第二十話
 
 
 
 
 
 子供の教育と言うのは、幼い時から施した方が良いとされる。
 無論、そこには愛情を与える事だけではなく、時には叱る事も含まれている。
 ただ最近では、些細なことで折檻した挙げ句殺してしまったり、自分のストレス解消に子供に体罰を与える、そんな事件を耳にすることも増えてきた。
 色々な形で与えられる仕置きだが、そこにはある前提が存在する。
 即ち、親が子供より上である事。
 そして、子供が親に幾ばくでも敬意を持っている事だ。
 さて、ただ憎悪のみ向け得る親を前にして、暗殺者の少年はどうするだろうか。
 
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 ユイの唇から、鮮血が滴り落ちた。
 シンジの投擲したナイフは、乳房の間から突き出ているのだが、ちゃんと臓腑を抉ってきたらしい。
 ユイの全身は、はっきりと判るほどに震えている。
 断末魔かそれとも?
 シンジは動こうとはせず、冷たい眼差しでユイの精神(こころ)を持った者を、じっと見据えている。
 最期と見て、見物しているのかもしれない。
 だが、その手がゆっくりと動いた。
 足は軽く開いてつま先立ちに近い構えを取り、両手はばらりと開いて、指先を少し曲げている。
 どうみても、戦闘態勢にしか見えない。
 ユイは凄まじい激痛に襲われている筈だが、その顔から艶笑は、未だ消えていない。 その心に、何が去来しているのか。
 ふっと、ユイの震えが止まった。
 いや、止めたと言った方が正解かも知れない。
 映画のスローモーションのように、左手が動いた。
 そしてナイフの柄を掴むと、一気に引き抜いた、
 僅かに苦痛の呻きを洩らしたユイ。
 だが見よ、その傷口は見る見る塞がって行くではないか。
 その傷口を、薄いオレンジの光が包んでいるのだ。
「新種の使い方だな」
 感心したようにシンジが言った。
 案外、本気なのかも知れない。
「エヴァの中にいると、色々と知るのよ。色々とね」
「僕が刻む墓碑銘もか?お断りだ」
「いいえ、違うわ。貴方を抱く方法よ」
 至近距離で相対する二人を、怜悧な殺気が繋いだ。
 いや、実際にはシンジから強烈な気が放たれている、と言うべきだろう。
 殺気が一際高まったシンジに、ユイが言った。
「間違いをした事は、無いのかしら?」
 シンジの気など、全く意に介していないようだ。
「ある」
 シンジが短く言った。
「そう。誰でもする物よ。でもねそれは」
 その言葉を、シンジの声が遮った。
「母親の選択を間違った事。一生の不覚だった」
「可愛いおクチで、いけない事を言うのね。やはりお仕置きが必要…」
 言葉を切ったのではない、続けられなかったのだ。
 シンジの眉が上がった瞬間、足は地を蹴っていた。
 瞬時に間合いを詰めると、下腹部へ正拳を繰り出す。
 明らかにフェイントである。
 だがそれでも当たれば、柔らかい腹部へのめり込むスピードと威力はある。
 右足を軸に、体半分だけ回転させてユイが避けた。
 その眉間へ真っ直ぐに貫手が飛ぶ。
 今度は避けなかった。
 かざした手に、ATフィールドがまとわりついたかと思うと、シンジの手を痛烈に弾き返したのだ。
 キン、という音がした。
 それも予測済み、だったのか。
 左足に体重を掛け、瞬時に体を沈めたシンジ。
 その体勢から、右足が矢のように飛んでユイの下顎を直撃した。
 これにはたまらず、吹き飛んだユイ。
 金属の触れ合う音が数度したのはいずれも、シンジの投擲したナイフがユイのフィールドに阻まれた物だ。
 吹っ飛んだときに、口内の何処かを切ったらしく、ユイの口から一条の鮮血が流れ出した。
「なかなかね、シンジ。でもこれでは駄目。お手本を見せてあげるわ」
 そう言って、弾き落としたナイフに、ちらりと視線を向けたユイ。
 シンジも一瞬、意図が分からずに、その視線を追った。
 ひょいと、ユイが顔を戻した。
 実に何気ない仕草で、そしてシンジに全く、身構える暇を与えない速度で。
 その右手が挙がった。
 咄嗟にシンジが飛んだのは、天性の勘としか言いようがない。
 ユイの手から伸びた光は、さっき弾き落としたナイフと、寸分変わらぬ形状をしていた。
 フィールドが地に当たった瞬間、地面が大きく抉られた。
 これが人体に当たれば、到底無事では済むまい。
 ユイの肢体は、妹の綾波レイの物である。
 そしてその精神(こころ)は、間違いなく実母ユイの物である。
 それを何の躊躇も見せずに、ナイフを投擲して貫かんとするするシンジもシンジ。
 一方、まごうかたなき実の子に向けて、ATフィールドを使い、本気で攻撃したユイもユイ。
 だが、シンジは気付いていた。
 ユイの動きが、全体的に鈍いのだ。
 元々レイは、ユイのクローンだから体が合わない、という事はあるまい。
 考えられるのは、妲姫かレイの人格が邪魔をしているのか、あるいは。
「さっき、良いダメージを与えたかな」
 嬉しそうに言ったシンジ。
 シンジが両手を頭に当てた。髪をなでつけるかのように。
 その手に、数本の頭髪が握られている事に、ユイは気が付いていない。
 引き抜いたそれを、手を下ろすと同時に地面にばらまいた。
 ベストの内懐に入った手が、数枚の札を取り出す。
「オン ノウマクサンマンダ バサラダンカ…」
 唱え終わらない内に、ユイの手から伸びたフィールドが、シンジを襲った。
 飛び退いた時に、手から数枚の札が落ちた。
「唱え終わるまで、邪魔はしないでもらいたいな」
 平然と言ったシンジに、
「邪魔しなかったら、私のおっぱいに挟まれて眠る?」
 と来た。
 この辺の相似は、やはり親子の証なのか。
「屍姦の趣味でも造るといい」
「可愛くないのね」
 言い終わらない内に、ユイが地を蹴った。
 シンジほどの跳躍力は無い。
 だがそれでも、数メートルを詰めて、シンジの前に立った。
「終わらせてあげるわ」
 そう言った、両手にATフィールドをまとわり付かせる。
(どうした物かな…)
 危機感の欠片も無いシンジだが、これは天性の物であって、実際には余裕のある状況ではない。
 何やら、ユイの戦闘能力はハイレベルだし、何よりもATフィールドには攻撃が通じていないのだ。
 だが。
 何故かユイは、攻撃を繰り出そうとはしなかった。
 両手をオレンジ色に光らせたまま、立っている。
 いや、硬直していると言った方が正解か。
 数秒後、その身体ががくんと揺れた。
「く…はっ」
 口から血しぶきを吐き出したユイ。
 しかし、鬼女の表情(かお)になると、右手を胸に当てた。
「まだ…まだよ。シンジを…抱くまでは」
 相当シンジにご執心らしい。
 それを見ていたシンジが何故か、にっと笑った。
「勝手に倒れちゃ面白くないよ。もう終わり?」
 さも心配そうに訊ねたシンジ。
 ユイの眉が、きりりと釣り上がった。
「その口、二度と聞けなくしてあげるわ」
 シンジは見抜いたのだ。
 ユイのATフィールドは、魔力のような物だと。
 だが、シンジの魔力のようにほぼ無尽蔵ではなく、限界がある事に。
 内蔵を抉った刺し傷を、フィールドで一時的に中和、あるいは治療していたのだろうとシンジは見た。
 ところが、不用意に使いすぎて、それが手薄になったのだ。
 だとすれば、もはやATフィールドは、殆ど使えない筈だ。
 シンジの読み通り、ユイの手から光は消えた。
 しかし。
 ユイの全身から立ち上る殺気は、衰える気配を見せない。
(一撃必殺か?)
 すっとシンジの眼が、細くなった。
 素手の相手に拳銃は向けない、これがシンジとアオイの原則である。
 無論例外はあるが、今回は例外ではないらしい。
 左手は、ほぼ垂直に伸ばして身体に密着させ、右手は腰の後ろへと伸びている。
 脚は軽く開いて、つま先立ち。
 一方ユイは、奇妙な構えを見せた。
 いや、構えとは呼べないかも知れない。
 両手をだらりと下げて、ついでに両肩までも下がった。
 完全に、身体の力を抜いている。
 拳闘漫画に、造詣のある者がいれば、とある有名な作品の名を挙げたかもしれない。
 が、生憎シンジはそこまで詳しくはない。
 妙だな、と内心で僅かに首を傾げただけである。
 しかしさすがに、一気に飛び込むような真似はしなかった。
 ユイは眼を閉じている。
 その肢体はレイのままだが、その顔は完全に凶相と化している。
 殺気とは別の鬼気が、今もなお少しも弱まる事無く、その全身から立ちこめている。
 だが、このまま膠着状態になっても、埒があかない。
 シンジの脚が、跳躍に備えて僅かに曲がった瞬間。
 ユイが跳んだ。
 微塵も気を乱さぬ動きに、さすがのシンジも完全に不意を突かれた。
 表情は変わらず、しかも眼を閉じたまま秒速で突き出された貫手は、シンジの脇腹を襲った。
「つぅ」
 咄嗟に跳んだものの、跳躍の瞬間に脇腹に激痛が走った。
 取りあえず折れてはいないようだが、皹でも入っているかも知れない。
 軽く指で叩いてみる。
 以前白人の大男に、まともにローキックを食らった時にも、何ともなかった丈夫な骨だけあって、どうやら単なる打撲で済んだらしい。
 だが、ATフィールドを帯びた手刀が直撃していれば、どうなったかなど想像も付かない。
 ユイの目は、依然として閉じられている。
 だが、シンジの跳んだ方向に顔を向けると、またしても地を蹴って間合いを詰めた。
(心眼?まさか)
 相変わらず両肩は落ちたままだ。
 その体勢から、正拳・貫手・肘打ちと、矢継ぎ早に繰り出してくる。
 シンジはと言うと、防戦一方。
 本質的には敵わない相手ではない。
 だが、両目を完全に閉じたまま、しかも正確に攻撃を繰り出してくるとあっては、さすがのシンジも、やや呑まれ気味になっていたのだ。
 僅かながら、シンジの顔に焦燥の色が浮かんだ。
 ユイに疲れが見えないのだ。
 生前のユイが武道の達人であった、と言う話は聞いた事がない。
 こんな攻撃を出来る事自体不思議なのだが、それよりもなお奇怪なのは、ほぼ全力に近い攻撃を繰り返しながら、全く威力も速度も衰えていない事であった。
 シンジでさえ、ここまで動けば息は上がってくる。
 既に十五分近く経っているのだ。
(あれを使うか)
 指先を曲げたまま、首に伸びてきた掌底を払いのけると、少し後ろに下がった。
 無論、ユイは間合いを詰めてくる。
 いかにも疲労した、ように見せながら徐々に下がっていくシンジ。
 どう見ても誘い込んでいる言うより、疲労しきったかに見えるために、ユイは全く疑っていない。
 だがシンジは知らなかった。
 ユイの目が一瞬だけ、僅かに開いたことを。
 そしてシンジの後退方向をみて、口許に薄い笑みを浮かべたことを。
 シンジの狙った地点と、ユイが何か企んだ地点、早かったのはシンジであった。
 ユイの放った貫手が、シンジの顔を掠った時、その顔に血の珠が浮かんだ。
 驚いたのか、シンジは足を滑らせて、後ろに倒れ込んだ。
「しまった!」
 洩らした声は、どう訊いても本物だ。
 ユイがシンジを見下ろして、にやあと笑った。
 鼠を前にした猫のように、とうとう倒した獲物を前にした獅子のように。
 ゆっくりと、シンジの腰を跨いで立った。
「もう…逃げられないわよ、シンジ」
「そうらしいね」
 憎悪を隠しきれない声だ。
 しかし、ユイは気付いていなかった。
 自分の後方数メートルの地点に、シンジが落とした札が落ちていることに。
 しかも、その札の上にはシンジの髪が、置かれていることにも。
「シンジ、この時をずっと待っていたわ…」
 そう言うと、シンジの身体を跨いで四つん這いになったユイ。
 目にも唇にも、妖しい色が浮かんでいる。
「本当に抱くつもりかい?」
 シンジの目は、札に注がれている。
「母子の絆は、躯で取り戻すのが一番よ。でも、こんな小娘の躯では駄目。シンジ、貴方の魔力、吸わせて貰うわよ」
「肉体を戻せるのか?」
「その通りよ。私の胸、思い切り吸わせてあげ…!?」
 シンジが笑ったのだ−限りなく深く、限りなく冷たく。
「死んでもお断りだ」
「なっ!」
 次の瞬間、シンジは地に付けた両手をバネにして、一気にユイの下から抜け出していた。
 抜けた瞬間、シンジの指が打ち鳴らされた。
「何を無意味な事…ぐ、ふっ、があっ」
 ユイの胸から、再度ナイフが生えていたのだ。
 その数は四本。
「いかなフイールド使いでも、数本一度に刺されては保たないだろうが」
 冷ややかに告げたシンジの視界には、四人の自分が映っていた。
 鳴らした指の音で、ダミーを起動したのは言うまでもない。
「お、おのれ…よくも…私…を…」
 ナイフを突き立てたまま、ユイの手が動いた。
 指をかぎ爪のように伸ばし、シンジの足を掴もうとする。
 すっと、シンジが後ろに下がった。
 ご丁寧に、掴む直前まで待ってから下がっている。
「大した生命力だ。ゴキブリ並だな」
 本体に、ダミーが声を掛けた。
「マスター、始末致しましょうか?」
「いや、もう終わるからいいよ。戻って」
「はっ」
 その声が終わらない内に、再度シンジの指が鳴る。
 瞬時に、シンジであった者は、呪符と髪の毛に戻っていた。
 だが、これがシンジのミスであった。
 自分の傷を見ようともせず、ずりずりと這ってくるユイ。
 口から鮮血を滴らせ、胸元を深紅に染めて、それでもなお迫ってくるのは妄執故か。
 しかし、三度目の事。
 シンジが下がろうとした瞬間、ユイはにっと笑ったのだ。
 俯き気味だったシンジに、それは見えない。
 しかし、何となくだが異変を感じた。
 そう、何となくだ。
 第六感だったのかも知れない。
 ただし、間に合わなかった。
 ほんの少し、足が下がってしまったのだ。
 背中に凄まじい激痛が走り、上体が前屈みに折れた。
「つ…う…」
 まるで、杵か何かで、脊椎を直撃されたような痛みに、シンジの意識は遠のいていった。
「わた…しの…勝ちね…」
 幽鬼のような声で言ったのは、無論ユイである。
 シンジを襲ったのは、地中に埋め込まれていたATフィールドであった。
 時間差ではなく、エリア内に侵入者があった場合、瞬時に光の矢と化して襲いかかる代物だ。
 さすがのシンジも、地中からATフィールドを放つなど、思いも寄らなかったのだろう。
 だが、これでさっきと同じように下がっていたら、間違いなく背中から胸に突き抜けていたはずだ。
 僅かしか動かなかったのが、シンジの命を救った。
 加えてユイは既に瀕死に近く、威力も半分以下に落ちていたのも幸いした。 
 とは言え、現在シンジは気絶しており、ユイの魔手から逃れる術はない。
 血の道が出来る程の、大量出血をしながら動いてきたユイ。
 レイの肢体のまま、ゆっくりと起きあがった。
「ダミーを…戻した…のは…失敗ね…シンジ…」
 左右の肺に、それぞれナイフが突き刺さっているユイ。
 ゆっくりと、一本ずつ引き抜いていく様は、もはや人外の生物である。
 だが、二本抜いたところで手が止まった。
「限界か…」
 そう呟くと、仰向けになって失神しているシンジの上に、折り重なるように倒れ込んだユイ。
 震える指で、シンジの襟元をかき分けて肌を露出させる。
 ユイも又、妲姫と同じようにシンジの魔力を吸い取ろうと言うのか。
 もはや、断末魔に近い痙攣を起こしながら、ゆっくりと顔を近づけていくユイ。
 だが。
「ぐがっ…」
 奇妙な声が洩れた。
 シンジの右手が、その喉を掴んでいるのだった。
「お前に、この俺が精気など吸わせると思ったか?」
 ユイの知らぬシンジは、冷たい声で告げた。
 抗う事はおろか、声も出せないユイ。
 その喉に手を掛けたまま、シンジは軽々と立ち上がった。
 服に付いた埃でも払うかのように、ひょいと放り出す。
 背中から落ちたユイの喀血で、地面が紅く染まる。
 しかし、次の瞬間、
「逃げられたか」
 やや驚いたような声でシンジは言った。
 ユイの意識が消えたのである。
 死んだのではない、逃げたのだ。
 綾波レイの肢体は、単に失神している少女のそれになっている。
 ただし、誰の意識なのかは判らない。
「あの女なら厄介払いできるが…綾波レイならそうもいかんな。それにしても、ATフィールドを地中に埋め込むなど聞いた事は無かったが。何者だ、この女?」
 呟いてから胸に視線を向けた。
 僅かに上下している所を見ると、生きてはいる。
 だがそれを見て何を思ったのか、
「握り潰されてみるか?」
 冷たく告げたシンジ。
 ゆっくりと、起きあがった姿は妖姫の物であった。
 息を吐き出すと、胸は一気に盛り上がった。
「やはり、誤魔化せなかったみたいね。厚い看護を期待していたのに」
 送った流し目は、ぞっとするほど色っぽい。
「刺さっているナイフ、柄を捻って空気でも入れてみるか?」
「貴方に送られるなら本望よ」 
「永久(とこしえ)に後悔しそうだ。それよりさっさと抜け」
 シンジが言ったのは、無論刺さったままのナイフを指している。
 そう言われて、初めて気付いたように背中に触れた妲姫。
「あの女がもう少し元気なら、私も危なかったわ」
「と言うと?」
「人格が変われば肉体も変わる。私の胸がその証よ。でもね、残す事も出来るのよ」
「要するに、お前の肉体が受けたダメージを、他の人格に残したまま引っ込めるという事だな」
「お見事」
「それで、お前が何やら妙な訳か」  
 シンジが言うとおり、その呼吸は僅かに荒く、表情も血の気が余り無い。
 どう見ても末期の重病人、と言った風に見える。
「ATフィールド、あの心霊兵器は容量が共用なのよ、生憎ね。あの愚かな女が殆ど使い切った物だから、残されたわ」
「油断していたのでは無いのか?」
「大将軍」
 そう言うと、妲姫はシンジを見据えた。
 数千を経た妖女のそれは、幾星霜を超えてもなお健在であった。
 元から紅い眼が、更に赤光を帯びる。
 シンジはそれを真正面から受け止めた。
 だが、その視線が火花を散らす事は無かった。
 シンジの黒瞳が受け止めたのだ。
 数秒が経った時。
「俺が読みを誤ったか」
 ふっと、妲姫の視線が緩んだ。
「今回だけは見逃す。妾を侮って無事に済んだ唯一人の男、光栄に思うが良い」
 シンジは知ったのだ。
 稀代の妖女が不覚を取ったのは、油断したからではなく、レイの意識を封じていたからだと。
 大国の王達を、いとも容易く虜にして思いのままに操り、そして国を滅ぼして来た稀代の妖女が、小娘一人を何故気に掛けたのか。
 シンジに気を遣った、などではあるまい。
 おそらく、いや間違いなくかつて大将軍と呼ばれた男への想い。
 綾波レイはシンジの妹に、シンジがそう言った事を忘れてはいなかったのだ。
「もはや数分は持たぬな、姫よ」
「それで?」
 シンジの口調に媚びなど皆無であったが、妲姫のそれが少し尖っているのは仕方あるまい。
 だがシンジは気に止めはせず
「向こうを」
 と、短く告げた。
 妲姫は無言で背を向けた。
 既に出血は止まっているのを見て、ぐいとナイフを引き抜いた。
 何故か血が吹き出す事は無かった。
 当然という顔をして、もう一本も引き抜く。
「ATフィールドでの自己治癒、もはや出来ぬか?」
「出来れば自分でやっているわ」
「そうであったな。だが、俺には魔力は皆無だ。お前に吸わせる訳にはいかん。やや不本意だが、借りを一つ作るとしよう。少し待て」
 そう言うと、シンジの指が妖女のこめかみに吸い込まれた。
 声もなく崩れ落ちたそれを、シンジは受け止めた。
「生憎、いや幸運と言うべきだな。俺が魔力を全く持っていないのは」
 月光が散乱した屍の群に、白い光を冷たく注いでいる。
 妲姫を肩に、荷物でも担ぐようにして乗せると、車に向かってシンジは歩き出した。
 
 
 
 
 
 白衣の胸元にあるポケットの、薄型の携帯が鳴った。
 美しい指が、優雅を崩さずに携帯に伸びた。
 触れられる事を恥じらうかのように、携帯は震えたかに見えた。
 この番号に掛けてくる相手は決まっている。
「はい」
 いつも通りの何処か冷たい、だが普段とは僅かに違う声でユリが言った。
「終わったよ」
「今は君の時間?」
「不満そうだね」
「少し手こずるかと思ったけれど」
「黒服だけなら別に」
 一瞬の沈黙が流れた。
 それだけで、ユリは何かを読みとったらしい。
「面白い者に逢えたようね」
「ATフィールドの、変わった使い方を教わったよ」
「良い勉強になったようね。ところで、ダミーをこちらに送った?」
「僕の分身が、後ろから抱き付いたとか?」
「つい先程、初号機が一瞬だけ起動したと情報が入った。無論、誤報だとしておいたけれど。どうやら、オリジナルとダミーは繋がっていると見える」
「動いたか」
 シンジがそう言った瞬間、ユリは耳から携帯を離した。
 電話越しながら、凄まじい気がユリを襲ったのだ。
 十四才の少年が持つ物ではない、いや持ってはならぬほどの気が−即ち烈気。
「それで?」
 と言ったユリ。
 携帯は耳から離したままだ。
「レイちゃんとの切り離しは僕がやる」
「ほう」
「あれは医術より、魔術の部類だ。それにドクターと患者(クランケ)の関係は良好じゃない」
「素人の手術(オペ)への口出しは迷惑よ」
「糸を弾かれた迷医じゃ、当てにならないよ」
「随分とご機嫌斜めのようね、シンジ。糸で全身を巻いて欲しいの?」
 以前、長門病院に賊が侵入した事があった。
 金目の物ではなく患者の命を、それもよりによってユリの担当患者を、狙ったのである。
 入り口での正当な手続きを経ない場合、レーザーが容赦なく襲い、四種類のガスに加えて、液状爆弾までが迎撃に当たる長門病院。
 服は黒こげになりながらも、どうにか標的の部屋まで辿り着いた男。
 だが、そこに待っていたのはユリであった。
 全身を、ボンレスハムのように糸巻きにされた男は、声もなく床をのたうち回った。
 だが僅かに身動きするだけで、糸は容赦なく食い込むのだ。
 とは言え動かなければ、ユリの美指が繰り出す微妙な動きで糸は躍動し、身体を締め付けてくる。まさに、生き地獄であった。
 そして数分後。
 右手の小指が引かれた瞬間に、糸は一斉に絡み合い男の身体は火を噴いた。
 こんがり焼けた男の身体に、スプリンクラーが高圧水を叩き付けたのは、数十秒後の事であった。
 無論シンジは、その一件は知っている。
 だが、今のシンジはかなりご機嫌が悪い。
 気にもせず、
「藪医者の分際で、僕を加熱してみるか?」
 と来た。
「糸が勿体ない、止めておこう」
 そう言ったユリの口調は、どこか微笑が含まれている。
「当たり前だ」
 シンジはにべもない。
「単に敵に会った、だけでは無さそうね」
「逃げられた」
 とシンジは短く言った。
「分離してからの楽しみが増えた、それで構わない筈よ」
「吸精の運命が待っている」
 さすがに意味が解らず、
「吸精?」
 と、聞き返したユリに
「こっちの話だ。ところでそこに赤木リツコがいたら代わって」
「彼女は現在使徒の分析中よ」
「そう」
 数秒考え込んでいたが、ふと
「時間差でATフィールドを使う方法を知っている?」
 と訊ねた。
 僅かにユリの眉が上がった。
「敵の新戦法?」
「知らなければいい、じゃね」
 あっさりと電話を切ったシンジ。
「やはり、碇ユイの精神も混じっていたか。しかも、逃げられたと見える」
 そう言うと、うっすらと笑った。
 どうやら楽しいらしい。
 さて、電話を切ったシンジは、
「彼女は…多分知らないだろうな」
 勝手に判断すると、電話をしまった。
 そして鎖骨の辺りに手を当てると、ゆっくりと振り向いた。
 シンジの脳裏には、さっきの台詞が甦っていた。
 
 
 
 
 
「僕の魔力を吸わせろ?」
「そうだ。お前の魔力はほぼ無尽蔵に近いが、俺にはその反動でもあるまいが、皆無だ。礼代わりに多少なら良かろう」
「その事で」
「礼の事か」
「そう。何の礼に?」
「お前がナイフを投げつけたのは、精神(こころ)はどうあれ、お前の妹のものだ。しかしあの娘は、それを知らずに済んだ。あの女が綾波レイの意識を封じていたからな」
「一つ」
「ほう?」
「地中にあった妙な物に、背中を直撃されてから意識が無いんだけど。あれは?」
「ATフィールドだ。だが」
「だが?」
「あの女も見た事は無いと言っていた。未開地域の魔術に近いかもしれんな。あるいは、ネルフに何かの秘密があるのか」
「本来は、人の心の壁とか言ってた筈。文字通りの心霊兵器かな。まあいいや、やっておくよ」
「いずれ借りは返す。安心して吸わせるがいい」
「そんなに?」
「その通りだ。そしてもう一つ」
「何?」
「一徹の感情は見事と言っておこう、シンジよ」
 
 
 
 
 
「褒められたのかな、ありゃ」
 ふう、と吐き出した息は溜め息なのか。
 魔力の提供先である妲姫はまだ、車の中で眠っていると訊いた。
 いや、気絶中という方が正解らしいが。
 遺体の手配はすでにしてある。後二十分足らずで来るはずだ。
 助手席のドアを開けると、妲姫は未だ意識を取り戻していなかった。
 よく見ると、やはりレイとは根本的に異なる。
 レイのそれはあどけない愛らしさ、なのだが妲姫の顔になると、どこか近寄りがたい威厳にも似た物を感じさせるところがある。
 が、それを歯牙にも掛けない無礼者が一人。
「猫、起きろ」
 取りあえず、偉そうに呼んでみる。だが起きない。
 胸は上下しているから、死んでいる訳では無さそうだと、極端な発想で決めつけると今度は、肩を揺すってみる。
 だが依然として、起きる気配はない。
「幽体離脱でもしてるのかな」
 呼吸から確認すべく、ゆっくりと顔を近づけていく。
 その顔がほぼ重なった瞬間。
「あ」
 洩らした声は無論シンジ。
 だらりと垂れていた妖女の腕が艶めかしく、だがしっかりとシンジの首に巻き付いたのだ。
「狸寝入りだな」
「いつ寝て、いつ起きようとわらわの勝手じゃ。そんな事はどうでも良かろう、シンジよ」
「あまりご機嫌が良くないの?」
「身体の力が抜けておる、早うせい」
「ちょっと待った」
「何じゃ」
 二人の姿勢は、妲姫の上にシンジが倒れ込んだ格好になっており、その胸はシンジの身体の下で、僅かに形を変えている。
 なによりも巻き付いた腕は、光景を一層妖しい物へと変えている。
 既に顔と顔は、ほぼくっついている位の位置なのだ。
「どのくらい吸うのさ」
「好きなだけと、大将軍に言われなかったか」
「はいはい」
 あきらめがついたらしいシンジに、妲姫はにたりと笑った。
「諦めは肝心じゃ、何時の時代でもな」
 そう言うと、シンジの首に腕を巻き付けたまま起きあがった。
 倒れているシートにシンジを置くと、胸元に指を走らせる。
 軽い一降りで、第三ボタンまでが一気に裂けた。
 レイのそれとは違うが、真っ白な肌が露わになる。
 肌理も細かく、どこか少女のそれにも近いシンジの肌を見て、妖女はゆっくりと、舌なめずりした。
「だからそれは止せって…くっ」
 妲姫が口を付けた瞬間、快感にも近い物が走り抜けた。
 一度目の時には、強く吸われただけであったが今回は違った。
 唇を付けられたのは鎖骨。
 ご丁寧に、ねっとりと舌を絡み付けてきた妲姫。
 その両手は、シンジの肩を押さえている。
 単に唇を付けて吸われている、それなのに妲姫の舌が動くたびに、シンジの脊椎に喩えようのない快感がわき上がった。
 妖女の顔に血の気が戻るにつれて、それは度合いを増していった。
 このままならば、達していたかも知れない−或いは。
 だが、妲姫は詰めを誤った。
 閉じていた目を、開いたのである。
(わらわの虜になるがよい)
 無言の意志を読みとった瞬間、シンジの眼に凄絶とも言える光が宿った。
「はっ」
 低い声が洩れたとき、シンジは妲姫を突き放していた。
「大した物じゃな、シンジよ。だが後十秒は保たなかったであろうな」
「何の事やら、と言いたいところだが、その通りかも知れない」
 あっさりと認めたシンジだが、その眼は閉じられており、僅かに呼吸も荒い。
「さて、取りあえずは良かろう。なれど、わらわが戻るには足りぬな」
「躯に自信があるのは分かったが、今はいい」
「見たくない、とは言わぬのか」
 弄うような声は、完全に妖女の物へと戻っている。
「あ、間違えた」
 一方こちらは、かなりトーンダウンしているところを見ると、相当の量が吸われたのかも知れない。
「呪符で回復は出来ぬのか、シンジよ」
「吸われた事自体、初体験だ。それに魔力の回復レベルの話じゃない」
「なんじゃと」
「アオイに吸われたなら、こんなにならないはずって事だ」
 それを訊いた妲姫の、柳眉が僅かに上がる。
「今のお前を吸い尽くす等、わらわには容易い事じゃと、忘れてはおらぬか」
「やってみるか?」
 声は今ひとつだが、それでも眼だけは光を消さずに訊ねたシンジ。
 僅かに妲姫の顔が緩んだ。
「わらわの前にひれ伏してきた、王達を束にしたよりも精神力はありそうじゃな。良かろう、今日のところは免じて遣わす。暫し休むが良い」
 その人差し指が、口を付けたシンジの鎖骨に触れた瞬間、シンジは崩れ落ちた。
 それを支えながら、
「魔力を吸い取った相手は、短い時間ならば支配も出来るのじゃ。とは言え、それを知ったなら決して、吸わせはしなかったであろうな」
 軽々と担ぎ上げて運転席に座らせると、自分は助手席に座って眼を閉じた。
「このわらわに深手を残して逃げるなど…許さぬ、断じて許さぬぞ」
 凄まじいまでの鬼気が、その全身から吹き上げた。
 レイの意識を封じるのに集中していた、とは言え不覚を取った事に変わりはない。
 妲姫のプライドはいたく傷ついたようだ。
 だが約二十分後、シンジが目覚めた時に、隣で寝息を立てているのは紛れもなく、綾波レイであった。
 月光に照らされた寝顔は、どこか京人形のそれにも見える。
 ゆっくりと、シンジの手がレイの服に伸びていった。
 
 
 
 
 
(続く)

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