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ハイジの心
(16-23)


第16章 お医者様の影


 クララの到着をくる日もくる日も待ちわびるハイジの元に、フランクフルトのお医者様が一人でやって来ます。原作第16章「アルムの山のお客様」から。

 クララが病気のために来られなかったことはハイジにとっては大きなショックでしたが、それよりなぜか、ハイジがフランクフルトで知っていたお医者様が、以前とは違って悲しみにやつれた表情をしているのに気づきます。するとハイジは話題をクララのことに触れないようにして、何とかしてお医者様を元気にしようと努めます。

 お医者様は数年前に妻を亡くし、今年たった一人の家族であった娘を病気で亡くしていたのです。不幸な人を次々に登場させるのは小説の常套手段かと思う人もいるかもしれませんが、これが19世紀の偽らざる状況でした。ハイジは早くに両親をなくし、その顔も知りません。ペーターは父親を事故で失っています。クララは母親を亡くしています。そして、実は作者ヨハンナ・シュピリもこの小説を書いた数年後、一人息子を亡くし、そして同じ年に夫を亡くしています。こういう人生の悲哀の中で19世紀の作家は小説を書き、読者はうつろいやすい人生の中で指針となるものを求めてそれを読んだのです。

 「ハイジ」は特別幸せな人々が出てきて、不幸な人たちを幸福にしてあげる物語ではありません。慰める人はまた慰められる人であり、助けられる人はまた助ける人になります。ハイジはまだお医者様の悲しみの本当の理由を知りません。でもけっして「なぜ?どうして?」と聞くことはしませんでした。むしろできるだけそのことに触れないようにして、なんとかしてお医者様の悲しみを和らげてあげたいと思いました。「そうよ、もうすこし待てば春よ。春になればきっといらっしゃるわ。そして、もっと長く泊まっておいでになれるわ。クララも、きっとそのほうがいいでしょう。」(竹山道雄訳)ハイジはまだ小さい女の子でしたが、短い人生の中で孤独と悲しみを多く知っていました。ですからこの点においては、ハイジはほぼ成人並み、あるいは平均的な現代人よりずっと大人だとも言えます。

 人生には悲しみとか苦しみという影が付きものです。誰もそれから逃れることができません。19世紀に比べれば、21世紀のほうが少しはましだとはとても言えません。19世紀には想像することもできなかった様々な危機が私たちの人生に大きな影を落としています。そして、その多くが解決不能なままです。ある人たちはそのことに耐え切れずに、酒や薬物に依存したり、快楽にふけってまぎらわそうとします。堅実な人々の中にはまじめに宗教や哲学を求めて、そこから何らかの解決を得ようともします。しかし、何かを信じれば具体的な問題が即解決するというわけではありません。

 そんな中で「ハイジ」が私たちに提供しようとしているものは、人と人とが痛みや悲しみを共有することから起こるすばらしい出来事ではないかと思います。何が原因でそうなったとか、どういう解決があるとか、そういうことを探るのではなく、ハイジがクラッセン医師に対してしているように、人の痛みを感じ取るということ、そのために人が十分に時間を割くということが大切なのだと思います。そのことが重要であるということを、ようやく社会も認める時代になりました。

 そうこうしているうちに、フランクフルトのクララからハイジとその友人たちのために送られた荷物が、村の男性の肩にかつがれて小屋の前に到着しました。その荷が解かれて、そこからハイジの宝物が次から次へと取り出されるごとにハイジはうれしくてはねまわっていましたが、急に思い立ったようにそれをやめてお医者様の前に来て言いました。「でも、何がうれしいって、どんなお土産より、先生が来てくださったことだわ。」

 実はクラッセン氏はここに来る前、久しぶりにハイジに会ったとしても、ハイジが自分に会ったのはハイジが病気だった一年も前の、それもごくわずかな時間だったので、自分のことを今も彼女が覚えているかどうかわからないと思っていたのです。それが、山の上の遠くから自分を見つけてくれて、走り寄ってくれたことに心動かされました。人の心が弱くなっているときというのは、こんな小さなことが心に触れてくるものです。

 心と心が触れ合う喜びというのは、世のいかなるものにも替えがたいものです。しかし、私たちの生活が見かけ上の幸せに満たされている時間が長いと、こうした本当の喜びを知らずに生きてしまいがちです。そしててっとりばやくお金の力で自分の不足を満たそうとしてしまいます。経済的に豊かな生活をすること自体が悪いのではありません。ただし、私たちは生活のどこかで心を磨く時間が必要だと思います。すべての人に「ハイジ」が必要かどうかはともかく、上質な文学、そこに記された言葉の力は、いつの時代でも私たちの心を磨き、心と心が触れ合う人間に育ててくれます。私もクラッセン氏のように頭に白いものが目立つ年齢になりましたが、いつまでも「ハイジ」の言葉が心に響く者でありたいと願っています。




第17章 悲しみを乗り越えて


 今日はフランクフルトから来たお医者様と山の上の牧場へ行く日です。原作第17章「恩返し」から。

 山羊飼いのペーターは、このところとても不機嫌です。それはいつも自分といっしょに牧場に行っていたハイジが、フランクフルトのお医者様のお世話で牧場に上がってこなくなったからでした。ようやくハイジが牧場にいっしょに行く日が来たのですが、でもハイジはいつもお医者様といっしょで、ペーターは少しも楽しくありません。その怒りは爆発寸前になったのですが、ちょうどお昼時になり、お医者様がアルムおんじからもらった干し肉の大きなかたまりをそのままペーターにあげたものですから、ペーターはすっかり機嫌をなおしたのでした。しかし、このことは次の年にクララがやってくると、ペーターの堪忍袋の尾が切れてしまいます。このペーターがやらかしてしまう事件と、また原作とアニメと間にあるペーターの性格付けの違いについては、後の章でじっくりお話ししたいと思います。

 山の上の牧場の景色は、おんじの山小屋の景色をはるかに上回るものでした。ハイジは中でも一番景色が美しく見える場所にお医者様を案内しました。ハイジは自信たっぷりに山や花や動物たちの話しをしたのですが、お医者様の表情にはそれが届いていないように見えます。そんなお医者様がふと口を開いてこう言います。「目の中に大きな影があって、ここにいて、このように美しいものにとりかこまれていても、それを見ることもできない。それどころか、心が楽しくなるかわりに、ますます悲しくなってしまう・・・そういう人もいるのだよ。」(竹山道雄訳)

 手付かずの自然の美しさ、すばらしさというのは何物にも代えがたいものですが、人の心がいったん傷ついてしまうと、どんな自然の力をもってしてもその力で解決することはできません。人間の心というのは、自然性だけでは満たされないさらに高尚なものだからです。そのような心の痛みをやわらげることができるのは、同じように傷ついたことのある人の共感です。同じ痛みに苦しんだ人が「あなたの苦しみはよくわかる」とその人の痛みを共有してくれることです。愛する家族を失った悲しみというのは、誰も解決してくれません。解決などできないのです。ただし、もしその人の隣に、その痛みを心底理解してくれて、共にいてくれる人がいたなら、その苦しみはずっと小さくなりますし、その悲しみは乗り越えられていくものになります。

 お医者様にとっては孫のような年齢のハイジですが、なんとこの小さなハイジはお医者様の苦しみをしっかりと受け止めるではありませんか。「遅かれ早かれ人は死ぬ、そんなことをいつまで引きずっていても仕方がないじゃないか」と考える人もあります。確かにそう考えられる人は強いかもしれませんが、その人には他人の心の痛みを共感することがなく、その必要も感じていないのではないでしょうか。心と心が触れ合う、そうしたことが人間には不可欠なことだと私は思うのですが、そうしたことを振り捨てて、できるだけ見ないようにして生きている人も多いのも確かですが、あなたはどう思われますか。

 ハイジは傷ついたお医者様を慰めようと、いつもペーターのおばあさんの家で読んでいる「お祈りの本」の中から暗唱している詩の一つを選んで聞かせます。

「神のご計画にゆだねよ。

ご配慮深き方なれば、

そのみわざは我らをすべて驚かす。

その深い知恵によって、

我らに苦しみを負わされるが、

(中略)

思いもよらない時に、

我らを重荷から解き放たれる。

必ずや神のみ手は、

重荷より我らを解き放たれる。」

 これは当時ヨーロッパのドイツ語圏の教会でよく歌われていた讃美歌の一つです。この詩そのものの力も確かにありますが、これをフランクフルトで苦しみ傷ついたことのあるハイジが暗唱して聞かせてくれる姿に、お医者様は心動かされたに違いありません。しかしそれだけではありませんでした。お医者様の中の遠い昔の記憶がまざまざとよみがえってきたのです。お医者様がまだ幼い時、お医者様の母上がこの詩を今のハイジのように聞かせてくれたことです。この詩の中に、お医者様はしばし母の顔を見、母の声を聞くことができました。

 何か宗教を信じていれば、どんな問題も解決し、あらゆる苦しみから解放される、などということはありません。人間には、同じ肉体を持ち同じ苦しみをもつ人間が必要であり、その心と心の共感がなにより必要なのです。それなくして人間が人間であり続けることはできないのです。

 こうして、お医者様はアルムの山の上で、大自然のすばらしさだけではない、もっと人間にとって大切なものに出会うことができました。フランクフルトへ帰るその日、山道を下る彼の心には明るい希望の光が差していました。「あの山の上は実にいい。体も心も丈夫になるし、それに、生きていることが楽しくなる。」振り返ると、山の上でハイジはまだ手を振っていました。




 第18章 誰かのために生きる


 冬になりました。アルムおんじはもう山の上の小屋で冬を越すことはしませんでした。これからは、おんじもハイジも村に下りて冬を過ごすのです。原作第18章「デルフリの冬」から。

 神さまとも人間とも仲直りしたアルムおんじは、今までような、ただ自分のために生きる生き方をやめ、ハイジのために生きるようになりました。村の中心地の教会の近くに、石造りの廃屋がありました。かなり以前のことですが、おんじはここに住んでいたことがあります。しかし現在は壊れ方がひどくて、誰も住んでいません。おんじはもう一度ここを借りることにして、秋の早いうちから何度も山から下りてきてはこの屋敷の修繕をしてきました。かなり大きな家ですが、すべての部屋を使うわけではないので、おんじは冬の間だけ使う部屋を中心に念入りに修繕をしました。

 アルムおんじがこの村の廃屋を冬の家として住むことにしたのは、けっして自分のためではありません。ハイジの健康のため、また教育のためでした。これからは冬の間ハイジも学校へ行くのです。おんじのこれらの決断はすべてハイジのためでした。今やハイジのために何かをすることが、おんじにとって人生最大の幸福となっていました。

 一方ハイジはというと、自分を最も必要としているペーターのおばあさんのために、これから何をしてあげれられるだろうかと、そればかりを考えていました。山の上にいた時よりずっとおばあさんの家に行きやすくなったからです。雪がやわらくて深い時は行けませんが、湿った後に雪が硬くなると、ハイジはおばあさんに会いに行くのでした。この冬はいつになくおばあさんの体の具合が悪く、ベッドに寝たままのおばあさんを見て、ハイジの小さな心は痛みました。そして、おばあさんの求めに応じて、例の「お祈りの本」からいくつかの詩を選んではおばあさんに読んで聞かせました。すると、おばあさんの辛そうな顔がいつも楽しげな表情に変わるのでした。こうして、おばあさんのために何かをすることができるということが、ハイジにとって人生最大の幸福となっていました。

 人間は神ではありませんから、すべての人間を愛するということはできません。仮に愛したいという気持があっても現実には不可能です。人間は誰でも、ある特定の人を愛するのです。ある人は十人の人を愛するかもしれませんし、またある人は百人の人を愛するかもしれません。いずれにせよ、人は特定の誰かを愛して生きます。こうして人間は誰かを愛し、誰かのために生きようとするときに最大の幸福を得るのです。

 一方、愛されることも必要です。愛することと、愛されることと、どちらがより重要なのでしょうか。もちろんどちらも重要なのですが、この「ハイジ」を読み進むうちに私が学んだことは、やはり愛することの重要性でした。あのおんじでさえ、ハイジというたった一人の少女のために生きることで人間が変わったようにやさしくなりました。愛されることも重要ですが、たぶん愛さない人には愛されることの大切さも十分に理解することはできないでしょう。

 人生の悲惨は、誰からも愛されないということではなく、たぶん誰をも愛せないことだと思います。家族の愛からほぼ完全に見放されたハイジでさえ、小さな生き物を愛することによって、弱さはあるものの、立派に成長してきました。愛されていないということに失望したり、さらに進んで怒りを覚えたりしてはならないと思います。「そんなのは理想だ。人間にはできない」と断定する人もいることは承知しています。しかし、人間は誰でもハイジのようになれる可能性を秘めています。人間は最初から誰かを愛するように造られているからです。人間性を否定的、消極的に取るのはその人の自由です。しかし自分の中にも、また人の中にも、ハイジのような肯定的で積極的な生き方を選び、そして生きる自由があるのです。

 アニメ「ハイジ」第38話「新しい家で」は、おんじとハイジ、それにペーターも手伝って、冬の家に引っ越してくる様子が詳細に描かれています。初めて冬の家に入ったハイジとペーターが、まるでお化け屋敷を探検するように部屋を巡る様子は、これを見るすべての少年少女の心をくすぐりそうです。アニメ「ハイジ」製作スタッフとして場面設定を担当した若き宮崎駿氏は、この冬の家を原作から発展させて実に夢あふれる建物として再現しています。ですからアルムの山小屋も、フランクフルトのお屋敷も、基本的に宮崎さんの創造力によるものです。宮崎さんの後の大作「天空の城ラピュタ」では、空に浮かぶ空中都市が出てきますが、その描写の一部はこの冬の家からイメージを得ていると思われます。

 以前は居間として使われていたと思われる広い部屋には、絵が描かれたタイルで覆われたとても大きくて美しいストーブがあります。そこに寄せるようにしてハイジのベッドが置かれました。ハイジが寒くないようにとのおんじの心づかいです。この部屋はあまりに広くて立派で、小さなハイジには似つかわしくないようでもありますが、でも一方ではあのフランクフルトのお屋敷と比べるならずっとお似合いで、ここで眠るハイジは、小さな村のお屋敷のお姫様のようにも見えてきます。




 第19章 ペーターの奇跡


 この章で取り上げられるハイジがペーターに文字を教える話しは、高畑アニメ「ハイジ」では取り上げられていません。シュピリ原作のペーターと高畑「ハイジ」のペーターの性格付けが大きく異なるために、この部分は削除されたのだと思われます。原作第19章「冬はまだつづいて」から。

 ペーターと同様文字を読めなかったハイジはフランクフルト滞在中に、クララのおばあさまの深い愛情と指導によって文字が読めるようになりました。そして今ハイジが最も願っているのが、盲目のペーターのおばあさんのためにペーターの家にある「お祈りの本」を、できれば毎日読んであげることでした。しかし、冬の間は雪が深くてなかなかおばあさんの家に行くことができません。そのことをもんもんと考えていたハイジに、ある日名案が浮かびます。ペーターが文字を読めるようになれば、自分に代わっていつでもおばあさんに「お祈りの本」を読んであげられるではないかと。わたしも読めるようになったのだからペーターもきっと読めるようになると、ハイジは確信したのでした。

 さて、かつてフランクフルトのお屋敷では、ほとんどまったく文字を覚えないハイジには先天的な欠陥があるように思われていました。しかしクララのおばあさまの手にかかると、ハイジは数週間のうちに文字を読めるようになったのでした。この出来事はゼーゼーマン家の家庭教師やロッテンマイヤーの目には奇跡のように映ったのです(第10章参照)。

 奇跡とは何でしょうか。科学で説明できない現象を奇跡と呼ぶのでしょうか。仮にハイジが文字を読めるようになったのが、子どもについて先入観を持たないクララのおばあさまの合理的教育法によるのだとすれば、これは科学的に説明できる事柄なので奇跡でも何でもありません。では、奇跡とは何なのでしょうか。

 次の日からハイジは、学校から帰るとペーターに付きっきりで文字を覚えるレッスンを始めました。詳しくは原作をご覧ください。笑わずに読むことができないほど愉快なレッスンです。当初ペーターは、どんなことをしても自分が文字を読めるようになんかならないと思っていました。しかしハイジはそれとは違う考えでした。かつてハイジ自身もペーターのように自分には文字など読めるようにはならないと信じていたのに、今は自由に読めるようになったからです。自分にできたのだから年長のペーターにできないわけがないと、ハイジは確信していたのです。そして時には励まし、時には少々脅かしつつ、フランクフルトから持ってきたABCの本に基づいて、しかも愛情をもって熱心にペーターに文字を教えました。ペーターも時には大いに苦しみながら、でもそれをついにやり遂げました。

 その後、フランクフルトでハイジに起こった「奇跡」と同様のことを、デルフリの学校の先生も、またペーターのおばあさんも体験したのでした。教育の有効性を信じてそれに取り組んだ人には奇跡でも何でもないのかもしれませんが、子どもの成長を信じることができずあきらめていた人々には、このことは奇跡として見えたのです。原作者シュピリはキリスト教徒であり、聖書に基づいて奇跡を信じる人でしたが、彼女がここで大切なこととして記している奇跡は、子どもを信じ、かつ愛情をもって接し続けるなら、必ずやそこにすばらしい成果、すなわち人間的成長が現れるということなのではないでしょうか。

 こうしてペーターの上にも奇跡が起こりました。しかしフランクフルトでもそうであったように、ここアルムの山でも何か神がかったようなことは一つもありませんでした。にもかかわらず多くの人々の目には奇跡と思われる感動的な出来事だったのです。人間を育てようとする地道で素朴な努力がいつしか実を結ぶと、それは奇跡的な出来事となって多くの人々の心を動かします。このように、人が人に対して抱く信頼と愛情の積み重ねは、いくつもの奇跡を生んでいきます。

 ハイジに起こった小さな奇跡は、山羊飼いのペーターにも起こりました。そしてさらに、奇跡の物語はアルムの山にやって来た足の不自由なクララにも起こります。それがこの小さな女の子を描いた小さな小説「ハイジ」のエンディングを飾ることになります。

 「ハイジ」の初版が1880年、翌年に第2部が添えられて現在の「ハイジ」として全世界に知られるようになりますが、それから間もない1888年、米国に一人の女の子が生まれました。その子は幼い時の病気のために目も耳も、口も不自由でした。当然ながら見ることも聞くことも話すこともできない重度の障害児でした。両親も悲しみながら、この少女の成長をあきらめるしかありませんでした。しかし、ここに少女の成長を確信する家庭教師が現れ、熱心に、しかも愛情をもってこの少女に接しました。そしてついに「ハイジ」に記されたのと同じ奇跡が起こりました。皆さん御存じのヘレン・ケラーの実話です。

 私はこうした奇跡を信じます。それゆえに「ハイジ」に親しみ、また聞いてくださる方には熱心に「ハイジ」という小さな女の子の物語を語り続けてきました。人をあっと驚かせるような奇跡というのも、他にもあるにはあります。しかし人間の人格を感動で揺り動かし、その人の未来を明るくするような奇跡というのは、もっと小さな日常の事柄の中に、それも人の心の中に隠れるようにして起こるもののように思えてなりません。




 第20章 おばあさんの心配


 いよいよフランクフルトからクララがやって来ます。当然ハイジは大喜びですが、ペーターはひどく機嫌を悪くし、またペーターのおばあさんは不安と悲しみを抱えてしまいます。原作第20章「お友だちがはるばるやってきて」から。

 ペーターはなぜ機嫌が悪いのでしょう。フランクフルトから足の悪いクララがやって来れば、ハイジはきっとクララに付きっきりになり、もう二人でアルムの上の牧場(まきば)に行けなくなるからです。きわめて山深い当時のスイスの山岳地帯では交通が不便で、隣の村へでさえ特別の用事がなければ行き来しませんでした。方言もひどく、山を越えると隣村とも方言が異なるほどでした。こういう環境の中では、人々は内向的になり、外の人間に対して心を開かなくなります。ペーターの性格は彼一個人のものではなく、山地に住むスイス人の一般的な性格とも言えます。でもまあ、平たく言えばハイジに対する嫉妬ですね。それも相当に強烈です。高畑アニメ「ハイジ」ではこのペーターの性格付けが原作から大きく変更されていますが、これについては後ほど。

 さて、ペーターのおばあさんのことですが、おばあさんはペーターからハイジのところへフランクフルトからお客が来るという話しを聞いて、不安と悲しみを覚えていました。感情の出方は異なるとしても、孫のペーターと心理は同じでした。もしかしたらハイジはまたフランクフルトへ行ってしまうのではないかと、そして自分は再び何の楽しみもない孤独な生活を送らなければならないのではないかと、その心を心配で曇らせていたのです。

 原作「ハイジ」は、主人公ハイジが大きな苦しみから解放されて元の彼女自身を取り戻しただけでなく、大きく成長していった理由を、単にアルプスの大自然がそうしたと語ってはいません。アルプスの自然はハイジにとってかけがえのないものです。しかし自然さえ回復すれば人間の問題は解決されるかのような書き方をしていません。それはまたアルムおんじの心の問題においても同様です(原作第14章参照)。ペーターのおばあさんにとってもそうなのです。どんなにアルプスの自然がすばらしくても、それだけではおばあさんの心の不安は晴れないのでした。

 でも、おばあさんはどこに解決の秘策があるかを知っていました。ハイジがやって来ると、盲目のおばあさんはいつもハイジにしてもらっているように、そばに置いてある「お祈りの本」から一節を読んでもらいます。

 「神さまはなさいます  すべてをよい方へと

  波がさかまき  荒れ狂うときも

  信じているのです  守られてあることを。」

 この讃美歌の詩の朗読を聞いて、おばあさんはようやく穏やかな心を取り戻します。むろん、おばあさんの心配事は解決していません。しかし「神さまはなさいます」を聞いて、おばあさんは目の前の現実よりもさらに確かな神の守りと、いずれ必ず問題を解決して下さる神の力を信じることができたのでした。「ハイジ」の世界の明るさと開放感は、単にアルプスの自然の恵みだけに基づいているのではなく、もっと深いところで、その天地を創造した神に対する人々の素朴な信仰から来ているのです。

 アニメ「ハイジ」第42話「クララとの再会」では、原作のペーターとはまるで違うペーターが登場します。ペーターはハイジに対していつも協力的であり、心強いお兄さんのようであったように、クララに対してもやさしく接し、彼女の山での生活をとことん助けようとします。これについては、原作を大切に思う一部のファンからは、ここまでペーターの性格を変えてしまったことに批判があるようです。もちろんそれはよく理解できます。しかし、20世紀後半からの「ハイジ」文化を語る際に、高畑アニメ「ハイジ」をまったく受け入れずに、もはや「ハイジ」を語ることは不可能です。なぜなら今日の「ハイジ」のスタンダードは原作ではなく、全世界的に高畑アニメ「ハイジ」であるからです。

 この問題について私はこう考えています。原作をどんなに変更してもかまわないとは言えませんが、その変更が原作の最終的なメッセージ(意図)をそこなわないのであれば、いくつかの形を変えた「ハイジ」があってもいいし、そしてそれが21世紀初頭の今日においてもはや認めざるを得ない「ハイジ」の現状になっています。20世紀以降作られたいくつかの「ハイジ」映画とテレビドラマを見ましたが、原作とまったく同一のものは一つもなく、すべての「ハイジ」は原作と異なっていました。一部が異なるからと言って、そのことをもって脚色された「ハイジ」のすべてを否定してしまうのは、原作以外いっさいの関連した文化作品を認めないことになってしまわないでしょうか。

 ここでもう一つの原作との大きな違いに触れたいのですが、アニメ「ハイジ」では、クララと共にアルムの山に何とあのロッテンマイヤーが付き添ってくることです。私はむしろこの変更点のほうが原作との違いを決定的にしていると思います。しかし、にもかかわらず、高畑アニメ「ハイジ」は原作のメッセージと深く関係し続けるのです。ここにおいてロッテンマイヤーは単なるいじめ役として終わることなく、ロッテンマイヤーもまたハイジやクララと同じように、このアルムの山で、いままで知らなかった新しい世界とそこにある人間性の豊かさに気づいていきます。高畑氏はこのロッテンマイヤーにも最終的に救いを与えているのです。




第21章 スワンの燃えるような目


 クララがアルムの山小屋で初めての夜を過ごした翌日のこと。これまでまったく想像もできなかった新しい生活が始まりました。原作第21章「それからアルムでは」から。

 クララの生活は何もかも新しくなったのですが、なにより彼女を変えたのは彼女の食欲であり、何度もおかわりして飲んだ山羊の乳でした。山の上の空気のいいところで食べれば何でもおいしい、というのがまず前提にあるとは思いますが、アルムおんじの飼う山羊の乳が、クララの人生を変える突破口になったのは間違いありません。

 アルムおんじも、すぐそのことに気づいたようです。おんじは翌日からその山羊の乳をさらにパワーアップすることを思いつきます。二匹の山羊のうち、特においしい乳を出す白い山羊、スワン(アニメ「ハイジ」ではシロ)に通常の野草ではなく、特別な薬効を持つ薬草(ハーブ)だけを与えた乳を作ることにしたのです。おんじが山から採ってきた薬草を食べ続けたスワンの目は、燃えるように輝いたと書いてあります。(上田真而子訳、岩波少年文庫版下巻p.178の「ユキ」とあるのはたぶん誤植で、正しくは「スワン」だと思います。)

 皆さんの中に山羊の乳を実際に飲んだ経験のある方はおられますか。はっきり言ってそんなにおいしいものではありません。だからスイスでも山羊の乳から牛乳を生産するように変わっていきました。現在のマイエンフェルトの周辺では、観光目的で飼われている山羊以外、山羊は飼育されていません。ところが、家畜の乳というのは、その食べたものによって味がまったく違ってしまうという性質があるようです。

 私が新潟の田舎で暮らしていた頃、知り合いの農家で山羊を飼っていました。私が山羊に関心を示していると、ご主人が一升瓶に入った山羊の乳を二本持ってきて、それぞれを私に飲ませてくれました。一本は通常の野草を食べた山羊乳。これは昔から私も知っている、かなり山羊の体臭がきつい山羊乳でした。子どもの頃、体にいいからと飲まされて閉口したあの味と匂いです。ところがもう一本のほうは、あれ?ぜんぜん山羊のあの体臭がしません。言われなければ山羊乳だと気づかないほどです。こっちのほうは山羊に野草を食べさせないで、乳牛用の合成飼料を与えて絞った乳だったのです。だから、ちょっと牛乳に似た味で私にはずいぶん飲みやすかったことを覚えています。

 2006年の夏にハイジ研究の一環としてスイス東部のマイエンフェルトを中心とした地域を旅行したおりのことです。ホテルの朝食に素敵なポットに入ったホットミルクが出るのです。残念ながら私は牛乳が体質的に合わず飲めないのですが、あまりにおいしそうなので少しだけ飲んでみました。すると日本で飲んでいるものとはかなり違う味、違う香りでした。どこか枯れ草のような自然な香りがして、けっして濃厚ではなく淡泊な味です。二日目の朝は半分ほど飲み、ついに三日目からは全部飲んで平気でした。なーんだ、私にも牛乳が飲めるじゃないか、と日本に帰国後地元のスーパーで買って飲んでみましたが、すぐにお腹をこわしました。あのスイスの牛乳はまったく違っていたのです。ああ、あの牛乳を飲むためにだけでも再びマイエンフェルトを訪れたいと思うほどです。

 話しが脇道にそれてしまいましたが、家畜の出す乳はそれほどに食べる飼料に左右され、まったく別の味、別の栄養価を持つことは確かなようです。アルムおんじが高い山から採ってきた希少な薬草をスワンに与え続けると、スワンの目の輝きが変わってきて、燃えるように見えたというのは創作ではないと思うのです。

 クララはアルプスの大自然の中で、そこにしかない清らかな空気と食べ物をいただき、心から信頼できる人々に囲まれているうちに、いままで自分では一度も考えたことなかったこと、フランクフルトでは誰もが信じることができない奇跡に向かっていくことになります。過去を打ち破る力ある未来は、ただその人の願望だけではやってきません。その人を支える人々や、ふさわしい環境がどうしても必要なのです。

 クララがどのようにしてこの奇跡に向かっていったかということに関しては、アニメ「ハイジ」のほうがより時間をかけて描いています。第48話では、アルムの山小屋の近くの木陰で読書をしていたクララの前に、一頭の牛が迷い込んで来てクララに近づいてきます。クララは驚いて悲鳴をあげるとともに、恐ろしさのあまり思わず立ちあがったのでした。本人には無自覚な出来事でしたが、ちょうどその場に居合わせたクララのおばあさまや、それを聞いたアルムおんじやハイジの期待は俄然高まります。

 ところが第49話になると、クララにはそのことがしだいにプレッシャーになり始めます。立って歩けるようになりたい・・・でも、もし歩けなかったらどうしよう・・・愛する人たちの期待にもしかしたら応えられないかもしれない、とのクララの思いは時計の振子のように大きく揺れ動くようになります。第50話では、とうとうその重圧に耐えきれなくなったクララが泣きだしてしまいます。そして第51話では、予想もしなかったことがクララの身に起こります。そのことについては次の章の後半でお話しします。

 このように、高畑「ハイジ」では、クララの心の葛藤という原作にはないストーリーを展開してフィナーレへと向かいます。それが、いままで原作でも語られてきた「奇跡」の意味をくっきりと描き出していきます。




第22章 わたし、歩けたらいいのに!


 原作のペーターは、クララがアルムの山へ来て以来ずっと、ひどく機嫌を悪くしていました。ある朝のこと、ペーターが山羊を連れて牧場(まきば)へ上がる途中におんじの山小屋の前を通りかかると、そこにクララの車椅子だけが置いてあり、誰も外にいません。車椅子を見ているうちにペーターの怒りは再び燃え上がってきました。そうだ、この車さえなくなればクララはここにはいられない・・・そう思ったペーターはこれまでの怒りをすべて車椅子にぶつけるように、村の側の急斜面に車椅子を突き落してしまいます。見る見るうちに椅子は崖下へ駆け下り、途中の斜面や岩にぶつかってこなごなに壊れてしまいました。原作22章「思いがけないことが」から。

 おんじは、置いてあった車椅子がなくなったことに不審を抱き、後にペーターがからんでいると確信します。でも、それは言いませんでした。では、クララ本人はどうしたでしょう。その日は上の牧場へ遊びに行く予定にしていました。車椅子がなくなったクララは、もう自分はフランクフルトへ帰らなければならないとがっかりしますが、「まあ、後のことは後のことだ」とおんじに励まされ、ハイジと共におんじに抱かれて牧場に上がりました。クララは草の上に座ったままでしたが、山羊のユキが寄ってきたので、クララは草をむしってユキに食べさせ、ユキの世話を始めました。そのとき、クララの心に新しい人生への希望がふつふつとわき起こってきました。「ああ、わたし、歩けたらいいのに!」今自分がユキを世話しているように、自分の足で歩いて誰かを助けてあげられる人になりたい。そう思ったのです。

 原作では、この時からクララの歩行訓練が始まります。車椅子はクララにとってみれば、これまでほとんど体の一部であったものですし、それを失ったショックで落ち込んでいてもいいはずです。ペーターはそれを期待していたのですが、現実は何と皮肉な・・・いや反対に、何とすばらしいことでしょうか。この不運な出来事が、かえってクララの新しい人生の出発点になったのです。

 「わたし、歩けたらいいのに!」クララは今までのように、ただ誰かに助けられて生きる生活から、誰かを助けること、誰かのために生きる生活をしたいという強い願望を抱くに至ったのです。他の映画でも演劇でも、テレビドラマでも、いや、そもそも多くの人生そのものがこうしたドラマを持っています。不可能を可能にする何かが、小さな「奇跡」が、まずその人の心の中で密かに起こるのです。そしてそれは多くの場合、順境の時ではなく、その人の逆境の時に、その偉大なドラマは幕を開けるのです。

 さて、大きな過ちを犯したペーターはどうなったのでしょう。原作をまだお読みになっていない方は少し心配ですね。でも大丈夫です。まったく予想もつかないドラマがこの後なお続き、このペーターにも寛大な赦しが与えられます。詳細はぜひ原作を手にとってお読みください。

 アニメ「ハイジ」第51話「クララが歩いた」では、上記原作のストーリーとはまったく異なった経緯でクララが歩けるようになります。アニメ「ハイジ」のペーターには、クララの車椅子を壊すことなんてまったく考えられません。でも、クララの車椅子は壊れてしまうのです。ではいったい誰が?ええっ!クララが車椅子を壊したの?そうなんです。クララは以前から、立って歩けるようになりたいと思いつつも、でも、もし歩けるようにならなかったらどうしようと、二つの気持の中で揺れ動いていました。もし歩けなかったら、いままで助けてくれたアルムおんじにも、ハイジにも、そして特にクララのおばあさまに、どうしたら赦してもらえるだろうか・・・そう考え始めると、クララの心はどんどん暗くなっていきました。

 しかしその振子のように動く気持の中で、クララも一度は車椅子にもう乗らないと宣言し、おんじにお願いして車椅子を隣の納屋へかたずけてもらいます。ところが、わずか数日のうちに振子が元にもどり、一度は捨てたはずの車椅子が猛烈に恋しくなり、クララは自分の力だけで壁づたいに納屋に入り、車椅子を再び外へ引っぱり出そうとします。しかし、立っているのがやっとのクララは、車椅子を納屋の出口から押し出すときに誤って表の斜面に突き落してしまい、車椅子は途中の石にぶつかってこなごなに壊れてしまうのです。

 「ハイジ」最大のクライマックスが原作と大きく異なるという点については、高畑「ハイジ」が公開された当時、原作の熱心なファンから批判が多く上がったようです。しかし今はこの点に関して問題視する人は少なくなりました。しだいに高畑アニメ「ハイジ」の良さが原作ファンの間でも受け入れられるようになってきたからだと思います。

 そのような親しみをもってアニメ「ハイジ」を見るようになると、このような原作との違いは「ハイジ」の物語として違和感がないばかりか、むしろ原作のこの部分に込められた人間の弱さと心の闇の問題を、クララという一人の人物の中で取り上げることによって、通常のアニメ作品には見られないほどの崇高な人間性を描くことになりました。まったく異なった展開で進むこの「ハイジ」物語の二通りのクライマックスは、最終的にはただひとつの人間性を告白しているように私には思われます。それが実現したのは、当然ながら原作のすばらしさによるものですが、忘れてならないのは、アニメ「ハイジ」を制作した高畑勲氏の原作に対する深い理解と、そこで見い出された崇高な人間観にあるということです。今なお全世界で愛され続けているアニメ「ハイジ」には、それだけの理由があるのです。




第23章 わたしがおわかりにならないの?


 アルムおんじの忍耐強い介護と訓練、そしてクララ自身が立って歩きたいという強い希望を持ったことにより、クララはとうとう自分の二本の足で歩けるようになりました。最終章は第23章「さよなら、また会う日まで」。

 まずクララのおばあさまが何も知らされずにアルムの山に到着し、心臓が止まるほどの驚きとともに、この信じがたい光景を見ます。さらに、やはり何も知らないクララの父ゼーゼマンも山に登ってきます。ゼーゼマンがアルムの山小屋に近づくと、二人の少女が並んで自分の方へ歩いてきます。一人がハイジであることはすぐにわかりました。でも、もう一人の背の高い金髪で青い目をした少女にゼーゼマンは一瞬とまどいます。彼の目は遠い昔に引き戻されていました。そのときゼーゼマンは、同じように金髪で青い目をした若き日の妻を見ていたのです。それは一瞬のことでしたが、ゼーゼマンはそこにいるのがまさに自分の娘、それも足の不自由な娘クララであることが理解できませんでした。

 クララが、クララを産んで間もなく世を去ったゼーゼマンの妻を彷彿とさせたことは、母と娘のことですから似ていて当然のことでしょう。何も不思議なことではありません。でも、もう一つ大きな理由、すなわち父ゼーゼマンがクララを自分の娘と認識できなかった理由が別にあったと思います。

 それはクララの顔の位置にあったのではないでしょうか。クララは生まれて間もなく病気が原因で足が不自由になり、ゼーゼマンは娘が立って歩く姿をほとんど見ないまま今日まで過ごしてきました。ゼーゼマンにとって、クララはいつまでも小さな子どもであり続けました。なぜかというと、父親がクララに会う時は、彼女は車椅子か、ベッドの上にいたからです。たぶん体の大きなゼーゼマンは、いつもかがみ込むようにして、小さな子どもとして娘と接してきました。しかし実際の年齢では、そろそろ娘ざかりを迎える年頃の女性になっていたのを父は理解できずにいたのです。それが、今自分の前に立っているクララの顔の位置は大人の女性の位置にあります。ゼーゼマンにとっては愛する妻の顔と重なる位置に、初めてクララの顔を見たのでした。

 奇跡は、ひとつには誤認ということにあるとも言えるでしょう。起こっている事実を何らかの理由で受け入れられなかった人が、少し時間をおいて受け入れる状態に移行したときに、人はそれを奇跡と認識するのだと思います。父ゼーゼマンにとっては、この一瞬の誤認は彼の生涯にわたるすばらしい思い出となっていったことでしょう。クララが立ちあがったことによって、亡くして久しい愛する妻が娘と共にあったのです。確かにそこにいるのは娘であって、妻が生き返ったのではありません。しかしゼーゼマンにとっては、クララが今こうして生きていること、それも妻とよく似た姿で、しかも大人の女性のように立って自分の目の前にいてくれることがどんなに幸福であったことか。

 家族の、あるいは男女のどんな深い愛情も、死という現実はそれらすべてを奪い取っていくように思われます。人がしだいに家族を失い、最後にはたった一人になっていくというのなら、それを真実としなければなりません。しかし、もし人がたとえ最愛の人を失ったとしても、他に誰かがその人を愛して共に生きてくれるなら、人は必ず失ったもの以上の何かを、幸福を、未来への輝いた希望を得ることができるのではないでしょうか。ハイジもまた生まれてすぐに父と母を失い、両親の顔を知らずに生きてきましたが、アルムおんじと出会い、またペーターのおばあさんと出会い、フランクフルトのクララと出会うことを通して、人を愛し、また愛されて、彼らと共に生きる人生が与えられて、ハイジの人生は、けっしてたった一人で生きていく孤独な人生にはなりませんでした。

 これが、21世紀の現代に生きる人間に対して「ハイジ」が提示し続けている新しい人間の生き方です。もっとも130年前から同じことを語り続けているのですが。その生き方のキーワードは、どうも「奇跡」にあるように思えてなりません。日本は豊かな社会になり、お金さえあれば同時に自由があり、人は誰の世話にならなくても生きていけるような錯覚の中で生きてしまいがちです。このような錯覚の中では、ここまで見てきたような「奇跡」は起こりません。いや、起こっているのに残念ながら見ることができないのです。

 娘クララに起こった奇跡は、ゼーゼマンの人生を、その価値観すらも大きく変えたことでしょう。ハイジに起こった奇跡も、アルムおんじを変え、またペーターのおばあさんの人生をも変えていきました。そして最後にクララの人生をも変えていったのです。

 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。終わりに「ハイジ」というスイスの一人の小さな女の子の物語の、その最終章に記されたペーターのおばあさんの言葉をもって、この「ハイジ」エッセーの閉じることにいたします。

「これから先は、もうわたしには、たくさんのお恵みを授けてくださった神さまを、ほめたたえることしかなくなりましたよ。」(竹山道雄訳)


おわり