風紋   
          −1− 


 海に波を立てるように、砂丘の上に刻まれる風紋。
 さざ波のように、気付かぬうちにゆっくりと、その紋様は移りゆく。
 二度と同じ瞬間が訪れることはない――――



 潜水艦乗りの勤務は不規則である。海に出ている期間すら明かすことが出来ない為、休日
の取り方も不定期になる。だが、常にいくらかまとまった休みを取れるということは、休みなど
ほとんど無いような仕事をしている者よりは、余程ありがたいのかも知れない。
 連休最終日の朝を迎え、速水はこの安息を惜しむ気持ちと、早く海に出たい気持ちとが複雑
に混じりあう思いで、目を覚ました。しかしそれは、どちらにしても今、同じ布団を分け合って眠
る深町と、共に在ればこそのものであると、判っているのだった。
 こんな風に一人の人間を、同じ男性を、愛するようになるとは思わなかった。そして、この幸
せが、果たしていつまで続くものなのか・・・この想いが消える日がくるのか、そんな不安を漠
然と懐きながらも、愛し、愛されることに夢中になって過ごす日々を送っていた。
 初冬の朝の冷たい空気に、もっと心地良い体温を分けてもらおうと、深町の裸の胸に頬を近
付ける。自分の頭を乗せていた腕が、気付いたように速水の肩を抱く。半ば覚醒しながら、半
ば無意識に、深町は腕の中の存在を確かめる。速水のものより二周りは大きい手が、まるで
暗闇の中で探るように、速水の全身をくまなくなぞっていく。
 やがて意思を持って動き出す指に、あっけなく翻弄されながら、沈黙を守る唇に自分のそれ
を重ねて、目覚めを促がした。
「今日は、出掛けるんじゃなかったんですか・・・?」
「まだ時間はある・・・だろ?」
 鎖骨の上の弱い部分に口付けられて、もう後戻りの出来ない所まで追い詰められたことに、
速水は諦めのため息をついて、深町の髪に指をくぐらせた。


 夕方に山手線のホームで待ち合わせをすることに決めて、二人は深町の家の前で分かれた。
速水は自分の部屋へ。深町は、友人の出した店に顔出しがてら、買い物をする為に都内へ出
た。銀座辺りで夕食にするつもりで、待ち合わせは有楽町と決めている。
 渋谷まで出た深町は、幾つかの店を回り、かねてより欲しいと思っていた品物を買い求める。
更に通りかかった店のショーウィンドウに惹かれ、急に思いついてある品を購入する。少々予
算オーバーになったが、以前から気にはなっていた物で、それを相手に渡す時のことを思い、
我知らず頬を緩ませた。
 高校からの友人が脱サラをして店を出したのは、目黒駅から少し歩いた所だった。フランスの
店を模した造りの喫茶店で、ケーキ等の他に、アンティークの小物も扱っている。コーヒーを貰
いながら、開店祝いを渡し、懐かしい顔に思い出話で盛り上がる。
 すっかり話し込んで、予定していた時間を過ぎてしまい、深町は友人に店の繁盛と、お互いの
健勝を祈りながら辞去した。
 急いで駅に戻り、何とか約束の時間には間に合いそうだと、ホームで内回りの電車を待って
いた時。
「深町くん・・・?」
 スーツ姿の女性に声を掛けられ、驚いて振り返った。
「・・・谷津か?」
「久し振り・・・」
 昔長かった髪は、すっきりとしたショートカットにまとめられ、見覚えのない眼鏡を掛けてはい
たが、4年近く付き合った女性を、10年振りとはいえ見間違うわけはなかった。どうやら同じ方
向に行くらしいので、丁度ホームに入ってきた電車に乗り込み、隣りに立つ。
「驚いた。こんな所で会うなんてね」
「今は休みで・・・お前は?仕事か・・・?」
「そう・・・去年、こっちに戻ってきたの。父が亡くなったから・・・」
 谷津みどりとは、25の頃から付き合った。島根の実家で父親が病に倒れ、他に面倒を見る
者がなく、みどりが実家に戻ったのだった。別れてそのまま、連絡を取ることもなく、10年が過
ぎていた。
「お袋さんと、一緒なのか?確か埼玉にいるって、言ってたよな・・・」
「うん。一緒に住んでる。やっと仕事に戻れたって感じで」
「・・・そうか」
 離婚した両親の間で、板挟みになったみどり。仕事も恋愛も犠牲にして、それでも仕方がな
いと屈託なく笑っていた、華のある笑顔はやはり、今では少し翳りを帯びている。
「お前は・・・相変わらずなのか」
「うん・・・もうこの年になるとね。そんな気も起こらないわ。母には早く何とかしろって言われる
けど、今更って感じだし、失敗した例を目の前で見てるしね。きっとこのまま独りかな」
 さらりと言ってから肩を竦め、少し下を向いて笑った。
「ごめんね、何かひがみっぽいよね、こんな話しして・・・」
 深町の事を尋ねることはせずに、それでも自分の淋しさを明かすくらいの甘えは許して欲し
いと、言葉を繋ぐ。みどりは強くもあり、弱さも味方につけているような女性だった。
「俺で良ければ、愚痴の一つや二つ、聞いてやるよ」
「ありがとう・・・相変わらず、優しいんだね」


 夕方の混雑したホームで、人の流れの邪魔にならないように、キオスクの影に立っていた速
水は、待ち人の姿を車内に目敏く見つけ、通り過ぎた車両を追う為に歩き出そうとした。
 だが、停車して開いた扉から降りてきた深町を、一人の女性が追って呼び止めるのを見て、
立ち竦んでしまう。見知らぬ女性は深町の腕に手を伸ばし、何事かを話し掛けている。深町は
内ポケットから何かを取り出し、しばらく俯いており、顔を上げるとまたその女性と目を合わせた。
 近くて遠い距離にためらいがふくらみ、速水は少しだけ後ずさりをした。不安にさいなまれな
がら二人の姿から目が離せない。
 やがて次の電車がホームに滑り込み、その女性は電車に乗り込んだ。閉じた扉の向こうで、
小さく手を振る。
 ――――見てはいけないものを、見てしまったのか・・・!?――――