風紋 −3−   

 その夜に深町のマンションに電話を入れたが、留守電になっていた。仕方なく、土曜の午
前休みを取った旨を吹き込んでおく。珍しく呑みにでも行ったのか、とだけ思っていた。
 次の日の朝。自分の分の洗濯を終えて、深町の部屋へ向かった。
 恐らくは掃除も洗濯も、済んではいないのだろうと思い、いつものように手伝おうと早目に
訪ねたのだ。
 呼び鈴を鳴らしたが応答がなく、合鍵を使って中に入る。
 ガランとした玄関は、住人の不在を示していた。
 案の定洗濯は終わっておらず、荷物もまだ片付いてはいない。
───もしかして、昨日から帰ってないのかな───
 居間の電話を見ると、留守電のランプが点滅していた。おそらく昨夜の自分のものだと思
い、削除しておこうとボタンを押す。
 機械の声が、2件の伝言と告げるのに、他にも電話があったのかと耳を傾けた。
『・・・みどりです・・・あの、帰ってきたら、電話下さい。・・・いつでもいいから。待ってます』
 伝言の入った時間は、昨日の昼だった。その時間には、深町は部屋にいたはずである。
 終わりまで聞いて、しばらく固まっていた。
 みどりと名乗る女の声は、少し震えているようだった。聞き覚えのない名前と声に、だがきっ
と先日の駅で会った女だと、何故か直感した。
 どうして聞いてしまったんだろう。悔やんでも、耳に入ってしまった声は、取り出すことが出
来ない。
 まるで貧血をおこしたように体が重く、ぐらりと揺れた。血の気が引くってこういうことか、と
不思議と他人事のように思う。
 どうして今、深町がここに居ないのか。考えたくない事が、頭から離れずにぐるぐると回っ
た。
 ドアの開く音に、はっとして振り返る。取り繕うことも出来ず、出迎えるため廊下に出た。
「・・・お帰りなさい」
「おう、来てたのか・・・あれ、休み取ったのか?」
「はい。昨日で作業、終わったので・・・」
「そうか・・・すまんな、まだ全然片付けてなくてな」
 大きな手のひらが、まるで子供にするようにポンと頭に乗せられる。それだけで、涙が出
そうになった。覚えのない香り、合わせられない視線。訊くことも出来るはずなのに、言い訳
を聞きたくなくて言い出せない。本当は、何でもないことかも知れないのに。
 しかし深町は、解除された留守電を見て、何事か悟ったらしかった。
 立ち尽くしている速水の腕を掴むと、居間に引っ張って行き、ソファに腰を下ろす。速水の
身体を後ろから抱きかかえながら、そのまま身体を投げ出すように横になると、力強く抱き
締めた。
 ささやかな抵抗はあっけなく抑え込まれ、速水は背を向けたまま、深町の腕の中に身体を
横たえている。
「何も訊かないのか・・・?」
 耳元で囁くような深町の声は、思いがけず優しく響いて、速水はぎゅっと目をつむり、小さく
首を横に振った。唇を噛み締めて、身体を強張らせているのに、深町は溜め息をついて、上
体を起こした。速水の肩を引いて仰向けさせ、目を開けた速水の顔を真上から覗き込む。
「言っとくがな・・・俺には、お前だけだからな」
「その言葉を、本当に・・・信じてもいいんですか?」
 ショックから立ち直り、速水はようやく、自分が怒りを表しても当然なのだと思い、眉をひそ
めた。
 胸の苦しさに、思うように声が出せず、速水は顔を背ける。この態勢に不利を感じて、相手
の喉元を肘で突くように押しのけ、深町の体の下から抜け出した。再び捕まらないように、
立ち上がってそのまま、少しだけ距離を置く。
 ソファに座り直した深町は、速水を追って伸ばしかけた手を引き、膝の上で握った。
 自分を真っ直ぐに見つめてくる深町の顔を見ることが出来ずに、速水は顔を背けたまま言
う。
「俺は・・・俺にはだけど、その自信はないんです。やっぱり、女の人には適わないって思うし、
もしかしたら子供が欲しいのかな、とも思うし・・・」
「そんなことはない。あいつは、ただの友人だ。何も心配することはないんだ!」
「・・・みどりさん?」
 さすがに自分から口にしてしまったことに、少々気まずく思ったのか、深町は苦い顔をした。
「ねぇ深町さん。これだけは約束して欲しいんです・・・もし浮気するなら、絶対にばれないよう
にして下さい。絶対に、俺には分からないようにしてくれるなら、もう何も言いませんから・・・」
「確かに、家を空けたのは事実だ。言い訳はしないが・・・お前、それでいいのか?」
「だって、・・・じゃあどうすればいいんです?他の人と会うな、なんて言えないし」
 速水は内心困っていた。もっとちゃんと怒りたいのに、結局自分は深町を許してしまってい
る。どんな経緯があったのかも、どこで何をしていたのかも、問い質す気はなかった。
 結局は、惚れた方の負けかな、とも思う。自分から離れていかなければ、それで良いよう
な気さえするのだ。
「でも、もし浮気したって分かったら、俺何するか判りませんから」
 微笑みすら浮かべて、そう言った。別にどんな覚悟があった訳でもないが、せめてこのくら
いは言わせて欲しい。
「怖いな・・・肝に銘じておくよ。なぁ、許してくれるなら、こっちに来いよ・・・な?」
 手を差し延べる深町に、それでも少しだけ躊躇いを見せた。体を合わせてしまうと、もうそ
れだけで、何も出来なくなってしまうのだ。その体温や体臭が、自分を捕らえて離さなくなる。
 ためらう速水に痺れを切らせて、深町は自分から近寄り、その腕で速水の体を抱き締めた。
「不安にさせて、すまなかった・・・」
「・・・もう、いいんです・・・」
 自分でも、甘いかな、と速水は思った。しかし深町の肩に頬を預けていると、その体を求め
る気持ちがどうしようもなく高まって、深町の背に縋り付くように腕を回した。
 合わせた唇から、相手の心まで引き出すように舌を吸う。二人だけの世界であるなら、こ
んなにも不安も恐れもなく、甘やかな気持ちでいられるものなのに。
 先に音を上げた速水の体をソファに横たえ、深町はその衣服を取りながら、まるで赦しを
請うかのように、優しくあちこちに唇を這わせていった。


 汗の浮かんだ額に口付けると、速水はうっすらと微笑みを浮かべる。乱れた衣服を粗方直
して、深町は体を起こした。
「休んでていい。今風呂入れてくるから」
「はい・・・」
 じゃあその後洗濯かな、と思い、自分がすっかり日常的な思向をしていることに、小さく笑っ
た。
 ごまかされた、とまでは思わないが、やはり揉めているよりも、愛し合っていた方が断然い
いのだ。
 人の気持ちはまるで風紋のように、時と共に形を変え、その行く末は誰にも判りはしない。
しかし、砂丘の砂が尽きることのないように、自分の中の愛情が変わらず胸の中に満ちてい
るものであるように、速水は願う。
 愛しい背中が居間を出て行くのを見送って、速水は心地好い疲労感に目を閉じた。

2001.9.9.UP  みまちれん様に捧ぐ。
オンリーイベントに、何とか間に合わせたものでした・・・
本の原稿から、ちょっとHシーンカットしちゃいました(^^;