそうだね。徹甲弾を使ってるのかい」
言われたとき、ケンスケは意味が分からなかった。
「ベレッタ…徹甲弾…ち、違っ!」
なお徹甲弾とは、装甲を撃ち抜くために、弾丸内部に芯を内蔵した代物である。
「じゃ、通常弾?」
と、シンジはあくまで意地が悪い。
慌てて、ぶるぶると首を振ったケンスケ。既に生きた心地はしていない。
「ほう…と言う事はおもちゃ?」
ぶんぶんと、今度は頷いた。
「そうは見えないな」
「…え?」
「銃はともかく、手榴弾は本物に見える」
「ち、違うっ、これは良くできた模造品で…」
「じゃ、貸して」
言われるまま、シンジに手渡したケンスケ。ケンスケの言うとおり模造品で、爆音も煙も出ないタイプだ。
だがそれでも安全ピンは抜ける。
ピンを差し込んだままのそれを受け取ったシンジ、何故かポケットに手を入れた。
ケンスケの夜目が利けば、その時シンジが何をしたか判ったはずだ。
だが、数分前から月はその白貌を隠しており、ケンスケには見えなかった。
「な、何をするの?」
「とりあえず投げてみる」
言い終わらない内に、シンジの手から投擲されたのは。
「あっ、俺の宝…」
「伏せて」
言葉と共にシンジの足が、ケンスケの足をなぎ払った。
「いてっ」
ケンスケがすてんと、転ぶと同時にシンジも身を沈めた。
ドーンと、爆音がして炎が吹き上がったのはその直後であった。
「な!?な…」
もはや、ケンスケは言葉にもならない。
「やっぱり、本物だね。これだと…凶器集合準備罪だったかな」
「そ、そんな…」
ケンスケの目に涙が浮かんできた。
それもそうだろう、おもちゃだと思っていた物が突如爆発し、罪になるぞと脅されたのだから。
しかしこれは嘘だ。本来の適用上は、
「二人以上の者が、他人の生命・身体・財産に対し共同して害を加える目的で集合した場合に、凶器を準備しまたはその準備があることを知って集合する罪」
であって、この場合には当てはまらない。
何よりもケンスケのそれは、間違いなく玩具だったのだ。
それよりも、爆発物法とか引っかかるならそっちだ。
だが、ケンスケはそこまで知らなかったらしい。
まんまとはまってうろたえているのだが、それを見たシンジ、あくまで表情は変えずに、
「相田、別に捕まりたくは無いと思うけど?」
と訊いた。
力無く頷いたが、どこか力がないケンスケ。
「じゃ、手段は一つだね」
「え?」
「さっさと帰った方がいい。傭兵のうろつく場所じゃないよ」
「で、でも…」
「クラスメートとしての忠告だよ。アンド」
「へ?アンド?」
「最初で最後だ」
「わ、分かった…」
慌てて身を翻したケンスケの背中に、シンジの声が掛かった。
「忘れ物だよ」
「?」
ぽいと投げられて、受け取った瞬間、
「うぎゃあああ!」
真っ青になって、放り出そうとしたが、
「君のだよ」
言われてよく見ると、間違いなく自分の物だ。
「ど、どう言う事…」
「その問いに対する明確な答えを、今すぐに訊きたい?」
「い、いいです…」
「それはそれは。でも血臭を嗅ぎ付けて、ずらかろうとしなかった度胸は大した物だよ。いずれまた学校で」
「あ、あのさ…」
「何?」
「そ、それって…褒め…」
「その通りさ。数十分早ければ、五体満足では死ねなかった場所にやって来た勇気は、賞賛に値するよ」
ケンスケの表情が固まった。
本能はシンジの言葉を理解しているのだが、どこかでそれを理解したくない、拒絶している部分があるのだ。
だが、否応なしにその言葉は入ってきたらしく、真っ青になったケンスケ。
「じゃ…じゃあ…さっきのは、まさか…」
「手榴弾は僕の。それ以外は内緒」
単純明快な答えと共に、身を翻したシンジ。
その言葉と、向けられた背中に明確な拒絶を感じ取ったケンスケ。
ゆっくりと歩き出したがやがて早足になり、出る頃には全速になっていた。
どうやって家に帰ったのかが、帰り道もよく覚えていなかったが、帰り着くなり着替えもせずに、逃げ込むようにして布団に潜り込んだ。
だが、得体の知れない恐怖に悩まされてその日から、三日ほど学校を休む羽目になった。
ケンスケが早足で去っていったのを、背中で感じていたシンジは、携帯を取り出すとボタンを押した。
「何かしら?」
鳴ったのは一度、そして第一声がこれであった。
「何でしょう?」
返す方も返す方と言える。相性的にはなかなか良いらしい。
「私の声が聞きたくなったとか?殺伐とした妖怪の声を、聞きすぎたようね」
「本人に言っておく。でも少し自惚れすぎだよ」
「ほう?妖怪じみた存在に、既に精液を一滴残らず吸い取られたと見える。男の風上にも置けぬ存在だ。これだから自分を僕と呼ぶ少年など」
「吸われたのは違う物だ。最近、藪度が進んでないか?」
「今寝起きだ」
「あ、誤魔化した」
面白そうに笑ったシンジ。ユリの嫌悪ぶりが可笑しかったらしい。
「喜怒哀楽を素直に出せないのは、人間とは呼べまい」
「ふうん?とっくに人外になってるくせに。ところで」
やや急いで話題を変えたように見えたのは、どうやら電話越しに冷気でも伝わってきたらしい。
「シンジとは一度、ゆっくりと膝詰め談判の必要がありそうね−私の寝室で。それでミスでもあったかな」
「相田ケンスケ」
「先般肉塊になるべきを、君が見逃した犯罪人と記憶しているが。又何かしてのけたと?」
「いや、糸巻きにして貰うような事じゃない。ただ」
「ただ?」
「血臭を嗅ぎ付けた。好奇心旺盛だね」
「間が空いて、仕事の基本も忘れたと見える。きつく言って置かねばならんな」
「あれ、サツキ嬢じゃなかった?」
「その通り。やはり気づかれていたようね」
「夜目は利くんだよ、実は。それより、部下の過失は雇用主責任を問われる筈だぞ」
「それは過去の話。今では個人責任は確立されているのは、ご存じ無かったかしら」
「いやな雇用主だ」
ちくりと言ってから、
「呼ぶつもり?」
と訊いた。
一瞬の沈黙があった後、
「どうして?」
訊ね返して来た声は柔らかい物に変わっている。
期待している生徒に、質問を投げかけた教師のような物へと。
「勘かな。それとユリの性格からして」
「理由付けは不十分だけど、なかなかの答えと言っておくわ。その通りよ」
「模範解答」
シンジが催促した。
「物騒な性格の友人を持つと、医療の心配も絶えない。あまり世話を掛けないでもらいたい」
「じゃ、縁切ってみる?」
「別に構わない。だがその前に、私と一週間二人きりで過ごしてからにして頂く」
「はいはい、考えておきます」
「無論、最優先事項だ。ところで、これからどこへ?」
「アクアライン抜けて房総へ。紅葉を見に行ってくる」
「紅葉?」
「僕の妹が頑張ったから。本当は零号機の起動実験が成功してからの筈、だったんだけどね。それなりの働きだったし」
「優しい兄君で、レイ嬢も幸せだ。房総なら松戸基地に連絡を?」
「そうだね。山の中にはあまり行かないから、町中着陸になるかもしれないけど。それと一つ」
「何かしら?」
「使徒が来たら、一時間だけ待たせておいてくれる?」
「迷惑な依頼を。では、二日以内に帰ってくると良い。使徒にはパイロット不在を通知しておく。では」
いつもの通り向こうから切れた。
「珍しく、ノリがいいな」
と呟いたシンジ。
その言葉の通り、ユリが冗談に応じるなど珍事を通り越して奇怪に近い。
普段なら、
「私の仕事は患者の治療だ。戯言に付き合っている暇はない」
で、終わりである。
さてケンスケを脅してはみたものの、辺りに殆ど人家は無いし、通報などほぼあり得ない。
と、思っていたら遠くでサイレンの音が聞こえた。
シンジが投擲したのは、むろん血の痕跡が残っていそうな場所であったが、すでに血液消去剤が吹き付けられて、周囲は湿っている。
今は煙が立ち上るばかりで、火の手はない。
シンジの耳に微かに聞こえてくるというのは、直線距離にして数キロは離れている。
とはいえ、見つかれば面倒な事になるのは分かり切っている。
さっさと退散する事に決めたシンジ。車に戻ると、レイはまだ眠っていた。
「とりあえず、旧都だな」
旧都とは、長野にある第二東京ではない。
本来の東京であり、かつては日本の中枢であった東京都の事を指す。
既に形骸化していながら、日本を縦横につなぐ高速道路だけは、今なお“そっちの”東京を起点にしている点で変わりはない。
ゆっくりと車を発進させたシンジ。
後部座席のレイを見た時、ふと食事をしていない事を思いだした。
「お腹空いて寝てるのかな?」
高速クルージングの前に、食料品を買っておこうとコンビニを探す。
数台の消防車が、反対車線をサイレンと共に走っていった。
「無駄足なのにねえ」
ぼそりと呟いた時、道の反対側に店を見つけた。
数百メートルも行かずに見つけて、車を入れようとした時携帯が鳴った。
出るなり、
「今お休み中だよ」
と言った。無論、番号は確認済みだ。
「今はおやつの時間よ。モミジちゃんと紅茶飲んでいたの。上手に淹れてあるわ」
柔らかい声は、ウェールズのアオイからであった。
「モミジは上手いからね…って、紅茶の自慢じゃ無さそうだけど」
「さっきユリから連絡があったの。シンジ、お疲れさま」
「運動にはなったよ、僕以外のね」
「以外?」
「モグラが十三匹。僕が二匹、その他諸々で十一匹」
「内訳は?」
「妹が一人に猫が一人、殲滅対象が一人」
「ユリの敵の方ね」
「話は聞いてたの?言わないかと思ってたけど」
「ユリから全部聞いているわ。私が滅ぼしてくれるって、張り切っていたもの」
そう言うと、くすっと笑ったアオイ。
「恋敵と書いててきと読む。あの医者には良い薬だ」
「巻き込まれないようにね、シンジ」
「僕の方じゃないからな。でも迷惑な気もするけど」
「そうね。ところで結果はどうだったの?」
「あまり気に入ってない。もう少しで肛姦されるところだった」
「シンジのお尻は私の物よとか?」
そう言ったアオイの口調は、柔らかいままだ。
「似たような物さ」
「でも、そんな趣味がおありだったかしら」
「LCLに浸かってると、ろくでもない事しか覚えないらしい。だからエヴァは嫌いなんだ」
ぶつくさ言っているシンジに、
「じゃ、帰ってくる?私も独り寝だと凝るし、ね?」
無論本心でないのは分かっているのだが、
「それはまた別の話」
「…シンジ」
こんな声で呼ぶ時は、後が怖い。
「何?」
案の定、
「妹がお気に召して離れられないのかしら?」
ときた。
「それは嫉妬という感情?」
「不正解ね」
「嫌がらせ?」
「さらに不正解」
「はいはい、何でもいいよ」
「いいの?本当に?」
「聞いて欲しいんだな、さては」
「どうかしら」
「分かったよもう。で、何なの」
「わたしの我が儘よ」
こんな時のアオイに逆らうのは危険である。シンジもそれぐらいは知っている。
ただし、ユイを逃がして少し機嫌が悪い。
「…切っていいの?」
「あン、すぐ怒るんだから」
空気さえも赤面しそうな、悩ましげな声で言ったアオイ。
無論、シンジが怒っていない事など承知の上だ。
ただし、アオイのこの声をシンジ以外が聞いた場合、身の安全は保証されていない。
またそれを実証する例も、過去には幾度かある。
「そんな事よりシンジ。片づけたの?」
強引に話題を変えたアオイ。
「ユリさんに聞かなかったの」
「いいえ」
即座に否定が返ってきた。
「何の話をしていたのさ?」
「シンジの運動不足を解消したという事と、もう一人のパイロットの件よ」
「ふーん。で、結果だけ言うと逃がした」
わずかにシンジの声が、苦い物に変わった。
「あなたが逃げられたの?」
「そう、逃がしてあげた訳じゃない。ついでに言うと、もう少しで三途の川を泳いで渡るところだった」
「…やはり、私も行った方が良かったようね」
アオイの声が、はっきりと危険な物を帯びた。シンジの敵は問答無用で、許せないらしい。
「いずれ、僕が片づけるさ。本体もね」
「本体?」
「ユリさんに聞いたんだけど、初号機が一瞬だけ起動したらしいよ」
「文字通りの、生きた人造人間というところかしら」
「そうだろうね。それで、パイロットがどうしたって?」
「シンジ、眠くはないの?」
違う事を訊ねたアオイ。
「眠そう?」
「時差を今思い出したのよ」
「だと思った。大丈夫だよ」
既に車は、店の駐車場に入れてある。
「そう、良かった。それで、弐号機のパイロットの事なんだけど」
「あれ?」
「何かしら」
「弐号機パイロットが何で?別に関係は無いんじゃ」
「現在稼働中なのは初号機だけ。零号機は不安定だし戦力補強は考えるでしょうね、きっと」
「で、ドイツから浚ってくるわけ?」
「新しく造るより、その方が早いでしょう」
「で、パイロットの話になる訳だ。続けて」
「名前は惣流・アスカ・ラングレー、ドイツ産の米国籍の娘よ」
「ハーフか何かだね」
「クォーターよ彼女は。既に大学も出ているわ、首席のおまけ付きでね」
「アレクサンドルの後継でも狙うつもりかな?」
「そんな良い事じゃないわ。おそらく、いえ間違いなくね」
「家庭構成は?」
と訊ねたシンジに
「母親の惣流・キョウコ・ツェッペリンは、現在弐号機のコアの中よ」
アオイの答えを聞いた時、シンジの目が僅かに細くなった。
「パイロットって、そういう条件の元で選ばれてる訳だ。ん?」
「どうしたの?」
「となると零号機が気になるところだけど」
「ユリに聞いてご覧なさい。たぶん何か知ってると思うわ」
「君は?」
「無知を責めないでね」
甘い声で言ったアオイ。
この声で好きだ、と囁かれた日には一徹の女嫌いでも、あっという間に方針を転換しそうだ。
「はいはい。しかし母親があっちの人だと、残る答えは父親?」
「模範的よ。妻が入院中に、女医と不倫。キョウコ夫人の死去後、期限切れを待って即再婚しているわ」
「これ以上無い位に模範的だな。けどアスカ嬢の方は、帰らなかったケースじゃないの?」
「シンクロ実験中に発狂したのよ。もっとも、夫の女狂いが原因の一端とも言われているけれど。そしておまけ付き」
「ほう?」
「実の娘と縫いぐるみの区別が付かなくなった。一緒に死んでちょうだい、彼女がそう言って道連れにしたのは人形だったそうよ」
「自殺だね」
「首吊りよ。そして第一発見者はアスカ嬢だったようね」
淡々と、会話は続く。
「余程環境に恵まれた娘みたいだね。で、再婚した不倫相手とやらは一体、何をしていたの?夜の相手専門?」
「かもしれないわ。一つ言えるのは、新しい母親は彼女を愛しはしなかったという事ね。彼女にとって、エヴァはおそらく、プライドの拠り所。あるいは認められる手段」
「誰に?」
「実の母親によ。彼女がパイロットに選出されたのは、母親が病床にある時だったから。母親に見せたかったのかもしれないわね」
「死んだら用は無いはずだけど」
身も蓋もないシンジの言葉に、
「新しい母親は彼女を愛さなかった、そう言った筈よ」
「エヴァに乗っていれば、周囲が誉めてくれるとでも?奇妙なプライドだこと」
「見返したかったのかもしれないわ。自分を愛さない義母も、そして娘よりほかの女を選んだ父親をも」
「父親もまっとうじゃない訳ね」
「彼女は毎晩、貞操帯を外せないそうよ」
「……」
「……」
二人の間に沈黙が流れた。言葉を切ったシンジに対し、アオイも促そうとはしない。
そして数十秒後。
「…アオイ」
シンジが呼んだ−妙に静かな声で。
「何でしょう?」
「一度、ドイツへ飛ぶ必要がありそうだ。手配を頼む」
「クリスマスまで間が無いわ。クリスマスの日の居場所は決まるけれど、それで良いのかしら?」
意味不明な事を訊ねたアオイ。
「元はと言えば、あの藪医者のせいだが仕方ない。行くと伝えておいて」
「やっておくわ。多分、そう言うと思っていたから。あの方も喜ばれるでしょうね」
「どのみち、一度は行かなきゃならないところだったからね。アオイちゃんも一緒に来るかい?」
「それは、同行は迷惑という意思表示かしら」
「ドイツには無理だろ?白い家も、別に無理強いはしないさ」
「是非ともお供させて頂くわ」
「是非ともお供して頂きます」
「……」
「……」
わずかに笑い出したのは、ほぼ同時であった。
「僕には、子泣き姫が付いていたのを忘れてた」
「大事な事を忘れては駄目よ、シンジ」
そう言った時、アオイが微笑したのがシンジには見えた気がした。
「いずれにしても、アスカ嬢のいない時になるわね。とりあえず資料には目を通しておいて。詳細は自宅の方に送っておくから」
「分かった。帰ったら見ておく」
「二日位で帰るんでしょう?家には」
「パイロットがいないからね。レイちゃんだけ帰らせる訳にもいかないし」
「あら、どうして?」
「んー、色々と」
「とても優しいお兄様ね、シンジ」
「なんか棘が感じられるんだけど」
「気のせいね、気を付けて」
それだけ言うと、返事も待たずに切ってしまった。
「あー、絶対トゲトゲしてる」
呟いた瞬間再度電話が鳴り、僅かにシンジの眉が寄った。
「…はい…」
「誰も怒ってなどいないわ。邪推は嫌われる元よ」
アオイからの電話は、一言だけ言うと直ぐに切れた。
「やっぱり」
時たまこう言う事が、二人の間ではある。
無論、盗聴装置などが無いのは分かり切っている。
この辺は、二人の付き合いの長さからくる物だろう。
アオイとの意志の疎通に関しては、祖父母の信濃夫妻よりも、シンジの方が通じているのと同じように。
電話をしまったシンジは、少しの間動かなかった。
『女から作られた女…綾波レイ』
両親と呼べる者はなく、本来母代わりであるべきの赤木リツコは、到底それと呼べる代物ではなかった。
唯一情を注いだ碇ゲンドウ。だがその目はレイを通してユイを見ていた。
そして今、完全にシンジに寄りかかっている。
「惣流・アスカ・ラングレーか」
シンジの脳裏に、ある光景が浮かんだ。
自分の実の娘に襲いかかる父親。貞操帯を付けている、そうアオイは言っていた。
おそらく日常的に嬲られている訳ではあるまい、シンジはそう見ていた。
ただし、処女のままでいるかは別問題だが。
信濃邸は無論、駆け込み寺ではない。
しかし片づけた標的が、子供に虐待を−性的虐待を含む−加えていた事はしばしばあった。
残せば禍根になると、血縁をすべて滅ぼした事は幾度もある。
だがそうでない時には、シンジ達は彼らを長門病院に預けてきた。
放り込んだ、と言った方が正解かもしれないが。
その後の消息を、数少ない例外を除いて彼らが知る事は殆どない−。
無論、ユリに訊ねれば即座に判明するのだが、単に彼らが興味を持たないのだ。
ユリが彼らに危険な者を、放置しておくのはあり得ないと知っている事もある。
死体処理班の一人で、シンジに敬礼した女性の事を、シンジはサツキ嬢と呼んだ。
彼女は、その数少ない例外であった。
父方は代々の極道で筋金入り。そして彼女にいずれは婿を取らせて、組を継がせるつもりでいた。
ところが、彼女にはその気はなかった。女とはいえ、極道を忌んだ存在は初めてであったろう、愛情は憎悪へと変わった。
もはや価値はないと、輪姦された挙げ句シャブ漬けにされる寸前、アオイ達に救われたのである。
いや、救われたというのは語弊がある。単に乗り込んだ所にいたに過ぎない。
とある筋からの潰しの依頼を受けて向かった時、彼女を発見したのだ。
体中に歯痕を付けられ、全裸のまま縛られていた陸奥サツキは、十字架を模した柱に縛り付けられていたのである。
アオイが、サツキを連れ出した理由はよく判らない。普段ならば、まとめて片づけているアオイなのだ。
シンジが聞いても、
「気まぐれだったのね、多分」
と、曖昧な答えしか返って来なかった。
案外その通りで、本人にもよく分かっていないのかもしれない。
ともあれ、彼女は長門病院に預けられる事になり、現在ではユリ直属の行動隊に加わっている。
だが、大抵の場合は強い人間不信に陥っており、通常の生活を送るのは難しい場合も多いのだ。
しかも、性的虐待を受けてきた中には、一見普通の家庭も少なくは無いのである。
アスカにはレイと違い、両親がいた。おそらくは、その慈愛を一心に受けて育ってきたのだろう−最初の頃は。
だが、幼い娘を残して母親は発狂し、父親はその入院先の女医と不倫に走った。
幼い心に植え付けられた物は、一体何だったのか。
もしかしたら、死んでもいいと思ったのかもしれない。
いや、死の意味は知らずにただ、母といたかったのかもしれない。
「それは私じゃない、私を見て!」
幼少の一番両親からの愛情を必要とする時期に、人形を自分だと思いこんだ母親を見て、少女はどれだけ叫んだ事か−その心の中で。
何故アスカが、大学を出ようとしたのかは判らない。
ただ、かなりプライドの高い娘だろう、それだけは想像が付いた。
少なくとも−弱みを人に見せる事などは決してしないだろうと。
シンジはその事自体の是非には、関心がなかった。
現時点で、シンジが関心を持っているのは只一つ、パイロットとしてどういう娘なのか、だけである。
別にエヴァに乗っているからといって、偉いなどとはシンジは少しも考えていない。
それでも手を拱いて、サードインパクトの発生を眺めるつもりもまた無いのだ。
だから、使徒を退治し終わるまでここにいる気でいた。
それに加えて、協調が出来ない性格ではないから、レイとの共同作戦があれば無論依存はないし、レイの事をパイロットとして認めてもいる。
レイが自分になついているとなれば、作戦上でも利点は大きいのだ。
ただ、異分子が入ってくればどうなるか。
即ちアスカである。ドイツ方面に使徒が出たとは聞いていないから、実戦経験は無いはずだ。
訓練では学びきれない物を、実戦で学ぶ事が多いのはシンジもよく知っている。
別に自分と友好関係に無くとも構わない。それでも、作戦面で協調はしてくれないと少し困る。
一体より二体、二体より三体での集中攻撃の方が、効果が上がるのは無論である。
「んー、洗脳しちゃおうかな」
ぼそりと、シンジが呟いた。
ユリが本家から、直属を呼び寄せると言う事は、そのまま病院を用意する事を指している。
少なくとも、ネルフに滞在させる事はあり得ないのだ。
この第三新東京市で、一番大きいのは新東京中央病院になる。それでも長門病院とは比較にならないのだが、とりあえずユリが目を付けるならそこだ。
おそらくは系列に組み込むか、あるいは完全に乗っ取るかのいずれかだろうと、シンジはユリの行動を読んでいた。
そしてそれが正しい事は、シンジは知らなかったが先程の電話で証明された。
ユリが手を入れれば、施設としては問題ない範囲に仕上がるはずだ。
もし、アスカが厄介な存在であれば、洗脳した方が手っ取り早い。
ふと物騒な事を考えたシンジだが、それを考えるのは後回しに決めた。
とりあえず、目下の検討事項は、
「何、食べようかな」
こっちである。
まだレイは眠っている筈だ。そう思って後ろも見ずに、ドアに手を掛けた瞬間、
「あ?」
シンジのシャツが、きゅっと引っ張られたのだ。
「あれ?レイちゃん起きてたの?」
こくんと、僅かに首が縦に振られた。
だが全身からは、眠そうな雰囲気が漂っている。
「食べる物買いに行くけど、一緒に行く?」
ゆっくりとレイは首を振った。
「ううん、お兄ちゃんが選んで」
「分かった。じゃ、ここで待ってて」
レイはほぼ、肉嫌いを克服している。何を買っても別に問題あるまいと、店に入っていったシンジ。
だが、シンジは知らなかった。
シンジの後ろ姿を見送ったレイが、唇に指を当ててうっすらと笑ったことを。
それは、純真無垢な天使の笑みのようでもあり、また稀代の妖女のようでもあったことを。