豚に襲われる! 4/28
おとといの夜、豚に襲われました! と言っても、夢の中の出来事ですが。夢が奇妙なのは別に珍しくも何ともありませんが、ぼくの夢はいつもはかなり現実的な内容が多いのです。だからたまにはこんな夢を見ると、すごく新鮮。
さて、夢の中で。なぜ豚に襲われるのかさっぱりわからないけど、とにかくぼくは逃げています。追いかけてくる豚は一匹。それに人間の仲間が一人、ついているよう。マトリックスに出てくるエージェント・スミスのような男。
ぼくは車に逃げ込みました。ワゴン車。ぼくが10年乗っているのもワゴン車だけど、それなのかどうかはわかりません。
見つからないようにシートに身を隠していたのですが、相手はぼくの居場所をかぎつけ(豚だから嗅覚は鋭いってことか?)、仲間の男がラゲージスペースのドアを開けた。豚が飛び込んできた!
やばい、やられる! ぼくは左に身をかわし、すかさず豚に一撃を浴びせた! ガン!
そこで目が覚めました。……ぼくは押入のふすまを殴っていました。
ふとんの中で実際に横っちょに飛んで、右手でふすまにパンチを食らわしていたのです。幸い、穴はあかなかったので、ほっと一安心。しかし、あまりのアホさ加減に、しばらく笑いが止まりませんでした。
夜中に突如笑い出す中年オヤジ。不気味だよなあ。家族にも迷惑だし。
何年か前にも、ぼくは夢の中で誰かとけんかをして(相手が誰かは思い出せない)、そいつに殴りかかったら、部屋の壁をたたいていたことがあります(あの時は今と違う位置で寝ていた)。あれは痛かった。手がすりむけました。「お父さん、よほどストレスがたまってるんじゃない?」と、あの時、家族から言われましたが、その辺はようわからん。
そして今回の夢も謎。フロイトやユングの心理学で、誰か解き明かしてください。
Mac
Mini を買った 4/26
きのう、ついに新しいマッキントッシュを買いました。実に7年ぶり。ずーっとG3(しかもOS8.6!)を使ってきたのですが、それではこなせない仕事が出てきたもので。マックを使っているだけでも世間では十分マイナーなのですが、OS8.6は今やさらにマイナーになってしまっていて、身動きがとれなくなっているのも事実です。家計上は痛い出費なのだけど、必要な設備投資だしね。
それでも、できるだけ安上がりになるようにということで、Mac Mini を選びました。今使っている周辺機器をそのまま継続して使えるのが一番のメリット。ものを置くスペースが少ないわが家にはありがたい。
7年も経つと、コンピュータの機能や外観にも隔世の感があります。一番びっくりしたのはサイズ。16cm四方に高さ5cm。ミニっていうくらいだから当たり前だけど、ちょっとした弁当箱ですよ。これがばかでかいG3よりはるかに高性能なんだからあきれてしまいます。
でも、コンピュータが新しくなって嬉しいと言うよりは、むしろ気が重いと言った方が正直な心境。細かい部分でやらなければいけないことが結構あるから。さて、設定しなきゃと思って文字を打ち始めると、いつも使っている変換ソフトが入っていないから操作が違う。語句の登録が何もないから、入力にやたら時間がかかる。インターネットに接続できても、自分のブックマークが一つもないから、ほとんど何も開けない。やれやれ。だめ押しはコンセント。差込口がいっぱいだから、昨日買ったものを起動させるためにはいちいちプラグを抜いたり差し込んだりしなくてはいけないのです。しかもなぜかやたら堅い。
このあと、あれやって、これやって……そのためにはあれも足りない、これも足りない。コンピュータの引っ越しって大変だなあ。アプリケーションの関係もあって、現実的には、まだまだG3の方をメインで使い続けることになりそうです。
絵巻の面白さ 4/24
ぼくはサイトに記事を掲載したあとも文章の手直しをやることがあり、もしかするとみなさんに誤解を与えたり混乱させているかも知れません。ごめんなさい。でも前言を翻しているのではなく、より正確に自分の考えを書き表したいと思ってやっているのです。
さて、美術関連の番組は、レギュラー番組だけでなく単発の特集でも、探していくとなかなかいいのがあります。これら全部につきあうのは体力・知力がいります。NHK教育「新意日曜美術館」も毎回は見ていませんが、いいのをやっています。
ゆうべは日本の中世時代に作られた絵巻を特集していました。「源氏物語絵巻」から始まり「鳥獣人物戯画」まで、様々な視点からその面白さを語っていました。これについてはアニメーターの高畑勲さん著『十二世紀のアニメーション』という面白い本があって、図書館に予約していたら、「用意できました」というメールがちょうど昨日届いたところ。番組にも高畑さんは登場していました。
夏目房之介さんもコメンテーターとして出演し、表現におけるマンガとの関連を解説していました。源氏物語絵巻はコンピュータなどによって分析が進み、最近、制作当時の色彩を復元したものが出来上がりました(絵は現代の日本画家が描いている)。物語そのものはぼくの趣味ではありませんが、絵巻はすごい。ぼくは去年の夏、女子美の公開講座で勉強し、また以前テレビでも特集番組を見たので、興味を持っているのです。
「一遍聖絵」という絵巻は、群衆の描き方が見事で、ぜひ一度本物を見てみたいものです。「鳥獣人物戯画」はもう文句なし。真剣に模写をしていこうかと思っています。番組の最後にお宝映像で、1981年に手塚治虫先生がこの絵巻について語ったシーンが5分ほど流れたのも思わぬ収穫!
ようやくぼくは日本美術という宝の山の入り口に立って、わあすごい、と日々驚いているのです。
弁護士がすること 4/22
今週の半ば、山口県光市の母子殺害事件に関する最高裁での弁論を、テレビや新聞が報道していました。心が痛む悲惨な事件で(そういうのが今も毎日のように起こっているのがまた信じられない話だけど)遺族の話を聞いていると、何の言葉も出ません。
こういう裁判のニュースを聞いていてよく思うのは、被告の弁護士たちの心境はどんなものなのだろう、ということです。今回の担当弁護士は途中から引き継いだ人で、死刑廃止論を唱える第一人者だそうです。しかし記者会見を聞いていて、犯行当時の様子を描いた絵を見せながら被告に殺意はなかった、とか「この事件は検察によるねつ造だ」とか主張しているのを見て、弁護の仕事とは詭弁を労することなのか、と改めて大きな疑問を抱きました。
これに限らず、この種の事件で殺意があったかどうか、あるいは動機は何かということがよく言われるけれど、たいていの場合、人間の実感からかけ離れた言葉の遊びをやっているとしか思えないものがたくさんあります。
学生時代に見た「ジャスティス」という映画を思い出しました(原題
Justice for
All)。アル・パチーノが演じる主人公は、正義感が強い弁護士。ある殺人事件で被告の弁護を担当するのですが、裁判や調査を進めていくうちに、検事も判事も被告もすべてが常軌を逸していて、真実からかけ離れた、裁判の勝敗や私利私欲のためだけに動いていることに、次第に怒りを覚え始めます。
異常さに我慢ができなくなった主人公は、裁判の最後に、法廷にいるすべての者に向かって「おまえらみんな悪い!」と叫び、糾弾して、外へ飛び出してしまう、という話でした。あまり有名な作品ではありませんが、裁判や正義について考えさせる、ちょっと喜劇っぽい秀作で、ぼくはとても好きでした。
数年後に裁判員制度が導入されますが、光市母子殺害事件のようなケースを依頼されたら、重すぎてとても引き受けられない気がします。
藤沢周平の警句 4/20
電車の中の愛読書、藤沢周平の本をまた1冊読み終えました。『よろずや平四郎活人剣(かつじんけん)』。読み終えたと言っても、まだ上巻だけですが。
『蝉しぐれ』や『三屋清左衛門残日録』と違って、全体にユーモアがあります。もちろんエンタテインメントらしく、主人公は剣の達人という設定になっていて、活劇もふんだんに盛り込まれている。この人のすごいところは、戦いのシーンで人の動きの描写が実にうまいことです。動きを文章にすることの難しさは、三島由紀夫がよく論じてましたね。
そしてもう一つの楽しみは、随所に見られる人間についての鋭い警句。ほんと、そうだよなあと、うなずきながら読むのです。
ここで見つけたしゃれた言葉を一つ紹介しましょう。第十話「伝授の剣」から。
恥を知る者が恥知らずに勝てるわけがない。
これは次のような文章のあとに出てきます。「これに反して、明石(註:登場人物の一人)は暮らしのためには手段をえらばない男である。平四郎とは暮らしに対する腰の据わり方が違う。」
さりげなく差し込まれている文句ですが、実に粋です。世の中や人間を知っている作家の言葉ですね。そしてそんな言葉を、作為を感じさせずにすっと挟み込んでいるところが一流なのでしょう。思わずうなっちゃいましたよ。
ところで、先日(16日)の朝日新聞読書欄で『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(関川夏央著、岩波書店)という本が紹介されていました。山本周五郎、司馬遼太郎、吉川英治、山田風太郎、藤沢周平などを論じた本です。
興味を持ったので、岩波書店のサイトを見てみたら、著者が『蝉しぐれ』について語っている文章が一部掲載されていました。分析が鮮やかで、他の作家についてもどんなふうに論じているのか、ぜひ読んでみたいと思いました。
不安の時代 4/17
40歳を過ぎたころから、ちょっと物忘れをしたりすると、「もうボケが始まったかな」なんて冗談を自分でも言うようになってきたし、人からも言われます。しかし冗談も長い間繰り返していくと、だんだん真実に思えてくるもの(以前ここでお話しした「ボディブロー効果」ですね)。しかも巷に溢れる「ほら、あんたは病気だ、認知症だ、ガンだ」という脅迫じみた情報が追い打ちをかけます。
今朝の新聞に、ピック病という若年認知症の記事が出ていました。これはアルツハイマーとは少し違うもので、原因究明などがまだ進んでいないようです。記事にはチェックリストがあって、3項目以上該当するようだったら要注意なんて書いてあります。こりゃまた中年にとっては心配の種が増えたわい。
しかし考えてみれば、人が年をとれば脳力も体力も衰えていくのは当たり前のこと。生きていればどこかで病気をしたり事故に遭うのもあり得ること。もちろんできるだけそうならないように願うのが人情ではあるけれど、それをことさら心配していてもキリがありません。
どうも、老いや病気のことだけじゃなく、今は、間違いなく不安の時代のようです。不安を取り除くために情報をほしがり、今度はその情報が原因でまた不安になって……不安が行動の大きな動機になっているような気がします。
おとといのBe On Saturday には、神保町の古書街で今も現役で仕事をしている90歳の人が紹介されていました。この人は毎日お酒を1〜2合飲み、ロングピースを20本吸っているそうです。それでも記憶力は未だに衰えていないとか。「健康法は健康のことを気にしないことかな」と言っていたのが印象的。こんな人もいるんですよねえ。
努力をしようがしまいがは結局はDNA、なんてあきらめるのは情けないけれど、逆に努力が不安や恐怖だけに突き動かされるものだとしたら、それも寂しいことです。努力の中に、赤ちゃんが母親に持つような信頼があったら素晴らしいと思うのですが。
藤田嗣治の異様さ 4/14
画家は変人が多いけど、藤田嗣治(ふじた・つぐじ)もかなりの変人ではないでしょうか。今日、国立近代美術館へ展覧会を見に行ってそう思いました。
友達のY君が、招待券が2枚あるので行きませんかと誘ってくれたので、喜んでお受けしました。以前にこの美術館の常設展でこの人の作品を2点ほど見た覚えがあります。今日は初期から晩年までの作品を一挙に見ることができたのですが、全作品を通して見ると、年代で多少絵柄が変化したとはいえ、全体としては一貫して何とも言えない異様さが現れていました。どう言ったらいいんだろう。人格的に問題あるんじゃないだろうかなんて、こんなこと言っちゃ失礼かも知れないが、まあ、ぼくの趣味ではありませんでしたね。誘ってくれたY君もほぼ同意見でした。そのあとに見た常設展で何とか毒気を抜いたような感じ。
晩年この人はカトリックの洗礼を受けて、たくさんの宗教画を描いているのですが、それがどう見ても信仰心から描いているとは、ぼくには思えませんでした。若い頃にも聖誕や磔刑(たっけい)の絵を描いていますが、全部病的なのです。キリストの絵だからと言って別に必ずしも信仰で描く必要はありませんが、ぼくとしてはこの人はいったい何を表現したいんだろうと思ってしまいました。
実は、この展覧会に行く前に、Y君の友人の小さな個展を見に行ったのですが、これは本当に素晴らしかった。すうっと、心が吸い寄せられていくのです。油絵で樹木や鳥や波や猫を描いているのですが、画材は油絵具なのに感性は日本画。一見モノトーンの色調ながら、豊かな色彩が隠されていて、空気や光を感じることができました。あとになって振り返ると、こっちの方がずっと良かったなと思ったものです。
こんなふうに、自分の趣味に合う絵も合わない絵もありますが、でも本物の美術品に触れる経験を少しでも多く積んでいくと、自分の感性が磨かれていくのは間違いありませんね。展覧会巡りはやめられません。
愛国心は背中で教えて 4/13
自民公明の方々が教育基本法改正を進めていて、その中で「愛国心」をどう扱うか議論しているみたいですね。
ここ数年ぼくは日本文化に目覚めていて、日本はやっぱり素晴らしい国だと思っています。食べ物しかり、美術しかり。でもこれは他人から「愛せよ」と強要されてできることじゃありませんよね。自分で体験して、ああ、ほんとにいいものだなあ、と心から思えるから、日本を好きになるわけですよ。
さらに一歩進めれば、日本という国にはいろいろ嫌なところやしょうがないところもあるけれど、投げ出さずあきらめず、つきあっていきましょう、という気持も持っています。それは、自分が日常生活の中で交わる、具体的な「人」に対する心構えと同じです。というより、むしろぼくたちにとっての「日本」とは、真っ先に自分やあの人この人たちが暮らしている、この具体的な生活なのであって、どこか遠くにある抽象的な概念じゃないのです。
お互いに不完全ではあるけれど、お互いのためにベストを尽くそうじゃありませんか、という考えで共生していくのが、愛というものでしょう。人に対しても国に対しても。そしてそれもやっぱり他人から強要されるものではなく、自分でそう思うようになって行動することなのです。
政治家の方々は、教育基本法にどんな文言を盛り込むかを議論する前に、格差社会だの勝ち組負け組だのという殺伐とした言葉ばかりが踊る今の社会を何とかしてください、とぼくは言いたくなります。こんな時代を作った人たちから「国を愛しなさい」と言われると、ますます殺伐とするばかりですよ。
子は親の背中を見て育つという真理は、愛国心にも当てはまるのでは? 国や郷土を愛する生き方っていうのは、背中で教えるものであって、上に立つ人たちが良い社会に作る努力をしていけば、多くの人たちはおのずと正しい愛国心を持つようになるものだと思うけど。
浅井忠の水彩画 4/11
浅井忠展を見に行きました。今日が最終日。今回も知り合いのSさんが招待券をくださったおかげで、心満たされるひとときを過ごせました。
浅井忠(あさい・ちゅう)という画家については、名前はぼんやりと知っていましたが、去年の秋にTV東京「美の巨人たち」で見てから、興味を持つようになりました。江戸時代末期の生まれで、ちょうどぼくの百歳上。日本の洋画の先駆者です。
テレビ番組では油絵を中心に話が進められていましたが、この展覧会は水彩画が8割以上を占めていました。それがほんとに素晴らしいのですよ。近くで見ていた年輩の女性たちが(話しぶりから、どうも趣味で絵を描いてそうな感じ)、水彩画の方が断然いいわね、と話していましたが、ぼくもそう思いました。もちろん油絵もすごいのですが、水彩画はどれも欲しくなるようなものばかりでした。
顔写真を見ると、明治人らしいヒゲを蓄えて、ちょっといかついように見えるのですが、目が優しい。そして描く絵も、その目のように優しい。優しいというと誤解を与えるな。ミレーにも通じる素朴さが感じられます。実際、彼はミレーの「落ち穂拾い」を連想させる「収穫」という油絵を描いています。今回の展覧会には出品されていませんでしたが。
卓越したデッサン力は一目見ればわかりますが、感動させる要因はそれではありません。技術が先走ることなく、高い精神性を備えた作品になっているのです。そのバランスが素晴らしい。ぼくは絵を眺めながら、いい絵と悪い絵の違いは何なんだろう、と考えていました。そしてもちろん浅井忠の絵は、一瞬にして人の心を惹きつける、文句なしに「いい絵」に属するのです。
展覧会の出口でぼくは、迷わずに図録を買いました。そしていつものように絵ハガキも買おうと思ったのですが、あらかた売り切れていました。残念。最終日だもんな。
今日、ぼくの好きな画家がまた一人増えたのは嬉しいことです。
ユダの福音書 4/9
キリスト教のカレンダーでは、今日から受難週。今日は棕櫚(しゅろ)の主日。木曜日が最後の晩餐。金曜日が十字架上の処刑、そして来週日曜日が復活祭イースターです。
このタイミングをねらったかのような、面白いニュースが先日ありました。ナショナル・ジオグラフィック協会が「ユダの福音書」の解読に成功したそうです。それによればユダは裏切り者ではなく、イエスの教えを最も正しく理解していた一番弟子だったらしい。十字架にかかるために祭司長たちに引き渡されるのを、イエス自身がユダに頼んだのだとか。
特集記事が近々ナショナル・ジオグラフィックに出ることでしょう。ぜひ読んでみたいと思います。
新約聖書には四つの福音書が収められていて、それぞれマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの名を冠しています。でもそれ以外にトマスの福音書やら何やらいろいろ福音書があったらしいと言うことは聞いていました。
実は最近、ぼくは『福音書――四つの物語』(加藤隆著、講談社メティエ)を読んだところだったのです。一見似ているようでいて、かなり内容の異なる四つの福音書は、原始キリスト教会が成立する過程と密接な関係があり、それぞれに意図があったのです。20へぇあげたくなるような面白い本でした。その記憶が新鮮なこの時期に今度のニュース。さらに新しい視点が出てきたわけで、興味はますます深まる。
聖書というものは、学べば学ぶほどややこしくて(というほど専門的に勉強したわけではありませんが、それでも教会に長年通い続けていると、門前の小僧というやつで、ある程度の知識は身につきます)、正直泥沼にはまってしまうようなところがありますが、そこがまた楽しいところでもあります。聖書の世界は、何とやっかいで複雑で矛盾に満ちていることか。そしてそのことは現実や人間にもそっくりそのまま当てはまるのです。とてつもない謎、ですね。
鉛筆とボールペンと筆 4/7
近年、子どもたちの鉛筆の持ち方がよくありません。子どもたちだけじゃなくて、社会人の中にもおかしな持ち方の人はかなりいます。前々から気になりつつ、ぼくの考え過ぎかとも思っていました。でもおとといの朝日新聞生活面にこれについて記事が出ていました。どうやら全国的な傾向なのでしょう。
ぼくの息子もそうです。記事には癖のある持ち方の例が3つ挙げられていましたが、息子の場合、人差し指を中指と親指の下に入れる持ち方に該当します。何度も注意するのですが、その時は直してもすぐに戻ってしまいます。
数週間前の新聞の投書では、ある年輩の女性が、年をとると筆の方が書きやすいから、筆ペンを買うことにした、と書いていました。でも今の子どもたちの持ち方だと、年をとる前に疲れ切っちゃうのでは?
原因には練習不足もあるかも知れないけど、今がボールペン全盛時代ということもあるのかなと勝手に想像しています。堅い筆記用具しか使わなくなっている時代。今では筆はおろか万年筆さえ廃れてしまい、趣味の世界に追いやられてしまった感があります。
最近のボールペンはかなり改良されて持ちやすくなってきましたが、それでも結構力がいるのです。特に宅配便の伝票や金融関係の書類みたいに、何枚も重ねたものに記入するときは、手がよけいに疲れます。
そこへ行くと筆は力のいれ具合が全然違ってきます。ぼくは鉛筆でもボールペンでももともと力を入れずに持つ方ですが、それでも筆で文字を書くと、勝手の違いに驚いてしまいます。紙面を押さえつけたり刻むのではなく、なでる感じ。
鉛筆、ボールペン、筆、(最近ならタイピングやケータイも)。筆記用具によって手の使い方や緊張度が変わるとすれば、出てくる言葉も同じではあり得ないでしょう。
文字を書く――日常の、ごく基本的な作業だからこそ、顧みてはいかが。
ボディーブロー理論
4/5
ボディーブロー理論。ぼくの勝手な命名ですが、独創的なものではなく、中身はみんながよく言ってること。じわじわと時間をかけて効果が現れてくることです。
ボクシングでボディーブローというのは、相手のおなかへの攻撃で、一見地味なんだけど、あれは時間が経つにつれてじわじわ利いてくるらしい。顔面に繰り出すフックとかストレートのように一発では倒せないが、確実。
ぼくは数年前から、世の中はいいことでも悪いことでも、このボディーブロー的なものの方が、派手な一発のフックやらストレートよりも量的にもはるかに多いし、また効果を上げているのではないか、と思うようになりました。
肝心なのは「一見地味」という点です。目立たないから、つい見逃したり、特に注意を向けずにすませてしまう危険性がある。そこが要注意なのです。目立たないところで何をするか。地道に効果的にパンチを繰り出していくということですね。素人は派手なところだけに目奪われるけれど、プロボクサーのノックアウトの一撃は、ボディーブローのあとでこそ、より効果的になるのかも知れません。
逆に、相手からボディーブローを仕掛けられることだってしょっちゅうです。自覚しないうちに敵の術中にはまってしまい、体力も精神力も奪われてしまう。実はそう言う例は日常生活でゴロゴロしている。だから、相手が繰り出すボディブローに対して、少しでも打たれ強くなるように腹筋を鍛えるとか(比喩的な意味でもそうだけど、実際にももう少し鍛えた方がいいな)、身をかわす技術も日ごろから身につけた方がいいということになるでしょうね。
と、今日はぼくにしては珍しく勝負事の比喩を用いてしまいました。でも自分に似合わないことを言ってるのではありません。むしろこのごろ、いろんな状況で繰り返し出てくる考えです。表層の一枚下にある、目立たない部分の重要性を認識させられることが多いのです。
中年を過ぎてこそ 4/2
おととい、昨日と2日続けて、NHK衛星放送で二人の天才画家の番組を見ることができました。丸山応挙と曾我蕭白(そがしょうはく)です。これは実に面白かった。
応挙は2年前の3月に展覧会に行って、以来ファンになっているし、蕭白については伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)とともに最近名前を覚え、興味を持つようになり、つい先日、バークコレクション展で実物を見てきたばかり。
この二人については、「絵、なに」でじっくり取り上げなくてはいけないでしょう。この小さなスペースで収まりきる人たちではありません。それだけじゃない。他の日本美術のことも語りたいし、クレーのことにも触れたいし、ダ・ヴィンチは最近お留守になってるし……こりゃ大変だ。
何を語るか。ぼくがこれらのことについてほとんど何も知らないということ、そしてこんなに面白い世界が、目に前に広がっている、ということです。
40代からぼくは音楽にしろ美術にしろ、自分の趣味がずいぶん変わってきたことを自覚するようになりました。テレビでもラジオでも、上っ面で騒がれているものがつまらなく感じられるようになってきました。こんなことを言うと、きっとみんなはこう言うに違いない。「オヤジになったんだよ。それもかなりへそ曲がりの」。はい、そのとおりです。へそ曲がりは今に始まったことではありませんが。
いや、むしろぼくは、日本美術にしろ自然にしろ昆虫にしろ料理にしろ詩にしろ、あちこちに転がる、やたら面白い世界に気づかずに年だけ食ってきた鈍さを恥じているのです。それを思ったら、今からじゃ遅すぎるか、と焦って勉強しているわけです。
でも考えてみれば、世の中には若いときには気づかない、中年を過ぎてこそ出会える発見があるということでしょう。さらに年老いてからの楽しみもあるはず。そんな予感があるのは、なんだかうれしいことです。
3月の「ごあいさつごあいさつ」
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