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まぎらわしい、疑わしい 1/29
妻がC型肝炎の検査を受けました。我が家の子どもたちを出産した89年〜93年、産院でフィブリノゲンを投与されたかも知れないからです。結果は陰性で大丈夫だったのですが、送られてきた報告書を見て、妻があれっと思ったことが二つありました。
一つ目は日本語の問題。次のように書かれていました。「C型肝炎に感染していない可能性が極めて高いと判定されました。」最初にこれを読んだとき、感染しているのかと思い、ドキッとしたそうです。そりゃそうですね。自然な日本語としては「C型肝炎に感染している可能性が極めて低い」ではありませんか。理科系的な、あるいは役所的なわかりにくい表現です。
もう一つ。検査日が平成14年8月12日になっていた。おいおい、検査したのは1週間前だぞ。すぐに電話で問い合わせました。結局、検査日の部分が誤って入力されていたらしいということだったのですが、ぼくらとしてはデータの数字も間違っているのではないか、もしかしてデータそのものが他人のものなのではないか、と勘ぐりたくなります。
医療ミスがここ数年よく報道されるようになりましたが、その陰でこの程度のミスは日常茶飯事なのだろうか、と思いました。
僕たち家族はどちらかというと病院や医者のお世話にならずに済んでいる方だと思いますが、医療機関に日常的に頼らざるを得ない人たちもいるわけだから、信頼できる態勢を日頃から少しでも築いていってほしいものです。
それがなくては生きていけない 1/27
動物園の年間入場者数記録はずっと上野動物園でしたが、去年、北海道旭川市の旭山動物園がトップになったと報道されました。23日の夕方TBS『夢の扉』で、この動物園がなぜそれほどの人気になったか、紹介していました。
一時は閉園の危機に追い込まれていたそうですが、スタッフの新しい発想と努力によって、奇跡の回復を遂げたのです。番組でフィーチャーされていたスタッフの一人、板東元さんという方がとてもいいことをおっしゃっていました。「動物園は、別になくても生きていけますよね。でも動物を見ないでいると、自然とか環境とかについて考える、心を動かされるということがなくなっちゃうわけだから、それは怖いことだと思うんです。」
そうなのです。なくても生きていけるかも知れないものの中に、実はなくてはならないものがあると思うのです(絵を見ることや描くことにも同じことが言える)。そしてこの動物園のすごいところは、奇をてらった方法で客を集めようとしたのではなく、動物の本来のあり方を見てもらうという正攻法によって観客を呼び戻し、経営的にも立ち直ったという点です。
小菅園長の言葉も印象的でした。「動物をかわいいと思うのは、自分(人間)の方が大きいと思っているからですよね。そうではなくて、動物はすごい、と感じられるようでなくてはいけないのです。」これは本物だ。
後編は、間もなく完成するオランウータン館の話。
30日午後6時半から放映されます。
高校に合格
1/22
加愛が美術系の高校に合格しました。ほっとひと安心。応援してくださった方々、どうもありがとうございました。この場を借りてお礼を申し上げます。
去年の秋、いくつかの高校の学校説明会に回る中、この美術高校は、実際に訪れる直前まで滑り止めと考えていました。模擬試験の学科だけみれば十分合格圏内だし、と(実技のことなど念頭になかったところが脳天気)。
説明会にはぼくも一緒に行きました。ところが実際に展示されている生徒作品を見た時、おかしなことに、ぼくの心に沸き立つものがあったのです。あ、これだ。説明会で校長先生の話を聞いても、一般の高校とは違う教育観を持っていることがすごく伝わってきて、ぼくは心から共感し、まるで自分が励まされているような気がしました。ぼくが受けるわけじゃないのにね。でも、一緒に見て回っている娘も、作品や授業風景に目を見張らせていました。
で、モスバーガーでお昼を取りながら聞いたのです。「お金のことを抜きに考えた場合、この学校に来たいと思うか?」娘「うん」。
急転直下の志望校決定。間に合うかどうかを心配するより、とにかくやるしかない。それから2か月、突貫工事のように絵の準備をしてきました。ぼくもへたくそな絵描きなりにアドバイスを与えたけれど、最終的には本人ががんばって、うれしい結果を得ることができました。
入試作品を掲載しました。ご覧ください。
泣く者とともに泣く 1/18
わたしたちの生活はうれしいことや楽しいことと一緒に、悲しいこと苦しいこともいつもごちゃまぜになっているのだな、と思います。
きのう、阪神淡路大震災からちょうど10年たち、テレビや新聞では特集報道がたくさん組まれていました。テレビ番組は見るとつらくなるので、ほとんど見ませんでした。ろうそくの前で、あるいは亡くなった家族のネームプレートの前で泣いている人たちの映像を見ると、冷静に見続けることができません。
新聞に、震災で子どもを失ったある遺族の現在の様子が出ていました。その子は生きていれば今小学6年生。家具の下敷きになって泣き続ける子にお父さんたちは「ぞうさん」の歌を歌い続けて励ましましたが、次第に子どもの声が消えていったということです。
ぼくは10年前のこのニュースを覚えています。自分の息子がこの子と同い年で、息子もあの頃「ぞうさん」が好きでよく歌っていました。だからよけい強く記憶に残っているのです。
「喜ぶ者とともに喜び、泣く者ともに泣く」という言葉が聖書にありますが、これは簡単なことではない。いったいどこまで喜びや悲しみを人と分かち合うことができるのか。無関心であってはいけないけれど、独りよがりの共感でもいけない。真剣になりすぎると、自分も壊れてしまう。寄り添うとはどういうことか。……そんなことを考えていくと、答えが見つからない。ぼくはカウンセラーにはとてもなれないことを痛感します。
必要なのは、やっぱり、ユーモアかな。
サウンド・オブ・ミュージック 1/16
ブロードウェイ版の『サウンド・オブ・ミュージック』を家族で見ました。新たに発見したことがあったので、「ということば……」で取り上げました。ご覧ください。
この作品は家族みんなで楽しめますが、決して子供だましではありません。見るとほんとうに元気が出て、励まされる物語です。どの歌もいいし、ストーリーも素晴らしい。アメリカのエンタテインメントにはこういうハイレベルで内容の深いものがたくさんありますね。
『サウンド・オブ〜』から受ける感動は日本文化の中では味わえないもので、その質の違いを改めて考えてみました。それはきっと、真理や自由や人権といった概念が欧米文化の中で育くまれてきたものであることと関係するのだと思います(もう一つ、アルプスの山々もかなり大きな要素になっているでしょうが、でもそれはまた別の機会に)。
ぼくは最近、日本の伝統文化を再評価するようになり、一方でブッシュが大統領になってからというもの、アメリカ文化やアメリカ的な考え方にちょっと嫌気がさしているのですが、しかしこういう作品を見ると、アメリカ文化の奥深さを改めて感じるのです。それは『ローマの休日』にも感じられるものです。あれも単なるおとぎ話ではなく、信頼や義務といった概念が深い意味や高い理念を持ちながら、さりげなく盛り込まれています。
でも、もしかすると欧米でもそれらはもはや古き良き時代の夢でしかないのかなとも思うのですよ。『サウンド・オブ〜』のような希望に満ちた物語は、もうどの国でも作られないのではないかと。
竹久夢二展 1/12
竹久夢二は有名だけれど、ぼくはこの人の仕事内容をあまり知りませんでした。先日、知り合いの方から招待券をいただいたので、今日見に行きました。
会場にはあの宵待草の歌「待〜て〜ど暮〜らせ〜ど」が流れていました。観客はほとんどが年輩の方々。共感するものがあるのでしょうね。
この人は画家であり詩人であると同時にグラフィックデザイナーだったのですね。新たな発見でした。彼の場合、絵本、表紙絵、挿し絵などが主な仕事ですから、一枚物のいわゆるタブローとしてではなく印刷されることを十分に考えながら絵を描いていたわけです。作品を見てよくわかりました。
絵はそれほどうまいとは思いません。筆遣いも素人っぽいし、デッサンは狂っているし、ぼくの好みを言えば、描かれる女性の姿も好きではありません(もちろん、いいなあと思える作品もいくつかありましたが)。技術的には彼を超える人は今の日本にそれこそ五万といるでしょう。でも何より、大正ロマンチシズムの代表として独自のスタイルを築いたことは尊敬に値します。芸術は技術の巧拙だけでは測れないことが、ここでも確認できました。
この方が亡くなったのは49歳の時。えーっ!まもなくぼくが迎える年齢じゃないか。そう言えば、夏目漱石も49歳で亡くなっている。……だからどうって言うわけではありませんけどね。ぼくの場合、いま死んじゃったら何も残らないから、せいぜい長生きしようっと。
成人の日の広告 1/10
毎年、成人の日にはサントリーが新成人に向けての広告を掲載しています。文章がしゃれていて読ませます。歴代の執筆陣がすごいですからね。山口瞳さんや開高健さんといった錚々たるたる作家が書いてきました。
今年は伊集院静さん。いつ頃から担当しているのでしょうか。毎年注意深く見ているわけではないので、詳しいことはわかりません。文章をここに引用すると著作権に引っかかるので、やめておきます。
伊集院さんは若い人たちに対して、大人や世の中に絶望するなということを伝えています。そして今手の中にあるささやかなものに限りない可能性があるのだと。
ぼくから見ると今の時代は、見えない明日を懸命に探っているというより、むしろ何をしていいかわからないという若者の方が多いのじゃないかと思いますが、広告はいくらか若い人に期待して書いているようです。
上の世代や社会を否定するというのは今に始まったことではありません。それは新しいものを生み出すエネルギーでもあります。でもぼくを含む戦後生まれの世代は、権威や上の世代をただ否定し破壊するだけで年をくってきたところもあり、今わたしたちが抱えている社会のひずみの一因はそこにもあるのではないでしょうか。とんでもない時代を作っちゃったなと、ため息をついている中年も多いのでは。
だから今年二十歳の人たちだけじゃなく、何歳の人も、今日、成人を祝うつもりになれば、新しく何かを始められるかも知れません。
隠し剣 鬼の爪 1/7
山田洋次監督の『隠し剣 鬼の爪』を見たんですけど、がっかりでした。もうほとんど『たそがれ清兵衛』の二番煎じです。ストーリーや演出が前作をそのままなぞっている感じで、キャストも何人か重複しているものだから、今自分が見ているのがどっちの作品なのだかわからなくなる時がありました。
柳の下の二匹目のドジョウをねらったのでしょうか? それにしてもどうしてここまで似たものを作ったのか不思議です。新鮮味がまるでありませんでした。『たそがれ〜』が傑作だっただけによけい落胆が大きかったのです。自らの栄光を汚してしまっているような印象さえ受けました。
演技で言うと、松たか子はミスキャストでしたね。お話では途中すごくやつれることになっていたのですが、そんな感じは全然伝わらず、終始健康的な顔つきでした。『たそがれ〜』の宮沢りえとは大違い。あちらははかない感じがとてもよく出ていましたから(と、この評価には個人的な好みも若干入ってます)。もう一人、小澤征悦も無理がありました。この役者さんは善良そのもので毒がないから、ちっともすごみがなくて、果たし合いの場面でも対立の構図が弱く、迫力が出てこないのです。
映画の中で一カ所だけ光っていたなと思ったのは、最後のところで「隠し剣」を見せる場面。ふつうの時代劇で想像するものとかなり違う技なので、これは新鮮でした。
でもそこだけ。やっぱりぼくは尋ねたい気がします。山田監督、何でこんな作品を???
やすきよの漫才 1/4
NHKの衛生第2で昨日(3日)、横山やすし西川きよしの漫才特集を放映しました(1時間20分)。
何度見ても面白い。懐かしさゆえに評価を甘くする必要などまったくありません。ほんとに笑えます。今見ても古びていないと言うのはすごいことですね。
年末にやっていたM-1を少し見ましたが、高得点を挙げているコンビの中に少しも面白くないのがありました。彼らを何とか世に出すために裏で金が動いているんじゃないかと思ったくらい。優勝したアンタッチャブルは関東出身ながら、しゃべりのリズムはやすきよに通じるものがあって、彼らの芸は素直に笑えました。
たまたま昨日の朝日新聞に「笑い」についてのアンケートがあって、その中で好きなお笑い芸人の名前を聞く項目がありました。1位は明石家さんまでしたが、それに続いてやすきよが2位に入っています。現役を退いてこのランキングというのは驚きですが、うなずけますね。
ぼくの個人的な趣味で言うと、ダウンタウンや波田陽区などのお笑いは「毒」と言うよりただ不快なのです(ビートたけしも時にそう)。その違いはどこにあるのかまだ明確な答えを持っているわけではありませんが、その一つは傲慢さを感じさせるかどうかのような気がします。横山やすしのような人物は、もし実際に近くにいたらつきあうのがかなり大変だったろうと想像されますが、少なくとも芸の中では自分の愚かさを笑う謙虚さ(それこそがユーモアでしょう)がありました。
ふすまの張り替え 1/1/05
あけましておめでとうございます。2005年になりました。去年は自然災害も多かったし、いやな事件もたくさんあったし、景気は良くならないし、そんな中で生き延びられただけでも感謝しなくちゃという気がします。今年もわたしたちみんなにとって、少しでも良い年でありますように祈ります。どうぞこれからも当サイトのご愛顧、よろしくお願いいたします。
年末の2日間、我が家は大掃除で、ぼくはいつものように電灯の笠掃除とお風呂掃除をしました。そして大晦日には生まれて初めて、和室のふすまの紙張り替えをしました(小さい頃、障子の張り替えを手伝ったことはある)。
妻から言われた時、紙を切ったり貼ったりなら日頃からやってるから大丈夫さ、なんて思っていたけど、これが甘かった。何から何まで勝手が違う。決定的なのは大きさが違うこと。空気を完全に逃がし、しわを作らずに紙を伸ばすのがかなり難しい。午前と午後にわたって全部で4枚、みんなにも手伝ってもらいながらやりましたが、どうもうまくいかない。あーもう失敗だ、こんなふすまを眺めながら正月を迎えて、新年を過ごさなくちゃいけないのかと落ち込みました。
ところが不思議なことに、その夜、時折和室に入ってふすまを見ると、波打っていた箇所がどんどん減っていたのです。そして今朝にはほとんど目立たなくなっていました。おー、よかったじゃないか。昨日の暗い気持が一気に晴れて、なんだか新鮮な気持ちで元旦を迎えることができたのでした。
12月の「ごあいさつごあいさつ」
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