第二話
 
 
 
 
 
 人には敵わぬ相手から、身を翻して逃走する本能がある。
 無論自衛の為だ。
「三十六計逃げるに如かず」とは、古来からの名言である。
 だが、逃げられなかったら?
 暴走した車が突っ込んでくるのを見て、避けようとした時転んだとしたら?
 飛び出してきた歩行者に、急ハンドルを切ろうとした瞬間、ミラーに後ろの車の追い越しが目に入ったとしたら。
 低速で走行中、横道から転がってきたボールに、続く幼児を想定しブレーキを踏んだ瞬間、無効と化しているのが分かったら。
 あるいは…目の前の少年が、鬼気を吹き上げる死神と化して、自らの皮膚を裂いているのに、足が動く事を拒否したとしたら?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ゆっくりと、ユリの喉から離されたシンジの指を、血が滴った。
 普通より幾分紅い唇に、そっと指を運び、軽く噛んだシンジの顔は妖気さえ帯びている。
 ぎこちなく、ユリの手が、紅い朱線の付いている自らの喉に触れた。
 一瞬閉じた瞳が開かれた時、漆黒の瞳にシンジの呪縛の片鱗も感じられない。
「久しぶりね、シンジ。私の血の味はいかが?」
「さして美味くもない。お前なら3日あれば直る傷だ。綾波レイ、と言ったな、この娘。この白い首筋から吸えば、ユイの不気味な味でも混ざっているのか?」
 ユリとアオイの眼が、一瞬だが大きく開かれた。
 自らを俺と呼ぶシンジの知識が、普段のシンジのそれを大きく凌駕しているのは、既知であったが未だ、何も告げてはいないのだ。
 まして、綾波レイが、碇ユイの細胞を使ったクローンである事など。
「半分当てずっぽうだったが、適中したようだな」
「何故それを?」
 そう言ったのはアオイだが、これも既に声は落ち着いている。いや、アサシンとしてのそれに変える事で、抗していると、言うべきか。
 ただし、ユリの声とは微妙に開きがある。
 あえて言えば、持っている感情の差、と言うところか。
「ユイは、実験中シンクロ率が高すぎて、エヴァの中から戻らなかった。サルベージも失敗したと聞いている。ドクターやアオイ達が、ここまで隠すのは、ほぼ間違いなくユイだと踏んだ。だが、死んだと断定できる人間が、絡んでくるのはありえない。あるとしたら、ユイをだしに使ったスープが今もエヴァの中にあり、操縦に何らかの影響を及ぼすのか、或いは」
 『「或いは?」』
 二人の声が期せずして重なる。
「或いは、ゲンドウの妄執がスープから還元した、ユイの細胞でも使って分身代わりに何か創ったか、だ。あいつは気付いて無かったが、ユイの面影は残してある。もっとも、ユイの面影など微塵も残っていないあいつには、関係ないかもしれないがな。いや、残すのを拒んだと言った方が合っているか」
 浅く裂かれた喉の出血が止まったユリが、シンジの前に立った。
 軽く一撫でしただけで、あっさりと傷口は消滅した。
「それで?」と、訊いた。
 内容省略もいいところだが、アオイにも、シンジにも通じたらしい。
「配慮の範疇、との主張なら咎めもできないな。所詮は子供だ」
 そう言うと、自分よりやや身長の高いユリの首に、手を回して引き寄せた。
 抗いもせず受け入れたユリの喉元に唇を付ける。
 アオイに脇腹を触られた時とは違い、はっきりと声が洩れた。
 それを受けるユリの表情には、恍惚に近い物が浮かんでいる。
 シンジの言葉は、精神年齢を考えて、明言を避けた事を指しているのか。
 一方、アオイが殆ど会話に加わらないのは、こちらの方はあまり気に入ってないらしい。
 黒ずくめの吸血鬼が、美女の血を吸っているのに近い姿を、幾分嫌悪に近い物すら見せて眺めている。
 不意に、シンジが顔を離した。
 急に終焉の訪れを迎えたユリは、極めて珍しい事だが、僅かに物足りなさげな表情をしていた。
 しかしポケットからハンカチを出して、口許を拭ったシンジを見て、一気に醒めた顔になった−普段のシンジになった事を見抜いたのだ。
「ところで、この子がクローンとか言うのは本当に?」
 シンジが訊ねた。
 俺、の時のシンジの記憶は、残されて居ない事が多いのだが、今回は特別らしい。
「本当よ。でもユイ叔母様の100%クローンじゃないから、記憶も性格も別人ね。取りあえず、あなたとの間に子供が出来ても問題ない位にね」
「後、10年したらコウノトリに運んできて貰うさ。一応、お母さん役は君だ」
 うっすらと紅くなったアオイに、気が付かなかったのか、或いは見ぬ振りか、続けて
「その娘、幸せなの?」
 と、訊いた。アオイは一瞬考えてから、
「叔父様が『シンジなら、変えられるかも知れん』と言っておられたわ」
 そこへ横から、
「つまり、今は幸せではない、と言う事になる」
 横やりの主は勿論ユリだ。
「ユリさんには親父の手当もして貰うことになりそうだね。3週間くらいはベッドに張り付いて居て貰おう。大体僕に何を変えさせる気なんだか」
 さして関心もないように言ったが、ふと気づいたようにユリを見た。
「同行はユリさんだけみたいだけど?」
 アオイが、ハンドバックから、もう一枚写真を撮りだした。
 レイの写真は既に、シンジが着服済みだ。何が入っているのか、重量感を感じさせるハンドバッグから、取り出した写真をシンジに渡した。
 見るなりシンジは、何とも言えない表情になった。
 そこには若い女性が写っていた。若いとは言え、アオイよりやや年上気味に見える。
 アオイとユリには到底敵わないものの、なかなかの美人である。
 ただ、問題は胸にあった。
 大きさだけなら、アオイと変わらないのだが、黒のタンクトップだけの姿で、前屈み気味だから、かなり覗かせている。
 しかも、胸の真下で腕を組んでいるポーズだ。遙か昔に一時流行った姿勢である。
「……これ、ビルシュタイン?」
「車のパーツメーカーのお話?」
 とは、アオイ。
「じゃなくって…あ、ホルスタインだ」
「半分正解かしら」
「半分?」
「胸だけのあなたの上司、葛城ミサト嬢よ」
 感情は感じられない声だが、アオイは言いきった。
 アオイから、自分の上司の紹介をされて、幾分憮然とした表情になるシンジ。
「こんな、愛人募集広告に使うみたいな写真を流出させている人が、僕の上司になるの?」
「シンジ、ここに彼女の略歴がある」
 そういって、ユリが分厚い書類をシンジに手渡した。無論、ゲンドウからの物ではない。
 だが、ゲンドウから、葛城ミサトの話を聞かされたのは、今朝方の事である。数時間も経たない内に、どうやってそんな物を手に入れたのか。
 略歴と呼ぶには、あまりに詳細な資料だが、数秒で目を通して、ユリに返した。
「セカンドインパクトの現場の生き残りか。ところで、使徒とか言うのにやられると、サードインパクトが発生するんだよね、確か」
「その通り」
「と、言う事は、セカンドインパクトは使徒もどきか何かが引き起こしたのかな?」
「半分は正解になる。触れてはならぬ、使徒もどきに触れた所為だ」
「自らが招いた結果とはいえ、14才の少女には関係ない話だ。多分、使徒を恨んでるはずだ。だとしたら、今の職を選んだのは仇討ちも兼ねてるだろうね。僕らは三十路前の女性の、籠もった怨念晴らしの道具か」
「単なる、仇討ち一本の猪とは違うでしょう?」
 アオイのフォローも届かない。
「経歴?名ばかりの最高学府での経歴書も、養鶏場のアルバイト経験証明書と、大して変わらないよ。それにこれ、最高学府でもないし」
「一つ言い忘れた事があった」
「何?」
「碇司令は、シンジにかなりの自由権限は与える、と言っておられた。おそらく、緊急時の自己判断は、かなり出来る筈よ」
「そう。じゃ、その権限でアオイちゃんの召喚を」
「今のシンジじゃ、生体マグネタイトが不足よ」
 シンジの邪な野望を、アオイの声が断ち切った。
 どうやら、最近はまっているゲームの影響らしい。
「あ〜あ、型崩れを目前に控えた脂肪だけが取り柄の木偶人形が、僕の命を握ってる訳だ」
 ろくでもない事を言いだしたシンジへ、
「止めても構わないわよ、シンジ」
 とんでもない事を告げたアオイだが、実はこれも本心である。
「で使徒退治はレイちゃんともう一人に任せて、僕はサードインパクトが来る日を、座して待つの?イヤだね…痛いって」
 甘い声だが断固として否定したシンジの頬を、二人の白い手が両側から、引っ張っている。
 だが、こんどはどちらの胸に押しつけられる?
 二人の視線が交錯した瞬間、全員が一斉に後方に飛んだ。
 今居た場所に、人数の倍のナイフが突き立ったのは、次の瞬間であった。
「真っ昼間からの、公道でのいちゃつきは、死罪に値する、知らなかったか?」
 低く、嫌味を十分含んだ声と共に、人影が周りを取り囲んだ。全部で六つある。
 黒ずくめにして、顔まで覆っているのは悪党の正装と昔から、相場が決まっている。
「鬼頭会の消し忘れかしら?」
 無修正をうたって販売したビデオの、モザイク消し忘れでも気づいたように言ったのはアオイである。
 そこへユリが、
「私は現在妊娠六ヶ月の身重だ」
「私は…そうね、腸捻転と心臓発作と初期の悪阻が一度に来たみたい」
「じゃ、健常者は僕だけ…って、誰の子供なのさ?」
「シンジ、私の寝所に忍び入った、あの情熱の夜をお忘れ?」
「あ、ずるい。私なんか白ワイン20本で酔わされて、流されモードだったのに」
 白い指が揃って自分を指すのを見てふう、と溜息を吐くシンジ。
 取りあえず
「やかましい」
 と、かましてから連中を見据えた。
 突然二股男の名誉を着せられて、眼には怒りのような物が浮かんでいる。
 だが彼らの声に緊張感の欠片も無く、顔も微笑しているように見える原因は一つだ。
 即ち、シンジ一人始末するのに、6人如きでは獅子に向かう青蛙、であると。
 ただ、目の前の男達は、そうは思っていないらしい。余裕を利かせた嫌味の割に、緊張が走っていたが、アオイとユリが見物人に身をやつす事を知ると、それが消えた事でも分かる。
「随分と舐められたもんだ、え?にいちゃ…」
 兄ちゃんよぉ、とすごむつもりだったらしいが、最後まで続ける事は出来なかった。
 抜く手も見せずに、投擲された小柄は腰の周りに装着してあり、全部で12本ある。
 拳銃も使えるのだが、今のシンジは近接戦闘を得意とし、一本の剃刀でさえ、特定の家系に災いをもたらしたとされる、かの名刀に近い働きをさせる事が可能だ。
 なお、本命は、模様の彫り込まれたシルバーナイフである。
 普段なら、秒速を旨とするシンジだが、喉笛に刃を突き立てたまま、倒れていく男を黙って見ていた。幾分無表情と化しているが、気負いも殺気も感じられない。
 一人が消え、再び殺気が強まった。二人が左右から迫る。手には大型のサバイバルナイフが装備済みだ。
 左側のナイフが胸元に突き出され、軽く上半身を揺らして避けた所へ、右側の男が斬り付けた。回転半径を最小限に抑えて、矢のように繰り出された回し蹴りが、ナイフより先に水月に吸い込まれる。瞬時に引き戻された脚は、地面に付く前に、再出撃を命じられた。
 不安定な姿勢にも関わらず、ほぼ垂直に上がったシンジの足刀が、手首を直撃する。
 硬めの靴に加え,しかも猛烈な勢いで、蹴り上げられた手首が鈍い音を立てた。
 腹に強烈な蹴りを叩き込まれた直後に、手首を蹴り折られたのだ。取りあえず手首を押さえて地面へ蹲りかけた首へ、惚れ惚れするようなかかと落とし。
 ただし、シンジにしては大業だが。
 かろうじて、目で追うしかできなかった男が、ナイフを腰溜めにして突っ込んで来たが、喉から異物を生やした人形を、もう一体作ることで応じた。
 シンジの踵落としなど珍しい。
 普段は最小の動作で片づける、がモットーだ。胸元への攻撃を交わしてから、数秒しか経っていない。他の連中は、見捨てたのではなく、動く間が無かったのだ。
 残った3人の顔から余裕が消えた。どうやら、アオイとユリは知っていてもシンジに関しては殆ど知らなかったらしい。その代償を目撃して、一斉攻撃へと方針転換したようだ。
 但し、動いたのはまたも2人だけ。
 前の二人と同じく、左右から間合いを詰めていく。
 最初に声を掛けた男を、真ん中にして、上から見ると正三角形に見えた筈だ。
 アオイがあら、と呟いた。依然として、観客ステージから動こうとはしない。
 シンジとの差が一メートルを切った時、後ろの男の手が動いた。
 シンジ目がけてナイフを投擲したのだ。さっき3人を襲った物とは違い、中型のナイフである。当たったら痛そうだ。飛来するナイフと、左右の男の動きは同時であった。
 どう避ける?と、男がシンジの動きに注目した瞬間、シンジが軽く地を蹴った。数メートル一気に跳躍した。
 バネでも装備しているかのように、軽々と宙に飛んだシンジの下を通過したナイフが、失速して地面で堅い音を立てた。
 思わず眼を見張る男達が、慌てて振り向いた瞬間、目の前にシンジが迫っていた。
 取りあえず右側の男の喉元に貫手を繰り出し、動きを止めてから反対を向いた。微笑さえ浮かべているその顔を見て、勝手に足が後ろに下がるのを許さず、そっと手首を掴んだ。
 ぐいと、引っ張られた上体が泳いだ瞬間、ご丁寧に、足を強烈に払ってから、一本背負い。
 受け身も何もあったものではない、頭からコンクリートに叩き付けられている。ほぼ即死状態だろう。喉を押さえていた手を離した男の側を、シンジが駆け抜けた。
 
 馬鹿が、わざわざ真ん中に入りやがった、なぶり殺しにしてやるぜ…。 
 
 自ら的になりに行った、としか見えないシンジに男がほくそ笑んだ瞬間、男は全身に暖かい物を感じた。
 それが、自らの喉が吹き上げる鮮血と気付いた時、視界は深紅から急速に漆黒へと変わっていった。
「足りたかしらね?」
 唐突な発言は、アオイへの物であった。
「多分、ね。叔父様も入院しなくて済みそう」
 くすっと笑ったアオイは、吹き上げる鮮血にも清楚な雰囲気を全く崩さないままだ。
「足りないな」
 唇の動きだけでの会話を、どうやって盗聴したのか、シンジから物言いが付いた。
「悪いけど、それで我慢してくれる?解剖済みの遺体は、移植には使えない事が多いの」
 肉体の提供を待つ者の多い、自らの病院の実体を考慮したユリの発言であった。
「ねえ、ユリ」
「ん?」
「五臓と胃は使えそう?」
「大概あの手の輩は、せっかくの身体の管理能力も無い愚か者が多い。搬送車に連絡を取ったから、じきに来ると思うけど、その前に点検するの手伝う?」
 そう言ったユリの眼は妖しくかがやき出している。
「今度ワンピースとか、一式買ってくれる?」
 ユリが妖々と頷いた。
「それならいいわ…ところで、眼が濡れてるように見えるけど?」
「患者を救うための大切な材料の入手、医者に取ってこれ以上の快楽がある?」
 否定しようともしない。
 続けて、
「商談は成立した。シンジ、その方も用途が決まっているから大切にね、それから急いで」
 臓器提供者と化した死体を前に、使える部品の点検に雇う助手の交渉と、もう一体増やすべく、提供者の作成を急げとの催促だ。
 一方、シンジも慣れているから、怒りも驚きもしない。にっこり笑って、
「搬送車が来る前に、鬼籍に転籍して欲しいんだけど」
 と、来た。
 激昂した男が、懐中から抜き出したのは大型拳銃・ベレッタM92F。
 だが、銃口をシンジに向けることは、叶わなかった。
 男の銃を見てから抜いたにもかかわらず、シンジの拳銃が轟然と吼えた。
 その手にあるのは、ワルサーP88。
 冷たく銃弾を吐き出したそれは、ベレッタの銃口を破壊し、殆ど同時にハンドバッグから引き抜かれた、アオイの357マグナムは、男の耳から入って反対側に抜けていた。
 崩れ落ちた男には眼もくれず、アオイを振り返るシンジ。
「アオイちゃん?」
 自分のカーディガンを指さし、貰った物、と一言言った。
 アオイの手出しは、シンジにもらった物が汚れた血で染まる事への、憂さ晴らしだったらしい。魔女医の手助けは、大事な服の汚れも伴っていたのだ。
 それを見たシンジは黙って頷き、銃を軽く撫でてから、ホルスターに戻した。
 嬉々として遺体を見ているユリと、幾分不機嫌気味なアオイは対照的であった。
 シンジに貰った服を汚すのが、気に入らないが、服一式の誘惑は強烈なのだ。
 無論、服が買えぬ境遇な訳ではない。
 一流ブランドも、あっさり買い占められるだけの金など、口座一つの解約で足りるだろう。
 ただし、ユリが選ぶ服は特別なのだ。
 アオイやシンジの、幅広い情報網にさえ引っかからぬ場所から仕入れて来るらしいそれは。
 いそいそと点検に励んでいたユリが顔を上げた。
 知らない人間が見たら、死体に欲情していると思うかも知れない。それほど、嬉しそうな表情だったのである。
 どうやら、遺体はかなりの健康体に近かったと見える。
「どう?」
 と、幾分嫌そうな表情で訊ねたシンジに、妖艶に笑ったのが答えだった。
 そこへ、サイレンを鳴らして救急車が滑り込んだ。降りてきたのは何れも美貌の女性隊員ばかりである。
 横に並んで挙手をしたのに向かって、
「移植待ちが何人か減る事になった。良い状態よ。提供はいつも通り、シンジから」
 妙齢の女性達ばかりだが、死体に顔をしかめる事もない。余程慣れているようだ。
 シンジに向かって黙って黙礼する。
 院内でも結構人気の高いシンジだが、アオイとユリを前にしてシンジに微笑む事が、想像もしたくない結果を生む事は、本能的に察知している。
 美少女好きのユリと、美少年に目がないその配下。良い組み合わせである。
 今のシンジにちょっかいを出しても、ユリの閻魔よりも、冷たいと言われる視線を浴びる事は無いのだが、アオイからは、噴火目前の火口よりもなお、灼熱の高温と言われる炎気を吹き付けられ、勤務先に入院することになりかねない。
 同じ“シンジ”でも、二人の好みは別なのだ。
 熱を秘めた、ショタの看護婦達からの視線にシンジの方は、軽く目礼で返した。
 アオイとユリをいつも見ているため、女性の容姿で惹かれる事はまず無い。
 つれない対応にも表情は変えず、死体を手早く積み込んだ。
 無論、「異常死体は警察に」などと言う者はいない。
 彼らは、長門病院の選ばれた搬送員兼看護婦なのだ。
 意味もない剖検に回されるより、臓器や肉体の一部の提供を待つ患者に供するべき、との考えに同意できない者は、ここには居ない。
 勿論、普通の乙女といってよい女性ばかりだから、最初は抵抗があるが、それが一月あまりで慣れるのは、ユリの妖気に当てられたせいだ、とも言われている。
 死体が運び込まれるのを、見送ったユリが振り返ると、アオイを慰めているシンジがいた。
 なお、アオイのカーディガンはその袖口が深紅に染まっている。
「亜空間に置き去りは困る。さっきの臓器提供者も、公道での華燭の典は禁止と、言っていた筈よ?」
「でもユリ、シンジが上京している間は、ずっと一緒なんでしょう?」
 それを聞いたユリがにっこりと笑った。嫌な予感がしたシンジが釘を刺した。
「言っとくけど、宿舎は別にして貰うからね。くれぐれも、カメラなんか付けないように」
「相変わらずつれないのね、シンジ。誰譲りかしら」
 切ない溜息でも伴いそうな声で言うと、じっとアオイを見た。
 こんな眼で見られたら後が怖い事をよく知っているアオイは、直ぐに否定するべく、首を振るとバッグの中から、2本の鍵とカードキーを取り出した。
「情操教育は私の範疇じゃないわ。それとシンジ、これを」
「車と家?」
「お祖父様のベンツ並に装甲してある車を、用意してあるそうよ。ついでに家は、登録された者以外は入れないみたい。現在登録してあるのは、あなただけですって」
「僕の車を持って行っちゃダメなの?」
 シンジが言った自分の車とは、スバル−富士重工が誇るレガシーの最新鋭車である。
 ハイパワーターボ+4WD、公道を走り回るにはこれは不可欠となるが、シンジの車は好きなだけ手が入っている。
 もっとも、エンジンや足回りだけでその他の装備はしていない。
 タイヤも防弾ではないし、窓ガラスが完全防弾になっているのが、まだましと言える。
 ただし、シンジの車は一台ではない。
 もう一台、BMWの大排気量の車も持っているのだ。
 750ILは、元来の排気量は五千ccだが、それを七千ccにまで改造してある。
 文字通り、どこでそんなパワーを使うのか、と言った感じである。
 しかも、なぜだか知らないが、AT車をわざわざMT車に変えたのだ。
 なおATとはオートマチックの事であり、MTとはミッション車を指している。
 ただこれもシンジに言わせれば、
「ATは、どうしても不安定が残るから」
 らしい。
 確かに、AT機構自体が壊れるのは、AT車には付き物である。
 こっちは防弾ガラスにノーパンク仕様のタイヤと、きっちり“商用車”となっている。
 と言うよりも、それ以外には使わない。
「でもシンジ、折角叔父様が用意して下さったのだから、それを使うようにしたら?武装に関して設計したのは、ネルフの頭脳とも言われる、叔父様の右腕の方みたいよ」
 その口調に何を思ったか、
「男の人?」
「葛城ミサトより一つ上の女性だ。君が考える通りの関係ね」
「締め上げて吐かせる事が、随分とありそうだね。分かった、車は置いていこう」
 それを聞いたユリが、白衣の中から一枚のカードをシンジに渡した。一目でクレジットカードと知れる表面のマークは無限を表す記号だ。
「シンジの生活費、だそうよ。支払保証は無制限、内容監査は無し、との伝言よ」
 ユリの言葉に、軽くカードの端を持ってはじいたシンジが、少し首をかしげた。
「お金なら、結構あるんだけど。どうしてわざわざ?」
「身分証明も兼ねるから。一応あなたは司令代理として、施設は何処でも出入り出来る事になっている。でも一歩外に出たら、ネルフの身分証より、発行枚数が4枚しかない、こっちのカードの方が使える事もあるのよ」
「その、司令代理ってのは、僕が使わないことを前提だね?」
「さて、ね。ともかく、明日は学校で挨拶してから、荷物づくりね。でも持っていくのは、護身の道具だけでいい。全部あるらしいから」
「そこまでして、一体何をさせるつもりだ、あの親父。ところで明日って言う事は、未だ日が高い今日はどうしろと?」
「シンジ、そのゴールドカード、第三新東京でいきなり偽物だと言われたらどうするの?」
「成程」
 それだけで納得したらしい。即ち、まずここで使ってみるということ。
 そして、用途は目の前の麗人達への贈り物にすべき雰囲気だ、ということを。
「ユリさんは、クロコダイルかナビゲーターの皮で作った物体として、アオイちゃんは?」
「私はこれ」
 そう言って自分の手に持っているカーディガンを指してから、
「シンジ」
 と、呼んだ。
「はい?」
「面白くなかった。今日の夕食はシンジね」
 酷評されたのは残念だが、もとよりそのつもりのシンジに異論はない。あっさり頷いて、一度着替えるために時間を指定して、家に戻るべく身を翻した。
 軽く手を振って、見送ったアオイをユリが呼んだ。
「アオイ」
 その声は、他人には冬の海より冷たく感じられるが、アオイはその中の優しさを感じ取っていた。
 振り向く前から、アオイの眼が潤んでいる事をユリは知っていた。
 果たして、潤みきった目で振り向いたアオイの前に、ユリが立った。
 ユリの肩に頭を預けるアオイ。ユリの手が伸びてそっと頭を抱いた。
「よく耐えた、と言いたい所だが、この髪がぼろぼろになったらどうするつもり?」
「いいの、ユリにやって貰うから」
「私は患者の容態にしか興味はない。でも、おそらくシンジの言った通りになる」
「シンジの言ったとおりって?」
「この葛城ミサト、指揮官としてはおそらく使えない。何より会う前からシンジの評価があれでは、最も不可欠な信頼が全く得られないわ。もし、平凡なミスでシンジに何かあってもいいの?」
 ユリの言葉に、ゆっくりと上がったアオイの目はすさまじい光を帯びていた。
 瞼に指で触れて閉じさせると、軽く抱きしめた。
「様子は逐一、連絡する。私が判断したら、すぐに上京するといいわ」
「そうね」
「私も行って、着替えてくるわ。信濃家の次期当主が、弟宮との別れに、目を腫らしたとあっては、シンジの決意も揺るぎかねないからね」
 それだけ言って、身を翻したユリに、アオイが小さな声で呼んだ。
「有り難う」
 顔だけ振り向いて、微笑したユリは、歩きながら一人呟いた。
「あの二人の想い、想い人のそれとは微妙だが、確実に違う。とはいえ、あの関係はシンジとアオイが義姉弟にでもなってこそ、より楽しめた。楽しみはより追求すべきだったか。それにしてもユイをあれほど忌んでいたシンジが何故、あっさり受け入れた?綾波レイの魔力、いや、それ以外に何かを見たのか?」
 合流した三人が、確認の為には十分過ぎる程色々と買い込んでから、配送の手配を済ませ、ホテルで食事した後、更に最上階のラウンジで見事な蟒蛇ぶりを発揮し、ようやく帰宅したのは深夜2時を過ぎた頃であった。
 帰り道、エヴァの話題は全く出なかったが、玄関に入った時、
「シンジ、お風呂は?」
「シャワーだけ浴びて、もう寝ます」
「そう」
 二、三歩行きかけたシンジが振り向いて、二人の視線が絡み合った。
「当てに出来なかったら…来るんだよ?」
 見る者を安堵させる眼差しで微笑んだ。
「ええ、必ず」
 差し出された、小指と小指が軽く絡まった。
 安心して眠りについたシンジの横には、アオイの姿があった。
 ガウンから肢体が溢れているのは、いつもの事である。
 次の日、シンジはクラスには行かず、教師だけの挨拶で済ませた。
 シンジの秘かな人気を知っているアオイが、影響が大きいからとシンジに指示したのだ。
 家に帰ってから、小型のスーツケースに、金属探知器絶叫間違い無しの危険物ばかりを、次々と詰め込んだ。
 ここの当主ヤマト夫妻は後一週間帰らず、アオイは駅まで見送りに来るが、現地待ち合わせになっている。
 使用人達に見送られ、玄関を出たシンジは、屋敷へ軽く一礼してから地下駐車場に降りた。
 選んだ車はBMW、周囲を一周してから、乗り込む。
 無論、爆発物探知機は危険を察知していない。
 いや、正確には車のコーティングを眺める意味合いの方が強いのだが。
 ハンドルを軽く指でなぞってから、キーを捻る。
 一瞬、広い駐車場内に轟音が鳴り響き、静かになった。こういう目的の車に高いエキゾーストは不要なのだが、あくまでも音にこだわった、シンジのわがままである。
 滑走路と呼んでも差し支えない程長い、敷地内の道路を滑るように飛び出した車は、一路駅へと向かった。
 ハンドルを握りながら、胸元からレイの写真を取り出して、眺める。
「この娘がクローンか。それにしても、よく教えてくれたな、この事。普段は秘密主義に徹してるのに。高いつけにならなきゃ良いけど。」
 自らを俺と呼ぶシンジが意識を解放した事を言っているのか。
 だが、シンジは知らない。綾波レイが唯一心を開くのが、自分の父ゲンドウであり、レイにとって、ゲンドウの愛情の対象であるシンジなど"敵"でしかない事を。
 親の愛情を独占していた所へ、下が生まれて、愛情を奪われたと抹殺を目論む、某魔家族の子供達みたいなものだ。
 そんな事はつゆ知らず、写真を仕舞ったシンジの目に、駅が見えてきた。
 停めてある深紅のポルシェ911は、アオイの車だ。
 ロックして降りて、スーツケースを担いで、構内に入ったシンジはアオイとユリの姿を認めた。
 アオイの服装は白をベースにしたスーツ姿。
 基本的に何を着せても似合うのだが、やはり白が一番似合うと、シンジは実感した。 
 一方ユリは、いつもの通り白衣姿だ。
 ただし今日の白衣の中は赤で統一してあるらしく、胸元から覗いている。
 シンジが近付いてくるのを見て、ユリがすっと離れた。
 シンジの口許に僅かに笑みが浮かんだ。
 "有り難うと、余計な事を"の双方が入り交じった感じだ。
 アオイの横に立ったシンジに、アオイが薄いカード−にしては厚い−を渡した。
「私との、直通用携帯なんだけど…要る?」
 わざとすぐには渡さない。シンジの手が届く寸前、すっと後ろに引く。それを追ったシンジの手が、アオイの身体を半周した時、シャツの前を引っ張った。アオイに抱き付く格好になった時、耳元に口を寄せた。
「髪の手入れは、気をつけてね」
 囁いて、シンジに携帯を手渡す。
 シンジが離れたとき、列車が滑り込んでくるのが見えた。
 アオイらしい言葉に、シンジは微笑で答えた。
「君も。あとこれ頼む」
 車の鍵を手渡した所へ、頃合い良し、とみて近付いてきたユリと列車に乗り込んだ。
 席に座った二人が窓の外を見ると、目があったアオイは軽く手を挙げ、背を向けた。
 あっさりした反応に、
「嫌われたかな?」
「さて」
「昨日、何か吹き込んだの?」
「さて」
 不毛な会話を諦め、シンジはスーツケースの中の点検に取りかかった。
 一方ユリは、分厚い書類を取り出し、閲覧中であった。
 シンジはその表紙に「惣流アスカラングレーに関する極秘資料」と記されている事を知らない。何れ自分と深く関わる事になる少女の事を。
 そして、彼女のためにユリと二人で、はるばるドイツまで遠征することを。
 列車は第三新東京に向け、更に速度を上げていく。
 
 
 
 
 
(続く)  

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