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日本語力って何だろう 6/29
「日本語チャンピオン決定戦」という番組をTBSでやってました。日本語に関するクイズが100問。以前テレビ朝日でやっていたIQ番組「テスト・ザ・ネイション」を思い出しました。ぼくもやってみた(こういうの、好きなんだ)。
結果は84点! 番組の最高得点者(77点)を上回っていましたよ。やったね。ちなみに日本人平均は52点、東大生平均は72点だそうです。
で、だいたい予想していたことだけれど、クイズの内容は、ほとんどが読み書きや言葉遣いに関するもの。一般に日本語力と言うとき、こういうことに重点が置かれます。でも、それさえできれば事足れりとする態度のせいで、日本人の言語力の致命的な欠点が、いつまでたっても改善していないのではないでしょうか。
何が足りないかというと、まず、コミュニケーション力。自分の考えや思いを正しく伝え、また相手の言葉を正しく理解する力。次に、文章の構成力(単なる作文ではなく)。自分の考えを正しく構築していく力ですね。さらに読解力も付け加えたいところ。わたしたちはもっとこういうものに力を注ぐべきなのです。
ま、そうは言っても、テレビ番組じゃ今日やった程度の取り上げ方が限界かな。娯楽なんだからね。ぼくも日頃、手書きで文章を書いて漢字や言葉遣いを覚えるよう(あるいは忘れないよう)にしているのですが、いつまでも読み書きの段階で足踏みしているようだと、肝心なところに進めないと言うのが、日本語のやっかいなところですね。
空梅雨か? 6/26
東京近辺は週末からよく晴れて、今週もずっといい天気が続きそう。昨日、息子と一緒に近くの田圃へヤゴのための水を取りに行ったら、他にも子どもたちが来ていて、まるで夏休みのようでした。空はくっきり晴れ上がり、じっとしていても汗が噴き出してきました。
こんな日に、妻は布団を干して、子どもたちから文句を言われていました。ここで一句。
真夏日に布団干すのは拷問だ
九州や四国では水不足のおかげで、あれこれ深刻な影響が出てきているようです。お米が枯れるかも知れないと聞くと、他人事ながら心配です。
一方、今年は春の天気が良かったとかでキャベツが豊作のよう。すごく安くなっています。値崩れを防ぐために、畑一面に育ったキャベツを、トラクターで潰している様子がニュースで報道されました。去年は猛暑のせいでレタスやら何やら、めちゃくちゃ値上がりをしていたというのに。なんだかため息が出てしまう。
でも考えてみれば、毎年毎年、何事もない平均的な天候や季節などあった試しはないのですよね。あっちが良ければこっちが困る。こっちが良ければ、あっちが……。そういや、クールビズに対してネクタイ業界からクレームがついてるみたいだし。
さて、キャベツといえば、絵本の名作『キャベツくん』の作者、長新太さんが亡くなられたそうです。77歳。まだまだ早すぎます。うーん、残念です。合掌。
ニッポン、頑張ったじゃないか 6/23
サッカーコンフェデ杯の予選、日本代表はブラジルに善戦しました。ぼくはあまり期待していなかったので、生中継では見なかったのですが、朝テレビのニュースを見たら、なんと2対2。えっ、ほんとか? ぼくの予想は3対1か3対0で負け、というものだったので、これは嬉しい予想外でした。
中村のシュートは鮮やかだったし(ああいうゴールって日本チームでは結構珍しい)、大黒のシュートも、絶対入れたるぞという、大黒らしい気迫がこもっていてよかった。ああいう試合運びをどうしてアジア予選では見せてくれなかったんだろう? 気持の入れ方が違ってたかな?
でもあれがもし全力を出しきってのプレイだったとすると、今回グループリーグを通過しても、次の試合は疲れていて負けちゃったんじゃないかと、またまた変な予想をしてしまいました。あ、でもこれじゃ、サポーターとしては失格ですね。もっと「勝ち」を信じてあげなくては。
ところで先日、日曜日のTBS「情熱大陸」で宮本恒靖がフィーチャーされていました。ぼくは前からファンなんですが、この人はリーダーの資格を十分に持っている人なんだ、と見ていて思いました。本物の賢さと仲間の信頼を集める人格を備えているのですね。去年8月のアジア準決勝で最後のペナルティーキック合戦があったとき、審判にサイドの変更を交渉して、見事に成功したのをぼくは感心して見ていましたが、あの人の冷静さと知性と調整能力は、今の日本代表には欠かせませんね。
夏至 6/21
夏至は日本ではだいたい梅雨の最中なので、明るく晴れているという印象はそれほどありません。でも今年は空梅雨気味なものだから、今日はよく晴れて、明るい夏至になりました。地方によっては、真夏日の所もたくさんあったようです。
ぼく個人の感覚では、夏はずっと日が長いものと思い込んでいましたが、実は本格的な夏を迎える前に、昼の長さはすでに少しずつ減り始めているのですね。ある時そのことに気づいて、日が長い月が梅雨で曇ってしまうのはもったいないなあ、寂しいなあ、と妙に残念に思いました。
でも、夏の暑いさなかに、朝早くから夕方遅くまで太陽が出ているというのも、ちょっとうんざり。最近は熱帯夜が多いし。
日本では冬至にカボチャを食べる習わしがあるけれど、夏至には特別な行事はないのだろうか。そう思って、『暮らしの歳時記』(講談社)を見てみましたが、何も出ていませんでした。これから昼が短くなるのだから、メロンか何かを食べながら、ああ寂しいなあとセンチメンタルになってみるのはいかがでしょう(これからどんどん暑くなるのに、それどころじゃないか)。
今日は、友人からカブトムシの幼虫もいただきました。園芸用の腐葉土を買ったら、中から出てきたのだそうです。もしかすると違う虫かも知れないということだけど、わが家で引き取ることになりました。今またわが家にはたくさんの生き物がいるようになりました。こんなところにも夏を感じます。
女子美の応援合戦 6/19
昨日、娘の通う学校で運動会がありました。梅雨の中休みのおかげで雨は降らず、予定どおりすべての競技が行われました。
中高合同の開催。中学では3つ、高校では5つのチームに分かれて競い合うのですが、ぼくが一番感動したのは、競技そのものより応援合戦でした。さすが女子美。通常の運動会に見られる応援と違って、華やかです。衣装の作り、色彩感覚、踊り、演出など、すべてが目を見張るものでした。ディズニーランドでやっても十分に見せられるでしょう。
準備に2か月かけているようですが、やはり表現に対する意欲と素質を持つ人たちの集まりだと感じました。生徒の中には演技が終わって感激で泣いている子もたくさんいましたが、見ているこちらも、涙が出そうなくらい。月並みな言い方だけど、躍動する色彩美、と表現したくなるような出来でした。
競技そのものはどちらかというと、和やかな感じで(ぼくの個人的な感想ですが)、技と体力を競うというものではありませんでした。トラックも走りにくそうだったし。面白いことに閉会式での校長先生の講評も、運動競技より応援合戦の方にほとんどの時間をかけていて、そこがいかにも美術校。
例えば、ここから将来オリンピックに出る人が出るとすれば、競技ではなく、開会式や閉会式のパフォーマンス、デザイン、美術担当なのでしょうね。もちろん、素晴らしい感覚と才能をもっての登場ということでね。「美しい運動会にしましょう」という校長先生の言葉どおりの会でした。
記憶する その2 6/16
前回の続き(意図していたわけではなく、偶然、話題がつながっているのです)。
父の死去に伴い、相変わらず市役所や銀行などの用事がいろいろあって、昨日まで2泊3日で帰省していました。今月23日がちょうど1か月目の命日にあたり、お墓に納骨する予定になっています。用事の一つは、お墓の掃除。そしたら、そこで驚くべき事実を発見しました。
ぼくは今まで父の兄弟は姉一人だったと思っていたのですが、もう一人、若くして死んだ妹がいたというのです。戦時中に事故でなくなったらしいのですが、ぼくは生まれて今まで一度もこの人のことを、父から直接聞いたことがありませんでした。お墓には妹の名前と十九歳という年齢だけが刻まれていました。命日は空白のまま。
前回、父は記憶することにもされることにも無関心だった、と書きましたが、それを示す事実がまた発見されたという驚き。もし、お墓に名前が刻まれていなかったら、父の妹(ぼくにとっては叔母)の存在は永久に忘れ去られていたかもしれないのです。
愛の反対語は「憎しみ」ではなく「無関心」であるとよく聞きますが、生前から父の無関心の中に、ぼくは父の孤独を見るのでした。なんて寂しい人なのだろうと。記憶することで人と人とがつながるのだし、記憶されることで、人は存在するのです。
そう言えば、英語で誰それによろしくという挨拶は Remember me to 〜 だと、今、思い出しました。
記憶する 6/12
例えば恋人と(なーんて、柄になくロマンチックな言葉をたまには使ってみる。友達でも夫婦でも親子でももちろんいいわけですけど、なんだかそればっかりじゃあつまんないしね)一緒に何かをしたりします。同じことをやっているのに、何年か経ってその思い出を語り合うと、お互いに覚えていることが恐ろしく違っていることに驚いたりするものです。まだ若さの残る二人なら、こんな風に言うかも知れない「あたしたちって、同じだと思っていたけど、ほんとうはずいぶん違っているのね」もちろんこれは男の台詞でもいい。
いやいや、自分が忘れていることを相手が覚えていてくれるのだったら、それはすばらしいことじゃありませんか。二人で一つの思い出を作り上げているわけですから。自分ひとりだったら四つくらいしか覚えていなかったことが、もう一人の人のおかげで、八つにも九つにもなったのです。
違っていようが同じだろうが、嬉しいことだろうが辛いことだろうが、誰かとともに作り上げてきた思い出は、いつか別れによってその一部を失います。そして思い出が誰にも伝えられることなく、ただ崩れていくばかりでは、あまりに寂しい。
父が死んで3週間経ちました。思い返せば、記憶することにもされることにも無関心な人でした。残された母は老人性認知症のために、父の命日さえ思い出せずにいます。しかし、遠い昔のことははっきり覚えている。そんな母から記憶のかけらを少しでも集めてみようかと思います。
お茶の子さいさいスパチャラサイ 6/9
ニッポン、勝ちました! サッカーW杯、いよいよドイツへ。何はともあれ、めでたい。決定力不足の日本代表はどうもイライラさせるので、ぼくはバーレーン戦なんか見ませんでした。でもね、昨日はドイツ行きが決まるかも知れない試合だから、しっかり見ましたよ。
素人が試合のことを偉そうに語ってもしょうがないので、ここでは周辺のどうでもいい話題を。まず、試合会場になったスパチャラサイ競技場という名前。何だかひょうきんで、妙に印象に残りますよね(ドーハやジョホールバルの競技場は何て言う名前だったんだろう?)。
音が面白いので、ぼくは上のような洒落を思いついたんだけど、でも、ここまでのアジア予選の道のりは、お茶の子さいさいというわけにはいきませんでした。アジアカップの時と同様、いつもいつも苦しみながらの勝利だったのです。その分、劇的な試合にはなっているかも知れないけど、素人の願望としては、もうちょっと強くなってほしいなあ。
もう一つ。少し前に、日本人が「日本」をどう読むかについて、「にっぽん」よりも「にほん」が圧倒的という調査結果が出ていました。でも、スポーツで応援する時はほぼ100%「にっぽん」ですね。だって「にほん」じゃ力が入らないでしょ。
ものが売れるネーミングの要素は、Pの音、促音(詰まる音)、撥音(「ん」の音)って言うから、「にっぽん」は全部含んでいるわけです。濁音もいいそうだから、その場合はJAPAN。いい名前なんだ。がんばれ、ニッポン!
楽器の歴史 6/7
昨日、息子と一緒に「青少年のための『古典派』入門」という音楽のレクチャーを聴きに行きました。管楽器が歴史の中でどんなふうに変化してきたかを、いろんな時代の楽器で実際に演奏を聴かせながら解説してくれるのです。
ぼくは朝日新聞のアスパラクラブ会員で、サッカーの試合やコンサートやいろんな懸賞に応募していますが、今まで一度も当選したことがありませんでした。息子がトランペットとピアノをやっていて、中学ではブラバンに入っているから、このレクチャーに興味あるだろうと思って応募したら、何と当選しちゃったのです。
古楽器がブームですよね。例えばバッハやモーツァルトの曲を、彼らが生きていた当時の楽器で演奏しようというもの。ぼくは古楽器演奏によるベートーヴェンの交響曲全集を持っています。講師によれば、古楽器という言い方は曖昧な概念なんだそうで、オリジナル楽器という方がいいそうです。
音楽が楽器の変化とともに内容を発展させてきました。こういう演奏が可能だから、こんな音楽を作る。うーん、こりゃ絵画の歴史における絵と画材の関係と全く同じじゃないか。どんな芸術も、具体的な技術を抜きにして語ることはできないのです。
講師も演奏者もリラックスした雰囲気で、ユーモラスな会話とともに素敵な演奏を聴かせてくれました。どの楽器も素晴らしかったけど、ぼくは中でもオーボエの音色に魅せられてしまい、あれが弾けるようになったらいいなあと思いました。
お葬式 6/1
父の死はぼくのこれまでの人生の中で最も身近な人の死でした。葬儀の喪主は兄でしたが、当然ぼくも重要な役割を負うことになります。死去の知らせを受けて、取るものもとりあえず福井に向かったわけですが、ぼうっとしていたのでしょう、新宿で地下鉄を降りたとき、網棚に載せておいた喪服を忘れるという失態をやらかしました。そのことに気づいたのは、駅の改札口を出た直後。
駅員さんに問い合わせて捜索をしてもらったのですが、新幹線に乗り遅れそうで、気は焦るばかり。結局、思いついた手は、一日遅れてやってくる家族に取りに行ってもらうという方法でした。日常と違うリズムになると、まったく自分でも何をしでかすかわかりません。
帰省してからの葬式の準備なども、わからないことだらけ。葬儀屋があれこれ手配してくれますが、何をすべきかを具体的に教えてくれて実際に進めていくのは、主に親戚の人たちでした。その中でぼくは福井の風習をいろいろ学ぶことになりました。これが、地域によって様々に異なっているし、ぼくたちの漠然とした予想とも違う。葬儀は時間との勝負だから、じっくり話し合ってもいられない。
怒濤のように押し寄せる作業に翻弄され、懐かしい顔ぶれに囲まれているにもかかわらず、まるで異次元の世界に放り込まれたような気分でした。その中でぼくはふと、伊丹十造の『お葬式』という映画を思い出しました。つくづく、あれは目の付け所がすごい映画だと思います。今度もう一度見てみよう。
5月の「ごあいさつごあいさつ」
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