第九話
 
 
 
 
 
 ユリのR32GT−Rが、ハイパワーを余す所無く発揮し、時速250キロ強で日本の中央を走る大動脈を走破してから一時間後、長門病院では院長と副院長である長門夫妻は不在で、各医局毎の部長達が、ずらりと列を作って令嬢の帰りを出迎えた。
 降りしきる雨の中での待機であったが、車を降りた時ユリが見せた珍しい微笑に、十分すぎる程報われた事を感じ、あと数時間待っていてもいいとすら感じた。
 ユリが遠方から帰宅する時に出迎えるのは習慣であったが、普段は一瞥すらしない。
 まして微笑む事など珍事に近い。
 上京する時、自らが選抜した医療チームに後事を任せてから発っている。
 直立不動で敬礼し、仔細の報告をしようとするのを、視線一つで止めた。
 最上階にあり、滅多にというより殆ど誰も近づかない私室へ入った時、シンジと同じ長さ、同じ艶の黒髪を持つ人物が、ユリの椅子に座っていた。
「お帰り、ユリ」
 笑顔を見せたアオイの表情は、シンジとの会話が特効薬になった事からだと、ユリは見た。
 昨夜アオイに電話したとき、シンジが傍にいないアオイの声は、暗さを隠し切れていなかったのである。
 既に、用件は伝えてある。
 ハンドバックの中から、小さな透明のビニール袋をとりだした。
 先はマジック式のチャックで密封してある。
 受け取ったアオイが中からピンセットで取り出したのは、数本の頭髪であった。
 光にかざせば確実に蒼く光るそれを、顕微鏡に乗せて観察した二人は数分後、顔を見合わせた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 レイを中心に発生した冷気にも、シンジは別に動じた様子はない。
 シンジの一瞬洩らした声は、レイの耳に他の女性の名前が届いた、と言う事では無かったのだ。
 アオイはシンジと比べて数段、裏の世界に名前を轟かせている。
 シンジの射撃とそれが繋がると、少々厄介だと考えたのだ。
 いずれ分かるにせよ、現時点ではまだ面倒である。
 取りあえず、そっちの危険は無いらしい。
 モニター越しに見ると、とある地点から発生した強力な冷気に温度は氷点下まで下がり、後ろを振り向いた為に塩の柱となった女性の如く、数人が氷柱となって、硬直しているのが見えた。
「アオイちゃん…その人は…・誰?」
 低い声は無論レイの物だが、それはつい先日まで聞き慣れた、無機質な声ではなかった。
 だがシンジの、
「なに?」
 どう訊いても後ろめたさなど、微塵も感じられない声で聞き返されて、レイの気がふっと緩んだ。
「あ、あの…今お兄ちゃんがアオイちゃんって言った人…・」
「僕の」
「ぼ、僕の?」
 この時点で、別にレイに嫉妬の自覚はない。
 もっとも、『自覚』が無いだけで、当初シンジに向けていたのと同じそれが、未だ見ぬアオイに向けられている、と言うだけの事である。
 ただ、『嫉妬』というよりは『焼き餅』に近いかもしれない。
 急速に感情に目覚めた副作用である。
 ただしここでシンジが、
「僕に色々教えてくれた先生だよ」
 とでも言えば、レイも納得した筈だ。
 ところが「僕の」までは言ったシンジが、そこで黙したのである。
(アオイは僕の何だ?)
 自問しているのはシンジであった。
 確かについ最近まで入浴も一緒で、睡眠も一緒であった。お互いの危機に死を賭した事も一度や二度ではない。
 相手の身体なら、何処に黒子があるか、まで知っている。
 ところがだ。
 恋人かと言うと違う気がするのだ。
 互いに命を賭けられる程の相手だが、好きとか言った事も言われた事も無い。
 寝床は一緒でも、身体を重ねた事はない。
 幾つか極秘事項に当たる項目はあるとしても、だ。
(うーん)
 シンジが考え込んで二十秒後、
「お兄ちゃん…・」
 不安そうなレイの声がシンジを引き戻した。
 取りあえず、
「幼なじみ兼身代わり、かな」
「幼なじみとは何?」
「小さい頃から一緒だった人の事」
「その人は…・」
「その人は?」
 それを聞いていたミサト、ふとその口元を笑いに彩った。
(こないだまで人形みたいだったレイがこんなになるなんてね。それにしてもアオイとかいう娘とシンジ君を挟んで三角関係?面白くなりそうね)
 恐ろしい物、と言うのは幾つもあるが、やはり一番怖いのは無知であろう。
 シンジがこれを知ったら、その瞬間ミサトの生涯は終わる
 銃を持たぬ相手には銃を向けない、それはシンジの基本方針だが、ミサトはちゃんと小型拳銃を持っている。
 もっともシンジなら、そんな安楽死のような死に方は選ぶまい。
 紋様を彫り込まれた銀製のナイフは、特殊鋼板さえも切り裂いてのける。
 それをミサトの肢体に向けた時、どんな絵図が展開するだろうか。
 丹念にばらして行くか。
 或いは、ユリの役にも立たぬ程の肉塊に切り刻んでいくのか。
 そんな事は知らずミサトは一人、冷気にもめげず怪気炎をあげていたが、
「お兄ちゃんの妹?」
 レイが訊ねた時、口にこそしなかったが、
「何でそうなるんだ?」
 と胸中で呟いたのは一人や二人では無かった。
「違うよ」
 あっさりとした否定だが、それ以上確認するほど、レイは浮き世慣れしていない。
 何よりも、分身と告げた意味を確認しなかったのは、大いなる失敗であったろう。
 とまれ、
「良かった…」
 安堵した声に、やっと気温も常温に復した。
 安堵したのは周囲も同様である。
 ただし、疑問は残った。
 初めての使徒撃退も見事にこなし、とても十四歳には見えないこの少年が、ついその名を呼ぶ程の女性とは一体誰なのかと。
 その後三十分間訓練をこなし、シンジは上がった。
 レイと初号機のシンクロに関しては、
「エヴァとパイロットは組み合わせが決まってるって、ユリさんに訊いてるよ。それに相性が悪いと、拒絶反応起こすんじゃない?最初の時みたいに」
という言葉で、中止とされた。
 無論それだけではなく、シンジがあっさりとシンクロした初号機に、実はレイは一度もシンクロしていない。
 シンジが見た初号機の出撃、あの時は文字通りのぶっつけだったのだ。
 シンクロ率、あるいはハーモニクス値を上げるのは、ある程度訓練の賜物による部分がしめているが、その根本的な部分は違う。
 すなわち、シンクロ出来るかどうかという、根本的な部分は。
 値はともかく、まずシンクロする事が第一条件だが、綾波レイと言う操縦者用に作った零号機、これにすらレイは七ヶ月かかっている。
 まして、初号機に成功するかなど、かなり乱暴な賭と判断されたのだ。
 が、レイは一応シンクロはして見せた。
 ただし、数字は起動数値ぎりぎりで。
 暴走して壁を殴るならともかく、実践で使徒相手に出来る数字ではない。
 あっさりと敗退したのも、むしろ当然であったろう。
 もしも数十秒も遅かったなら、シンジがシンクロしても使えない程の損傷になっていた筈だ。
 シンジが高数値を出して見せた、と言うことに加え、シンジの意志を優先されたのである。
 何しろシンジを唯一制御できるかに見え、あのレイをいとも簡単に普通の女の子にしてのけたユリは、実家で何かの薬を作るとかで三日間いない。
 シンジの危険なキスに中毒ったせいもあり、かなり濃密な時間を過ごした二人は疲れ果てていた。
 肋のせいで、単純な正常位しか取れず、しかもリツコがずっと支えていたのである。
 のしかかる方も、かかられた方も疲れるのは当然と言えた。
 それを見計らったかのようなユリの電話は、
「綾波レイに生理はないとか」
 いつものリツコなら、交わそうとするか隠蔽に出るところだが、躰に残る愛撫の余韻からリツコはあっさりと、
「ええ、そうです…」
 普段からは想像も付かないような鼻にかかった声で暴露したのだ。
 しかしリツコ本人は、ユリから電話があったのは憶えているが、内容は全く憶えていなかった。
 既に隣で寝息を立てていたゲンドウも、無論知らない。
 リツコがシンジの意志をすんなり通したのには、彼女なりの事情がある。
 シンジの、危険な迄の力量が大体分かってきた以上、そしてシンジをいつの間にかお兄ちゃんとまで呼んでいるレイと、彼らがタッグなど組んでは厄介だと踏んだのだ。
 シンジの射撃記録を見ながら、ミサトがリツコに話しかけた。
「ねえ、リツコ。彼の事何か知ってるんでしょう、教えてよ」
「訊いてどうするの?」
 冷たい反応はいつもの事だが、たんにあしらっただけではなかった。
 シンジは自分に、自分とゲンドウの関係は気にしていないような事を言った。
 本気ではないかもしれないが、「未来のお義母さん」と呼ばれたのは、単なる揶揄ではなかったのではないかと、リツコは思っている。
 エヴァの内幕を知るリツコにとって、アサシンなどさほど気にもならない。
 その手が深紅に染まっていようとも。
 もっとも、シンジの事を暗殺者(アサシン)の家にいた、とは知っていてもその手になる事を知っているわけではない。
 要するに、おおざっぱにしか知らないのだ。
 ただし、リツコにしてみれば、そんなに重要な事ではあるまい。
 シンジがここに来たのは、エヴァのパイロットとしてなのだから。
 何よりも、知らない方がいいことも多いのだ。
 とまれ、リツコほどダークな面に触れていないミサトに、シンジの素性を話せば、何か余計な事を言う可能性がある。
 ミサトが、羅刹のシンジに会った事をリツコは知らない。
 現時点では友人の単なる好奇心を満たすより、シンジとの関係を維持できる方を選んだ。 沈黙の壁を張った友人に、ミサトは好奇心を満たすのを諦めた。
 シャワーを浴びた後、髪を完全に乾かしてからシンジが出てくるまでに、三十分ほどかかった。
 レイも付いていったのだが、シャワー室へ自然に入ろうとする寸前で、シンジに待機を命じられた。
 何処か暗い表情で制御室に来たレイに、声を掛ける者はいなかった。
 先程の大寒波を思い出したからだ。
 シンジが戻ってきて、顔がぱっと明るくなったのを見て、リツコさえも内心で安堵の息をついた。
「待った?」
 相変わらず、マイペースな声で訊いたシンジに、レイはふるふると首を振った。
「ううん」
 こんな芸も覚えたらしい。
 もっとも今来たところ、と言う台詞が無いと、どうでもいいと言う意味にも取れる微妙な言葉なのだが。
 万事において、のんびりした感じのシンジは気にしなかった。
 だが、ここにユリがいたら疑惑の目を向けた筈だ。
 確かにレイは、ユリとシンジのお呪い(おまじない)で女の子らしくはなった。
 だからといって、一気に人並みの生活ができるわけでも、普通に暮らしてきた同年齢の娘と同じ発想ができるわけでもない。
 この場合、レイの基準では正直に、ずっと待っていたと告げる筈なのだ。
 それが何故、幾多の恋遍歴を重ねた女にも近い反応ができたのか。
 シンジは結局気にする事はなく、ちらりと司令席のゲンドウと、その傍で手を後ろに組んだまま控えている冬月に視線を向けた。
 僅かにゲンドウが頷いたかに見えたのを背に、レイを伴って出て行きかけたシンジ。
「あら、二人とも何処行くの?」
「服の買い占め」
「え?」
「レイちゃんの服が無いから、買いに行く。総司令の許可も貰ってある事だし」
「リツコ、いいの?午後からは初号機で、レイの機体交換実験も兼ねたシンクロテストやるって」
「物事には例外が付き物よ」
 リツコの返答が少し粗雑になったのは、最低限の物しか与えていなかった、と言う負い目もあっての事だったかも知れない。
 が、ミサトはそんな事は分からない。
 かちんと来たのか、
「万事を数字で図る、冷静な科学者の言葉とは思えないわね」
 同じような口調で言い返した。
 こうなると、言葉の売買になり、
「あら、それは賞賛の言葉かしら」
「そう聞こえた?ドクターに頭の中を診て貰ったら?」
 なにやら険悪になりかけた二人を余所に、シンジとレイは出ていった。
 出ていく間際にシンジが振り返り、
「ビデオに撮ったら、高く売れるだろうね」
 その言葉に、一瞬辺りを見回した二人。
 単に恥じ入ったと言うよりも、シンジが既に仕掛けてあるような気がしたのだ。
 二人とも、シンジに何か底知れない物を感じている証であった。
 自分たちの行為に二重の意味で気付き、互いに顔を見合わせて僅かに苦笑したのは数秒後の事であった。
 徒歩は車に比べ、身を守る物が無い上に一目散に逃げるにも、自分の足しかない。
 分厚い装甲板・防弾ガラス・ノーパンク仕様のタイヤまでが、装備してある車に比べると、危険からの防御率は格段に落ちる。
 あまり気乗りはしなかったが、県内の司法まで息がかかっていた信濃家のお膝元では無い、と言う事を考慮に入れ、歩いていくことにした。
「取りあえず、どこから行く?」
 レイ任せで訊ねたシンジだが、レイははっきりとシンジの耳に囁いた。
「服の基本は下着から」
 一瞬、顔に?マークを付けてから、
「ユリさんに教えられたか?」
 囁き返した姿はさぞかし、甘い恋人達の姿に見えたかも知れない。
 この時、シンジの脳裏にユリの告げた数字が甦った。
 それがレイのスリーサイズを指していると気付くまでの、一秒とかからなかった。
 “ウエストは四十センチ代か”
 ちらりとレイの腰に視線を向けた時、
「下着が十枚あったら、白は一枚だけにしなさいって」
「九枚は裸の王様って事?」
「裸の王様?分からない。ユリさんに言われたの。後は全部、黒と紫と赤にし…ん…むぐ…」
 この時のシンジは、純白の上下、中が薄いブルーのシルクシャツであった。
 意図的に耳を覆うようになっている長い髪と、その服装の組み合わせは必然的に人目を引く。
 幾ら薄いとは言え、今日は快晴である。スーツにも近い格好は半袖やノースリーブが圧倒的に多い中で、本人が汗など全くかいていない事もあり、かなり異彩に映る。
 ましてレイの髪は蒼く、瞳は真紅である。
 制服を着ているとは言え組み合わせ的には目立つ。
 幾人か注目しているのをとっくにシンジは気付いていた。
 その中で、普通の声をあげて、
「下着は黒か紫か赤…・」
と、きたのである。シンジが口を塞いだのも当然と言える。
 だが、この時レイは妙な感じに襲われていた。
 言葉や素振りが、自分の意志を離れているのだ。
 第一、今の言葉も自分の意志とは違う。
 ユリがレイに告げたのは、
「服は全てシンジのセンスに任せるといい。下着から普段着まですべて」
 と、これしか言っていない。
 それが何故色の指定を、それも際どい色の下着になったのか。
 考えた瞬間、又しても口は動いた。
「お兄ちゃん、私の下着なんか選ぶのは嫌よね…」
 疑問系にされれば間違いなくシンジは即、肯定したであろう。
 だが、甘えを全面に出した姿で、上目遣いに見上げられれば。
 治療の一環とはいえ、自らの濃厚な口づけが招いた成果と知っているシンジは、さすがに否定もできず、ランジェリーショップを見つけて、二人で入る事になった。
 シンジに言われて以降、レイは一度もシンジの右手を取ろうとしない。
 そのため、シンジは周囲の警戒だけに神経を注いでいた。
 ところで、シンジがこの類の店へ入るのは初めてではない。
 アオイと二人で出かけた時に、しょっちゅう付き合わされているのだ。
 しかも、まるで食品店へ行くかのように入り、ごく普通に、
「ね、シンジ。どれが似合う?」
 などと訊かれて、店内を一望しただけであれこれと選ぶのは、シンジの役目の一つである。
 と言うよりも、シンジの選択眼に絶対の信頼を置いているアオイなのだ。
 なにせ、胸が急成長を遂げたお陰で、普通の店ではまずサイズがない。
 ぶら下げているような胸ではないが、アンダーの部分が細いせいで、ブラジャーのカップは余計に大きくなるのだ。
 カップサイズが、単なるバストサイズで決まらない事の、いい迷惑である。
 以前アオイが、学校の行事で一泊だけした事がある。
 その時アオイは、シンジの指した物を身に着けていったのだが、それは級友達から羨望の眼差しを受けたのだ。
 入浴前の下着は可愛い、と言われその後に着けた下着を見たとき、級友達はその白い肢体を覆う、シルクの上下に声もなく見とれた。
 別に際どいものではなかったが、あまりにもぴったりとはまっていたらしい。
 そんな経緯もあり、実はアオイの下着は九割方シンジの見立てである。
 しかも、シンジがアオイのサイズを訊いたことはないのだ。
 更に、それがアオイに合わなかったことも。
 それに加えて、
「シンジの選択眼は私より遙かに上でしょう?」
 そう言われると、シンジも断りづらい部分がある。
 混浴状態だったシンジにとっては、アオイの肢体にどれを当てれば合うか、他の誰よりも想像は付くからだ。
 妙な事に、シンジがアオイに試着させたことは無い。
 そしてそれがアオイのサイズに合わなかったことも。
 シンジとレイが店に入った時、無表情な少年と嬉しそうに手を繋いで入ってくる少女の組み合わせは、店員の目にどう映ったのか、迎えた声に幾分不思議そうな感じが混ざっていた。
「シンプルイズザベスト」
 どこかで訊いたような事を呟くと、シンジは次々と選んでいった。
 嬉しそうでも照れている様子もない。
 ユリが告げた数字を、勝手にレイのサイズと判断して、白をベースに淡々と選んでいくシンジ。
 だが時折色の付いた物、それもレイが告げた通りの色物が混ざるのは、レイが色つきもこなせると判断したのだろうか。
 だが、シンジは知らない。
 シンジが三つ目の籠を一杯にしたとき、嬉しそうだったはずのレイの顔に、なぜか妖艶な、いや凄絶な表情が浮かんだ事を。
 それは明らかに、シンジに嫉妬心を向けていた時のレイでさえ、見せた事は無い物であった。
 しかも、こう呟いたのである。
「今日は、この辺にしておいてあげるわ」
 と。
 フリルの付いた黒いシルクのガーターベルトを、無造作に籠に放り込もうとして、ふと感じた気配にシンジが振り向くと、レイの顔は蒼白であった。
 おかしな事を呟いた瞬間、レイは自分が戻った事を感じた。
 だが同時に、足下が崩れるような脱力感に襲われたのである。
 一杯になっている籠を放り投げ、下着が散乱することは避けたシンジ。
 籠を床に置いて近寄った時、レイは崩れ落ちる寸前であった。
「シルクの匂い、駄目かな?」
 それはあるまいと思いつつ訊ねたシンジだが、その野生の嗅覚は間違いなくある物を捉えていた。
 そう、自分とレイと店員の三人しかいないはずの店内に、紛れもなく四人目の気配があった事を。
 大丈夫だからと立ち上がったレイは、幾分顔は青白かったが、言葉ははっきりしていた。どうやら一瞬で済んだようだ。
 近寄って来ようとする店員を制して、会計を促す。
 サイズと色と形だけで選んだ結果は、三十万を軽く越えていた。
 値札を見なかった結果である。
 どうやらシンジは、レイの下着ケースを丸ごと入れ替える気らしい。
 が、レイの方はどこかぼうっとしているし、シンジもその金額を聞いても動じた様子はない。
 現金で払う事にしたシンジだが、ゲンドウのカードは使わないかもしれないな、とぼんやり考えていた。
 使う必要がない、と言うよりもそっちの方が楽なのだ。
 そう、色々と物騒な物も買ったりするシンジにとっては。
 分厚い財布−ネルフのIDは入っていない方−を取り出したシンジに女の店員は疑惑の目を隠さなかった。
 ただし、シンジに向けた視線をすぐに逸らしたのは、シンジの目と遭ったためだ。
「何か問題でも?」
 視線でそう訊いた少年の瞳に、吸い込まれそうになり、本能的に視線を逸らしたのである。何故か、顔は血の気が引いていた。
 宅配の手配を済ませた二人が出ていった後、彼女は全身から冷や汗が吹き出しているのを感じた。
 店を出た時、既にレイは普通の状態に戻っていたが、自分が自分で無くなった事はシンジには告げなかった。
 告げれば、本部へ行って検査だとか、言われるかも知れない。
 折角二人で出かけた時間を、無為にはしたくなかった。
 シンジが腕時計に目をやったとき、時計の針は午後一時前を指していた。
「レイちゃん、お腹空かない?」
 シンジが訊いたときレイは、
「そろそろ薬を飲む時間…」
 言いかけたが、シンジの視線にあって口ごもった。
「変な薬なんかで栄養補給するのは禁止。いいね?」
 はい、と素直に頷いたレイは、
「何か食べに行こうか?」
 と、訊かれて少し、考え込んだ。
 僅かに前髪が彼女の顔を隠したとき、レイが浮かべた表情は、普段の彼女からは想像も付かない物であった。
 何かを思いついたのか、或いは思い出したのか、顔を上げたレイは、
「お肉のある所」
 と、はっきりと告げたのである。
「お肉?」
 嫌いと言っていたはずだが、それを口にはしなかった。
 レイが、明確な意志を見せて頷いたから。
 辺りを見回したシンジの目に、ホテルらしき建物が映った。
 徒歩で数キロの距離にありそうなそれを、シンジは選んだ。
 歩き出してから、
「あれホテルだと思うんだけど、あそこで良い?」 
 先に訊かなかったのは、ついアオイを基準にして考えたからだ。
 二人で出歩くとき、大抵いつも腕を組んで歩く。
 両方とも右利きであり、当然どちらかが利き腕を殺す事になるが、彼らにとってはお互いがアンテナであり、何の心配もしていない。
 そのアオイと二人で出かけると、
「何か食べたい」
「適当でいい?」
「ん」
 これだけでいつも決め、互いの決めた内容に不満を言ったがない。
 そんな事は知りもしないレイは、あっさりと頷いた。
 着いた先は十階建てのホテルで、「第三新東京プリンセス」とあった。
 普通はプリンスじゃないの、そう思ったシンジだが細かい事は詮索しない事にした。
 何故か地上八階に、和洋中に分かれたレストランがあった。
 洋食のレストランへ入った二人をウェイトレスが出迎える。
 一流ではないにしろ、中の上あたりには属していそうなホテルである。
(あれ?)
 シンジが首を捻ったのも当然で、厨房はともかく接客にはウェイトレスの姿しか無かったのである。
「ここはアマゾネスの国だったかな」
 すべての男を敵と見なす、根性が螺旋階段と化したオールドミスの女性店長でもいるのかと、一瞬危惧したのだが、にこやかに近づいて来たのは、二十代前半の若い女性であった。
 少し変わったスーツ姿に近いシンジと、制服姿のレイの取り合わせはどことなく違和感があるが、ウェイトレスは表情を変える事無く、席へ案内した。
 テーブルに着くと、シンジはレイの椅子を引いてどうぞ、と言った。
 意味が解らなかったレイは、頷くと当然の様に座った。
 何処か、女王とその僕に見えない事もない。
 本来ウェイターの役目なのだが、何故かそのウェイトレスはちらりとシンジを見た。
「レディーに椅子を引くのは連れの役目よ」
 なんとなく、そう言われたような気がしたのだ。
 もっとも、レイに取ってはどっちでも変わらなかったようだが。
 厚い皮革の、如何にも此処は伝統と格式がありますと、宣伝しているようなメニューに手を伸ばしたシンジの動きが一瞬止まった。
 向かいでメニューを一心に覗き込んでいるレイを見て、携帯に手を伸ばした。
「私だ、どうした」
 ゲンドウへの直通だったらしい。
「黒い服のおじさん達がいるんだけど、消しちゃっていいのかな?」
 晴れ渡った空の下、第三新東京市の景色を眺めながらの言葉である。
「シンジに黒服は付けていない筈だが」
「判った」
 一瞬、もしやと思ったゲンドウが、
「ちょっと待…」
 言いかけた時には、既に電話は切られている。
 シンジにこちらから掛ける代わりに、ある部署へ直通で掛けた。
 そこで、ゲンドウの怒声が飛んだのは間もなくである。
(食前か、食後。どっちがいいかな)
 シンジの目はランジェリーショップを出た所から、数人の男達の気配が付きまとっているのに気が付いていた。
 現時点において付きまとわれる覚えはなく、ボディガードは辞退してある以上ゲンドウが付ける可能性は無い。
 尾行の仕方から見て、初心者あるいはそれに毛が生えた位のそれであったから、そのうち撒けるかなと思ったが、此処まで付いてきた。
 軽い運動代わりに始末する事にする。
 最高司令が知らないと言った以上、他の誰かの余計な差し金としても、それはシンジの知った所ではない。
 足首と腰の友人達に、出撃の可否を訊ねた。
 即座に返ってきた、『出撃準備良し』の声にゆっくりと立ち上がる。
 が、レイが気付いた。
 メニューから顔を上げて、
「お兄ちゃん、何処へ行くの?」
 普通は訊く科白ではないが、レイには判らない。
 どうやって始末しようかと、食事を前にしながら考えていた物だからつい、
「ちょっと、始末してくる」
「え?」
 聞き返された瞬間に、
(だから、あの二人以外は駄目なんだ)
 と、自分のミスも忘れて内心でぼやくシンジ。
 相手がレイだと言うことに気付き、
「いや、お手洗いって思ったんだけど…気が変わった。レイちゃんの方はもう決まった?」
「うーん…」
 何やら考え込んでいるのは、苦しい言い訳よりも、更に気になる事項があったらしい。
「あのね、お兄ちゃん」
「なに?」
「一番、食べさせやすいのはどれ?」
 一瞬度肝を抜かれたシンジ。
「お兄ちゃんの選んだ物でいい」
 とか言われれば、自主選択を促すか、あるいは適当に決めていたであろうが、まさか『食べさせやすい物』と訊かれては、一瞬返答に窮するというものである。
 レイの脳裏に浮かんでいた光景を覗くまでもないが、シンジにそこまでは解らない。
 いや、これで分かったらさすがに不気味である。
「あの、レイちゃん」
「なあに?」
「だれが誰に食べさせるの?」
 軽く握られた拳の人差し指が、すっと上がった。
 ゆっくりとシンジを指す。ついで、方位磁針の針が、磁石で反対側を向かせられるが如く、自らを指した。
「あの藪医者」
 内心で呟いた瞬間、ある病院の地下三階にある研究室で、小さなくしゃみが起きた。
 風邪なの?と訊ねた親友に、
「きっとシンジが、私の悪口でも言いふらしているのね」
 一瞬だけ上げた顔を、またすぐ顕微鏡に戻した。
 取りあえず暴言を吐いたが、ユリが唆したなら止むを得まいとシンジは諦めた。
 何でもかんでも自分任せにされるよりは、幾分ましな質問だと考えたのである。
 一応訊いた。
「ユリさんに言われたの?」
 まさかその首が横に振られ、僅かな間に二度、シンジが驚かされる事になるとは。
(ん?)
 ふとシンジの脳裏に、如何にも波紋を立てたり、何やら引き起こすのが好きそうに見える、ある女性の顔が浮かんだ。
(この際だから片づけるか)
 物騒な事を考えたシンジが、一応確認を取ろうとした時、
「碇司令」
 思わぬレイの言葉に、はん?と訊いた。
「さっきお兄ちゃんが来なくて食堂に探しに行った時、赤木博士が碇司令に食べさせてあげていたの。昨日、脇腹を痛めたから、食べるのを手伝っているって言ってた。でも脇腹と手を使う食事は関係ない筈と思って、碇司令に美味しいですかって訊いたら、美味しいって言ったの。だから、食べさせて貰うと美味しいんだって、私思った。私、お肉嫌いだけど、お兄ちゃんに食べさせてもらったら、食べられるかなって思って」
 それを聞いて、さすがのシンジも一瞬宙を見上げた。
 誰かの扇動なら制裁物だが、まさか自分の父親が愛人とそんな事をしているとは。
 頬を染めているのは、明らかに期待から来ているに違いない。
 ただし、それを表情に出す事はなく、頬を赤らめているレイの表情を見て、何か言う前に再度携帯を手にした。
「私だ。あ、シンジ、さっきの件は…」
 言いかけるのを訊かず、
「いい年して何やってる。この変態中年」
 さっさと切った。
 一瞬呆然として、言葉を把握した数秒後に怒りを顔に昇らせ、だが何となく思い当たる節が無いでもないと、数十秒後に抑えたのは、特務機関の総司令である。
 誰もが願うに違いない。
 一度でいいから、うちの最高司令にそんな事を言ってみたいものだ、と。
 取りあえず、鬱憤晴らしを済ませたシンジは、目下の問題に向き合うことにした。
「食べさせて貰っても不味いものは不味い。第一、あんな変態カップルの真似はしちゃ駄目」
 毅然とした言葉は、期待に頬を染めるレイの表情の前に、あえなく崩れ去った。
(なぶり殺し決定だ。撒き餌に使えるミンチに変えてくれる)
 矛先となるべき獲物達に目を向けたが、既に退散した後であった。
 人権擁護を掲げながら、幼児売春と麻薬の密売で私腹を肥やす、とある国の首相邸を襲撃した際、ボディガードの壁にシンジも銃弾を浴びた。
 その全身を三発の貫通銃創が襲い、擦過銃創は十カ所を越え、文字通り満身創痍になってシンジ。
 その時でさえ、シンジの脳裏に退却の二文字はなかった。
 無論その時は、アオイへの絶対信頼があった事もあり、今とは全然状況が違う。
 がしかし。
 『三十六計逃げるに如かず』
 この言葉が、現在シンジの脳裏をかすめている最中だ。 
 シンジが受けた貫通銃創の傷の一つは、ユリの手を持ってしても、今なお大腿部に一センチの線状となって残っている。
 正確には、シンジが自ら残したと言うのが実状だが。
 いくらドクターユリとは言え、治癒を望まぬ患者を癒す事は出来ないのだ。
 “逃げちゃ駄目だ”
 内心で呟いてから、本人が驚いた。
「マインドコントロールには良い言葉だな」
 レイの偏食を直すという大義名分で、自らを呪縛する。
「サイコロステーキは?」
「サイコロすてき?…それなあに」
「肉を出刃包丁で自棄切りして、血が滴る位に軽く焼いたのをステーキと言うのさ」
 自棄になっているのは、シンジのようにも見えるのだが。
「サイコロとは小さな四角形の物で、壱から六までの数字が彫ってある物、でしょ」
「そうとも言う。最初から切ってあるステーキの事だよ」
「お兄ちゃんといっしょ?」
 ふと、考え込んだ。
 食べさせてくれるなら、口にできそうだ、と言うことは現在のレイに取って、肉は決して美味ではあるまい。
 自分も同じ物を選ばないと、レイが克服出来ないかとも考えたが、これはシンジの深読みである。
 それは単に、シンジと一緒の物がいいという、レイの甘えに過ぎない。
 第一レイがそんな科白を口にするかなど、瞬時で判りそうな物なのだが。
 だが既に幾分脳の出力がダウンしているシンジは、前者と考えた。
「そう、僕と同じ」
「それにする」
(僕のことを知りきらないのに、僕に依存するのは危険だよ)
 内心で呟いたシンジの横顔は、何処か冷たく見えた。
 既にレイが離反する事を考えているのか。
 ちらりと向けたシンジの視線に、ウェイトレスがすぐに来た。
 一礼して注文を訊いた彼女に、サイコロステーキを二人分注文した。
 加減はミディアムにする。
 いくらシンジでも、最初から血の滴る物をレイに食べさせようとは思わない。
「あ、それからワインを」
 言いかけて止めた。
 別に時間が昼間だから、と言う発想はシンジには無い。
 最近の物しか無いのに気が付いたのだ。
 鳥龍茶の二人分と食後のストロベリーアイスの注文を受けてから、下がっていった。
 はっきりした声で再確認するのと、一礼してから下がるのは忘れない。
(教育はできてる)
 よくアオイとユリと三人で行っていた、帝国ホテルを思い出した。
 ふと視線を感じて前を見ると、レイがじっと見ていた。
「どうしたの、お兄ちゃん」
「え?」
「今何か考えていたでしょう。何を考えていたの?」
(感応能力者(テレパス)だなんて、訊いてないぞ)
 妙に鋭いレイの観察力であった。
 詳細は判らない。
 ただ、シンジの心が束の間ながら、何処かに飛んだのを察したのだ。
「ユリさんの事」
 一番無難な話題を選んだ。
「ユリさん?」
「君用の薬、上手く作れるかな、と思って」
「私の薬?」
「帰ってきたら分かるよ」
 シンジの口調に話題の打ち切りを感じた時、タイミング良くナイフとフォークが運ばれてきたため、レイはそれ以上の言及はしなかった。
「お兄ちゃん、この後は何処へ行くの?」
「この辺は大きなデパートはある?」
「行ったことが無いから…・」
 少し、俯き気味になったレイを見て、少し眉を上げたシンジ。
 取りあえず、リツコにでも訊いてみる事にした。
 何故か、ミサトに訊こうとは思わなかった。
 辺りを見て、他の客がいないのを確認してから、そっと携帯のボタンを押す。
 二回でリツコが出た。
「シンジです」
「あらシンジ君、どうしたの?」
「レイちゃんのメインの服を買いに行くんだけど」
「え?」
「デパートの位置さえ、知らないそうです」
「……私のミスね、ごめんなさい」
 横でマヤが目を丸くしている。
 “どうしていきなり先輩がシンジ君に謝るの?可哀相な先輩、きっとシンジ君に脅されているのね。私が救ってあげなくちゃ”
 なにやら張り切っているが、シンジを敵と見なす方向には行かなかったらしい。
 三人目の敵を作る羽目にはならずに済んだようだ。
 場所を訊いてから最後に、
「お年頃でデパートのデの字も知らない娘って、珍しいと思いません?」
 皮肉そのままで告げると、そのまま切った。
 シンジの言葉に、マヤに呼ばれるまでリツコは立ち尽くしていた。
 電話を切ると、レイの視線に気が付いた。
「どうしたの?」
「あの…お兄ちゃん、私…」
「ん?」
「あの赤木博士と碇司令には……」
「レイ」
 何処か冷たい声に、一瞬レイの身体が固くなる。
 少し和らげて、
「アオイが来ていれば、今頃あの二人は棺桶に片足突っ込んでいるよ」
 当初は患者でなかったからユリはさほど咎めなかったのだ、とは言わなかった。
 ユリの治療中にこちらに来て、そんな目に遭っていたとしたら。
 シンジでさえ、考えたくない結末を迎えたのは明白である。
 ユリの鬼気。軽く首を振って、一度だけ見た事のあるそれを意識から追放した。
「一つ、憶えておいた方がいいね」
「何を?」
「あの二人が君から奪ってきた自由や、そして何よりも感情という、最も大きな物を奪ってきた事は、安直な謝罪ごときでは決して許されない。いいや、レイちゃんが望んだ訳ではなく、あの連中が自分の欲望の為にレイちゃんを作り出した事、そしてレイちゃんには何一つ罪がないことを考えれば、数倍に匹敵する痛みや苦しみが相応しいし、そうでなくてはならないよ」
 声に激情は無い。かといって、感情を押し殺した機械のような声でもない。
 もう一人の俺に、声の抑揚を持って行かれたかのような、ゆったりとした声だ。
 淡々と告げられて、レイは言葉を失った。
 だが、彼女は知らない。
 標的を前にして、
「遺言は?」
 と訊く時の、それと同じ声である事を。
「お兄ちゃん…」
「さ、出来たみたいだよ。僕が食べさせてあげる。特例だからね」
「うんっ」
 途端に、にっこりと笑ったレイ。二人の弁護は銀河の彼方へ飛翔したようだ。
 その様子を、食事を運んできたウェイトレスが、やや呆然と見ていた。
 それも無理はない。
 少年の電話が終わった瞬間から、沈んだような顔をしていた美少女を見て、さては公然と浮気の電話でもしたかと、同性としての義憤を感じた瞬間、思わず見とれるような満面の笑顔を見せたのだ。
「お待たせ致しました」
 行き届いた教育から来る感謝を、最大限言葉に載せてから、湯気の立っている皿をそれぞれの前に置いた。
 すべての食事と飲み物を、テーブルの上に載せて下がろうとしたがふと、
「お客様」
 と、声を掛けた。
「何?」
「差し出がましいかとは存じましたが」
「?」
「もしよろしければ、そちらのお客様の横に行かれてはいかがでしょう?」
 食べさせる云々の件を訊かれていたようだ。
 マナーなど吹っ飛んだ勧めだが、二人の会話を耳にして事情ありだと踏んだらしい。
 シンジの方も、アオイやユリが一緒ではないからうっすらと笑って、
「ありがとう」
 そう言うと席を立った。
 元々四人用の席に案内されたので、椅子ごと動く必要はない。
 食事はウェイトレスが動かした。
 一礼して下がっていこうとするのへ、レイが声を掛けた。
「あの…」
「何でしょうか?」
「あ、ありがとう」
 短い言葉はシンジの真似ではあったが、うら若きウェイトレスは返事代わりに、にっこりと微笑んで見せた。
 一方こちらは、
(私もお礼を言ったら、お兄ちゃんは褒めてくれるかしら?)
 それなりに、無邪気な発想での行動をとったレイ。
 ちらりとシンジを見る。
 読心術・読唇術、いずれもユリほどではないにせよ、それなりに長けているシンジに判らない筈はない。
 微笑して、軽く頷いて見せた。
 レイの膝の上にナプキンをかけた。
 されるままになっているレイの表情に、どこか恍惚が見られるのは気のせいか。
 肉の一片を、左手のフォークで突き刺し、右手のナイフに軽く乗せる。
 ふとレイの顔を見た。
 安らかな顔をしていた。
 しかも、目は閉じられて頬は僅かに染まり、口元は小さく開いている。
「もう少し口を開けて」
 シンジの言葉に、僅かだけ口が開いた。
 年頃の少年ならばその顔を見て、自らの唇を重ねたいと思わずにはいられまい。
 どことなく艶が感じられるのだが、如何にも汚れを知らない無垢な感じのそれは、ユリよりもアオイに近い。
 だが此処にいるのは、残念ながらそう言った物に食指を動かさない、数少ない例外であった。
(どこかで見たような気がする…)
 一秒で答えは出た。
「あの子だ」
 シンジの言っているのはアオイと公園を散策中に発見した、巣に置き去りにされていたオオワシの雛を指す。
 親は不慮の事故にでも遭ったものか、三日間帰って来なかった。
 木の上によじ登って保護した二人は、それを飼う事にしたのである。
 摺りつぶした鶏肉を、箸でつまんで与えた時の雛の顔と、今のレイの顔とが重なったのだ。
 そのワシは既に成鳥となり、現在は放し飼いになっている。
 信濃家の本宅がある敷地内だけでも、食料の自己調達には事欠かないのだ。
「あの子にあげてる気分だね」
 無言で呟いた時、シンジの顔はふっと緩んだ。
 湯気を立てている肉に、二度息をかけて冷ましてから、そっとレイの口に入れた。
 故意に視線は逸らしていたが、一瞬だけその様子を見たウェイトレスの頭をよぎったのは、何故か『恋人達之図』ではなく、『餌付け之図』だったという。
 噛んだ瞬間に顔をしかめなかったところを見ると、吐くしかないような肉を食べた経験から肉嫌いになった、と言う訳ではなさそうだ。
 玄米並に良く噛んでから、ゆっくりと嚥下した。
「どう?」
「おいしい…」
 だが、咀嚼している時、わずかに眉が上がっているのにシンジは気付いていた。
 次の一切れを刺して、口元に運ぶ。
 だが、レイは口にしようとはせずに、
「熱いみたい…」
 と言った。
「さっきと変わらないよ」
「ううん、お兄ちゃんが冷まして」
 一瞬宙を仰いでから、シンジはさっきと同じ手順を踏んだ。
 切り分けられた肉が全てレイの胃へと消えて行った時、シンジはぐったりと疲れているのを感じた。
(動物園の飼育係って、大変なんだな)
 ろくでもない事を内心で呟いてから、ナイフとフォークを揃えて置き、自らの食事にかかった。
 レイを優先した上、味わうかのように時間を掛けて食べたレイのおかげで、既に冷えかかっていた。
 冷えたサーロインなど、不味いだけだ。
 何か言いたそうに、自分を見ているレイには気が付いたが、シンジの一瞥がレイの発言を止めた。
 レイの顔を見た瞬間、シンジはその発言内容を読み切っていたのである。
 すなわち、
「お兄ちゃん、今度は私が」
 と。
 シンジがよくアオイとユリとの三人で行っていた、帝国ホテルのレストランは雑誌に載るほど有名であり、昼間は安価に食べられるランチ等で知られていたが、夜ともなれば著名人や財界の大物達も来るため、生半可なマナーの客は、退席を強いられた。
 しかも一度その処分を受けると、一年間は来店が禁止される羽目になる。
 スパルタではなかったが、そこでマナーを見物していたシンジに取って、赤子でもない連れに食べさせるというのは本来論外である。
 シンジのナイフとフォークが置かれて三分後、アイスクリームが運ばれてきた。
 僅かに漂う香りから、添加物を殆ど使っていない事に気が付いた。
 ふとレイが訊ねた。
 何でもないことのように。
「さっき言ってた、特例って何?」
「本日限りの特別事項、要するに一度だけ」
「食べさせてくれるのが、一度だけという事なのね」
「…何?」
 首筋の辺りに、ウェイトレスの視線を感じた。
 だがそれは、冷やかしや好奇心と言うより促しているような感じがした。
 城門を打ち破られて、彼方此方から火の手が挙がっているシンジの居城。
 ずらりと取り囲み、最後通牒を突きつけたのは綾波軍である。
 城の前で微笑しながら降伏を待っているのは、綾波レイその人だ。
 城に大きな白旗が翻った。
 シンジの心象風景を絵にすると、こんな感じになる。
 小さなスプーンに乗せられたストロベリーアイスが、無添加で作られた果物特有の香りを漂わせつつ、ゆっくりとレイの口に近づいた。
 アイスがレイの口に消えた瞬間、小さな口がぱくりと閉じられた。
 じっくりと味わってから飲み込むと、うっとりした顔で、
「とても美味しいわ…」
 と、どこか濡れたような声で言った。
 音に余韻がある。
 それを聞いたシンジが、ウェイトレスに視線を向けた。
 思い切り恨みを込めたつもりだったが、伝わらなかったのかにっこりと笑った。
 シンジの視線が緩んだ。
 包み込むような眼差しに、誰かを思いだしたのかもしれない。
 何となく、恥ずかしさが消えたような気がした。
 十分後、二人のナプキンがテーブルの上に置かれたのを見て、ウェイトレスが近づいてきた。
 シンジが渡した会計票には、シンジのサインがしてありクレジットカードが添えられている。
 出口で小銭を落としたりしながら支払うのは、シンジの趣味ではない。
 ウェイトレスに渡すとき、ふと訊いてみた。
「どうして女の子だけ?」
「当ホテルの名前はご存じですか?」
「オーナーの趣味?」
「お察しの通りです。此処と対を為す『プリンスホテル』には」
「あ、もういい」
 両ホテルのオーナーは、天から火が降り注いだ、かの中東にある都市の民の末裔に違いない。
 応募者は面接時に性癖を聞かれるのだ。
 そして無論『実技試験』もあるに違いない。
 どんな光景が浮かんだのか、ぶんぶんと頭を振った。
 髪が揺れて現れたピアスに、一瞬ウェイトレスが目を見張る。
 エメラルドブルーのそれを見て、羨望の眼差しを向けたウェイトレスに、
「美味でした」
 声を掛けてから立ち上がった。
 出口へ向かったシンジを、ウェイトレスが呼び止めた。
「何?」
「とても優しいお兄様ですわね。お連れの方、随分嬉しそうに見受けられましたわ」
 褒められた。
 だがしかし。
 シンジがそう見えた?と聞いたとき、
「はい、とても。ところで、先程お客様がご想像していらっしゃった事」
 読まれたかな、と一瞬考えたシンジに、
「お客様のご想像の通りですわ、きっと」
 妖しく笑ってから、
「またお越し下さいませ」
 絶対に嫌だ、そう言いたかったが口は勝手に動いた。
「また、来ます」
 ふとレイを待たせていたのに気が付いた。
 行こう、そう言って横に立った時、レイは何も言わずに手をぎゅっと握った。
 二人の会話が終わるのを待っていたらしい。
 何となく分かり易い性格になっている。
 ホテルの出口に差し掛かった時、気付いた。
「レイちゃん、こういう所で食事するのは初めて?」
 こくんと頷いた。
(初めてか。となると)
 一瞬躊躇ってから、
「あの、お手洗いは大丈夫?」
 ちょっと考えてから、
「行って来るわ」
 顔を赤らめたり、軽蔑の眼差しが無かったことにほっとした。
 もっとも、レイが普通の生活を送ってきていれば、シンジも最初から訊いていない。
 レイの白い脚が、どこか弾むように歩いていくのを、シンジは黙って見送った。
 
 
 
 
 
(続く)

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