第十一話
 
 
 
 
 
 一日シンジと歩いて力は使い果たしながらも、心は満たされていたレイが眠りについてから十五分後、不意にその目が開いた。
 ちょうど失神から覚めた時のように最初は小さく、続いてはっきりとその双眸が見開かれた。
 だがすぐに動こうとはしなかった。ゆっくりと首を廻して左右を見る。起きあがったのは数分後の事であった。
 しかしながらその顔は、綾波レイの持っている表情とは余りにも異なっていた。
 眉はつり上がり、目には邪気が満ち溢れている。
 昼食時に、シンジに食べさせて貰うべく小さく開いていた口は、耳の辺りまで裂けているかと思われた。
「綾波レイを操るつもりが、まさかこの私を解放するとはねえ。感謝するわ」
 そう言って、顔を背けたくなるような笑みを浮かべたその表情も、死者の呪詛のような声も、明らかにレイの物ではなかった。
 確かにレイのクローン元は碇ユイである。
 だが、この妖気の持ち主がゲンドウの固執する女性なのか。
 地獄の淵から戻ったような妖気を放ち、閻魔に永劫の責め苦を宣告された罪人達の如き声を紡ぐ者が。
 レイはゆっくりと床に降り立つと、一歩を踏み出し掛けたが止まった。
「廊下には監視カメラか。赤木リツコ、親子揃って姑息な真似をする。まあいいわ、いずれ私の元に帰ってきてもらうわよ、シンジ」
 再度横になると目を閉じた。
「今しばらくはシンジに甘えているがいい、綾波レイ。そう、暫しの間は」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 雀の声で目が覚めたレイは、全身がびっしょりと濡れているのに気付いた。
「汗…私、どうしたのかしら」
 全身を見てからふと、昨夜は夢を見なかった事に気が付いた。
「お兄ちゃんに逢えなかった…・」
 遠距離恋愛の二人が、年一度の逢瀬の時を逃したかのような口調でレイは呟いた。
 ベッドから降りて鏡台の前に立つ。
 出て行きかけてから、立ち止まった。その目は箪笥に注がれている。
 箪笥に収まってる下着は、シルクの割合がかなり多い。今までの物とは、値段が二桁近く違う。
 レイが選んだのは、自分の髪と同じ色の淡いブルーの上下であった。
 今までは自分で見ただけで終わりだったが、この日は違った。
 鏡台の前に立ったのである。
「女の子は着替えたら、必ず鏡台の前でふんぞり返る事」
 素直に受け取ったらしく、腰に両手を当てて立つと胸を反らした。
「似合うかしら?」
 姿勢からは想像もつかない科白の後、スリッパを履いてぱたぱたと出ていった。
 左隣、すなわち301号室の表示は『マスター』となっている。
 この家の主、という事になっているシンジの部屋だ。
 小さくノックした。返事がない。
「お兄ちゃん?」
 ノブを廻すとカギがかかっている。
 あちこち探し回ってから、ようやくシンジの主寝室は一階にある事を思い出し、着いたのは十分後の事であった。
 とうに起きていたシンジは、芦ノ湖を一周する湖畔道路を軽く流した後、朝食の材料を買い込んで帰ってから朝風呂に浸かり、今は武器の手入れ中であった。
 サブマシンガンを一つ分解し、組立を終えて安全装置を掛けたその時、ドアがノックされた。
 ちょっと待ってと、物騒なものは全てしまってからドアを開ける。
 下着姿のレイが立っていた。
「夕べはよく眠れ…」
 レイの表情を見て、大量の発汗があったことを見抜いたシンジは、僅かに内心で首を捻った。
 下着姿よりそっちが気になったらしい。
「昨日、嫌な夢でも見た?」
 否定が帰ってきた。
 昨日のランジェリーショップでの事を思い出したが、それを表情には出さなかった。
 一瞬考え込んだシンジにレイは、
「これ、着てみたの。それから鏡の前で威張ってみたの…あの…」
 やはりまだ、似合うかと自分から切り出す事は出来ないらしい。
 レイの口調にやっと気付いたように、その場で一周するよう告げた。
 極度に色が白いレイの肢体を、髪と同じ色をしたシルクのブラとショーツが包んでいる。ショーツにはリボンの替わりにフリルがついており、ブラジャーも同様であった。
 サイズ合わせもせずにぴたりと当てたシンジの目に、狂いはなかったらしい。
 下着の色と髪の色とが見事に溶け合い、控えめながらも絵を形成している。
 レイが身につけている、肩紐が無いタイプのブラジャーと少し小さめのショーツは、やや露出が高い服でも着られるようにと、選ばれた物である。
 カップの当て方、紐の僅かなずれ、後ろから見た時、ショーツの後ろが僅かに左右不対称になっているなど、シンジの基準で見れば難点は幾つもあったのだが、鏡の前で威張ってみたと言う科白に、
「合格、だね」
 と告げた。
 必要だから着ける物であった下着が、似合うと言って欲しい物へと、微妙に変化した一日目である。
 言葉を途中で切っただけで、改善点に関しては告げなかった。
 但し、『基準を甘くして言わなかった』のか、『出来は気にしていないから』言わなかったのかは、表情からは伺えなかった。
 もっとも、シンジが朝から幾分不機嫌の域にある事も関係している。
 一時は自分から嫌がった抱き枕だが、やはり無いと寝起きが悪いらしい。
 何よりも、第六感を常に作動させているのは、完全な熟睡を妨げる事にもなる。
 既にもう一台の車、ランサーエボリューションのZは到着している。
 トルクが42kgに達したシリーズ中、最高の車である。
 390馬力まで改造してあるそれを、慣らしがてら湖畔道路に出たのだが、高低差がある上にコーナーも随所にあり、それなりに楽しめた。
 だが、あまりご機嫌でないシンジがかっ飛ばしていると、かなり目立つ。
 スープラにGT−R、BMWまでが後ろから煽ってきた。
 スープラはコーナーでスペースを与えられず、ガードレールに突っ込まされたし、GT−Rは一旦はシンジを抜いたものの、三連続ヘアピンでぴたりと食いつかれ、腕の差を思い知らされた瞬間アンダーを誘発し、暴走した巨体は茂みの中へがさがさと入っていった。
 BMWはスープラと同じ運命を辿らされる所であったが、ドライバーが若い女性だったのを見て、GT−Rと同様一回前に出してから、コーナーで被されるように抜かれ、そのままちぎられるだけで済んだ。
 もっともそのドライバーは、ランサーの少年が窓から手を出し、親指を下に向けるのを見て、プライドは粉砕されたと証言している。
 好きに走れたせいか、機嫌計も幾分元に戻っている。
 ただし、現在の不機嫌度も親しい人間にしか分からない。
 ゲンドウでも無理であろう。
 褒められて嬉しそうな顔を見せたレイに、シンジは着替えて食堂に来るよう告げた。
 素直に頷いて部屋へ戻っていく後ろ姿を見送った。
「さて、今日から転入だな。怖い先輩とかいないといいけど」
 どことなくそれを期待している表情で言った後、着替えるべく衣装部屋に向かった。
 
 
 
 
 
 湖の傍にネルフ直属ではないが、第三新東京の中では一番規模の大きい病院がある。
 第三新東京中央病院は、ベッド数も二百を数えており、大抵の専門科は揃っている。
 その一室につい先日、一人の少女が担ぎ込まれた。
 エヴァと使徒との戦闘に巻き込まれたのである。
 もっとも避難していたシェルターを初号機が踏んづけた、訳ではない。
 泊まりになるかもと聞いた時、毎晩抱いて寝ているぬいぐるみが家にあることを思い出し、兄にも内緒で取りに抜け出したのである。
 無事ぬいぐるみを腕に抱き、兄に見つかる前に戻るべく小走りに家を出た少女が、爆音に上を見上げた時、その視界を占めたのは倒壊してくる建物であった。
 ぬいぐるみと言っても、持ち主とさして身長の変わらないそれは、普段主人から受けていた愛情に答えようとしたのか、少女が発見された時覆い被さるようになっていた。
 両足骨折と、全身打撲で済んだのはそのおかげである。
 それでも全治三ヶ月との診断は出たのだが。
 良く言えば妹思い、悪く言えばシスコンの兄は、妹が担ぎ込まれた直後から丸一日付き添った。
 その日も早朝から訪れ、未だ意識の戻らぬ妹のベッドの傍に数時間座っていた。
 やがて、のろのろと立ち上がった少年は、名残惜しげに病室を後にした。
 『鈴原』と記された名札だけが少年の後ろ姿を見送った。
 
 
 
 
 
 レイが降りてくる前に、既にシンジは朝食を用意していた。
 ふんわり焼いたトーストにスクランブルエッグ、それにミルクをたっぷり入れたダージリンティーは、サラダやフルーツを別にすれば、信濃家でのそれと変わらなかった。
 紅茶をかき混ぜた時、制服姿のレイが降りてきた。
 そのレイの制服は、予備として十着を既に注文してある。
 レイにとって制服とは身体を覆い、外気や外部の衝撃から身を守る為以外の、何物でもなかったのである。
 とても大切に扱われてきたとは云えない制服は、服もちゃんと手入れしているシンジから見れば、大問題である。
 少なくとも、同じ家に同居する以上は。
 この日のシンジは下は白のツータック、濃いブルーの長袖シャツにズボンと同色のベスト。
 ただしやや厚く出来ているから、肩からホルダーを下げたとしても、すぐには分からない。
 もっとも、学校に大型の代物を持っていくことはまず無いシンジだが。
 既にゲンドウから学校に連絡は行っているはずである。
 シンジはこれを制服とするつもりでいた。
 特殊加工のサスペンダーにはシルバーナイフが差し込まれており、右足にはワルサーP99が、左足には小型ナイフがそれぞれ装着されている。
 体育の時、どうするつもりなのか。
 食べ終えた時、
「お兄ちゃん、美味しかった」
 とのレイの言葉に、僅かにシンジが笑った。
「それは良かった。さて、車で行くからもう少し時間はある。もう一杯飲む?」
 ゆっくり蒸らした紅茶が、レイの前に再度置かれたのは数分後であった。
 日本茶ではないから、左を添える要はない。右手で持って豪快に飲んだシンジを真似してみたが、
「あ、あついわ…」
 カップを慌てて下に置いた。
「慣れないと火傷するかもしれないから、少し待ってからの方がいいね」
「お兄ちゃん…連絡事項はもっと早く…」
 恨みがましい目で見られたが、口調に非難の色はない。
「火傷直しに、帰りにアイスでも食べに行こうか?」
 の一言でレイの顔が緩んだ。
 結局出たのはそれから十五分後であった。
 赤外線と機銃掃射と小型爆雷が番をしている、自宅の警備は信頼している。
 ただし、パスワード解除がやや面倒な事を別にすれば。
 自動食器洗いに食器を預けてから地下へ降りた。
 地下二階はかなり広い駐車場になっており、ベンツとランサーがひっそりと佇んでいる。
 やはり、三十台近く収納できるスペースに二台だけというのは寂しい。
 地下だからほぼ万全の筈だが、それでも危険物の探知機は作動させてある。
 異常が無いのを確かめてから、ベンツを選んだ。
 本来2シーターのこの車種にはクーペしか無いはずである。
 どうしてセダンがあるのかと、シンジがリツコに訊いたら、
「装備の関係で、クーペを強引にセダンタイプにしたのよ。性能は落ちていないから大丈夫」
 との答えが返ってきた。
 キーを捻り、軽くアクセルを踏むと地下に爆音が鳴り響く。レイが隣に乗ってから、二分間待って、アクセルを踏み込んでから出た。
 調子はいいらしい。
 滑るように飛び出していく。
 さすがにこの街で、登校時間に車を駆るのは避けた為、既に始業時間は過ぎている。
 無論、毎日遅刻する気はないし、今日はまだ初日なのだから。
 
 
 
 
 
「やはり、使徒と判断しても間違いない。正確には使徒もどきね」
 長門病院のユリの部屋である。
 数時間前とある基地から、又してもMAGIにハッキングした彼らは、回収された使徒のデータを頂戴してきたのだ。
 無論無断借用である。
 ユリがシンジの妹にした少女と、その使徒の残骸から得られたデータとが、かなり重なっている事に二人は気付いた。
 それ以前に、人間そのものの固有パターンと酷似してはいたが、レイのそれは文字通り、瓜二つだったのである。
 ユリは、
「この使徒と比する限り、綾波レイは使徒もどきと断言して差し支えない」
 という結論に達した。  
 だから綾波レイは異形だ、と言う事ではない。
 二人にとっては、
「綾波レイをシンジがどう見るか」
 だけであり、それがそのまま彼らの判断でもある。
 そう言う関係で、今まで来たのだ。
「やはり綾波レイは人類補完計画のカギとして造られた、そう判断すべきね」
「そうね。でも使徒が求めて襲来するのは第三新東京に何があるからか、いやネルフに何があるか、と言うべきか。碇司令は何かを隠している。最も肝要な部分を」
「確かにセカンドインパクトで、人口は幾分減ったから環境汚染も速度は鈍くなったけれど、いずれこの星は使えなくなる。だからといって人類をもう一段階進化させる必要があるのかし」
「初号機の碇ユイの魂を引き出して、それと融合すればまた逢える。所詮は女に取り憑かれた男の妄執。下らないにも程がある」
 冷たく言い捨てたユリ。
「シンジを呼び戻す?」
「いや、ここはシンジの好奇心を待った方が楽ね。折角、フリーパスも持っている事だし」
 アオイは一瞬考えたが、
「そうね、ユリが戻ればそのうち何か掴めるかもしれないし。あの子が何時までもぼーっとしていたら煽ってもいいわね」
「放って置いたら、一生そのままかも知れないからね」
 ユリの言葉に、二人は顔を見合わせるとくすくす笑った。
 
 
 
 
 
 その日、第三新東京市の第一中学校は、大きなどよめきに包まれていた。
 始業開始からきっかり十分後、爆音と共に黒塗りのベンツが滑り込んできたのだ。
 校門の手前から既に車体を横に傾けて、きれいなラインを描いて滑り込んできたそれは、車を知る物には明らかに特注品と判る。
 しかも、最近ではかなり希少なだけに、強い羨望の眼差しを向けた。
 だが、驚きはそれだけには留まらなかった。
 降りてきたドライバーは、サングラスをしてはいたものの、明らかに自分たちと同じ少年だったのだ。
 違法とか何とか言う前に、驚きの方が強かったらしく、あちこちで大きなどよめきが起きた。
 特に2−Aのクラスでは、その衝撃はひときわ大きい物であった。
 何しろ、肩を過ぎた辺りまで伸ばされた、とても普通では真似できない艶の髪を持った少年に、無表情と無関心の結晶のような綾波レイが寄り添うと、きゅっと手を握ったのだ。
 それはどう見ても、綾波レイからの行動に見えた。
 何よりも、彼女は笑っていたのである。
 玄関口に入るまで、サングラスが外される事は無かったため、顔の全貌は見えなかったが、服装と髪型それにレイを伴っている事だけで、十分すぎる程関心を集めていた。
 先に教室に現れたのは、レイであった。
 担任がその日に限って何故か来ていない事もあり、教室に現れた彼女に女生徒を中心に殺到し、質問を浴びせかけたのだが。
「あなた達には関係ないわ」
「邪魔。どいてくれる」
 返ってきたのは、普段の彼女と全く変わらぬ返答だったのである。
 失望して多少の捨てぜりふ交じりに散っていく生徒に、レイは一瞥を向けようともしなかった。
 だが、ブラウスのポケットに手を入れ、大事そうに取り出した物をそっと両手で包み込むと、
「お兄ちゃん」
 呟いた声は誰にも聞かれることは無かった。
 レイの手にあるのはロレックスであった。
 レイは時計を持ってはいたが、バンドの部分がすり切れているのを見たシンジが、自分の時計をレイにあげたのだ。
 百万はまず下らない代物だが、シンジにとっては高い物では無い。
 シンジに取って、それが時を知らせる物であれば、通信などの機能が付いていない限り、どれも同じである。
 この時計にしたって、確かどこかの代議士から送られてきた物だ。
 一方レイにとっては価値など判らないし、それよりもシンジからの物という方が余程大きいのだ。
 既にレイから情報を引き出そうという者は無く、それぞれが勝手な推測に耽るだけであった為、僅かながら頬を染めているレイに注目する者はいなかった。
 その時ドアが開いた。
 レイを除いた全員の注目を浴びながら入ってきたのは、ジャージ姿の少年であった。
「なんや、どないしたんや」
 どちらかと言えば粗雑さの感じられる声に、皆は一斉に視線を逸らした。
 自前のハンディパソコンをいじっていた、眼鏡を掛けた少年が顔を上げた。
 友人なのか、雰囲気に呑まれることもなく声を掛けた。
「久しぶりじゃない、トウジ」
 トウジと呼ばれた少年は辺りを見回すと、空席が目立つのに気が付いた。
「なんや、随分減っとるやないか。どないしたんや」
「疎開だよ、疎開。例の市街戦でみんなさっさと転校しちゃったのさ。あれだけ派手にやられちゃあな」
「お前は嬉しそうやな、ケンスケ。生でドンパチ見られるよってに」
「まあね。ところでトウジはどうしたのさ、連休なんて」
「妹のヤツがな」
「妹さんてあの?」
「ああ、あの騒ぎで巻き添え喰ってもうてな…」
 勝手にシェルターを抜け出した事で招いた、自業自得だとは言わなかった。
 大事すぎるほど大事にしている妹なのである。
 トウジの脳裏にその時の光景が甦った。
「あのヘボパイロットのせいや。無茶苦茶腹たつでホンマに。味方が暴れてどないするっちゅんじゃ」
 逆恨みを純粋な怒りに昇格させたのか、少年の言葉は吐き捨てるようであった。
「ふーん。ところでさ」
 友人の怒りには触れない方が賢明である事を知っている。
 だがその時。
 トウジ達の方に、レイが一瞬だけ視線を向けた事を、二人とも気付いていない。
 ケンスケと呼ばれた眼鏡の少年が話題を逸らそうとした時、再度ドアが開き今度は担任が入ってきた。
 ざわめいていた教室が静かになり、ぞろぞろと席に着いた。
「起立!」
 凛とした声で号令を掛けたのは、顔に雀斑の残るお下げ髪の少女、いかにも委員長とかそう言った役職がはまりそうな雰囲気だ。
 立って型通りに一礼した生徒達が席に着いた後、初老の教師は口を開いた。
「あー皆さん、今日は転校生を紹介します」
 その言葉に、教室が再度ざわめき立った。
 レイが嬉しそうに見えるのは、シンジと同じクラスだとは知らなかったらしい。
「はい、お入りなさい」
 瞬時に静まり返った静寂の中、ゆっくりと入ってきたのは無論シンジだ。
 その瞬間、女生徒達からは溜め息が洩れた。
 彼女達の視線はシンジの髪に向けられている。
 ヘアスタイルに関する雑誌を読みあさり、日夜研究に余念がない彼女たちを歯牙にも掛けぬその髪は、上京時と殆ど代わらぬ艶を放っていたのである。
 他方男子生徒の目は、その服装とピアスに向けられている。
 ベストとジャケットの組み合わせは、それ自体はシンプルである。
 だがその選択は、とんでもない金額だと言う事に気付いたのだ。
 事実、単価にして十万を切る物は無い。
 そんな視線も知らぬげに、シンジが動いた。
 黒板に向かうと、碇シンジとご丁寧に楷書体で書いた。
 向き直ると、
「こういう者です。悪の総帥に浚われて上京してきました。趣味はえーと、エヴァンゲリオンのパイロットです」
 その瞬間にざわめかなかったのは、シンジの視線が皆を抑えていたからだ。
「エヴァに関してはよく知らないので質問は禁止。何か質問とかあります?」
 先手を打たれて思わずクラスが引いた時、一人の女生徒が手を挙げた。
「なんでしょう?」
「あ、あの、こ、恋人とかはいますか?」
「心当たりはありませんが」
 が、の後に別段欲しくない、と言うのを感じて一瞬女生徒が引いた。
「後はなさそうです。じゃ席の方、いいですか?」
 わがままなタレントの記者会見みたいに、勝手にうち切って教師に視線を向けた。
「えーとそうですね、じゃあ…」
 言いかけた時、びしっと手が挙がった。
「私の周り、空いているわ」
 レイの声にやっとクラスがどよめいた。
 レイとの関係を訊くのを忘れていたのだ。
 それに車の事も。
 もしかしたら、シンジの雰囲気に呑まれたいたのかもしれない。
「おや綾波さんの所ですか。良いでしょう、碇シンジ君は綾波さんの前後に」
「はーい」
 どこか眠そうな声で肯定したシンジだが、
 全身全霊で呼んでいるようなレイを通り越して、何を思ったかその後ろに席を取った。
 落胆の色を隠さないレイを余所に、シンジは窓ガラスを指で弾いた。
(ちゃんと入れ替えてあるか)
 既に夜の間に、強固な防弾ガラスへと入れ替えられていたのだ。
 そうでなければ、窓際に席を取るレイの周囲になど座れまい。
 ふとその時、剣呑な視線を感じた。
 顔など向けずとも、ジャージの少年からの物と知れた。
「そうか、想われ人がいたか。でも、怖そうだな」
 心にも無い事を内心で呟いた。
 その証拠に口元にはある種の笑みが浮かんでいる。
 シンジの判断通り、怒気を含んだ視線をシンジに向けているのは鈴原トウジ。
「転校生、ちいと顔貸せや」
 古いやくざ映画に出てくるような科白で、シンジが呼び出されたのは一時間目の終わった後であった。
 二つ返事で、あっさりと了承したシンジ。
 トウジの怒気を察知し、無表情なあの顔に戻るとすっとレイが立ち上がる。
 だが、シンジが制した。
「君は待っていて」
 シンジの言葉には従ったものの、凍てついた視線をトウジに向けるのは忘れない。
(目立ちまくってるな。まああれだけ派手にドリフトかましてこんな服装してれば無理もないか。けど…このベスト、妙に厚いな、中に何が入っている?)
 止せばいいのに、わざわざくっついていった相田ケンスケ。
 そのケンスケが内心で呟いたように、廊下を歩いていくシンジは、周囲の注目を一身に集めていた。
 シンジは絶世の美少年ではない。
 だが女ならずとも羨望の眼差しを向けたくなる髪、ひっそりと佇みながらも強烈な存在感を与えるエメラルドブルーに近い色のピアス、何よりも既に両手を深紅に染めてきたとは思えないその雰囲気。
 時折瞳に血の色を湛える事はあるが、本質的に雰囲気はふわふわしている。
 陶器のような歯を見せて笑い掛けられた訳でもないのに、つい頬を染めてしまったりするのは、その雰囲気に原因があるのだ。
 アサシンのそれに相応しい雰囲気を湛えて、標的を冷淡に仕留める事もあるが、微笑したままで仕事を果たす事もままある。
 だから初めての一般人も、何か違うと感じて怯えたりしないし、標的も笑顔の少年が向ける柔らかい雰囲気にうっかり油断して、気付いた時には三途の川の畔に立っていたりする。
 いわば、職業用の顔とも云えるかもしれない。
 天性の雰囲気を崩さぬまま淡々と人を殺せる。
 信濃ヤマトがシンジに全てを教える気になったのも、シンジの素質を見抜いたからに他ならない。
 周囲の注目を浴びながら、シンジ達が着いたのは中庭であった。
 さすがに付いてくる者も無く、辺りは無人であった。
(芝居だと、大体ここで前口上があるんだけど…何だったかな?)
 のんびりと考えた途端、拳が飛んできた。
「あれ?」
 少し驚いたように言いながら、ひょいと避けた。
 シンジの不意を突くのはまず不可能、と言っていい。
 まして、同年代の素人と来ては。
 飛んできた拳を、笑みを崩さぬまま避けた。
 足の位置は変わらず、上体だけを逸らすと宙に浮いた腕をぐいと引く。
 相手の勢いを利用するのはどんな格闘技でも変わらない。
 間違いなく不意を突いた筈だった。
 振り向きざま繰り出した拳は、転校生の顔面を捕らえて地面に殴り倒す、そんなシナリオをトウジは描いていた。
 それなのに。
 繰り出した腕は宙を泳ぎ、腕が掴まれた瞬間前に引かれたのだ。
 すんなり地面に倒してくれる程相手は甘くなかった。
 自分の勢いを利用した膝が、胸部に叩き込まれたのである。
 凄まじい激痛に一瞬意識が遠のきかける。
 取りあえず一撃を加えたシンジは、瞬時に腕を放すと今度は胸ぐらを掴んで引き起こした。
 が、その表情は変わらない。
 敢えて言うならば、折角思い出しかけたのにと言う感じであり、そこには集中している様など微塵も見られない。
 軽く引き起こすと、今度は脇腹を左膝がまともに襲った。
 軸足ではなく、シンジにすれば軽く勢いを付けた程度である。
 だが、それでも内蔵への衝撃の余波か、血飛沫を吐き出してシンジの膝の上で崩れ落ちたトウジの背中に、組み合わせた拳をてい、と振り下ろす。
 これだけしても、シンジの位置は殆ど変わっていない。
 そして、その表情もまた。
 トウジはもう、完全に失神している。
 それを知ってか知らずか、頭を掴んで持ち上げると顔面に裏拳を叩き込んだ。
 左頬に入った瞬間、数本の歯が吹き飛ぶ。
 なおも攻撃の手を緩めないシンジに、茫然自失の態で見ていたケンスケが我を取り戻して止めに入った。
「ちょ、ちょっと、もう勝負は着いて…がはっ」
 一番賢明なのは、走り去る事であったろう−そんな甘いことを、シンジが許すなら。
 この場合に、一番してはならない行動をケンスケは取った。
 即ちシンジの腕を掴んだのである。
 腕に触れた瞬間、垂直に上がったシンジの足がケンスケの顎を直撃した。
 眼鏡が吹き飛び、ケンスケも数メートル吹っ飛んだ。
「この野蛮人の襲撃動機は君に訊く。もう少し待っていてくれる?」
 頬を押さえた手のひらに、違和感を感じてみると歯が乗っていた。
 主の元を離れたそれは、乳だったのかそれとも永久だったのか。
 笑みを絶やさないシンジに、ケンスケは生まれて初めての戦慄を味わった。
 いや、それは本能的な恐怖であったろう。触れてはならぬ者に自分達は触れてしまったのだと、身体が悟っていた。
 だが吹き飛んだおかげで、シンジの右足のワルサーを目撃せずに済んだのは幸いだったかもしれない。
 吹き飛んだ先には目もくれず、改めてトウジの仕上げにかかった。
 髪を無造作に掴むと頭の両側を持つ。
 それを見た瞬間、ケンスケの背筋は凍り付いた。
 シンジの行動が判ったのだ。
 失神している人間の頭を勢い良く降ろしてきて、そこに膝を待たせたらどうなるか。
 しかも、二撃でトウジを失神させた膝である。
 
 こいつは…殺人鬼か…
 
 既に身体は金縛り状態となっており、次はお前だと本能が囁いている。
 白いシンジの姿が、ケンスケには白衣に身を包んだ死に神に見えた。
 だがよくて鼻骨粉砕、悪ければ頭蓋骨陥没まで引き起こしかねないシンジの止めは、ついに振り下ろされる事は無かった。
「シンジ君」
 はっきりと恐怖を含んだ声で呼び止めたのは、ゲンドウの愛人赤木リツコであった。
「あれ、リツコさん?」
 今にも肉塊に変えかねない姿勢にありながらこの声。リツコのシンジに対する評価が一転したのはこの時からである。
「どうしたのって、シンジ君が車で乗り付けたって学校から連絡があったのよ」
「それで?」
「公用、と言うことにしておいたわ」
「さすが、総司令の右腕。あ、今から最高法廷での尋問があるから、ちょっと待っててね」
 賞賛か嫌味か、嫌味なら十八番のリツコでも僅かに迷った口調で言うと、無造作に手を離した。
 鈍い音と共に、トウジが顔から落ちる。
 それには一瞥もくれず、ケンスケを見た。
「さて」
 微笑を含んだ眼差しだが、ケンスケは心臓を鷲掴みにされた気がした。
「法廷での偽証は死罪に当たる。これは任意の取り調べだが、君に自由退出の権利は無い。及び君に弁護士を呼ぶ権限もない。えーとそれから…」
 視線を向けられたリツコは思わず、
「自分に不利な証言をする必要はない−黙秘権も無いわ」
 つい、女検事のような口調で言ってから、呆然と自分を見ているケンスケに気が付いた。
「ネルフってこんな連中ばっかりいるんだ」
 その視線は如実に語っていた。
「そうそう、そうでした。さて、まず名前は?」
 微笑したまま訊ねられて、ケンスケの口は勝手に動いた。
「あ、相田ケンスケであります」
「そこの野蛮で凶悪極まる犯罪人との関係は?」
(シンジ君、それって…)
 思った事を口にはしなかった。
 いや、出来なかったのだ。リツコも又シンジの雰囲気に呪縛されていたのである。
「す、鈴原トウジは、わ、私の友人であります」
「何故、僕を襲った?」
「この前の市街戦で、妹が巻き込まれて大怪我をしたとか…」
 シンジの目はリツコに向いた。
「避難命令は、徹底していなかったのかな?」
 靴下は洗濯かな、と訊くような口調だが、リツコの顔から血の気が引く。
 こんな所で、とばっちりを食っては大迷惑だ。
 第一、あの時全市民に避難命令は出してあったのである。
「ネルフ本部所属のE計画担当者、赤木リツコよ。相田ケンスケって言ったわね。戦闘前に、全市民に避難命令は出されていたわ。逃げ遅れる事はあり得ないはずよ。それともその娘は車椅子にでも乗っていたの」
 別に誰かが巻き添えになろうが、リツコの知ったことではない。
 だがネルフの手落ちから引き起こされたとなれば間違いなく、シンジの追及はリツコに向けられる。それは避けたいだけにリツコの口調も鋭いものになっていた。
 穏やかだが底知れぬ何かを含んだ視線と、全てを数字で判断するような冷たい視線の双方を受けて、既に生きた心地はしなかった。
 辛うじて、
「そ、そこまでは未だ訊いていないから…」
 それを聞いたシンジがトウジを見下ろした。
「じゃ、本人に訊いた方が早いね」
 そう言うや否や、気絶しているトウジの脇腹を、石でも蹴るかのように蹴飛ばしたのである。
 苦痛の呻きを洩らしてトウジが目を開けた。
「お、おんど…」
 言いかけたところへ、
「起きた?」
 その言葉と口調にケンスケは勿論リツコさえも、一瞬頭の中が真っ白になった。
 が、そんな二人の事など余所に、シンジはトウジの傍にしゃがみ込んだ。
 トウジは起きなかったのではない、激痛で起きられなかっただけである。
「さて、妹さんの恨みとかで僕を襲ったのは判った。でも、ネルフ随一の頭脳を誇る科学者さんが、避難命令は徹底していた筈だと言っているし。白状してくれる?」
「けっ、誰がワレな…」
 誰がワレなんぞに話すかい、そう言いかけて止まったのは、シンジの人差し指が喉仏に当てられたからだ。
「このまま声帯を潰しても、催眠術で紙に書かせる位なら僕でも出来る。どこかの危ない医者直伝に、少しアレンジを加えた『シンジ流催眠術』の、第三号被験台になってみる?」
 第三号、その数字が指す物は?
 底知れぬ雰囲気を持った相手から、此処まで言われてもなお、しらを切り通せる普通の十四歳はいない。
 鈴原トウジも、無論例外ではなかった。
「い、妹が…」
「ほう?」
「一晩シェルターに泊まりになるかもしれん、ちゅう事を訊いていつも抱いて寝とるぬいぐるみを取りに行ったんや。せやけど…」
「あ、もういい」
 途中で遮ると、リツコを見た。
「ネルフのミスじゃ無いそうです。良かったですね」
 何が良かったのか、その意味に気付いてリツコは戦慄した。
 ネルフの避難命令が行き届いていなかった故の事故であれば、目の前の少年と変わらぬ運命が自分にも訪れたかもしれないと思うと、炎天下にも関わらずリツコは背中が凍り付くのを感じた。
「ところでエヴァは確か人類最後の砦、とか言ってたでしょ」
「え、ええ…」
 シンジの真意が読めなかったリツコ。
「と言うことは、その切り札のパイロットに対する言われ無き暴力は」
 数秒考えたシンジの脳がどんな奇想を生み出すのか。
「当然死」
 物騒な事を言いだした死神の死刑宣告は、美少女の登場で中断された。
「レイちゃん待っててって言ったのに」
「お兄ちゃんが遅いから心配になって…」
「どうして此処が?」
「廊下にいる人とか、先生を捕まえて訊いたの」
 ネルフの食堂で、シンジが迷ったのを自分の所為だと思いこみ、青ざめたレイを知っているリツコは、シンジ達の行き先を訊かれた者達に同情した。
 リツコの想像通り、片っ端から訊いたのはいいが、全員いきなり胸ぐらを凄まじい力で掴まれて、
「お兄ちゃんはどこへ行ったの」
 と尋問されたのである。
 当然、
「お、お兄ちゃん?」
 と聞き返す。
「お兄ちゃんはお兄ちゃん。私のお兄ちゃん碇シンジ。知らないの?なら用済み」
 聞いた事のない名前に転校生の事かと、取りあえずシンジ達の向かった方向を指さした者は未だ良かった。
 実際知らなかったためその通り答えた者は、床上数センチ持ち上げられた姿勢から放り出されたのである。
 地面に這い蹲ったままのトウジを冷たく見下ろすと、
「お兄ちゃんに何かしたの?」
 リツコでさえも聞いた事のない、凍てついた声で訊ねた。
 シンジは驚きもしなかったが、ケンスケは初めて体験するレイの声と表情に、声もなく硬直している。
 トウジに至っては神経が持たなかったか、再度失神してしまった。シンジがその胸ぐらを掴んで張り飛ばすと、意識を取り戻した。
 目に恐怖を浮かべているトウジを突き放して、すっと立ち上がった。
「一つ言っておく」
 その言葉に、先程までの笑っていた時のものは微塵もない。
「エヴァに乗っている際、その裏で誰かが犠牲になろうと僕の知った事ではない。まして非難命令が出ていたなら尚更だ。僕を襲おうとする時は、死に神の魂魄刈り取り名簿に名前を記帳してからにするべきだな。僕にいきなり襲いかかって、五体が離れていないままで済んだ、唯一の特例になった事を感謝するがいい」
 凍り付いたままの三人を余所に、レイに視線を向けるとそのまま歩き出した。
 レイが横に並んだが、シンジの雰囲気のせいか手を取ろうとはしなかった。
 最初に我を取り戻したのはリツコであった。
「あ、あのシンジ君」
「何?」
 振り向こうともしない。
「き、救急車の手配しても良いかしら。このままじゃ…」
「リツコさんのご随意に」
(寿命が十年以上縮んだわね…間違いなく)
 ネルフ随一の冷静な科学者の、偽らぬ感想であった。
 そのリツコに、これも漸く呪縛が解けたケンスケが声を掛けた。
「あ、あの…」
「あら、何かしら」
「転校生、いや碇シンジ君て、どうしてあんなに強いんですか。それにあの眼…トウジの顔を膝に叩き付ける寸前まで笑っていた。絶対普通じゃない…」
「エヴァのパイロットとしての、必須条件だからよ」
 それ以上言葉を続ける度胸は、ケンスケには無かった。
 校舎に戻ってきたシンジの雰囲気は、既に普段の物に戻っている。
 ふと周りを見ると、妙な雰囲気が立ちこめていた。
 何か怯えたような視線が自分たちに向けられていたのだ。
 とはいえシンジの服に返り血は無く、服装も乱れてはいない。 
「ん?」
 妙な事に気が付いた。その視線はレイに向けられていたのだ。
 シンジの雰囲気が戻った時から、自分の左手を取っているレイに視線を向けた。
「レイちゃん」
「なあに?」
「さっき、僕の行き先をみんなに訊いたって言ってたね、何て訊いたの?」
「お兄ちゃんはどこ言ったのって」
 何となく嫌な予感がしたシンジは、はっきりと怯えを見せていた、ある女生徒に近づいた。
 レイをその場に待たせ、
「あの」
 と声を掛けた。
「は、はい…」
 眼鏡を掛けたその女生徒は、見るからに内気で内向的である。
 彼女は完全に怯えきっている。
「さっき、僕の連れが何か訊いたと思うんだけど、どうやって訊いたの?」
 剣呑な雰囲気は皆無だが、いきなり訊かれて答えられる問いではない。
「……」
 俯いたままの少女の耳に、そっと囁いた。
「迷惑掛けちゃったみたいだね、ご免ね」
 シンジから伝わる雰囲気に、びくりと肩が震えてうっすらと紅くなった。
 それを見たレイの眉が少し上がったが、待っているよう命じたシンジの目を思い出して、近づくのは諦めた。
「あ、あの…」
「なに?」
「い、いきなり近づいてきて服を掴まれたんです。それで『お兄ちゃんはどこ』って言われて。私が『お兄ちゃん?』て訊いたら、『お兄ちゃんはお兄ちゃん。私のお兄ちゃん碇シンジ。知らないの』そう言われて首を振ったら…」
「放り出された?」
「はい。持ち上げられた姿勢からぽいっと。私…怖くて」
「あの娘には僕からよく言っておくから。怖い目に遭わせて済まなかったね」
 目を覗き込まれて、慌てて首を振った。
「い、いえ…もう…全然気にしていないですから」
 その言葉に踵を返し掛けたシンジだが、ふと振り返った。
「あの、えーと名前は知らないんだけど」
「マ、マユミです。山岸マユミ」
「そう。それで山岸さん、そうやって訊いた人数は何人位いたの?」
 指で十を表したマユミの答えに、ふうと溜め息をついた。
「ありがとう」
 レイの所に戻ったシンジは、抑揚のない声で呼んだ。
「綾波レイ」
 こんな声で、しかも他人行儀で呼ばれるのは初めてである。
 レイは硬直した。
(お兄ちゃんに嫌われたかもしれない)
 その心に、彼女は未だ気付いていない。
「はい…」
 か細い声で答えたレイにシンジは、
「次は許さないよ」
 マユミに向けた物とは、対極と言える程冷たい声で告げた。
「ご、ご免なさい…お兄ちゃ…」
 言いかけたところへ、
「僕に謝ってもらっても仕方がない。その前にする事があるはずだ」
 謝罪を拒否された上に、冷たい言葉を返されたレイの顔が一層白くなった。
 今にも泣き出すのではないかと思われたレイを見て、シンジはその置かれていた生活環境を思い出した。
「僕ではなく、あの娘に謝っておいで」
 そう命じた声は、幾分戻っている。
 ついさっき、自分に狼藉を働いた少女が近づいてくるのを見て、マユミは思わず身を固くした。
 だが。
 その少女は自分の前に来ると、頭を下げたのである。
 小さな声で、
「ご、ご免なさい…」
 その声が泣いている事を知ったマユミは、それ以上追求しようとは思わなかった。
 本来が内向型の性格である。
 他人の追求とかそういったものには不慣れだし、好むところではない。
 綺麗だが無表情な人形みたい、として知られるレイの名は、マユミも知っている。
「あ、あの綾波さん、私、全然気にしていないから。ね?」
 聞こえたのかどうか俯いたまま再度、ご免なさいと告げたレイに思わず、
「いいの、綾波さん。優しいお兄さんだもの、心配したんでしょう?」
 俯いたまま、レイは頷いた。
「ほら、顔を上げて。お兄さんが待っているわ」
 言ってから、柄でも無い事を口にしたと気付いた。
(何故私こんな事を?…)
 マユミが内心で自問した時、レイが顔を上げた。
 潤んだ目と視線が合った時、マユミは微笑するとレイを目で促した。
 普段の彼女を知る者がいたら、驚嘆したに違いない。
 黙って頷いたレイが踵を返した時、何かにぶつかった。
 顔を上げると、シンジがいた。
「山岸さん」
「は、はいっ」
 柔らかい声で呼ばれて、即座に返事したその顔は、微かだが染まっていた。
「いずれお詫びはする、何か考えておいて」
「あ、あの別に…私は…」
 辞退したマユミにシンジは、
「そういう教育は受けていないから」
 シンジの言う教育係が誰なのか、そういう教育とは何なのかなど、考える余裕も無くマユミは頷いた。
「…分かりました」
 それを聞くと頷いて、歩き出した。レイには視線を向けない。
 レイがとぼとぼと付いていく。
 シンジの後ろ姿を見送ったマユミの表情は、どこかうっとりしていた。
 角を曲がった時シンジが振り向いた。
 びくりと肩を震わせたレイを、シンジが呼んだ。
「レイちゃん」
 その声を聞いた時、レイの目から一粒の涙が落ちた。
 緊張が一気に解けたらしい。
「僕を心配しての行動だ。今日の所は見逃してあげる」
「はい」
 答えたレイの声に、既に落胆はない。
 レイの顔を見たシンジは、ハンカチを取り出すと軽く拭った。
「お兄ちゃん…」
「授業がもう始まる、行くよ」
 普段の物に戻った声と共に差し出された手は、しっかりと握られた。
 元々紅眼のレイは、幾分腫らした目を気付かれる事もなく済んだし、今回の件は咎め無しと判断したシンジに、帰り道三段重ねのアイスを買ってもらった事で、帰った時にはご機嫌であった。
 その日から二人はしばらく多忙になった。
 アオイとユリと言う、望んでもまず得られない家庭教師に教えられてきたシンジに取って、学校の勉強など簡単すぎたが、毎日欠かさず通った。
 学校から帰ると、レイに掃除から洗濯から一から教え込み、そうでない日はネルフでの訓練に時間を費やしたのである。
 シンジの欠点は贅沢だが、高すぎるシンクロ率にある。
 還らぬ人となったユイの最高値は420%であったが、シンジはしばしば350%を越えてしまうのだ。
 しかも意識して上げる事は出来るが、気を抜く以外にシンクロ率が下げられない。
 戦闘中に、集中しすぎて危険域を超えたのでは、本末転倒である。
 ユリが何故か戻ってこないせいで、シンジは一人で精神コントロールに励む羽目になった。
 二週間も経った頃、綾波レイは食事以外の家事は一通りこなせるようになり、シンジのシンクロ率も270%から20%前後の差で抑えられるようになった。
 数週間前に、大失敗に終わった零号機起動実験は、それから間もなく実施される筈、だったのだが。
 
 
 
 
 
(続く)

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