パックンが福井をPR 4/28
親の介護の用事があり、2泊3日で福井に帰省していました。そこで見つけた郷里の話題をご紹介。
パックンをご存じですか? 「英語でしゃべらナイト」に出てくるアメリカ人タレントのパトリック・ハーランさんです。日本人と漫才コンビを組んでいるコメディアン。実におかしいのですが、何とハーバード大学卒。でもインテリ臭さがまったくない。
この人は1993年に初めて来日して、英語会話学校で先生をやっていたのですが、その土地が福井市だったのです。ぼくはそのことを知ってビックリ、すごく親近感を抱きました。彼は福井を第二の古里と思っているそうで、最近もNHKスタジオパークという番組で、「ここは食べ物もおいしいし、住んでる人はみんないい人たちだし、大好きですよ。ぼくは福井の親善大使になりたい」と言っていました。
関係者がそれを見ていたのでしょうか、このたび(26日)西川知事がパックンに福井をPRしてもらうため「ふくいブランド大使」に委嘱したそうです。福井新聞に出ていました。
福井って、経済的にも文化的にもいつもマイナーなんです。しかも冬は雪に閉じこめられているから、県民性はどちらかというと地味で控えめです。自分の古里の良さを正しく評価できないところがある。自己PRが本当に下手なんです。ぼくはこの歳になって、郷里の良さをいろいろ見直すようにはなっていますけどね。
だからパックンのような人が福井を宣伝してくれるなんて、とても嬉しくなります。
『半落ち』は人工の味 4/23
子どもが録画した『半落ち』(寺尾聡主演)、先日見ました。主人公はなぜ妻を殺したか、という刑事物ですが、サスペンスではなく、中年向けの泣かせるドラマ。見て損はありません。ただ……、どうしても一言コメントをつけ加えたくなりますね。原作は読んでいないので、あくまでも映画そのものに対する感想ですが。
物語の鍵になるアルツハイマーにしても骨髄ドナーにしても、あるいは警察という組織のことにしても、現実に体験している人からは、登場人物の言動は大甘のやりとりに見えるんじゃないかなと思いました。
つまり登場人物たちは見かけ大人なのだけれど、精神がまるっきり高校生という感触なのです。彼らが発する言葉は一見真摯な叫びだけれど、ある程度社会での経験を積んで来た人なら、そういう美しい言葉が現実の過酷さによってどれほど無力にさせられてしまうかを、いやというほど感じているに違いありません。その人たちがこの映画を見て本当に感動するのだろうか。要するに突っ込みが浅い。
だからこの映画は、料理にたとえて言えば、素材や調味料の本物の味とか癖を知らない人が、すべて市販品だけを用いて適当にごまかして作った料理のように思えるのです。人工の味。
ぼくはふと、ティム・ロビンス監督の『デッドマン・ウォーキング』という映画を思い出しました。『半落ち』同様、殺人というテーマを扱っていますが、成熟した視線で描いた秀作です。もう一度あの作品を見て、口直しをしてみたい気になりました。
自然界の厳しさ 4/20
昨日光が丘公園に行ったら、新緑があちこちにあふれ出ていました。この公園の中に先月からずっと気になっている木があります。
3月に「生き物ですよ」でゴマダラチョウの幼虫を紹介しましたが、子供が友達からもらった1匹の他に、ぼくたち親子は、このエノキの根元で3匹発見したのです。まだ肌寒い日々が続いていた時期でした。
たまに暖かい日もあったものだから、幼虫は冬眠からさめて動き始めていましたが、肝心の餌となる葉っぱがありません。ぼくたちは毎日エノキの葉が芽吹いていないか、確かめに行ったのです。
しかし2週間ほどたったある朝、ついに幼虫が4匹とも死んでいるのを、息子が発見しました。せっかく育てようと思っていたのに、本当に残念でした。春の訪れが遅れたばかりに幼虫は生き延びることができなかったのです。
と、これだけでも十分衝撃だったのですが、実はさらにショッキングなことがおきました。ゴマダラチョウの幼虫のうち2匹が、別の虫に寄生されていたのです。黄色いウジ虫のような物がゴマダラチョウから出てくるのをぼくたちは目撃してしまい、背筋に悪寒が走りました。
蝶や蛾の幼虫が寄生されているのは、去年も目撃しています。自然界では様々な生き物が文字どおり、食うか食われるかの戦いを繰り広げているのだということを改めて学びました。
昨日公園に行ったとき、エノキには若葉が青々と生い茂っていました。これが間に合ってたら、他の2匹は生き残れたんだろうか?
中断された時間 4/16
きのう、中3時代の友人二人と久しぶりに会いました。福井から東京にRさんがやって来るから会いましょうと、都内に住むMさんが誘ってくれたのです。遠く過ぎ去った懐かしい話と今背負っている現実がない交ぜになって話が弾みました。
それから今日はその時のクラスの一人が一番乗りで50歳の誕生日を迎えました。T君、おめでとう。50歳かあ。
きのう友達と別れたあと思ったんだけど、例えば中学時代の友達と会う時、わたしたちはいつも相手の姿の中に14才、15才当時のお互いの映像や言葉を思い浮かべてるんですね。中年の顔の中に15才の記憶を見出す。
だから同窓生に会う時のわたしたちは、ドラマのエキストラのようなただの50男50女じゃないのです。15歳という年齢を通り過ぎた50歳。かといって単純に15才に戻ってしまうだけでもない。目の前には間違いなくおじさんおばさんになった現実の姿がある。
この不思議さは何なのだろうと思ったとき、中断された時間の中に秘密があるのだと気がつきました。いつも一緒にいる家族だったら、お互いの成長や変化を持続して見ているから、かえって時間の経過がわからなくなる。でも、ある限られた時間を共有していた友達と再会すると、空白の時間を一挙に飛び越えるものだから、その当時と現在をワープしながら対話をするようになるわけです。当時の自分たちと現在の自分たちが二重写しになった存在。それが再会した旧友なのです。
なんだかどうでもいいことを言ってるみたいですが、ぼくにはすごく新鮮な驚きでした。
個人的な絵の好み 4/12
国立近代美術館へ「ゴッホ展」を見に行きました。以前に東郷青児美術館で見たのとはまた違った感触でした。いい展覧会でした。今回はゴッホの初期の作品もあり、あのゴッホといえば誰でも思い浮かべる絵柄や色使いとはかなり違っていたことがわかりました。パリ、アルルと移り住むにつれてどんどん色が明るく強烈になっていったのですね。
ところでぼくはゴッホの作品を見ながら思いました。あらゆる前知識を取り去って見たときに、どれくらいの人たちがゴッホの絵を素晴らしいと思うのだろうと。棟方志功は強い感銘を受けて、「わだば日本のゴッホになる」と言ったそうですが、ぼくは残念ながらその種の衝撃を受けることがないのです(同じことはルノアールの絵についても言える。彼の作品を見て感動したり素敵だと思ったことは一度もありません)。一緒に展示されていた、モネやミレーの絵を見ると、やっぱりこれだよこれ、と思ってしまうのです。
変な話、ゴッホの絵が生前1枚しか売れなかったのもぼくには何となくわかるような気がしました。だから逆に言えば、死後の絶大な人気がぼくにとっては大きな謎です。
芸術の好みが理屈ではなかなか説明できないということを、最近ぼくは体験的に確信するようになりました。それはほとんど体質的な相性の問題と言っていいのかも知れません。
常設展でクレーやカンディンスキーの絵を見た時も、そのことを確認したのでした。絵が目に入った瞬間にすっと心惹かれていくのです。
入学式と音楽 4/8
娘の高校、息子の中学校で、おととい昨日と続けて入学式が行われました。ちょうどそれに合わせたかのように桜の花が一気に開き、満開になりました。
娘の学校は私立でしかも美術系ですから、明確な教育内容を持っています。ぼくは校長先生のファンで、この方の話をいつも熱心に聞いています(娘よりも一所懸命に)。画家の目でものを見て、そこから紡ぎ出される言葉はしっかりとこちらの心に伝わってきます。
面白いのは式の前後に管弦楽部と合唱部の演奏があり、前奏がバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」、最後がヘンデルの「ハレルヤコーラス」だったこと。ぼくには親しみを感じる曲でしたが、キリスト教学校じゃないのに演奏するのが不思議でした。主催者も宗教的意味合いは感じていないのでしょう。
さて、息子の中学校は先日娘が卒業したばかりの公立校。息子は大きめの制服をまだ着慣れない様子。仲間もたくさんいて、笑顔いっぱいのいい式になりました。
公立といえば「君が代」。これが最近また問題になっています。これを歌う時ぼくはいつも、丸谷才一さんが『裏声で歌へ君が代』という本の中で、これはもともと恋の歌だ、と指摘していたのを思い出すのです。でも保護者の方も含め、みなさんあまり歌いませんね。拒否していると言うより、単に恥ずかしいだけなのだと思います。
ぼくの後ろに小さな子をつれた家族がいました。君が代斉唱で全員が起立した時に、その子どもが言いました。「ぼく、すわっていようっと」危ないよ坊や、どこかの偉い人にチェックされちゃうよ(笑)。
わが家の韓流ブーム 4/5
韓流ブームはわが家にも及んでいます。と言っても1名、ぼくの妻です。多くの中年女性と同じように、冬ソナから始まって去年以来完全にはまっています。最近のエピソードを二つ。
先日までNHKのBS2で毎日放映していたイ・ビョンホン主演のドラマの最終回の時間が、ちょうどサッカーW杯のバーレーン戦と一部重複していました。日頃、韓流ドラマに関してはチャンネル権を譲っているので、この日はぼくが優先権を獲得。しかし横でしきりに「最終回だから見たいなあ。これで終わりなのに」と言う。仕方がないので試合終了後の選手インタビューは我慢して譲ることにしました。
ところが翌日、また新しい韓流ドラマが始まり、ちゃっかり見ているじゃありませんか。何じゃこりゃ。
もう一つ。お友達が最近韓国に旅行して、妻へのおみやげにヨン様靴下を買ってきてくれました。ヨン様の顔とYonsamaの文字がプリントされているのです。ぼくは絶句するしかないデザイン。妻はこれをはくのはもったいないと言って、靴下類をしまってある引き出しの一番上においてあります。ぼくが自分の靴下を出すために引き出しを開けるたびにヨン様の顔が出てくる。これはたまらんと思ってぼくは黙ってそれを別の靴下の下にしまい込みました。
しかし、次に引き出しを開けたときにはまたまたしっかり一番上に置かれていたのでした。ヨン様靴下をめぐる静かな戦いが、今わが家で繰り広げられています。
愛・地球博の記念切手がない 4/1
切手収集の趣味はありませんが、きれいなのを見つけると時々買っています。ぼくはあまり収集癖がないので、とっておくより使うことの方が多い。
28日に郵便局(本局)へ行ったら、ポスターで愛・地球博の切手が発行されたのを知り、窓口で聞いてみました。そしたらもう売り切れたとの返事。24日に発売されたばっかりですよ。即日完売だったの? 翌日、親戚から来た小包にたまたまこの切手が貼ってありました。マンモスの絵。かっこいい。これはやっぱり欲しい。
で今日、別の郵便局の前を通りかかったので入って聞いてみたら、そこでも売り切れてしまったということでした。うーん、そんなに人気だったのか。応対してくれた局員がとても親切な人で、近所のいくつかの郵便局に聞いてくれました。しかしどこにもありませんでした。そうなるとますます欲しくなってしまうのが人情。さてどないしたもんやろ。
まあ、切手が手に入らず、ちょっと残念ではあったのですが、それとは別に、郵便局員さんの親切さは心温まるものでした。こういう雰囲気が町の郵便局には時々あります。小泉さんはいま必死で民営化を進めていますが、民営化された後にもこの空気は残ってくれるのでしょうか? マニュアル化された対応が目に付くお店が多い中、職員のすてきな人柄が表れるような接客はなくして欲しくありません。
しかし、しかし、地球博の切手はなんとしても手に入れたい。
3月の「ごあいさつごあいさつ」
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