第十五話
 
 
 
 
 
 池を形作ってそこに酒を流し込み『酒池』と為す。
 空き地に全裸の男女を放ち、彼らの淫行に耽る様を持って『肉林』と為す。
 これを併せて、『酒池肉林』と言う。
 かつての賢王を元に戻すべく、死を賭して諫言した忠臣に、真っ赤に熱した巨大な銅柱の上を歩かせ、その悶え苦しむ有様を見て法悦を得た。
 これを『焙烙之刑』と言う。
 妊婦の腹にいる赤子の性別を知りたいと、既に暗愚の化身と化した王にせがんだ。
 どうやって調べるのか。
 超音波ではない、文字通り腹を割いて調べるのだ。
 予想した通りだと大喜びして次を促し、外れた時には悔しがって、次こそ当てると言って新たな犠牲者を出すのだ。
 これは全て、殷の紂王に取り憑いた稀代の妖女が為した所行である。
 その後平安の代になって来日し、時の上皇の寵姫の座を得たが、有名な陰陽師に正体を見抜かれ、魔力を仕込んだ矢を体中に射掛けられながらも、とある高原まで飛んで行き、その地で『殺生石』と化して近づく者を、片っ端から死に至らしめたという。
 その者の真の姿を知る者はない。
 いや、本人も既に記憶には無いのかも知れない。
 その妖女の生は、人に仇為す石と化した時点で終わった、訳ではなかった。
 そう、決して。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 レイの発言に発令所は凍り付いたが、シンジには何の影響もない。
 一言、
「それ、却下」
 と言っただけである。
「お兄ちゃん、どうして?」
 折角の進言を無下に却下され、幾分哀しげな口調になったレイにも、
「賭けに負けたもので」
(何それ?)
 誰もが内心で疑問の声を上げたが、無論それには答えはなかった。
 初号機の右手を伸ばすと、地面に向かって差し伸べて、
「五秒以内に乗らないと捻り潰すよ」
 使徒がこちらに向かっているのを知りながら、呑気な声で告げたのである。
 既に腰は抜けていた二人であったが、慌てて初号機の手の上に乗り移った。
「今なら、まとめて握りつぶせるかな」
 物騒な呟きに、ケンスケとトウジの血の気が引いたが、あっさりとプラグの中へと収納された。
 だが、プラグの中は空気が満ちてはいない。
 当然の反応として、
「な、何や、水やないけっ」
「ゴホッ、か、カメラが…」
 命を助けられながらの苦情を否応なく止めたのは、
「うるさい」
 どうでも良いような、シンジの声であった。
 二人は一瞬にして、数週間前の出来事を思い出したのである。
 プラグの中に、束の間の静寂が訪れた。
 破ったのはケンスケであった。
「あ、あの…碇君…なっ!?」
 ケンスケとトウジは、丁度シンジのシートに捕まる格好になっていたのだが、振り向いたシンジの手が、いや性格には二本の指が、ケンスケの目の前をすっと横に流れたのである。
 くずおれたケンスケをみて、声も出ないトウジに、
「眠っているだけだ。ところで、訊きたい事がある」
「な、何や?…いや、な、何でしょうか…」
「ついさっき、洞木ヒカリに襲われた」
「な、何やて?」
「彼女は君のことが好きだそうだ。従って君を片づけた僕を許せなかった、とそう言っていた」
(これは、知っていたのかな)
 突如紅くなったトウジを見ながら、そんな事を考えたシンジ。
「僕の問いはその事に関してだ」
「その事って何や?」
「答えて貰おう、ヒカリ嬢の事は、好きか?」
「な、何を言いだ…」
 つい強い口調で言いかけたトウジを、シンジの視線が射抜いていた。
 俯いたトウジに、
「君達を乗せた時点から、こっちの音声はカットしてある。誰にも聞こえないよ」
「な、なあ、転校せ…いや、い、碇君」
「何か?」
「ど、どうしても答えなあかんか…」
「無論だ」
 冷たく帰ってきた声に、覚悟を決めたらしい。
「べ、別に、イインチョの事は嫌いやないで」
「好きか、と訊いている」
 無視を決め込む、或いは、関係ないと突っぱねる、その何れも選ばなかったのは、正しい選択であったろう。
 いや、鈴原トウジという少年の、本能的な部分がそれをさせなかったというべきか。
「ほ、本当に訊かれてへんのやろな」
「無論」
 単純な答えを−先程とは違う用途で−繰り返したシンジに、覚悟を決めたらしい。
「わ、ワイも男や。女にそない迄言わせた責任は取る」
 そう言って胸を張った後、急に小声になり、
「イ、イインチョは口やかましいけど、あ、あれでも優しいとこあるんやで…ワイもそんな所が…」
「もういい」
 遮った後、軽くだがわざわざ口に出してちっ、と言ったシンジ。
 呆然としているトウジに、
「君の返答次第では」
「い、いたら?……」
「ここから放り出して、踏んづけて行くつもりだった」
「な…・」
「その方が良かったんだけどね」
 呑気な口調と、その内容とのギャップに唖然としたトウジ。
 だが、彼は知らない。
 たしかにシンジは嘘は言っておらず、音声はカットしてある。
 ただし内部の映像は入りっぱなしになっており、指二本で眠らされたケンスケと、真っ赤になったトウジは映っていると言う事を。
 しかもその表情は明らかに、照れに属していたのである。
 発令所でも、やや呆然として成り行きをみていたが、双方向の音声を勝手に切っていたシンジが、元に戻した瞬間、
「席に捕まっていて。邪魔はするなよ」
 と言う声が聞こえて来た時、我に返った。
「ちょっと、シンジ君。勝手に乗せたりしてどういうつもり?」
 完全に回復しているのはミサト。
 シンジが何か言いかけた瞬間、
「お兄ちゃん、危ないっ」
 動かない初号機に、山を登り終えた使徒が襲いかかったのである。
 無論、シンジはとっくに気付いている。
 レイの言葉が終わらない内に、横へ避けた。
 紙一重だが、確実にかわして、
「ありがとう、レイちゃん。さすがだね」
 皆の前で褒められて、紅くなったレイ。
 なにやら、もにゃもにゃと呟いている。
 リツコがそれを見て微笑した次の瞬間、初号機のプラグ内で、モニターにノイズが走り出した。
「ありゃ?」
「神経系統に異常発生しました」
 マヤの声に、
「だから言ったじゃない。異物を挿入するからよ」
 吐き捨てるように言ったミサト。
 じろりとリツコを見た。
 リツコも言い返す術無く、
「やむを得ないわね。シンジ君、一旦撤退して」
「やだ」
「『何ですって!?』」
「ちと事情があって、このジャージは放り出すわけには行かない。こっちの迷彩服着た眼鏡も、邪魔にはなっていない筈だ」
「どうするの?」
 リツコの問いに、
「こうする」
 人差し指で、トウジの両瞼の上を、線を描く様に動かしたのだ。
 かくん、と首を垂れたトウジ。
「い、今のは…」
 誰かが呟いた瞬間、モニター内のノイズは消えた。
「これで良いね。大体これ以上ピンチになったら、レイちゃんがエヴァ無しで出て来かねない事だし」
 使徒もどきだし、とは無論言わない。
 ミサトとリツコの視線がレイに向くと、こくこくと頷いているレイがいた。
(イ、インプリンティング…)
 二人が同時に思った事は、何故かそれであった。
「シ、シンジ君。今のは何をしたの?」
 催眠術の応用、そうと知りながらも訊かずにいられなかったリツコ。
 その声は震えている。
 レイを除いた全員も同感であったろう。
「ユリさんに教わった訳じゃないよ。これは…あ」
 語尾が僅かだが、翳りのある物になったのはどうしてか。
 それはともかく最後のそれは、伸びてきた使徒の触手への対応が、一瞬だが遅れた事による。
「『ああっ!』」
 ミサトとリツコの声が重なったのも当然で、避けはしたが電源コードを切断されていたのだ。
「あーあ。全く」
 そう言って向けられたシンジの視線に、何故か全員が俯いた。
 やはり、殆ど全員がシンジの術に興味を奪われたらしい。
 だが、全員ではなかった。
 二人の例外がいた。
 一人はレイだ。だがもう一人は?
「命令無視プラスこの醜態。独房にでも放り込んでおこう」
 その呟きは、誰にも訊かれる事は無かった。
「予備の電源コードは?」
 当然の質問に、
「ご免なさい、その位置じゃ」
 謝ったリツコに代わって、
「シンジ君、取りあえずは撤退して。命令よ」
「もう一度」
 その声は後ろから聞こえた。
「ド、ドクター」
「初戦の無様な指揮ぶりで、完全に信頼は失墜している。その事をお忘れのようだ」
 俯いたミサトには目もくれず、
「シンジ」
 と、呼んだ。
「…判ってる」
 微妙な会話は、初号機の取るべき行動についてでは無かった。
「幸いコアは剥き出しになっている。仕留めてみる」
 その言葉が、終わらない内に伸びてきた触手を、しなやかに蹴り飛ばした。
 瞬時に間合いを詰めると、使徒にボディブローをかます。
「ナイフは肩よ」
 告げたのはユリであった。
 頷くと使徒がぐらついた瞬間に、取り出したナイフをコアに突き刺した。
 倒れかかる使徒を許さず、右後ろ回し蹴りを放つ。
 使徒は…吹っ飛ばなかった。
 最後の力で、初号機に触手の先端を刺したのである。
 だが。
「痴漢行為だ」
 シンジの眼が刹那光を帯びた−かに見えた。気のせいだったかもしれない。
 小さいが、裂帛の気合いが洩れた瞬間、初号機の両手は完全体と言える程の、オレンジ色の光をまとわりつかせていた。
 しかも、五角形ではない。
 明らかにそれは、手に沿って手刀を形成していたのである。
 だが、シンジもそして誰も知らなかった。
 初号機に乗っている時に僕と言った微妙な科白に、初号機とのシンクロが一瞬だが大きく変わった事を。
 それは、機械が捉える間もない程の僅かな時間だったため、記録にも残らなかったのだが。
 エヴァの専門家がいたら、間違いなくこう言ったであろう。
 初号機は笑った、と。
 それはともか、唸りを上げて振り下ろされたそれは、容易く触手を断ち切った。
 最後の抵抗をあっさりと断ち切られて、使徒の気力は萎えたらしい。
 ふらふらと倒れかかったが、シンジはさせなかった。
 ハートマークを逆さにしたような、顔らしき物の下にコアがあったのだが、その顔を貫手の形にした手刀で貫いたのである。
 一気に肘まで貫いた。
 返り血と呼ぶべきか、使徒の体液が初号機に跳ねかかった。
 使徒の真っ赤な体液で、初号機が染まった直後、使徒は初号機に倒れかかるようにして、完全に沈黙した。
「も、目標は完全に沈黙しました」
 凄惨な光景に、誰もが息を呑む中、日向の震える声が告げた。
 サキエル戦とは又違う戦闘ぶりに、誰もが息を呑んでいたが、何事にも例外という物は存在する。
 その一人、綾波レイは、
「すごい…」
 と、純粋に感心しており、もう一人の例外−こちらは何が起きたら驚愕するのかと思わせるような雰囲気−であるユリは、
「シンジ、お見事」
 いつもの何処か冷たい声で−だが、親しい者なら感じ取れるある感情を込めて−告げた。
 よっこらせと、使徒から腕を引っぱり出しながら、
「直って良かった」
 誰もが首をかしげたが、ユリにだけはその意味が判っている。
 腕が抜けきった時、ちょうど初号機は活動限界を迎えた。
 シンジがケンスケやトウジに掛けた術は、シンジの言う通り、ユリが教えた物ではない。
 そして、アオイでもない。
 信濃家と並び称される、もう一つの流派に属するある娘から、贈られた物であった。
 目の前で人が死んでも、呑気に大丈夫、と訊きかねないシンジが声を翳らせるとは、以前に何があったというのか。
 腕を抜いたシンジが、
「動かないから回収しに来て」
 その言葉に漸く、発令所が動き出した。
 慌ただしく回収車が出動して、職員達が飛び出していった。
 レイも出ていこうとしたのだが、
「此処で帰りを待った方がいい」
 そう言ったユリの言葉に何かを感じたのか、素直に従った。
 レイにそう告げたユリは、不可解な行動を取った。
 足下にあったシンジの鞄から、ワルサーを取り出すと、弾倉を確認したのだ。
 弾が入っている事を確認すると、今度は安全装置まで解除した。
 どう見ても不可解な行動だが、次の行動は更に奇怪であった。
 白衣の中に手を伸ばすと、夭糸に触れたのである。
 一体何を考えたのか。
 
 
 
 
 
 ゆっくりと初号機が横倒しされて、エントリープラグが射出された。
 係員達が近寄ろうとした瞬間、ドアが吹き飛んだ。
 シンジが蹴り飛ばしたのだ。
 両肩にはケンスケとトウジを担いでいる。
 地面に放り出すと近づいてきたリツコに、
「予備電源の確保に使える武器の装備、命令系統の混乱等、幾つか問題点は残ったね。一番大きいのは予備電源の確保だ」
 と、言った。
 リツコはすぐには答えず、シンジの顔を数秒見つめていた。
「何?」
「アオイさん、ていう方」
「アオイちゃん?」
「シンジ君とどういう関係なの?」
「どおして」
 表情は変わらないが、言葉を延ばしたシンジ。
「さっき、ドクターに言われたの。信濃アオイさんが、大佐の階級でもうじきネルフに来るって」
「ほんとうに?」
 シンジと初めて会った時から、こんな嬉々とした表情は見た事が無かった。
(このシンジ君がここまで嬉しさを出すなんて…)
 その事は言わず、
「シンジ君は全面信頼しているのね?アオイさ…いえ信濃大佐の事」
「無論。元々ホルスタインじゃなくって、アオイちゃんに同行の要請はしてあった。だけど、『叔父様が選ばれた方ならそれなりだと思うわ』なんて、アオイちゃんが甘いこと言って来てくれなかったのさ」
「そんなにミサトが嫌?」
「初対面の時、ネルフにこんなに綺麗なお姉さんがいるのにとか言ってた。垂れ下がった胸しか取り柄のない、自意識過剰は嫌い」
 白衣の上からでも、圧倒的なスタイルは判るユリである。
 ユリは自らを誇るような言葉を、シンジの前で口にしたことは無いのだろう、リツコはそう考えた。
 第一、想像すらつかない。
「信濃大佐は、とてもお綺麗な方ですってね?」
「既に調査済みの事を、如何にも知らないように言うのは止した方がいい。根性が一層曲がって見えるよ」
「そう、かしらね?」
「アオイちゃんもユリさんも、一度も自分のことを自慢げに話したことは無い。言っとくけど、あの二人が並んで街歩いたら」
「どうなるの?」
「最低十組はカップルが破綻する」
 真顔で告げたシンジに、リツコはふとユリの私服姿を見た事が無いのに気が付いた。
 シンジ邸で夕食を共にした時も、ユリは白衣姿だったのである。
 だが。
 胸は白衣を押し上げるようにして、大きく突き出しているし、腰の方も両手を廻して強く締め上げたように、ほっそりしているのが判るユリだ。
(だとしたら、信濃大佐はあれ以上の?)
 その時、リツコはシンジの言葉を思い出した。
 (そ、そんな事ないわよね)虚しい期待とは、自分で判りきっているリツコ。
 内心で溜め息をつきながら、つい自分の胸を見た時、
「この二人はその辺で釈放して置いて。さっさと髪洗わないと痛むから、もう戻ってもいい?」
 その言葉で我に返ったリツコが、
「そうね。折角の綺麗な髪ですものね。いいわ、戻りましょう」
 言ってから、嫌味が混ざっていなかったかと不安になったが、シンジは気にする様子もなく踵を返した。
 
 
 
 
 
 雑談しながらシンジがリツコと本部に入ってきた時、
「サードチルドレン碇シンジ。命令違反により拘束する」
「…ふうん?」
 声の主は副司令の冬月の物であった。
 だが誰も動こうとはしなかった。
 いや、保安部員達は数名いたのだが、既にシンジの実力を知っているために、火中の栗を率先して拾おうとする者はいなかったのだ。
 確かに発端はゲンドウによって、やや強引に「人類補完計画」に巻き込まれた冬月だが、今の冬月にとって、それはもはや今自らの野望と化している。
 その冬月にとって、レイを手懐けて計画の妨げにもなりかねないシンジなど、邪魔以外の何物でもない。
 もっとも、シンジを今すぐにどうこうしようと言う事はなく、取りあえずおとなしくさせるだけのつもりだったのだが…。
 だれも動こうとしない様子に、
「ここはいつから、少年の私物に成り下がったのだ?出来ないなら、お前達から責任を問うぞ」
 既に老いたりとは言え、副司令である。峻厳たる命令に、やむなく周囲から近寄ってシンジの腕を取った次の瞬間。
「ぎゃあああっ!」
 シンジの腕を掴んだ保安部員達の、手首から先が綺麗な切断面を見せて、床に落ちたのだ。
 シンジは関心無さそうに見ているし、他の者は硬直して声も出せない。
「信濃の老公の知り合いに、冬月なる者がいるとお聞きしたことがある」
 夭糸を操ったのは無論ユリである。
「常に老公の足下にも及ばない出来で、唯一の功と言えば、シンジの預け先として信濃家を紹介した事ぐらいしかないとか。だが」
 言葉を切った瞬間二人の不幸な部員の腕は、手首を落とされた上に、真っ二つに裂けたのである。
 ユリの鬼気に、もはや悲鳴も出ない。
 物体が落下する音が、三つした。
 二つは保安部員の腕で、もう一つは伊吹マヤが倒れた音であった。
 完全に失神している。
 ミサトとリツコは、蒼白になっているが辛うじて立っており、レイはと言うと、ユリの胸に押しつけられている。
 ユリの思いやり、ではない。
 レイにこんな物を見せたら、後でシンジに何を言われるか判らないと、判断したからだ。
 ユリの手がレイの顔から離れて、懐中に入った。
 無造作にシンジに投げた物を、シンジは受け取った。
 シンジのワルサーは、既に撃鉄は起きている。
 何故か黙したまま、それを見つめているシンジに何を感じたのか、ユリが自ら死の糸を向けようとした時、
「もういいよ」
 あっさりとシンジが告げた。
「独房でも何でも入ってろっていうなら、入るさ。アオイちゃんが来る前に、使い魔達を全員移植用の肉体に変えられたら困る。ただし」
 冬月をじろりと見た。
「髪洗ってからね」
 レイとユリを除いた全員が、転びそうになったが本人は真面目である。
 さっきまで自分の腕を掴んでいたが、今は掴む手が無い保安部員達に、
「ユリさんが、気まぐれで直してくれる事を天に祈るんだね」
 ちらりとユリに視線を向けた。
「この間はそれ、出さなかったよね。もしかして?」
「忘れてきた」
「道理で迫力が足りないと思った。ま、使えない時だったしね。それ取りに行くのが本命だったの?」
「独房の監視カメラは撤去させるとしよう。シンジ、夜の安眠は決して来ないと思うがいいわ」
「ぷいっ」
 わざわざ声に出してから、固まっている他の部員達に目を向けると、
「折角副司令が言ってるんだから、捕まえたら?気が変わるかもだよ」
 わざわざ両腕を横に動かした。
 おずおずとその腕を取られた時、
「いやっ!」
「レイ!?」
 既に手が離れていたレイが、向き直って叫んだのである。
「お兄ちゃんが入るなら私も入るっ」
「レイちゃんが入る必要は無いと思うけど」
「…はい」
 やけにあっさりとした撤回だな、と思った次の瞬間、
「お洗濯もお掃除もしないし、栄養も錠剤からしか摂らない。だから…お兄ちゃんなんか…・いらないもの」
 目に涙を浮かべて拗ねている様子は、本人には悪いが可愛いという形容が、一番当てはまる。
 俯いたまま横目でシンジを伺っている様子に、内心では微笑しながら表面はあくまで冷たく、
「シンジは要らないそうだ。一ヶ月位放り込んでおいても構わない。何なら、一生放り込んで置いても構わんよ」
 だがそれを聞いた瞬間、レイの様子が一変したのである。
 俯いたまま、肩を震わせだしたのだ。
 そして、手を握りしめた。
 その手がオレンジ色の光を発したと見抜いたのは、リツコとユリ。
「レイっ、駄目っ!」
 悲鳴に近い声がリツコから上がった瞬間、その手から飛んだ光がリツコを直撃した。
 声も立てずに吹っ飛ぶリツコ。
 ゆっくりとレイの顔が上がった。
 基本的にシンジとユリの前だけとは言え、愛らしさを帯びた表情のある顔へと変化していた、普段の面影は微塵も無く、凶相そのものと化している。
 低い声で嗤ったレイに、誰もが凍り付く中、
「サルベージ時に別人格が移植されたか」
 分析するように言ったユリに、
「長門の小娘か。余計な事な口出しを」
 オレンジ色の光を発したままの手が、ユリに向けられた時、
「俺と会うのは初めてだな、女」
 勝るとも劣らない冷たい、そして妖気を帯びた声が告げた。
 次々と物の倒れる音がした。
 呆然と見ていた者達が、遂に気絶し出したのだ。
 人外とも言える者同士の邂逅に、もはや神経が保たなかったらしい。
 いや本能が選んだ自衛手段、だったのかも知れない。
 女、と呼ばれたレイが、手はユリに向けたまま、顔だけはシンジの方を見た。
 二人の視線が冷たく絡み合う。
 先に口を開いたのはシンジ。
「お前は誰だ?」
「さてね」
「ほう」
「今の自分は知らないわね。少なくともコアの中にいる、息子に最大の憎悪を向けられている女と一緒にしないで欲しいわわ」
「息子、と言ったな。では、俺の事は何と呼ぶ?」
「遙か古に、北方の蛮族の前に単騎立ちふさがった誇り高い大将軍がいた、と言う事かしらね。それが何故此処にいるの?」
 それを聞いたとき、ユリの表情が変わった。
 レイとは違った意味で、あまり表情を変えないのだが、その時ばかりははっきりと驚愕を露わにしたのだ。
 シンジの別人格に付いては、殆ど知らなかったらしい。
 きん、という音がした。
 ユリの手から伸びた夭糸を、レイのオレンジ色の光−ATフィールドがはじき返したのだ。
 レイがくっくっと嗤った。
「自分の無知を暴かれて、腹に据えかねたと見えるな。この娘の霊的兵器、私には馴染みやすいと見える」
「ATフィールドとか言ったか」
 シンジの言葉に、低く嗤って、
「そこに転がっている金髪の小娘が、勘違いして何やら叫んでいたな」
「綾波レイではないのか」
「この私よ、大将軍。大体赤子がいきなり使って、人を跳ね飛ばせる訳もあるまいに。そこの愚かな小娘と、同レベルな事など言い給うな」
 レイは、赤子同然でしかないらしい。
 が、それを聞いた時、ユリも又変わった。
 切れ長の眼は釣り上がり、凄まじいまでの鬼気を湛えた。
 真一文字に結ばれた唇は鮮血を吹き付けた程、深紅になっている。
 何よりも、普段の無表情から生み出す気ではなく、文字通りの感情が溢れている。
 抑えきれないほどの怒りが、妖艶な女医の全身から吹き上げているのだった。
「敵対する者には死を。それが私の主義だ。それでも、今まで心から殺したいと思った相手はいなかった。だが」
 一旦切ってレイの顔を見据えたその視線の、なんと冷たく、何と凄まじい事か。
「お前だけは、私が殺す。長門ユリのこの名に賭けても必ず」
 だが、ユリが殺すと言った相手は、綾波レイの身体を持った人物である。
 綾波レイもろとも殺す気なのか、この女医は。
 見る見る両者の間に殺気が膨れ上がった。
 それが弾けた時どうなるか。
 だが、それは遂にぶつかり合うことは無かった。
「ドクター、止せ。そっちのお前も大人しくしていろ」
 シンジの声が制したのである。
 どうして、と言う顔を見せた二人に、
「この間の使徒戦の折り、久しぶりにすっきり出来た事でシンジに借りが出来た。綾波レイをシンジの妹にしておく事で、借りは返す事にしたのでな。今お前に殺されては少々困る」
 レイの方に視線を向けると、
「お前の正体には興味はない。取りあえず碇ユイそのもので無ければ、な。だが、その身体を使って悪戯は止せ。碇シンジも最近では、多少だが力を付けてきている」
「貴方はどうかしら?」
 その言葉に、シンジが奇妙な表情になった。
 二人の視線が再度絡まる。
 たっぷり一分間、それは動かなかった。
「お前もか」
 何故か懐かしさというか、親しみが籠もった言葉になった理由は、さすがにユリにも判らなかった。
「さすが、大将軍。碇シンジとは違うわね」
「褒められたのは結構だが」
「何かしら?」
「碇シンジに興味はないのか」
「残念ながら」
 この場合の言葉は、あると言う方だ。
「ほう?」
 シンジから再燃しかけた殺気に、
「シンジに興味があるって言ったら途端にそれ?ちょっとせっかちじゃない?」
「生まれつきでな」
「別に私自身はどうでも良いのよ。ただね」
「ただ?」
「元々私は貴方と同じ、碇ユイの別人格だったのよ。この娘の中に押し込まれた時、ユイとは完全に離れたわ。母親等と呼ばれる資格の片鱗もない女、しかも当然の報いで子供に憎悪されているのを承知で、何時までも未練がましい女なんか大嫌いよ」
「これが本当の仲間割れ、と言うやつか」
 口を挟んだのはユリ。
「小娘。私を殺すのは終いにしたか?」
 からかうような口調にも、
「物事は、全て修正されながら進んでいくのが世の道理」
 と、少しも動じた様子はない。
「まあいいわ。綾波レイに関しては小娘とはいえ、お前の力を使う時もある」
 ユリの表情は変わらない。
「話を戻せ」
 シンジの声に、
「そうだったわね。碇ユイとは離れたけれど、私は直ぐに覚醒した訳じゃない。しばらくはこの綾波レイの中で眠っていたわ。それを起こされたのよ。尤も、感謝はしているけれど」
「あれか」
「あっつーいキスって、ちゃんと言わなくちゃ駄目よ」
 いかにもわざとらしい濡れたような声は、明らかにユリに対する挑発である。
「私の想い人では無いのでな。あのシンジとレイ嬢がキスしようと、私の知った事ではない」
「嫉妬に狂った挙げ句に、熱でも出しているように見えるぞ、小娘。まあいい。今の私は完全に一個の人格なんだけど、あの忌々しい碇ユイの性格が残っているのよ。正確には、怨念と言うべきかしらね」
「母親面したいと?」
「そっ」
「では、もう一つあるのか」
「随分本体とは切れが違うのねえ」
 本心から感心したような言葉に、僅かに苦笑して、
「碇シンジがユイをサルベージして、ゲンドウの目の前で殺しても構わんのか」
「勿論よ」
「最後に一つ」
「あら、一つだけなんてつれないわね。何でも聞いて。身体の相性でも良いわよ」
 そう言うと、紅い舌で唇を舐めた。
 それにしても、シンジとユリに対しては態度が大違いだ。
 好き嫌いがはっきりしている、とでも言うのか。
「綾波レイの顔で、悪戯は止せと言ったはずだ」
 冷たく告げたシンジの右手は、ばらりと開いている。
 無論、瞬時にワルサーを抜け撃てるよう、備えているのは言うまでもない。
 そのワルサーは、ズボンの後ろに無造作に差してある。
「判ったわよ。それで何?」
 はいはいと言う感じで、両手を上げた妖女に、
「お前の、最初の名前は?」
 うふふ、と笑った。最初の嗤いとは根本的に異なる。
「そう来ると思ったわ。ふふ、大将軍に免じて教えてあげる、妲妃よ」
「酒池肉林を初め、多数の造語を作った物騒な女だな。殺生石に何時までも封じられる身ではなかったか」
「古の封印如きに、何時までも縛られる我が身では無いわ。それにしても、物騒な女とはきつい愛称ね。まあその通りだけど。でも、貴方と私は本質的には同じ。貴方とは深い付き合いになると良いわね。貴方に免じて、綾波レイには手を出さないでおく。一つ貸しよ」
 危険な雰囲気は変わらぬままで、笑みだけは少女のような、あどけない物を浮かべたレイ−いや妲妃と呼ぶべきか、妲妃は微笑んだ。
「止むを得まいな。それにしても、玉藻御前が殺生石に大人しく封じられている訳は無い、と思ったがやはり、古の妖姫は健在だったか」
「そうなるわね。それで?」
 上目遣いに見上げたが、やはりレイのあどけなさとは本質的に異なる。
「先達には、それなりの敬意を払うとしよう」
 無表情なままシンジが告げた時、ユリの表情が僅かに変わった。
 それを十分に視界に入れて、妲妃はにっこりと笑った。
「付き合い成立ね。私からの引き出物よ」
「ほう?」
「そこの小娘には、到底真似の出来ない事」
 妲妃とユリの視線がぶつかった。
 時間にして十秒程経った時、妲妃は嘲るように嗤った。
「小娘、人の心を読む術はこの私はおろか、大将軍にも遠く及ばないようだな。その程度で大将軍の想い人を自称するなど笑止千万。この娘の身体のまま、私が口づけでもすると思ったのか」
 ユリの表情は変わらない。
 だが僅かに、そうほんの微々たるものだが上がった眉を見て、シンジはそれが図星だったのを知った。
 その事は口にはせず、
「引き出物の目録は?」
 シンジの問いに、
「何だとお思い?」
「お前は事と言った。ユリに真似出来ぬ事。まさか、俺の移し替えでもあるまい。ここに転がっている連中の記憶操作でもしてのけるか?」
「流石は私の想い人。やはり、小娘如きには相応しくない。」
 はっきりと宣戦布告した妲妃。
 だが。
 片やれっきとした人間の女性でありながら、どこか人に有らざる所を多分に持った妖艶な女医。
 一方は、悠久とも言える時を経た稀代の妖女だが、今は綾波レイの中に眠る別人格である。
 だがその綾波レイはユリの、特別な知り合いとなっている。
 そして双方の想いを一身に受けるのは、遙か古に大将軍と呼ばれた男。
 だが、碇シンジの肉体に宿るとは言え、魂すら別人であって、アサシンとしては一級に位置していても、一少年の域を出ないシンジとは全くの異質である。
 目の前で勃発した、自分を挟んでの恋の魔戦とも呼ぶべき事象に、何の興味も無いようにシンジが訊いた。
「綾波レイとお前の関係は?」
「貴方と同じよ。でも、今のところは完全封鎖。これも全く覚えていないわ」
「夢か?」
 薄く笑って、
「少年と、食事に行ってる夢でも見させておくわ」
 自分もややそうだとは言え、完全にもう一人の人格を子供扱いしている妲妃に、シンジは僅かに苦笑して、
「ゲンドウの愚か者が、偽りの生を与えかけた娘だ。シンジとは妹のままにしておいても良かろう」
「そんな所で優しいのね。いいわ、そうしてあげる。次は何時逢えるかしら?」
「さて」
「大事な人には優しくしなくちゃ駄目よ」
 拗ねたような口調で言うと、ユリをじろりと見た。
「札は大量に有るようだな。三枚渡せ」
 黙って懐から、白い札を出したユリ。
 呪柄の描かれたそれは、日本の宗教に幾分でも関心を持つ者なら人目で判る、土御門流呪術の呪府であった。
「古の術は全てに通ず。長門ユリ、ようく見て置くがいい」
「後学にさせて頂こう」
 相手の力量は素直に認めるユリ。
 妲妃は白い指を歯に当てると、すっと動かした。
 それだけで指の先に朱玉が浮いた。
 紅い文字−自らの血文字でなにやら書く事数秒、さして深く噛んだ様には見えなかったが、三枚全てに記すまで、少しも血は薄まる様子を見せなかった。
 三枚の内一枚を自らが取り、残りをユリの両手に持たせた。
「臨・兵・闘・者・開・陳・烈・前・行」
 修験道を少しでも知る者なら、これは違うと言うだろう。
 確かにその通りで、日本に於いては一般的に、
「臨・兵・闘・者・開・陳・烈・在・前」
 の九字だからだ。
 だが、妲妃の唱えた方が本来の形である。
 中国の仙道書『砲朴子』によれば、魔除けの基本的な呪文として記されており、日本に伝わった時に形を変えた物なのだ。
 しかし、だ。
 札を使って他人を操るというのは、本来凄まじい魔力を要求されるのであり、それも一対一でさえそうなのだ。
 物忌みと潔斎で最大限魔力を集中しても、数週間掛かってやっと一人を調伏する位が関の山、というのはよくある事である。
 それが二人や三人どころか、発令所にいる二十名近くを一気に操る、それも記憶の操作など来ては、ユリは無論シンジでさえも、必要な魔力の量は想像が付かなかった。
 まして、それを容易くやってのける人物の心当たり、等は皆無である。
 とある高原にある、かの殺生石に近づいた者が片っ端から発狂したり、全身に奇妙な痣が出来た挙げ句死亡したのは、その並はずれた魔力による物だった、という伝説は真実だったのか。
 しかもこの呪文は、常に両手を組み合わせた上での言唱が必要なのだ。
 印を組むどころか両手を組む事すらせず、淡々と唱えた妲妃。
 九字の呪言を唱えた瞬間、札は木っ端微塵に飛び散った。
 唱え終わる直前、妲妃は自分で持っていた札は離しており、コンマ一秒の差で遅れたユリの手から鮮血が一筋流れた。
「これで済んだ。それにしても、ユリ如きでは反応速度も遅いようね…そこで何をしているのかしら?」
 企みが図に当たった所為か、勝ち誇るような口調になって、床に転がっている連中をじろりと見たが、それもつかの間、冷たい口調に変わると詰問口調で訊ねた。
 それも当然で、ユリの指は鮮血と変わらぬ色をした、シンジの唇に呑み込まれていたのだ。
 但しシンジがユリの指を取って咥えたのか、ユリがその指をシンジの口許に運んだのかは、判らない。
 普段からシンジの唇は幾分紅いのだが、別人と化した時のそれは、妖気が漂う程の紅を帯びる。
 朱を刷いたかと見まごうシンジの唇に、ほっそりとしたユリの指が咥えられている様子は、咄嗟の治療としては至極妥当な行為の筈なのだが、この二人が当事者になると淫らを帯びた、途方もなく妖しい光景に姿を変える。
 普段のシンジなら、こうはいくまい。
「治療だ」
 短く、そして冷たく告げたシンジに、
「ふむ、所詮小娘は指を咥えられているのがお似合い。私なら、違う物を咥えて差し上げるわ」
 何を想像したのか、舌なめずりまでした妲妃。
 顔は無論レイのままだが、魂が違うとシンジの場合と同様、こうまで変わるのか。
「舌なめずりは止せ。咥えたければ、自分の親指でも口にするがいい」
 シンジが憮然として言った時、妖姫は声を上げて笑った。
「私にかかれば、この娘など数秒で達するわ。数十秒で絶頂から気絶、ちょうど一分後には、一生自慰から逃れられない性奴と化す。酒池肉林の造語主を甘く見ないで欲しいわね。お疑いなら実践してあげる。男でも女でも、感じやすい場所など知り尽くしている私に、内側から責め立てられたらどうなると思う?貴方なら、この意味を知っている筈よ、大将軍。第一」
 そう言って親指を軽くなぞってから、
「こんな物よりもっと太くて…」
 何やら言いかけて止めた。
 シンジの視線に気が付いたのだ。
「ここは殷の国でも、古の朝廷でもない。既に俺もお前も居場所を失いかけた國。お前だけを分離して、焙烙の刑にでも処してみるか?」
「大将軍のお気に障ったみたいね。だけど、自分の発明した刑に自分で処されるなんて、みっともないわ」
「幾星霜の年月を経ると、恥など辞書にないような妖女も、外聞を気にするようになるか」
 何となく感心したような口調で言ったのはシンジである。
「訂正して頂くわ」
「ほう」
「年数の所為ではなくて、貴方の前だからよ。うら若き乙女に向かって失礼な発言だわ」
 シンジは別に苦笑もせず、
「その通りだ」
 素直に告げた。
 機嫌も直ったらしい。
「まあいいわ、許してあげる。それに私も言い過ぎたかしらね?その件はこれで慰謝料に替えさせて貰うわ」
「つまらない物を出したら、二度と顔は見せないでもらうぞ」
 ちらりと妲妃がシンジを見た。
「早計な発言は後悔の元よ」
 つかつかと、ユリに腕を切られた男達の所へ歩み寄った。
「器具を使えば一応はくっつくが、痛みを伴う上に時間がかかる。何よりも、完全に元通りにはならん。これが古の知恵を無視して、機械文明とやらを発達させた報いだ。器具を一切使わずに、切断された肉体を完全に復元する術。長門ユリ、お前にこれが出来るか」
 シンジに向けていた、どこか艶のある媚びのような物は消え、幾星霜を生きた者のみが持つ、犯しがたい威厳を十二分に乗せて訊ねた。
「確かに仰せの通りだ。古来の医療法は原始的ではあったが、機械に左右される近代医術を、遙かに凌駕している箇所は多分にある」
「随分と素直だな。ふん、特別に我が秘術の見学を許す。真似できるならしてみるがいい」
 がらりと変わって、
「ちゃんと見ていてね」
 シンジに流し目を送った。
 腕を二つに分断された上、手首から先を落とされているにも関わらず、彼らの顔は安らかであった。
 古の術は、いい夢を見させる効果も併せているらしい。
 落ちた腕をゴミでも拾うように手に取ると、無造作に切断面をくっつけた。 
 しかも驚くべき事に指を口に含み、唾液を付けて朱線をなぞっただけで、きれいに痕は消えたのである。
 ユリも僅かながら羨望の眼差しを見せ、シンジもほう、と洩らした。
 それを聞いて満足したらしい。
「綾波レイには、無意識で伝授も出来るけれど、あの少年との関係もあるから止して置くわ。それにあの娘には過ぎたる物。そうでしょう?」
「かもしれんな。古の術を使えるのは、お前一人で良かろう」
「ねえ」
 と訊ねた。
「頼みでもあるのか」
「お前、以外では呼んでくれないのかしら?」
 一体綾波レイの、どこから抽出出来るのかと疑いたくなる程、艶っぽく体をくねらせて訊ねた妲妃。
「何と呼べと?」
「古の流儀に則って」
「考えておく」
「冷たいのね…いいわ、必ずそれで呼ばせてみせる。ついでに貴方の方からおねだりしてもらうわよ」
「何をだ?」
「古からの閨房術に則った舌技を、我が身に使って欲しいとね」
 うっすらと紅くなりながら、幾分早口で言った妲妃。
 どこか照れている様な感じさえ受ける。
 だが、シンジの冷たい視線にあっさりと還ったらしい。
 次の瞬間、妲妃はくずおれたのである。
 ユリが支えたのは、レイに戻った事を見抜いたからだ。
 しかし、未だ意識は戻らない。
「そのままにしておけ、暫くは」
 シンジの言葉にレイを床に寝かせると、シンジの後ろに回った。
 ふわりと、シンジが抱きしめられたのは、その直後の事である。
「ご機嫌斜めだな、ドクター」
「貴方は…どこから来てどこへ行くの?…シンジ?」
「お前の呼称は−シンジのままか。それも良かろう、一度では無いからな」
 妙な事を言った後、
「三度の生までは憶えている」
「随分と、人生経験豊富なのね」
 ユリの言葉に、ふっと笑ったシンジ。
「数だけならな。だが、俺の行くべき先は」
 そこまで言った時、不意に顔が上を向いた。
 ユリが向かせたのである。
 何も言わずに口封じ、唇を合わせてきた。
 数秒シンジの目は開いていたが、やがてその目も閉じられた。
 舌を絡める事も、お互いの身体をまさぐる事も無い、文字通りの口づけは、三十秒余りも続いただろうか。
 ゆっくりとそれが離れた時、いや最初から最後まで、淫らな空気は皆無であった。
 シンジの指が動いた。
 ユリの顔に伸ばされたそれが拭ったのは、一滴の涙であった。
「二度は見せない」
 冷たく言ってみせた声も、どこか無理があるように聞こえた。
「ドクター。記憶操作は間違いないか?」
「おそらく。異様な女でも腕は確かそうね。呪術に関しては取りあえず」
「敵の技量は素直に認めるか。さすがはユリ」
「褒められたのかしら?それに字が違うわ」
「ほう?」
「『敵』ではなく『恋敵』よ」
 聞こえない振りをして、
「呪術に関してはシンジの専門分野だ。信濃アオイはプライドが妨げたか、土御門を学ぶことはしなかったが、シンジに節操はない。土御門の小娘達から、殆ど全てを得ている筈だ」
「シンジを御大にしただけよ。アオイなりの想いね」
「いずれでも結構。しかしこの娘も随分と、物騒な物を背負ったものだな。文字通りの傾国の美女か」
「ご執心かしら?」
「それもいいな」
 妖しい気を立ち昇らせ出したユリを余所に、ふと考え込んだ。
 数秒後、どこか乾いた視線で見つめているユリと目が合った。
「移植できるか?」
「移植?」
 オウム返しに訊ねたユリに、
「確か地下には、綾波レイの生け簀があったな。あそこから一匹掬ってきて手術だ。お前なら出来るだろう」
  それを聞いた時、ユリの視線が僅かに冷たくなった。
「理由はどこに?」
「お前では判らない、か?」
「所詮私では、九尾の狐の足下など…」
  そう言うとシンジの手を取って、白皙の美貌に押し当てたのである。
「そう怒るな。俺も別体があれば移植して貰いたい所だ」
 それを聞いて安心したらしい。
「折りがあったらやってみるわ。初めての執刀例になるわね」
 ユリの口調が幾分変わった理由は、本人の勘違いだったらしい。
「魔女医の称号も加わるな。そんな事より、敵と愛人が同体では、お前もやりづらかろう」
「仔猫よ」
「どうでも良い事だ。さて碇シンジの奴、遂に犯罪者の仲間入りだな」
「構わないの?」
「前科があれば少しは箔が付くというものだ。それよりユリ」
 何故か改まった声で呼んだ。
「何?」
「他言は無用だ」
 何に関してかを聞く前に、ユリは妖しく一礼した。
「委細承知」
 シンジがユリの耳に口を寄せた。
 数十秒間耳を付けて何やら囁いていたが、それが離れた時ユリの顔には、はっきりとした驚愕と−哀しみが浮かんでいた。
「そんな…」
「現時点では推測に過ぎん。何れ判る事だ。さて、後は任せた」
 シンジも又戻った事を知ったユリ。
 周りを見ると、誰も起きている者はいない。
 だが、ユリは気づいた。
 気絶から、寝顔に変わっている事を。
 途方もない恐怖に怯えたような顔から、極楽浄土へ辿り着いた者のような、安らかな顔へと変貌しており、何故か涙を流している者さえいる。
「緒戦は私の完敗だな…」
 余人の前では天地が裂けても、口にしない−シンジの前ですら、口にするか判らない科白を呟いたユリ。
 黙ってシンジの顔を見つめ、視線を逸らした直後に、
「そうだね」
 びくりと肩が動いた。驚いたらしい。
「何時から?」
「ユリさんが何か呟いた時から」
「私の秘密を知られたか。シンジ、悪いけど」
「口封じならご免だよ。それよりみんな、直に起きそうだよ」
「…話題のすり替えは許さないわ」
 口封じのニュアンスに幾分焦りながら、ユリが少しだけ早口でそう言った次の瞬間、レイが眼を覚ましたのである。
「おはよう」
 シンジとユリを除いた全員が床に伏しているという、異様な状況の中、レイも数秒目をぱちくりさせていたが、何かを思いだしたらしい。
 突如としてシンジに抱きついた。
「どうしたの?」
「お兄ちゃんが独房に入るって」
「何の事?」
 しらを切ったシンジに、
「碇指令の腰巾着が」
「え?」
「みんな、そう言ってるの。知らないのは本人だけ」
「それで」
「さっきお兄ちゃんを独房に入れるって、言った時までは覚えているけど…」
 この分では、凄惨な状況は全て、記憶から抹消されているらしい。
 だがユリにはそれよりも、シンジの記憶がどうなっていたかの方が、余程気になった。
 シンジを問い詰めようとした時、残りの連中が一斉に起きたのである。
 泣いていた連中の一人、ミサトにシンジが訊いた。
「お目覚め?ミサトさん」
「ん…シンジ君…」
 ぼんやりしているミサトに、
「何の夢を見ていたの?」
「お父さんの夢。あの頃の…」
 言いかけて、はっとなった。
「何でもないわ…何でも…」
「お父さんねえ」
 何となく呟いてから、冬月に目を向けた。
 冬月も又、何の夢を見たのか涙を流していたのである。
「あ、副指令。故人の夢でも見られました?」
 どこか眠そうなシンジの声が、静まり返った発令所内に響き渡った。 
  
 
 
 
 

 (続く)


[TOP][BACK][NEXT]