第十七話
 
 
 
 
 
「驚かれました?」
 少女はふふ、と笑った。
「どびっくり」
 珍しい少年の反応に、少女が嬉しそうな表情を見せた。こんな顔をさせたのが、よほど嬉しかったらしい。
「シンジ様の魔力、これで私も使えます」
 モミジが、そう言いながら自分の手からナイフを引き抜いた。
 深々と突き立ったそれが抜けた後、傷口が見る見る消えてもシンジは驚かなかった。
 さっき紅茶を飲んだとき、カップが下に落ちて割れた。
 それをモミジが拾い上げた時、当然のように傷が出来たが、それはあっという間に回復したのだ。
「それは分かってるけど、どうしてモミジの傷が治るんだ?」
 首を傾げたシンジに、モミジは艶めかしく腕を巻き付けた。
「それは、ね」
 シンジの首に、モミジがふっと唇を付けた。
 とても愛しそうに。
「私の術をシンジ様がお使いになれますし、シンジ様の魔力も私が使えるようになります。それが契約ですから。でも、それにはもう一つ意味がありますの」
「意味?」
 訊きながらも、何となくシンジは分かっていた。
「私の命が、シンジ様と共にあると言う事ですわ。シンジ様の手にかからなければ、私が死ぬことはありません−決して」
「つまり、僕の中にモミジの命があるって事だな」
 はい、とつつましく少女は頷いた。
「じゃ、僕の奴隷だな」
 何を思ったのか、にっと笑ったシンジ。
 そしてモミジもうっすらと笑い、
「その通りですわ」
「後悔しない?」
 間髪入れず、
「私にそのお言葉は無用ですわ」
 短いが、断固とした言葉と共に、モミジの躯を覆っていたブランケットが落ちる。
 モミジは、一糸まとわぬ全裸であった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「碇、何故止めた?」        
 発令所の上方で、顔の前で手を組んだゲンドウの姿勢も、後ろ手に手を組んだ冬月の姿勢も変わらない。
 最上段にあるこの位置での会話は、他の者に訊かれる可能性は皆無だ。
「冬月、まだお前を失うわけにはいかん」
「何?」
「お前があそこで、三日間の拘留を押し通していれば」
「いれば?」
「お前の首は地に落ちている。あるいはシンジのナイフでバラバラだ」
「……」
「やはり、シンジに対する認識は甘かったようだ。ああまでレイを手込めにするとは予想外だった。お前の言うとおり、此処は手を打たねばならん」
 随分な言われようだが、シンジが聞いたら何と言うか。 
「気が変わったか」
 冬月の揶揄を含んだ言葉にも動じず、
「ドイツのセカンドは、おそらくシンジでも手に余る。あのプライドが取り柄の小娘が、そうそうシンジに服するとは思えん。その間に我らの計画を進めねばならん」
「チルドレンのまとめに据えたのは、その魂胆からか。しかし、碇」
「何だ」
「お前の息子を抱き込む事はできんのか」
 低く、ゲンドウが嗤った。限りなく低い声で−嘲笑うように。
「冬月」
 呼んだ声には、間違いなく無知を嗤う声が含まれていた。
 さすがに、幾分むっとして、
「何だ」
「ユイの墓が何番目か、知ってるか?」
「何ユイ君の墓?」
「そうだ」
「共同墓地に一つあるだけだろう。第一、墓石にクローンでもあると言うのか」
「ある」
「…何だそれは」
「あの墓は四番目だ」
「なっ!?」
 思わず大きな声になった冬月に、視線が集まった。
 慌てて咳払いで誤魔化す。
 周囲の視線が去ってから、
「大きな声を出すな。周りが驚く」
「驚かすからだ。なんだその四番目と言うのは」
「一つ目はプラスチック爆弾で爆破。二つ目は、双座に改造された対戦車ヘリからの機銃掃射で破壊された。隣石との間隔は数十センチしかなかったが、的確にユイの墓石だけを粉砕していたよ。三番目は、対戦車砲を三発撃ち込まれて、木っ端微塵になっていたなた」
 さすがに絶句した後、
「アサシン(暗殺者)の仕事か…」
「墓参りに連れ出す度にこれだ。このままでは、墓石代だけで破産しかねん」
(数個建てた位で、破産するような物を建立する事もないだろうに)
 そう思ったが口にはせず、
「そうか…」
 と言っただけであった。
「今サルベージに成功したとしたら、間違いなくその日がユイの再命日になる。墓石には『2015−2015』と刻まれるだろうな」
「…・何故そこまで」
「俺にもよく判らん。ただ母親が亡く、父親からも半ば放り出された様な状態は、シンジにとってろくでもない目に遭う、立派な原因だった。アサシンの道を選んだのもアオイの傍を選んだかららしい。パイロットとしては使えるが、だがレイをああまで自我を持った妹にしてしまってはな…それに俺も…シンジを放り出した、訳では無かったのだがな…」
 ゲンドウの言葉にある、僅かな苦渋を冬月は見て取った。
 だが、「人類補完計画」が我が野望と化している冬月にとって、ゲンドウの逡巡など邪魔なだけであり、一顧だにする気は無かった。
 いかにも、お前の苦渋はよく分かると言った風情で、
「止むを得まい。母を慕う息子も、憎悪する息子もいるだろう。お前の想いが今でもそこにあるなら、迷っている暇は無いぞ。それに綾波レイが全貌を知らない、今が絶好の時期だ。計画の内容をサードにばらされでもしたら…」
「ああ。判っている…冬月…判っている…」
 やはり、ゲンドウにとってレイは、補完計画を為す道具であった。
 だが、シンジに対する見方は。
 
 
 
 
 
「名前で呼んでくれない?狐憑きの姫様」
「誰が狐憑きじゃ、無礼者」
「何の用?」
「わらわを此処に置いていくつもりか?」
「来てどうするの?」
「どうせ、追っ手を向けさせて刈るつもりであろうが」
「さて」
「血池屍林、と言う言葉を知っているか?」
「なにそれ」
 妲妃の全身から放たれる妖気にも、全く動じた様子は無い。
「溢れる鮮血で池を為し、串刺しにした屍で林を創ると言う意味じゃ」
 良い案だと思ったのか、なんとなく楽しそうな口調になっている。
「そんな言葉あったかな?」
「今作ったのじゃ」
 別にシンジは斬り裂き魔ではない。
 幾分呆れたように、
「で、どうしろって言うのさ?」
「わらわも付き合わせよ」
 奇怪な会話の間、シンジは前を見たままで、妲妃はベッドに腰掛けたままであった。
 数秒が流れた後。
「一つ訊きたい」
 奇妙にと変わったシンジの雰囲気に、
「何をじゃ?」
「この間、レイちゃんと下着を買ってる時、操っていたのはお前か」
「ほう」
「答えろ」
 両者の間に、危険な気が立ちこめた。
「あれはわらわではない。碇ユイの思念じゃ」
 シンジが振り向いた。
 完爾と笑って、
「貴女とは気が合いそうだ。行こうか、姫様?」
「現金な少年じゃな」
 少し苦笑したものの、別にこちらも異論はない。
 シンジの右に立つと歩き出した。
「なぜ右へ立つ?」
「わらわでは不安か?」
「随分と研究されてるんだな。それも想いの為か?」
「気になるか?」
 からかうように訊いた。
「歴史に残る妖女の三角関係など、後世の歴史家が卒倒するぞ」
「何が言いたい?」
 シンジの意図が読めなかったらしい。
「レイちゃんには傷つけるなよ」
「愚か者」
「僕が?」
「わらわの話を何と聞いていたのじゃ、お前は」
「聞いてないよ」
「この娘を操ったのはわらわではない、そう教えたであろうが。この娘は無論の事、わらわよりもなお弱いが、確実に碇ユイの思念は残っておる。そう、お前の最も忌む女のそれはな」
「何時出てくる」
「ほう、その名を訊くと瞬時に殺気立つか。物騒な少年よの。余程あの女が嫌いと見える」
「で?」
「碇ユイが出れば、この身体ごと破壊する気であろうが、碇シンジよ」
「当然だ、と言いたい所だが僕の術なら分離できる。地下の水槽からスペアを持って来て移植さ。で、その後で」
「なぶり殺しか?」
「ご名答」
「大将軍もよく、こんな者と共生しておられるものよ。同情するぞ」
「ほっといてくれ。世帯主は僕だぞ」
「そのうちお前だけ追放してくれる」
「それは僕の科白だよ。ところで」
「何じゃ?」
「ちょっと訊きたいんだけど」
「受講料は高くつくぞ」
「欲張りなお姫様は嫌われるよ」
「余計なお世話というもの。それで何が訊きたいのじゃ」
「一つ。レイちゃんはATフィールドが使えるの?」
「使えん」
「どうして?」
「初めて得物を持たせたとて、即座に熟練するわけではあるまいが。正確には未だ使い方を知らぬというべきじゃな。自覚はあるようじゃ」
「…そうなんだ。で、何で姫は使える?」
「才能じゃ」
「ふーん。それで二つ目」
「何か気に入らぬ反応じゃな。まあ良い、次は何じゃ」
「言葉遣いがえらく違わないか?この間は、その辺の女子高生みたいな言葉遣いしてた気がするけど?」
「わらわがお前に甘える、と思ったか?」
「……」
 頬に人差し指が触れ、軽く突っついた。
「片方は百万を下知した大将軍、かたやその付録の少年じゃ。わらわが同じように話すはずがあるまい。何を勘違いしておる」
「別に。ただ、どうでも良いんじゃないか」
「何と言った」
「あの人には」
「続けよ」
「さっきの事は全部教えられた訳じゃない、部分的にだ。ドイツ語と中国語がすんなり身に付いた時、おかしいとはおもったんだが、中国語の方は解った。だが、ドイツ語の理由が判らない。まだ子供扱いされてるが、一つ判った事がある」
「ほう」
「他人には興味が無さそうに見える。いや自らを含めた全ての事象に」
「なぜそう思うのじゃ」
「一度だけ、現場で入れ代わった事がある。アオイはいなかったが、僕でさえ一瞬口を押さえた。さっき姫が言ってたみたいな光景に。僕も、人と物との区別はしない方だが、あれは無の証、そんな気がした」
「かもしれんな」
「同感?」
「北方の蛮族の前に立っていた時が、初めてではあるまい。おそらくはその前にも幾多を経験しておられる筈。また、この先もな」
「どうでも良くなるの?」
「偉そうに言うではないか。とは言え半ば的中やもしれぬ」
「貴女は?」
「生きる希望を失った時だけじゃ」
「だから殺生石からも抜け出したんだな」
「当たり前じゃ。あんな古の封印にわらわがいつまでも縛られるか」
「そうだね」
 何故か微笑して言ったシンジに、
「何を考えておる?」
「生きる意志をちょっと」
 一言だけ言ったシンジをじっと見た。
 いや、見つめたと言った方が正しいかも知れない。レイのつぶらな瞳のまま、だが確実に邪気を含んだ妖女の眼になると、シンジの横顔を眺めた。
「何故見つめる?」
「わらわの終焉は生きる希望を無くした時のみ、そう言ったな」
「それで?」
「その時には、お主がわらわを冥府に送ってみるか?」
「その前に、レイちゃんから出てもらいたい」
「訳の分からない少年じゃな。お主がこの娘と下手な口づけをした時に、思考は読ませてもらった。信濃アオイ以外は気にも掛けないようなお主が、何故この娘は気に掛けるのじゃ?」
「僕が優しいから。ところで、僕がキスした時に起きたんじゃなかったの?」
 平然と大嘘をつくシンジにも、妲妃は突っ込む事はせず、
「目覚めてから数分間、彼方此方を見回しておるのか、わらわが?」
「寝起きは良いけどろくな事をしない、と来た。やれやれ」
「余計なお世話じゃ。大体あの程度の口づけしか身についておらんのか?あんな舌技しか持ち合わせぬ少年が共生とあっては、大将軍も良い迷惑。どれ、わらわが教えてくれる」
 躙り寄ってくるのを、
「淫乱はきらわれるよ」
 あっさりとかわした。
「平然とよく申すものじゃ」
「は?」
「人格が変われば、躯も変わるのか?と考えたな。試してみたいと思わなかったとは言わせぬぞ」
「別に」
「ふふ、動揺しておる」
 ちゅ、とシンジの頬で小さな音がした。
「今は此処迄じゃ。いずれわらわが気乗りすれば…」
 言葉が止まったのは、喉元に突きつけられたワルサーのせいだ。
「生き方に口出しはしないけど、その身体で悪戯はするな」
「さて」
 どう見ても止めそうにないが、これ以上は面倒である。シンジは銃を下ろすと、ホルスターにしまい込んだ。
「移植は急いだ方が良さそうだな。僕がやるか」
「長門の小娘よりはましじゃな。ところで大将軍には無理か?」
「ユリさんがやるとしたら、心霊治療になる。それよりは、僕術でやった方が楽な筈だよ。おや?」
「どうした?」
「土御門晴明の母は、確か葛の葉って言ったな。晴明の魔術は母譲りって書いてあったはずだ。あれは姫だろ。自分で出来ないのか?」
「わらわはあれとは別じゃ。それに自己催眠とは違う。自らを容易く分離できる訳もあるまい」
「二重存在(ドッペルゲンガー)の切り離しは、ペルソナの剥離と同義だから、たまにだが自分で出来る人もいる。やっぱり魂ごと別格って事かな」
「人の事が言えるのか?お前は」
 へへん、と胸を張ったシンジ。
 さすがに妲妃も一瞬呆れて、
「何を威張っておるのじゃ、この少年は」
「内緒」
 シンジを一番解するのはアオイだが、そのアオイも千回に一度くらいの割合で、シンジの考えが読めない事がある。
 いまのは、それにあたるらしい。
 妲妃は興味もないのか、特に追求しようとはせずに、
「まあよいわ。ならば、お前にやらせて遣わす。わらわに銃など突きつけた時点で、五体をばらしてやりたい所なれど、大将軍の手前、そうもいかぬ。一個の身体になったらその時は、覚悟しておくがよい」
「今決着つける?」
 シンジのゆっくりした声に、二人の足が止まった。
 視線が絡み合う事数秒。
 先に微笑したのはシンジであった。
「今はいいや。お互いに利害は一致してるしね」
「ふん、生意気な」
 こちらも、言葉とは裏腹に何故か薄く笑った。
 二人とも、叶わぬ事とは知っての態度である。
 シンジの中にもう一つの人格があり、そしてそれが想い人である妲妃にとって、シンジを殺すのは想い人を失うのと同義であった。
 シンジとしてもユイと別格だと知った以上、レイの身体ごと滅ぼす気は無かった。
 悠然と歩いた二人だが、誰も彼らを見つける事が出来なかった。
 幸いであったろう−見つけられなかった者のためにも。
 いつもの通り、危険物の点検をしてからロックを解除したがふと、
「で、僕の妹は何時まで寝ている?」
 と訊いた。
「起こしたければ言うが良い。わらわが意識は繋いでくれる」
「判った」
 何の異論も唱えず、運転席に乗り込もうとして気付いた。
「どうして乗らない?」
「開けよ」
 頼みも命令も、何の感情も込めずに命じた−当然であるかのように。
 おそらくこうして、人民を従えてきたのであろう。
 何の気兼ねも遠慮もなく、人々の上に君臨して。
「いやだ、と言ったら」
「別に構わぬ」
 にっと笑った姐姫。
「待った、何する気だ」
「わらわの思念を全てこの娘に流す」
「まったくやな女だ」
 ぼやいたが、ドアを開けたシンジはさほど嫌そうでもなかった。
 滑るように走り出したが、やがて停めた。
 前方にはゲートがあり、見張りが二人いる。
 手を伸ばして、シンジはグローブボックスからリボルバーを取り出した。
「何をしておる?」
 足首にはP99,ホルスターにはP88をそれぞれ持ちながら、新たな銃を取り出したシンジを見て、興味を持ったらしい。
「とりあえず眠らせるだけでいい。麻酔弾で」
「何を面倒な」
 言うなり、腕をすっと伸ばした妲妃。
「何をする気?」
「心霊兵器の使い方を見せてくれる。会得して置くがいい」
 ATフィールドの使い方を、一度見てマスターできるかは不明だが、それはともかく姐姫の胸が、ハンドルを持ったシンジの上腕部に当たった。
(おや?)
 セントラルドグマで、後ろから全裸で抱き付かれた時。
 成り行き上、一緒に入浴する事になりレイを洗った時。色々あったシンジは、既にレイの胸の大きさも感触も知っている。
 だがシンジの腕に当たったそれは、シンジの知らない感触であった。
(人格の転移は肢体の変貌まで引き起こす、か)
 シンジが新たな発見に感心した時、妲妃の両手から放たれたATフィールドが、二人の警備員を直撃した。
 声も無く倒れる二人。
 ベンツはその間を、悠々と出ていった。
 走り出して数分経った時、不意に妲妃が口を開いた。
「わらわの胸は柔らかかったか、シンジよ?」
 後ろから見ていれば、ベンツが僅かに車線を越えたのが判ったはずだ。
 だが驚愕を見せたのも数秒、直ぐに立ち直ると、
「それなりに。でも僕の知り合いの方がいい」
 あっさりと告げた。
「気に障る少年じゃな。で、何を考えておる?」
 おそらく以前は、自分の美貌に絶対の自信を持っていたに違いない。
「外見の事さ」
「おぬしが、大将軍と外見(そとみ)に変化が無い理由じゃな?」
「うん」
「わらわは、この形になるのは初めての事ではない。もう一つの人格と、肉体を共有する術も身につけておる」
 更に言いかけたが。
「そうなの?」
 妙に感心したようなシンジの言葉に、
「何じゃ?」
「大したものだな、と思って」
「お前に褒められても、微塵も名誉になどならぬわ」
 冷たく言ったが、何となく会話が途切れた。
 再度口を開いたのは、姐姫である。
「話が済んでいなかったの。この身体は綾波レイの物なれど、今は完全にわらわの時間じゃ。だが大将軍は」
 一旦言葉を切ってから、
「誰かと共生、しかもこんな少年の副などとは、初めての経験であろうの」
「死ねない運命(さだめ)かな」
「わらわが知るわけはあるまいが。それより」
 ゆっくりと両手で乳房を持ち上げた妲妃。
 リボンを解くと、左手の腕に両の乳房を載せ、第二ボタンまでを外した。
 色は同じ、だが大きさは全く違う乳房が顔を見せた。
 明らかにレイとは異なった重量感を、そしてしっとりと吸い付いて来そうなたわわな胸を、シンジに見せつけるようにして再度持ち上げた。
 凄まじい程の色香が漂ってくる。
 しかも、ご丁寧に唇を半開きにして、上目遣いになっている。
 変わったのは首から下だけなのか、顔は綾波レイのままである。
 だが、男を気付かぬ間に呪縛するような黒瞳、薔薇の鮮血をルージュ代わりにしたような濡れた唇。
 何よりも、ユリをしてさえなお敵わぬような、妖気とも間違える妖艶さ。レイでは、一生かかっても真似は出来まい。
 傾国と形容するのが相応しい、極めて希な存在であろう。
 傍目には、色気づいた早熟な小娘が、同級生に迫る図にも見える。
 だが、迫っているのは数千年を生きた妖女であり、迫られているのは一応普通の少年である。
 しかし、こちらは普通の好奇心旺盛な青少年ではない。
 既に耐性は十分に付いている。
 シンジの腕に、乳房が押しつけられた。
 下着は着けているはずだが、はっきりと乳首の感覚が伝わってくる。
 意志の力で、乳首すら尖らせて見せたらしい、熱気さえ帯びたそれは、普通の少年なら間違いなく、性的衝動に襲われたに違いない。
 いや、押し倒してのし掛かりたくなる衝動、あるいは強烈な射精感にさえ見舞われたかもしれない。
 それらを押さえられる程、理性が保つかどうか。
 顔はレイのままだが、躯は完全に別物になった肢体は、それ程までに妖艶だったのである。
「感じないぞ」
 強がりの微塵もない、本心からの言葉に妲妃の眉が上がった。
 その証拠に、ハンドルに乱れは全くなく、顔色にも表情にも変化は皆無だ。
 ユリがいればこう言うに違いない。
「脈拍、血圧の上下、何れも全く変化無し」
 と。
「ほう」
 姐姫の言葉に危険な色が混じった。
「乳首を押しつけるな、わざとらしい。それにアオイの方がグラマーだよ。第一」
「その娘の胸に溺れたと申すか。信濃アオイ、お主の家族か?それとも想い人か?」
「誰も溺れてない。人聞きが悪いぞ」
「怪しい物じゃ。それで、第一何じゃと申す?」
「その顔、レイちゃんのままだぞ」
 言われて一瞬顔に手を当てた妲妃。
 失念していたらしい。
 ふふっと笑ってから、
「そうか、この顔では食指が動かぬか」
「何か引っかかる言い方だな。顔は変えてないの?」
「この娘、見るに耐えぬ醜貌の持ち主ではないのでな。特に手は加えておらぬ」
「と言う事は」
「知れた事。その気になれば好きに変えられると言う事じゃ。わらわの素顔を見てみたいと言うのか?」
 数秒考えてから、
「理性の自信がない。遠慮するよ」
 が、どう聞いてもそうは聞こえない。
「本音はどこにある?」
「レイちゃんの顔を変えられたくない」
「ふん、やはりそれか」
「その肢体(からだ)、実寸大じゃ無いよな?」
「無論じゃ」
「水槽から一体掬ってきて、精神(なかみ)だけ移植してやるから、そうしたら元に戻るといいさ。但し」
「なんじゃ?」
「誘惑するのは、僕以外にして貰おう」
「理性が持たぬか?」
 そう言って笑った妲妃に対し、
「自分で選ぶのはいいけど、誘惑されるのはやだ」
 幾星霜を生きてきた稀代の美女に対し、物とも思わぬ発言であった。
「色仕掛けは通じぬか。信濃アオイ、一度見てみたいものじゃな」
「綺麗だし、優しい性格だよ」
 ストレートな言葉に何を思ったか、
「ほほう」
 と言うと、微笑した。
 妖艶さの全くない、神々しさすら感じさせる妲妃の微笑であった。
 ただし、どこか奇妙な物は否めない。
「変な事言ったかな?」
「姉弟のようなじゃな」
「何が?」
「お前と信濃アオイじゃ」
「そうかな。ところで気になったんだけど」
「気になった?」
「想い人は僕じゃないだろ。どうして僕に色仕掛けする?」
「知りたいか。シンジよ」
「何となく」
「逃げるからじゃ。アオイの躯で慣れておるのか、一向に反応しようとはせぬ。わらわを見て、欲情する者はいても素知らぬ顔を決め込む者などおらぬ。いや、いてはならぬのじゃ」
「そんな無茶な。さては自分が絶対神だと思ってるんだな、まったく。でも当然だと思うけど」
「何じゃと」
 妲妃の声に危険な物が混ざったが、シンジは気にする様子も無く平然と、
「顔はレイちゃんのままだし、躯も実寸大じゃない」
 妲妃が奇妙な表情を見せた。
 何を思ったのか、ふと俯いた妲妃に、シンジは顔を前に向けたまま、
「何を考えている?」
「碇シンジよ。急いでもらうぞ、わらわの精神(こころ)の移植」
「嫌な予感がする。やだ」
「気が変わったか。だが逆らう事は許さぬ。綾波レイの魂のない身体、それに入った時、わらわの本当の姿に戻れよう。その上でなお、その小癪な態度を貫けるかどうか見てくれる」
 言葉を切ると、シンジをじろりと見た。
「お前を虜にして、わらわの下僕にしてくれる。古の王どもはすべて、わらわの肢体に溺れて、その前に跪いた。少年、お主はどうじゃ?」
「肢体(ボディー)は知らないけど、性格は絶対に良いとは思えない。女は性格が可愛くないとね。それと“少年”は止せ。でもいいのか?」
「己の容姿に自信を持てぬ輩ほど、やれ性格だのやれ財力だのとほざきたがる。所詮は匹夫の遠吠えよ。それで、何がよいと?」
「標的(ターゲット)の変更さ。この浮気者」
「一つの身体に二つの精神(こころ)を持つ者。片やわらわの想い人、片方はわらわの下僕。なかなかの贅沢じゃと、そうは思わぬか?」
「逃げる者は追う、か。そのうえ欲張りときた。恥じ入るって言葉は知らないの?」
「そのような言葉など、生まれた時から持ち合わせてはおらぬ」
「だと思ったよ、まったく。これで決まりだな」
「手術を行う気になったか?」
「お前を姫と呼ぶのは止めた」
 関係ない、そしてとんでもない事を言い出したシンジに、さすがに一瞬戸惑ったか、妲妃の口が小さく開いた。
「そうやってると、レイちゃんみたいで可愛いんだけどね」
「わらわを何と呼ぶ気じゃ?」
 一瞬言葉に乱れが生じたのは、気のせいか。
 シンジは躊躇う事無く、言い切った。
「猫娘。三毛とでも呼んでやる」
「何じゃそれは」
 悪口なら予想内であったろう、そして、それに対する処罰もまた。
 だが猫娘とは、想像に無かったらしい。
「猫は逃げる物を追うだろ。しかも食べもしないのに捕まえる。誰かさんにそっくりだ」
「それで猫娘か。ふん、そんな名前を付けた愚か者は初めてじゃ」
「似合うと思うよ」
 何故か真面目に言ったシンジに、こちらも何か言いかけたが、途中で止めた。
 猫娘の称号を、咀嚼しているらしい。
 結果は−途絶えた会話が明らかにしていた。
 
 
 
 
 
「シンジ君が脱走した!?しかもレイを連れて?」
 ミサトの素っ頓狂な声が上がったのは、シンジがネルフを脱してから数十分経った時である。
 言いだしはユリだ。
 無論、ユリはシンジが大人しく入っている等とは思っていない。
 わざわざ鉄甲弾を添えて渡したのは、シンジが憂さ晴らしをすると知っての上であったし、レイを一緒にしたのは、シンジがアサシンとしての部分を、見せるかどうかに興味があったからだ。
 だが、今シンジといるのは姐姫だと知ったら、ユリはどうするだろうか。
 出ていったユリが戻ってきて、
「ミサト嬢」
 呼ばれた時、微かにミサトは身を固くしたが、それでも口調に凍てついた物が無かったため、幾分安堵はしていた。
 そのミサトに、
「チルドレンの入っている牢は、監視は無いのかな」
 と訊いた。
「はい。多分、監視カメラがあっても壊されそうですし…」
「それに?」
「後が怖いかと…」
「尤もだ。しかし一つお忘れのようだ」
「忘れている事…ですか?」
「監視カメラを破壊するような危険な少年が、素直に入っているとも思えん。ここは一旦人をやって、見に行かせた方が良かろう」
 言われて気づいたのか、近くにいた保安部員に見に行くよう命じた。
 男が見たのは、鍵の厳重にかかった扉と、誰もいない無人の牢であった。
 さすがにミサトも、血相を変えた。
 単に浮浪者を放り込んで置いた、と言う訳ではない。
 チルドレンという、最重要人物なのだ。それも、二人である。
 だが、次の瞬間何かが頭をよぎった。
(シンジ君に、入るよう言ったのはドクターよね。まさか…)
 ユリに向けたくなった視線を、必死の抑制力で押さえた。
 無論ユリは、ミサトの胸中など読み切っている。
「どうされるかな」
 そう言った声は、限りなく冷たかった。
 見抜かれたと知って硬直したミサトに、
「とりあえず、何かあっては厄介だ。保安部員を向けられると良かろう」
「は、はい…」
「但し」
「え?」
「信濃邸に連絡は無用だ」
「信濃邸?」
「アオイは現在ウェールズにいる。従ってシンジが行く筈はない。信濃家の当主夫妻にシンジの失踪を知られたら、現在の直属上司の身の安全は保証できん」
 何かを考える間もなく、ミサトが差し向けた保安部員は総勢十三名。
 そのうち五名は、先だってシンジとレイが出かけた折り、付いていった連中である。
 ユリは既に、アオイとシンジの電話からその事は知っている。
 出ていこうとする黒服達を呼び止めた。
「綾波レイと碇シンジは、絶対に逃してはならん。全治一ヶ月程度なら、数日で私が治して差し上げる。何としても捕らえて来るように」
 悪魔の囁きに、直立不動で応じた男達。
 いずれも精鋭ではあったがいかんせん、実戦の経験はなかった−少なくとも、溜まった鮮血のの中に立って、凄絶に微笑んだ経験などは。
 ここにミサトの致命的なミスがあった。
 いくつかの事を彼らは知らなかったのだ。
 既に、追っ手は予想済みであること。
 そして、一緒にいるのはシンジを兄と慕う、あどけない少女ではないことを。
 更に、溢れる鮮血を美酒に酔う二人は、実は二人ではないことを。
 何よりも稀代の妖女と一級のアサシンは、どちらかと言えば良に近い奇妙な関係にあることを。
 虎狼が牙を研いでいる所へ、羊たちが進み出ようとしていた。
 もっとも−可愛い子羊とは言い難かったが。
 
 
 
 
                   
(続く)

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