第十三話
 
 
 
 
 
 ブラインドの隙間から、朝日が射し込んでいる。
 小鳥達の囀りに、ベッドの上の主はゆっくりと目を開けた。
 掛け布団から手を出して、伸びをした後横を見る。
 そこには、もう一人が身を横たえていた。
 その人物に向けられた視線は、思慕の情が籠もっていた。
 愛しげにその横顔を見つめてから、上体を起こす。
 年の頃は15歳前後であろうか、顔はやや小さめでいわゆる小顔だ。
 長い髪はしっとりとまとまっており、よく手入れが行き届いているように見える。
 細い眉は懸命に抜いていそうだが、よく見れば自然のままであり、不自然な眉抜きなどは、全くしていないのが分かるはずだ。
 澄んだ瞳にすっと通るような鼻梁、そしてルージュ無しでもやや紅い唇。
 そして、身を起こした時に重そうに揺れた、年不相応な胸。
 だが、単に綺麗とか可愛いとか、そう言った表現とは違う。
 眼と口元だ。
 厳しい鍛錬を積んできた者にしかない、強靱な意志がそこには感じられる。
 しかし今の彼女は、ややそれを失っている。
 横の少年に向ける眼差しは、恋する乙女そのもので、完全に無防備になっている。
 目を開けた時には、どこか鋭かった眼差しが、横の少年に向けられた時には、擬音で言えばふにゃ、とでも言うのだろうか。
 その少年は身動きもしない。
 何を考えたのか、そっと近づけていった顔は羞恥に染まっている。
 少年の顔の直上まで来て、一旦少女は停止した。
 一瞬躊躇ったが、思い切ったように唇を重ねていった。
 数秒後に離れた時、少女の瞳は濡れていた。
 少年は少女の首に手を廻す事も、見つめる事もしなかったようだが、それでも満足したらしい。
 少女はその顔を見つめていたが、数秒後に幾分低い声で言った。
「お早うございます、シンジ様」
 だが20分後、少女が一人で部屋を出た時、部屋の中には誰もいなかった。
 しかも、少女の前に部屋を出た者はいなかったのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 シンジの眼差しに、何か詰問されるとばかり思っていたレイにとって、シンジの問いは意外であった。
 躊躇うことなく答える。
「私の大切なお兄ちゃん」
 だがシンジの口調は、まだ硬いままだ。
 いや、冷たいとさえ言えるかもしれない。
「どうして」
 以前の自分のような口調で聞き返されて、レイがびくりと肩を震わせた。
「優しいお兄ちゃんだから…」
「それだけ?」
「私を…本当の私を見ても…優しくしてくれた人だから…」
「もし」
「え?」
「僕が、レイちゃんの思っているような人では無いとしたら?僕が前を見ている時は笑顔でも、横を向いた時は全然違う顔をしていたら、どうする?」
「意味が…分からないわ…」
「レイちゃんを一目見て、髪の色や目の色が違う事は分かっても、クローンだとは分からない」
 どこか、謳うような口調で言ったシンジ。
 レイは身を硬くして聞いている。
「レイちゃんは僕に言ったね、軽蔑されても怯えられてもいい、と。あれは何故」
「私は普通の人とは違うって分かっているもの。だから、優しくされる前ならお兄ちゃんが私を見て怯えても、仕方が無いと思ったの…」
「普段は優しくしていても、レイちゃんの秘密を知ったら異形の物扱いしかねない、そう思った?」
 こくんと頷いたレイに、
「では、僕もそうだとしたらどうする?」
「僕、も?」
 聞き返したのは、意味が分からなかった所為だ。
「秘密があるのはレイちゃんだけでは無いかもしれない。クローンは別に驚くには当たらないけれど、確かにレイちゃんの言うとおり普通は怯えたりするかもしれない。それが人間の限界だからだ。だが、僕も別に特別じゃない。あの時、クローンを見ても動じなかったのは、決して僕の優れた精神力による物じゃあない。レイちゃんが想像も付かない秘密が僕にあったら、それもレイちゃんでも怯えるような事だとしたら、どうする?」
 少なくとも考え込むだろうと思っていた。
 或いは、こう訊くだろうと。
「お兄ちゃんにも秘密があるの?」
 だがそれは見事に覆された。
 
 ぎゅ。
 
 気配を読む事に掛けては並外れているこのシンジに、それこそ何の気配も感じさせずに、レイが動いた。
 シンジの首に抱き付いたのである。
(僕が気配を読めなかった…)
 シンジに取っては驚きよりも、ショックであった。
 素人の綾波レイが、碇シンジの野生の勘を出し抜いたのだから。
 しかしレイの方も抱き付いてはみたものの、シンジの気配が伝わったのか、硬直してしまった。
(お兄ちゃん…怒ってるかしら?)
 レイが首に触れた瞬間、シンジの手は思わず腰のナイフに伸びた。
 妙な姿勢で2人が固まったまま、一分近くが過ぎた。
 口を開いたのはシンジ。
「何?」
 その中に怒りが無いことに安堵したのか、首に抱き付いたまま、
「お兄ちゃん言ったでしょ、普通の人なら私を見て怯えるかもしれないって」
「それで?」
「お兄ちゃんは優しいから気にしなかったけど、やっぱりあれは私の秘密」
「ふんふん」
 ゆっくりと右手を戻した。
「私にも秘密がある。お兄ちゃんにもそれがあるんでしょう?だから…同じね」
「同じ、か」
「そう、おんなじなの。それに私、決めていたもの。お兄ちゃんが水槽の前で私に、優しくしてくれた時から」
(優しく…口づけだな。やっぱり失敗だったな)
 罰当たりな事を思いながらも顔には出さず、
「何を決めていた?」
「ずっとお兄ちゃんの妹でいるって。お兄ちゃんがどんな人だとしても」
「んー」
 今度ははっきりと呟いた。
「…お兄ちゃんは…迷惑?」
 シンジはすぐには答えなかった。
 数秒経って、シンジが呼んだ。
「ね、レイ」
 初めて聞く声であった。
 優しさをたっぷり含んだ甘い声に、レイの双眸に甘い光が満ちた。
「なあに、お兄ちゃん?」
「昔、僕の心が傷ついていた時、今のように僕の事を呼んで、僕の心を抱いてくれた女性(ひと)がいた。とても優しい人。その人に会っていなかったら、僕は此処にはいなかった。自分だけして貰うのはいい事じゃないね」
 そう言うと、右手を伸ばしてレイの頭を撫でた。
「僕が兄で良ければ、僕の妹のままでいるがいい。但し」
「なあに?」
「後悔しても知らないよ」
「後悔。後になって悔やむ事。私の辞書には無い言葉」
 以前のような口調で告げてから、ふふっと笑って見せた。
 レイの悪戯だったらしい。
 わずかに苦笑したシンジが行こうか、と言いかけてふと思い出したように訊ねた。
「零号機の起動実験が成功したら、何かして欲しい事あるね?」
 レイが、ぎくっとなった。
 どうしてそれを、と言い出す前に、
「君の発想なら大抵判る」
「あ、あのね」
「はいはい」
「この間みたいに、お兄ちゃんと一緒に出かけたいの」
「車でいいならね」
 どこか一方的な言い方にも、
「うん、どこでも」
「承知した。さて、今日は何処か食事でも行こうか?」
「ほんと!」
 どんなに心が醜い女性でも、こんな場合−突然の幸運を訊いた時の表情−だけは、美しい笑顔を見せると言われる。
 レイの場合は、文字通り天使の微笑みに見えた。
 だが今のところ、レイがこんな表情を見せるのは2人だけだ。
 兄である碇シンジと、妖艶な女医−長門ユリだけ。
 ただし、それを見たシンジが得をしたと思ったかどうかは知らない。
「さ、降りて」
 とあっさり告げたのに対して、レイは少しだけ名残惜しそうな顔を見せたが、素直に従った。
 その晩二人が行ったのは、中華料理店であった。
 既にレイの肉拒否症は克服してある。
 別にシンジは強要はしなかった。
 ただ一言、
「僕の作ったのが食べられなければ、無理はしないでいいよ」
 と、どうでも良いように告げただけである。
 見ようによっては、一番の強制に見える言葉は、レイの肉嫌いを四日で直す効果はあった。
 ある意味では、一番の荒療治だったかも知れない。
 シンジもレイも店では烏龍茶しか口にせず、家に帰ってから二人でビールを数本空にした。
 といってもシンジが大半だったのだが。
 蟒蛇に毎晩付き合っていれば、嫌でも酒豪もどきにはなれる。
 アルコール自体に、拒絶反応が出なければ。
 白い肌に、微塵も酔いを感じさせぬままレイが床につく時、シンジはおやすみ、と言ってそっと頬に触れた。
(いい夢が見られるかしら?)
 そんな期待で眠りについたレイにとって、起動実験の夢はやや意外だったのである。
 
 
 
 
 
 レイが降りて行った時、いつもの通りシンジは朝食の用意を終えていた。
 シンジがレイにさせないのは、シンジが家事を好むからではなくて、レイに未だ食事関係は教えていないからだ。
 だが、他の家事はほぼマスターしつつあるレイに、シンジは間もなく食事の方も教えるつもりでいた。
 十四歳と言う年齢は、本来なら家事など出来なくとも構わない。
 が、レイの場合は境遇上からして、そうは行かないのだ。
 レイを造ったのはゲンドウ達である以上、シンジには何の関係もない。
 だが、普通の少女として当然の事を、全く教えていなかった事実は、シンジにとって僅かながらショックであった。
(独り立ち出来るようにはしないとな。全くあの親父共は)
 シンジがレイとの同居を受け入れた上に、家事までも教えているのには、そんな理由がある。
 洋食の時にはミルクティーを、和食の時には玉露を飲むのが、シンジの習慣となっていた。
 本来、接客への食後には煎茶でいいのだが、シンジはセオリー通りに低温で入れた玉露が好きであった。
 また、幾分猫舌気味のレイにとっても、上質ほど低温で入れるという、セオリーに基づいて入れた五十度くらいの玉露は、ちょうど飲みやすかったのである。
 数分待ってからいれた玉露を、あるいはミルクティーを、シンジと向かい合って飲む時間、レイはこの時が好きであった。
 時間にして15分程度だが、何となく落ち着く気がするのだ。
 茶室ではないが、正面を避けるために廻してから数回に分けて飲む。
 手を添えて飲むシンジの姿に、いつもレイは感心していた。
 絵になっている、というのは茶道のさの時も知らないレイでも、何となくわかる。 
 信濃家では、暗殺術だけ教えたわけではない。
 シンジのそれが、様になっているのも当然であった。
 いつもの通り、湯飲みとコップ以外を食器洗い機に入れてから、家を出た。
 既に鈴原トウジの一件が知れているのと、ネルフ−リツコの工作でシンジ達が車で登校しても、奇異な目を向けるものは一人もいなかった。
 シンジの服装は、一見不良に見えなくもないのだが、転校三日目にあった模擬テストでシンジが5教科で満点を取ってからというもの、誰もシンジを妙な目で見ようとはしなくなった。
 別にシンジは勉強の虫ではない。
 しかし、
「暗殺術だけに長けていては駄目」
 と言いきり、家庭教師を買って出た二人の美女のおかげで、既にシンジのレベルは大卒位にはなっている。
 もっとも、大学にいきなり行こうとは思わなかったし、アオイ達も勧めなかった。
 勉強が出来る、と言うことと形式に拘ることは、彼らにとって別問題であり、価値を認めていなかったからだ。
 検問に遭っても問題ないとは言え、ゆっくりと車を走らせたシンジが学校に着いたのは、始業の十分前であった。
 派手に公道パフォーマンスをかましたのは初日だけで、今は極めつけの安全運転なのだが、既にシンジの名は全校に知れ渡っていた。
 サングラスをしたまま車から降りたシンジの左に、レイが寄り添った。
「基本的に手は禁止」
 との、つれなく言われた一言で、レイは手を繋ぐ事は断念している。
 並んで歩く二人の姿に、何人もの女生徒からの熱い視線が注がれている。
 目下二人は恋人ではない、という事は知っているが、転校初日にシンジが言った、
「恋人はいないが募集もしない」
 の言葉が接近を妨げていた。
 シンジは自分に向けられている視線は、無論気付いている。
 だが、シンジにとっての関心事は、その中に物騒な物があるかだけである。
 取りあえず、後方からの物は無かったようだ。
 だが教室に入った時、シンジは刺すような視線を感じた。
 鈴原トウジは、昨日辺り退院した筈だが、今日は姿を見せておらず、相田ケンスケは軽傷だったが、あれからしばらく学校を休んでいた。
 今日もいない。
 では、視線の主は?
(このクラスの委員長、確か洞木ヒカリとだったかな?鈴原トウジ絡みだろうけど)
 トウジが顔貸せとシンジを連れ出した時、ヒカリの心配そうな視線がトウジに向けられているのを、シンジは知っていたのだ。
 トウジがシンジに撃退された事は知られているが、詳細に付いては伏せられている。
 トウジが学校を休んでいるのは公休扱いになっているほどである。
 わざとヒカリの前を通って、声を掛けてみた。
「おはよう」
 凄まじい視線が答えであった。
「話があるの、後で付き合ってくれるかしら」
(同じ事言ってるぞ)
 そう思ったシンジが何か言いかける前に、レイが前に出た。
 凍てついた目でヒカリを見据える。
 二人の視線が交錯し、空中で火花を散らす。
「お兄ちゃんに何の用」
「あなたには関係ないわ」
 まるで、視線だけで相手を射殺すように睨み合っていた二人だが、シンジが止めた。
「レイちゃん」
 シンジの声に、不承不承を顔に乗せてながらも席に着いたレイ。
「洞木ヒカリ」
 レイに向けたそれとは、あまりにも対極的な冷たい声で呼んだ。
 瞬時にヒカリの殺気が消え失せた。本能で悟ったのだ、絡んではならぬ相手に絡んでしまった事を。
「僕に何の話か知らないが、取りあえず付き合うよ。でも、レイちゃんに災禍を及ぼした時は、五体満足で逝けると思うな」
 逝けるの字が判らず、当然意味も通じなかったが、雰囲気だけでヒカリの背は凍り付いた。
 だが、
「一時間目が終わってからでいいかな?」
 がらりと変わって笑みさえ含んだシンジの声に、怒りが再燃したらしい。
「逃げるんじゃないわよ」
 顔からは想像も付かない、ドスの利いた声で命じた。
 一時限目が終了した休み時間、二人は連れだって教室を出た。
 当然の如く立ち上がったレイを、
「密会だから来ちゃ駄目」
 と制したシンジを、ヒカリはじろりと見た。
 レイには無論、シンジの言葉は判らないが、シンジの命には素直に従った。
 ヒカリの場合、よくいる委員長タイプに見えるため、小学校からずっとクラス委員や、学級委員を務めてきた。
 シンジからすれば、統率力もないのに周りから担がれて、委員を引き受けるようなタイプは好まない。
 だが今ヒカリから立ち昇っている雰囲気に、幾分考えを変える気になった。
(単なるお節介な小娘じゃ無いみたいだね)
 無論シンジのような凄絶でも、ユリのように全てを拒絶する、凍てついたそれでもない。
 素人なりに、シンジを感心させる怒気であった。
 或いは、本気で怒っていると言うべきかも知れない。
 二人が着いた先は、図書室であった。
 休み時間は二十分とやや長いが、昼休み以外でここに来る者は少ない。
 ヒカリはそう思っていたが、
「あら?」
 カウンターの中で本を読んでいる、一人の女生徒が目に入った。
(仕方ないわね)
 踵を返そうとした時、後ろの足音が違う方に向くのを感じた。
「ちょっとどこへ…」
 言いかけた時、既にシンジはカウンターの前に立っていた。
 気配を感じた少女が、ゆっくりと顔を上げる。
「あ…い、碇…シンジさん」
「僕の名前覚えてくれたの?山岸マユミさん」
「は、はい…」
 うっすらと頬を染めているのを見て、ヒカリの怒りは増幅した。
(粗忽で野蛮人な上に、女たらしって訳ね。最低だわ)
 そのオーラを感じたのかどうか、シンジが振り向いた。
 どこか冷たい眼差しに、さては聞こえたのかと、一瞬ヒカリが固まった時、
「悪いが彼女に話がある。君の話は昼休みにゆっくり伺うから、先に帰って」
 無論シンジは。ヒカリの心中など読み切っている。
 だが、ここは気にしない事に決めた。
 アオイかユリがいなかったのは、ヒカリにとって大きな幸運であったろう。
 彼女の胸中が読まれたら、文字通り生きて学校からは出られなかった筈だ。
 ヒカリの後ろ姿を見送ったマユミが、
「あ、あの、碇さん」
 控えめな声で呼んだ。
「ん、何?」
「あの、今の方のご用件は宜しいのですか?」
「どうせつまんない話だから、どうでもいいの」
 本当にどうでもいいような口調で言ってから、マユミの手元を覗き込んだ。
「あ…」
 恥ずかしそうに本を押さえたが、シンジの視線が感心したような物になったのを感じたか、ゆっくりと手をどけた。
「それ、史記だね」
 漢代の歴史家、司馬遷が書いた歴史書を熟読する女子中学生など、最近では珍しい。
「碇さんも、ご存じでしたの?」
「職業柄」
「え?」
「何でもない。でも、そういう本を読んでいる人は理知的に見える」
「本当は違っても?」
「そんな事は無いよ」
 微笑したシンジについ引き込まれて微笑んだ瞬間、もう長いことそんな表情をした事が無いのに気がついた。
(私にも、こんな表情が残っていたのね)
「碇さんは、本はお好きですか?」
「好きだよ」
 ストレートな答えに、マユミは何故か頬が赤くなるのを感じた。
 シンジに見られていることに気がついて、
「ど、どんな本がお好きですか?」
「えっちな本以外なら何でも」
「まあ」
 思わず笑ったマユミに、シンジが穏やかな視線を向けて、
「山岸さんはよく、ここへは来るの?」
 と、訊いた。
「はい…私…」
「何?」
 こんな時シンジの雰囲気は、相手の答えを引き出すのに莫大な効果を発揮する。
 数秒の沈黙があった後、
「私、お友達っていないんです…」
「本が友人なら気を遣う必要もないし、裏切られる事もない」
 喉まで出かかった科白を言い当てられて、マユミの顔に驚きが浮かんだ。
「ど、どうしてそれを…」
「マユミ嬢は、素直な性格のようだね」
 シンジは、感情を読みやすいとの意味合いで言ったのだが、マユミにはそうは取れなかったらしい。
 褒められたのかしらと、
「私が、ですか?」
「本が友人でも、少しも恥じる事はない。3冊買えば3冊とも違う運勢が書かれている、インチキ星占いの雑誌に一喜一憂したり、ねじ曲がった心から溢れる臭気で、存在そのものが汚濁している事に気が付きもせず、適当な痩身法を扱った三文誌を買い漁る連中。そんなのとつき合うことはないさ」
 どことなく、冷ややかに変化したようなシンジの雰囲気に、
「碇さんは、はっきりした方ですのね」
「お気に障ったか」
 いいえ、と首を振ると、
「私、あまり思った事とか言えない性格なんです。だから、碇さんが羨ましいです。でも…」
「でも?」
「会って二回目の方と、それも男性の方とこんなにお話するなんて初めてなんです」
「それって、僕が女の子みたいっていう事?」
 シンジのからかいを含んだ口調には気づかず、慌てて勢いよく首を振った。
「ち、違います…それは…碇さんは髪はお綺麗だし…」
 ちょうどその時、始業を告げるチャイムが鳴った。
「ありゃ、時間だ。ではこれで」
 あっさり踵を返しかけたが、ふと立ち止まって、
「マユミ嬢」
 と、呼んだ。
「はい?」
「先般の件は今度会った時に伺うから」
 レイの一件だと思い出したのは、数秒後の事であった。
 分かりました、そう言いかけた時、既にシンジの姿はなかった。
 しかし、分かったとは言ったものの、まだ考えていなかった事に、本を持って立ち上がった時になって気が付いた。
 この日、初めて山岸マユミは授業に遅刻した。
 本を持って急げば数分であったが、道々何か考えていたおかげで、教室に入った時は既に十五分が経過していた。
 
 
 
 
 
 シンジは階段を一気に飛び降りると、豹のような疾走で音も立てずに教室に向かったが、運良く教師は来ていなかった。
 少しも息を切らしていないシンジを、レイの心配そうな表情が出迎えた。
「お兄ちゃん、大丈夫だった?」
「え、何が?」
 一瞬分からなかったシンジ。
「あの雀斑が、お兄ちゃんを連れていったから」
 レイも結構とんでもない事を口にする。
「レイちゃん、人をそんな風に呼び捨てにしちゃ駄目。いい?」
 平然と口にしたレイに、さすがにシンジも宥めたが、瞬時に首が振られて、拒否の返事が返ってきた。
「どうして?」
「あの人は、お兄ちゃんの敵」
 単純明快な答えだったが、
「でも君の敵じゃない」
 他人行儀な扱いをされて、幾分悲しそうに、
「はい…」
 と俯いた。
 ちょうどその時、教師が入ってきたため会話は打ち切られた。
 初老の教師の授業は退屈なのだが、セカンドインパクトの原因に関する、意図的に流布された説を延々と繰り返す授業は殊更であった。
(さすがに少し退屈)
 シンジが窓の外に目を向けた時、手元のパソコンが、メッセージの受信を告げるランプを点滅させた。
 既にプログラムは、シンジの細工がしてあり、シンジの送受信したメールは、教師でさえも検閲は出来ないようになっている。
 送信源はレイと知れた。
 キーを押して、内容を見る。
「さっきはごめんなさい」
 簡潔に書かれていた。
 前の席のレイを見ると、俯いてはいるが、こちらの気配を身を固くして伺っているのが感じられた。
「別に気にしないよ」
 一言打って送る。
 数秒でレイには着くはずだ。
 待ちかねたように、レイが開封したのが分かった。
 レイの雰囲気がぱっと明るくなったのが、シンジには手に取るように見えた。
 表情まで見えた気がする。
(素直ないい娘だね)
 浮き雲を眺めながら、シンジがぼんやりと呟いた。
 四時間目が終了してチャイムが鳴った時、シンジはふと気づいた。
(洞木ヒカリのお呼び出しに付き合わなくちゃならないけど、レイちゃんのご飯どうしよう)
 シンジは今日まで一度も弁当を作った事は無く、毎日レイと外食に出ていたのだ。
 いくらシンジと言えども、起きて直ぐ湖畔道路を流しに出かけ、帰ってから朝風呂、ついで銃器と自らの髪の手入れ、最後に朝食の支度とあっては、昼食まで用意するのは少々きつい。
 さっさとアオイを呼んで作ってもらおう、などと考えていたのである。
(ちょっと待った。何で僕が洞木ヒカリの都合なんかで、昼食を左右されなきゃならないんだまったく)
 当然の事に気が付いた。
 レイと連れだって出ていこうとした時、出口がふさがれた。
「お昼休みって言ったのは貴方よ、碇シンジ君」
 呼び捨てにしなかったのは賢明と言えよう。
(えーい。しつこいんだから)
 顔には出さず、
「食事を済ませたら、早めに帰ってくるから。30分で戻る、屋上で待っていて」
 なにやら主客転倒の雰囲気を持った科白だったが、ヒカリに有無を言わせないだけの物は含んでいた。
 二人が行ったのは、近くのバーガーショップであった。
 アップルパイの包装を解きながら、レイが訊ねた。
「お兄ちゃん、洞木ヒカリ…さん、何の用なの」
 呼び捨て禁止令を思い出したようだ。
「この間、僕に絡んできた二人組を撃退したでしょ。鈴原トウジと相田ケンスケ」
「あれは自業自得でしょう?」
 レイの口調は冷たい。
「それでも、想い人であればそうも行かないかもしれないさ。たぶん、洞木ヒカリは鈴原トウジの事を好きなんだろうね」
「お兄ちゃん」
 レイが奇妙な顔で呼んだ。
「どうしたの?」
「好きってなあに?」
 思わず手にしていた、ウーロン茶の紙パックを握りつぶしかけて、慌てて押さえた。
「このあいだ、赤木博士の態度は恋だとか言ってなかった?」
「『濡れたような目』や『体の擦り付け』は、発情の証だって本に書いてあったの。動物の恋愛感情の表れだって」
 一瞬宙を仰いだシンジ。
 発情期の雌と同じ観点で見られているとは、いかなリツコでも夢にも思わないに違いない。
「動物の生態学本で読んだか」
 気を取り直して、
「好きって言うのは、相手に好意を寄せる事。相手を大切に思うことだよ」
 背中に蕁麻疹が出来たような気がしたが、我慢して教えた。
「ふーん…」
 間が空いたのが気になったが、
「レイちゃんも、そのうちに分かるよ」
「そうね」
 安心したように、アップルパイを口にした。
 小さな口が小さく噛んだ破片を、ゆっくりと咀嚼するのを見ていたシンジ。
 別に見とれていたわけではない。
(僕と暮らすのを喜んだのは、強い雄の庇護下は安全だ、なんて思ったからじゃないだろうな)
 考えを振り払うと、ポテトをつまんで口に入れた。
 二人が戻って来た時、約束の五分前であった。
 レイには教室待機を告げ、自分は屋上へと向かった。
 屋上には微風が吹いている。
 偶然なのか、そこには誰もいないようであった。ただ一人を除いては。
 手すりにもたれて遠くを見ている女生徒の髪が、僅かに揺れている。
 ゆっくりとヒカリが振り返った。
「待たせた?」
 シンジの呑気な声に、
「女の子を待たせるなんて、失礼な人ね」
「それは済まなかったね」
 何を思ったか、シンジはあっさり謝した。
「それで、話って何、洞木ヒカリ嬢」
 お嬢扱いされて一瞬むっとしたようだが、それには触れず、
「鈴原トウジ君が公休扱いになっているけれど、実は入院しているって本当なの?」
(情報源は相田ケンスケだな。情報漏洩マニアだとは思わなかった)
 そんなマニアが実在するかはさておき、
「確か、昨日辺り退院の筈だよ。一応手加減はしたんだけどね」
 次の瞬間ヒカリの手が閃き、シンジを襲った。
 乾いた音がした。
 
 
 
 
 
「使徒に間違いないのだな?」
「間違いありません、波長パターン青です」
 ネルフ発令所に緊張が走った。
 顔の前で手を組んでいる、サングラスの総司令は今日はいない。
 冬月の声が響いた。
「総員、第一種先頭配置。迎撃用意」
 それを受けてミサトが、
「リツコ。シンジ君とレイに連絡して。それから日向君、第三新東京を迎撃体制に移行して」
「了解。第三新東京市、迎撃体制に入ります」
 復唱と同時に、コンソールパネルに手が伸び、キーを叩いていく。
 第三新東京市が、その姿を変え始めた。
 一斉にサイレンが鳴り響き、避難命令が全市民に告げられた。
「ただいま、東海地方を中心とした関東、中部全域に特別非常事態宣言が発令されました。速やかに指定のシェルターへ避難して下さい。繰り返します−」
 交通機関は全面停止。道路も通行止めと化した。
 道路に次々とバリケードが築かれていく。
 青葉シゲルの、
「中央ブロック、収容開始」
の声を聞きながら、リツコは携帯のボタンを押した。
 二回の呼び出し音の後、相手が出た。
「はい、綾波です」
「あ、レイ?私よ」
「赤木博士」
「今、シンジ君はそこにいる?」
「いえ、お兄ちゃんは用事で」
「用事」
 オウム返しに呟いてからリツコは何となく、直ぐさま呼びつけるのは止した方がいいような気がした。
「レイ、使徒が現れたわ」
「使徒ですか」
「そう。だから用事が終わり次第、直ぐ本部へ向かってとシンジ君に伝えて」
「判りました」
 何となく嬉しそうに聞こえた気がして、リツコは内心で首を傾げた。
 レイが電話を受けたのは、女子トイレを出た所であったが、既に周りは鞄を持って一斉に出て行くところだった。
 多分まだ屋上にいる、そう判断したレイは急いで屋上に向かった。
 シンジを探しに行けるオフィシャルな口実が出来たからだ、それも特一級の。
 
 
 
 
 
 ヒカリの右手は、シンジの手の甲で遮られていた。
 本来ならナイフが一閃して、手首に朱線が浮かび上がってもおかしくないのだが、何故かシンジはそうしようとはしなかった。
 だが、ヒカリにはそれは通じなかったらしい。
 手の甲とぶつかった瞬間、痛烈な痛みを感じたが、まぐれだろうと左手を繰り出したのだ。
「…・っ!?」
 声を上げる間もなく、声を上げる余裕もない程の痛みが彼女を襲った。
 ぐいと引かれた腕はまっすぐに伸ばされ、肘の下には左手の甲がある。
 へし折る意図はヒカリでも読めた。
「い、痛…」
「ヒカリ嬢」
 体勢からは想像も付かない優しい声で呼んだ。
「な…何よ…」
「僕の事を、一つ教えておいてあげます」
「……」
「僕は、人と物との区別が付かないんですよ。だから、貴女の腕を折るのも、箸を折るのも同じなんです。こんな風に」
 何の躊躇いも見せずに折ろうとした瞬間、サイレンが鳴り響いた。
 シンジの手が止まる。
 続いて、避難命令がスピーカーから流れてきた。
 サイレンの音に気が変わったのか、左手を離した。
 右手はまだ、ヒカリの腕を掴んでいるが。
「サイレンで少し気が変わった。ヒカリ嬢、僕と賭をしないか?」
「賭?」
「そうだ。今から僕が君に質問する。君の答えが僕の意に合えばこのまま行かせてあげる」
「も…もし、違ったら?…」
「僕を襲った報いを受けて貰う。言っておくが、野蛮なアマゾネスに、ちょっとしたお仕置きで済ます程、僕は甘くないぞ」
 アマゾネスとは、女だけの部族であり、その武力は圧倒的と言われている。男の子が産まれたら即座に殺し、弓を射るために片方の乳房は切断している。
 そんな女族に、ヒカリの姿が重なったのか。
(私が何と言っても、あなたの気分次第じゃない)
 そんな異議を唱える余裕は、今のヒカリには無かった。
 夢中で頷いた時、既に手が離れているのを知った。
「賭は成立した。じゃ、訊くけど何故僕を襲った?」 
「そ、それは…」
「それは?」
 
 
 
 
 
(続く)

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