|
欲孕みて罪を生み (『ヤコブ書』1-15)
|
「機密が漏洩しているだと?」 セルバンテスは綴じられた書類を繰りながら、眉を顰(ひそ)めた。片手は磨き上られたマホガニーのデスク上にあり、人差し指がこつこつ、と其処を軽く叩いている。良く鞣(なめ)された黒のレザーチェアーは柔らかく、スプリングの効いた背もたれが彼の体重を支えた。 「それで、」 と、書類を提出した部下の方へ視線をやる。とはいえ、白いクフィーヤと赤瑪瑙色のゴーグルで目許は見えないようになっているのだが。 「目星は付いているのだろうね。」 「はっ。」 黒覆面をした男の全身が緊張をした。 「漏洩していた事項の内容、時期等からしてこの人物に間違いありません。」 新たに資料を提出する。用紙には50代半ばの男の写真と黒い手帳が添付されている。白髪の混じった髪、黒い縁のメガネ、やせた頬と薄い唇が全体的に神経質な印象を受ける。白衣を着ていることから、技術士か研究者であることが窺える。 「モール(潜入スパイ)ということは無いだろうな?」 セルバンテスは砂漠の国を中心として、あらゆる部門に枝を広げている会社のトップである。またオイルダラーという名称を冠しているが、現在において石油はエネルギー利用としては皆無で、繊維であったり、容器であったり、あるいは武器として利用されることを主とされている。 「は・・・、いえ、彼自体がスパイ行為をしている形跡はありません。現在、秘密裏に監視下に置いておりますが、施設内での行動、思想言動、私生活及び金銭関係での不審な点は見つかりませんでした。」 セルバンテスは、ふむ、と口元に生やした長い髭を指先で撫でた。 「ただ、彼の情婦と思われる女の身元が・・・。」 黒覆面の男は3つ目の資料を渡した。先日のこと。給水車に偽装した武器輸送トラックが国際警察機構に摘発されるという、好ましからぬ出来事があった。 「ならば此方も彼をうまく利用するか。」 セルバンテスは“ある準備”をするように黒覆面の男に命じた。
男は神経質そうに黒い縁の眼鏡を人差し指で上げ直し、鍵をドアに差し込んだ。センサーが主の帰宅を感知して、ライトを点ける。10日ぶりの自宅だ。組織の準備した部屋なので、少々留守にしてもセキュリティーは完璧だ。それに、自宅のベッドで眠るのと、絶えず場所の変わる仕事先の簡易ベッドで眠るのとでは、随分差があるというもの。 「な・・・。」 「やっとご帰還かね。待ちくたびれたよ。」 その声に、手に持っていたワインが音を立てて床に落ちた。 「セ、セルバンテス様・・・!」 「ああ、ワインを買うために寄り道をしていたのかね。」 青ざめる男とは反対に、セルバンテスは微笑を浮かべている。 「安心したまえ。“彼女”が来るまでには帰る。」 「何故、その事を・・・。」 男は自分よりもずっと年下のセルバンテスから与えられる強烈なプレッシャーで、押しつぶされそうになっている。 「君は随分、几帳面なタイプなんだね。 「あなたが何故、お持ちなのですか?」 「・・・・・。 男は思念した。 「まさか・・・!わたしは組織に対して反逆行為は犯しておりません!」 「君自体は、ね。だが、君の“彼女”は問題だ。 「し、しかし、それは・・・。
「彼女は、国警のイリーガル(非合法工作員)だ。」
がたん、と男の背中がドアにぶつかった。 「そんな・・・。」 「だいたい無用心だ。手帳に『耐水』だの『車』だのと書き込んでいるのは。 「わたしは、ただ・・・仕事を完璧にこなそうと・・・。」 「危険な目に合わないようにするためには、 セルバンテスはクフィーヤに手を掛けた。 「若く美しいヨーロッパの女性だ。誘惑は簡単。彼女は教授時代からの君の癖や好みを知っていたのだろう。同衾した君が鼻の下を伸ばして惰眠を貪っている隙に手帳を盗み見た、と言う所かな。」 クフィーヤが徐々に外されて、癖のあるハニーブラウンの髪があらわれる。 「組織の掟は知っているな?」 裏切りには“死”を―― 何時もは濃い色のレンズに隠されているオリーブの瞳が、妖しく揺れている。 「お、お待ちください!わたしは、し、知らなかったのです! 「ほう、君は知らなかったと云うのだね? 「本当に・・・知らなかった・・・。」 「・・・ふむ。知らなかったのなら仕方が無い。教えてあげよう。」
「知 ら ぬ 事 自 体 が 罪 な の だ よ !」
クフィーヤを腕に巻きつけるように外しつつ、男の方へ近づく。 「さあ、償い給え。」 男は最早、恐怖で声も出なくなり、床にへたり込んでしまった。
「宜しい。私が君の罪を断じてあげよう!」
――動悸及び血圧の上昇。 ――意識混濁。 ――呼吸困難。瞳孔拡大。 ――全身痙攣。心拍停止。 足元に、うずくまる様に倒れた男の死体。 それでは此方は狩の準備をして待っていよう。 獲物が罠に掛かりやすいように、細心の注意を払って。 セルバンテスはクフィーヤを直し、そのまま夜の闇の中に溶けて消えた。
|
|