風紋 −2−  

 しかしそれから声を掛けた深町は、まったくいつもの様子で、後ろめたさなど微塵も感じさ
せてはいなかった。その為にあえて訊ねることも出来ず、速水は恐らく友人の一人だろうと
割り切ることにした。気にならないと言えば嘘になるが、今こうして二人で会い、きちんと自
分を見つめてくれる深町に、いつまでも不審を抱く理由はない。
 不自然に見えない程度に、肩を並べて歩き出す。大通りから少し奥に入ると、途端に人
通りが減り、落ち着いた雰囲気となる。適当に歩いて決めた店に入り、酒と料理の注文をし
た。
 別に人目を忍ぶわけではないのだが、やはり二人きりで会うのに少し遠い場所を選んで
しまう。それでもこうして出歩くのを速水が好むので、どちらかと言うと出不精な深町も、そ
れに合わせて外に出るようになっていた。
 運ばれてきた酒で喉を潤すと、深町は買い物をした紙袋の中から包みを一つ、取り出した。
「誕生日、には少し早いが、どうせその日には渡せないんでな、これ」
「えっ、すいません・・・ありがとうございます」
 意外なプレゼントに驚きを隠さず、速水は包みを受け取り、開けてもいいかと尋ねる。
 それは明るい銀色に光り、しっかりとした造りのダイバーズ・ウォッチだった。さっそく取り
出して、左腕に巻きつけてみる。
「お前、安物使ってるなぁと思って、前から気になってたんだよ」
 照れ隠しの言葉に苦笑して、速水は腕にした時計の感触を確かめる。白銀の色合いとス
マートなデザインは、思った通り速水に良く似合っていた。
「すいません、こだわり無くって。でもすごい嬉しいです・・・これ。ありがとうございます」
 晴れやかな笑顔に、深町もつられるように笑った。不意打ちの贈り物は、多少の予算オー
バーをした甲斐があったようだ。
 それから、深町の友人が出した店の話などをする。
「俺なんか行ったら浮くと思っていたが、そうでもなかった。いい感じの店でな。今度行って
みるか?」
「いいんですか?是非」


 仕事をしている間は、恋人と共にいるというよりも、最も信頼出来、そして尊敬している上
司と部下、という充実感の方が勝っていた。恋愛という、ともすれば様々な不安や悩みとい
った感情を際限なく生み出すものよりも、余程安定した精神状態でいられるのではないか
と思う。それはもしかしたら、二人が恋人として付き合うことよりも、優先されるべき重要な
事柄なのかも知れない。
 今まで、考えたことが無かった訳ではない。人の気持ちほど、確実でなく先の判らないも
のは無い。いつどちらからか、この気持ちが失われてしまった時、恋人として別れを迎えた
その時、はたしてどうするべきなのか。それでも仕事は変わらず続けていけるのではない
かと、希望も抱いてはいるが、そう予感していた。
 勤務の申し送りを兼ねて士官室でコーヒーを飲みながら、目の前の深町の顎に目立って
きた不精髭を眺めて、速水はふとそんな想いに捕らわれていた。そんなことを考えたのも、
先日の有楽町駅のホームでの光景が頭から離れなかったせいなのだ。
 深町は元々がノーマルな人だったはずで、付き合おうと思えば女性とも付き合えるのだ
ろうとか、やっぱり子供とか欲しいんじゃないだろうかと、ついつらつらと思い巡らせてしまう。
「・・・おい、起きてるか?速水」
「え、起きてますよ。艦長、そろそろひげ剃った方がいいですよ」
「ん、そうか?しょーがないなぁ・・・じゃなくて。何か気になることでもあるのか?」
 深町は人一倍鋭くて、優しいのだ。こんなことで、気遣わせてはいけないなと、速水は自
らを戒める。
「いえ・・・不精髭生やしてても、かっこいいなぁと思って」
 にっこりと笑いながら、深町の顎を指先で撫でた。
「何バカ言ってんだ、押し倒されたいか、このやろう」
 そう凄んで見せてから、深町も笑った。


 金曜日、半舷上陸で深町は先に休みを取っている。速水も、今日の作業がすべて予定通
りに終われば、土曜の半日休暇を取ろうと思っていた。やはり二日丸々休めると、大分あり
がたいものだ。近々自衛隊にも週休二日制が導入されるという噂だが、そうなった時に、今
でもなかなか消化しきれない代休や有休が、もっと多く溜まってしまうのではないかと、少々
心配でもある。
 士官室で書類をまとめていると、今半週当直の三嶋一尉が隣りに座る。
「副長、時計変えられたんですね」
「うん・・・」
「結構いい物でしょ、幾らしました?」
「えっ・・・」
 顔を上げると、三嶋のいたずらっぽい瞳と目が合った。深い意味はないのだろうが、忘れ
たと言うのも変かと思い、「内緒」と答える。
 速水より三才年下の三島は、何かと速水のことを聞き出そうとするのだ。本人は、「副長
のファンなんだ」と公言してはばからないのだが、あまり詮索されると少々迷惑に感じること
もある。
「もしかして、いい人からのプレゼントとか?そんな雰囲気ー。副長引く手数多でしょう」
「そんなことないよ」
 そこへ通りすがりの南波曹長が、速水の腕時計を覗き込んできて、言う。
「気をつけた方がいいですよ。心にやましい事があると、物で誤魔化そうとするんスよねー」
「ええー!南波曹長、相手知ってるんですか!?」
 驚く三嶋に、南波は「いやいや、一般論」と、手をひらひらと振りながら、煙に巻いて去って
ゆく。速水はあっけにとられていた。確かめたことはないが、南波は自分達の関係に気付
いているのではないかと思うことがある。
「どうなんですか?副長」
「え?別に、そんなんじゃないって」
 苦笑いを浮かべながら、話は終わりというように書類を片付けて立ち上がった。
 どうやら休暇は予定通り取れそうな様子で、速水は作業の確認をする為に艦内を回り始
めた。