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T. Sento nel core / 3 
 並んだ同じようなドアの一つの前に立ち、チャイムを鳴らす。
 前もって電話を入れた為、深町の妻はすぐに出てきた。ドアを開けてにこやかに出迎える。
「お帰りなさい。速水さんも、お疲れさま」
「どうも。お邪魔します」
 奥から息子の航(わたる)が駆け出して来て、深町に飛びついた。
「お父さんお帰り」
「ああ、ただいま」
 速水は居間に通された。深町の妻は、用意していたらしい夕食の膳を運ぶ。
「あ、すいません。お構いなく・・・」
「いいえ、何も大した物はありませんけど・・・」
「お前も上着くらい脱いだらどうだ」
 深町は、既にネクタイまで外した姿で現れた。速水の上着もハンガーに掛けられ、速水は少し
だけネクタイを緩めた。
 夕食を粗方片付けて、晩酌に入る。コップを持たせて、深町は日本酒を注いだ。
「・・・まぁとにかく、飲め」
「はい・・・いただきます」
 深町に返杯をしながら、速水は今日は悪い酔い方をするような気分に捕らわれた。
 深町の元に、彼の息子がお休みの挨拶をしに来る。もうそんな時間かと、速水は今更のように
気付いた。
 今度の土日は久し振りに家族で過ごせるのだ。航は嬉しそうに彼の希望を伝えて、父親と速水
にお休みを言った。
 立派な父親、優しい母、聡明な息子。余りにも理想的な家庭であり、羨ましさよりも尊敬の念と
感銘を抱かせる。そして速水は、自分にはこのような家庭を持つことは出来ないだろうと、ずっと、
若い頃からそう思っていたのだ。
「だがなぁ速水・・・別にすぐとは言わんが、本当にそのうち、身を固めることを考えた方がいいと
思うぞ」
 先程の話を続けられ、速水は今度こそどう答えたものか迷った。正面から見据えられて、視線
を合わせることが出来ずに、手元に目を落とす。
「自分は多分・・・結婚はしません。いえ、出来ないと思います・・・」
「・・・そのことは、親御さんには言ってないだろうな?」
「・・・はい・・・」
「そんなことは、言わん方がいいからな・・・」
 深町は眉間に皺を寄せて、酒を飲み干した。それに注ぎ足してやりながら、速水は言い様のな
い苦いものを覚えた。
「昇進云々はこの際関係ない。常識で物を言うつもりもない。だがなぁ、少しはお前も、自分の幸
せを考えんといかんぞ」
 このことだけでも言っておかなければ、というように深町は静かに言った。
「はい・・・すみません・・・」
 実際速水は、申し訳ない思いで一杯だった。深町はこんなにも、きちんと何でもこなしていると
いうのに、自分の何と腑甲斐無いことか。
 こんなに弱気になることは、自分らしくないとは思っていた。しかし今日の自分は、やはりどこか
いつもと違うような気がする。
「何で謝るんだ・・・お前のことなんだからな」
 心のどこかで、警告する声がある。このままではいけない。しかし、その間違った何かを見つけ
てはいけない。駄目だ―――――
「見た目は若いが、40になるなんてすぐだからな。うかうかしとられんぞ」
「はい・・・考えておきます」
 酔いの為だけでなく、頭や胸が鈍く痛んだ。
「そんなに死にそうな顔するなよ。落ち込むほどのことじゃないだろ」
 きっと酷い顔をしていただろうと思い、速水は少し自嘲気味に笑った。
 余り遅くなってしまってはと言って、辞去を申し出る。長居すべきではなかったし、これ以上深町
の前に居るのは辛かった。
「少しは休み中に羽伸ばせよ」
 深町に肩を叩かれて、口元に笑みを浮かべる。頬が強張っているのが、気付かれてしまうだろ
うか――――――
「じゃあ、どうもご馳走様でした。失礼します」
 深町と奥方に暇を告げ、官舎を後にした。
 自分のアパートに向かいながら、速水は我知らず溜め息を漏らしていた。
 ・・・泣いてるのか?
 深町の声が、頭から離れなかった。
 その一言で、全てが変わってしまったように思えた。
 それはまた、気付いてはいけないことだった。
 今でも尚、速水は心の中で繰り返し呟いていた。駄目だ、あの人を好きになってはいけない、と。



                                        1992.5.19.0130 Tonbi Hasaki


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