第十話
希少価値、と言う単語がある。
文字通り、極めて希だから価値がある、と言う事だがこれは物に限らない。
例えば笑みとか。
笑わなかった女−西施。
その笑顔を見るために王は、あり得ぬ危機の為に烽火を上げ、諸侯の信頼を失った。
烽火が上がった時だけ、西施は微笑んだと言われる。
しかし結果として蛮族が襲来した時、どの諸侯も駆けつけようとはせず、國は滅びの命運を辿った。
だとしたら。
滅ぼすために、彼女は微笑んだのかも知れない。
笑わない少女−綾波レイ。
彼女もまた、笑うことなどなかった。
しなかったのか、或いは出来なかったのか、それはおそらく本人も知るまい。
だが今彼女は、確実にある物を身に付けた。
すなわち、笑うことを。
そして、感情を表現することをも。
何よりも、誰かに甘えるという仕種をも、身に付けたのだ。
「さて、下着は買ったから、次はどうしようか」
「あんな下着は、私見たことなかったわ」
「下着は可愛い女の常識だからね」
「そうなの?」
「そう、間違いなく」
断言された言葉に、何を思ったのかレイはうっすらと微笑んだ。
「何?」
「じゃあ私も、可愛くなれるのね」
世慣れしていない、と言うのはある意味怖い。
少年少女の、と言うより往来の真ん中でする会話ではなく、通行人が奇異の目を向けていくのだ。
「まずは形からね。で、次はどっちに行く?」
シンジの言葉には気付かず、
「どっちって何?」
聞き返したレイ。
「服、靴、身の回り品。どれがいい」
言われてレイは、自分の身体とシンジの身体を見た。
レイ−現在制服。シンジ−ゆったりしたドレスシャツにスラックス。
釣り合わない、と思ったのかどうかは不明だが、
「服がいいわ」
「じゃ、行こう」
歩き出したシンジの横に、すっとレイが並ぶ。
が。
この街の地理を、そんなに知らないことをシンジは思い出した。
「デパートでいい?」
「お兄ちゃんにお任せするわ」
わずかに笑うと、シンジの左腕にきゅっと腕を絡めた。
「何?」
「お兄ちゃんと歩いても、おかしくないのがいいわ」
何を言い出すかと思ったが、レイは真顔である。
やっぱりシンジの服と比べて、自分のはおかしいと思ったらしい。
ただし、標準と言う意味では、シンジの方がおかしいのだが。
そんなのも気にするようになったかと、妙な事に感心していたシンジだが、取りあえず駅近くのデパートに足を向けた。
「リツコ、本当に訓練良かったの?」
シンジとレイが出かけた後、護衛として黒服を付けておいたのだが、何故かゲンドウに怒鳴られたミサトは首を捻っていた。
と言うよりも、ゲンドウがシンジ達を軽視していると思ったのだ。
無論実体は、黒服より自分の方が遙かに役に立つからなのだが。
そんな事は知らないミサトは、リツコの所へやって来ていた。リツコなら、何か知っていそうな気がしたのである。
「いいのよ、別に」
ふと、リツコがキーボードの手を止めた。
止めたのはいいが、すっと画面を変えたのである。
隠し事されてるな、と思うのはこんな時だ。プライベートの件にはどうも見えないそれを、ミサトが来た途端に伏せられたのは、一度や二度ではない。
レイのエヴァ関連のデータなら、自分に隠される必要はない。むしろ、自分が知っていなくてはならない位だ。
だとすると、奇妙なグラフやデータの羅列は、それ以外の物と言う事になる。
問題は、リツコは自分に隠す事があっても、自分にはそれがないと言う事だ。
「あの二人、特にレイは零号機がまだあれだし、早くしないとまずいでしょ」
「そんな事はないわ」
と、リツコはそこにあったコーヒーを勧めた。
「一両日中に、零号機の引き上げ作業は行う予定だから。それに、初号機へのシンクロは多分難しいわ。そう」
一度言葉を区切り、
「今のレイでは特に」
「今のレイ?どう言う事」
「機体を変えるのは、人の車に乗るような物だからよ」
今のレイ、とリツコが敢えて言ったのは、ここでかわしておく狙いがあるからだ。後になってから、あれこれ知りたがられるよりも、今適当に納得させておいた方が賢明と言える。
「人の車?」
「会ったばかりならともかく、お兄ちゃんなんてしてるようじゃ無理って事よ」
「もっとわかりやすく言いなさいよ、リツコ」
ぼかしてるのよ、リツコは内心で呟いた。
人形のレイに自我が出来たから無理、一言で表現すればそうなる。
だから、
「シンジ君の機体に乗っちゃうと、色々注意が逸れるでしょう。無心で集中するのは難しいのよ。もっとも零号機ならいいんだけど」
「つまり、違う機体の癖に合わせづらいって言う事?」
「その通りよ」
明後日の方向に解釈したのを、これ幸いと頷いておいた。
「それに、チルドレンと言っても機械人形ではないし、スケジュールに放り込む訳にも行かないでしょう」
が、これは余計だったろう。
それを聞いた時、ミサトの表情が動いたのだ。
と言うのも、レイに対してそんな人情味溢れる接し方は、微塵もリツコがしてきていないのを、ミサトは見てきたからだ。
(どうして、急にそんな事を言い出すのよ)
言葉にはしないが、探るような表情になったミサトに、
「シンジ君を怒らせると、あまりにもデメリットが大きすぎるのよ。あなたにも分かるでしょう」
ある意味曖昧な、ある意味では十分すぎる説得力に、ミサトの表情が一瞬激しく揺れたのは、何かを思い出したらしい。
「そ、そうね」
急に疑念の色が消えたのを見て、リツコは勝利を知った。
後は、余計なデータに興味を持たれる前に、部屋から退散してもらうことだ。
「それよりミサト、シンジ君達には諜報部は関わらせない方が無難よ」
「え?」
「チルドレンの護衛も、シンジ君に限っては無用だからよ。それと、先日のシンジ君の戦闘時のデータ、見せてくれるかしら」
「シンジ君の?」
「そうよ。もう出来ているんでしょう?」
絶対まとめてない、と知っての言葉である。
案の定、
「あ、ああ、あれはちょっと今チェックしている最中だから、ちょ、ちょっと待っててね」
退散したミサトの出ていった扉を見ながら、
「あなたは知らない方がいいのよ−色々とね」
呟いた言葉には、手玉に取ったと言う感じがありありと見受けられた。
「これはすこし…涼しいわ」
試着室から出てきたレイは、殆どむき出しの太股をそっとおさえた。
ホットパンツにショートタンクトップ。
要するに脚がほとんどと、お腹のあたりがむき出しになっている格好である。
さっきは足がまったく見えないロングスカートだったから、よけいにひんやりして感じるのかもしれない。
それでもいやだとは言わず、
「ど、どうかしら」
眺めているシンジに、小さな声で訊いた。
「まだ早い」
シンジの答えは簡潔であった。
悪くないが、どうもぶかぶかして見えるのだ。レイの肢体には、雰囲気その物が少し足りない感が見えてしまう。
ただし、シンジの言葉をどう取ったのか、レイは中へ消えるとき、少し嬉しそうに見えた。
自分でも、あまり合っていないと思ったのかも知れない。
結局白のブラウスにスカートも合わせ、薄いピンクのスカーフを巻いてみたレイ。
よく見ると、制服のそれと色合わせにも見える。
一見清楚なそれにも見えるが、実はその下は全然違う。
白のストッキングはガーターベルトで吊られており、ブラジャーもフリルを大胆にあしらった物だ。
パンツは普通のコットンだが、これも腰を覆うと言うにはやや鋭角のラインが入っており、対象年齢は中学生の物ではない。
装着感がまだ慣れないのか、スカートをつまみ上げて眺めているレイを、シンジが止めた。場所が試着室ではなかったのだ。
「全身を白にしてみた。感じはどう?」
無論口紅も塗っておらず、まったくのノーメイクだが、それでも制服に身を包んだ時とは別人に見える。
ヘッドセットを外し、小さなリボンを付けてみたせいもあるのかもしれない。
「白は…いいわ」
鏡のなかには、もう一人の自分が映っている。
その全身を眺めながら、レイは満足げであった。
が、
「じゃ、それ着ていこうか」
とシンジが訊いた時、レイは首を振った。
「え?」
「もったいなからいいの」
「勿体ない?」
「折角お兄ちゃんに買ってもらったのに」
着るために買ったんだ、とはシンジは言わなかった。
分かった、と言っただけである。
それに、服は出来上がっているが、靴はまだ学校指定のそれなのだから。
私服に学校指定の靴は合わないのだ、と言うことを納得させるのに数分を要したが、これもシンジの言葉に頷き、靴屋に二人して赴いた。
さすがにハイヒールを当てたりはしなかったが、飾りの付いた靴はどれもレイの足に合っており、レイも満足したらしい。
下着、服、靴と回ってきた二人だが、靴屋を出たときシンジが時計を見ると、もう五時近くになっていた。
結局、全部現金にしたお陰で、一杯にしておいた財布も片方は空になり、もう片方も七十万を残す所となっていた。
中学生の少女一人の衣服に、一日で百万以上使った事になる。
「取りあえず、こんな物かな」
シンジが呟いた時後ろにいたレイが、
「あ、あのねお兄ちゃん」
囁くように言った顔は幾分赤い。
ああそうか、と納得したシンジは、
「喫茶店にしようか?」
訊ねると、レイはこくりと頷いた。
昼食の後、シンジが小声で訊ねたことで学習したらしい。
辺りを見ると、小ぎれいな洋風の喫茶店が目に入った。レイを伴って入ったシンジだが、入る前に視線を周囲へ走らせる事は忘れない。
洗面所へ立ったレイが戻ってきたとき、シンジの目はその足に注がれていた。
(疲れたみたいだね、やっぱり)
出る前と比べて、出力が落ちている事をシンジは見ていた。さすがに引きずるまでには行かないが、普段のレイからすればだいぶ多く歩いているはずだ。
家からネルフまでは、徒歩で向かってはおらず、歩くとしたら家から学校くらいの物であろう。
「レイちゃん、今日はお疲れさま」
シンジの言葉に首を振って、
「お兄ちゃんと一緒だったから、全然疲れなかったわ」
初デートでこんな事を言われたら、普通は驚喜する場面である。
シンジは表情を変えぬまま、それは良かったと頷き、
「で、ここで食事していく?」
「あまり、お腹空いてないの」
それを聞いてシンジは腕時計に視線を向け、
「宅配は今日の指定になってるし、収納もあるからジュース飲んだら帰る?」
レイが頷いたところへ、オレンジジュースが来た。
二、三度瞬きした。
確かに頼んだ物である。
だが。
一つの特大グラスに、二本のストローなど頼んだ覚えはない。
文句を言う前にレイの顔を見る。
当然ながら、意味は判っていない。
レイの質問への答えを瞬時に練った。
果たして、
「これ、一つのコップにストローが二本あるわ。どうして?」
「一本で混ぜながら、もう一本を使って飲むのさ」
がしかし。
シンジの嘘八百を粉砕する、天使が登場した。
やや小太りで、顔も雀斑を残しているため、美しい天使とは言い難かったが。
「お客様、これは一つのグラスから2人で飲む、カップル用のジュースです」
余計な事をと睨んでみたが、迫力が足りない。
「カップル用って、何?」
レイが訊ねた。
「仲良くなると言うことです。お客様の場合はこちらの方と、もっと仲良くなる事です」
ご丁寧な説明まで付いてきた。
さすがにシンジの眉が寄って何か言いかけたが、ウェイトレスは店の表にある看板を指差して見せた。
「お客様、あれを」
「なになに…不覚」
洩らしたのはその文字だ。
「本日はカップルデーに付き、ご注文のお飲物は全てワングラスダブルストローになります」
来なきゃ良かった、そう言いたくなるのを理性で押さえ込む。
頼んでない物が来たと思ったら、まさか店の変な日に当たったせいだったとは。
何処かで笑っているに違いない、悪戯好きな運命の女神を呪った。
「ごゆっくりどうぞ」
キーパーソンと見たのか、レイに向けてにっこりと笑ったウェイトレス。
きっと、いや間違いなく悪戯な女神の手先に違いない。
うん、と頷き返したレイを見て、シンジは宙を仰いだ。
レイの顔など見なくても判りきっている。
(…お兄ちゃんと仲良くなれる…)
(どうしてお兄ちゃんの単語が出なかったんだろう?)
『お兄ちゃん』の単語が出れば、こんな事にはならなかったに違いない。
それにシンジとレイは双子の兄妹に見えない−こともない。
だとしたら、兄妹に向かって、こんな物をを勧めはしまい。
「お兄ちゃん、はい」
にぱっと笑ったレイの笑顔を見て、さっきのウェイトレスに今度会ったら、絶対後ろから襲ってやろうとをシンジは決意した。
ようやく店を出たとき、シンジは数十キロの鉛を背負っているような気がした。
無論、運ばれてきたグラスはきれいに空になっている。
足に鉄の枷を付けられた囚人は、こんな気分かと思いながらやっと家に着いた。
もし誰かがシンジを襲うとしたら、ここまで絶好のチャンスはまず無いに違いない。
どうにか家に帰り着くと、玄関に袋がかかっていた。
中には、警備システムの対象からレイも外した事を記したリツコのメモと、カードキーが入っていた。
休む間も与えられず、10分もしないうちに大量の宅配が届いた。
ここのセキュリティが、入る者を完全に制限するタイプである以上、罪もない運転手とは言え危険な目に遭う可能性がある。
運転手の安全の為に、荷物は玄関にすべて置いてもらい、レイと二人してがたがたと運び込んだ。
レイの部屋を302号室に指定して、そこに収納家具やら服やら、ひとまず全部運び込む。
無論、更に整理しておかないと、明日からレイが一々箱から引っ張り出して使うことになる。
シンジが驚いたのは、レイの無頓着さであった。
下着類をどうするかと、一応眺めていたら、シルクもコットンも種類に関わらず、無造作に押し込んでいく。
ついでに靴下も、軽く束ねただけで次々と放り込んでいくのだ。
駄目だこれは、とシンジは一から教える羽目になった。
もっとも、シルクの類は手入れも面倒だし、この年齢では持っている方が少ないかも知れない。
そして。
「終わったね…」
「ええ」
すっかり整った部屋に、レイは周囲を見回してご満悦に見える。
内装も白が基調だし、後は壁紙に軽く手を入れれば済むだろう。
疲労より嬉しさが先に立つレイだが、一方のシンジは完全に疲労しきっていた。
ただし、その大部分は精神的な部分で占められているが。
かと言って、このまま倒れ込んで寝るわけには行かない。
第一、昨日レイの家に泊まったお陰で入浴がまだだ。普段の、シンジのリズムからして気分が悪い。
洗面所はホテルみたいな一室が男女別で設置されており、風呂は地下一階に大浴場が造られている。
疲労は危険値まで行っている気がしたが、風呂にだけは入っておくことにした。
それに、レイの方が最優先である。
軽く首を振って立ち上がると、
「お風呂の場所教えるから付いてきて」
レイはすぐ付いて来たが、疲れているせいもあったのか、平凡なミスを犯した事にも気付いていない。
常に湧いている、と記載されていた通り湯気を出して湧いてはいたが、二人とも一瞬立ちすくんだ。
浴槽は10畳分は優にあろうか、どこかの温泉並である。
だが信濃家の風呂よりは狭い。
いや、浴槽内でアオイとシンジが泳ぐという、行儀の悪い事をしても問題ない広さでこれよりもやや広い。
二人の視線が向けられているのは、湯の吐き出し口であった。
絶えず湯を吐き出しているそれは、普通なら獅子とかであろう。
だがそれは…・猫であった。
どうみても、洋猫ではなく三毛猫のような感じに見える。
二人が顔を見合わせた。
「これはリツコさんの趣味?」
「多分そうだと思うわ」
数十秒立ち尽くしていたが、沈黙を破ったのはレイの先制攻撃であった。
「お兄ちゃん、時間が勿体ないし私も疲れているの。一緒に入りましょう」
「分かった…あー?」
迂闊な発言は身を滅ぼす、確か本で読んだのに。
至言を思い出した時はもう遅く、疲労を見切ってのレイの一撃は、見事なダメージをシンジに与えた。
さらに間髪入れず、
「ちょ、ちょっと」
言いかけた所へ、
「お兄ちゃんに、食べさせてもらったのはとても嬉しかったけど、今日一度だけ。一つのグラスから二人で飲めるのも今日だけって、お兄ちゃんは私に言ったでしょう。だから…」
全ての事象を、『今日だけの特例』の範疇に収めるつもりらしい。
だから、と言われても困ると反論しようとした時、レイの後ろに何かが見えたような気がした。
「……」
「……」
しばらく視線を絡み合わせていたが、いいよと先に口を開いたのはシンジであった。
ただし、許可が出ると確信はなかったのか、
「本当に?」
「いいよ」
「良かった」
にっこりと笑ったレイに、
「先に入っていて」
「うんっ」
躊躇う事なく服を脱ぎだしたレイから、すっと視線を逸らしてシンジはそこを出た。
自分の部屋へ戻ったシンジは、ベッドの上に財布をどさっと放り出した。
「疲れた」
両手を上に向けて伸びをすると、ごきりと音がした。
自分でも驚いたように身体をひねると、あちこちで音がする。
「疲労過多だな」
ぼんやりと宙を眺めたが、自分の分身を使うわけにも行かないと、よいしょと立ち上がった。
「そうか、使ってなかったか」
「はい、まったく」
部屋に冬月はおらず、ゲンドウと二人きりだ。
普段なら、自分から腕を巻き付けて行く所だが、今日はそうも行くまい。
何せ、愛人は怪我が治っていないのだから。
「では、シンジは何のために持っていったのだ」
訊かれても、リツコにも分からず首を傾げるのみである。
レイの服を買うから、とゲンドウからカードを持っていったのはシンジだ。
が、何を思ったのかゲンドウは、カードの使用先を調べるようリツコに命じたのだ。
「用途、明細は必要ない。使った先だけ調べてくれ」
奇妙な指示に、リツコは首を傾げながら従った。
だがその結果、一カ所もゲンドウのカードは使われていないと分かったのだ。いくら買ったのかは不明だが、全部シンジが自腹を切った事になる。
なにせレイには、余分な金は一切与えていないのだから。
「あの司令…」
どうしてそんな事を、と訊こうとした時、
「使ってはくれなかったか」
その言葉に、何となくリツコは分かったような気がした。
「お、お兄ちゃん?」
浴槽に使って、思い切り全身を伸ばすと言う初体験の最中だったレイは、入ってきたシンジに一瞬目を見張った。
シンジは、風呂に入る格好ではなかったのだ。
レイの知識によれば、風呂は裸で入る物の筈だが、シンジはジーンズをはいたままである。
「それ、脱がないの?」
「これでいい」
異議を唱えさせぬ口調に、レイもそれ以上言う事は出来ず、
『ああいう服装もあるのかしら?』
内心で考え込んでいたが、ふと気が付いたように立ち上がった。全身から湯を滴らせたまま、何を思ったのか隅の方へ歩いていく。
ちょうどシンジは、シャワーで湯を掛けた所だったが、何となく嫌な予感に、ふっと振り向いた。
予感的中。
「何をしている?」
訊ねるのも愚問と思われる光景が、そこには展開されていた。
すなわち、タオルとボディシャンプーの容器を持って正座しているレイが。
「お兄ちゃんに洗ってもらうの」
「どうして?」
一応訊いた。
「人に洗って貰った方が綺麗になるって、ユリさんが言われたでしょう」
そんなこと言ってたかな、とシンジは首を傾げた。
確かに、なりますかとレイが訊いたのは覚えているし、ユリが何やら囁いたのは知っている。
「あの悪魔の手先め」
シンジの言葉に、
「何?おにいちゃん」
ちょこんと正座しているレイに首を振ると、もう一度レイを見た。
その全身を見て、一番最初に気付くのは、やはりその色の白さであった。
文字通り色素が足りないお陰で、唇が更に赤く見える。
そして、胸の白さを更に目立たせる両の乳首も。
湯が一滴落ちたそれを見ながら、シンジは自分の命運を知った。
レイの常識が、一般のそれとはやや離れているのは既に明白である−それの善悪は別として。
ここは素直に聞いてあげる事にしたが、タオルは少し気乗りしない。
膝に手を置いて、シンジをうっとりと見上げているレイに、
「分かった、洗ってあげる」
こうなれば皿までだと諦めたシンジが、辺りを見た。
「どうしたの?」
それには答えず、
「これにしよう」
よし、とシンジが持ってきたのはブラシであった。
ただし、先端はスポンジだから、レイに使っても肌に傷が付きはしないだろう。
「はい、そこに寝て」
シンジの指示に、嬉々として俯せになったレイ。
が、ボディシャンプーを付けて軽く撫でた瞬間、
「あうっ」
「ん?」
気のせいかと思い、肩から下へ向けた途端、レイの身体がびくっと動いた。
どうやらくすぐったいらしい。
「お、お兄ちゃん、もっと強く…」
頼んだ声も、震えて聞こえるのは気のせいではないようだ。
力不足だったかなと一気に力を入れて、床でも洗うようにごしごし洗っていく。うっすらと赤く染まっていくのは、この際気にしない。
両腕の裏側から肩へ、そのまま背中を洗い終えたシンジは、きゅっと引き締まったお尻にもそのままブラシを乗せた。
「んんっ」
一瞬こもったような声がしたのと、ぴくんと肩が揺れたのは、明らかに気のせいではなかった。
太股をこすった時と足の裏へ移項した時、両方とも肢体が妖しく揺れたが、シンジはあえて視界に入れなかった。
「トドの丸洗い?」
見たことは無いが、きっとトドなどが動物園にいる所では、こうやって洗っているに違いない。
俯せになったそれを、全部洗い終えたシンジは、
「はい、以上終わり」
その声にレイがむくっと起きあがる。
首を振った。
「届いていない所があった?」
掃除の腕が落ちたかなと訊いたら、
「上を向いて寝た方がまだ終わっていないわ」
「それは自分でやる」
「駄目なの」
「は?」
「人に洗って貰った方が綺麗になるから。お兄ちゃんは、私をきれいにしてくれないの?」
それを撃退する思考能力は、既にシンジには残っていなかった。
いや、今日レイと出かけた時点で、既に命運は決していたのかも知れない。
「じゃ、上向いて」
「は、はい…」
さすがにこれは、レイもうっすらと顔を赤くしているが、すぐに仰向けになった。
一糸まとわぬ美少女の裸体、しかもそれを洗うとなれば欣喜の状況かもしれない。
普通ならば。
きれいなラインを描く鎖骨から、すこし急激に流れる脇腹の線。
すっと盛り上がった乳房は、大きさは少女の物だが、ちょうど手のひらに収まりそうな感じでそこに鎮座している。
その先でひそやかに息づく果実は、朱色をわずかにちりばめたような色合いで、淫らさはないものの、見る者を惹き付ける何かを確実に持っていた。
なだらかな丘陵の下、まだ茂みと言うには遠いが、わずかに繊毛が生えだしている。
普段はそよいでいるであろう、髪と同じ色のそれが、たっぷりと水気を帯びてはりついている様は、一層淫靡さを誘う。
「じゃ、行くよ」
レイが小さく頷いたのを見てから、シンジは腕にブラシを当てた。力加減を間違えると、明日レイの肌に赤い跡が残る事になりかねない。
丁寧に洗っていくと、胸のすぐ下に至るまでに、レイは三度小さく身をよじった。
腕の付け根で一度。
鎖骨の所で一度。
そして、胸の所で一度。
「少し脚開いて」
シンジの言葉に、レイは素直に従った。
真っ白な内股に及んだ時、
「は、はあうっ」
顔を紅潮させたレイに、
「今度喘いだら止めるよ」
冷たく脅すと、
「ご、ごめんなさい」
ぎゅうっと唇を噛んで堪えているが、息が幾分荒くなっているお陰で、逆に妖しい雰囲気が高くなっている。
ただし、それが触れている部位だからなのかは分からない。
そして十分後。
ふーう、と座り込んだシンジがそこにいた。
そして、顔どころか全身を赤く染めたレイが。
力加減のせいでないのは、触れていない顔と洗われた全身が同じ色なのを見れば、一目瞭然である。
「あ、ありがとう…」
少しうわずった声で、レイがシンジに言ったのへ、
「いえ、どういたしまして」
こっちはもう、半分死人のような声で答えた。
それを、自分で洗えない程と見たのか、
「あ、あの今度は私が洗…」
言いかけたのが途中で止まる。
シンジの視線が、絶対拒否を示していたのだ。
「いいから、君は先に上がって」
異論を許さぬシンジの言葉に、
「は、はい」
期待はずれだったか、ちょっと俯き気味に出ていった。
全身を染めた色はまだ落ちていない。
レイが出ていった後、シンジはシャンプーに手を伸ばした。
取りあえず頭から洗おうとして−その手が硬直した。
触れた手は、ぬめるような感触のそれを伝えて来たのである。
生まれて初めて、コンディショナーと間違えたらしい。
「僕の常識が…」
と呟いてから、頭を引っかき回した。
洗い直すまで二十分ほどかかり、やっと出たシンジは冷蔵庫を開けた。冷えた白ワインを取り出すと、栓を開けて一気に傾けた。
半分くらい一気に開けてからレイの部屋へ行くと、下着姿のままベッドの上に座っていた。
「髪はちゃんと拭いた?」
「はい、大丈夫」
頷いたが、
「あ、あのお兄ちゃん…」
小さな声でシンジを呼んだ。
「何?」
「さ、さっきはごめんなさい」
レイを洗ったせいで、シンジが不機嫌になったと思ったらしい。
いいよ、とシンジは首を振って、
「慣れていないから、少し疲れただけさ。それよりレイちゃん」
「はい?」
「冷えても困るから、下着の上にパジャマはちゃんと着ること。いいね」
今まで風邪を引かずに済んだのが不思議だが、レイは素直に頷いた。
もぞもぞとパジャマに手を通し、ボタンをはめていく。
子供番組を見ているような気がしたが、それは勿論口にしない。
「おやすみなさい」
軽く頷いて見せると、安心したのか一分と経たない内に、すやすやと寝息を立て始めた。
今日は、さすがに手を繋いでとは言わなかった。
幸せそうな顔を眺めていたシンジが、差し込む月光に気が付いた。
窓辺に立ったシンジの全身を、月が静かに照らし出す。
ふと、シンジの唇が動いた。
「風呂は身体と命を洗濯する所。そして混浴する所…違う」
はまった我が身を思ったか、ふうとため息をついたが、思い出したように携帯を手に取った。
ダイヤルすると、一度で出た。
「アオイです」
柔らかで包み込むような声に変わりはない。
だがこちらは。
「あ、僕だ」
シンジがそう言った瞬間、
「お疲れみたいね、シンジ」
開口一番、そうアオイに言わしめる物を含んでいたらしい。
「お買い物と訓練してたのさ」
「買い物で疲れるの?」
「レイちゃんと行った」
「そう」
それだけで、アオイには分かったらしい。
「ところでユリさんは、もうそっちに着いた?」
「午前中には着いたわ。あなたに依頼された物を作るんだって、地下の部屋にこもっているわ」
「じゃ、安心だな」
しばらく話していたが、
「じゃ、今日はゆっくり休んだほうがいいわ」
「そうだね」
瓶に残った最後のワインを口に入れ、じゃあおやすみと切ろうとした瞬間、
「レイちゃんはちゃんとお風呂に入れてあげた?」
とっさに歯を食いしばり、ワインを吐き出すのを寸前で抑えた。
数秒で立ち直って、
「分かった?」
「シンジの事なら大抵は判るわ。シンジも、でしょう?」
当然と言った感じのアオイの言葉であった。
「可愛がってあげてね。初めての妹なんだから」
「ん、わかってる」
「それとシンジ」
アオイの声が改まった。
「何?」
「綾波レイは綾波レイよ」
「その件なんだけど」
「何か見たの?」
「おかしな物が顔を出した気がしたよ」
数秒の沈黙が流れた。
「ユリに出来るだけ急いでもらうわ。早く戻るようにするから」
「そうしてくれる?僕一人では殺しかねない」
電話を切ったシンジの目は、ゆっくりと光を帯び始めていた。
(ユリが下着の色まで指定するとは思えない。それにあの時、間違いなく店内には他の人間がいた)
数分の間身じろぎもしなかったが、漸く動いたとき、
「出てくるなら…殺す」
冷ややかな声で断言した。
だが、レイの中の別人格に対する宣言だとしても、どうやって殺すと言うのか。
あるいは、レイの身体もろとも始末する気なのか。
だが鬼気が室内に漂った数十秒後、
「過去の亡霊は断ち切らなきゃね」
と、呟いた時は既に普段のシンジに戻っていた。
シンジが自分の部屋へ戻った時、不意に睡魔が大挙して襲ってきた。
羽を生やしたそれは、誰かに似ていた。
不眠訓練は積んでいるものの今日の精神的疲労は、飛び回る睡魔達がシンジを容易く虜にするのには、十分であった。
ゆっくりとダブルベッドの上に横になり、第六感だけは残したまま、眠りについた。
家の中に、二人分の寝息が聞こえだしたのは間もなくであった。