父、逝く  5/30
 
約2年入院生活を続けていた父が、23日(月)
死去しました。午後2時45分永眠。病院から連絡を受け、兄もぼくも急遽帰郷。翌日にはそれぞれの家族も合流。あわただしく通夜や葬儀、諸々の作業に追われながら昨日初七日を終え、ぼくは今日、東京の自宅に戻りました。
 先月末に一度帰省したとき、父を見舞ったのですが、そのころからすでに容態は悪化していました。高齢のために容態の急変はあり得ると言うことでした。さらに体力が衰弱している、との報告が20日。危篤かも知れないという電話を受けたのはわずか3日後でした。関係者に連絡をしているうちに、死亡の知らせに切り替わりました。
 眠るように息を引き取ったそうですから、いい最期だったのだと思います。深夜、家に戻って対面した父の死に顔は、信じられないくらい安らかな表情でした。
 母と兄と3人で病院へお見舞いに行ったのが、亡くなるほぼ4週間前。あの時のスケッチがぼくにとっては生前の父との別れの儀式になりました。父の死を予期しての帰省ではなかったのですが、神さまが家族を引き合わせてくれたのかも知れません。
 一人残った母を支えるのが、息子たちのこれからの仕事になります。

常設展はいいよ  5/23
東京国立近代美術館で開催されていたゴッホ展は昨日が最終日でした。4月にぼくが行ったとき、平日だったのにすごく混んでいて、なかなか前に進めなかったのを覚えています。
 妻が突然思いがけず、知り合いの人から招待券をもらい、午後、見に行くことになりました。ところが3時頃電話がかかってきて、会場に着いたところだけど、2時間待ちだというのです。会場から延々と数十メートルの列ができているらしい。最終日だから混むだろうと予想はしていたけれど、2時間待ちとは。
 
しかし、もらった招待券は常設展も入ることができるものです。この美術館の常設展にも珠玉の作品がたくさんあります。というより、ぼくが行ったときはそっちの方が結構楽しめたのです。企画展よりずっとすいていて、ゆったりと見られるし。で、ぼくは妻に常設展だけでも行ったらと勧めました。結局そういうことにして帰ってきました。本人も満足の様子。
 それにしてもゴッホは日本人に人気があるんですねえ。ディズニーランドのアトラクション並み。で、そこまでして待っていた人たちは入場して何を見ることができたんだろう?
 ぼくたちはどういうことでも、つい鳴り物入りの方に気を取られがちなのですが、実はこういった常設展の方に見逃せないものはいっぱいあります。特に、テレビや本で見た作品の本物があったりすると、儲けものをしたような気分になります。あるいは、全く知らなかったものとの意外な出会いがあったりして、それもまた美術館巡りの楽しみの一つでもあるのです。

手書きで文をつづろう  5/18   
 ぼくがワープロを使い始めてからもう17年ほど経ちます。今やワープロは、仕事では欠かすことのできないものになっていますが、これだけで作文をしていると、日本語がおかしくなっていくのではないかと、このごろ思うようになりました。コンピュータ上でこんなことを言うのは矛盾しているのですが、絵と同じように、文章も手書きの価値をもう一度見直した方がいい。
 ワープロ機能が日本語本来の特性と相容れないことは、書家の石川九楊さんはじめ、多くの人が指摘していますが、ぼくも同感です。欧米の言語のタイピングとは根本的に異なります。その最も大きなものが、漢字変換でしょう。
 それが最近気になるのです。とんでもない字が出てきたときのストレスは、実はかなり大きいと思うのです。昔は結構面白がっていましたが、言葉で真剣に勝負しようと思ったら、笑って済ませられることではないのではないか。変換に費やす労力は、論理的思考の流れを妨げているような気がします。
 言葉を武器に仕事をしている人で、手書きを実践している人はかなり多いようです。ぼくは文筆業ではないけど、今は毎日、意識してノートや紙に手書きで書くようにしています。ワープロソフトであれグラフィックソフトであれ、コンピュータは使い続けるのですが、手書きを失ってはいけない、むしろこちらを主とすべきと思うです。
 ところで、ブログですが、Toshi Talks や「この本が面白い」など、主に言葉関連をそちらでやっていくことにします。こちらのサイトには「絵日記ですよ」など、絵画作品やプライベートなものを残して、継続していきます。

 どちらも、基本方針は「手作り」です。

ケータイは持たない  5/16
 わが家にはケータイは1台だけ。妻がいつも持ち歩いています。しかも自分からかけるとき以外は電源を切っているから、ほとんど用をなさない。妻も娘もメールのやりとりはそれなりにしているようですが。ぼくはほとんど使いません。
 娘が学校で友達からメルアドを教えて、と聞かれて「自分のケータイは持っていない」と答えると、判で押したように驚かれるそうです。今時ケータイを持っていないなんて「ありえない」というのがおおかたの反応。こういった反応は
ぼくの「想定の範囲内」です。だからと言ってぼくはケータイを新しく買おうとは全く考えていません。お金もないし(笑)。
 日本人の若者の間で(いや、大人の間でも)ケータイが驚異的に普及していますが、最近立て続けに読んだ全く異なる2冊の本で、ケータイについて同じ指摘がされていました。外国人から見ると、親が子供に買ってやっているということがおかしいというのです。日本の現象のほうが「ありえない」のです。もちろんみなさん「持ってる方が便利だから」と言うに違いない。でも深層にあるのは「みんなと同じでなくてはいけない」という強迫観念。だから違っている人をまるで宇宙人のように見てしまう。つくづく日本人は狭い世間の価値観でしか生きられないのだと思ってしまいます。
 娘の好きな作家、綿矢りささんも大学生でありながら、ケータイは持たないそうです。自ら少数派であることを選んでいるのでしょう。ケータイを持たない生活から見えてくるものの方がはるかに多いと思いますよ。

ブログ再挑戦  5/14
 2月に一度始めてすぐに中止したブログを、きょう再開しました。このサイトでやっている内容の一部を今後ブログの方に移していく予定です。
 タイトルは「どっこい、生きてるぞ」
。 絵と言葉と自然に関して、哲学していこうと思っているのです。何だ、それじゃ今やってることとまったく同じじゃないかって? 確かにそうです。まあ、いいんですよ。
 2月に無料サービスを2つ試みたのですが、どちらも使い勝手がよくなかった。今度は今ぼくが入っているプロバイダーASAHIネットのサービスで開設しました。しかし、まだベータ版で、技術的にはまだまだ不備です。正式版のリリースは8月中頃とのこと。まあ、その間に記事をためていこうと思ってます。
 記事はミリ・ダ・ヴィンチのペンネームで投稿していきます。
 ところで、お話は変わって、今日の午後、光が丘図書館で絵本作家、田島征三さんの講演会がありました。これがめっちゃ面白かった。笑いと刺激満載の2時間半でした。いい意味で打ちのめされました。一番強烈だったのは、田島さんが、自分の作品がすぐにわかってもらえたり、いいですねとほめられたり、売れたりしたらダメだと本気で思っているところです。ああ、この人に比べたらぼくはつくづく凡人だ、こりゃ今のぼくじゃ田島さんの足元にも及ばないなと、改めて思いました。今さらわかりきったことだけど。
 田島さんの顔、絵日記に描きましたのでご覧下さい。

組織と個人  5/12
 災害が起こったときは、人間の醜さと崇高さが鮮烈な形で同時に現れるようです。JR福知山線脱線事故に関して、事故直後にレスキュー隊より早く現場に駆けつけ救助作業にあたった会社の活動が、事故後1週間ほど経ってから紹介されるようになりました。さらに別の会社もペットボトルの水を直ちに現場に供給して救援活動を行っていたとのことです。
 180人以上の
JR西日本社員がゴルフやボーリング大会や宴会をやっていたという事実が次々に明るみに出てくるものだから、この二つの会社の迅速で人道的な行いがよけい際だちました。ぼくもテレビを見ていて、悲惨な事故の中に一筋の光を見たような思いがしました。二つの会社に共通していたのは、社長が適切に判断して陣頭指揮を執っていたと言うことです。優れたリーダーの存在がいかに大切かと言うことですね。それは大企業とか中小企業と言うこととは全く関係がない。人格の問題です。
 ところで、JR西日本社員が宴会をやっていたというのは確かに非難されても仕方のないことだけれど、これはJR西日本だけの体質とは言い切れないでしょう
。日本には、愚かなリーダーが部下に統一行動を強要する組織がまだまだ多いのです。どうでもいいところで画一的行動をとらせるものだから、上司の顔色をうかがって行動せざるを得ない部下は肝心の時に個人で適切な判断を下すことができなくなってしまうのです。
 今、日本中がJR西日本をバッシングしていますが、偉そうに言えた柄じゃない人たちも結構いるんじゃないかな。

便利さを追求する社会  5/10
 
4月末、福井に帰っていた時、久しぶりに母親とゆっくり話をしました。去年の初めに帰省した際、予想を上回る老人性アルツハイマーの現実に直面し、ぼくは少なからず衝撃を受けて数か月ショックが尾を引いていたのですが、今回はまた以前のような穏やかな会話ができました。母の物忘れは進行していましたが、気持はだいぶ落ち着いていました。
 テレビではJR福知山線脱線事故のニュースが連日流れていました。それを見ていた母は「母さんが歳とってるでこんなふうに思うんかも知らんけど……便利かも知れんけど、今の時代は嫌やな」とポツリとつぶやきました。ぼくは母の言葉に心から共感し「ぼくもそう思うよ、ほんとにその通りや
」と答えました。
 もしかすると母は、この事故のことだけではなく、一人暮らしをしている今の生活全体について、ある種の嘆きとあきらめの気持ちで言っていたのかも知れません。「ぼくもそう思う」と答えながら、そんな親の暮らしを助けられないでいる自分を見せられ、ぼくはまた心に痛みを覚えました。
 
便利さを追求する現代社会が必ずしも人間にとってよくないことは多くの人が感じているのだけれど、それに歯止めをかけられずにいる状態です。特に高齢になると、自分の力では何もできないという無力感も手伝って、よけいにそう思うのでしょう。高齢化が進んでいるのに、日本はますます老人が暮らしにくい社会になっているようです。いや、老人だけでなく、子どもにだって若者にだって中年にだって、きつい時代なのですが。

ハイキング  5/5
 昨日、家族で飯能市の伊豆ヶ岳へハイキングに行きました。標高815mの初心者コース。天気も良く、空気も爽やか。それほど混雑もなく楽しい一日になりました。
 行ってみて驚いたのは、高齢者が多いこと。今ウォーキングや登山が高齢者の間でブームだと聞いてはいましたが、実際に目の当たりにして、これほどかと驚きました。中高生や大学生のグループはほとんどなくて、小さい子ども連れの家族か老人のグループばかりなのです。まあ、老人が元気なのはいいことだと、妙に安心しました。
 先週ぼくは帰省して、病院へ父を見舞った時に、父と同じように寝たきりになっている老人たちを見たばかりです。そして昨日出会ったのは元気に山を歩く老人たち。高齢化社会のまったく異なった二つの面を、ぼくは立て続けに目撃したわけです。寝たきりになるのもさまざまな事情がありますが、できれば元気に年老いたいと思うのが人情でしょう。
 ぼくは老人になっても健脚でいたいと、日頃からなるべく歩くようにして足を鍛えていたつもりですが、昨日は下り道で膝がガクガクになってしまい(膝が笑うというやつですね)、まともに歩けなくなりました。平地と山道では使う筋肉が違うのだと痛感しました。……というより、要するに脚力が衰えただけのことですが。情けない。鍛え直さなくては。
 さて、僕たち親子のもう一つの目的は、虫採り。ニワハンミョウやシジミチョウなど数匹捕まえましたが、一番の収穫はカラスアゲハ。アゲハの中でも最も美しいと言われるチョウの一つです。これは息子のお手柄。実は以前にも捕まえたことがあったのですが、不注意で標本箱を落として壊してしまいました。やっとその分を取り返しました。今度のは羽の形も完璧なので、いずれこのサイトに掲載します。

4月の「ごあいさつごあいさつ」