V. Lasciatemi morire! / 3
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横須賀に着くと、『たつなみ』乗員には仮宿舎があてがわれた。軽い食事が出され、風呂
も用意されていた。しばらくの間は、全員がここに住むことになるだろう。恐らく一週間は、
家には帰れそうにない。
『たつなみ』が沈んだことは、外部には漏れていない。しかし、『サザンクロス』の護衛につ
いていた海自の潜水艦の存在は、世間も目にしていたのだ。昨日の今日で家に帰れば、気
付く者があるかも知れない。その為の用心だった。
部屋数にも限りがあるためか、艦長である深町も個室という訳にはいかなかった。同室を
割り当てられた速水は、まだ戻らない。
外出もままならぬ状態で、どこで時間を潰しているのか。
その理由を、恐らくは理解している深町は、構わず先に床についた。
この時間、どうやら無人になった食堂で、速水は給湯器で入れた薄いお茶を前に、テーブ
ルで頬杖をついていた。
『はるな』の中で、ふと思い出した事。自分が自衛隊に入ろうと決心した、一番の理由は、
今まで誰にも話したことはない。
それは、軍人としての死への憧れだった。
恐らく思春期を迎えた頃から、人一倍死ぬことへの思いが強かった。死というものは、解
放であり、それは何よりも完全な安らぎを与えてくれるものだった。まだ二十歳にならないう
ちから、死に焦がれていた。
死ぬ時は、どうあがいても一人だ。そして自分の死に、涙してくれる人がどれだけいるとい
うのだろうか。やがては忘れられる。その思いは言い知れぬ寂寥感と、たまらなく甘美な悲
愴感をもたらした。
同じように速水は、本当に通い合う愛を知らない自分を、嘆いてもいた。
何人か、人を好きになったことはある。しかし上手くはいかなかった。自分を愛する相手を、
同じように愛することも出来なかった。結局独り、取り残されている。
人の温もりに焦がれている。
同性を好きになるというのは、都市などでの人口の過密状態に、人間の本能が人口を減
らすために働きかける結果だという話を聞いたことがある。愛情というものが本来、子孫を
残すためのものだと思えば、それも納得出来る話だった。
例えそうでも構わないのだ。誰かを愛するという心自体は、嘘でも幻でもないのだから。
暖房の切れた食堂に、さすがに寒気を覚えて速水は腰を上げた。
割り当てられた部屋の扉を、音を立てぬように開ける。自分のベッドのそばにある机のス
タンドの灯りだけが点いている。内心安堵の溜め息をついて、そっとベッドに歩み寄った。
「随分遅かったな」
背中を見せたままの深町に声をかけられ、速水ははっとして息を呑んだ。
「・・・起きてたんですか?」
恐る恐る返事をすると、横になったまま手を上げて応えた。
「おう、お疲れ」
「どうも、お疲れさまです」
怖れていたよりも、自然に受け答えが出来てほっとする。
ベッドを整えて、取り合えず腰を下ろす。
「おい・・・何ひどい顔してるんだ」
「・・・そうですか・・・?」
取り成すように笑ってみせる。
「何か、頭が痛えな・・・」
「そりゃあ・・・寒中水泳しましたからね、寒くないですか?」
具合が悪くなって当然だと、それでも気遣わしそうに、深町のベッドに歩み寄り、熱はない
かと手のひらを額に当てる。
「熱はないみたいですね・・・」
離れる速水の手を、深町が掴んだ。引き寄せながら、自分の上体を起こし、もう一方の腕
で速水の腰をベッドの端に下ろさせる。
有無を言わせず抱き締める。速水は身動ぎもせずに、されるままになっている。薄く開か
れた唇と、その瞳が自分を捉えているのを認めると、深町は唇を速水のそれに合わせた。
やわらかい、その唇を味わい、前歯を舌でなぞる。隙間から促すように下を滑り込ませる
と、おずおずと応えてくるのが判った。
深く、より深く唇を重ねる。存分に味わった後で、ようやく解放した。
そのまま再び頬を合わせて抱き締める。下に下ろされたまま毛布を握り締めている速水の
腕を、促して自分の背に、回させる。
抱き締める腕を強くすると、速水は小さく息をもらした。深町の背中に這わせている手のひ
らの、その指に切なく力が込められた。
不意に、速水のことを哀れに思えた。すまないと思う。利用する自分は最低だった。かと
言って謝るわけにもいかず、宥めるように髪を撫でた。
そっと腕を離し、顔を見合わせる。
「頭痛薬代わり・・・でしょ?」
そう言って速水は微笑んだ。応えるように口元で笑って、軽くその体を抱き締めた。
「じゃあ・・・おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
速水は灯りを消して、自分のベッドにもぐり込む。暗闇の中で、熱の残る唇に指で触れた。
自分にはきっと、睡眠薬代わりだと、そんなことを思う。
物欲しそうな顔をしていただろうか。ともかく今は、これくらいは赦されるのではないか。そ
う思うしかなかった。
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Lasciatemi morire! 私を死なせて
私を死なせて。
これほど苛酷な運命の中に在り
これほど大きな苦しみの中にいる私が
何によって
慰められるというのでしょうか。
私を死なせて。
versi di Ottavio Rinuccini
オッターヴィオ・リヌッチーニ作 オペラ「アリアンナ」(1608)から
アリアンナの嘆きの歌
初版発行:平成4年11月22日