第十四話
 
 
 
 
 
「碇、本当にいいのか」
「……」
「このままでは、我々の計画に破綻が生じる可能性すらある」
「冬月、お前はあの医者や、それにシンジの本当の姿を知らんからそんな事が言えるのだ。十四年前に、俺はあんな息子を作ったかと思うとぞっとした。信濃家に行けばシンジの近況は判るが、本性迄は判らんからな。それとも、お前が自分でシンジを洗脳して、ついでにドクターを消してみるか」
(神をも恐れないようなこの男が、何を脅えているのだ?)
「本当に、いいんだな?」
「お前の知り合いにシンジを預けた時から、既に我々の運命は決まっていたのかもしれんな」
 数秒沈黙が漂ったが、冬月の声がそれを破った。
 邪悪な笑みを伴った声で、
「…まだ手は残っているぞ、碇」
「何?」
「レイを使うのだ」
「何を馬鹿な…」
「三人目だ」
「……」
「二人目が健在である以上、幾分弱いかもしれんが、それでも“碇シンジの妹”になりさがった二人目よりは使えるはずだ。補完計画に、綾波レイが不可欠なのはお前も判っている筈だぞ、碇。早急に赤木博士を使ってだな…」
「無理だ。既にドクターに完全に手懐けられている」
「躯は正直だろう。碇、その辺はお前の分野の筈だ」
 やたらと広い総司令室に、ゆっくりと妖気が漂い始めたのは、それから数十秒が過ぎてからであった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ヒカリの頭脳がここまでフル回転を強いられたのは、生まれて始めてであったろう。
 お仕置きでは済まさない、妙に危険なこの言葉が何を意味するのかは、彼女にとって想像を超えていた。
 今朝レイと睨み合った時に、シンジから感じた気配で止めておけば良かった。
 痛烈な後悔に呵まれたが、既に賽は投げられている。
 シンジの意に添わない答えでも、まして無言を通していれば尚更の事、五体満足では済まない、それはヒカリには判っていた。
(碇シンジが好む答え。私がクラス委員だから、責務として…駄目ね、こんなの
じゃ。でも…・)
 そこまで考えた時に、ヒカリの表情が。
(私が碇シンジを叩こうとしたのは…そんな理由からじゃない。私は…私は鈴原の事が…でも、そんな事は言えない…)
 シンジが、
「何故僕を襲った?」
と、訊ねてからここまで十秒。
「タイムアウトまで、後、十五秒」
 シンジの声はネルフのアナウンスを模していたが、ヒカリには無論判らない。
 ヒカリの表情が苦しげに、そしてどこか悲しげに歪んだ時、ヒカリは一つの事を思い
出した。
 返り討ちにあったトウジの事は、商店街をうろついていたケンスケから聞き出したの
だが、その時ケンスケは顔を蒼くしてこう言ったのだ。
「あいつは死に神だよ。いいか委員長、あいつには絶対近づくな」
 話半分に訊いていたのだが、今ヒカリはそれが誇張でなかった事を痛感していた。
 だが、それが彼女の覚悟を決めさせた。
(どんな目に遭っても仕方がないわ、相田君の忠告を無視した私が悪いんだもの。で
も、後悔だけはしたくない)
 目に決意の色を浮かばせたヒカリが、シンジの顔を見た時、
「お兄ちゃん」
 レイが息を切らして上がってきた。
 シンジはヒカリの腕を掴んではいない。向き合っているだけだ。
 だが、それを見たレイの目が険しくなった。
 レイが何か言う前に、
「どうしたの?」
「あ、あの、今赤木博士から連絡があって、使徒が来たからって…」
「分かった。直に行くから、玄関で待っていて」
 ヒカリに冷たい視線を投げはしたが、それでも素直に出ていった。
 レイを見送ったシンジが、ヒカリに視線を戻した。
「答えは決まったようだね」
「…私は…私は…私は鈴原の事が好き。だから貴方を許せなかった。こ
れが私の答えよ。好きにすればいいでしょ」
 何かを振り切るように、一気に告げると目を閉じた。
「よく言った」
 言葉と同時に、雀斑の残る頬が指で軽く弾かれたのは、数秒後の事であった。
(え?)
 こわごわ目を開けた時、ヒカリの前には微笑しているシンジがいた。
「賭は貴方の勝ちだね、ヒカリ嬢」
「ど、どういう…事?」
「貴方が、委員長としての責務と口にしていたら、棺桶に入ってもらう所だ。もっとも、他のパーツは移植用に使えるね。それと」
「そ、それと?」
「その可愛い胸も胴体とおさらばしてもらって、一緒に送ってあげるから寂しくはないよ」
 淡々と告げるシンジに、ヒカリは身震いすると、胸をぎゅっと押さえた。
 手足よりも、そちらの方が大事らしい。
「君が鈴原トウジを、好きとまでは行かぬまでも気になる存在として、見ていた
のは判っていた。それを素直に出せるかどうか、それを見物したかった」
「あ…」
「好奇心、ていう物だ。さて貴女の告白に免じて、今日の所は見逃す事にしましょ
うか?洞木ヒカリさん」
 何をされてもいいと、覚悟を決めていたのが180度の転換になり、思わずヒカリの
目から涙が落ちた。
 ただそれが何の涙だったのか、ヒカリは自分でも分かっていなかったが。
 やれやれ、と呟いてヒカリにハンカチを渡したシンジ。
 返答次第では骸にすると、宣言していた相手にこれである。
 このあたり、どうもシンジの神経は解し難い部分が多分にある。
「あ、ありがとう…」
「まったく、女の子はすぐ泣くんだから」
 女だらけの生活を送って来たような口調で言うと、
「告白はまだしていないね?」
 ごく自然に訊ねられて、つい正直に頷いてしまったヒカリ。
「それはそれは。では一つ忠告してあげる」
「忠告?」
「僕を張り飛ばしても、彼は喜ばないだろうね。それより、鈴原トウジが僕を襲った
理由は知っているな?」
 迫力は無いが、じろりと見られて、
「あ、相田君に訊きました」
 敬語になったヒカリ。
「なら話は早いね。妹の病院に、見舞いに行かれたらどうかな。僕を襲撃するより余程ポイントは高い筈だよ。さて、レイちゃんが待ってるから、僕はこれで失礼する。ヒカリ嬢、人を襲撃する時は、相手を良く見ないと危ないよ」
 ヒカリの返事も訊かずに、踵を返して去っていった。
 最後の力が抜け切ったのか、一瞬崩れ落ちかけたヒカリだが、既に避難している筈の
クラスメートの事を思い出して、ハンカチを握ったまま走り出した。
「本当は優しい、のかしら?」
と、呟いてから。
 ハンカチが持ち主の手に帰るのは、もうしばらく後の事になる。
 
 
 
 
 
 シンジが玄関まで来たとき、レイは既に待ちかねていたらしい。
「待たせたね」
「葛城一尉から電話があったの。お兄ちゃんはまだかって」
 シンジの眉が上がった。
 レイの様子から、ミサトに言われても耐えていたのを感じ取ったのだ。
(あのお節介ホルスタイン、言いたい放題言ったな)
 先般レイと出かけた折り、黒服が付けてきたのはミサトの指示と知れていた。
 そのミサトが何を言ったのか、大体想像は付いただけに、内心は既に冷たく変わっていたが、レイの事を思って口にはしなかった。
 車に乗り込んだシンジは、爆音を鳴らして飛び出した。
 だが、前方に築かれたバリケードが行く手を塞いでいる。
 あーあ、と呟いたシンジは、サイドブレーキの後ろのボックスを開けた。
 一般的にここは小物入れになっていたりするのだが、これは普通の車ではない。
 中には計器がぎっしりと詰まっている。
 『SMG』と小さく文字が刻まれたボタンに、ためらわず手を伸ばした。
 ボタンを押した瞬間、リップスポイラーのフォグランプが横に動いて、代わりに黒い砲身が顔を出した。
 毎分六百五十発の速度で弾丸を送り出す、20mmバルカン砲だ。
 既にベルトには給弾されており、主のゴーサインを待つのみとなっている。
 トリップメーターと重なるようにして、スコープを模した機器が現れた。
 バリケードが照準の真ん中付近に来た時、殆ど合わせもせずに、発射ボタンを押す。
 凄まじい音が鳴り響いて、バリケードが吹っ飛んだ。
 破片の舞い上がる中を、ベンツが走り抜けていく。
 
 
 
 
 
「第六ブロック閉鎖、全館収容完了」
「政府及び関係各省へ通達完了」
「第五から第七管区までの迎撃システムスタンバイ。システム、起動します」
 着々と進む迎撃準備。
 だが、ミサトの苛々も頂点へと向かっていた。
 パイロットが来ないのだ。
 レイに電話しても、
「もう少しで来ると思います」
 の一点張り。
 さすがのミサトも三度目にはつい、大声を張り上げてしまった。
「レイっ、状況が判ってんの?使徒はそこまで来ているのよ、通常兵器じゃ使徒は殲
滅できないのはあんたも知っているでしょっ」
 だが、
「ご免なさい」
 か細い声で謝ったレイに、はっと気付いた。
(妹なのよね、今のレイは…)
「ご免ね、レイ。貴女に当たっても仕方なかったわ、シンジ君が来たら急いで来るよ
うに伝えて頂戴」
 電話を切った時、周囲の視線が自分に向けられているのに気が付いた。
 慌てて視線を逸らしたが、その意味にミサトが気付いたのは数秒後である。
 周囲は既に、レイがシンジの妹となっている事は知っており、シンジがレイをそれなりに可愛がっていることも知っている。
 そのレイを怒鳴ると言う事は、総司令に機関銃を乱射して、きれいに壁を撃ち抜いて
見せた少年の、逆鱗に触れる事を意味していよう。
 周囲の視線に、非難よりも憐憫が籠もっていたのはそのためだ。
 ミサトが思わず、まだ癒えていない肩の傷に触れた時、バーンと凄まじい音がしてド
アが吹っ飛んだ。
 濛々と上がる煙の中から、二つの人影が入って来た。
「シンジ君、遅かったじゃ…あ、ド…ドクター!?」
「今そこでシンジに会った」
 二人は全身から、一見して判る程の冷たい雰囲気を漂わせている。
 その原因が、喧嘩したから等という理由ではないのは、明白である。
「ドクター。製薬の件は如何でした?」
 ユリの視線がミサトを貫き、シンジも又冷たくミサトを見ているのに、気が付いたリ
ツコ。
 何とか逸らすべく声をかけたのだが。
「これだけ費やした挙げ句、手ぶらでおめおめとは帰れまい」
 リツコにまで冷たい科白が向けられた。
 使徒を余所に、発令所内は静まり返っている。
「葛城一尉」
 ミサト嬢、とすら呼ばない。
 既にミサトは凍り付いている。
 ミサトは知らなかったのだ、レイがをユリさんとの呼称を口に出来る、ネルフ内で唯
一の少女だと言うことを。
 そして、ユリが自らを名前で呼ばせる事が、何を意味するのかということを。
 何よりも、既にシンジがレイの秘密を全て知った上で、自分の妹として認定したとい
うことを。
「は…はい…」
 ミサトの目が正面を向いているのは、一見すると立派だが、実は眼球の働きすら硬直
しているせいだ。
「貴女が誰を怒鳴ろうと、そして誰の顔に悲しみを浮かばせようと、私の知った事で
はない、まして私の親友にとっては尚更だ。だがあなたは一つ、そしてもっとも大きな
過ちを犯した。シンジに見せるべきではなかったな、悲しみを浮かばせた綾波レイの顔
を。そしてそれを知ったシンジの顔を、この私に見せるべきでは無かった。見せてはな
らぬ物を、あなたは見せた」
 もはや誰も動こうとする者はいない。
 いや、シンジだけは別なのだが、シンジの眼差しはミサトを捕らえて動かなかった。
 ゆっくりと、ユリの手が白衣の中に伸びた次の瞬間。
 ユリが超能力を使ってミサトの首に何か巻き付けた、誰もがそう思った。
 シンジ以外は。
 動けぬミサトの首に巻き付いているのは、不可視の細糸であった。
「我が病院の地下には、世界中から集めた毒草畑がある。綿糸は本来脆い物だが、マ
ンドラゴラを初めとした。666種類の毒草に2014の工程を加えて得た、特殊な毒
液に一定期間漬けておくと、特殊鋼並の強度を持った透明な糸と化す。生憎と、シンジのシルバーナイフほど綺麗には行かないが、その醜い首を切り落とす位ならば出来る。私もいい子に成り下がってから久しい。我が腕の鈍り具合、試して見るとしよう」
 既に周囲は蒼白となっている。
 武器の説明をしている間も、ユリの指は微かな動きを見せて、死糸を食い込ませてい
たのだ。ゆっくりと紅い線がミサトの首に浮き上がり、鮮血が滲み出した。
 一時の感情に任せた発言に対してはあまりの報い−ユリのしなやかな指が、あくまで
美しく死を送り込もうとした時。
「やめとけ」
 ユリの視線はミサトに向けられたままだ。
「私の留守中、ミサト嬢の胸の虜にでもおなり?」
 科白とは裏腹に口調から危険な物は消えており、どこか笑みさえ含んでいる。
「胸?」
 何故か笑みを含んだ言葉だが、ユリの眉が上がった。
 右手は糸を繰り出したままだが、左手でシンジの顔をそっとなぞったのである。
「余計な事を言いたがるのは、この口かしら?」
 会話を聞いていれば、おそらくユリの胸を指しているだろう、というのは判る。
 がしかし。
 小さいだの不足だの、到底そんな単語が当てはまらないのは、一目瞭然のユリの肢体である。
 では、シンジは誰と比較したのか。
「あの人が助けたみたいだし」
 自分の顔をなぞるユリの指など、気にもしていないようにシンジが言った。
 ユリの指が止まる。
「想い人の意志は最優先されるべきね」
 そう言った時、既に糸は引き戻されている。
 誰もが安堵した時、
「も、目標は真鶴上空に進入しました!」
 叫びにも近い青葉の声が、現在の状況を認識させた。
 既にSAM−地対空ミサイルは、照準を使徒に合わせている。
「初号機は直ぐに出る。迎撃開始」
 どうしてドクターが指示を?そんな事など微塵も考えさせぬユリの声であった。
 青葉と日向が瞬時に反応した、当然であるかのように。
 一斉に発射された対空ミサイルが、使徒に集中する。
 通常兵器とはいえ、ICBMを小型化した代物と言っても過言ではない。
 耳をつんざくばかりの爆音と、視界をゼロにするほどの煙幕が上がる。
「一時的な目くらましにはなりそうだ。さて」
「んー、行って来る」
 そう言ったシンジは、ミサトの前に立った。
 今日二回目の呟き、やれやれの後、人差し指で傷口をなぞった。
 硬直がまだ解けていないミサトを、
「葛城ミサト」
 冷たくは無いが、呼び捨てで呼んだ。
 半分失神しているようなミサトの目が、シンジを見た。
「二度目は許さないよ、いいね?」
 操り人形(マリオネット)のように、かくんと頷いたミサトから、背を向けて出てい
こうとしたが、
「シ、シンジ君。その背中…」
 リツコの視線はシンジの背中に向けられている。
 そこには、シンジに背負われてきたレイの姿があった。
 思い出したように、
「あ、忘れてた。なんか重いと思ったら。さっき来る途中で寝ちゃったんだ」
 沸騰したLCLには耐えられても、電信柱が目の前数センチまで寄ってくる光景の連
続には、さすがに耐えられなかったらしい。
 絶叫こそしなかったが、コーナーを一つ曲がるたびに血の気が引いていき、失神して
しまったのは四つ目であった。
 レイを背中に乗せたシンジは、ドアを開けるのも面倒と手榴弾で吹っ飛ばしたのだ。
 無論斜めになっている機嫌の所為もある。
「抱いててくれる?」
 そう言ってレイをユリに渡した。
 レイの膝の裏と、首に手をかけて軽々と抱き上げた。
「リツコさん、この間の武器は…」
 言いかけてから、ユリに近づいた。
 レイの寝顔を見つめている、ユリに気が付いたのだ。
「つまみ食いしないでね」
 その声は、ユリとリツコにだけ届いた。
 それを聞いた瞬間、リツコは足下が崩れるような気がした。
(お祖母ちゃんの所に帰りたい…)
 リツコは本心で願ったという。
 シンジの言葉の意味が、直感的に判ったのだ。
「考えておく」
 あてにならない返事だが、シンジは気にせず、
「この間の物を武器にしたの?」
 とリツコに訊いた。
 その言葉で我に返ったリツコが、
「シンジ君の好みに合うかわからないけれど、一応準備出来てるわ。A・Tフィール
ドの展開と同時に銃の連射で仕留めて。シンジ君の射撃の腕なら問題ないわ」
「あるよ」
「え?」
「フィールドのイメージは、まだまだ未熟。レイちゃんはしばらく起きないようにしてあるから、僕がやられた時にはドカンと」
「ど、どうするの?」
「N2爆雷、だったよね確か。あれで初号機ごと吹っ飛ばして」
 そんな事をしたらユリに、どんな目に遭わされるか想像も付かない。
「シンジ君、お願いだから頑張って」
 リツコの声には真剣さと、そして恐怖が溢れていた。
「ま、何とかやってみる」
 そう言うと、ユリに手のひらを向けた。
 ちらりとその手に視線を向けたが、何も言わずに取りだしたハンカチを渡した。
 白いレースのハンカチは、小さいながらもダイヤが鏤めてある。
 単価など想像も付かないが、シンジは気にする様子もなく、無造作にミサトに手渡し
た。
 呆然としているミサトが、これも呆然としたままシンジの手から受け取ると、踵を返
して出ていった。
 
 
 
 
 ミサトの首の回りに朱線が浮かび上がっていた頃、レイがシンジをつれていった高台
の近くに、二つの人影があった。
 光学観測所ならいざ知らず、こんな所にこんな時間になってもまだ、人がいるのはあ
り得ない。
 第一、その二つの人影は明らかに少年であった。
 相田ケンスケと、鈴原トウジである。
 しかし何故、二人がこんな所にいるのか。
 話は少々溯る。
 
 
 
 
 
 父親のコンピューターのデータバンクにアクセスし、シンジ操る初号機と使徒との戦
闘映像を見る事に成功した相田ケンスケだが、さすがに持ち出しは出来なかった。
 ネルフで映像管理の職にあるケンスケの父親が怠慢だった、訳ではない。
 パスワードは16の項目を組み合わせた物であったし、興味心旺盛な息子がそれを解
けたのは、それこそ限りなくゼロに近い可能性であった。
 父親に関する全データを集めて、考えつく限りの項目を重ねた結果、奇跡のような結
果が生じたのである。
 だが、映像のコピーのパスワードは、ケンスケの父である相田事務次官の手には依らない代物だったため、ケンスケには完全にお手上げであった。
 中途半端に満たされた好奇心は、きわめて厄介である。
 悶々としたまま学校へ行く気にもなれず、町を歩いていた時、ヒカリに捕まったのは
昨日の事であった。
 奢りプラス本音白状の条件、すなわちヒカリの想いを聞き出した上に−無論守秘義務
は付いたが−山盛りのパフェとストロベリーサンデーを頼んで、トウジの顛末を事細か
に話したのだ。
「今も言ったけど委員長、絶対にあいつをとっちめるような真似はするなよ」
 親身の忠告も耳に入らないかのように、ヒカリが飛び出して行った時、テーブルの上
に伝票が置きっぱなしなのに気が付いた。
 フラストレーションのボルテージが一層上がった気分では、到底学校に行く気になれ
ず、ブラブラしていたところでサイレンが鳴ったのだ。
「あーあ、避難命令か。所詮見るのは無理なんだよな」
 この時点では、ケンスケはあっさり避難する気でいた。
 ところが踵を返した時、
「あれっ、トウジじゃないか」
 幾分背を丸めるようにして歩く、友人の姿を発見した。
「お、おう、ケンスケか。こんな所で何しとんねん」
 と言う言葉にも、普段の覇気はない。
 やはり初めての、そして見事なまでの敗戦が相当堪えているらしい。
 その姿を見ていたケンスケの口元に、にやりとした笑いが浮かんだ。
 邪悪な思想が頭をもたげてきたらしい。
「何って、今から避難する所だよ。トウジも急ごうぜ」
「せやな」
 無言で歩き出した二人だが、ふとケンスケが、何でも無いかのようにトウジに話しか
けた。
「なあトウジ」
「なんや」
「こないだの事はさ、運が悪かったんだよ。そう思って諦めな。一回ぐらい負けたっ
て、気にすることは無いよ」
「どアホ、誰が気にしとるっちゅうんじゃ。アホな事ぬかすな」
「そうか?」
「な、何や?」
「じゃあ、別にばれてもいいわけだ」
「なんやと」
「何怒ってるんだよ。クラスのみんなも不審がってるぜ、部活も入っていないトウジ
が公休になるのはおかしいってね。気にしてないんだったら、真相を話したっていいじ
ゃないか」
「おんどれ…」
「おやー、もしかして言われたくないのかな?おっと、腕ずくは紳士らしくないぜ」
「な、何が紳士や…」
「別に、言わなくってもいいんだよ、俺としては」
「何?」
「バーターと行こうぜ」
「バターやと?」
 ため息をついてから、
「取引の事だよ。取引」
「取引?何が言いたいんや、おのれは」
「簡単な事だよ。今からちょっと俺に付き合ってくれればいいんだ」
 一瞬引いたトウジを見て、
「お前、何か勘違いしてないか?その付き合うじゃないよ、まったく。行くんだよ、見に」
「何をや?」
「エヴァだよ、エヴァ」
「何やと」
「しっ、でかい声出すなよ」
 制してから、周囲は無人なのに気が付いた。
「いいか、トウジ。もしエヴァのパイロットがトウジの言うとおり、本当のヘボだっ
たら、俺達が生き残れる保証はない。だからその前に見ておきたいんだよ、この目で。
大体トウジだって、ヘボだとは言ったけど、結果的には凄まじい勝ち方してるんだぜ。
妹さんの事は不幸だったけど、本当のヘボかどうか確かめてもいいんじゃないか?」
 強引な理屈なのだが、妹の負傷に関する真相を知るトウジとしては、強く反対も出来
ない。
 何よりも、自分が数度の打撃で半殺しに近い目に遭い、救急車で運ばれた挙げ句二週
間近くも入院していた、等という事実は絶対に知られたくない。
 考え込んだトウジを渋っていると見たか、
「な、いいだろ。幸い辺りはとっくに避難している。俺達がとっ捕まってシェルター
行きになる可能性はないさ。それに俺達は今日は休校になっている。誰も気にはしないよ」
「…ええやろ。その代わり…」
「分かってるって、友人を信用しろよ」
 友人が脅迫するんかい、とは言わなかった。
 
 
 
 
 
「好みの武器って何の事?」
 と訊いたシンジの問いに、リツコは曖昧に笑っただけであった。
 首を傾げながらプラグに乗り込むシンジを、ユリがちらりと見た。
 シンジはこの時点ではまだ、プラグスーツを着用していない。
「みっともないから嫌」
 の一言で拒絶したのである。
「リツコ嬢、シンジへの意表を突いた贈り物?」
「はい。シンジ君結構ガンマニアみたいでしたから、外見だけでもと思いまして」
「というと、ライフルか何かを?」
「突撃銃です、ドクター」
「突撃、とは言っても普通の小銃と別に代わりはないが。それで何を?」
「スイスSIG社製の物で、少し変わった物がありましたので」
 自動拳銃にするのはやはり、砲身の影響で無理がある。
 かといって、バズーカ砲を真似た物ではつまらない。
 何にしようとかあれこれ見ていたリツコが、ふとある物に目を付けたのだ。
「たしかSIG社製と言えば」
 一瞬宙を見てから、
「SG551突撃銃があったと記憶しているが」
「弾倉が透過プラスチック製の物ですが、ドクターもご存じでしたか?」
 銃を撃つとき、一発一発を薬室にこめる単発式は別だが、連続した射撃が要求される銃においては、銃弾の管理は当然重要事項となる。
 弾倉の透明化は、まだ自衛隊でも戦自でも使われていないが、海外では珍しくもなくなってきた。
 ちょうどリツコが見たそれは、しばらく前に流行となったスケルトンタイプになっており、それをそのまま使ったのだが、ユリが知っているとは思わなかったらしい。
「ミサト嬢などとは比較にならない能力を持つ、私の親友に上京要請をしてきた。シンジの指揮官として」
「は?」
「信濃家の一粒種、信濃アオイ。裏の世界では幾分知られた名前だが、調査は行き届いていないかな」
「ドクター」
「何か」
「あの、シンジ君の事を訊いてから、私も少し調べてみました」
「それで?」
「信濃アオイ。ドクターの幼なじみにして信濃家の次期当主。裏の世界ではシンジ君
とのコンビでトップに位置すると言われている。裏家業とは想像も付かない雰囲気と肢体の持ち主だと」
「結構だ、だが」
「え?」
 ユリの眼が、リツコを強張らせた。
「アオイを呼び捨てにするのは、二度としないで頂く。そしてアオイは私も羨望を禁
じ得ない肢体を持ってはいるが、葛城一尉如きとは違い、一度も誇った事など無い」
(しまった…)
「は、はい…」
「言って置くが、アオイ絡みでシンジの逆鱗に触れたとしたら、私に仲介の術は皆無
だ。アサシンとして名を馳せたのは、今のシンジの方だと言う事を、肝に銘じて置かれるべきだな」
「分かりました…」
「よろしい。さて、話はそれたが、私の銃器に関する聞きかじりの知識は、アオイか
ら得た物だ。医者に銃器の知識など不要なのに、余計な事をしてくれる」
 そう言う割に、どこか嬉しそうな口調があるのに、リツコは気づいた。
(きっと、本当の親友なのね。でも…その人が来たらミサトはお払い箱?…)
 自分の親友の事を考え、リツコが僅かに複雑な表情になった時、
「エヴァ初号機、発進準備完了しました!」
 高い声で告げられて、我に返るとミサトを見たが、まだ放心状態にある。
 仕方なしに、
「初号機発進!」
 とリツコが声を上げた。
 打ち出されていく初号機を見ながら、リツコがユリを見ると、レイの頭を上腕部に移
動させ、空いている手でレイの顔をなぞっている。
 眠っているレイの顔が、気持ちよさそうな表情を浮かべているのを見た時、何故か嫉
妬に近い感情が浮かぶのを感じた。
 だがそれが、誰に対する物なのか、そして何故そんな感情を抱いたのか、リツコは自
分でも判らなかった。
「リツコ嬢、何か?」
 ユリはその視線を、瞬時に察知している。
「あ、あの…その、信濃アオイさんの事で」
「アオイが何か」
「じ、上京してこられると訊きましたけれど、どうしてです?」
「勇将の下に弱卒なし」
「は?」
「葛城一尉の指揮の下、シンジが安心して全力を出せるとお考えかな?」
「そ、それは…」
「シンジの愛称は『黒衣の死神』だ。そしてアオイは『紅の女神』」
 ユリがそこまで言った時、初号機が地上に射出された所であった。
「司令にも話は通っている。アオイの階級は、『大佐』だ」
 それだけリツコに言うと、呆然としたリツコを余所にミサトに視線を向けた。
 ミサトは、やっと硬直から解けたものの、シンジのハンカチを首に当てたまま呆然と
している。
 やはりショックは大きかったらしい。
「ミサト嬢」
 幾分冷たいが、やや平常に戻った声に心から安堵すると、
「は、はいっ」
「二枚目になるな」
「は?」
「私の親友から贈呈されたハンカチの数だ」
 部屋にいなかったはずだが、ユリは熟知していたらしい。
「あ、それは…」
「前回渡された物は、当然一点の染みなく洗い上げた上で、シンジに返却は済んでい
る筈だ。まさか、着服してはいるまいな」
 俯いたミサトの顔に、ユリの指がかかった。
「一度ならず二度までも、シンジに安否を気遣わせた女。その上にシンジの物を着服
しているとは。私は許す訳にはいかない、断じて。さて、どうしたものか?」
 ユリの眼が妖しく輝きだし、秒とかからずにミサトの目は呪縛された。
 妖しい魔力を放つ眼に、魅入られた女。
 だが、その相手は。
 ゆっくりと、ユリの指が動いていく。
 これから起きる事柄に、誰もが不安と恍惚を込めて眺めた時、
「こら、遊ぶな」
 シンジの呑気な声が降ってきた。
(これからいい所なのに…)
 不謹慎な感情を抱いたのは、誰だったのか。
「指揮を執って頂く、今しばらくは」
 そう告げたユリの眼から、妖しい光は瞬時に消滅している。
 ユリの言葉で我に返ったミサトが、ユリの最後の言葉を気にする余裕も無く、
「シンジ君、今兵装ビルからパレットガンを出すから受け取って」
 そう言った時、リツコはほっとした。
 『ドクター、有り難うございます』
 よく喧嘩もするが、やはりミサトはリツコにとって親友であった。
 亡き母の高名で、いや自分の性格もあったのだが、周りは殆どが敬遠する中、彼女だ
けは馴れ馴れしいほど、気安く近づいてきた。
 最初は戸惑ったが、やがて親友になるのに、さほど時間はかからなかった。
(ミサトもそう思っているのかしら?)
 弱気とも言える事をリツコが考えた時、
「これはたしか…なんだっけ?」
 シンジの声に我に返った。
「SG551突撃銃よ。リツコ嬢の贈り物だ、有り難く頂戴するといいわ」
 ユリの言葉に、
「シンジ君、お気に召さなかったかしら?」
 ふと気になって訊いてみた。
「でもこれ、弾倉部分は無駄じゃない?もっとダイエットしないと」
 何故かその言葉に、リツコが自分の身体を見た。
 我が儘な事を言いだした報いか、使徒の触手が飛んできたのだ。
 とりあえず、軽く跳んで避けようとしたが、ケーブルに気が付いた。
 後ろへステップバックして、紙一重で避けた。
 既に使徒の触手は彼方此方のビルを、その細長い触手で斬って回っている。
 触手は、高周波でも帯びているらしい。
 肩にライフルを乗せた時、スコープまで付いているのに気が付いた。
「凝ってるけど、なんか無駄な気がするぞ」
 声にはしなかった。
 地面に伏せた体勢で、スコープを覗き込む。
 照準が使徒を捉えた。
 引き金を引くと同時に、高エネルギーが使徒を直撃する。
 元々、銃撃で仕留められるとは思っていない。
 ライフルを放り出して、立ち上がろうとした瞬間。
「げ、重い」
 レバー越しの操作は、自分の体のようには行かない、と言う事は判っていたのだが、
瞬時に立ち上がるような仮想訓練はしていない。
 生身のシンジなら、腹筋を使って瞬時に跳ね起きたであろう。
 だが、数トンを越すような巨体は、数秒だがその動きを遅らせた。
 そしてそれは、銃撃を受けて狙撃手の位置を知った使徒が、その触手を伸ばすには十分な時間であった。
 咄嗟にライフルを盾にする。
 真っ二つに裂かれた。
「シンジ君、ATフィールドを!」
 ミサトの声に、
(もう復活してる。立ち直りは早いんだね)
 妙な感心をしていたが、余裕から来る物ではない。
 その証拠に、
 “もっと、強くイメージして…”
 確かそんな歌があったなと、呑気にイメージしたものだから当然の結果として。
 数秒後初号機の両手に浮かび上がったのは、ガスを使い果たしたライターが最後に起
こした炎、そんな表現が当てはまるような、盾とも言えない代物であった。
「『あっ』」
 初号機の手に、情けない代物ができあがったのを見た発令所の面々が、思わず叫んだ
次の瞬間、初号機の足は使徒に捕らえられていた。
 立ち上がった姿勢で片足を捕まれたのだが、立ち技なら大分扱いも慣れてきている。
 左足を掴んでいる触手を、右足で思い切り踏んだのだ。
 その時、シンジは気づいていなかったが、足の先端を覆うようにオレンジ色の光が発
していたのである。
 ただし、ごく薄い光であったため、気づいた者はいなかったが。
 触手が足に巻き付いたまま、途中から千切れた。
「シンジ君っ、代わりを出すから受け取って」
 ミサトの声が終わらないうちに、近くにあった兵装ビルの表面がずれて、新しい銃が
姿を見せた。
 それを見た瞬間、
「ちょっとリツコ、あれ何よ!?」
「何って、トンプソンよ」
「何でそんなモン使ってんのよ。せめてM3A1にしなさいよ」
「グリースガンもトミーガンもさして変わらんよ。共に45口径拳銃弾だが、グリースガンの方が、幾分近代的かね?」
「『え?』」
 グリース・ガンとはM3A1サブマシンガンの愛称であり、トミーガンとは、トンプソン・サブマシンガンの愛称である。
 両方とも、第二次世界大戦中に米国で生まれた短機関銃だ。
「ほらやっぱりM3A1の方が…あっ」
 狙撃されるのを嫌がったのか、使徒は兵装ビルに触手を伸ばすと切り裂いたのだ。
「リツコ、あんたが変な物用意するからよ」
「意思伝達に問題があるのよ。人のせいにしないで欲しいわね」
「何ですってえ」
「事実を言った迄よ」
 睨み合った2人に、
「お二人とも私の病院にある、凶暴な患者専用室で続きは願おう。あそこは四方を分
厚いコンクリートで固められた部屋だ。怒鳴り合おうが掴み合いをしようが、全く周囲
に影響はない」
 見交わした視線で、即座に休戦条約を結んだ。
 二人の視線がスクリーンに戻った時、シンジは後ろに大きく跳んだ所であった。
 ところが、足に巻き付いたままの触手が邪魔をしたらしい。
 後ろに下がって間合いを取るはずが、何故か山の方へ跳躍してしまった。
 
 
 
 
 
「おーおー、来た来た。待ってました」
 二人が高台に着いて、数分もしないうちに初号機がその姿を見せた。
「あれが初号機、こんな近くで見られるなんて、男子たる者落涙すべき状況だね」
 そう言って歓喜を隠そうともしないケンスケ。
 どこに持っていたのか、ビデオカメラを取り出して、撮影に取りかかる。
 まるで、常にカメラを持ち歩き、気になる被写体を見つけるや否や、シャッターを切
るカメラマンのように。
 一方トウジはケンスケとは違い、画面越しにも見たことは無い。
 いきなり実物を見て、無言のまま見つめている。
 ケンスケがそれに気づいた。
「トウジ、どうかしたのか?」
「ワシらはあれに守られとるんやな…」
 はっとなって、
「何でもあらへん、何でも…」
 誤魔化したが、ケンスケにはしっかりと届いている。
(エヴァのせいで妹が大怪我した割に、妙な科白だな)
 内心で微かに首を捻った時、
「何だ?あの変な弾倉は…確かどっかで…」
 これも知らなかったらしいが、首をひねっている最中に、それが盾となって避けてしまった。
「次は?次は何にするんだ?」
 目に怪しい光をたたえながら、身を乗り出しているケンスケ。
 一瞬ちらっと見えたそれに、
「ありゃ…確かトンプソン・サブマシンガンじゃないか。ネルフも結構いい奴が揃っているねえ」
 趣味が同じだといい奴になるらしい。
「ケンスケ、あいつ寝転がって何しとるんじゃ?」
「寝てるんじゃ無いよ、狙撃してたのさ。よし、そこだ構えて撃て、ファイアー!」
 すっかり指揮官になりきっている。
 叫んだ瞬間、高エネルギーが使徒に直撃する。
 無論シンジに聞こえた訳ではないが、すっかり調子に乗ったようだ。
「おい、ケンスケ」
「何だよもう」
「何やその言い方は。あのバケモン、鉄砲だけで倒せるんか?」
「無理に決まってるだろ」
「何やと」
「あれは、単なる足止め。ATフィールドを飛ばして、使徒の首を切るんだよ。きっ
とそうだ」
 特撮マニアでもあるらしい。
 だが、
「全然効いとらんやないかい」
「…そうらしいな…って、ヤバイ!」
 ちょうど使徒の触手が、初号機を直撃しようとするところであった。
「よし、よく避けた碇上等兵。引き続き殲滅に移れ」
 すっかり乗っている友人に、さすがのトウジも閉口した。
 このままだと、
「鈴原通信兵、全戦闘の記録係を命じる」
 などと言い出しかねないと気づいたのだ。
(結構、やるモンやな…)
 トウジの偽らぬ感想であった。
 呼び出した時の、返り討ちと呼ぶにはあまりにも凄惨な報いで、シンジの腕は身に染
みている。
 だからといってエヴァの操縦に関しては、妹の怪我は妹に責めがあるとしても、シン
ジの操縦は下手なのではないか、そんな疑問も持っていたのだ。
 だが、起きあがるのが一瞬遅れて触手が襲いかかった瞬間、銃を盾にして見事に防いだのを見て、小声で感心したような声を漏らした。
 抱く思いは全然別ながら、初号機に見入っていた二人。
 だが、トンプソンの入ったビルが切り裂かれた瞬間、大きく跳躍したのを見て図らずも同時に、おおーと洩らしたが、次の瞬間それは絶叫に変わったのである。
 さっき触手を蹴り斬った時の破片で、僅かに滑ったのを見たのだ。
 そして、それが自分たちの方へ飛んでくるのも。
 『「うっぎゃああああああ!!」』
 
 
 
 
 
 方向を間違えたと入っても、這い蹲るような無様な着地はしない。
 ちゃんと、最大限着地のショックを減らしてしなやかに降りたが、その位置でちょう
ど電源ケーブルが伸びきった。
「これのせいだな、全く」
 ぼやいてから、屈んで巻き付いたそれを引き剥がそうとしたその時。
「…・ナヌ!?」
 滅多に聞けない、シンジの驚いたような声にユリさえも、初号機の視線の先を凝視し
た。
「何で一般人がいる?」
 その声は、既に常態に復している。
 一瞬で驚きは去ったらしい。
 発令所のざわめきに、眠り姫が眠りから覚めた。
「あ…ユリさん…お帰りなさい」
 言ってから、抱かれている体勢に気が付いて顔が紅くなった。
「よく眠っていたわ。シンジの腕の中でなくて申し訳無いけれど」
 そう言って下ろそうとした時、
「あっ」
 レイの声−はっきりと敵意を含んだ声−に、ユリの視線がレイに向いた。
 下ろしかけたまま、
「初号機の顔に、何か付いているかしら?」
「ユリさん、あの二人…」
 既に、スクリーンには二人のデータが投影されている。
 レイの脳裏に一瞬で、あの時の風景が蘇った。
「あの二人が?」
「お兄ちゃんの敵です」
 躊躇わずに言い切った。
「ほう」
 レイは降りてからにすれば良かったと、後悔したかも知れない。
 冷たい鬼気が、ユリから立ち上ったのだ。
 ユリの視線はリツコに向けられた。
「レイちゃんから、穏やかならざる情報がもたらされたが?」
「最初の使徒戦の時、妹が巻き込まれて怪我をして、病院へ運ばれたのです」
「どちらの?」
「あの、ジャージ姿の少年−鈴原トウジの方です」
「それで」
 促した声の、何という冷たい事か。表現しようのない凄まじい鬼気が、妖艶なその全
身から吹き上げていた。
「あ、あの…シンジ君を呼びだして…」
 もはや顔は上げていられなかった。
「それで、何故シンジを襲った者が五体満足でいる?いいや、それ以前に何故、生き
てあんな所で、無様な姿を晒している?」
「あ、あの…レイが…」
 責任回避と取られなかったかと、顔を上げられぬままユリを窺ったが、
「私がお兄ちゃんを捜しに行ったから。それでお兄ちゃん殲滅はしなかったんです」
 物騒な事を言いだしたレイに、
(今度お礼はするわ)
 内心で、本心から感謝の言葉を呟いたリツコ。
 無論リツコを弁護する気は無かったかも知れないが、結果的に救われた。
 だが、それを聞いたユリは小声で、
「死に神が、小娘に気を取られて鎌を失ったか」
 と、小声で呟いた。
 初号機に気を取られていた、レイに聞こえなかったのは幸いであったろう。
「ミサト嬢」
「は、はいっ」
「あの二人については、どうされる?」
「あ、あの…その…」
「私に気兼ねなら無用だ。下界に堕ちた死に神がどうなろうと、私の知ったことではない」
 そう言うと、発令所から出ていってしまった。
 余程シンジが甘くなったと見えたらしい。
 その声が聞こえたか、
「この二人、どうするの?」
 シンジの声が降ってきた。
 既に、使徒はその触手を初号機に定めている。
 シンジはさして動揺した様子はないのだが、内心では少々違った。
 これが他のクラスメートなら、あるいは洞木ヒカリとの一件の前であれば、躊躇わず
にシンジは踏みつぶして、戦闘態勢を取っている。
 だが、気まぐれな賭とは言えども、シンジにそれを反古にする気はなかった。
 確かにここでトウジが死んでも、シンジには何の責任も無い。
 だが、ヒカリが病室に妹の見舞いに行った時、既に目当ての人はこの世に亡い上に、
見舞いの花束と同時に弔報を、携えなければならなくなる。
(洞木ヒカリを先に冥府に送っておけば良かったかな。そしたら、あれもすぐに逝かせたものを)
 シンジが幾分自嘲混じりに呟いた時、ユリが出ていくのが見えた。
 ユリの呟きは読唇術で読めている。
「甘くなった、か。チョコパフェに、砂糖をコップ1杯かけるとこうなる」
(チョコパフェに砂糖をコップ1杯…うっ)
 シンジの唐突な声に一瞬それを想像し、胸焼けを起こして口元を押さえたのは、一人
や二人ではなかった。
 ミサトとリツコも、ご多分に洩れず口を押さえたが、反応したのはリツコの方が早か
った。
「シンジ君っ、その二人をプラグ内に入れて。構わないわ」
「リツコ、あんた何言ってるか判ってんの!?」
「単に遠慮しているような性格じゃないわ。それぐらい判らないの」
「何で判るのよ。勝手な命令は出さないでよっ、知りもしないくせに」
「はんっ、前回は全く役に立たなかった指揮官がよく言うわね」
 確かにその通りなのだが、リツコもさして変わらない。
 操縦法も教えずに、しかも武器も無しでシンジを送り出した事を、アオイが知ったら
二人はどうなっていた事か。
 五十歩百歩だの筈が、如何にも自分だけ無能扱いされた気がして、ミサトはかっとな
った。
 右手が空を切った次の瞬間、リツコの頬が甲高い音を立てた。
 一方リツコの方も、さっきまで茫然自失の態にあったミサトに、突如言い立てられて
彼女に似合わず、興奮状態にあった。
 すぐさま打ち返し、お互いの右頬には手形が一つくっきりと付いた。
 ユリが出ていった瞬間、“休戦条約”は撤廃されたらしい。
 子供の喧嘩のように、掴み合いかねない雰囲気になった二人を見て、
(取りあえず、プラグに放り込んでおくか。エラーが起きたら眠って貰えば良いことだし)
 シンジが、やや呆れながら呟いた時、
「お兄ちゃん」
 レイの声がはっきりと響いた。
「何?レイちゃん」
「今は使徒退治が優先でしょう?」
 その声に含まれた響きには、およそ感情と言う物が欠如しているように見えた。
 いや、溢れる殺気を押し殺している、と言った方が正しいかも知れない。
 酷薄とも言える声は更に続いた。
「異物挿入のもたらす影響を考慮すれば」
 顔をくっつけんばかりにして、にらみ合っていたミサト達も凍り付き、発令所の音声
も途絶えた。
「どうしろと?」
「踏みつぶして、応戦続行を」
 ファーストチルドレン綾波レイの、かつて娘にヨハネの首を所望させた、妖女サロメ
もかくやと思わせる声が妖々と響いた。
 
 
   
 
 
(続く)

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