第一話
 
 
 
 
 
 死者への哀悼は、時に限りない美化へと形を変える。
 生前なら、鼻に付いていた欠点でさえ、愛しさへと昇華し、その拡大は、止まる所を知らない。
 完全無欠となり、思い出に残る故人に、誰が太刀打ち出来ようか。
 結婚相手に死別の経歴がある時、そのかつての伴侶との比較だけはされたくないと、誰もが切実に願うのはその為だ。
 しかし、果てしないのは、美化だけではあるまい。
 正反対の感情、即ち憎悪である。
 誰かに対する失態は、大方の場合修復可能である。
 謝罪や、弁償、埋め合わせやその他、手段は幾つもあろう。
 だがそれは生者にのみ許される特権であり、死者は自らに向けられた感情に対処する何の術も持たない。
 癒されぬまま、肥大し続ける感情は、危険な匂いを含み出す。
 既に幽冥境を異にする者へ向けられた感情、その行きつく果ては何処にある?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 街の外れに、緑を色濃く残す公園がある。
 ここ最近、急速に開発が進む街に比べて、対照的に豊かな自然が残っているのは、本来の持ち主の意向によるものだ。
 この公園は、本来持ち主である信濃家が、名医の家系としても知られる長門家に、セカンドインパクトの際焼失した病院の代替地として、安価で売却する予定であった。 
 だが、ある晩の事、県内の指定暴力団の事務所で、一夜にして組長以下九割の組員が惨殺される事件が起きた。
 資金力に物を言わせ、豊富な火器を揃えた上に、武道の有段者を揃えながら、殆ど抵抗も出来ず、殺されていたのも奇妙であったが、更に衆目を惹いたのは、僅かに残った組員が組の全資金をかき集め、買い込んだ土地を信濃家に献上する、という奇行に及んだ事である。
 一夜にして、百名からなる、武闘派として知られた組が壊滅した理由は、今もなお知られていない。
 ただ、警察が辛うじて生き残った連中の行動を見ながら、調査しようとはしなかったのは、署長の脳裏にある人物が浮かんだからだ、とされている。
 信濃家では、献上された土地を、断りもせず納めると、長門家にそっくり譲った。
 長門家の大病院は、現在そこに建てられている。
 当初の予定地は、代金が支払われる前に、既に造成に取りかかられてはいたが、信濃家の当主である信濃ヤマトは、多大な植林をして公園に変える事にした。
 創った公園を、自らの早朝の散策にのみ供するより、憩いの場として市所有の公園に、名義を変えたのである。
 無論市長室の、耐震耐火の金庫の中には、「仮の名義変更」について記された書類が納められているのは、言うまでもない。
 本来の持ち主の入り用な時はいつでも、売買も宅地造成も出来る、という一文付きだ。
 その公園の端にある、小高い丘に、二人の若い女性が訪れていた。やや、高いところにあってそこからの眺めもなかなかの為、休日ともなればかなり賑わったりするのだが、今日に限っては閑散としていた。
 訪れた二人はいずれも、美姫という言葉が当てはまる容姿の持ち主である−それも、けた外れのレベルにある。
 腰の辺りまで、長い髪を揺らしている女性の方は、黒のノースリーブに、漆黒のタイトスカート姿、ついでに濃色のストッキングにこれ又黒のローヒール。
 ただし、長い白衣で全身を覆っているため、覗くのは僅かな襟元と、膝より少し下辺りからだけである。
 一見すると、美貌の看護婦なのだが、全身から漂う妖艶な雰囲気が、それを幾分否定する。
 いや、優秀な腕の持ち主ではあるのだが、それだけでは形容に不十分だ。
 泣いて注射を嫌がる幼児にも、手術への恐怖心から、自らの中に籠もってしまった少女にも同じように微笑む。その微笑みは、心からの安堵を与え、幾層にも築かれた心の壁を取り払ってくれる。
 にも関わらずその笑みが、天使のようだと言われた事は無い。
 妖艶な雰囲気を漂わせながら、それでいて穏やかな微笑は見る者に、まるで魅入られたような気にさせる。
 優しく話しかけられ、或いは何も言わずに微笑まれ、大人しくなったり、勇気づけられたかに見える患者が、実は、安心しきった患者というより、蛇に見つめられ、禁断の実を食したかの最初の女に近いものに見えると口に出来るのは、横の女性を含めて、2人しかいない。
 その女性の髪は、肩を過ぎた辺りだが、白衣の女性とは艶がかなり違っていた。
 少しでも髪にこだわる者なら、羨望を禁じ得ないほどの、艶と輝き。
 だが、それが分身同様の、彼女と変わらぬ長さの髪を持つ少年との、相互の手入れの結果であると知ったら、どんな顔をするだろうか。ブラウスもカーディガンも長めのスカートも、全て白でまとめられている。
 白の服装に清楚な雰囲気がぴたりと合っているが、白い首筋から下に目を移した時、今とは正反対の雰囲気を演出する服装をさせたいと思うのは、あながち無理からぬ事かもしれない。
 他人事ながら、肩こりや、凝ったデザインの下着が無さそうな事をつい、気にしてしまう胸元は、中で強烈に自己主張している住人に、思い切り持ち上げられ、見事に引き締まった腰へと、思わずなぞりたくなるような、曲線を描いている。
 やや長めのスカートに覆われている足は、丸みを帯びたふくらはぎから下を見せるのみであったが、それでも足首までのラインと、熟練した名工が精神を込めて、彫り上げたような足首は、決して安易な痩身法等では、真似の出来ない、如何なる努力も天分の素材の前には挫折する事を、残酷な程に実感させる、天与の美を保っている。
 友人である白衣姿の女性と違い、大抵の事には冷徹そのものの拒絶は見せないため、時折出入りする長門病院での人気は、異なった意味で高い。
 白衣姿の女性は、長門家の一粒種の、長門ユリ。現在22才。
 医大を首席で卒業後、婦長補佐として、実家の病院へ入った。
 代々の中でも群を抜き、神業に近いと言われる腕と、妖艶な迄の美貌、加えて自我を忘れて暴れている患者すらも、借りてきた猫に変貌させると言われる微笑とは、彼女見たさに訪れる者が、全体の二、三割を占めると言われる程で、元々高かった、病院の名声を、一際高めるのに貢献している。
 ユリの横で、一枚の写真を眺めているのは、親友にして幼なじみ、武芸の師でもある信濃アオイ。
 県内は勿論、近隣でも並ぶ者なき、大富豪信濃家の当主ヤマトの、孫娘。
 今なお、五指に数えられる難関の国立大学を、2番目の成績で卒業。
 容姿端麗・成績優秀・優れた家事能力・と3冠を兼ね備え天は二物を与えずの言葉が偽りである事を、身を以て証明する女性である。
 現在の仕事は、信濃家所有の、数えるのも面倒な程の建物の管理、という事になっている。
 ただし表向きは、である。
 見ただけで、羨望を禁じ得ないそのスタイルは、雰囲気的には、ユリとは反対にある。
 アオイとユリが並ぶと、ユリの妖艶さが目立ち、何となく影が薄いが、決して劣るものではない。
 あくまで清楚と妖艶という対極にあるだけだ。     
 その証拠にユリのような、ほんの少し唇を開いた笑みだけで良からぬ妄想に走らせる魔力は無いが、清楚な雰囲気とは似つかぬスタイルは、街でカップルをしばしば、破綻させる悪行を重ねてきている。
 もっとも、自分の連れなど足下にも及ばぬ程の、美の具現とも言える対象を見ても視線を全く向けないのは、男として至難であるし、精一杯に着飾ってきた自分とは、比較にならぬ事を全身で痛感しつつも、連れがそちらに目を奪われれば嫉妬の化身と化すのが、女である。
 カップル破壊の大罪を重ねてきた、という点ではユリも、さして変わらないが、違いが一つある。
 アオイに見とれるのは、男女半々だが、ユリの場合は、女性の方が多いという事だ。
 名前通りの性癖が、自然と伝わるらしい。とはいえ、実際にはある年齢以下の少女、それもかなり高めの設けられた基準以上の容姿、という事らしいのだが。
 しかし、町中で、この二人を見かけ、挨拶以外で声を掛けた者が一人もいないのは、共通している。
 どうやら、彼らの本能が危険信号を発するらしい−汝、ふれる事なかれ、と。
 この二人を単に美貌で比するなら、ユリに分がある。
 スタイルでは幾分、アオイに劣るものの、妖艶で何処か美しい悪魔にも似た感じは、アオイの及ぶところではない。
 一方、アオイはユリのように、死と引き替えと知りながら、手を出さずにいられない、甘い毒杯の感じは無く、どこか天使のそれに似た感さえある。
 清楚に加えて、毅然としたものも感じさせるのは、幼少より身につけた、武道の成果もあるのかもしれない。
 例えれば、妖艶な悪魔と、美貌の天使、という感じか。
 だが、この天使は怖い。
 信濃家の表の顔は地主だが、裏の世界では代々知られた暗殺者の家系であった。
 特に、アオイが祖父に代わり請け負うようになってからの、同居人でありアオイが分身と称して憚らぬ少年との組み合わせは、最強とも最凶とも呼ばれている。
 その暗殺者の信濃家と医者である長門家は代々、裏の繋がりにあった。
 信濃家の要請に応じ、ある時は薬剤を調合し、またある時は、医者故の人脈から得た情報を提供してきた。
 それに対する見返りは、金銭ではなかった。処置に困って、山中に埋めたりあるいは海に投棄したり、又コインロッカーに預ける代わりに、死後幾らも経っていない遺体を、最も安全で新鮮な実験体、あるいは臓器提供者として無償で、贈呈したのである。
 いつの時代も、新鮮な肉体を持つ被験体というのは、入手が困難である。
 その点で、この暗黒の繋がりは、双方に大いに益をもたらす物であった。 
 ところで、この二人が待っているのは一人の少年である。
 そう、もうじき来る筈の碇シンジを。
 黒衣の死天使の異名を持つ少年であり−
 信濃ヤマト夫妻が、目に入れても痛まぬ程に目を掛けている少年であり−
 何よりもアオイにとっては、自らの分身を称して憚らぬ存在の少年である。
 境遇的に見れば、何一つ欠ける物のないシンジに見える。
 だが、シンジの経歴を見るとき、それは順調そのものだった訳ではない。
 むしろ、その対にあったと言っても良いかも知れない。
 幼少の時、母を亡くし父親に預けられたシンジは当初、虐めの的となっていた。
 コインロッカーに放置するような真似は、さすがに気が咎めたか、ゲンドウは週に一度必ず訪れていたのだが、1ヶ月目を過ぎた頃、微妙な変化に気付いた。不器用だが、人の観察に敏な所もあるゲンドウの話で、すぐに動いた信濃家の情報網は、学校での醜態を即日さらけ出した。
 学校の鉄扉を、戦車並の装甲に加えてエンジンも、フル改造したベンツで空高く、吹き飛ばして、乗り込んだヤマト夫妻の行動は、半数余りの職員の異動、或いは辞任及び翌日のクラス替え、という結果をもたらした。
 ただ、事態はそれで収まらなかった。
 シンジへの加虐はいわれなき事と、周りも承知していた為に、シンジが居場所を無くす事は無かったが、既にシンジは幾分心を閉ざしかけていた。幸い多岐に及ぶ専門科の中に、精神科もあったユリの父親の助言に従い、シンジと接した信濃家の人々の努力で、幾らも立たない内にシンジは心を開き、溶け込むようになっていった。実弟のように可愛がり、学校以外は何時でも何処でも、一緒にいたアオイとは特に気も合ったようで、同じ結果なのだが信濃家、ではなくアオイと同じ道を、という事でアサシン(暗殺者)としての術を身につける事を選んだのは、小学校の低学年の時であった。
 ただ一時は、信濃家に溶け込むのと反比例して、ゲンドウを避けていた時期があった。
 預けられた当初の、境遇の因が両親にある、と思っていたせいである。
 確かに大外れではないし、殆ど親の所為なのだが、えてして男親というもの母親程、情愛が細かくないとされ、そこまで気が回らなかったりする。  
 まして、不器用な所を多分に持った、ゲンドウを責めるのは幾分酷かも知れない。
 だがゲンドウは、信じがたい程の根気を見せた。幼い息子が、どんな反応を示そうと、週一度の来訪は欠かさなかったのである。普段の彼を知る者には信じがたい事だろうが、兎も角そのおかげで,父子の中は改善された。
 だが、母親の碇ユイに対する感情は、今ではシンジの前でその名を呼ばせぬものにまでなっている。 
 ともあれ、両親に対するシンジの評価は、殆ど百八十度に近いほど分かれているが、それが今なお続いている、どころか勢力を増しているのが現状である。
 『どんな親でも敬意に値する』
 などとと、甚だしい時代錯誤論を、平気でぶち上げる連中にとっては、即座に矯正を要する思想だろうが、信濃家には、そんな愚か者はいなかった。
 ゲンドウが、シンジの基本的な教育に関しては、信濃家に任せており、常にはそばに居られない、という負い目を感じてか、教育方針を押しつけようとはしなかった事も、一因にある。
 その信濃家では、シンジの感情を矯正しようとはしなかった。
 自主性を重視、というより、子供の育成には両親が不可欠と言う家訓がある信濃家の人々に取って、事故とはいえ危険を承知で臨んだ、ユイの一件は、どこか人災に見えたのかも知れない。少なくともアオイの両親の飛行機事故とは一線を画している。
 アオイも生前のユイにそれなりの、憧憬を抱いてはいたものの、やはりシンジの思想を変えようとは、しなかった。
 あどけなさを残す笑顔は、時として京人形のそれであり、その下を推し量れる者は少ない。
 確かに信濃家の人間やユリに対しては、うち解けてはいるが、他人に対してはどこか、距離を置いている。
 心の壁、とでも言うべきか。
 アオイやユリに教えられた勉学や、ヤマトに仕込まれた、暗殺者の、一級の技術、鍛え抜かれた精神力、何処を見ても同年代の子供を、遙かに凌いではいるが決して見下す事はしない。
 ただ、肝心な所では、常に自分を秘している。
 とはいえ、それも親しい者にしか、分からない程度で、初対面の者が抱く印象は、人見知りの気がある内気な少年、であり、親密な付き合いをしようとしなければ、触れる者を全て両断するような雰囲気に、拒絶される事はない。
 だいたい、クラスに一人ぐらいは、殆ど他人と接触せず、本が友人のような生徒はいるものだ。その全てが、心に何かある訳ではない。それに、暗殺者としての身分は、特定の交友関係があると、負に働く可能性があるから、という計算も働いている。
 だから、常に、感情を押し殺している訳ではなく、最近では、普通の少年らしい所も持ち合わせて来てはいる。
 半年前まで一緒だった、アオイとの入浴を避けるようになったのも、年頃になった一端の現れか。
 だが、その後2週間、ユリは毎晩のように、ダース単位で、ボトルを空けるアオイに付き合わされる憂き目を見る羽目に陥った。預かって以来、それこそ常に一緒だったアオイには、相当ショックだったらしい。
 それぞれの寝室を持ちながら、寝床だけは今なお一緒の、シンジとアオイは、一種奇異に見えるが、それを普通の光景としている、アオイの祖父母夫妻や、両親もどこか変わっている。
 一緒に入浴するのを嫌がったシンジだが、
「この際だし、寝るのも別にしない?」
 そう言った時、
「私と同じ空気を吸うのも嫌なのね」
 と、潤んだ目で訊かれ、そこまでの自立は断念した経緯がある。
 別に、そこまでは言っていないのだが、これ以上アオイ離れすると、彼女がアルコール中毒にでもなりかねないとの、判断が先に立った。 
 もっとも、首に巻き付けられる腕は、締め付けられる訳ではなく、柔らかい物であったし、何よりも自分の第六感を作動させて、警戒する要が無い事は、大きかった。それは、アオイにも言える事なのだが、仕事柄熟睡していても、第六感は常に起きているような彼らにとって、その必要が無い唯一の時と言える。
 いわば、レーダーの役割も兼ねる抱き枕、みたいな物だ。
 とは言え、他人が知ったら、何を言われるか判らない関係ではあったが、この二人の関係を細かに知るのは、信濃家以外では、ユリただ一人である。
 無論ゲンドウも知り得ない事であった。
 世の中には、知らない方が良い事も結構ある。
 前に一度来校した時、クラスの大多数の生徒を釘付けにしたアオイと、つい最近まで風呂も一緒でしかも、未だに同じ布団で寝てるなどと知られた日には、いかなシンジでも一矢を報いる事も出来ず、惨殺されかねまい。
 人の底力を引き出す上で、火事場の遭遇に続いて、有効なのは妬心である事は、歴史が証明しているからだ。
 会話が途切れてから、しばらくの間二人とも黙ったまま前を見ていたが、ふと、アオイが自分の手の写真に注がれている視線に気付いた。どちらともなく目が合って、視線が絡まった。
「可愛がると思う?」
 唐突な問いは、アオイの手の写真に写る対象への事だったが、ユリの返答はあっさりしていた。
「余分な毒素が混じっているわね」
 その返答をどう見たのか、僅かに眉が上がり、何か言いかけた時、
「待たせた?」
 アオイの耳は、数十メートル後方、決して大きくはない声を捉えた。
 そこには、左手をポケットに入れ、ゆっくりと歩いて来る、碇シンジの姿があった。
 一目見て、まず目に付くのは、アオイと変わらぬ長さ、しかも色艶まで変わらない長髪であろう。 
 アオイと変わらぬ美しさを誇るその髪は、お互いに相手の髪を、丹念に手入れしている結果だが、入浴の時間がバラバラになると、時折一人で鬱々と作業する羽目になる。
 アオイが今でも時折、何もまとわぬ裸身を背に押しつけて、誘いに来るのはその所為でもある。
 顔は小顔に属する方だが、あどけなさと、冷たさを足して何かで割ったような目元以外は、線の細げな普通の少年である。
 全身黒なのは、'仕事'の帰りだからだ。 
 しなやかだが細身のため、黒ずくめは一層細く見せるが、筋肉質ではないものの、アオイの祖父ヤマトの、厳しい鍛錬を乗り越えて来たものであり、男女別で着替える学校で、同級生達からの、羨望の眼差しを受けている。ついでに、直には見れない女生徒の間で、『碇シンジ盗撮写真』は、入手が困難を極めるため、かなりの高値を付けているのだが、本人は知らない。
 年相応の顔と、不相応な躯は特異な趣味を持つ、ある種の女性達からは、熱い視線を集める事も多く、長門病院へは、裏口来院を言い渡されている。
 そのシンジに最近ユリが、ある種の視線を向けるようになってきた。
 女が男に向けるのとは、やや異なる視線はユリの性癖が出た時のものに近い。
 アオイに取っては、本来特定の少女にしか向けぬ表情を向けられるのが、気になるようだ。
 シンジと、一心同体にあるようなアオイだが、今の所恋人付き合いはしていない。
 ただし、嘘発見器に掛けても、反応しないほど微かではあるが、単純に、普通の彼女が出来ても素直に祝すかどうかは微妙である事を、本人も気付いていない。
 ユリの眼は、視線が合った瞬間、声も出さずに何やら会話していた、シンジとアオイの動きを見逃さなかった。冷やかしたりするよりも、別の方法を考えたらしく、口許に僅かだが、紛れもなく妖しい笑みが浮かんだ。
 シンジと視線を合わせたままのアオイに、重々しく告げた。
「アオイ、あの子には私から伝えておく」
 いいの?と、目で訊ねたアオイににっこりと笑って、告げた。
「あの子の専門医よ、私は。あの子の事なら、全部判るわ」
 ゆっくりと区切りながら、何かを含ませて言ったのが妖艶な女医の意趣返しらしい。
 ただし、報いはすぐにあった。
 それを聞き、正確に意志を読み取ったアオイの白い指が、すっとユリの脇腹に吸い込まれたのである。
 どういう動きをしたのか、ユリの唇が妖しくとがり、小さく息を吐き出した。
 アオイとシンジの専門医はユリだが、自分のかかりつけの医師の弱点は、ちゃんと承知しているらしい。
 自らの白衣の中で妖しく蠢き続けるアオイの手首を、ユリの繊手がそっと押さえた。
 だが、抜き出す代わりに、自らが一歩退いて、アオイの手から逃れた所で、
「ユリさんは敏感なんだから、これ以上の開発はあぶないんじゃない?」
 敏感云々はともかく、何の開発がどう危ないのか、不明な発言を、のんびりした声でしてのけたシンジの眼は、裏返しになっている、アオイの手の写真に向けられていた。
「女の子よ、それもとても可愛い娘、直に会えるわ」
 ユリがそう言うと、アオイが写真を表返した。
 そこには蒼い髪と赤瞳を持つ少女が写っていた。一瞬奇異な感じを受けるのだが、シンジは気にもせず、まじまじと眺めた。
 それを見たユリとアオイが、僅かに頷き合った事をシンジは知らない。
「本当だ…だけど…」
 途中で言い淀んで、ちらりとユリに向けた視線が、冬の夜のような、凍てついた視線ではじき返された。
「面白い思想をお持ちのようだ。是非伺いたい」
 病院に来院したとき、この視線でこんな事を言われたら、一週間は悪夢にうなされると言われている。
 だが、そこはシンジである。柳に風、と受け流して、
「多分、性格も可愛いと思うんだけど…この娘、どうせユリさんの新しい子猫だろ?また新しい犠牲者が…いたた」
 言い終わらぬ内に、シンジの口が、むに、と引っ張られた。勿論ユリの仕業である。
 離した手を、シンジの首に巻き付け、ぐい、と胸に押しつけて、言った。
「私の想い人は唯一人。だが、直に私の胸で窒息する予定だ」
 もう少し、手に力がこもった。本気で窒息させる気かも知れない。
 目にはすうっと妖しい光が宿り、言葉も心なしか、甘ったるくなっているように聞こえる。
 シンジが軽く首を振った瞬間、すっと身を離し
「君の同僚になる娘よ。ファーストチルドレン綾波レイ」
 手も離して言った姿に、妖気は既に微塵も感じられなかった。
 シンジの眼が一瞬細くなる。
 それを見てから、更に続けて、
「午前中、碇司令が来られたわ。明後日の、政府専用特別列車で、私と共に、第三新東京市へ来るように、との命令よ」
 シンジが怪訝な顔になった。
「司令?悪の秘密組織に巻き込むつもりかな?いいや、続き」
 茶々を入れるのを中途で止めて、続きを促した。
 どうやら、聞く気になったらしい。
「碇氏の仕事は、特務機関ネルフ総司令よ。使徒と呼称される物体を迎撃するために、超法規で作られた組織。その使徒に敗れると、三度目のインパクトが起きるから、それを防ぐのが役目。でも、その使徒は、普通にミサイルを打ち込んでも、絶対に倒せない。唯一出来るのが、"汎用人型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオン"と呼称されるロボット兵器。それを操れるのは、14才の少年少女に限られる。
 シンジの乗るのは初号機、既に莫大な費用を投じて、シンジ仕様にしてあるそうよ」
 ゲンドウに告げられた事を大まかに、そして淡々と告げるユリ。
「簡単に言うと、そのEVAとか言うのに乗って、その使徒を撃退して来いって事かい?」
「そうなるわね。私の役目は、エヴァの操縦士であり、単体でもチルドレンと呼称されるあなた達の専門医よ。子細に付いては、ネルフ到着後、司令から」
 後は自分で訊け、と言う事らしい。素直に頷いたが、
「親父を締め上げて吐かせるのは、いいとして、そのチルドレンとか言うのに、僕は1号だか2号だかで決定済み?」
「本妻でも二号さんでもない」
「じゃ、3号かい?あ、さっきのファーストって言う娘が1号?で、二号さん、いやセカンドは?」
 変わったネーミングを付けられた、未だ見ぬ同僚に関する問いは、軽く振られたユリの首で返答とされた。
「知らないか…でも二人もいるなら、地球防衛は任せても…だめ?」
「わざと負けて、ノストラダムスの予言を遅らせて適中させるのも手よ?それとも、この綾波レイちゃんに、あなたの運命任せてみる?」
 妙なことを言い出したのは、アオイであった。
 無論、レイの写真を見たとき、シンジの心は決まっていると、見抜いた上の事であり、シンジもそれは分かっている。
 この辺は、他人の入る隙の無い関係だ。
「14万8千光年を旅して、コスモクリーナーを貰って来いとか言われる可能性は?」
「基本的に、コードをぶら下げて走り回る仕様になっている。第一強力なクリーナーがあれば使徒を吸える、とでも?」
「3年前に告げられた時は、単なる同居かな、と思っていたけど…」 
 あえて言ってみたが、ユリの冷たい反応に、話題を変えたシンジの言葉通り、上京命令は3年前に既に済んでいる。
 シンジも週に一度は必ず来るゲンドウとは、良好に近い関係だから、その時言われても自分に異論があったとは思わない。
 それだけに、その時に何も告げられなかった事は、僅かにシンジの首を傾げさせた。
「ユリさんはその事を、とっくに知っていたね?」
 あっさりと頷いた。
「ユリさんが知っていると言う事は、アオイちゃんもご存知か…」
 何気ない口調だが、アオイとユリの表情が僅かに強ばった。
 横から吹いた風に揺られた髪が、僅かにシンジの顔を隠した。それが目に入ったのか、軽く目を閉じるシンジ。
 瞑目したまま、訊ねたシンジの表情が普段とは違う事に、二人は気付いていた。
「さて、何を隠している?ドクター?」
 シンジがドクター、と呼んだ時それを聞いた二人の反応は異なっていた。
 ユリは嬉しそうな微笑を口元に浮かべ、アオイはほんの僅かながら、眉を顰めた。
 普段のシンジを春の日差しに例えるなら、今のシンジは冬の闇だ。
 だが、こんな口調で呼ばれたのは、初めての事である。シンジは秘された事をどう取ったのか。
 シンジがゆっくりと目を開いた。大して変わったところは無い。
 二つだけ。そう。眼と全身から吹き上げる鬼気を別にすれば、だ。
 今のシンジは別人と言えるだろう。
 よく、人が変わったよう、という表現があるが、その範囲はせいぜい、人が幾つも持つと言われているペルソナ=仮面の別の物が出る程度で、魂そのものを共用しない存在ではない。
 だが、今、口許に悽愴な笑みを浮かべているシンジは、器は同じだが持っている心は、地獄に晒してあったのを持ってきたような印象さえ受ける。
 ユリはこう言う。
「黒衣の死天使、私の想い人に相応しい」と。
 アオイも一度標的を前にすれば、普段の慈母の如き表情は消える。対象を問わない代わり、自らが消去に値すると判断した者しか、手は下さないからだ。
 その姿が、「紅の女神」と呼ばれるのは、深紅で包んだ服装に加え、常に返り血でより一層の濃赤色に染まるからとも言われる。
 だが、アオイには今のシンジほどの鋭利な気は無い、少なくとも、見る者を凍り付かせる気は。
 第一、彼女のそれは悪に対して抱く怒りに近く、別人格への変貌とは根本的に違う。
 ユリにゆっくりと近寄ったシンジが、喉元に指でそっと触れた。下へ下がった指の動きは、追うように湧き上がる朱線が示している。
 さして伸びていない爪が、動けない妖艶な女医の喉をゆっくりと裂いているのだった。
 数センチいったところで、シンジの手が止まり、不意に口が動いた。
「ユイだな?」
 
 
 
 
 
(続く)

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