第十八話
 
 
 
 
 
 人の趣味は多種多様である。
 室内にこもり、部屋から一歩も出ずに出来る事を趣味とする者。
 或いは海へ板を担いで出かけて、一夏で真っ黒になる者。
 または、冬になると幾分形の違う板を担いで、斜面の流星となる者。
 他者の趣味に対し、とかく言うべきではあるまい−基本的に。
 何故基本的に、なのか。
 室内に籠もったままの者が、実は大がかりな機器を相棒に、秘された場所の盗聴に励んでいる場合が、あるからだ。
 或いは海へ、或いは冬山へ担いでいく板が、実は誰かを誑かす為の補助道具だった場合もあるからだ。
 その毒牙にかかった哀れな者達の末路など、想像もしたく無い物の一つと言えよう。
 但し。
 それは可愛いとさえ、言えるかもしれない。
 この二人に比べれば。
 そう−溢れる鮮血を秘蔵の美酒として酔い、地獄の亡者のような呻き声を、歌姫が歌い上げるブルースとして、聞き入る彼らに比べれば。
  
  
 
 
   
 
 
  
 
 
 ようやく使徒の残骸が、ネルフ内に運び込まれようとしていた。
 ミサトは現場の指揮に向かい、ユリとリツコは、発令所内のモニター越しにその様子を見ていた。
「やはり、穴は余分だったか」
 呟いたユリの声は無論、使徒の顔面に開いた穴を指している。
 コアだけを破壊して、他は原型を留めているのが理想なのだが、シンジのついでにより、貫いた腕の所為で大きな穴が開いていたのだ。
「でもドクター、あの状況下でよくあそこまで」
 感心を言葉に載せて−あくまで過ぎないように気を付けながら−言ったのはリツコである。
 精一杯褒めたつもりでも、当然だなどと冷ややかに言われては、二、三日寝込むしか無いからだ。
「指揮系統の混乱の事かな?」
 ユリの声は微塵も変わらない。
「は、はい、そうです。いえ、そうではなくて…」
 リツコの言葉が、難解な物に変わる。
「プラグ内の異物は気に入らなかったが、それでも眠らせてしまえば、あの位は可能だ。それよりも、シンジに言われなかったかな。仕える武器を用意するようにと」
「その件ですがドクター。銃とプログナイフ、それ以外でシンジ君の気に入る物と言えば、何が良いでしょうか?」
「プログナイフ、使えない物ではないが、やはりシンジには物足りないかもしれん。取りあえず」
 一旦言葉を切ると、僅かに首を傾けて考え込むように見えたユリ。
 顔が動くと、それに伴ってシンジ程ではないにせよ、艶やかな黒髪が妖しく揺れ、口許に軽く当てた美しい指と相俟って、リツコは何故か心臓の鼓動が一気に上がったのを感じた。
 数秒で答えは出たらしい。
 ユリが何か言おうとした時、リツコの携帯が震えた。
 胸ポケットに差し込んであったのだが、振動に細工でもしてあったのか、僅かにリツコの顔が紅くなった。
 普通を遙かに越える振動は、ハーフカップのブラジャー越しに、ダイレクトに刺激を伝え、手で触れられたりするのとは格段に違う快感をもたらしたのである。
「んっ」
 一瞬くぐもった声を洩らしかけたが、横にいる人物を意識に浮かべ、意志の力で平素の顔に戻した。
「シンジの悪戯と見えるな」
「でもシンジ君に渡した記憶は…あっ」
 思い当たる節があったらしい。
 取りあえず出た。
 番号通知でシンジからと判っているから、
「はい、リツコです。シンジ君、今どこに?」
 素直に言うとは思っていないのだが、追跡開始から二時間経ってもなお、諜報部は脱走した二人組の、影さえも見つけられないでいたのだ。
 もっとも、リツコはシンジが帰ってこないとは思っていない。
 脱走を唆したのはユリだから、そのうち気が向けば帰ってくるだろう、位に考えていたのだが、別にミサトに告げる事も無いと黙っていたのだ。
 第一、ユリに向かって
「ドクターが唆したのですか?」
 などと口が裂けても言えない。
 だから取りあえず訊いたのだが、シンジの返答は関係ない物であった。
「追っ手は何人出したの?」
「え…十三人、よ」
「ぶ・そ・う・は?」
 その瞬間、リツコの背筋を凍てつくような物が走り抜けた。
 彼女は知ったのだ、死神が大鎌を研いでいるのを。
 そしてこれは、脱走ではなくて狩りなのだ、と言うことを。
 黒衣に身を包んだ死に神が、ひっそりと微笑んでいる姿が、受話器の向こうでリツコにははっきりと見えたのである。
 絶句したリツコにユリの視線が向けられ、震える手のまま、リツコはユリに電話を渡した。
「私よ」
「ちゃんと武装させて出したね?無抵抗じゃつまらないよ」
「選り抜きの精鋭だそうだ、ミサト嬢によれば」
「ホルスタインの保証など、無いのと同じだよ。それで?」
「左手と左足を縛った上での狩り、と言う位だ。無論、例の連中も入っている」
「まあいいや。で、現在位置は判ってるね?」
 シンジに弾倉を渡した時、ユリはセンサーを取り付けて置いたのだ。
 だが、シンジはあっさりと解除してしまったが。
「今度から、血液内に同位元素(トレーサー)を入れさせて頂くわ」
「やだね」
「これは冷たい事を」
「藪医者の造る物なんか、危なくて仕方ない」
「危ない兄君に、断言されたくはないが。さて妹君は?」
「いないよ」
 僅かにユリの表情が動いた。
 シンジの言葉が、単にはぐれたとか家に置いてきたなどとは、本質的に異なっている事を、瞬時に感じ取ったのだ。
「ほう、では隣には誰が?」
 その言葉を訊いた瞬間、リツコは後悔と−羨望を感じた。
 即ち羨望はこの場を離れている友人−ミサトに。
 そして後悔は、この場に残っている自分に。
 ユリからは、冷たい気が漂い出していたのである。
 だが。
「猫娘」
「…もう一度」
 さすがのユリも訊ね返したが、
「またいずれ」
 簡潔に言って切られてしまったのだが、シンジとユリの通話において、シンジが先に切ったのは、これが初めてである。
「やはり、シンジの精神分析はアオイにしか無理だな」
 どことなく面白そうに言ったが、漂う気は未だ消えてはいない。
 ゆっくりとリツコに視線を向けると、携帯を渡してから、
「人数はどうやら不足のようね」
 と言った。
 ユリにこんな、普通の会話のように話しかけられたのは初めてである。
 思わず釣られて、
「何があったの」
 と、言いかけてからあわてて、
「ど、どうされました、ドクター?」
 言い直した。
「最低でも、二百人程度の一個中隊は派遣するべきであったな」
 いきなり言われても、訳が判らない。
「も、もしやシンジ君が、N2爆雷でも持っているとか」
 他人が訊いたら噴飯物の科白だが、ユリは笑いもせず、
「近いかもしれない」
 真顔で告げた。
「……」
 絶句したリツコに、
「シンジと一緒にいるのは、レイ嬢では無い」
 更に驚嘆を深めるような事を、さらりと言ってのけた。
「じ、じゃあ…レイは…」
「いる事はいる」
 此処に至って、遂にリツコの脳もメルトダウンを起こした。
「ド、ドクター、お願いです。ちゃんと教えて下さい。私には到底事態が…」
 いつも冷静な雰囲気はどこへやら、すっかり弱気になったリツコだが、ユリは気にする様子もなく、
「シンジと一緒にいるのは、私の敵だ」
 と、言ったのである。
 『今シンジと一緒にいるのはレイだがレイではない。そして私の敵だ』
 ここまで言われて、リツコの脳裏にある人物が浮かび上がった。
(綾波レイのクローン元…だとしたらシンジ君がまとめて殺しかねない…レイが危ない?)
 だが、瞬時にそれを否定した。
(レイが危ないからと言って、大量に人数を派遣する必要はない筈。それにレイの中から他の人格が顔を出した事は無い筈…)
 リツコは、無論妲姫の事など知る由もない。
 答えが手詰まりになるのは、当然であった。
 結局出たのは、
(お手上げね)
 これであった。
 賢明かも知れない。
 いくらリツコでも、本来ユイの中に稀代の妖女が眠っており、初号機のコアとなった部分とは分離して、今のレイの中にいるなどと、しかもそれを目覚めさせたのはシンジの口づけによる物で、ユリと奇妙な敵対関係にあるなどと知った日には、卒倒しかねまい。
 ネルフの生命線とも言えるマザーコンピューターMAGIは、その時の様子を記録していなかったのである。
 いや、拒否したと言った方が正解か。
 ともあれ、発令所内の様子をMAGIが記録するのを嫌がったのは、前代未聞の出来事であり、これが最初で最後になる。
 リツコが考え出してから、投了するまでに数十秒。
「あのドクター」
 おそるおそる掛けた声は、いつもと変わらぬ声で迎えられた。
「なにか」
「すぐにミサトに連絡して、諜報部を全員向かわせます。それで足りなければ、地元の警察も総動員して」
「それには及ばない。いたずらに死刑囚を増やす事もあるまい」
「し、死刑囚?」
「今出ていった者達の中に、先だってシンジとレイ嬢が出かけた時、何処かの愚か者の命令で、付けていった者達がいる。護衛の名の下であろうと、私の親友を付けるなど万死を以てしか償いはできん。それに今あの二人にかかれば、数百向ければ数百、仮に千を向ければ千、悉く屍と変わるのみ。ネルフとて、人員削減にかかっている訳でもあるまい。無論、是非にと言うなら止めはしない、ご自由にされるといい」
 こんな科白は、誰が言っても何となく冗談気味に聞こえるのだが、ユリの口から出ると、その影も霧消する。
 その言葉を聞いたリツコは、しばらく無言であった。
 無論、無視を決め込んだ訳ではなく、言葉の意味を咀嚼していたのである。
(死刑囚?…ミサトの指示でシンジ君とレイを付けた連中が…では張本人のミサトは…)
 ふとぞっとしたが、すぐに一つの事を思い出し、僅かに安堵した。
「あの人が助けたみたいだし」
 シンジがこう言っていたのを、思い出したのである。
(…本来なら死んでいてもおかしくないのよね…)
 この発想を見ると、朱に交わればなんとかという言葉は真実であったようだ。
 考え込んだり沈んだり、明るくなったりと次々表情が変わるリツコ。
 リツコの考えなど、手に取るように分かったユリは、内心で冷たく笑った。
「さて、どうされる?」
 と訊いた声に、数名しか判らない程とは言え、微笑に近い物が混じっているのを知れば、とある暗殺者の末裔の美女も、度肝を抜かれたかも知れない。
「は、はい…ドクターの言われる通りに」
「良かろう。さてシンジの居場所が判明したようだ。これを」
 そう言って、リツコに一枚のディスクを渡したユリ。
 何かの機械から引き出したのか、CDに似た形状のそれを、リツコがMAGIに読ませると、大画面に第三新東京の地図が映し出された。
 投影された地図に、紅い光点が点った。
「あれだな」
 ユリの言葉に、ミサトに連絡を取るべく携帯を手にしたリツコ。
 シンジ達の居場所を告げて電話を切った時、リツコは一瞬瞑目した。
 哀れな犠牲者達の事は、それきり忘却したらしい。
 彼女はミサトにも、その事は一言半句たりとも告げなかったのである。
 電話を胸元にしまおうとして、何かを思いだしたのか、うっすらと紅くなった。
「ドクター、申し訳ないのですが、お願いしても宜しいですか?」
 むろん、シンジの細工を解除して欲しいとの頼みだったのだが、
「感度を上げたシンジの作業、お気に召さなかったかな?」
 思いも寄らぬ言葉に、
「いえ…そういう訳では無いのですが…」
「ですが?」
 俯いてしまったリツコは、ユリの表情は見えない。
 だが、此処にアオイかシンジがいれば瞬時に看破したであろう。
 遊んでいる、と。
 数秒経ってから、ユリが続けた。
「シンジの工作を元に戻したいのなら、別にかまわない。だがそれなりの理由は必要だ、リツコ嬢」
「それは…」
 二人はこの時、オペレーター達の直ぐ後ろにいた。
 無論会話は聞こえているはずなのだが、誰も言葉を発しようとはしない。
 既に、逃避しているのだ。
 そう、聞こえる言葉は風と化し、視界に入る光景も元からある風景へと化す世界に。
 ユリの美しい指が、ゆっくりと動き出した。
 それが自分の頬にかかった時、リツコは心拍数の上昇と、血圧の跳ね上がりとを、瞬時に感知した。
「ド、ドクター…何…を…」
「さっき携帯が震えた時に、顔がうっすらと紅くなった理由。あれに関係がありそうだ。だが、私は訊いてみたい。貴女の口から直に」
 静まり返った発令所に、ユリの声が妖々と響く。
 既に石化し始めた者もいるようだ。
 コントロールパネルに前のめりに倒れでもしたか、鈍い音がし出したのだ。
 総司令の席は空白で、その後ろに控えている人物も、既に出ていって今はいない。
 一つ、二つ、三つ…音が四つを数えた時、ユリの指は移動した。
 いや、手の位置は変わっていないのだが、親指の位置が変わったのだ。
 あくまでも白く美しいその指は、やや長い。
 そう−他の指を微塵も動かさずに、リツコの唇に触れる事が出来る位に。
「ル…ルージュが…」
 言ってから、リツコは今日に限って、唇に薬用のリップスティックしか、塗っていない事を思い出した。
(良かった…ドクターの指に私の口紅なんかがついたら…)
 はっと気が付いた。
(そんな場合じゃなくて…)
「ほんの僅かの間とは言え、私の親友に二度までも安否を気遣わせた者がいた。私は許してはおけない、そう言ったのだが既に逃走済みだ。あれはリツコ嬢の友人だった。子が親の咎を負う必要はないが、友人とあらば別かもしれん。友の為に、命を懸ける話は日本文学にもあった。貴女もその例に倣ってみるか?」
(わ…私は…メロスじゃ…)
 こんな状況下で思い出したのは大した物だが、さすがに言葉にはならなかった。
 美女の姿を取り、男の意識へと入り込んで性夢を見させ、その精液を吸い取るのが、夢魔サクブスであり、通称はサッキュバス。
 そして反対に女の夢に入り込み、美青年の姿を取って女と交わり、時には妊娠させる事もあるのがインクブス。
 こちらも一般的には、インキュバスとして知られている。
 だがこの女医の場合には、それらとはどこか異なる。
 人間の欲求を叶えるのと引き換えにして、羊皮紙の巻物にサインを求める、伝説の大悪魔。
 ある戯曲によれば、その魔術師は、悪魔に命を与える事と引き換えに、時間を止める事を願ったとされる。
 結局悪魔は、その魂を手に入れる事は叶わなかった、とされているのだが。
 だが、ネルフ随一を誇る女科学者が求めたのは、それと比べて余りにも些細な依頼であった。
 それと引き換えに妖艶な女医が求めた代償は、リツコからの告白を引き出す事。
 伝説の悪魔は、黙って羊皮紙の巻物を差し出した。
 そしてこの妖艶な女医−長門ユリは、どうやってそれを求めようと言うのか。
 ユリの右手は白衣の中だったが、ゆっくりと動いた。
 引き出された右手の人差し指が肩に触れた時、びくりとリツコは肩を震わせ、ユリの左手で持ち上げられていた上気した顔の、幾分目尻の上がった瞳は、何かを予感したものか、ゆっくりと閉じられた。
 だが、それを見ていたユリの目が、すっと細くなった。
 その目からは、妖しい光は消え去っている。
 そして数秒後。
「む、胸…に…」
「ほう?」
「胸に当たって…その…感じて…」
 喘ぐように言った時、
「結構だ」
 この女医は、リツコの発言を治療の成果として、予感していたのだろうか。
 ユリがそう言った時、リツコの唇に何かが軽く触れた。
 唇ではないと感じた瞬間に、何故か軽い失望を感じたリツコ。
(…・ドクターの指かしら…固くて…冷たい…)
「代償は確かに頂戴した。電話の細工は私が直しておく」
 言葉と共にそれが離れた瞬間、リツコの目は開いたが、既にユリの姿は無かった。
 誰も、出て行くところを見てはいないと言う。
 リツコの指は、自らの唇に押し当てられた−今触れていた物の感触を、何時までも保とうとするかのように。
 だが彼女は知らない。
 オペレーターの一人で、彼女の右腕を自認する女性が、背を向けたまま、にやりと笑った事を。
 その笑みは本当に純真そうであった−口許の歪みを別にすれば。
 そして内心の呟きを別にすれば。
(あれも一つのやりかた…そう、とても効果的みたい)
 
 
 
 
 
 リツコに連絡を取る少し前、ベンツは海岸線を走っていた。
 途中立ち寄ったスタンドでは、ガラス全面に濃いスモークを貼ったいかにもな車に、店員は恐る恐る近づいてきたが、顔を見せたのが少年であるのを知ると、居丈高になり詰問しようとした。
 だが横に乗っていた美少女の、ちらりと向けた視線にどういうわけか、瞬時に態度を急変させた。
 給油を終えてベンツがスタンドを出る。
 数百メートル行った時に、凄まじい爆音と共に炎が吹き上げた。
 出火元など、振り返る必要も無かった。
 何故か、道路に土下座してベンツを見送った店員は、幽鬼のような足取りで、ふらふらと戻っていくと、ガソリンのメインタンクを解放し、百円ライターで点火するやいなや、足下に広がっているガソリンの中に、放り込んだのである。
 店員がそんな暴挙を為し得たのは、すでに一般のスタンドに於いて、半無人化が進められているためだ。
 九十年後半から、徐々に広まりだした経費削減策、セルフ給油。
 その名の通り、客にセルフサービスで給油をして貰う事で、店員の大幅削減から生まれる単価の引き下げを可能としたものだ。
 肢体はあどけない少女、だがその精神(こころ)は稀代の妖女の物である。
 その妲姫に魅入られた哀れな店員の末路は、勤務先に放火の上全焼という、莫大な負債を遺族に残す物であった。
 だが妲姫は無論の事、シンジにもそれを悼む様子など微塵もない。
 本来なら、シンジのナイフが一閃して、喉に開いた三日月型の傷から、鮮血を吹き上げていてもおかしくはないのだ。
 シンジが、それをしなかった理由はただ一つ。
 横の少女が嗤ったのを、視界に捉えたからだ。
 もっとも、ここまでの結果は予測していたかどうか。
 立ち上る爆炎を見ながら、シンジが呼んだ。
「ところで猫」
「…何じゃ?」
 似合うと思うよ、と言う言葉と共に付けられた、あだ名は“猫娘”。
 知識の欠如か或いは気に入ったのか、妲姫はあっさり受け入れたらしい。
「何をしたの?」
「邪眼、という言葉を知っておるか?」
「邪眼と言えば、確か通称イビル・アイだったな。第三の目を信仰する宗教集団が生み出した、と言われていたはずだ。額とか手の甲に模様を描いたりするやつだろ。それで?」
「それだけじゃ」
「…女には向かない職業って知ってる?」
「わらわに出来ない事があると申すか」
「家庭教師」
「何じゃそれは」
「人の家に行って、勉強を教える事さ。でもお前みたいに教え方が悪いと、絶対に勤まらない」
「何が言いたい?」
 そういうと、シンジをちらりと視線を向けた。
 悪さをした弟に向ける姉の視線みたいだが、それとは明らかに異なる部分がある。
 すなわち、そのあまりにも妖しい色香が。
 十四才の少女が向ける物など、何ほどの事も無いのだが、妖女のそれとなれば話は別だ。この上舌なめずりでもされた日には、生涯禁欲を宣言した者さえ、フリーセックスの信奉者となり、百八十度の宗旨替えを宣言して、肉欲に溺れかねない。 
 シンジはこの手の攻撃に耐久性は無い、筈であった。
 さすがのシンジも一瞬引いた、かに見えたがあっさりと、
「別に。要するに催眠術の高等なやつか?」
 と聞き返したのには、さすがの妲姫も少々呆れたらしい。
「今度一度、お前の身体をわらわに調べさせよ」
 こちらもとんでもない事を言い出した。
「絶対いやだ」
 間髪入れない答えに、
「断る前に理由ぐらい聞かぬか」
「やだよ」
「聞けと申すに」
「絶対にい・や・だ」
 不気味な問答の後、
「先にわらわの奴隷になってから聞くか?」
「…聞くだけだぞ」
「お主の頭の中、一度眺めてみたくなった」
 冗談かと思ったが、冗談では無いらしい。
 第一、数千年を経た妖女の口から、軽口が出るなどとは思えない。
 訊いてみる事にした。
 妲姫と視線を合わせて、
「どうやって?」
「わらわがお主の意識を乗っ取ってじゃ」
 危ない物でもみるような目つきで、妲姫を見つめたシンジ。
 当然顔は横を向いているのだが、ハンドルに乱れは微塵もなく、車は真っ直ぐ前を向いている。
「色仕掛け、じゃなくてか?」
「その方が良いのか?心にも無い事を申すな愚か者。第一この身体では、お前には通じぬであろうが」
 レイの素材とは言え、十四才の少年に全く通じなかったのは、やはり幾分はプライドを傷つけられたらしい。
 視線を前に戻して、ふふんと笑ったシンジ。
「何が面白いのじゃ」
「いや、自慢だ」
「何?」
「妲姫と言えば稀代の妖女。その色仕掛けが通じなかった、歴史上初めての男だ。殷の紂王も鳥羽上皇も、猫の色香には迷ったって訊いているしね」
「なんじゃと」
「冗談だよ。そんな事よりさっきの話、催眠術の高等技術だな」
「そうじゃ。何、少しも痛みなど無い方法でやってくれる。どうじゃ?」
「ちょっと待て。どうやって意識を移すつもりだ?」
「既に判っているのであろうが」
「子供だから分からない」
「ほう」
 妲姫の目が、妖しさを帯びた。
「何をする?」
 と言った時には、既に妲姫の手はシンジの服のボタンに掛かっている。
「綾波レイを背から下ろした時、何をしたのか忘れたとは言わさぬぞ」
「さっさと忘れた…・あ、それは待った」
 さすがに意見を翻したのは、妲姫の指がボタンの隙間から中に滑り込んだからだ。
 いかなシンジでも、この体勢では抵抗に難がある。
「思い出したか、シンジよ?」
「はいはい。けど口移しなら先駆者じゃないぞ」
「何じゃと」
「ユリも出来る」
 言ってから、何となく失敗だったかなという表情になったシンジ。
 妲姫の全身から、妖気ではなく鬼気が漂いだしたからである。
 ユリとは、相当相性が悪いらしい。
「少年」
 冷ややかな声に、シンジも異は唱えず、
「何でしょう」
「お前はされたのか」
 次の瞬間、シンジの足が思い切りブレーキを踏み込んだ。
 同時のステアリング操作で、車が四十五度横を向く。
 既に、かなりのスピードが乗っている状態での操作である、タイヤは悲鳴を上げて白煙を吹いた。
 車を停めたシンジは、ゆっくりと妲姫を見た。
 いや、これは見据えたと言うべきか。
 二人の視線がぶつかった。
 果たして、
「お前、僕をキスの練習人形だと思っているな」
 その通りであろうが、と言ってやろうとも考えたが、妲姫は止めた。
 操りが通じない以上、機嫌を損ねさせると自分が困る。
 そう、少なくとも自分の用件が済むまでは。
 妲姫にとって、現時点ではシンジが唯一の執刀医なのだから。
 此処はシンジの意に添う事にした妲姫。
「ふふ、忘れておったわ」
 謝罪とは程遠い口調ではあったが、シンジもそれ以上追求しようとはせずに、車を再度発進させた。
「今度言ったらしてやらないぞ」
 何をしてやらないのか不明だが、その気は元に戻っている。
 やはりシンジには、この雰囲気の方が合うようだ。
 だが、シンジの持つ紅をした魂の色を、アオイとユリは知っている。
 コカインで私腹を肥やしていた、あるマフィアのボス一家を襲撃した際、にこりと笑って生後三ヶ月の赤子の腹部を貫き、産後の肥立ちが悪く床についていた母親の首を、表情も変えずに百八十度回転させたシンジ。
 ボスに至っては、手足の指を全て切り落とされた上、青龍刀で壁に縫いつけられた。
 ご丁寧に、心臓を僅かに外して十五分間は生きられるようにして。
「じゃ、ごゆっくり」
 と、親戚の家でも辞す際のような挨拶をして出た時、既に青龍刀までの導火線に火は付けられていた。
 TNT爆薬を更に強化したタイプの爆薬で、屋敷が木っ端微塵に吹っ飛んだのは、それからちょうど十五分後であった。
 しばらく会話もなく走っていたが、ふとシンジが携帯を取った。
 冒頭のリツコとの会話の後、電話を切ったシンジに妲姫が訊ねた。
「シンジよ、先ほどの会話の中で妙な事を申しておったな、お主には牛との知り合いでもおるのか?」
「何の話?」
「ホルスタインとか申していたであろうが。あれは確か乳牛では無かったか?」
「良く知ってるね。でも、あれは人間の事だ」
「ネルフの技術力は随分と、進んでおるようじゃな」
 さすがにシンジも、一瞬驚いたらしい。
「何でそうなる?」
 と訊いた声には、驚きが含まれていた。
「シンジよ、未だ知識が足りぬな。パシファエーとか申す女が、牡牛と獣姦を楽しんだ挙げ句出来たのが、ミノタウロスであろうが。身の丈は数メートルに及び、下半身は人間のままで、上半身は完全に牡牛じゃ」
 一旦言葉を切った妲姫。
 ちらりとシンジに目を向ける。
 真面目な生徒のように聞いているのをみて、満足したらしい。
 何時の時代でも教師にとって、生徒の聞く気と言うのは大切なエネルギー源なのだ。
 続けた。
「古の神話に出てくる、ゼウスと申す神と、エウロパなる女との間に生まれたのがミーノースじゃ。ラダマントュスの兄に当たり、死後はハデスの裁判官に任命されたと言う事になっておる。そのミーノースが作らせたのが、かのクレタ島の地下牢じゃ。夜毎に泣き叫ぶミノタウロスの叫びがうるさい余り、とうとうテーセウスに殺されたらしいがの。お主が言った牛とやらは、その半牛半人の事であろう?そして、それを作ったのがネルフでは無いのか?」
「ふーん」
「何じゃ?」
 何となく、どうでも良いように聞こえるシンジの、ふーんだが、妲姫の声に変化がないのは、僅かだが感心しているのが判ったからだ。
 予想通り、
「さすがに、古の知識は大した物だね」
「追従に弱い性格ではないぞ」
 そう言う割には、決して追従を蔑む口調には聞こえない。
「素直に褒めたのさ。でも違うよ」
「何?」
 黙ってハンドルから左手を離したシンジ。
 その指の先が、盛り上がった胸を指したのを見て、妲姫の目に?マークが浮かんだ。
「わらわの胸がどうかしたか、シンジよ?」
「一つ」
 そう言ってシンジの指が一本上がった。
「形が悪い」
 妲姫は黙っている。
「二つ」
 もう一本上がった。
「身体全体の釣り合いと比べて、大きさが良くない。そして三つ」
 三本目が上がる。
「何よりも、胸に気品の欠片もない。見せられたら、握りつぶしたくなる程度の物でしかない、にも関わらずそれを自讃する、そんなイヤな物体がいる」
 そう言った時、シンジの口調にははっきりと、軽蔑が現れていた。
「胸を指しておったが、わらわの事ではないようじゃの。誰を指しておるのじゃ?」
「垂れ乳類ヒト科・自意識過剰目、葛城ミサト」
「変わった分類をされたものよの。それでホルスタインがどうしたと?」
「この間、レイちゃんと出かけた時、黒服の連中に後を付けさせた。護衛だかなんだか知らないけど、要らないとはっきりと言ってあったのに、僕を付けた報いは取って貰う事になってる」
「碇ユイの思念が、顔を出した時の事じゃな?」
「そうだ」
 それを訊いた妲姫、数秒してから何故か笑った。
「あ?」
「そこまで言われては、救いようもあるまいな。だがシンジよ、お前の基準は誰なのじゃ?」
「誰、とは?」
「おぬしが見ている女、それが誰かと訊いておる。言ってみるがよい」
「大人の不文律にしておいてくれる?」
「お主もわらわも大人ゆえ、とそう申すのか?」
「うん」
「ではそのように、などとわらわが言うと思ったか、愚か者。子供だから判らないなどとぬかしてから、その舌は未だ乾いておらぬぞ。訊いておるか」
「いいや」
「何」
 妲姫の目がすっと細められたが、シンジは気にせず、
「そろそろ来る頃だ。場所は何処にするか…」
 シンジの視線はダッシュボード上のパネルに向けられている。
 そこに取り付けられている、やや大きめのナビゲーターシステムには、第三新東京市の現在位置が、大きく拡大されていた。
「ユリの小娘に、我らの位置を知らせたのか?」
「獲物が来なきゃ狩りにならないだろ。猫、車の中で待っててくれる?さっさとかたづけるから」
「本気で申しておるのか、シンジよ?」
「とうぜ…?」
 当然と言い掛けて、シンジは一瞬凍り付いた。
 数千年を経た妖女の表情に。
 それは怒りではない、激情ではない、そして無でもない。
 あえて喩えるなら、欲情に近いという所か。
 妲姫は笑っていたのである。
 口許は大きく避けたかのよう、唇は文字通り血の色となっている。
 眼は釣り上がり、旅人を泊めては夕食の材料にするという、東北のとある原野に伝わる鬼女のようであった。
 全身から漂う妖気は最初から発していたのだが、今とはその質を異にしていたのだ。
 それは、飢えでもあったろうか。
 人の生き血をすすり、その肝を食らわねば生きられぬ餓鬼。
 既に久しい間、人肉を与えられていない餓鬼のように、全身から漂う気はまさしく飢えた鬼女、であった。
 いや、目が潤んでいる所を見ると、それだけでは無いかもしれない。
 想像しているのだろうか、その繊手で哀れな犠牲者の首をへし折り、あるいは心臓を掴み出す光景を。
 いや、首を失った胴体から吹き出す鮮血を、喉を鳴らして飲み干す光景か。
(やばい)
 ごく当然の結論を出したシンジは、
「取りあえず、落ち着いてくれる?」
 そう言った声は、既に元に戻っている。
「わらわは常に冷静じゃ、知らなかったか?」
 一回お前の辞書を見せてくれ、と言いたくなったが抑えて、
「追っ手はお前にプレゼントしよう。ただし」
「何じゃ?」
「一つ貸しにしておく。いずれ返して貰おう」
「大将軍には一つ貸しがある。とは言え相殺にはするまいな、お前は。良かろう、何れ返して遣わす」
「商談成立だ。さて、この先に関ヶ原がある。そこにするか」
「そこまで大した物でもあるまい。小さな猟場と言う程度じゃ」
「へえ、良く知ってるね」
 関ヶ原に掛けた意味を、妲姫が知っているとは思わなかったらしい。
「大きな戦のあるところには、常にわらわもおったと知っておくが良い。下らん私利私欲から、殺し合いを重ねる愚かな人間ども、わらわの美容法にはうってつけであったぞ」
「今、美容法って言わなかった?」
「それがどうしたのじゃ」
「処女の女の子の生き血を風呂に溜めて、その中に浸かる事で綺麗になった、とかいう人類の汚点が、中世のハンガリーで発生したよな。お前、もしかしてあの類か?」
 僅かに雰囲気を冷たく変えたシンジに、妲姫は薄く笑った。
「シンジよ、その辺の下司共の薄汚れた血如きを、わらわが美容液になどすると思ったか?」
 妲姫が逆に聞き返した時、ちょうど車は、大人の膝ほどもありそうな、草が青々と茂る野原の入り口に、着いたところであった。
 妲姫に僅かに視線を向けると、
「それもそうだね」
 あっさりと言った。
「やけに素直じゃな。それにしても妙なやつじゃ」
「何が?」
「お前に取って他人の命など、その辺に生えている草よりも軽い物であろうが。それが何故、あの女の事など言い出したのじゃ?」
 あの女とは無論、シンジが言ったハンガリーで生まれた人類の汚点こと、エリザベス・バートリーを指す。
 
 
 1611年の裁判に於いて、明らかになった内容によれば−
 夫を失い未亡人となったエリザベスは、姑を追い出して城の主となった。常々美に対する執着は並はずれており、常に新しい美容法を追求していたと言われる。村人達は腫れ物を触るような眼で見ていたが、その横暴ぶりを知る城内の召使い達は、日々怯えながら暮らしていた。そんな彼女が、ある時失態を犯した召使いの顔に平手を飛ばした。尖っていた爪の所為か、召使いの顔に傷が出来て血が流れたのだが、その数滴がエリザベスの顔に跳ね掛かった。激怒したエリザベスは、即座に牢屋に放り込んだのだが、血を拭ってからふと気付いた。
 すなわち、その部分が若返っている事に。
 おそらくは錯覚であったろう。だが若さの維持に狂気の女王となっていたエリザベスは、驚喜した−最高の美容液を発見したと。
 召使いの娘・旅芸人・挙げ句は旅の者の娘まで、処女と見れば片っ端から捕らえて殺し、然る後にその血を抜き取るのだ。
 浴槽の中に溜めた鮮血に浸かり、エリザベスはえもいわれぬ表情をしていたと言う。
 鮮血に特有の鉄分の臭いに加え、何よりも呪詛と怨恨が耳を澄まさずとも漂ってきそうな浴槽、その中で狂気の老婆は何を思ったのだろうか。
 ある一体の死体の処理の杜撰さから、稀代の悪事は発覚した。
 警備隊が踏み込んだ時、城の中には四肢を千切り取られ掛けた者、身体の中に採血用の針を差し込まれたままの者−何れも処女−で溢れ返っていたと言われ、その数は数百にも及んだ。ある意味では稀代の妖女と言えるエリザベス。彼女は発見された時、醜く衰え幾多の皺が出来て正視しかねる容貌に白粉を塗りたくり、血を用意せよと叫んでいたと言う。
 その魔女に裁判所が下した判定は、絞首刑でも磔でもなかった。四角い部屋、それも周囲を塗り固め、日の光も入らぬ部屋に生涯監禁する事であった。
 
 
「別に軽い訳じゃないさ。それに」
「それに?」
「やせ衰えて、見るに耐えないような醜貌になりながら、人の血を浴びて綺麗になるような老婆はご免だよ」
「ほう」
 そう言った妲姫、なにやら考え込んだ。
 シンジは別に気にも止めず、ワルサーの弾倉の用意と、ナイフの点検に掛かった。
 予備弾倉を二本、即ち弾数にして30発を腰に差し込んだ時、妲姫の顔が上がった。
「考え事?」
 そう訊いたシンジを、何故か無言で引き寄せた妲姫。
 次の瞬間の事を、シンジは一生忘れまい。
 妲姫の人差し指が、シャツの第二ボタンまでをあっさり切り裂くや、その白い肌に唇を付けたのである。
 シンジが感じたのは、快感などではなかった。
 無論妲姫は歯など立ててはいない。
 単に、軽く吸っただけである。
 だが、凄まじいほどの脱力感に加えて目眩まで襲ってきた。
 快感を伴った苦痛は初体験であり苦痛に、さすがのシンジも全く動けなかったのだ。
 数秒で唇が離れた時、シンジの肩胛骨の辺りには、キスマークがくっきりと残っていた。
 一体何を、そう言い掛けてシンジは絶句した。
 シンジは見たのである、妲姫の変貌を。
 蒼く、シャギーの入った髪は漆黒へと変わりつつあった。そして−肩を過ぎた辺り−シンジよりもなお長く伸びたのである。
 さすがに呆然としたままのシンジへ、妲姫は笑って告げた。
「やはりな、わらわの思った通りじゃ」
「あ?」
「お主の魔力、わらわなら吸い取れると思ったのじゃ。一分も吸っていれば、わらわの本来の肢体に戻ったはずじゃ」
「……」
「シンジよ、お前の魔力は人並み外れておる。なれど吸っただけでは生命に異常などはない」
「…あると思うぞ」
「錯覚じゃ」
 あっさり切り捨ててから、
「魔力を吸い取られれば、一時的に脱力感が襲ってくる。だがそれだけの事。お主のように魔力だけは高い場合、一分足らずで直る筈じゃ」
 言われてから、ゆっくりと首を動かしたシンジ。
「あ、ほんとだ」
 どことなく間が抜けた話だが、生涯で初めての体験だけに、無理もあるまい。
 左手で、右手の付け根を押さえて軽く動かしたが、ふと思い出したようにコンパクトミラーを取りだした。
 妲姫の唇が吸った痕を見る。
「…こら」
「何事じゃ?」
 そう訊いた妲姫の声には、笑みが含まれている。
「何事じゃ、じゃないだろ、これどうしてくれる」
 指さしたのは、無論キスマーク。くっきりと鬱血の痕が残っている。
「わらわに口づけの痕を付けられるなど、光栄と思うがいい」
「ほう?」
 シンジの眼が細くなった。
 何やら危険な気が立ち昇り出したのを見て、妲姫は違う事を訊いた。
「初めてか?」
 と。
 シンジの動きが止まった。
「普通は訊いてからにするぞ」
「なるほどな」
「何か言いたげだな」
「と言うことは、確認の上で付けられた事があるのじゃな?」
「うるさい。話を逸らすな」
「何を焦っておる?わらわは訊いただけじゃ」
 弄うように訊いた妲姫は、奇妙な事にシンジをからかって遊んでいる節がある。
「お前、恥じらいって物が無いのか?」
「無いと言ったはずじゃ、忘れたか」
「そう言えば、そうだったな。ところで、肢体がお前の物に戻ったら、服の方はどうなるんだ?」
「服?知れた事よ、わらわの身長はお前よりも高いのじゃ。上衣は破れようし、この下着も裂ける。わらわの胸が、あの程度と思ったか?」
「と言うことは全裸?」
「無論じゃ」
「ふーん…」
「何を考えておる」
「服が買い直しだなって思って」
「それがどうしたのじゃ」
「レイちゃんに戻ったら肢体も元に戻る訳だろ。と言うことは、又服を買わなくちゃって事だ」
「それで?」
「猫専用に服がいるな」
「いらぬ」
「おや?」
「わらわの肢体は、見せられぬが故に体型を変えて見せる服を着たり、あるのか無いのか判らぬ程度の胸を、誤魔化すための物が付いた胸当て等は、必要としておらぬ」
「…躯(ボディー)に自信があるのは判った。けど、戻った時にレイちゃんが卒倒しかねないから、そうしてくれない?」
 ふむ、と考える素振りを見せた妲姫。
 シンジはこの時点で、妲姫の術中にはまった事に気が付いていない。
「良かろう」
「それはそれは」
「無条件で、とは言っておらぬ」
「…は?」
「わらわの意を曲げようと言う以上、それなりの代償は払って貰うぞ、シンジよ」
「で、何を?」
「わらわの髪が戻っただけなのは、吸った量が足りぬからじゃ。わらわに心ゆくまで吸わせよ」
「吸血鬼か、お前は?」
「別に無理にとは申さぬ。意識がこの娘になった時、肢体もまた戻る。お前が妹にしているこの綾波レイが、全裸になっている自分を見た時に、どういう反応をするのか見物じゃな。それともシンジよ、わらわに力づくで着せ替えをさせてみるか?」
 そういってにいと笑った妲姫。
 既に勝ち誇った口調になっている。
 冷静に考えれば、今のレイは衆目に全裸を晒しても、さしてショックはあるまい。
 シンジが綺麗だよとでも言えば、それこそ一糸纏わぬまま、大衆の面前で一回転でもして見せかねまい。
 だが、シンジは口が裂けてもそんな事をする気はない。
 かといって、稀代の妖女を着せ替え人形にするのは、不可能と判っている。
 結論は出た。
「判った」
「素直じゃな。良かろう、お主の選んだ服をわらわに渡すが良い」
「…おや?」
「どうしたのじゃ?」
 シンジが何やら反攻の糸口を見つけたらしい。
「お前になっても肢体は殆ど変わってないよな。と言うことは僕が吸わせなければレイちゃんのままだ。従って僕がひどい目に遭う必要は無いわけだ」
 この答えは、妲姫にとって予想内であったらしい。
 別に慌てもせずに言った。
「確かにその通りじゃ。だがシンジよ、この娘がもう一つの魂の全てを知ったらどうなるかの?幾多の国を傾けてきた、その道を知ったらどうすると思っておるのじゃ?それともわらわの人格だけ滅ぼしてみるか」
「…結局脅迫か。つくづくやなおんなだな」
「古の王達は、みな悉くそう申しながら、わらわの肢体の虜になり、国を傾けていったのじゃ。その言葉は、わらわが戻った時に申すが…」
 妲姫の言葉が止まった。
 妲姫は見たのだ。横でしてやられたという表情をしていた少年から、凄絶な鬼気が吹き上げ出すのを−シンジはゆっくりと変貌していった。
「今すぐでも別に構わん。お前ごと、綾波レイの身体と共に消し去ってもな」
 シンジは冷ややかに告げた。
「俺には魔力が無い以上、いくらお前に吸われようとも、俺には何の関わりもない。試してみるか、女。綾波レイが死んだ時に、碇シンジが悲しむかどうかを」
 その口に、白い指がそっと当てられたのは次の瞬間であった。
「この私が、貴方の意に反するような事をすると思って?大将軍」
 百八十度口調を変えると、甘えるように上目遣いをして見せた妲姫。
 普段レイが見せる、シンジに対するそれと、何ら変わるところはない。
「お前を恋人になど、した記憶もするつもりもない」
「判っているわ。でも構わない。だんだん親睦は深めて行けば良いのだから」
 ユリが訊いたら、間違いなく夭糸を飛ばしているであろう。
「下らん。それよりも、行くならさっさと行け。シンジはお前に任せると言ったのだろうが」
「貴方は来てくれないの?」
 甘えた声で訊ねた妲姫。
 ここまで口調と態度が変貌するのも、極めて希であろう。
 しかも相手は、身体は同一のままなのだ。
「車の中で待機、と言うのも退屈だ。お前の手並みを見せて貰おうか」
「うふふ、きっとお気に召すと思うわ。少しは見直してね?」
 車を降りた妲姫だが、運転席のドアが閉まった時に、落胆したような表情を見せた。
「それって失礼だと思わないか?」
 既にシンジは、戻っていたのである。
「誰がお前などに心をときめかせるか、愚か者」
 こちらもまた、がらりと変わった妲姫。
 面白く無さそうに言うと、先に歩き出した。
 既に日は暮れ始めている。
 第三新東京は『不夜城』(ねむらずのまち)なのか。
 だとすれば、願ったに違いない。
 『深い眠りにつきたいと。そう、夢すら見ない程の』
 眠ったとしたら?
 その時はこう願ったであろう。
 『眠りなど、無くても良い。ただひたすら耳を塞ぎ、目を閉じていたいと』
 第三新東京市に、夜が訪れようとしていた−紅い、深紅の夜が−
 四台の車に分乗した、精鋭の諜報部員達が到着したのは、数分後の事であった。
  
 
   
   
 
(続く)

[TOP][BACK][NEXT]