第三話
 
 
 
 
 
 どんなに自分の母親を、あるいは義母を憎んでいても、結局それに近いタイプを、生涯の伴侶に選んでしまうのが、男という生き物であるとされる。
 ファザコン、ロリコン、シスコン、ブラコン等そこから、離れられないとされる言葉で使われる物は、幾つもあるが、一番有名で印象も悪く、しかもその病にかかっている者が多いとされるのは『マザコン』であるという厳然たる事実もそれを裏付ける。
 年齢を遙かに超越した戦闘能力と、その深淵の闇のような雰囲気に、裏の世界ではその名を響かせている少年が、亡き母のクローンと知る前から、蒼髪紅眼の少女に、一目で引きつけられた理由はどこにある?
 しかも、彼女が少年に抱く感情は、好意とはあまりにもかけ離れたものなのだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 夜の空に白い美貌を浮かび上がらせる筈の月は、いたずらな雲たちのせいで、輪郭をわずかに留めるだけのおぼろ月と化しており、自らの美貌の誇示を阻まれたその顔は、幾分不機嫌に見えた。
 ここ、第三新東京にあるコンフォートマンションの一室では、下着姿のまま月を眺めている部屋の主があった。
 綾波レイ−シンジが、写真を一目見ただけで、何かを感じ、珍しいことだがそれだけで、上京の意志を決めた少女である。
 普段なら、月の輝きがその蒼髪に映えて、一層の美しさを描くのだが、今夜は少し違っていた。
 曇り空を反映してではないが、彼女の横顔は憂いを帯びており、髪の艶も幾分落ちている印象を受ける。
 ベッドの上に、ぺたんと座り込んで、手をついて月をぼんやりと見上げているのは、それだけでも絵にはなるのだが、この状況を見た者はレイよりも部屋の景色に驚愕の目を見張るに違いない。
 しかも、14才の少女が一人暮らしのために与えられた部屋と知ったら、たちまち同志を募り、糾弾の大運動を起こしかねない。
 それ程までに簡素な、いや殺風景な部屋であった。
 だが、幽閉された塔の窓から、家族間の敵対故に引き裂かれた恋人を想って憂いを浮かべる美姫の如き、レイの表情は自らの生活環境を嘆くものでは無かった。
 彼女の脳裏には、昼間ふと耳に入った彼女の“管理者”赤木リツコと、上司であり唯一心を許している碇ゲンドウの会話が、甦っていた…。
 
 
 
 
 
 ちょうど、リツコがゲンドウを呼び止めた所であった。
「先日ご命令のあった要塞、完成しました。入居はいつでも可能です」
(ようさい?何かしら、要塞…洋裁…溶剤?)
 無表情なまま、わずかに内心で首をかしげたレイの耳にリツコの言葉が入ってきた。
「ご子息が来られるから、対人警備の万全な家を、至急手配するようにとの事でしたので、半ば要塞化しておきましたが、どうしてそこまでされるのです?黒服を張り付けておけばすむと思いますが…」
「車の方はどうした?」
「ベンツと古代遺産のランサー、両方ともあのリスト通りに改造してあります」
 リツコが古代遺産と言ったのは、15年前に造られた、三菱社のランサーのラリーベースの車を指すのだが、古代遺産と言った時、少しゲンドウの眉は寄ったが、リツコは気づかない。
「そうか。ガードを付けないのは無駄だからだ。広大な敷地を数百個のカメラで完全監視、レーザーに加えて液体爆弾までが、侵入者の出迎えに当たる家で育ったのだからな、生半可なボディガードなど意味はない。単に予算の無駄に終わる」
「ご子息を過激派の首領の家にでも、預けられたのですか?」
 それを聞いた途端、何故かゲンドウはニヤッと笑った。
 ぴくりとリツコの顔が引きつる。
「そう思うか?」
「い、いえ」
 滅多にないゲンドウの表情に、リツコがぶるぶると首を振る。
 ただし、ゲンドウの表情の理由は分かっていない。 
「シンジの預け先は冬月の知り合いだ。それと、そんな家に預けるほど、オレも物好きではない」
 低く、どこか弄うような声に、リツコの顔から血の気が引いた。
 機嫌を損ねかけた、と直感で知ったのだ。
 ゲンドウにレイプに近い形で手込めにされて以来、関係はまだ続いている。恋人にはほど遠いが、自分ではそれなりに、ゲンドウという人間が分かってきたつもりであった。
 基本的に感情を表に出すことは滅多になく、人を褒めることもまず無い。
 リツコ自身も自分もゲンドウから、良くやってくれたの一言など、一度聞いたかどうかである。
 いや、事によったら一度もなかったかも知れない。
 どうやら、人を褒めたり気を遣ったりするのには、かなりのエネルギーが必要で、溜め込んだエネルギーは、綾波レイにでも使っているのだろうと、リツコは分析している。
 そう思っていたのだが、テストしたこともなく、使えるかどうかも分からない息子を呼び寄せるために、わざわざ対人警備の厳重な、地上地下合わせて五層立ての小型マンションを用意させた。
 それだけではなく、無限支払保証のクレジットカードまで作り、おまけに渡された表の通りに車を用意したら、一千万以上かかったのだ。
 もっとも、自分の自腹ではないし、別に痛くはなかったが。
 
 
 ゲンドウの傍らにいて、時折思うことがある。
 
 抱かれる時に、いきなり挿れられるのにはもう慣れた。
 初体験がレイプ同然のリツコに取って、前戯と言う単語は無縁であった。
 そのため、初な小娘のようにセックス本を読んだことがある。
 異常な話だが、セックスに前戯なる物があると知ったのは、その時が初めてだったのだ。
 実はそれまで、肉竿の挿入で濡れる物だと思っていたのである−自分がそうだったから。
 だから、今更前戯など期待していない−それがなくても、自分の躯は反応するようになったのだし。
 でも、時には口づけして欲しいと思うこともある。
 優しさを心の中で欲している自分に、もう一人の自分が笑っている。
 無様ね、と。
 前戯は不可欠だと、声高に叫ぶ女達の声を聞く度、自分は異常なのかと思う時がある。
 その一方で、躯は反応しているならいいじゃない、科学者の自分が冷静に分析している。
 二つの相反する感情の中で、優しさや愛撫を望む赤木リツコがいても、取り立てて異様な事でもなかったろう。
 しかし、リツコの脳内コンピュータは、100%可能性無しを弾きだしている。
 つまり、可能性は無いと自ら分かっているのだ。
 だから、現時点では高望みはしておらず、あくまで刹那の物と判ってはいるつもりだ。
 判ってはいるがどうしても、レイに向けるゲンドウの表情を見ると心が疼く。
 女児が感情を持った優しい娘になるか、生意気な小娘になるか、あるいは無感情な一見人形のようになるかは、母親役の女性に掛かっていると言われる。
 愛情とは程遠い感情−嫉妬をレイに向けていたリツコが、あくまで大事な研究対象としてしか、レイに接してこなかった結果が、レイの生活境遇を作っている。
 余計な物との接触は不要、とは理論的には合っているが、ゲンドウの感情を独占しているレイへの、当てつけというか憂さ晴らしに過ぎない。
 その思いは、必然的にシンジにも向けられているのだが、まさかブレーキオイルを抜いたりも出来ないから、合法的ないじめをこれからMAGIに掛けて、審議させようと思っていたところだ。
 だがその前に、ゲンドウには有能で忠実な部下を思わせておかなければならない。
 わざわざ、司令室ではなく、私室に近いこの部屋でゲンドウを呼び止めたのも、シンジ用に鉄壁の警備と、快適な生活を兼ね備えた家を3日で用意するようにという、無茶も極まる命令を突貫工事でやり遂げた報告、という有能な部下として当然の行為と、特別な報酬があるかも知れないと、期待する粘っこい感情もあったのである。
 しかし、賞賛どころか、逆鱗に触れかけたらしい事を悟り、瞬時に方針を変えた。
「冬月先生のお知り合いなら万全ですわね、失礼しました」
 幾分おもねるような調子を混ぜて、ゲンドウの顔色を見る。
 サングラス越しではっきりしないが、やや緩んだのを確かめ、さらに言った。
「でも、鉄壁な警備体制のご家庭ということは、どういう所ですの?」
 レイの表情がわずかに動いた。
 レイの耳は微妙に変わったリツコの口調に媚びに近い物を感じ取っていたのだ。
 ゲンドウにどう通じたのか、
「政(まつりごと)がきれい事では済まないのは、太古の昔から変わらないが、時の権力者にとって目障りな存在が消える時、その陰に二つの家系が見え隠れしていた。陰陽道による呪術を用いて抹殺する土御門家、文字通りの暗殺で片づける信濃家。シンジを預けた先の当代の名前は、信濃ヤマトだ」
「と、言うことはご子息の将来の夢は暗殺者」
「夢かどうかは知らんが、諜報部の選り抜きが40人いれば、何とか押さえ込めるレベルにはなっている。もっとも、9割は屍になるがな」
 物騒ですわね、と言いかけてあわてて飲み込んだ。
 どうもこういうとき、普段の皮肉りたがる癖は困る。
 既に、ゲンドウの顔はわずかだが、喜色が浮かんでいるではないか。これを仏頂面に変える要はない。
 だが、リツコはふとある事を思い至った。
 
 あのゲンドウが、ここまでシンジを大切にするとは、額面通りには受け取れない。そこには亡き、碇ユイの面影があるからではないのか?だとすれば、未だにゲンドウの心はユイが占めている事になる…。
 
 吹き出しそうな感情を押さえ込んで、訊ねた。
「パイロットとしても、頼りになりそうですわね?」
 言葉の裏に、高シンクロ率と引き替えに、還らぬ人となったユイへの感情がなかったとは言えまい。第三者の目でリツコが自分の顔を眺めたら、こう言った筈である。
「何て酷い顔なの、無様ね」と。
 ゲンドウの返答を気にしていたのはリツコだけではなかった。
 レイもまた、ゲンドウの返答に、一抹の不安と願いを込めて、待っていたのだ。
 無表情ではあるが、木偶人形ではない。リツコとゲンドウの関係も薄々は気づいているし、自分に対するリツコの尖った感情も知っている。レイ自身も、自らが唯一信頼しており、また笑顔を向けてくれるゲンドウとの間に、リツコは邪魔だと思っているからだ。ゲンドウ如きの寵愛の奪い合いに、巻き込まれたシンジこそいい迷惑である。
 ただ、レイにとってこれ以上邪魔な人は増えて欲しくない。ましてそれが血の繋がりという、尤も強力な武器を持った相手では。
 レイがいるからな、とまで言って欲しいとは思わない。
 だが、用意の万端ぶりを見れば、無駄とは知りつつ、
「あれは予備だ。大して当てになどしておらん」
 位は言って欲しかったのだが、頼りになるか、と訊かれた時、ゲンドウはうっすらと笑った。
 普段のニタリ、という形容詞が相応しい表情と似ている、だが確実に本心からの物と知れる笑みであった。
 レイからは二人は見えず、当然二人のいずれにも確実にダメージを与えそうな、ゲンドウの表情を見ないで済んだのだが、リツコは波動砲の正面であった。
 第一の打撃がそれなりの効果をもたらした所へ波状攻撃の第二波が来た。
 極めて希な、純粋とも言える笑みを浮かべたまま、
「シンジは切り札だよ」
 と言ったのだ。
 シンジが看破したとおり、無ければ欲しがるが、与えればさして使わないという、幾分変わったシンジの性格を見抜いた上での言葉だが、既に、ユイという言葉で自らを呪縛しているリツコにとって、結構なショックだったようだ。
 その証拠に、条件付きだがな、と言ったゲンドウの言葉も上の空で虚ろに頷いただけだ。シンジに甘すぎる位の主義で接していても、ユイに一直線とは、限らない。
 むしろ、ゲンドウの発想はどちらかと言えば、腫れ物に触れるような感じである。
 確かにシンジの容貌には、ユイの面影があるが、シンジのユイに対する思いは、慕情とは遠く隔たった位置にある。
 ただし、それを知る由もないリツコにとって、
 “シンジが来る=ゲンドウがユイを思い出す=自分から離れていく”
 の奇妙な式が出来上がり、シンジに対する感情は会う前から、シンジ本人が思いもよらない形になっていった。
 かろうじて、冷静な科学者の仮面を落とさずにゲンドウと別れたリツコは、爛れた時間を逃しただけで済んだが、レイの方はそうは行かなかった。
 今ベッドの上で月を見上げてはいるものの、どうやって帰ってきたのか記憶にない。
 夢遊病者のようにふらふらと帰ってきて、決まった作業だけを、しかも時間をかけてこなす三流ロボットのようにのろのろと着替え−制服を脱ぎ捨てただけ−そのままベッドに座り込んだのだが、本人は分かっていない。レイの胸中を占めるのはゲンドウのあの笑みであった。
(こないだの起動実験失敗の時、火傷もかまわず司令は私を助けに来てくれた。私が無事って知った時の司令の顔は、さっきの顔に似てた。でも、違う。よく…分からないけど同じじゃない気がする。碇シンジって言ってた司令の息子、切り札って言う事は、私はもう用済みなの?私が使えないから、碇シンジを呼んだの?碇シンジが来たら司令はきっと私に笑ってくれなくなる。私から司令を…碇司令を奪って行く…碇シンジ…)
 用済みという言葉に、どこか既視感を感じつつ憂いを帯びた顔が無表情になり、目がすさまじい光を帯び出すまでに、さほど時間はかからなかった。
 レイの機体である零号機の起動実験失敗が無かったら、話は変わったかも知れないが、火傷も辞さず救出にきたゲンドウへの想いは、廃墟と呼んでも差し支えないような部屋の中で、常用薬と共に、丁寧に磨かれて保管されてある、熱で曲がったサングラスにも現れている。レイにとってゲンドウへの想いは不動なのだ。
 だが、これもリツコと同様、ゲンドウが用済みの小娘を危険も省みず、助けるほど味な真似をする人物か、そしてゲンドウが亡妻の面影を見ているのは本当は誰なのかを、考えればすぐに分かる事だ。
 だいたい、レイの胸中にも"司令は私を通して誰かを見ている"という思いはあるのだから。
 だが、平素殆どと言っていい程、感情の起伏を表に出さず冷静なレイも、普段見慣れぬゲンドウの表情を見たせいか、判断力が鈍っているようだ。
 普段滅多に見せない、柄でもない表情を見せた父親のおかげで友好的、少なくとも普通の対面が、いきなり敵意を持った相手−それも二人に増えている−からの迎撃、という憂慮すべき事態を招いたことなど、シンジは知りもしない。
 
 
 
 
 
 レイがシンジのことを、"碇司令の息子の名を持つ私の敵"と認識していた頃、シンジはホテルのラウンジで上京を明日に控えた身で、美女二人を左右にして、八股の大蛇もかくや、と思わせるほどのペースで、ボトル単位で空けている最中だったのだ。
 ユリもアオイも、そして未成年ながらシンジもアルコールに関しては、ほぼ笊、といっていい。
 その酔いが10時間以上たって回ってきたのか、スーツケースの点検を一通り済ませた後、座席にもたれて眠りにつくまで大して時間はかからなかった。
 きっかり2時間半後、体内時計で目を覚ましたシンジは、自らの頭が柔らかい大腿部を枕にしている事を、そして30分前に枕の主が自分を引き寄せ、膝の上に誘致したときから分かっている。その主は、たった今携帯電話を切った所であった。
「シンジ、演習の時間は無くなった」
「演習って、エヴァに乗る練習のこと?」
「勿論。いま碇司令と連絡が取れた。人型の使徒が第三新東京目指して、進撃中よ」
「迎撃は?」
「綾波レイ嬢が出撃、現在大苦戦中」
「何それ」
「本来彼女の専属機体は『零号機』なのだが、少し前に起動実験をやったとき暴走を起こした。搭乗席が射出されてレイ嬢が中に封じ込められた。碇司令が手の火傷と引き替えに助けたのよ」
「そう言えば、柄でもない白い手袋してたよね。もしかして、エヴァって機体と操縦士の組み合わせは決まってるの?」
「核に魂があるのはシンジの初号機だけではないからね。初号機ではレイ嬢の全力など到底出せないはずだ」
 わずかに、緊張の色を見せて起きあがり、腕時計に目をやったシンジに、
「後10分で着く。駅前にはシンジの車が来ているが、葛城ミサト嬢が出迎えに来ていると聞いた。そっちの方がたぶん早い。」
「多分、て何?」
「えてして、ああいう性格の女性は、いい加減が多い。ついでに方向音痴もご丁寧に兼ねている事がある」
 シンジの心の畑に、不安という名の種を丁寧に植え込んだ。
「何でそんな人が上司になったんでしょう?」
「不出来な息子に対する評価の、如実な現れね」
「なるほど、道理でね」
 変に納得したシンジの手を、そっと握る。
「父に捨てられた哀れな少年の心は、私が癒して差し上げる」
「やっぱり、それの前振りだったか、本当はどうなの?」
「笑って入ってくる者はいても、笑って出ていく者はいない。それがネルフだと覚えておくといい」
 そんな事は、発つ前に言って欲しかったという言葉を飲み込んだ。
 手を預けたまま、何を思ったかシンジが薄く笑った時、列車はホームに滑り込んだ。
 あっという間に時間が経って、駅に着いたようだ。
 それぞれ、小型のスーツケース一つを下げて、ホームに降り立つ。
 今、少年の運命の幕が開けようとしていた。
 
 
 
 
 
(続く)

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