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ダ・ヴィンチ・コード報告3 7/27
"The Da Vinci Code"、読み終えました。6割ほど進んだ頃はちょっと退屈したけれど、そのあとは一気に読めました。言葉やシンボルのパズルがそれなりに面白く、最後の所の5文字のパスワードなんか、なるほどなあと感心しましたよ。原書の英語の表現は比較的平易ですから(ハリポタよりは難しいかな)、英語の読書力をつけたい方にお勧めします。
8割ほどいったところで人物に関するトリックの一部がわかっちゃいました。それからもう一度前の部分を読んでみると、読者をだましている表現があって(つまりその人物はお芝居をしているのに、いかにもそうじゃないように描写している)、それは禁じ手じゃないかな。昔『氷の微笑』という、驚かされてるのは観客だけというふざけた演出の映画があったのを思い出しました。
ベストセラーにするための要素をふんだんに盛り込んでいて、ビジネスとして成功するよう計算して造り上げられているミステリーです。その一つがキリスト教と異端の題材。欧米人にはこの話題はなんだかんだ言ってもやはり大きな関心を引くものなのでしょうね。この小説の、虚実をない交ぜにして真実っぽく装う作り方はぼくは好きではありませんが、キリスト教の本流からはじき出されてゆく文化の歴史は、十分にあり得るだろうなと思えて、結構面白かった。ぼくはキリスト者だけど、キリスト教に対する批判も、共感するところがありました。
ミステリー、あるいは宗教史や美術史という専門の視点で読むと食い足りないかも知れませんが、読んで損はない本だとは思います。
ダ・ヴィンチ・コード報告2 7/25
先日ちょっとお話した『ダ・ヴィンチ・コード』、3分の2まで読み進みました。読者を飽きさせずに読ませる本を英語でPageturner というのですが、この本もその類と言えるでしょう。しかし読めば読むほど、相変わらず突っ込みどころも増えています。
途中でぼくにも予想のつく謎解きが出てきたのはご愛嬌ということにしましょうか。物語の半分ほどのところで、有名な「最後の晩餐」の謎解きもありますが(去年、テレビでもやってましたね)、その解釈もちょっと無理が感じられます。
それとは別の突っ込みどころを一つ紹介しましょう。ハーバード大教授である主人公ラングドンが、数年前にビル・ゲイツが手に入れたダ・ヴィンチの手記(これは実際にあったこと)を母校で見たというエピソード。ダ・ヴィンチの手書き文字が読めない。そしたら展示場で女性が手鏡を貸してくれて、それが鏡文字だということがわかり、読めたというのです。
おいおい、この主人公は象徴学の先生で、絵画の歴史にも詳しいし、「最後の晩餐」でキリスト教の歴史をひっくり返すくらいの恐るべき謎解きなんかもやった人じゃありませんか。そんな人がダ・ヴィンチの鏡文字を知らないなんて、今風にいえば「ありえねー」ですよ。
結構スキだらけなものだから、正直なところちょっと飽きてしまってるけれど、ここでやめてはもったいない。この本がベストセラーになっている理由の一つは、キリスト教に関連したテーマにあるのでしょうが、それについては読み終えたらまた触れたいと思います。
漱石ゆかりの史跡 7/23
左の写真をご覧下さい。猫の石像。これ、文京区千駄木にある漱石旧居跡にあるんです。何でも漱石が作家デビューの頃3年半くらい住んだ場所とかで、ここからあの有名な初期の作品が生まれたので、「猫の家」と呼ばれていたそうですよ(背景の家は無関係)。
ここには漱石が来る13年前に鴎外も住んでいたそうです。少し歩くと『舞姫』関連の観湖楼跡もあります。
昨日の午後、娘といっしょに本駒込まで出かける用事があったのですが、用件をすませたあと、案内板でこれらの史跡を偶然発見しました。最近ぼくは漱石に凝っているので(この時も『門』を持ち歩いていた)、これは是非行かなくてはと思い、早速訪れました。
漱石の小説には山の手の地名がたくさん登場しますが、つい現代のビルばかりが建ち並ぶ東京を思い描いてしまうものだから、ちぐはぐなイメージになってしまいます。文京区のこのあたりも江戸や明治の頃のたたずまいをまだあちこちに残していて、こんなところを実際に歩いてみて、少しは漱石の時代の空気に触れることができたように思います。
本物の猫にも会ったりして(右写真)、楽しい散歩ができました。
ダ・ヴィンチ・コード報告1 7/20
"The Da Vinci Code" を読んでいます。ぼくはベストセラーはあまり読まないのですが、女子美付属高校の校長先生が今月6日に行なった講演の中で、この本は面白いですよ、と薦めておられたので、ちょっと読んでみようかと。しかし上下各1890円じゃあ買うのに二の足を踏むし、図書館では予約が900件以上もある。そこでAmazon
で原書を買うことにしました。税込み998円。約600ページの分厚い本ですが、難しい単語やスラングはほとんど使われておらず、始めの数十頁を通過すれば勢いがついて、あとはさっさと(今風に言えばサクサク、というのでしょう)読み進められます。
最初から映画化されることを念頭に置いた書き方をしていますね。来年公開。確かトム・ハンクス主演じゃなかったでしょうか。映像を思い浮かべながら読んでいます。でも、読んでいくとストーリーや設定の点では、突っ込みどころも満載。主人公たちに危険が迫っているのに、何でこんなに長話をしているのだろうとか、身が潔白ならわざわざ自分を不利な状況に追い込むことはないだろうとか(何を言ってるのか、読んでいない人にはわかりませんね。ごめんなさい)、危機を脱出する方法がちょっとありきたりじゃないかとか。
さらに言えば、フランス人が多く登場するのに、言葉の謎かけが英語主体になっているなんてのは、いかにも英語マーケットに合わせたご都合主義だなあと思うのですが、そこまで突っ込んじゃいけませんね。事件の謎に絡めて、絵画や宗教の歴史、図形の象徴に関するうんちくがたくさん紹介されていて、それが結構楽しく読めます。
自分の色は? 7/17
職業柄、色には関心がある方だとは思いますが、まだまだ勉強不足。つい先日、本屋で『色の秘密』(野村順一著、文春文庫PLUS)という本を見かけ、面白そうだったので買いました。好きな色と性格の関係とか、色が与えるイメージについてはよく言われていますが、この本では、色が体にどのような影響を及ぼしているかとか、地域の気候や風土が人間の色彩感覚をどのようにつくり上げているかを、科学的に分析しています。
数日前このコーナーでぼくは、同じ土地の生き物と人間が似ることをお話ししましたが、それにはちゃんとした理由があるのです。この本にその根拠が解説されていたので、嬉しくなりました。
この本を読んで、ふと、自分の色って何だろうと考えました。服や持ち物などで、自分に合う色がありますよね。もちろん自分が好きな色と、人が自分に対して抱く印象の色とは違っているし、人格や気分にも幅があるから、いちがいにぼくはこの色、と1色だけに決めつけることはできません。でも大まかな色のカテゴリーは人それぞれあります。
ぼくはどちらかというと、緑系(深緑から、オリーブグリーン、エメラルドグリーンまで)が好きなのですが、全体に深めの色に心惹かれます。青や赤ならノルウェーの国旗の色。黄色なら山吹色とか芥子色とか。
と、こんなことを考え始めただけで、なんだか生活が一段と色鮮やかになったような気がするから、不思議です。
生き物を世話すること 7/15
わが家に6匹いたヤゴが、11日(月)に全部死んでしまいました。餌はちゃんとやっていたのですが、ケースの環境が不備だったようです。死んだ後になってわかった。ここでまた一句。
梅雨空に還り逝くヤゴ羽化もせず
12日にはハンミョウが死にました。こちらは水を枯らしていたせいだろうと推測するのですが、飼い始めて2か月あまり、寿命のような気もする。前夜まで元気に動き回っていたのに残念。
ヤゴ、ハンミョウ、カマキリなどは肉食なので、餌やりが大変なのです。生きた虫類をほぼ毎日与えなくてはいけない。貯蔵しておくことができないのです。その点では、カブトムシよりはるかに飼育が難しいと言えます。
立て続けに虫が死んでしまいましたが、一方で、友達からもらったキアゲハの幼虫が昨日から羽化し始めました。幼虫の時から飼っていると、蝶は人になつきます。
生き物の世話って結構大変です。でもその大変さが生き物への愛着を増すのも事実。子育てがその最たるものですよね。人間は文明を発展させる中で、なるべく無駄を省こう、楽をしよう、便利にしていこうとしてきたわけだけれど、命というものはそういう効率性や便利さとは相容れない部分を多分に持っているわけです。
今の世の中の生命軽視(幼児虐待や若者の殺人など)は、生きているものに接する面倒くささから逃れようとすることも一因だろうな、と思うのですよ。
四十九日と同窓会 7/11
父が亡くなってから、片づけなくてはいけない用事のためたびたび帰省し、10日には一つの山である四十九日を迎えました。あっという間の7週間でした。
訃報を受けて帰った日も今回も、福井は雨でした。梅雨独特の蒸し暑さの中で、兄の友人でもある住職さんのお経と話を聞きました。家族3人で食事をしている時に、そこに父がいないことを実感しました。
父の命日と四十九日を詠んだ句。
父の訃に帰途の窓打つ走梅雨
梅雨さなか経読む僧の鼻に汗
いつも帰るたびに、いろんなことをめいっぱいやっているのですが、今回は嬉しいことに、中3時代の友達と集まることもできました。
たびたびこのサイトで話していますが、あのころの友達に会うと、不思議に気持が和らぐのです。そしてそのたびに、自分が日ごろ社会に対して精神的に武装していることに気づかされます。もちろん、大人になるとはそういうことだし、生きていくために必要です。
でも、たまに懐かしい人に会って、今より無防備だった頃の自分に戻れるというのは、他では得えられないリラクセーション。そんな時間を一緒に過ごせる友達は、貴重な財産ですね。
それにしても、まわりにいた人たちにはぼくたちのグループは、何歳ぐらいに見えたのだろう? 他人の目にどう映っていようが、ぼくたちの心は中学生ってのが、笑えるよなあ。
手紙が書けない 7/8
春に、東急ハンズで素敵な便箋を買いました。鳥獣戯画がデザインされているんです。こういうしゃれたものだと誰かに手紙を書きたくなってしまうのですが、さて誰に出せばよいものか、はたと困ってしまった。
想像してみて下さい。もしあなたが、誰かから綺麗な封筒と便箋で手紙をもらったら、何かあるのだろうかと身構えてしまいませんか。受け取った人を困惑させるに違いない。そう思うと、気軽に手紙を書くなんてことができなくなってしまうのです。いや、考えすぎず、あくまで気軽にと思っても、こんなしゃれた便箋で事務連絡やバカ話じゃ、もったいない。
Eメールの普及で、人は誰かとの挨拶やおしゃべりが驚くほど簡単にできるようになりました。でもそれは同時に、手紙という形態は、書く、封をする、切手を貼る、投函するといった面倒な作業の中に、出す人の心が込められ伝えられるものなのだ、ということも教えてくれたのだと思います。
それにしても、ぼくくらいの年齢で誰か特定の人に、ビジネスでも何でもない手紙を書くというのは 、やはり気恥ずかしいものです。Eメールほど無機質でなく、「人」を感じさせながら、手紙ほど身構えさせないものとなると、絵葉書かな? でも、そうするとやっぱり、春に買った便箋は、そのまま使わずに終わりそう。んー、何とかならないかな。
ところで、わが家のヤゴ、6匹のうち5匹が次々と死んでしまい、残りはたった1匹です。
人も虫もみんな似る 7/6
先月、息子と一緒に『天国の青い蝶』という映画を見に行きました。末期の脳腫瘍を持つ10歳の少年が、憧れのモルフォ蝶にを採りに行ったら腫瘍が消えたという、実話を元にした映画。人間、好きなことをやるのは体にいいのでしょうね。夢とか生き甲斐がどれほど大きな力になるか、という証明。良い映画でしたが、物語とは別に、虫好きの目から見ると、突っ込みたくなるところもいくつかありました。
ま、それには目をつぶるとして、何より印象的だったのは、コスタリカの美しい自然の映像。モルフォ蝶だけでなく、いろんな虫や鳥や花が色鮮やかで素敵なのです(一部CG加工してあったのが残念だったけど)。見ていてつくづく、南米だなあって思いました。
面白いのは、この地に住む人たちの装いと虫の色合いがそっくりなのです。それは南米だけの話ではなく、どこでも同じではないかと思います。そのことをぼくは、虫を捕るたびに感じているのです。余談ですが、昔、『日本人の意識構造』(会田雄次著)で、日本のハチとアメリカのハチは、それぞれその国の人間と同じような行動をとる、というのを読んで驚いたのを、今思い出しました。
話を戻しましょう。ぼくは身のまわりで蛾や蝶の模様を見るたびに、なんて日本風な色彩とパターンなんだろうと、いつも感心するのです。先日捕まえたオニベニシタバという蛾も、じっと見るとまさに日本の美です。いつまで見ても見飽きない渋い味わい。人は自然から美のモチーフを得ると言うことが、こんなことからもよくわかります。
そして、日本の蝶と違って南米の蝶たちは、サンバが似合いそうなくらい、本当に鮮やかなのです。日本で暮らしていると、日本の昆虫を素敵だと思うけれど、でも、実際に南米の地で色鮮やかな虫たちを見つけたら、息が止まるくらいに感動するのだろうなと思います。
やりなおし教養講座 7/3
村上陽一郎さんの『やりなおし教養講座』という本が面白かった。教養を論じるなら、まず教養とは何か、という定義から始めなければいけませんが、著者は、いわゆる知識だけではなく、自らを立てるために必要なものが教養のもう一つの大きな要素であるとおっしゃっています。「揺るがない自分を造り上げる」ための規矩(きく)を持つことが大切だと。
今や「教養」という言葉はほとんど軽蔑されてしまっていますが、ぼくは生き延びるために教養は大切だと、特に中年を過ぎてから痛感するようになってきました。その意味で、この本で著者が主張している意見にはかなり賛同するのです。
教養の価値がここまで下がってしまったのは、一つには「教養」というものがなにがしかの権威を保っていた時代の終わり頃、人々はそこに欺瞞を見つけ始めたからではないしょうか。実質はとても教養と呼べるようなもの(人)ではないのに、上べだけを取り繕っていた部分がかなりあって、そう言うものに対して多くの人たちがもっと正直になろうよ、と言い始め、教養を脱ぎ捨てたのだと思います。
ではその正直さが良かったのか、あるいは教養はただの欺瞞で不要なのかというと、ぼくはそうではないと思っています。いったん信頼を失ってしまった今こそ、生きていくための教養とは何か、基本に立ち返って見直し、見栄など気にせず身につけることができるのではないかと思うのです。
本を読みながら、そんなことを考えました。
リフォーム詐欺 7/1
早くも一年の折返し地点。後半も無事に乗り切りたいものです。何しろ今はとんでもないことばかりが起こる世の中だから。
最近、リフォーム詐欺が流行っています。特にお年寄りがねらわれているようですが、この犯罪、ぼくにとっては他人事ではありません。実は、今年の春、郷里で一人暮らしをしている母が、危うくこの種の詐欺に引っかかりそうになったのです。幸い、いつもお世話をして下さる介護センターの方のおかげで、被害を受けずにすんだのですが、ヒヤリとする事件でした。
母はある日、家にやってきた男に、お風呂を直そうとか何とか言われて、40万円で契約書に捺印をさせられてしまいました。その手付金として、まず10万円を銀行から出そうと、一緒に銀行に連れて行かれたのだそうです。しかし、ぼくたちが去年から親のお金を管理していたのが幸いしました。口座には生活に最低限必要な金額しか入れないようにしていたので、その男はあきらめて帰っていったのだそうです。30分も経たないうちにケアマネージャーが事情を知り、急遽クーリングオフをして、無事解決。それ以降は、その男も、また似たような手口の詐欺もやって来ていないとのこと。現在ぼくは、裁判所で後見人の手続きなども準備していて、さらなる予防に努めています。
まったく、物騒な世の中です。実際に被害に会って大きな損失を出してしまった方が大勢いるようですから、心が痛みます。お年寄りや子どもをねらった卑劣な事件が異常に増えてますね。日本人の心は乾いてきているようです。全体的に見れば、まだすさみきっているとは思いませんが。
6月の「ごあいさつごあいさつ」
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