その日、朝から戴宗は不調だった。
『その日』と言うより、数日前から、体調を崩していたのである。
人にそれを悟られて心配させるのも嫌だったし、かと言って普通に接しようとして人に感染すのも避けたかった。
考えた結果、戴宗はその日も含め、パトロールと称して、外を回っていた。
「だる…」
誰に告げるでもなく、呟く。
恐らく風邪だろうが、随分と懐かしい気さえする。
これ以前に風邪をひいたのは、どれ位昔の事だったろう?
体調管理に気を配っていた訳ではないが、人より丈夫である事は自慢の種だった。
一回、軽く鼻をすする。
余り軽快に通らない空気が、鼻腔の粘膜をくすぐり、ずず、と音を立てた。
「…っくしょい!」
反射的に、むずがゆさを覚えた鼻が、くしゃみとなって不快を訴える。
「――今日は卵酒でもかっくらって寝るか」
再び、一人ごちる。
こんな時、なかなか一緒にいられない伴侶との事を、少しだけ感謝する。
見た目通りの姉御肌な彼女の事だ。風邪をひいてるなどと知れたら、強制的に休養を取らされるのは火を見るよりも明らかだ。
それはそれで、独り身の頃を思えば喜ばしい状態なのだろうが、自分の立場を考えると、手放しで甘えるのも、何か憚られる様な気がした。
勿論、誰も看病される戴宗や、看病をする楊志を非難する者はいないだろうし、気を遣えば逆に怒り出してくれるだろう友人の存在も解っている。
しかしだからこそ、心配はかけたくなかった。
少々強めの酒でも煽って、早めに眠ってしまえば、その内治るだろう。
そう思いながら、戴宗は郊外をうろついていた。
そろそろ、頬に当たる風が、冷たい。
「――っくしょい!」
まるで自分の考えに同意するかの様に、くしゃみが出る。
「こんな所にいたか、戴宗」
「――」
有り得ない場所から聞こえた声に、立ち止まる。
声が聞こえた場所、それは。
「寺の屋根から声がする…訳ぁ、ねぇよな?――――衝撃の」
街の外れにある、潰れかけた寺院。
その屋根の上に立つ、影。
衝撃のアルベルト。
この男と顔を合わせるのは、もう何度目だろうか。
初めて会ったのは、もう随分前の様な気がする。
確かその時は両目がきっちりとあった筈だ。
――尤も、機械に覆われた彼の右目は、自分が潰してしまったのだが。
「何だい…俺に会いたくてこんなトコまで来た、ってか?」
身構えるでもなく、わざとからかう様に言葉を放る。
アルベルトもそれに対し、口の端だけを歪めて答えた。
「そうだな…会いたくて仕方がなかったぞ、戴宗――」
瞬間、アルベルトの姿が屋根から消える。
戴宗が移動先を予測して構えると、呼応する様に影が現れ、互いの視線が急速に近付く。
「一秒でも早く、貴様を殺そうと思うと、じっとしてなぞいられなくてな」
「おーおー、そりゃ随分と愛されてるこって」
「その余裕、いつまで続く――!?」
言葉が途切れるかどうかの瞬間、互いの身体が離れ、その影は音もなくそれぞれの位置につく。
何度目に会った時だったか。
戦闘の末、戴宗は敵幹部の一人を殺した。
殺すつもりだったかどうか、今となっては解らない。
けれど結果として、相手は死んだ。自分の攻撃によって。
そして相手は、アルベルトの盟友であった事も、その時知る事になる。
『貴様を、必ず殺す――ビッグファイアの名の下に。…我が盟友の弔いの為に!』
盟友の『骸』を片腕に抱き、自身も右目から夥しい血を流しながら、それでもその血を拭おうともせず、アルベルトは戴宗を睨み付けた。
その迫力は流石に敵方の幹部なだけはある。…そう思いながらも、戴宗は心の何処かで、アルベルトのその姿を、気高い――何処か『綺麗』だとさえ思っていた。
純真に己の信じるものを信じ、ただ、ただ真っ直ぐに。
それはとても『綺麗』なものだと、戴宗は思った。
その『真っ直ぐ』が、許されざる方向だとしても。
「――――。」
何回、打ち合ったか。
一瞬だけ、戴宗のバランスが、崩れる。
体勢を直そうと、構えるが。
「遅い!」
身構えるアルベルトの指先が、赤く光る。
避ける事が叶わないと判断した戴宗は、即座に受け身の体勢を取る。
戴宗の身体、中心を狙った衝撃波は、真っ直ぐに戴宗へと、空気を切り裂いて進む。
辛うじてそれを受けるものの、戴宗の身体は、弾かれる様に飛んだ。
「――?!」
僅かに勝利を確信したアルベルトは口の端を歪めたが、すぐに眉を顰め、戴宗の身体が弾かれた先へと、視線を走らせる。
手応えが、なさすぎるのだ。
ならば戴宗の事、何処かで身を翻し、こちらに反撃の一つもするだろうと、半ば楽しむ様に待っていた――…だが。
「――戴…宗…?」
アルベルトの視界の中。
弾かれた戴宗は、ゆっくりとその姿勢のまま。
やけにゆっくりと――落ちた。
「戴宗!?」
死ぬ筈がない。
まだ、致命打には至っていない。
勿論、加減など僅かにもしてはいないが、致命傷に至る程の打撃は、一度たりとて与えてはいない。
否、与えられなかった。
何度も打ち合い、隙は窺っていた。
だが、戴宗はその都度、微妙に身体の位置をずらし、致命打を避けていた。
そんな戴宗が、たかがあの衝撃波一撃で『堕ちる』筈がない。
戴宗がアルベルトの視界から消えて数秒。
小さく、水の跳ねる音が聞こえた。
「――っ」
舌打ちを残し、アルベルトは戴宗の落ちた先へと飛んだ。
アルベルトと対峙して間もなく。
戴宗は心の中でまずい、と呟く。
元気に戦えるだけの体力もなければ、上手く逃げる策を思いつく程の意識の余裕もない。
受け身をとるのが精一杯だ。
そんな中、バランスが崩れた。
体勢を直しても、間に合うまい。
咄嗟に受け身をとったものの、意識が既に身体を放棄しようとしている。
熱が上がったのだろうかと思っても、熱を測る余裕もない。
いっそこの熱を理由に、今回は見逃して貰えないだろうか。
そんな下らない事を考えながら、衝撃波を受け止める。
――と、不意に視界が大きく揺らいだ。
意識が身体に留まっているのが限界なのだ、と気付いた時。
この瞬間に出来る最後の力で衝撃波を弾き返し――落ちた。
落ちていく視界の端に、湖が見える。
深さは知らないが、体勢を直す体力はない。
せめてこの高さから落ちても大丈夫な程度の深さがあります様にと、見当違いな事を祈る。
しかし、湖に入るより少し前に、戴宗の意識は完全に身体を投げ出した。
考えてみれば、確かに今日の戴宗は何処か鈍かった。
鼻先が触れそうな程近付いたその時、熱く感じた息は、戦いによる熱気ではなく、単なる熱だったのかも知れない。
だとすれば、腹が立つ。
弱っている相手を手にかけるのは不本意だ。
それが、自分が弱らせたのではなく、元からであるとするなら、尚更。
特に戴宗は、完全な状態である時にこそ、倒すべき相手なのだ。
そうでなくては、盟友に対する手向けにはならない。
戴宗が落ちたと思われる場所の目処をつけ、飛び込む。
さほど時間はかからずに、戴宗は見つかった。
罠ではないだろうかと思い、わざと戴宗を掠める程度の位置で、衝撃波を放つ。
水中故に僅かに速度の遅いそれは、戴宗の身体を掠め、その先へと走っていく。
戴宗の身体は避けようともせず、衝撃波の余波に揺れるだけで、ゆっくりと落ちていく。
それを確認すると、アルベルトは戴宗のもとまで泳ぎ、片腕でその身体を抱きかかえる。
その腕の中で力なく抱かれるままの戴宗の身体は、厭に熱い。
「――っ」
水面から顔を出し、大きく一度、息をつく。
戴宗の顔を水面から出る様にしながら、岸を目指す。
これは助けているのではない。
こんな下らない理由で死なせるのは、余りにも馬鹿げている。
そう、何度も心の中で、繰り返す。
岸に上がり、適当な草むらに戴宗の身体を放る。
目に付いた木製のベンチを戴宗の前に置き、衝撃波で火を付けた。
途端に、勢いよく炎が上がり、視界が赤く染まる。
一通りの作業を終えたアルベルトは、戴宗の横に腰掛けた。
まさかこんな状況になるとは。
…と、そこまで考えた所で、戴宗が水を飲んでいないか、今更になって気付く。
戴宗の口元に耳をそばだて、呼吸音を確かめる。
息が、ない。
「…!」
慌てて、両手で戴宗の腹を押す。
押された反動で身体が跳ねるが、呼吸が戻る様子はない。
何度か繰り返すが、呼吸の前兆は見られない。
一瞬、脳裏に過ぎる『処置』に、アルベルトの表情が蒼醒める。
冗談じゃない。
思い切り、眉を顰める。
そうだ。こんな事で死んでしまう様な男なら、死んでしまえばいい。
人工呼吸など、それこそ助けていますと宣言している様なものだ。
敵方の、しかも友の仇に、何故そこまでしなければならないのか。
苛立ち紛れに髪を触ろうとしたアルベルトの指先が、不意に戴宗の手に触れる。
そこにあったのは、さっきまでの熱とはまるで違う、冷たい感触。
「――!」
まさか。
あんなにも高かった熱が失せる程に、身体が冷えているというのか。
慌てて、戴宗の頬に触れる。
――冷たい。
嘘だ。
こんな事で死ぬなんて、馬鹿げている。
こんな事で死なれたら、仇はどうなるのか。
大きく、息を吸う。
蒼醒めた戴宗の顔を自分の方へと向かせ、顎を引き上げる。
僅かに互いの顔が近付く。
「――う…」
「!」
瞬時に、アルベルトの身体が間合いを取る。
離れた時の反動で僅かに動いた戴宗の唇から、水が吐き出された。
「…っごふ、っ――か、はっ…!」
何度か咳き込み、苦しそうに喘ぐ。
やがてその咳も収まると、弱々しい声が、アルベルトの鼓膜を震わせた。
「――――煙草…臭ぇ…」
それだけ呟き、また黙る。
見ると、意識を失っているだけで、危険な状態からは脱した様だ。
「――下らん…」
何を自分は狼狽していたのか。
どちらにせよ、これでは勝負を喫する事などは無理だろう。
弱っている戴宗など、仕留めても何の満足感も得られまい。
諦めた様に一つ息をつき、アルベルトはその地を後にした。
それから暫く後。
戴宗が目覚めると、そこは北京支部の医務室で。
横には心配そうな、腹を立てている様な、弟分と。
「――楊志…」
同じく、心配を含んだ、けれど苛立ちにも似た表情で戴宗を見下ろす、伴侶。
「呉先生から連絡を受けて飛んできたんだよ」
気を利かせて出て行った弟分を見送った後、楊志が呆れた様に話し出す。
「呉先生が?」
戴宗が湖に落ちた時、戴宗の持っていた瓢箪に付けられた発信器が、北京支部へ信号を発した。
発信器は、装備者の安否を知らせる為、ある一定以上の条件になると、自動的に緊急信号が発せられる仕組みになっている。
今回は、戴宗が湖に落ちた事で、装備者の危険を察知した発信器が、北京支部に信号を送っていた。
「たく…具合が悪いんなら早く治療を受けりゃ良かったのにさ…でも何で湖なんかに潜ったのさ?」
「潜った、って――」
そう言えば。
符合しない記憶に、戴宗は黙り込む。
落ちる直前までの記憶はあるのだが、それからここに至るまでの記憶は全くない。
聞けば、戴宗はびしょ濡れの状態で、岸辺に倒れていたらしい。
そして戴宗の前には、木材が燃やされていたと言う。
人気のない湖だったから、誰かが助けたとも考えにくい。
だからと言って、自力でどうにかしていた、なんて都合のいい事がある筈もない。
「大した事ないとは言え、少し水も飲んでるみたいだから、安静にしてなよ」
「…」
覚えている事と言えば。
僅かに感じた、煙草の――それも、葉巻の様な癖の強い――匂い、だけ。
「まぁ、アンタがぶっ倒れてる間に、注射もして貰った事だし、今日の所は暖かくして寝てるんだね」
「…ああ。済まねぇな、わざわざ来て貰って」
素直に礼を言うと、楊志の頬に僅かばかり、朱が混じる。
「…そりゃ、亭主が倒れたって聞きゃあ、女房としちゃ来ざるを得ないからねぇ…そ、そんな事はいいから、もう寝た寝た!」
――――まさか、な。
意識の端に、ある筈のない状況を想像し、密かに笑う。
『あいつ』が俺を助ける訳がないか。
照れを隠しきれない伴侶の、大きな、優しい手のぬくもりを感じながら、戴宗は目を閉じた。
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