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ハイジの心
(8-15)


第8章 仕える人セバスチャン


 「ハイジ」の中の脇役中の脇役ゼーゼマン家に仕える召使いセバスチャンについてお話しさせて下さい。原作第8章「お屋敷の騒ぎはまだ続いて」から。

 アニメ「ハイジ」では、セバスチャンを年配の男性として描いていますが、原作では主人ゼーゼマンより若い設定です。長年ゼーゼマン家に仕えているようなので、そのへんは解釈によりますが、ゼーゼマン氏が娘の年齢から考えて四十歳前後、セバスチャンは三十歳前後ではないかと私は想像しています。

 セバスチャンは、封建領主時代に培われ19世紀のヨーロッパになおわずかに残っていた主従関係(殿様と家来の関係)の中で生きている古い時代に属する人物です。セバスチャンは身分は低いのですが、ゼーゼマン家に仕えることを誇りとして生きています。そしてハイジに対しては絶えず味方です。ただハイジを守ろうという気持ちはあるものの、ロッテンマイヤーの支配下にあるため、その力はきわめて弱いのですが。

 これは想像の範囲のことですが、彼がゼーゼマン家に奉公したのは、ロッテンマイヤーが家政管理者として着任するより前からだったのではないかと思います。ロッテンマイヤーがゼーゼマン家に来たのは、クララの母親が亡くなってからだと思われるからです。それ以来、セバスチャンは二人の主人に仕えることを余儀なくされてしまいます。彼は主人ゼーゼマンには心から仕えているのですが、ロッテンマイヤーにはうわべでしか仕えていません。はっきり言って彼はロッテンマイヤーが大嫌いです。口に出して言えませんが、自分が仕えているのはゼーゼマンであってロッテンマイヤーではないという強い気持があります。

 ロッテンマイヤーも本来は仕える立場にある人ですが、ゼーゼマンが留守をすることが多いので事実上主人のように振舞っています。そのためロッテンマイヤーには古き良き時代の仕える人としての気高さはありません。それがあるのはセバスチャンです。同じくゼーゼマン家で働くチネッテという女性がいますが、彼女はもともと主従関係に生きるタイプではなく、どちらかというとお金のために義務的に働いている、その意味では近代人です。

 セバスチャンは、現代社会が失って久しい奉公人、主人に対して公私を越えて心から仕える人です。社会的には弱い立場にある人ですが、この「仕える人」はそれゆえに大きな魅力を持つ人物です。セバスチャンは、ロッテンマイヤーに事実上いじめられて居場所のないハイジに対して深い同情を寄せます。ある日、もう都会の生活に耐えられなくなったハイジが、荷物を持ってスイスに帰ろうとしたところをロッテンマイヤーに見つかってしまいます。さんざん注意された後、ハイジが帰る日のために大切にクローゼットに集めていたペーターのおばあさんにあげる白パンをすべて捨てられてしまいます。悲しみと絶望にくれて泣き続けるハイジを、セバスチャンは胸がしめつけられる思いで見つめていました。

 セバスチャンがハイジのためにしてあげられることには限界があります。パンは捨てざるを得ませんでしたが、いっしょに捨てるようにロッテンマイヤーに命じられたハイジのよれよれの麦わら帽子は、セバスチャン自身の判断で捨てないで、後でそっとハイジに返してあげたのでした。この帽子はハイジがアルムおんじからもらった大切なものでした。セバスチャンは仕える人であるため、自分の意思を表明することができず、きわめて限られた自由しかありません。そして身分的にも能力的にもハイジを救う力はありません。このような仕える人は、人間が身分制度によって差別化されていた時代の遺物のようにも見えます。しかし、この仕える人は弱い立場にあるがゆえに、同じように弱い立場にあって苦しむ人に気づき、共感し、心を痛めることができる人です。

 セバスチャンは「ハイジ」の中では、確かに脇役中の脇役に過ぎません。しかしセバスチャンのすばらしさは、主人に仕える心が彼を活かしていることです。身分も低く、教育も高くありません。しかし心から信頼する主人を持ち、その人に仕えることによって誇り高く生きています。仕える人の人生には、そうした誇りと、弱い立場にある人の苦しみに気づく繊細な心があります。

 ロッテンマイヤーによって捨てられる運命にあったハイジの帽子を、セバスチャンは誰に教えられなくてもハイジにとってきわめて大切なものであると感じ取りました。仕える人のやさしい感性がハイジの悲鳴を聞き取ってとっさに判断したのでした。セバスチャンはハイジを救うことができませんでした。でも、ハイジの大切な帽子は救い出すことができました。そしてこれ以降セバスチャンは、ハイジが悲しんでいる時はいつもやさしい慰めの言葉をかけることを忘れることがありませんでした。

 ドラマだけでなく、現実の人生においても、主役だけで世界は回りません。目立たなくても傑出した脇役、バイプレーヤーがあってこそ世界は生き生きと輝いたものになります。現代社会は、セバスチャンのような脇役、仕える人を失ってしまいました。人はお金のためだけに働き、生きるようになりました。そして脇役のような存在として生きることを屈辱的にしか感じていません。仕える人を失った社会は、隣人に対して共感することを失った社会です。確かに仕える人になりたいと思っている人は多くはありませんが、現代社会は今も多くの人がセバスチャンのような仕える人を必要としています。




第9章 主人ゼーゼマン


 セバスチャンがそうであったように、クララの父ゼーゼマンもまた「ハイジ」の中では脇役です。ただしセバスチャンが仕える人だったのに対して、ゼーゼマンは主人、すなわち上に立つ人として「ハイジ」において重要な役割を演じます。原作第9章「お父様がお帰りになって」から。

 ゼーゼマンは良い意味で近代人です。19世紀になるとヨーロッパでは封建領主や貴族に代わって富裕の市民階級が社会の中心を占めるようになっていきます。彼らの多くは新しい時代の人として自由と独立を求め、また博愛の精神を持つヒューマニストです。

 以上のような歴史的背景を持つゼーゼマンの人となりは、彼のロッテンマイヤーに対する態度に最もよく現れています。注目していただきたいのは、ゼーゼマン家においてロッテンマイヤーを評価しているのは主人ゼーゼマンただ一人であることです。次の章に出てくるクララのおばあさま(ゼーゼマンの母親)も寛容な人ですが、原作においてはロッテンマイヤーとは距離をもって接しています。ゼーゼマンは、クララを始め自分の家の奉公人たちもロッテンマイヤーとはうまくいっていないことを知っています。しかし彼はそれを知っていながら、ロッテンマイヤーをある程度評価しているのです。

 ゼーゼマンは、急激に変化するヨーロッパ世界にあって、とかく嫌われがちな封建時代の遺産の良い部分を活かしていきたいと考えている人です。彼は時代の勝ち馬に乗れとばかり、古いものを否定し新しいものだけに注目するような底の浅い近代文明の信奉者ではありません。彼はロッテンマイヤーの弱点に気づきながらも、彼女の持つドイツの伝統的な生活態度を家庭に根付かせたいと願って、辛抱強くロッテンマイヤーを雇用し続けています。

 ロッテンマイヤーはゼーゼマンにとっては使用人の一人です。にもかかわらずゼーゼマンは彼女を呼び捨てにせず「ロッテンマイヤーさん」と呼びます。そしてロッテンマイヤーもそう呼ばれることをとてもありがたく思っています。このゼーゼマンが主人でなければ、ゼーゼマン家は現在のようなあり方にはなっていないでしょう。ハイジからロッテンマイヤーまでがいるこの家を束ねているのは、貿易商で外に出ている時間が多いとは言え、このゼーゼマンなのです。

 このゼーゼマンのように自由を重んじ、かつ明晰な判断力を持つ人こそ近代人のリーダーの姿ではないでしょうか。ゼーゼマンはその上で自分の家の者すべてに気を配り、寛容な態度で接することができる人です。このゼーゼマンを通してロッテンマイヤーを見ると、ロッテンマイヤーが単なるいじめ役として描かれているのではないということがわかってきます。

 19世紀だけでなく、この21世紀においても、どこの家でもどこの国でも、このような上に立つ人が必要です。世界はますます多様化しています。ハイジのような自然児と、ロッテンマイヤーのような懐古主義者とが、否応なく同居させられているのが現代です。遠く分かれて生きていたなら問題にもならなかったかもしれないものが、世界はもう一つ屋根の下で共同生活をするような状態になりつつあります。どこかで戦争が起これば、世界の経済はすぐさま影響を受けます。民族の違い、宗教の違い、貧富の差など、あらゆる異なった価値観を持つ人々が一つ屋根になった世界に暮らしています。このような状況であればなおのこと、ハイジが生き、ロッテンマイヤーもまた生きることができる世界のために、上に立つ人ゼーゼマンが必要な時代です。

 アニメ「ハイジ」第26話「ゼーゼマンさんのお帰り」は、原作第9章からストーリーが作られています。家に帰ってきたゼーゼマンがクララからハイジの様子を聞くために、あえてハイジに飲む水を持ってきてほしいと言って、ハイジにしばらく席をはずさせます。原作では、ハイジは間もなく水をくんで戻ってくるのですが、アニメ版では、ハイジが冷たい水を求めて家の外に出かけていく様子が、原作の意図を踏まえながらじっくりと描かれていて見ごたえがあります。そこではフランクフルトの街の人々の水に関わる生活が物語の背景としてじっくり描かれています。

 その後、家のみんなが心配するほど時間が過ぎてから、一杯の水をくんで戻ってきたハイジを見たゼーゼマンが、ハイジの心に深く感動する様子が描かれています。ストーリーの流れは原作のままですが、ゼーゼマンがハイジを理解していく心の動きがとても丁寧に描かれていることに、私は感動を禁じ得ません。

 この部分のストーリーは、原作を読んだだけでは、どう考えてもアニメ向きの絵になるシーンではありません。しかし、アニメ「ハイジ」演出の高畑勲氏はこの部分に注目し、実に丁寧に映像化しています。ストーリーは大きく動かない中で、ハイジやゼーゼマンの心理描写にたっぷり時間をかけています。1970年代のアニメ作品がここまで登場人物の心理描写をしていたのか・・・アニメ映画にこんなことができるのか・・・このことに気づいたときから、私はこの「アルプスの少女ハイジ」が子ども向けの漫画映画であるという見方をやめました。




第10章 クララのおばあさま


 もう一人、重要な登場人物がゼーゼマンのお屋敷に到着しようとしています。クララのおばあさまです。原作第10章「おばあさま」から。

 クララのおばあさまは、このお屋敷で生まれ育った人ですが、今はホルシュタインという別の町にあるお屋敷に住んでいて、用がある時にだけフランクフルトのお屋敷を訪れます。なんといってもご主人の母上ですから、おばあさまの到着が近づくと奉公人たちは迎える準備で大忙しになります。しかしロッテンマイヤーは、実のところ主人ゼーゼマンが帰る時ほど内心はうれしくありませんでした。おばあさまは息子であるゼーゼマンとは違う人だからです。

 クララのおばあさまについては、原作とアニメとではその性格付けが少し異なっています。まず原作のおばあさまは、主人ゼーゼマンの母親であって、この家の元の持ち主で、古い価値観のまま生きている人ですから、この家でロッテンマイヤーを唯一呼び捨てにします。ロッテンマイヤーはそのことが不満でもあり、同時に恐れてもいます。ロッテンマイヤーはおばあさまの前では、ただ従うしかない使用人の一人にみなされ、まったく歯が立ちません。ですから、おばあさまがお屋敷に滞在するとなると、ロッテンマイヤーの表情はいつになくこわばるのでした。

 ところがアニメ「ハイジ」ではずいぶん様子が異なります。おばあさまは家の誰に対してもやさしく、さらにユーモアに富み、かわいらしいおばあちゃんとして描かれています。ですから、ときにはロッテンマイヤーに主導権を奪われたりもします。

 このおばあさまの性格についての描写の違いは、日本と西欧の理想とする老人の姿の違いからくるものだと思われます。西欧ではキリスト教および聖書が人間観の基礎となっているので、理想の老人は神により近い存在であって、知恵と洞察力に富み、社会の中で神の権威を代表し、人々を教えさとします。一方、日本人の理想的な老人の姿は、子ども好きで誰にでもやさしく接し、ちょっとぼけていてかわいい存在です。そして社会に対してはいっさい口を出さず、大人たちがもてあました問題があるときだけ出てきて、無償で後始末をしてくれます。日本の誇る人気娯楽時代劇「水戸黄門」はまさにそれです。

 アニメ「ハイジ」では、クララのおばあさまとロッテンマイヤーは水と油のような存在ですが、原作はよく読むと必ずしもそうではなく、二人はどこか似た性格の者として描かれています。なにより、その精神的価値観は前時代的で、二人とも自分の考え方を変えることをまったくしない頑固者どうしです。むしろ似ているからこそ、一つの家では共存がむずかしいとも言えます。

 クララのおばあさまは、一方では教育熱心で、そのうむを言わせぬやり方は息子ゼーゼマンとは異なり、むしろロッテンマイヤーのやり方と同じなのです。

 ハイジがなかなか文字を読むことを覚えないことを知ったおばあさまは、ハイジにこんなふうに言い聞かせます。「ハイジ、おばあさまの言うことをよくお聞き。おまえは読むことを覚えませんでした。それはペーターの言うことを信じたからです。今度は、おばあさまの言うことを信じなさい。いいかえ、はっきりと言います。おまえはじきに読み方を覚えます。」(竹山道雄訳「ハイジ」第10章)

 おばあさまの教育論は、正しく価値あることを信じること、さらに神に助けを求めて祈ることでした。これは当時の西欧の伝統的な価値観から出ている考え方でしたが、しかしそれを用いる実際のやり方は、同じく伝統的な価値観に固執し、命令的にしか人と関係を結ぶことのできないロッテンマイヤーとは違っていました。権威的に子どもを指導するという点で二人は似ていますが、おばあさまは子どもの置かれた状況や、子どもの心理を理解しながら方法を講じている点でロッテンマイヤーとは大きく異なっています。

 おばあさまとロッテンマイヤーは、実は紙ひとえで別人格になっているように思うのです。日本人にはなじまないかもしれませんが、子どものある発達段階においては、ある程度強制力をもって教えさとすのは基本的に正しい教育法なのではないでしょうか。ただし、そこには教育する側の子どもに対する深い愛情と、子どもを理解しようとする心がなければなりません。教育論は、それが前時代的であろうと進歩的であろうと、子どもを愛する心がなければ、すなわち方法論だけでは不毛です。最近の日本における教育をめぐる方法論のくるくる変わる問題というのも、教育の本質を語ることを避け、方法論に走ることに大きな原因があるように思えてなりません。

 クララのおばあさまとロッテンマイヤーは、かけ離れた人間ではありません。原作者ヨハンナ・シュピリは「ハイジ」において、自身を小さなハイジに重ね、またハイジを窮地に追いやるロッテンマイヤーにも重ね、さらにクララのおばあさまにも重ねています。ちなみにアニメ「ハイジ」ではクララのおばあさまのキャラクターを原作者シュピリの写真からイメージを得て描いています。ヨハンナ・シュピリが自身を重ね合わせて描いた3番目の人物が、このクララのおばあさまです。もっともシュピリそのままではなく、彼女の理想の姿であったことでしょうが。




第11章 ハイジの限界


 フランクフルトでのハイジは、いよいよ追いつめられていました。ハイジにとっての最大の助け手であるおばあさまも、もはや十分な助けを与えられなくなっていました。原作第11章「うれしいこと、悲しいこと」から。

 アニメ「ハイジ」では、おばあさまがホルシュタインへ帰ってしまったことによってハイジが追いつめられていったように描かれていますが、原作のほうはそうではありません。そこにはさらに深いハイジの心が記されています。クララのおばあさまは、ハイジに文字を教えただけではなく、ハイジの心の支えとなるように神さまにお祈りすることをも教えました。そして当初はそれがある程度うまくいっていたのですが、しかし、しだいにその効果も失われていきました。クララがいても、おばあさまがいても、ハイジの心の中にある真の問題は解決されないまま残っていたのです。

 いったいハイジの心に何が起こっていたのでしょうか。少し戻りますが第8章で、そんなハイジを見かねたロッテンマイヤーがこんなふうに言うところがあります。「いったい何が不満なの。(中略)あるなら言いなさい!(中略)何という恩知らずな子だろう。あまりけっこう過ぎるので、思い上がったのだね。」(竹山道雄訳)どうでしょうか。ともすると私たち読者も、同じような見方でハイジを見てしまうことはないでしょうか。

 ハイジの問題は、都会の生活そのものにあります。多くの人たちにとって都会は住みやすいところです。そこでの生活にある程度満足している人の中には、都会の生活になじめないハイジのような人間を理解できずに、ともすると見下す傾向があります。都会には二つの害悪があります。一つは、合理的で経済的に優位な社会がすべての人間に有益であるかのように、それを普遍的真理にしてしまっていることです。そのような社会では人間の中にある本来の自然性が傷つけられてしまう危険性があるということを、可能な限り小さく考える傾向があります。もう一つの害悪は、そのような都市社会で傷つき悩んでいる人を社会的弱者としてしか見ようとしないことです。かわいそうだけど、それはその人が弱いからだと考えがちです。都会の生活で追いつめられた人は、都会におけるこの二重の害悪によって、しだいに生きる場所を失っていくのです。

 さて、私たちはどうでしょうか。このようなハイジを責めずに、どこまでもハイジの苦しみに共感できるでしょうか。この質問に、すぐにイエスと答えられずに考えてしまう人がもしいたとするなら、私はむしろそのほうを歓迎したいのです。都会の生活に慣れてしまった者に、このハイジの苦しみのすべてはけっして理解できません。むしろ、自分の心のどこかに、あのロッテンマイヤーの言葉にあるような思いが潜んでいると気づいた人がおられるなら、私はその方を尊敬します。そうなのです。原作者シュピリは、ハイジに対して薄っぺらな同情を抱くことより、自分の中のロッテンマイヤーに気づいて欲しいのではないでしょうか。なにより彼女自身が自分の中のロッテンマイヤーに気づいて「ハイジ」を書いたのですから。

 原作「ハイジ」は、ここまで人間をリアリズムで描いています。かわいい少女を見たいと思ってやってきた人には、どこか冷や水をかけられたような思いをするかもしれませんが、だからこそ「ハイジ」は単なる子ども向けの児童文学を超えた、混迷の21世紀にも大きな光を投げかけることのできるきわめて優れた文学作品なのです。

 ハイジはとても賢い女の子です。しかし都会では生きられないのです。その意味は、都会には自然がなく、石造りの家や道しかないといった表面的なこと以上に、ハイジは、都会生活の中で優位に立って弱い立場の人を理解しない人々と共に生きることができないのです。ここに至っては、ハイジがアルプスで身につけた自然性も、クララのおばあさまから教わったキリスト教信仰も、ハイジを都市社会の勝利者にすることができなかったことが明らかにされます。小さなハイジには限界があるのです。そして、むしろこのことを重く受けとめることが「ハイジ」の心なのだと思います。

 原作者シュピリは敬虔なキリスト教徒でした。その思いと生き方は「ハイジ」の全編に表れていると言っていいでしょう。しかし、キリスト教を信じていれば何でも問題は解決できると考えるような原理主義的な宗教者ではありませんでした。むしろハイジの限界を偽りなく明らかにしながら、なおその向こうにある、さらに高い人間の生き方、それがもたらす幸福を語ろうとしています。

 20世紀後半に花咲いたアニメ文化の多くは、主人公の少年少女が不思議な力、いわゆる超能力を持っていて、迫り来る敵や困難に立ち向かい、それに勝利していくという構成で子どもたちの心を満たしてきました。ある大人たちは、それがたとえ嘘だとしても、子どもには夢があっていいのではないかと考えるようですが、私はその考えに反対です。一歩下がってそのようなアニメ文化をある程度認めるとしても、それと同時に、子どもの時から人生の真実について子どもにもわかるように描かれた作品をぜひ見せてあげていただきたいのです。その点で「ハイジ」からスタートして「世界名作劇場」へと続いた一連の名作アニメシリーズは、出来上がりの良否は多少あるものの、そのような大切な役割を担ったアニメ作品群として評価したいと思います。しかし、この「ハイジ」のように人間の心の問題を深く掘り下げたアニメ作品は他にないと思うのですが、しかしこれについては皆さんの判断におゆだねせねばなりません。




第12章 幽霊でわかる人間模様


 ハイジがゼーゼマン家に来て以来、今まで考えられなかった出来事が数々起こってきましたが、さらに思いがけない事件が起こったのでした。第12章「お屋敷に幽霊が」から。

 それはある朝から始まりました。セバスチャンがいつものように朝一番に起きて玄関の前を通ると、玄関のドアが大きく開いたままになっていたのです。誰かが自分より早く起きて開けたのでもないし、自分が鍵をかけ忘れたのでもありませんでした。その日の夜は鍵をかけたことを十分に確認してセバスチャンは眠りました。しかし翌朝になると、やはり玄関のドアは開いていたのです。次の日も、さらにその次の日も。奉公人たちは、これはきっと幽霊の仕業に違いないとうわさをし始めました。この出来事を一番恐れたのは、この家で一番恐れられているはずのロッテンマイヤーでした。

 お屋敷の幽霊騒動はその後も収まらず、奉公人ばかりかクララまでが不安を覚えるようになったため、ゼーゼマンは出先の仕事を切り上げて家に帰ることにしました。ゼーゼマンは幽霊など初めから信じない近代人です。たぶん誰かのいたずらに違いないと思い、奉公人を一人ずつ呼んで事情を聞きますが、誰も嘘を言っている様子もなく、真相は見えてきません。中でも動揺したロッテンマイヤーは、これはきっとお屋敷のご先祖の知られない悪事がたたったのだとまで言うので、さすがのゼーゼマンも彼女をたしなめます。この幽霊騒動は、意外にもゼーゼマン家の人々の人となりをきわめて明らかに描き出すことになりました。

 当然二つのグループに分かれます。幽霊を信じて恐れる人々と、幽霊など信じない人々とにです。幽霊を信じる人々は普段から前時代的な生き方をしている人たちです。セバスチャンやロッテンマイヤー、それに私が仕事のやり方が近代人だと評したチネッテさえ幽霊を恐れました。幽霊など信じない人々は、まずゼーゼマン、おばあさま、クララの主治医クラッセン、そしてクララとハイジです。クララは当初恐れていましたが、この騒動のために父親が早く帰ってきたので、反対に幽霊に感謝するようになりました。後者の人々は新しい時代の考え方をする人たちです。ここにクララのおばあさまも入っているので、私のこれまでの考え方からはちょっとはみ出してしまいますが。

 世の中にはつねに不可解なことがあります。どんなに科学万能だと言われる今日でも同じです。しかし、そこでそういうことに捕らわれる人と、より現実的な対応をとれる人とに分かれます。社会により良い影響を及ぼし、結果的に歴史を作っていくのは後者の人で、不可解なことに捕らわれずに、自分の意思をはっきりと持っています。それは家や社会での教育に基礎づけられているのです。原作者シュピリはこの「ハイジ」において、人間の教育の重要性を指摘しつつ、不確かなことに惑わされずに現実的な対応をとれる人々が社会をリードし、未来を切り開いていく様子を描いています。

 この騒動の結末は、すでに皆さんはご承知のとおりですが、ハイジがロッテンマイヤーから今後は一人で寝ないでチネッテといっしょに寝るように勧められると、ハイジがそれをあっさり断るところがけっさくです。その理由は、見たこともない幽霊は少しも怖くないが、チネッテのほうが怖いとハイジが感じていたからです。たしかに、本当に怖いのはこの世の何かを恐れる人間の心です。ここからあらゆる悪と怒りと憎しみがわき上がります。

 アニメ「ハイジ」第33話「ゆうれい騒動」では、原作に基づきハイジが故郷を慕って毎晩のように見る夢を再現していて、これが映像的にもきわめて説得力があります。青白い夢の中にアルプスの山が見え、アルムおんじの山小屋が見えます。ハイジが喜び勇んで小屋に入ると、おんじはいなくて、小屋は以前のようではなく荒れ果てています。そしてハイジが弱く小さな声で「おじいさーん」と呼んでも、その声はすぐに冷たい風にかき消されていきます。

 ハイジは夢遊病に冒されていたのです。精神的な何かが原因で、眠ったままの人が意識のない状態でさ迷い歩く病気です。私は高校時代に一時引きこもりになったことから、この夢遊病を体験したことがあります。物音に気づいた母が私を助けなかったら、私は二階の階段から下に転落していたところでした。

 このようなハイジの危機を最初に理解したのは、やはりあのクララの主治医クラッセンでした。ハイジの危機を理解しつつも、なんとか都会で健康を回復させてから帰してあげたいと考えたゼーゼマンを強く説得したのもこのお医者様でした。ハイジの病気の原因が都会の生活そのものにあり、解決はハイジをアルプスの生活に戻してあげることで、それ以外に方法はないと断言したのでした。

 このようなクラッセン医師の姿勢がよくわかるのがアニメ第30話「お日さまをつかまえたい」です。ある日ハイジはお医者様のところへお使いに行きます。クララの薬をもらうためです。お医者様が薬を調合するところを見たハイジは、クララが早くよくなるように薬をもっとたくさんにして下さいとお医者様に願います。するとクラッセンはやさしくこう答えたのです。薬がその人の病気を治すのではなく、その人の中に病気を治そうとする力があってこそ薬が役に立つ。体を動かして、食事をおいしく食べて、お陽様の光をいっぱいに受けて生活するのが一番なのだと。クララにとっても、そしてハイジにとっても、いやすべての人にとって、これこそ本当の人間の生き方なのです。




第13章 ハイジを待つ人々


 とうとうハイジは故郷のアルプスに帰ることになりました。一泊二日の長い列車の旅を経て、ハイジはアルムの里に帰ってきました。原作第13章「夏の夕べ、アルムへ」から。

 アルムの山にはハイジを待っている人がいました。アルムおんじとペーターのおばあさんです。でも、原作をしっかり読んでいる読者の中には、おばあさんはともかく、アルムおんじがハイジを待っていた形跡はないのではないかと言うご意見も正論としてお聞きしなければなりません。確かに、この第13章を読んでも、表面的にはおんじがハイジを待っていたらしい事実は確認できません。

 ただし、おんじの元へ帰っていくハイジを見かけた村人の一人がこう言っているところがあります。「おんじはここ一年、前よりもっと険しい顔になって、誰とも口をきかないし、出会う人があったなら殺してしまいそうな形相をしている。あの子が、あんな恐ろしい竜のほら穴へ帰っていくとは・・・」これはアルムおんじの心の内をよく表している重要な描写だと思います。

 おんじがもしハイジのことをきれいさっぱり忘れていたなら、こんな表情をしているわけがありません。あの時、短気を起こしてハイジを去らせてしまったことについて、おんじは心の奥で良心の呵責にさいなまれていたはずです。でも一方では、おそらく自分のところにいるより、フランクフルトの金持ちの養子にでもなって、今はずっと幸せに暮らしているに違いないとも思おうとしていたかもしれません。しかし、そんなことでは精算できないほどの重い過ちの責任を、おんじはなお負い続けていたに違いありません。もうハイジのことは忘れようと、おんじは何度かそう考えたかもしれません。しかしそう思っても、思えば思うほどおんじの顔はさらに険しくなっていったことでしょう。ハイジはもう帰ってくることはないと、いくら思おうとしても、おんじはハイジのことを忘れることができませんでした。長い時が流れましたが、ハイジはこの日、奇跡のように帰ってきたのです。

 それに対してペーターのおばあさんは、もっと素直にハイジのことを思い続けていました。ハイジがその日の夕方、おんじの小屋に向かう途中、おばあさんの家の扉を勢いよく開けて飛び込むと、おばあさんはため息をついて言います。「ああ、ハイジはいつもあんなふうに家に飛び込んできたものだがねえ・・・」ペーターのおばあさんはひとときもハイジのことを忘れたことはありませんでした。そこにハイジが帰ってきたのです。

 このハイジを待っていた二人に共通なことは、ハイジを心から愛しており、ハイジが帰ることを望んでいたことでした。それにもう一つ共通していることは、二人共に自分の力ではハイジを取り戻すことができなかったことです。しかしそれゆえに、思いがけないハイジの帰還は、この二人にとって天の配剤、人知を超えた神の深い配慮として受け止められたのです。ふもとの村人たちも、その夜は家々でハイジの話しで持ちきりでしたが、そういう村人たちの受け止め方とはまったく異なった体験を二人はこの日にしたのです。二人にとってハイジの帰還は、言葉にもできないほどの驚きと感動でした。ハイジの帰りを心の底から待ち望んでいたからです。

 重い罪の意識とか、人間の無力さという、人にとってマイナスの要素は、いつの時代でもどんな人にもあるものですが、この二人は今そのマイナスをまったく違ったものとして受け止めていました。人生のマイナスは、いつまでもマイナスのままではないのだと。ハイジは、こうした人生のマイナスを負う人の元に、それをすべてプラスに替えて余りあるものにするために帰ってきたのです。それはおんじやペーターのおばあさんのためだけでなく、ハイジ自身のためにもです。

 アニメ「ハイジ」第35話「アルムの星空」は、ハイジが帰ってきた夜のことが原作を少し発展させて興味深く描かれています。まず夕方、山の上の牧場からペーターが山羊を連れて下りてきます。ペーターはハイジを見て腰をぬかすほど驚きます。無理もありません。ペーターは持ち前の身体能力でサーカスそこのけのパフォーマンスで飛び跳ね、喜びを表します。すると山羊たちまでが大ジャンプを披露していっしょに飛び跳ねます。もちろん実際の山羊はこんなに飛び跳ねたりしないのですが、高畑氏はこれがお気に入りのようで、以前にも何度か出てきました。こんな描写もアニメならではのものです。

 夜もずいぶんふけてから、小屋の外で物音がします。ドアを開けるとそこに恥ずかしそうにペーターがいるではありませんか。そのペーターが言うには、家に帰ったらおばあさんが、ぜひもういっぺんおんじの小屋まで行って、確かにハイジがいるかどうか見てきてほしいと言われて再びこんな時間にやってきたと言うのです。ハイジもおんじもこれを聞いて大きな声で笑いました。幸せを確認し、かみしめるというのはこういうことなんだな、と私はこのシーンを見てつくづく思いました。ここ一年ますます険しい顔になっていたはずのおんじの顔は、この夜別人のように明るく微笑んでいます。人生のマイナスをずっと負ってきた人たちが、今それらをすべてプラスに替えて与えられている様子が、アニメならではの描写で表現されていました。




第14章 本当の教会へ


 原作第14章「日曜日、教会の鐘が鳴ると」は、アニメ「ハイジ」では取り上げられていません。1880年にヨハンナ・シュピリがこの本を出版した時には、この章を最終章として発行されました。それ以降の第23章までは、初版本の大反響を受けて、翌年シュピリが新たに書き加えて発行し現在の形になったものです。むずかしいことはともかくとして、この章は作品全体としては前半最大の山場となる部分です。

 ハイジが帰った翌日の土曜日のことです。おんじとハイジは共に山を下り、おんじは村のパン屋に預かってもらっているハイジの荷物を受け取りに、ハイジは途中で別れてペーターのおばあさんの家を訪問します。

 ハイジはかつて自分がフランクフルトにいた時、どうかアルムの山に帰して下さいとお祈りしたのに、それがいつまでもかなえられず失望していたことが本当に間違いだったと、つくづく感じていました。その日の午後、おんじと小屋への山道を歩いて帰りながら、ハイジはおんじにこう言いました。「これからは毎日お祈りをしようね、おじいちゃん。神さまのことを忘れないように。神さまも私たちのことを忘れずにいて下さるようにね。」するとおんじが言いました。「でも、一度神さまを忘れてしまったら、もう取り返しがつかない。もう戻ることはできん。そういう人間はずっと神さまに忘れられたままだ。」

 それを聞いたハイジはすぐに答えました。「あら、違うわ、おじいちゃん。戻ることができるのよ。わたしがクララのおばあさまからもらってきた絵本にそのことが書いてあるわ。」ハイジは家に着いたら、そのお話しをおんじに読んであげることになりました。小屋に着くと、ハイジは家の中から絵本を持ち出して、家の前のベンチにおんじと二人で座り、この本の中でハイジが一番好きな、羊飼いとその息子の話しを読み始めました。

 ある家の息子が父親と共に羊を飼って平和に暮らしていました。しかし、息子が成長した頃、息子はこのまま父親と暮らすのがいやになってきました。もう一人になってどこかで自由に暮らしたいと思ったのです。そこで父親を無理に説得して、自分がもらうことになっていた財産を分けてもらうと、その夜のうちにお金を持って遠くの町へ行ってしまいました。そして、毎日そのお金を使って面白おかしく暮らしました。ところが、そんな生活をしたので、父から分けてもらった財産はあっという間になくなり、誰も相手にしてくれなくなりました。そこである農家で豚を飼う仕事についたのですが、豚の食べるものさえ食べたいと思うほどの貧しさでした。

 そこで、ようやく息子の心は故郷にいる父のことを思うようになりました。私はなんと恩知らずな者だろうか。そう思って涙を流しました。そしてようやく決心しました。お父さんの元へ帰ろう。そしてお詫びをした上でこう言おう。「父よ、私はもうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。でもどうか、家の使用人として私を使ってください」と。

 息子はぼろぼろになった心と体のまま家へ帰っていきました。すると、父親は遠くから息子を見つけ、走り寄って息子を抱きしめて喜びました。そのとき息子は言いました。「父よ、私は天に対しても、またあなたに対しても悪いことをしました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。」すると父親は家の僕を呼んで、息子のために立派な着物を着せ、手には指輪、足には靴を履かせて言いました。「さあ、お祝いをしよう。この子は死んでいたのに生き返ったのだから。」

 絵本を読み終えたハイジが「どう、いいお話しでしょう。」と言っても、おんじの表情は暗く硬いままでした。その夜、ハイジが眠ったのを確認しようと、おんじははじごを上ってきました。するとハイジは両手をお祈りのときのように組んだまま眠っていました。お祈りをしてすぐにそのまま眠ってしまったのでしょう。おんじはしばらくその姿を見ていましたが、おもむろに自分もハイジのように手を組みました。そして「父よ、私は天に対しても、またあなたに対しても悪いことをしました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と、絵本と同じ言葉で祈りました。もう長い間お祈りをしていなかったおんじの目から涙がこぼれました。

 ハイジは知りませんでしたが、ハイジが読んだ物語は聖書の中にある有名な一節だったのです(ルカによる福音書15章)。いつもなら聖書など聞く耳を持たないおんじの心に、このとき聖書の言葉が響いたのです。おんじはその夜眠れずに朝を迎えましたが、ハイジのことで抱えていた心の重荷、村人や牧師をうらんで過ごしてきた長年の重荷、さらにそういう人々や世界を造り出した神までを恨んできた心の重荷がすっかり消えていきました。

 日曜日の朝早く、おんじはまだ寝ているハイジに声をかけて起こし、今日は一番いい服を着て、教会へ行こうと言いました。突然のことでしたが、ハイジはすぐ起きてフランクフルトでもらった中から一番いい服を着て下に降りました。するとさらに驚いたことに、おんじはいままでハイジが一度も見たことのない銀のボタンが付いた素敵な上着を着て待っていました。おんじの心の長い冬が終わったのです。

 村の教会の礼拝に出席した後、おんじは教会堂のとなりにある牧師の住まいを訪ねました。そして牧師に、以前牧師がハイジのことで山の上まで来てくれた時に自分が言ったことは間違いだったと言って赦しを求めました(原作第5章参照)。昔から友人の牧師は心からそれを受け止めて言いました。「お隣さん、あなたは、この教会に下りて来られる前に、本当の教会にゆかれましたのじゃ。」(竹山道雄訳)

 私は長年牧師をしてきました。その私が「ハイジ」に出会ったとき、もっとも大きな衝撃を受けたのが、この村の牧師が語った「本当の教会」でした。もちろんこれは村の教会が嘘だと言ったものではありません。しかし、地上の教会に属する人々は、残念ながらこの「本当の教会」に行っていないということがままある・・・いや、往々にしてほとんどわずかな人しか行っていないということを、私は認めざるを得なかったからです。聖書の言葉は知らないより知っていたほうがいいのです。讃美歌も歌わないより歌ったほうが人間をすこやかにします。しかし、そうした教会の生活を日常的にしながら、おんじの行った「本当の教会」を知らないという人間の貧しさ、また「本当の教会」を伝えられない牧師の愚かさを私は知らされました。

 今も私は以前とあまり変わってはいないかもしれません。しかし、「ハイジ」と出会ったことによって、いままで閉じていた頭の上にそれまで見たことのない青い空が開けているのを感じるようになりました。それはアルプスの澄み渡った空のようでありつつ、この世界に見えない形で存在する神と人が、また人と人とが調和して生きる特別な領域のようでもあります。

 私が「ハイジ」と共に生きるということは、主人公の小さな少女と生きることだけでなく、アルムおんじと共に生きることであり、ペーターと、クララと、セバスチャンと、そしてロッテンマイヤーと共に生きることの幸いを獲得するということです。こうして自分の目が開かれてみると、自分の周りにはたくさんのアルムおんじやペーターやハイジ、そして少々やっかいな、でもどこか憎めないデーテやロッテンマイヤーがいるのがわかります。「ハイジ」に出会って以来、私の人生は「ハイジ」の世界観で展開しています。「ハイジ」が世界と人を見るその見方で、私は人を理解し、世界を理解し始めています。




第15章 大人の友情


 ハイジがアルムの山に帰った次の年の夏が終わろうとしている頃のことです。父ゼーゼマンとクララの約束であった、次の夏にはクララをスイスのハイジの家へ連れて行ってあげるという約束はまだ果たされないままでした。というのもこの夏じゅうクララの健康状態はひどく悪かったからです。原作第15章「旅じたく」から。

 クララの気持を思うと、なんとしてもクララをスイスに行かせてあげたいと思うゼーゼマンは、クララの病状が少し好転してきたこともあって、主治医のクラッセン医師を何度も呼び出しては、クララのスイス旅行は実現できないだろうかと尋ねるのでした。いつもはやさしいお医者様もゼーゼマンからくり返される同じ質問に困惑して、語気を強くしてクララのこの夏じゅうの旅行は不可能だと、めずらしく断言しました。

 そのとき、お医者様はふと表情を暗くして、こう続けました。「君たちは幸せだよ。たとえ娘が病気でも、こうして一緒にいられるんだから。僕のことを考えてみたまえ。誰もいない家へたった一人で帰るんだから・・・」実はこの年の春、お医者様はただ一人の家族であった娘さんを病気で亡くしたのです。いつもは明るい表情のお医者様も、それ以来悲しそうで、髪の毛もすっかり白くなっていました。

 これは単なる医者と患者の家族の会話でないことはおわかりでしょう。クラッセン医師はゼーゼマンより十歳以上は年上だと考えられます。加えて医師です。年功序列にこだわる日本では、こうした会話はまず医者と患者および患者の家族との間では交わされません。信頼関係があればなおのこと、ゼーゼマンのように無理を言ってお医者様を困惑させるようなことはしませんし、医師も自分の家庭の事情などを仕事に持ち出したりはしません。十年以上にわたって続いたクララの病気を契機に、二人の間に大人の友情がしっかりと結ばれている上でのやりとりです。

 その昔、テレビの番組でたくさんの外国ドラマが吹き替えで放映されていた時代がありました。子どもの私はそれらを見ていて、やっぱり日本のドラマとは違うなと感じました。その中にこうした大人どうしの友情があります。特に西部劇などにそのようなシーンが数多く見られました。年齢の差を越え、身分の上下を超え、ときには敵味方の立場を超えて、主人公たちが友情を築いていきます。少年の私は恋愛物より、こうした大人の友情のドラマに魅せられていました。ここでも私はそのことを語らずにおれません。

 この遠慮のないやりとりの中でゼーゼマンから名案が出ます。お医者様がまずスイスを旅行したらよいという計画です。お医者様の骨休めも兼ねてスイスのハイジを訪ねてもらい、ハイジの生活ぶりをクララに代わって見てきてほしいと、ゼーゼマンはほとんど決定済みのことのようにクラッセン医師を説得しました。当然費用はゼーゼマンが負担するつもりなのでしょう。これにはクラッセン氏も折れて、苦笑いをしながら承諾しました。こんな押し付けがましい要求を、お医者様は素直に受け入れました。それが自分のことを真剣に思ってくれる友からの助言であることをよく理解していたからです。

 こうして原作「ハイジ」の第2部は始まります。舞台はアルムの山へ、そしてフランクフルトの登場人物たちがアルムの山で過ごす物語の始まりです。しかし、物語が焦点を絞って語ろうとしているのは、都会の生活より田舎の生活がいいというようなことではなく、アルプスの大自然を大切な背景としながらも、そこで結ばれる人と人との新たな出会い、そこから生み出される新しい人生の始まりを原作者は語っていきます。

 ここで興味深いことを一つ。それは第1部ではアルムの山へ村の牧師と、それに続いて叔母のデーテがやって来たことで物語が大きく動きましたが、第2部ではフランクフルトのお医者様がやって来て物語が動きます。第1部では、それは悲劇の始まりでしたが、第2部のお客様の来訪は、すばらしい出来事の始まりとなります。

 アニメ「ハイジ」では、このあたりのいきさつは、もっと単純に描かれています。次の年にクララの病気が重かったことも、クラッセン医師の家庭に大きな不幸があったことも描かれてはいません。しかし、こうしたアニメにない原作のストーリーをアニメ「ハイジ」の背景として重ねて見るようにすると、それまでよりずっと物語に厚みが増して感じられます。

 またアニメ「ハイジ」が他のどのアニメ作品と比較しても登場人物の心理をはるかに巧みに表現しようとしているか、さらにそれがいかに繊細な映像表現で具現されているかに驚かされます。特に主人公ハイジの表情がどんなに豊かに描かれているかという点だけでも、アニメ作品としての「ハイジ」の質の高さを示すのもです。そして、ただアニメだけを見ているより、原作によって「ハイジ」の心のドラマを知っているほうが、アニメ「ハイジ」の心理描写により気づくようになります。

 原作なくしてアニメ「ハイジ」があり得ないように、アニメ「ハイジ」が日本だけでなく全世界的に広く受け入れられ、定番「ハイジ」としての地位を確立している今日、高畑勲氏演出の「アルプスの少女ハイジ」を除外して「ハイジ」を語ることはあり得ないと私は思っています。二つの「ハイジ」を対照させながら知る「ハイジ」は、今まで気づかなかったこの希有な作品の世界を広く深く味わわせてくれます。