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U. O cessate di piagarmi / 3 
 誰かの腕が自分の体を支えるのを、朧気ながら意識する。大丈夫だと言いたくても、口を動か
すことすら出来ず、そのままその腕に抱えられて、士官室の方へ運ばれた。
 だが、自分のベッドでも士官公室でもなく、艦長室に運び込まれたらしい。少しずつ取り戻し始
めた視界で、速水は深町の姿を認めた。
 それまで息すら満足に出来なかったが、体を横たえられてようやく口を開くことが出来た。
「・・・すみません、・・・貧血起こすなんて・・・」
 思うように言葉が出せず、弱々しい自分の声に情けなさで一杯になる。
「いいから、少し休め。・・・気にするな、しょうがない・・・」
 深町は自分の椅子に座って、小さく溜め息をついた。
 吐き気はまだ残っており、体にも力が入らなかったが、速水はベッドの上で体を起こした。
「いえ、それなら自分の部屋で・・・」
「まだ歩けんだろ。構わんから、横になっていろ」
 深町はしかし、速水の方を見ようとはしなかった。速水は立つことも横になることもせずに、深町
の横顔を見つめた。
「速水・・・お前は・・・海江田のことを好きだったのか?」
 耳にした言葉の意味が一瞬呑み込めずに速水は茫然とした。やがて深町の言ったことが判ると、
今度は一体何と答えたら良いものか判らなかった。
「な・・・何で、そんなこと・・・」
「いや、いい。そうじゃないかと思っていてな・・・」
 とんでもない事態であった。確かに海江田のことは好きだ。だがそれは、深町の言うようなもの
ではない。
 自分の好きなのは―――――
「違うんです、俺は・・・俺が好きなのは艦長なのに、何で・・・」
 そこまで言ってしまってから、速水ははたと気付き、慌てた。茫然としたまま、言うはずのないこ
とまで口走ってしまったことに、臍を噛んでも取り返しはつかない。
 初めて深町が速水の方を向いた。速水は恐ろしくてその顔を見ることも出来ずに、転がるように
艦長室から飛び出した。
「おいっ、待て!速水・・・」
 追う声に構わず、震える足を叱り付けながら自室に向かう。
 ベッドに倒れ込んで、カーテンを閉める。後悔に押し潰されそうな胸の苦しさに、息を殺して唇を
噛み締めた。
 今ならば、許してもらえるだろう。もう何もかも忘れて眠ってしまいたかった。


 さすがにいつまでも休んでいられずに、速水は起き出した。こうなったら、白を切り通すしかない。
 発令所に行くと、航海長達が口々に身を案じてくれる。一人一人に謝りながら、もう大丈夫だと告
げ、艦長席の深町に頭を下げた。
「予定変更だ、帰港する。副長、後の指揮を執れ」
「はっ・・・」
 深町はそれだけ告げると、艦長室へ引き上げてしまった。
 夕食の時間になり、士官公室で再び速水は深町と顔を合わせた。平静さを保ちながら、食事を
済ませる。このまま何事もなく過ごせるかと思われたが、深町に呼ばれた。
「速水、ちょっと来てくれ」
 皆の前で呼ばれては断ることも出来ず、速水は深町に続いて艦長室に入った。
 その途端、腕を掴まれて強く引かれる。何の抵抗も出来ないまま、体を引き寄せられ、両腕の中
に収められた。深町の低く抑えた声が、耳元で囁かれる。
「あの時言ったこと、・・・本当か?」
「・・・はい・・・」
 深町の襟足を見つめながら、速水は覚悟を決めて頷いた。
 背中と腰に回された腕に、体が持ち上がりそうな程に力強く抱き締められる。快い息苦しさの中
で、うっとりと目を閉じながら、深町の背に腕を回した。
 ひとしきり抱き合った後、深町の両手が速水の頬を包み込む。顔容を確かめるように撫でる手に、
目を閉じていた速水は、自分が陶然としているのに気付き、軽い混迷を覚えて目を開けた。
 すぐに深町の表情に目を奪われる。こんなにも彼が慈愛に満ちた、そして魅惑的で甘美な微笑み
をすることに、感動すら覚えながら見惚れていた。
 再び、しかし今度は優しく抱き締められる。
「だが俺は・・・お前に応えてやることは出来ない・・・すまん」
 胸元に頬をあて、深町の体温と、掛けられる言葉と息を感じた。
「いいんです、俺は・・・」
 これ以上望むことはなかった。元より手に入る筈のない人なのだから。速水は、精一杯の微笑み
をたたえて、深町を見上げた。

1992.5.31. Tonbi Hasaki 
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