プラチナ無免許だ  6/26 
きのう、長年無免許で車を運転していた一家のニュースが報道されました。父親67歳、長男42歳、三男34歳。3人はそれぞれ50年間、20年間、15年間無免許運転をしていたというのです。父親が事故を起こしたことがきっかけでバレてしまったのだけど、ちょっと感心しました。
50年間、無免許でつかまらずに運転し続けるというのはそう簡単にできることではありません。ぼくだって今までに何度か接触事故を起こしたし、自分が用心していてもぶつけられることだってあります。そんなときには免許証提示を求められるのだから、それをかいくぐるというのは並大抵の腕ではありません。聞けば、この人は運転の時には安全運転に人一倍努めてきたそうです。必ずシートベルトを締め、スピード違反をしたことは一度もないというから、いわゆる「まともな」運転者よりはるかに模範的だったのではないでしょうか。変な話、こういう人たちが増えた方が交通事故が減るかも知れません。
法律違反であることは確かだし、最後には事故で相手の人に重傷を負わせてしまったから、それは罰せられるべきことですが、ふつうに免許を持っていて危険な運転や悪質な事故を繰り返す人の多いことを考えると、世の中、皮肉なものだなと思うんです。
でもこういう人、正式に免許を取ったとたんに運転がぞんざいになったりして。

最近見つけたおもしろい詩  6/18 
谷川俊太郎さんについては今さら解説の必要はありませんが、ああ、すごいなあと思える詩がたくさんあります。この間、とてもいいのを見つけました。
『クレーの絵本』(講談社)という本で、クレーの絵40点と、谷川さんがクレーの絵に触発されて作った詩14編で構成されています。その中の一つ、「まじめな顔つき」。

まじめなひとが
まじめにあるいてゆく
かなしい

まじめなひとが
まじめにないている
おかしい

まじめなひとが
まじめにあやまる
はらがたつ

まじめなひとが
まじめにひとをころす
おそろしい


ぼくは前々から、くそまじめは社会迷惑だと確信しています。まあ半分は自分のことですが、こんな詩に出逢うと、やっぱりそうだよって思ってしまいます。

梅干し  6/15 
生まれて初めて、梅干しづくりに挑戦。生協で買った梅1kgをきょう漬け始めました。先週は教会で分けてもらった梅500g を使って、梅酒(子どものことを考えて正確には梅ジュース
)をつくり始めたところです。どちらもできあがるのが楽しみです。
梅干しを自分でつくってみようと思った理由は、市販のがどれも好きじゃないからです。甘ったるくてフニャフニャしたものばかり。こういうものは漬け物やみそ汁と同じで、お袋の味が一番舌に合っています。肉厚のほんとうに酸っぱいやつね。
でも郷里にいるぼくの母はもう年老いて(79歳)、年々、何かをしようと言う気力を失いつつあります。梅干しもつくらなくなりました。だったら、自分でつくってみようと思ったのです。やってみると意外に楽しい。ビニールの包装袋を開いたら、スモモのようないい香りが漂ってきて、息子がしきりに食べたがっていました。
そうか、こんな梅の実がたくさん成る季節に降る雨だから梅雨って言うんだと、この歳になって実感しました。なのに、どうしたの、最近のお天気。カラリと晴れちゃって。このまま梅雨が明けちゃうなんてこと、ないでしょうね。

使いこなす  6/11 
言葉とカッターナイフの共通点――どちらも
生活を豊かにもするけれど、凶器にもなりうる。
ぼくはいつもカッターナイフを持ち歩いています。鉛筆もクラフトナイフで削ります。子どもたちにも、低学年のころに1本ずつ持たせました。オルファのスグレモノ。色鉛筆はナイフで削るよう練習をさせています。

長崎小6児童殺害事件ニュースを受けて、どの小学校でもカッターナイフの管理について検討しようという動きになっているようです。

学校に個人のナイフは持ってこさせないという規則にするところもあるようですが、そうすることで今回のような犯罪が防げるかどうかは疑問です。

今回の事件でぼくが受けた印象の一つは、今は子どもも大人も、ものを使いこなす(正しい使い方をすると言う意味)訓練がされなくなってきているのじゃないかということです。カッターナイフも言葉も、生きていくための必需品ですよね。それを使いこなす訓練がされずに生きているというのはかなり怖いことです。
言葉を使いこなせない人間が、インターネットという、これまた使いこなせないものの上でチャットをし、最後に、使いこなせないナイフで殺人を犯す。あまりに悲惨です。
それらは、マニュアルというレベルで片づく問題ではなく、時間をかけて習得するものでしょう。そのためには学校だけでなく日常生活のあらゆる場面で修練する必要があるのですね。遠ざけることなく、また軽んじることなく。
そうだ、その時に絶対に書かすことができないものは、良い指導者だと、ここまで書いてきて気がつきました。

「さっちゃん、ごめんね」  6/8 
長崎小6児童殺害事件の被害者のお父さん、御手洗恭二さんが、現在の心境を手記に著しました。「さっちゃん、ごめんね」という題ですが、これ、ぼくはとても冷静に読めません。父親の立場で読むと
涙が出てきてしまう。
事件の起きた直後から、この方は新聞記者という立場から、メディアに対して気丈に責任を果たそうと努力されているようですが、それがほんとうに痛々しい。
自分の身に起こったら、弱いぼくなどはパニックに陥るだけだろうし、さらにメディア攻撃(たとえ悪意のないものであっても)を受けて打ちのめされてしまいそうです。悲惨な事件が発生するたびに、テレビや新聞に被害者やその家族が登場しますが、もしぼくがあの立場だったらどんなふうに対応するだろう、といつも思います
拉致被害者の家族にしても、最近イラクで襲撃されて亡くなられた橋田さんの奥さん
、小川さんのご家族にしても、しっかりした受け答えをされているのを見て、ただただ頭が下がるばかり。
と、こんなことを書いていたら、今日6月8日は池田小殺傷事件からちょうど3年たった日であることを、ニュースで知りました。ああ、そうか、あれからもう3年経ったのか。どうしてこんなむごい事件が続くのか。日本社会が少しでもいい方向へ行ってほしいと思うばかりです。合掌。
「つれづれらたたむ」で正しく怒ると題して英語のクイズを作ってみましたので、トライしてみてください。

何ちゅう世の中や  6/3 
6月になりました。「気が重くなるニュースばかりが、毎日わたし
たちのまわりにあふれています。」と先日ここで書いたばかりですが、また悲惨な事件が起きました。佐世保市の小学6年生による同級生殺害。
被害者のお父さんが記者会見で、娘さんとの最後の別れの様子を語っていました。朝、洗濯機から洗濯物を出しているときに、学校に出かけようとする娘さんと言葉を交わしたけれども、後ろ姿を見ることもできなかった、ということでした。気丈に受け答えをしていましたが、痛切な言葉でした。
ぼくは数年前から毎朝、家族が出かけるとき、一人一人玄関で送り出すようにしています。特に2年前の池田小殺傷事件以来、努めて実行しています。あまり想像したくないけれど、もし何かの事故や事件に巻き込まれたら、最後の別れを後悔したくない、という気持ちがあるのです。
それだけに、あのお父さんの話は、もし自分だったらと思うと、ちょっと言葉が出なくなってしまいます。
こんな事件があるたびに、メディアの扱い方にぼくはイライラさせられます。「普通の子がなぜ」とか「命の大切さを教える」という紋切り型のセリフが空しく踊るだけに見えるのです。要するに、そこからはあまり学ぶものはなくて、詰まるところ、大人たちが、今の社会や子どもたちのことを、日頃からもっと真剣に考えて、地道に実行していくしかないということでしょう。

5月の「ごあいさつごあいさつ」