第十九話
 
 
 
 
 
 二人がいる場所は、やや広い草原になっている。
 その中央に向けて、ゆっくりと歩き出した妲姫だったが、ふと振り返った。
「シンジよ、暫し車の中におれ」
 当然のように命じた。
「はいはい」
 と別に逆らう事もせずに、あっさりと従ったシンジ。
 その後ろ姿を見ながら、妲姫は呟いた。
「妹が何時までも、兄の職業を知らぬではなるまい。ほほ、それで離れるようならその程度と思うがいい。とはいえシンジよ、お前にとってこの娘などどうでも良いのかも知れぬな、実際には」
 こめかみに軽く手を当てると、眠っている人格を呼び出す。
(はい…)
 応答があったのは数秒後、そしてシンジが呼ばれたのは数分後であった。
 
 
   
   
 
 既に月が昇り出した頃、トウジの妹が入院している病室の前に、人影があった。
 男の物とは思えぬ細さ、そして看護婦とは到底思えぬ躊躇い。
 少女−洞木ヒカリであった。
 トウジに対する思いをケンスケに知られた時、それはヒカリにとってさしてショックではなかった。
 箝口令を敷いたとは言え、ばらしたのは自らでありその事よりも、シンジに対する怒りが先に立っていたからだ。
 だが、シンジの場合には違った。
 子供扱いされた上に、完全に格の違いを思い知らされて、もう少しで棺桶に突っ込まれるところだったのだ。
 自分に天使でも憑いていたものか、局面は反転し想い人への点数を稼ぐ方法など教えられたのだが、それでかえって弾みがついたらしい。
「今日の所は見逃してあげますよ」
 と言われた事をヒカリは、はっきりと憶えている。
 シンジの意図はともかく、ヒカリにとっては、
「気が変わったらその時は」
 という事だろうと解釈している。
 何よりも、トウジが片づけられた時の様子を、克明に聞いているヒカリなのだ。
「やり残して後悔するのは嫌」
 セカンドインパクトを経験したわけでもない−その世代にしては奇妙な諦観は、無論シンジとの一件で突如喚起された物である。
 ただし、この時点でトウジとヒカリの間には、大きな差がある。
 お互いに相手に好意を寄せている−両想い的な関係−のは同じなのだが、既にトウジはシンジの口から、ヒカリが自分に好意を寄せている事を知っているが、ヒカリはその事を知らない、という点だ。
 数十秒後、ゆっくりと手が動いた。
 数度のノックの後、ノブが回されて、病室内へと静かに人影が滑り込んだ。
  
 
 
 
 
 妲姫に呼ばれたシンジは、その顔がどこか笑っている事に気が付いた。
 酷薄ではない。
 嘲笑でもない。
 抑えた怒り、でもない。
 あえて言うなら、悪戯っ子のそれであった。
 到底信じがたいのだが、確かにそれに近い笑みを、妖姫は浮かべていた。
「何をたくらんでいる?」
「わらわにおかしな言いがかりを付ける気か、シンジよ」
 そう言いながらも表情は変わらない。
 シンジは黙って妲姫の顔を見つめた。
 やや大きめの、それでいて無機質な瞳−最近大幅に変わっては来たが−は深みを備えた、見る者に膝下の礼を取らせ得る何かを備え、その小さな口許には、幾星霜を経た経験だけが備えさせる威厳−傲岸や不遜に近い事がないでもないが、根本的には異なる−を感じさせる。 
「わらわに見惚れたか?シンジよ」
 そう言いながらも、視線はシンジから外さない。
 妲姫の見透かすような視線はシンジの黒瞳に吸い込まれ−シンジの、どこか透明に近い視線は妲姫の瞳に弾き返された。
 普通ならあり得ない。
 稀代の妖女と、普通の少年が見つめ合っている事などは。
 だが、今に限って言うならば間違いなくこの二人の間には、対等が成立していたと言えよう。
 計っている者がいたなら、こう言ったであろう。
「ぴったり二分間だった」
 と。
 先にシンジが瞬きした。
「起こしたのか?」
 シンジが訊ねた。
「何時までも秘しておくつもりか?」
 妲姫が訊ねた。
「別に」
 それに対する答えは、
「では良かろう」
 であった。
「ふーん」
 と言ったきり、シンジは何も言わなかった。
 ほぼ中央付近に着いた時、妲姫の足が止まった。
「何を吹き込まれたかは知らぬが、それなりに楽しめそうじゃな。ほほほ、何やら気負って向かってきておる」
「じゃ、僕は見物人?」
「その通りじゃ。その辺におれ」
 
 
  
 
 
 既にシンジ達の姿は、追っ手の目に入っていた。拳銃を手にして、男達はその歩みを速めた。
 無論拳銃は麻酔弾である。
 いくらユリが治す、と言ったからとて万が一にも殺したりしては、何にもならない。
 何れも黒のスーツに身を包み、全身から殺気を立ち昇らせている。
 先頭を行く男の目に、レイの姿が映った。
 もし、それが何なのかを判っていたら、男は恥も外聞も捨てて、逃げ出していたであろう。
 だが、男はそれを知らなかった。
 そして、後に続く者達も。
 隆々たる体格の男達が、レイ−妲姫の周りをずらりと取り囲んだ。
 さすがにいきなり銃口を向けるような真似はせず、
「ファーストチルドレン、綾波レイだな」
 と訊ねたのは隊長格の男であった。
「何の用」
 と訊ねた声は、普段のレイと変わらない。
「ネルフ本部より帰還命令が出ている。おとなしく従うならば良しさもなくば」
 すっと、その足が前に出た。
 殺気など微塵も感じさせない行動に、一瞬視線が集まった時。
 ぴしゃん、と音がした。
 白い手が動いて、いたずら半分に平手を放った。
 誰もがそう見たであろう、そして誰もがそう言ったであろう。
 だが。
 次の瞬間男の首は胴体を離れ、宙に舞ったのである。
 首を失った胴体から、鮮血が吹き出し主を失った胴体が、ゆっくりと前に倒れ込んでいく−血しぶきを撒き散らしながら。
「下衆」
 綾波レイの姿をした、だが綾波レイではない者が言った。
「貴様らごときがわらわに指図すると?許さぬ、断じて許さぬぞ。冥府で永劫に悔いるがよい、愚か者共」
 次の瞬間、男達は一斉に飛び下がった。
 手にした銃を投げ捨て、懐から実弾入りを取り出した。
 本能的に悟ったのである−目の前の者は綾波レイではないと。
 これは違う。
 サードに甘えていつもくっついているあの娘ではない。
 ドクターに気に入られているあの娘ではない。
 何よりも、あの娘の瞳はこんな血の色はしていなかったぞ。
「ほほほ、そんなおもちゃで、わらわを討てると申すか。面白い、やってみるが良かろう」
 侮りきった口調より、全く動じていない態度より、何より本能的な恐怖に襲われて、男達の拳銃は火を噴いた。
 ベレッタの92Fを抜いた者もいる。あるいは357マグナムを、或いはコルトガバメントを。
 さして広くはない円である。万が一にも外れたらどうなるか。
 それを考慮する余裕は、男達には無かった。
 もし、その身体をすり抜けるような事があれば、あっさりと相打ちで幕切れになったのだが、そうはならなかった。
 弾は全て、妲姫の身体で受け止められたのである。
 数十発の弾が、妲姫の身体にのめり込む。
 そして。
 妲姫が軽く手を振ると、弾は一斉に地面に落ちた。
「面白い、とは世辞にも言えぬな。これではシンジ程度でも十分であったわ」
 そういうと、つかつかと進み、男の胸に向かって腕を伸ばした。
「ぐ…が…」
 奇妙な声を漏らした男の背、そこからは妖姫の腕が生えていた。
 引き戻したその手には、未だ脈打つ心臓が握られていた。
「脳を潰しても心臓を取り出しても、簡単に死を迎えられる。人間とは、つくづく便利な生き物じゃな」
 ぐしゃっ、と音がして、心臓が握り潰された。
 胸に大穴の開いた男の肩を、妲姫が押すとそのまま後ろに倒れ込んだ。
 心臓がつぶれた瞬間、血漿が飛び散り男達の顔にはね掛かった。
 そして妲姫に掛かった鮮血は−
 掛かった瞬間から消えていったのである。まるで、水に飢えている植物に吸い込まれる水のように。
 それは、異様な光景であった。
 男達の顔には、同僚の返り血が付着し、凄惨な様相を呈しているのに対し、それを作り出した張本人の妲姫には、染みの一点もないのだ。
「別に吸ったわけではないぞ。貴様ら下衆の血など、わらわには到底許せぬわ」
「な…何故…だ」
 絞り出すような声を出した男を見て、妲姫はあざ笑った。
「不死などあり得ぬと、単純な事を悟るまでに人間共は数千年を費やした。お前も費やすがよい−地獄でな」
 銃は通じない。
 となれば残る手段はただ一つ。
 原始的な方法だが、腕ずくである
 男達の手に出たナイフを見て、妲姫はさもおかしそうに笑った。
「愚かな思考の先は原点に帰り着くか。それにしても人間とは、つくづく進歩の無い生き物じゃの。所詮人間など、棒を持って獣を追い回しているのが似合っておる」
 その言葉が終わらない内に、嘲笑された男が動いた。
「いやあああああっ」
 裂帛の気合いと共にナイフを振り下ろす。
 肉厚のナイフは当たらずとも、気合いだけで皮膚を切り裂きそうな、凄まじい威力を秘めている。
 もはや、生きて捕らえるという思考は消え失せていた。
 殺す。
 目の前の女を。
 俺達が生きるために。
 殺戮だけに支配された男達。
 肩を切り裂かんとして繰り出されたナイフ。
 そして男は見た。
 僅かでも力を入れれば、折れそうな人差し指が横に動き、ナイフをへし折るのを。
「わらわを断つつもりか?」
 と、妲姫は優しく言った。
 硬直した男に向かって、
「だが、これではならぬ。正しい断ち方を教えてくれる」
 そう言うと、人差し指を男の頭頂部に当てた。
 男の目に、周囲の景色がパノラマのように映った。
 おかしな事に気が付く。
 自分は今、左と右で違う物を見ているのだ。
 身体が裂かれたのだと気が付いた次の瞬間に、視界は暗黒と化した。真っ二つに裂かれた体内から、吹き上げる鮮血が青草を紅く染める。
 シンジはこの時、十メートル程しか離れていない場所にいた。
 結跏趺坐などしていない。
 呪符四枚を四方に置いて、結界を張っているだけである。
 片手を軽くポケットに入れたまま、目の前の光景を眺めていた。
 古の時代より、異形の者より身を隠す術は伝えられている。
 土御門晴明が、その名を知られる手始めになったという、鬼から身を隠した術などもその一つ、と言えるかも知れない。
 とまれ、今のシンジは周囲からその姿を完全に消しているのである。
 黙って妲姫の遊びを見ていたが、吹き上げた鮮血が妲姫の服−レイの制服−に吸い込まれるのを見て。呟いた。
「やっぱりあの女、吸血鬼じゃないのか?」
 と。
 
  
 
 
 
 ベッドに少女が横たわっている。
 見舞いと告げた時、意識が未だ戻らぬ事は既に聞いている。
 ゆっくりとベッドに近付いた。
 横に立って少女の顔を見下ろす。
 取り立てて愛らしい、という事は無い。
 だが、それでもトウジに取ってはかけがえの無い妹であろう。
 ふとヒカリは思い出した。
 たまに可愛くない事を言うせいで、時に疎ましく思う事もあるが、それでも大事な妹の顔を。
 ただ、ヒカリはそのままシンジを非難する気はなかったのだ。
 既にケンスケから詳細は聞いている。
 トウジの妹が、こんな目に遭ったのは実は自業自得だという事も。
 ヒカリがシンジに対して敵意を向けたのは、幼い子を巻き込んだと言う人道的な物ではなく、あくまでトウジを傷つけたという、いわば私怨である。
 しかも現時点において、恋人同士ではない上に告白すらしていない、と言ったら普通は呆れられるに違いない。
 何よりも。
 ヒカリの発想では、トウジは常に自分を口やかましい奴程度にしか、見ていないと思われる。
 片思いの相手を傷つけられて、かっとなったと言ったら…熱い想いの表れと人は褒めるだろうか?それとも?
 置かれている花瓶は、既に空になっている。
 一階の売店で買い求めた花束を取り出した。
 店員に選ばせた花束は、この殺風景な病室には少し派手かとも思ったが、気にしない事にした。
 鈴原家には女手がないと言う事を思い出したのである。
 見舞いも付き添いも男だけなら、部屋の中が殺風景になるのも、ある意味では仕方あるまい。
 むさ苦しくならないだけでもましである。
 花瓶を運んでいって六分目辺りまで水を入れる。
 少ないかと首を捻ってから、花が多いのだと思いだし、一人で笑ったヒカリ。
 花を入れて窓際に置く。
 それだけで、部屋の中が一気に明るくなったような気がした。
「これでいいわ」
 呟いた瞬間、頭の中から忘却していた事を思いだした。
 シンジに言われるまま来てしまったものの、肝心の事を忘れていたのだ。
 すなわち。
「鈴原になんて言ったらいいのか」
 乙女の一途さと言えば聞こえは良いが、要するに粗忽である。
(どうしよう…)
 心の中で呟いた時、ノブが廻ってドアが開いた。
 だが、ヒカリはそれには気づかなかった。
 気が付いたのは
「何でイインチョがここにおるんや…」
 という声が聞こえた時であった。
 だが、あまりのタイミングにヒカリは凝結し、掛けた方の−トウジもまた、連鎖ともいうのか、固まってしまったのである。
 
 
 
  
 
 既に、屍は七を数えている。
 残りは六。
 なぶり殺しにしているのは、傍目にも明らかであった。素手は無論の事、ナイフも、そして銃すらも通じない相手。
 もはや男達は、戦意など遙か遠くに吹き飛んでおり、あるのはただ、死への恐怖心だけであった。
 妲姫の繊手が閃くたびに、腕はもがれ、あるいはへし折られ、あるいは目を抉り取られていくのである。
 血の狂宴を、どこか物足りなさげに見ているシンジ。
 要するに、自分も参加したいのである。
 大体、自分を付けて来た連中は自分が殺すと、決めていたシンジだったのだ。
 羨望に近い眼差しさえ浮かべて、殺戮の宴を見ていたシンジだが、ふと視線を妲姫に固定した。
 あきらかに、気が変化していた。
(あれは…レイちゃんだな)
 そう思っても、何故か動かないシンジ。
 男達もそれに気が付いたらしい。
 何よりも、その動きが止まったのだ。
 恐る恐る目の前の少女の動きを窺うと、動きが止まったのみならず、自分の前に転がっている屍を凝視しているではないか。
 僅かな声が、少女の口から漏れた−それが悲鳴に近い物−と気づいて。男達は顔を見合わせた。
 頷き合って、一歩前に出る。
 彼らは悟ったのだ−これは綾波レイであると。
 それでも幾分は用心深く、
「あ、綾波レイ、だな?」
 と言った。
「誰」
 その声が、本物の綾波レイである事を知り、男達は心から安堵した。
 だが、まだ気は抜けない。
 眠らせるなりなんなりして、さっさと捕獲しなければ。
 何よりも、あの碇シンジはその所在すら、ここには見えないのだ。
「ネルフ保安部員の…」
 精一杯、居丈高に言った声を、レイが遮った。
「お兄ちゃんの敵?」
 と。
「お兄ちゃん?サードの事か」
「サード…あなた達は、お兄ちゃんの敵ね」
「だとしたらどうする?何かしてみるか?」
 普段のレイの物と知って、完全に舐めきっている。
 次の瞬間であった。
 レイの肩を掴もうとしたのか、伸ばした男の腕にレイが触ったと見えるや、男の手が綺麗な切断面を見せて、地に落ちたのである。
「ぐあああっ」
 苦痛の呻きをあげた男に、レイは冷たく、だがどこか怯えたような感情の入り交じった声で告げた。
「姫様に言われたわ。『兄の側に居たければ、後はお前が始末せよ』って。こんな屑共はさっさと始末できなければ、妹では居られないって」
 腕を断たれながらも、戦意を喪失しなかったのは大した物と言える。
 だが、男は根本的に誤っていた。
 すなわち、自分の腕を断ったそれは、単なる攻撃用の何かではない事を、見抜けなかったのだ。
 片方の手で抜きだしたナイフを持つと、一気に斬り付けた。
 そしてあっさりと、薄いオレンジの、光の壁に阻まれたのである。
「一つ言い忘れたわ」
 思い出したようにレイが言った。
「こうも言われたわ。お前には勿体ないが、私の想い人の為に特別に教えてくれる。今のお前は無敵になっておる、とも」
 その言葉に、どこか楽しんでいる響きさえ感じて、男達はぞっとした。
 数秒で、レイもまた化したのだ−溢れる鮮血を秘蔵の美酒とし、わき上がる苦痛の叫びを子守歌とし、絞り出される呪詛さえも、天使の紡ぎだす至上の調べと聞く殺戮の乙女へと。
 退きたい−それが叶うなら、彼らはどんな犠牲でも厭わなかったであろう。
 だが。
「お兄ちゃんの敵を、私は決して許さない。私が止めるのは、ユリさんとお兄ちゃんに言われた場合だけ」
 ゲンドウの名前は出てこなかった。
 どうやら、既にゲンドウ至上主義は消え去ったらしい。
 全身から、冷たい怒りと溢れる殺気を漂わせて、一歩踏み出したレイ。
 男達には見えた−その背中の白い翼が。
 そしてそれは、紛れもなく死の大天使の物であった。
 
 
 
 
 
 このまま行けば、白い月が半顔を見せたであろうその時まで、二人は動かなかったかも知れない。  
 それを破ったのは、院内放送であった。
 ナースステーションからの呼び出しが、二人の終わらぬかに見えた時を終わらせた。
 先に口を開いたのは、ヒカリであった。
 まだ固まった姿勢のまま、
「ど、どうして…鈴原がここに…?」
 普通に考えれば、トウジが来るのは当然であり、ヒカリの来訪こそ?マークの付く物なのだが、ヒカリはそこまで考えなかったらしい。
 あるいは、動揺で思考能力が低下したのか。
「ワ…ワシは…せや、妹の見舞いや。イ、イインチョこそ…何で此処に来たんや?」
「…わ、私だって…お、お見舞いよ…お見舞い」
 どうやらこの二人、仲良く揃って思考能力が低下しているらしい。
 振り返ったヒカリと、トウジの視線が合った。
 だが、これはまずい。
 トウジは既に、ヒカリの想いを知っており、自分もまたシンジには白状してしまっていのだる。
 またヒカリの方はトウジの想いを知らないが、自らの想いをケンスケとシンジに知られている。
 ケンスケが箝口令を破る、とは思わないが、シンジにはそんな物は敷いていない。
 何よりも、そんな事ができる状況では無かったのである。
 ともあれ二人とも、やましい部分はある。見つめ合ったままで、真っ赤になってしまった。
 『「あ、あのっ」』
 重なったのは、約三十秒後。
 更に赤くなって、
「す、鈴原が先に…」「いや…イインチョが先に…」
 申し合わせたように、
 『「あ、あのっ」』
 部屋の気温も心なしか、いやはっきりと上昇している。
 シンジが居たら、間違いなくこう言ったであろう。
「誰か、バケツ一杯の水と、それから消火器持ってきて」
 と。
 それはともかく、何とかタイミングが合って、先に話し出せたのは、トウジの方であった。
「実はな…ワシ…い、碇君に聞いたんや」
 本人が居なくても、もはや呼び捨てには出来ないらしい。
 無理もあるまい。
 とりあえず事情聴取になりかけたのを、
「今回は不問でいいよ」
 の一言で救われたが、
「今度ちょこまかしていたら、ミンチだよ」
 と、宣言されたのである。
「聞いたって…何を…」
 そう言った時、既にヒカリは自分の想いが露呈したのを悟っていた。
「その…イインチョが…ワシの事を…」
 言いかけて気づいた−目の前の少女が泣いている事に。
 何故泣いている?そう訊かれたら、ヒカリは自分でも判らなかったであろう。
 怒り?
 いや、違う。
 嬉しさ?
 それはあり得まい。
 悲しみ?
 それも−違う。
 あえて言えばすべてであり、そしてどれも違っただろう。
 女性の涙など、理由を見いだす方が難しいのである。
「ち、違うんやイインチョ。まだ…話はあるんや」
「え…」
「ワシなあ…ケンスケの奴と一緒に、エヴァを見に行ったんや」
「エヴァンゲリオン…碇君の?」
「せや。けどな、もう少しで…妹と同じ目に遭う所やった…」
「ど…どう言う事」
「イインチョは知っとるかもしれんが、こいつが怪我したんは…碇君の所為やない。自分が悪いんや」
「……」
「シェルターにいて、おとなしゅうしとけばええもんを、ぬいぐるみなんぞ取りに行ったんや。巻き込まれたんはその時や」
「それと同じって…どういう事」
「丘の上で見物しとったらな、エヴァが飛んで来たんや」
「飛んできた?」
「せや、なんや飛びのこうとしたみたいなんやが…足に使徒の欠片みたいなモンが巻き付いとってな、ワシらの真上に飛んで来たんや」
 瞬時にヒカリの顔から血の気が引いた。
「そ…それで?」
 そう訊いた時、ヒカリの手はトウジの手を握っていた。
 無意識だったらしく、本人は気づいていない。
 そして、トウジも又。
 こちらは、気が付いてない素振りをしていただけかも知れない。
 既にヒカリの想いは知っているトウジなのだ。
「パイロットが乗っとる、エントリー何とかちゅうのには、変な物をいれたらあかんのや。せやから本当は、ワシらなんぞ積んだらあかん。けど碇君は、ワシらを乗せてくれた。その時、みょーな事をしてな」
「妙?」
「ケンスケの目の前で、指を動かしたんや。よう判らんかったが、それだけでケンスケのやつ、寝てしまいよった」
「指をコインに見立てての催眠術かしら?それで、どうしたの?」
 そう言ってから、自分の手の位置に気づいた。
 トウジの手をしっかりと握っている、自分の手に。
 真っ赤になったが、自分から離そうとはしなかった。
 トウジも一瞬生唾でも呑み込んだようだが、話を続けた。
「ワシに聞いたんや…」
「訊ねた…って事?」
「ああ。碇君はこう言ったんや。『さっき、洞木ヒカリに襲われた。君の事が好きだから、君を襲った僕を許せなかったそうだ』って」
「そ…それでっ?」
「『洞木ヒカリの事は好きか?』そう言われたんや…。『答えろ』言われたんやが、その時に外には聞こえないようにしとってくれてなあ」
「聞こえない?」
「せや。エヴァの中の声は、ネルフに聞こえとるんやろ。それを聞こえないようにしてくれたんや…碇君は」
「そ…それでっ、す、鈴原は…何て…」
「“嫌いやないで”、こう言ったんや。そしたら…『好きかと訊いている』って言われてなあ」
「……」
「ワシは言ったんや、「イ、イインチョは口やかましいけど、あ、あれでも優しいとこあるんやで…・」って。そこまで言うたら「もういい」言われてな…」
 トウジにしては、精一杯の告白でもあったろうか。
 二人の時間が、再度固まった。その視線は、相手の胸元に注がれている。
 別にトウジの胸板に、あるいはヒカリの乳房に興味がある、訳ではない。
 単に、そこから動かせないのだ。
 トウジは既に両想いを知っており、ヒカリもまた、自分達がそれに近い状態にある事を知った。
 迄は良いのだが、どうしても…気まずい。
 シンジならこう言ったかもしれない。
「言う訳で、君とは相思相愛にあるらしいね。今後とも宜しく」
 だが、この二人にシンジの千分の一程もそんなものは無い。
 彼らは、普通の十四歳なのだ。
 二人とも相手の身体に視線を注いだまま、動けないでいる。
 このまま、夜が明けるかと思われた時を破ったのは、トウジの腕時計であった。
 時報を告げるアラームが、二人の止まった時を破る。
「す・鈴原…」
 意外にも、沈黙が先に解けたのはヒカリの方であった。
 いざという時の度胸は女の方がある、と言う法則は、ここでも実証されたようであった。
「何や…」
 一瞬、ヒカリが目を閉じた−何かを振り切るように−そして。
「私のこと…好き?」
 内に溜まっていた分、想いは凝縮されていたようだ。
 その証拠に、訊ねた声にはよどみも躊躇いも無かったから。
 そしてトウジは。
 何と言えば良いのか、よく分からなかったのだろう−多分。
 僅かに考え込んだ。
 普通に考えれば、そして鈴原の告白にも似た言葉を訊けば、少なくとも嫌いという言葉が返って来る事は浮かぶまい。
 ただ、恋する乙女によくありがちな症状の一つである、思いこみ。
 ヒカリはそれに囚われた。
 もし此処で、拒否の答えが返って来たとしたら?
 自分は単なる道化師(ピエロ)に、成り下がるのだ。
 最早、学校でも毎日合わせる顔などあるまい。
 ヒカリの顔が、羞恥に染まりだした時。
 トウジは頷いた。
 瞬時に、ヒカリの顔が輝く。
 やはりこういう場面は、観客に身をやつしているのが一番と言えるかも知れない。
 自らが主役を演じるなど、背中に凄まじいまでの痒みを感じるだけだ。
 シンジなら、おそらくはそう言ったであろう。
 二人の視線が重なった。
「す、鈴原…それって…」
「本当はな…」
「うんっ」
「わからんのや」
「…なっ!?」
 ヒカリの声が裏返ったのも、当然と言えるかも知れない。
 だが。
「イインチョがワシの事を好き、それはわかったんや。せやけどなあ、ワシは…その…好きになるちゅうのがどないな事か…よう分からんのや」
「分からないって…」
「ワシは、口うるさいおなごは嫌いや。けどな、イインチョにいつも色々言われてもな、嫌いと思った事が無かったんや。他のおなごにそないな事言われとったら、間違いなく嫌いになっとる。けど、イインチョは違ったんや」
「そう…」
 そう言ったヒカリの行動は、おそらく自らも予想しえない物、だったのではあるまいか。
 一歩前に踏み出すと、向かい合った姿勢のまま、トウジの胸に頭をそっと寄せたのである。
「イインチョ…」
「ねえ鈴原」
「何や?」
「その…『イインチョ』って呼ぶの、止めてくれない」
「嫌なんか?」
「そうじゃないけど…私の事は…洞木でいいわ。ううん、そっちがいいの」
「ヒカリと呼んで」
 と言わなかったのは、正解であったろう。
 名字で呼ぶのは、別に不自然では無いからだ。
 だが、名前ともなればあからさまに、周囲に何かを宣言するような物である。
 そして。
「ほ…洞木…これでいいんか?」
 名字だけでも、男気を大量に消費したらしいトウジの様子に、ヒカリは自分の判断が間違っていなかった事を知った。
 それを訊いたヒカリは頷いたのだが、まだヒカリの頭はトウジの胸に、もたせ掛けたままであった。
 既に、満月はその美貌を全て見せており、どこかぎこちない二人の様子を、優しく、そして冷たく見守っていた。
 未だ意識の戻らぬ怪我人の枕元で、不器用な二人の想いは、ゆっくりと触れ合おうとしていた。
 トウジの手が伸びて、ヒカリの背に廻されたのは、それから数分が経過してからであった。
 
 
 
 
 
 妲姫がレイに何を吹き込んだのか、シンジは知る由もない。
 だが、元からあった素質なのか、或いは「シンジの敵を許さない」との決意が彼女を変えたのか、今のレイに迷いなどは、微塵も見られなかった。
 にも関わらず、シンジは気付いていた。
 レイの戦闘形態が、彼女自身の能力を超えている事を。
 要するに、妲姫の意志が働いているのである。
 或いは妖姫がその能力を、急仕立てながらレイに教え込んだ物か。
(余計な事をするもんだ)
 シンジが内心でぼやいたのは、無論レイの窮地を望むからではない。
 レイが強くなるのは、別に構わない。
 だが、それ以外の事で妲姫の知識をレイが得たら?
 数千年の間に会得した、男を蠱惑する術をシンジ攻略に使われたら?
 多少は厄介である。
 と言うより、単に面倒だと言った方が正解か。
 そのレイは既に、六人中三人までを始末していた。
 一人目の、レイに腕を断たれた男は、ATフィールドを纏った手刀が、頸動脈に触れるやいなや、鮮血を吹き上げて倒れたし、次の男は、レイが優しい微笑を見せて、首にそっと触れた瞬間思わず見とれたが、次の瞬間にはその首が音を立てて、回転したのである。
 しかも三百六十度。
 あり得ない、そして決して治らぬ一撃であった。
 首をぶらつかせながら、男はゆっくりと倒れた。
 その目が、僅かに驚愕を湛えているのは、レイの微笑に驚いたせいだ。
 決して自分に起きた事態への物ではない。
 それ程、レイの動作は自然だったのだ。
 人の首を一回転させて、頸骨をへし折ると言う行為が。
 三人目の男は、ナイフを構えて特攻の姿勢を見せたが、いとも容易く交わされて、上体が泳いだところで、腕を掴まれた。
 そして。
 男が最後に見たのは、自分の右手が、自らの喉笛めがけてナイフを一直線に突き出す光景であった。
(眼と唇…濡れてないか?)
 シンジの読みは当たっていた。
 レイの唇は艶やかな光沢を放っており、艶を出すグロスでもふんだんに使ったかにさえ、見えるではないか。
 そして−ゆっくりと舌なめずりしたレイ。
 もはや思考までもが、妖女とシンクロし始めたらしいレイ。
 何処か欲情にも近い光を湛えて、獲物を見据えている瞳は、目の前にある深紅の珍味を映して、一層の紅を帯びている。
「次は、誰?」
 その声が、お兄ちゃんと呼んでシンジに甘える時の物と、寸分変わらぬ物である事を知ったシンジ。
 僅かに宙を仰いだ。
 感嘆したと言うよりは、驚いた、と言った方が正解かも知れない。
 妹の変貌ぶりを目の当たりにして、自分の初仕事を思い出したのだ。
 手を紅に染める事への、僅かな躊躇い、あるいは恐怖、そう言った物がレイには皆無と言って良いほどに、見られなかったのだ。
 いや、最初の数秒で消えた、と言った方が正解だろう。
(別に構わないか)
 人の人生と、割り切ったらしいシンジ。
 だが、次の瞬間、その眼がすっと細くなった。
 レイの身体が、がくんと揺れたのだ。
 こめかみに浮かんだのは、間違いなく冷や汗に見える。
 次の瞬間、動きの止まったレイを見て、二人の男が同時に襲いかかった。
 
 ドンドンドンドンッ
 
 開いた銃孔は二つ。
 男達の眉間に、それぞれ一つずつ。
 だが、弾は四発発射されている。
 一カ所に二発、撃ち込んだのだ。
 硝煙を吹き消してから、ワルサーを戻し、ゆっくりと結界から出たシンジ。
 残る獲物は一匹。
 その男は、現れたシンジを見ても、声一つ立てられない。
 無理もあるまい。
 突如銃声がしたかと思うと、同僚が二人同時に倒れ、しかも銃声がしたと思われる場所から現れたのは、凶悪な主犯と言われていた碇シンジ。
 それよりも、シンジは突如空間から出現したようにしか、男の目には見えなかったのであり、そしてそれは、ほぼ正解であった。
 だが、レイは何故かこちらを振り向こうとはしない。
 そしてシンジも、声を掛けようとはしなかった。
 無論、男を見ようともしない。
 しかし冷ややかな視線をレイに向けており、その上依然として細められたままの目には、どこか憎悪さえ感じられるのは何故か。
 シンジは、予想していたのかも知れない。
 その口から出る言葉を。
 そして、自分の取る行動をもまた。
 哀れな男は見ていた。
 綾波レイが、途方もない邪気を持った妖女へと化し、自分の仲間達を始末していくのを。
 男は知っていた。
 突如、普段の綾波レイに戻った事を。
 だがそのレイもまた、妖気ではさっきまでの女には到底及ばないが、殺戮を愉しむ死の天使へと化した事を。
 そして。
 今、目の前の少女は三度の変貌を、遂げようとしていた。
 ゆっくりと眦が釣り上がり、口許が大きく横に裂けていく。
 風は殆ど無い。
 そのせいで、濃密な血臭が周囲には立ちこめているのだ。
 それを見守るのは、白く、そして冷たく微笑む月のみ。
 だが、それなのに。
 少女の髪はざわめいているではないか。
 まるで、これから逆立とうとするかのように。
 そこには、綾波レイの面影は微塵もない。
 また、最初に現れた妖女の物さえ。
 レイが見せた、冷たい怒り。
 妖女が見せた、どこか威厳にも近い重厚さ。
 その何れとも違う。
 そしてそのどちらでもない。
 人が、決してしてはならぬ表情を、目の前の少女はしようとしていた。
 いいや、既に少女ではあるまい。
 顔と精神(こころ)は、別物なのだ。
 ゆっくりと、鬼女が顔を上げた。
 男を認め、にいっと嗤う。
 人はそれをなんと呼ぶだろうか。
 安達ヶ原を思い起こすか、それとも片腕を切り落とされるまで、思うがままに跋扈した京の都か。
 あるいは、我が子を隠された鬼子母神か。
 ゆっくりと、女が言った。
「久しぶりね、シンジ。ずっと…逢いたかった」
 その瞬間、シンジの眼が凄絶な光を帯びた。
 歴戦の猛者のみが持つ物、ではない。
 まして十四歳の少年が持つ物では。
 そこにあるのは、ただ一つの感情であった。
 そう、憎悪。
 だが、シンジは動かず、何も言わない。
 まるで、何かを待っているかのように。
「だ…誰…だ…」
 男に身体に傷は無い。
 だが、絞り出すようにして訊ねた声は、もはや末期の水を唇に掃かれた者の、それと全く変わらない。
 あるいは、地獄の亡者の声か。
 答えは直ぐにあった。
「ユイ。碇ユイと知って置くがいいわ…冥土のお土産に」
「なっ!?」
 男が驚愕の声を上げた時、彼我の差は数メートル。
 軽く地を蹴ると、一気に差を詰めて男の前に立った。
 男が死を悟った時、ユイは言った。
「それとも、三途の川の渡し賃、かしら?」
 にっこり笑って言った次の瞬間、男の喉笛を横に指が走り、ぱっくりと開いた傷口からは、鮮血が吹き上げた。
「手ぶらじゃ、あなたには会えないでしょう?」
 倒れていく男を見ながら、ユイが言った瞬間。
「か…はっ」
 口から血を吐き出して、上体が前にぐらりと傾いた。
 倒れかかったが、かろうじて体勢を立て直したユイ。
 その背中から胸に掛けて、刃渡り三十センチのナイフが、突き抜けていたのである。
「僕の前に現れて、僕が生かしておくと思ったか?」
 隠しきれない憎悪を含んだ声で、シンジは冷たく告げた。
 吹き出した血潮に、満月が冷たく微笑んだように−見えた。
 だが。
 シンジは見た。
 胸元から突きだしたナイフを、素手で握ったユイが妖艶に笑ったのを。
 鋭利な刃物を素手で掴めば、当然手は切れる。
 胸から下を文字通り紅に染めて、ゆっくりと振り向いた顔から微笑は消えていなかった。
「悪戯っ子になったみたいね、シンジ」
 その声は、レイとも妲姫とも違う。
 そして、確実に冷気と鬼気を十二分に含んでいた。
  
 
 
 
 
(続く)

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